日本巫女史/第一篇/第八章/第三節」を編集中

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穀物の生成結実を天父地母の交接作用の一部の現われと信じた古代の民族が、その穀神を<ruby><rb>和</rb><rp>(</rp><rt>ナゴ</rt><rp>)</rp></ruby>めて豊穣を祈る神事に、トツギの祭儀を行うのは当然の工夫であって、フレザー教授の所謂模倣呪術とも見るべきものである。而して茲には、誰でも知っているような武州赤塚村の杉山社の祭儀や、三河のテンテコ祭、尾張の田県社の神事の如きものは悉く割愛し、余り人に知られない然も有力なるもの五六を挙げんに、陸前国遠野町附近の村落では、毎年二百十日の前日に村中で大きな人形を二個作り、それへ瓜で陰陽の形を作り添えて、田圃へ持って往き、道の辻で両方を合せる行事がある。これを風雨祭と云うている〔一六〕。信州下高井郡秋山村は、粟を主食とするほどの辺鄙の土地であるが、正月七日には粟稈で大なる玄根を作り、今年の粟も此のように稔れと、家毎に持ち廻って祝言するという〔一七〕。我国の七夕はタネハタで、古く<ruby><rb>田主</rb><rp>(</rp><rt>タアルジ</rt><rp>)</rp></ruby>夫婦が、此の夜に畠の中で呪術的抱擁をする儀式があった。今に越後国北魚沼郡上条村大字西名の七夕神社では、毎年陰暦七月一日から二十七日まで、里人は同村を流れる破間川の東西の岸の喬木に注連縄を張り渡し、男女の陰具を模した物を藁で作り掲げ、その時異口同音に『破間川に注連引き渡し、西のお姫らしいのでホダレ(玄根の古語)を迎ふ』と云うことである〔一八〕。これもトツギ祭であることは明瞭である。近江国蒲生郡の各村で行う山ノ神祭は大同小異であるが、東桜谷村のは先ず木で男女二体の像を作り、これを神前に供えてトツギの状をなさしめ、白酒を献じ式を終る。そして年番の一人が音頭をとり、参集の村民これに和し『去年より今年は年よし、早稲、中稲、晩稲、二十四の作り物皆よかれ』と唱えて散会するが〔一九〕、是は明白にトツギ祭である。大和国磯城郡纏向村大字江包の素尊神社と、同郡織田村大字大西の稲田媛神社とで、毎年旧正月十日に網掛の神事というが行われる。素尊社では一反分の藁で元根の形を作り、稲田媛社でも同じほどの藁で女根を拵え、神官氏子立会の上でトツギの祭儀を執行する〔二〇〕。この神事は昔から有名なものと見え「大和高取藩風俗問状答」にも載せてある。越前国敦賀郡松原村大字沓見の信露貴神社(男神)と、同所の久豆弥神社(女神)との田植祭は五月六日に行われるが、古来、厳重なる頭屋の制度があり、当日には警固、神官、舞人、早乙女、昼飯持などの稚児が供奉し、本殿にて田植式あり、終って女官に渡御し、後に両宮同例にて、男宮に帰る。式が済むと、馬場先で、三々九度の神事がある〔二一〕。美作国久米郡稲岡村大字南庄の稲荷神社の例祭には、神輿が同所の小原神社に渡御するが、これはトツギの語らいの為めである〔二二〕。肥後の阿蘇神社で、毎年旧二月卯ノ日に田作祭を執行するが、此の祭は中の巳ノ日から亥ノ日まで、子安河原から姫神を迎えてトツギの式があって、五穀を生み、種を播くより、成熟するまでの行事がある。阿蘇谷の村々では、此の祭儀の終らぬうちは、子女の婚姻を禁じているが、これは大昔からの制法である〔二三〕。而して是等の祭儀が、巫女を中心とした農業と生殖との信仰の表現であることは、私が改めて説明するまでもなく、会得されたことと思う。
