日本巫女史/第一篇/第七章/第三節」を編集中

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と云ったのは〔八〕、兎に角に一見識を有していたものと思わざるを得ぬ。
と云ったのは〔八〕、兎に角に一見識を有していたものと思わざるを得ぬ。


併しながら、私をして露骨に、且つ放胆に言わせると、是等の先覚の諸説は、悉く字義に拉われて、我が古代の民俗を忘れたものにしか過ぎぬのである。換言すれば、神主なるものが、神祇官流の神道に固定した後の解釈であると同時に、文献の上からばかり立論して、神主の発生と発達の過程を疎却した謬見である。私の考えを極めて率直に言えば、神主は即ち<ruby><rb>神主</rb><rp>(</rp><rt>カムザネ</rt><rp>)</rp></ruby>であって、神その者であると信じている。それでなければ、信州の諏訪神が『吾れに神体なし、<ruby><rb>大祝</rb><rp>(</rp><rt>オホハウリ</rt><rp>)</rp></ruby>を以て神体となす』と託宣したことや〔九〕、併せて此大祝が<ruby><rb>現神</rb><rp>(</rp><rt>アキツカミ</rt><rp>)</rp></ruby>として民衆に臨んだ理由が判然せぬ。更に出雲国造が、同じく現神として多年の間を通じて、深き崇拝を民衆から受けていたことや〔一〇〕、更に伊予三島社の大祝が、半神半人として大なる信仰を<ruby><rb></rb><rp>(</rp><rt>ツナ</rt><rp>)</rp></ruby>いでいたことが、解釈されぬのである〔一一〕。而して此の神その者であった神主が、時勢の推移によって、信仰に動揺を来たし、神の内容にも変化を生じた結果は、遂に祭られる神と仕える人との隔離となり、後には祭神と神主とが全く別物のように理解され、認識されるようになったのである。併し神主が神その者であるという原始的の信仰は、神道の固定するまでは、永く民心を支配していて、これを証明すべき民俗学的の事実は相当に多く存在しているのである。殊に<ruby><rb>御子神</rb><rp>(</rp><rt>ミコガミ</rt><rp>)</rp></ruby>の発生は、此の信仰と民俗とに負うところが深甚であるが、これに就いては、後段に述べる機会があると信ずるので、茲には注意までに言うとして、姑らく預るとする。私は此の立場から、皇后が親ら神主となられたと云う意味は、古くは神その者となったと伝えていたのが、日本書紀が文字に記される時分には、夙くも此の信仰が薄らいでいたのと、神主といえば神社に仕える者という合理的の解釈が行われていたので、かかる記事となって残されたものと考えるのである。
併しながら、私をして露骨に、且つ放胆に言わせると、是等の先覚の諸説は、悉く字義に拉われて、我が古代の民俗を忘れたものにしか過ぎぬのである。換言すれば、神主なるものが、神祇官流の神道に固定した後の解釈であると同時に、文献の上からばかり立論して、神主の発生と発達の過程を疎却した謬見である。私の考えを極めて率直に言えば、神主は即ち<ruby><rb>神主</rb><rp>(</rp><rt>カムザネ</rt><rp>)</rp></ruby>であって、神その者であると信じている。それでなければ、信州の諏訪神が『吾れに神体なし、<ruby><rb>大祝</rb><rp>(</rp><rt>オホハウリ</rt><rp>)</rp></ruby>を以て神体となす』と託宣したことや〔九〕、併せて此大祝が<ruby><rb>現神</rb><rp>(</rp><rt>アキツカミ</rt><rp>)</rp></ruby>として民衆に臨んだ理由が判然せぬ。更に出雲国造が、同じく現神として多年の間を通じて、深き崇拝を民衆から受けていたことや〔一〇〕、更に伊予三島社の大祝が、半神半人として大なる信仰を<ruby><rb></rb><rp>(</rp><rt>つな</rt><rp>)</rp></ruby>いでいたことが、解釈されぬのである〔一一〕。而して此の神その者であった神主が、時勢の推移によって、信仰に動揺を来たし、神の内容にも変化を生じた結果は、遂に祭られる神と仕える人との隔離となり、後には祭神と神主とが全く別物のように理解され、認識されるようになったのである。併し神主が神その者であるという原始的の信仰は、神道の固定するまでは、永く民心を支配していて、これを証明すべき民俗学的の事実は相当に多く存在しているのである。殊に<ruby><rb>御子神</rb><rp>(</rp><rt>ミコガミ</rt><rp>)</rp></ruby>の発生は、此の信仰と民俗とに負うところが深甚であるが、これに就いては、後段に述べる機会があると信ずるので、茲には注意までに言うとして、姑らく預るとする。私は此の立場から、皇后が親ら神主となられたと云う意味は、古くは神その者となったと伝えていたのが、日本書紀が文字に記される時分には夙くも此の信仰が薄らいでいたのと、神主といえば神社に仕える者という合理的の解釈が行われていたので、かかる記事となって残されたものと考えるのである。


