「日本巫女史/第一篇/第八章/第三節」を編集中
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瑞穂の国と称しただけに、我が古代人の穀神に対する態度は、その敬虔さにおいて、然もその真摯さにおいて、実に涙ぐましいほどの幾多の習礼が残されている。畏くも伊勢皇大神宮を始めとして、名だたる名神大社に御田植の神事の存していることは言うまでもないが、更に世に謂う叢祠藪神にも此の祭儀の儼然として伴っているのは、全く農を国の基としたことに由来するのであるが、これが民俗は各地の田植において、今に明確に見ることが出来るのである。田植の中心となる早乙女が、月水中は田に入ることを禁ぜられるのも此の信仰であり、更に早乙女が襷や脚袢や手甲などを新調して、穀神を穢さぬように注意するのも、又此の信仰に外ならぬのである。飛騨国大野郡白川村では、早乙女は五ツ紋付の衣服を着し、襷をかけて挿秧する〔三二〕。琉球の石垣島では、田植の朝に数十人の早乙女となる妙齢の女子が盛装を凝らし、赤紐の衣笠を戴き、下衣には純白、上衣には友禅染を重ね、右肌を脱ぎ肥馬に跨り、「かたばる馬」の式を行ってから田植にかかるそうだ〔三三〕。 | 瑞穂の国と称しただけに、我が古代人の穀神に対する態度は、その敬虔さにおいて、然もその真摯さにおいて、実に涙ぐましいほどの幾多の習礼が残されている。畏くも伊勢皇大神宮を始めとして、名だたる名神大社に御田植の神事の存していることは言うまでもないが、更に世に謂う叢祠藪神にも此の祭儀の儼然として伴っているのは、全く農を国の基としたことに由来するのであるが、これが民俗は各地の田植において、今に明確に見ることが出来るのである。田植の中心となる早乙女が、月水中は田に入ることを禁ぜられるのも此の信仰であり、更に早乙女が襷や脚袢や手甲などを新調して、穀神を穢さぬように注意するのも、又此の信仰に外ならぬのである。飛騨国大野郡白川村では、早乙女は五ツ紋付の衣服を着し、襷をかけて挿秧する〔三二〕。琉球の石垣島では、田植の朝に数十人の早乙女となる妙齢の女子が盛装を凝らし、赤紐の衣笠を戴き、下衣には純白、上衣には友禅染を重ね、右肌を脱ぎ肥馬に跨り、「かたばる馬」の式を行ってから田植にかかるそうだ〔三三〕。 | ||
現時の田植は、実際ということを主眼とするために、大昔にあったような複雑した儀式は段々と泯びてしまうがそれでも中国辺(安芸、石見、伯耆など)に行くと、サンバイサン(私が前に述べた<ruby><rb>散飯神</rb><rp>(</rp><rt>サバカミ</rt><rp>)</rp></ruby> | 現時の田植は、実際ということを主眼とするために、大昔にあったような複雑した儀式は段々と泯びてしまうがそれでも中国辺(安芸、石見、伯耆など)に行くと、サンバイサン(私が前に述べた<ruby><rb>散飯神</rb><rp>(</rp><rt>サバカミ</rt><rp>)</rp></ruby>の転訛で即ち穀神である)と称する神に扮した神官を先頭とし、これに歌謡い、太鼓打、サヽラ摺りなどの楽人が附添い、定まれる田植歌を謡い、早乙女がこれに和しつつ挿秧する有様は〔三四〕、中々に厳粛さを偲ばせるものがある。一代を風靡した田楽舞が、田遊びのそれから発達したことは既に定説もあるが、こうして田植せねばならなかった時代は豊凶とともに一に穀神の手に握られていたと信じて疑わなかったので、オナリの人身御供が考えられるのも又た無理からぬことであった。 | ||
'''八 オナリと嫁殺し田の関係''' | '''八 オナリと嫁殺し田の関係''' |