穀物の生成結実を天父地母の交接作用の一部の現われと信じた古代の民族が、その穀神を<ruby><rb>和</rb><rp>(</rp><rt>ナゴ</rt><rp>)</rp></ruby>めて豊穣を祈る神事に、トツギの祭儀を行うのは当然の工夫であって、フレザー教授の所謂模倣呪術とも見るべきものである。而して茲には、誰でも知っているような武州赤塚村の杉山社の祭儀や、三河のテンテコ祭、尾張の田県社の神事の如きものは悉く割愛し、余り人に知られない然も有力なるもの五六を挙げんに、陸前国遠野町附近の村落では、毎年二百十日の前日に村中で大きな人形を二個作り、それへ瓜で陰陽の形を作り添えて、田圃へ持って往き、道の辻で両方を合せる行事がある。これを風雨祭と云うている〔一六〕。信州下高井郡秋山村は、粟を主食とするほどの辺鄙の土地であるが、正月七日には粟稈で大なる玄根を作り、今年の粟も此のように稔れと、家毎に持ち廻って祝言するという〔一七〕。我国の七夕はタネハタで、古く<ruby><rb>田主</rb><rp>(</rp><rt>タアルジ</rt><rp>)</rp></ruby>夫婦が、此の夜に畠の中で呪術的抱擁をする儀式があった。今に越後国北魚沼郡上条村大字西名の七夕神社では、毎年陰暦七月一日から二十七日まで、里人は同村を流れる破間川の東西の岸の喬木に注連縄を張り渡し、男女の陰具を模した物を藁で作り掲げ、その時異口同音に『破間川に注連引き渡し、西のお姫らしいのでホダレ(玄根の古語)を迎ふ』と云うことである〔一八〕。これもトツギ祭であることは明瞭である。近江国蒲生郡の各村で行う山ノ神祭は大同小異であるが、東桜谷村のは先ず木で男女二体の像を作り、これを神前に供えてトツギの状をなさしめ、白酒を献じ式を終る。そして年番の一人が音頭をとり、参集の村民これに和し『去年より今年は年よし、早稲、中稲、晩稲、二十四の作り物皆よかれ』と唱えて散会するが〔一九〕、是は明白にトツギ祭である。大和国磯城郡纏向村大字江包の素尊神社と、同郡織田村大字大西の稲田媛神社とで、毎年旧正月十日に網掛の神事というが行われる。素尊社では一反分の藁で元根の形を作り、稲田媛社でも同じほどの藁で女根を拵え、神官氏子立会の上でトツギの祭儀を執行する〔二〇〕。この神事は昔から有名なものと見え「大和高取藩風俗問状答」にも載せてある。越前国敦賀郡松原村大字沓見の信露貴神社(男神)と、同所の久豆弥神社(女神)との田植祭は五月六日に行われるが、古来、厳重なる頭屋の制度があり、当日には警固、神官、舞人、早乙女、昼飯持などの稚児が供奉し、本殿にて田植式あり、終って女官に渡御し、後に両宮同例にて、男宮に帰る。式が済むと、馬場先で、三々九度の神事がある〔二一〕。美作国久米郡稲岡村大字南庄の稲荷神社の例祭には、神輿が同所の小原神社に渡御するが、これはトツギの語らいの為めである〔二二〕。肥後の阿蘇神社で、毎年旧二月卯ノ日に田作祭を執行するが、此の祭は中の巳ノ日から亥ノ日まで、子安河原から姫神を迎えてトツギの式があって、五穀を生み、種を播くより、成熟するまでの行事がある。阿蘇谷の村々では、此の祭儀の終らぬうちは、子女の婚姻を禁じているが、これは大昔からの制法である〔二三〕。而して是等の祭儀が、巫女を中心とした農業と生殖との信仰の表現であることは、私が改めて説明するまでもなく、会得されたことと思う。