第三の神を祭る折に琴を弾くことであるが、此の事は関係するところが頗る広く、且つ巫女の降神術にも交渉を有しているので、精しく述べて見たいと思う。元来、我が古代人は、琴の音と、鈴の響きとは、神の<ruby><rb>声を象徴</rb><rp>(</rp><rt>シンボライズ</rt><rp>)</rp></ruby>したものだと固く信じていたのである〔一二〕。現今でも神社へ参詣した者が、社殿に架けてある鈴を鳴らすのは、神の声を聴こうとした<ruby><rb>虔</rb><rp>(</rp><rt>つつ</rt><rp>)</rp></ruby>ましき態度の名残りである。神に仕える者のうちで、殊に神に寵せられた巫女が、鈴を手にしたのも、これが為めである。それを斉藤彦麿翁が『神拝の時に鈴を振るは故実なるか』と設問して『古へはさる事なし』云々と、事もなげに答えているのは〔一三〕、本居翁の学風を承けた、私の所謂文献神道の欠陥を暴露したものである。更に平田篤胤翁が古神道の面影を忠実に伝えている巫覡を目して、猖んに「鈴振り神道」と罵倒しているのは、これも私の所謂ブルジョア神道の管見であって、採るに足らぬ。是等に比較すると荻生徂徠が『神道といふは、巫覡が神につかふる道なり』と喝破したのは〔一四〕、学問的には傾聴すべきものがある。琴と鈴とは原始神道においては神の声として尊ばれていたのであって、大己貴命が素尊の許から須勢理比売命と携えて奔る折に、生弓矢生太刀と共に、天詔琴を忘れなかったのは〔一五〕、此の信仰の古くから在ったことを証するものである。更に歴聖が即位の大礼として大嘗祭を行わせられ、天皇が親しく新穀を天神に供える折に、御鈴の神事があるのは、蓋し此の意味に外ならぬと拝察するのである。
第三の神を祭る折に琴を弾くことであるが、此の事は関係するところが頗る広く、且つ巫女の降神術にも交渉を有しているので、精しく述べて見たいと思う。元来、我が古代人は、琴の音と、鈴の響きとは、神の<ruby><rb>声を象徴</rb><rp>(</rp><rt>シンボライズ</rt><rp>)</rp></ruby>したものだと固く信じていたのである〔一二〕。現今でも神社へ参詣した者が、社殿に架けてある鈴を鳴らすのは、神の声を聴こうとした<ruby><rb>虔</rb><rp>(</rp><rt>つつ</rt><rp>)</rp></ruby>ましき態度の名残りである。神に仕える者のうちで、殊に神に寵せられた巫女が、鈴を手にしたのも、これが為めである。それを斉藤彦麿翁が『神拝の時に鈴を振るは故実なるか』と設問して『古へはさる事なし』云々と、事もなげに答えているのは〔一三〕、本居翁の学風を承けた、私の所謂文献神道の欠陥を暴露したものである。更に平田篤胤翁が古神道の面影を忠実に伝えている巫覡を目して、猖んに「鈴振り神道」と罵倒しているのは、これも私の所謂ブルジョア神道の管見であって、採るに足らぬ。是等に比較すると荻生徂徠が『神道といふは、巫覡が神につかふる道なり』と喝破したのは〔一四〕、学問的には傾聴すべきものがある。琴と鈴とは原始神道においては神の声として尊ばれていたのであって、大己貴命が素尊の許から須勢理比売命と携えて奔る折に、生弓矢生太刀と共に、天詔琴を忘れなかったのは〔一五〕、此の信仰の古くから在ったことを証するものである。更に歴聖が即位の大礼として大嘗祭を行わせられ、天皇が親しく新穀を天神に供える折に、御鈴の神事があるのは、蓋し此の意味に外ならぬと拝察するのである。
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原始神道における神々と、琴及び鈴(その他の笛、鼓などの楽器)との関係を説くのは、余りに埒外に出るので省略するが、かく初めは神の声として信じられていた琴や鈴は、後には使用の目的が変って来て、琴は神を<ruby><rb>招</rb><rp>(</rp><rt>ヲ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎ<ruby><rb>降</rb><rp>(</rp><rt>ヲロ</rt><rp>)</rp></ruby>す折の楽器として、鈴は神を愉悦させる楽器として用いられるようになった。併しながら、二つとも神聖なるものとして、神を降すに琴、神を慰めるに鈴を、欠くことの出来ぬものとした点は、古今ともに渝ることがなかった。前にも引用した延暦の「皇大神宮儀式帳」九月神嘗祭条に、
原始神道における神々と、琴及び鈴(その他の笛、鼓などの楽器)との関係を説くのは、余りに埒外に出るので省略するが、かく初めは神の声として信じられていた琴や鈴は、後には使用の目的が変って来て、琴は神を<ruby><rb>招</rb><rp>(</rp><rt>ヲ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎ<ruby><rb>降</rb><rp>(</rp><rt>ヲロ</rt><rp>)</rp></ruby>す折の楽器として、鈴は神を愉悦させる楽器として用いられるようになった。併しながら、二つとも神聖なるものとして、神を降すに琴、神を慰めるに鈴を、欠くことの出来ぬものとした点は、古今ともに渝ることがなかった。前にも引用した延暦の「皇大神宮儀式帳」九月神嘗祭条に、