更に如上の信仰の一段と古いところに溯れば、田植の神事の最中で、オナリが分娩の所作を演ずるのである。そしてかかる民俗も我国には尠からず存しているが、茲には僅に二三だけを掲げるとする。出雲国簸川郡江南村大字常楽寺の安子神社の祭儀は、早乙女が早苗を植えながら安産する有様を演ずるが、今では安産の神として信仰されている〔二四〕。美作国真庭郡八束村大字下長田の長田神社では、例年正月五日に御田植祭を行う。祭具は鋤鍬鎌等の農具で、別に菖蒲で牛の角形を装い作り社前に供え、田舞を奏す。奉幣、祝詞、玉串の献上、苗代の式などがあり、終ると牛使用者が「お三昼飯」と呼ぶ。次に本殿の椽に昇るとき予め紙で拵えた人形を懐中し、焼米を三宝のまま棒持して出ずると、他の祭人御酒と御飯とを持ち、笛太鼓の拍子につれ、左右に舞い終ると、お三と称する祭人(女性の象徴)産米を舞殿の高案の上に直し、本殿に昇ろうとして曩に懐中せる人形を取り出し階段に置く。これ出産を意味するものであって、斎主はその人形を肩にのせ神前に供え、氏子安全の祈祷をする。お産の式と云い終って直会する。〔二五〕土佐国安芸郡吉良川村の八幡社では、三年に一度、五月三日に、御田植祭を行うが、その行列中には、酒絞りと称する女装の男子一人と、取揚げ婆と称する男子一人とが加わり、酒絞りは水桶に<u>つぶて</u>杓を入れて頭上に戴き居り、酒絞るとき安産の態をする〔二六〕。豊後国東国東郡西武蔵村の氏神の歩射祭には、オナリと称する女装の男子が、田植の神事の最中に分娩する所作を演ずる。そして生れた子が男か女かによって豊凶を卜するのであるが、その人形の子供は秘かに神官が神意を問うて拵え、オナリに渡して置くのである〔二七〕。而して是等の分娩の役を勤める者が古くは巫女であったことは勿論である。
更に如上の信仰の一段と古いところに溯れば、田植の神事の最中で、オナリが分娩の所作を演ずるのである。そしてかかる民俗も我国には尠からず存しているが、茲には僅に二三だけを掲げるとする。出雲国簸川郡江南村大字常楽寺の安子神社の祭儀は、早乙女が早苗を植えながら安産する有様を演ずるが、今では安産の神として信仰されている〔二四〕。美作国真庭郡八束村大字下長田の長田神社では、例年正月五日に御田植祭を行う。祭具は鋤鍬鎌等の農具で、別に菖蒲で牛の角形を装い作り社前に供え、田舞を奏す。奉幣、祝詞、玉串の献上、苗代の式などがあり、終ると牛使用者が「お三昼飯」と呼ぶ。次に本殿の椽に昇るとき予め紙で拵えた人形を懐中し、焼米を三宝のまま棒持して出ずると、他の祭人御酒と御飯とを持ち、笛太鼓の拍子につれ、左右に舞い終ると、お三と称する祭人(女性の象徴)産米を舞殿の高案の上に直し、本殿に昇ろうとして曩に懐中せる人形を取り出し階段に置く。これ出産を意味するものであって、斎主はその人形を肩にのせ神前に供え、氏子安全の祈禱をする。お産の式と云い終って直会する。〔二五〕土佐国安芸郡吉良川村の八幡社では、三年に一度、五月三日に、御田植祭を行うが、その行列中には、酒絞りと称する女装の男子一人と、取揚げ婆と称する男子一人とが加わり、酒絞りは水桶に<u>つぶて</u>杓を入れて頭上に戴き居り、酒絞るとき安産の態をする〔二六〕。豊後国東国東郡西武蔵村の氏神の歩射祭には、オナリと称する女装の男子が、田植の神事の最中に分娩する所作を演ずる。そして生れた子が男か女かによって豊凶を卜するのであるが、その人形の子供は秘かに神官が神意を問うて拵え、オナリに渡して置くのである〔二七〕。而して是等の分娩の役を勤める者が古くは巫女であったことは勿論である。




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