: 以十五日(中略)。以同日夜亥刻時、御巫内人乎、第二御門爾令侍弖、御琴給弖、請天照座大神乃神教弖、即所教雑罪事乎、候禰宜舘始、内人物忌四人、館別解除清畢云々。
: 以一五日(中略)。以同日夜亥刻時、御巫内人乎、第二御門爾令侍弖、御琴給弖、請天照座大神乃神教弖、即所教雑罪事乎、候禰宜舘始、内人物忌四人、館別解除清畢云々。


とあるのは、その徴証である。それから、「万葉集」巻九に『神南備の<ruby><rb>神依板</rb><rp>(</rp><rt>カミヨリイタ</rt><rp>)</rp></ruby>にする杉の、思ひも過ぎず恋の繁きに』とある神依板は、即ち琴の意であって、出雲大社でも、此の種の神依板を近年まで用いていたということである〔一六〕。更に、神功皇后が神を祭る際に、武内宿禰に琴を弾かせたのも、又、神依板としての呪具と考えられるのである。そして「武烈紀」に『<ruby><rb>琴頭</rb><rp>(</rp><rt>コトガミ</rt><rp>)</rp></ruby>に来居る影媛珠ならば、吾が欲る珠の鰒白珠』とあるように、神は琴の音に引かれて天降られるものと信じていたのである。
とあるのは、その徴証である。それから、「万葉集」巻九に『神南備の<ruby><rb>神依板</rb><rp>(</rp><rt>カミヨリイタ</rt><rp>)</rp></ruby>にする杉の、思ひも過ぎず恋の繁きに』とある神依板は、即ち琴の意であって、出雲大社でも、此の種の神依板を近年まで用いていたということである〔一六〕。更に、神功皇后が神を祭る際に、武内宿禰に琴を弾かせたのも、又、神依板としての呪具と考えられるのである。そして「武烈紀」に『<ruby><rb>琴頭</rb><rp>(</rp><rt>コトガミ</rt><rp>)</rp></ruby>に来居る影媛珠ならば、吾が欲る珠の鰒白珠』とあるように、神は琴の音に引かれて天降られるものと信じていたのである。
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