「日本巫女史/第三篇/第二章/第二節」を編集中
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'''四、外人の見た巫女の作法とオシラ神''' | '''四、外人の見た巫女の作法とオシラ神''' | ||
大正四年の春に、我国に留学されたニコライ・ネフスキー氏は、巫女の事に興味を有していて、我々日本人が思い及ばぬほどの深い研究を試みていた。殊に、オシラ神と、これを所持しているイタコとの考証には、同氏独特の意見を有っていた。私は、同氏が留学された年の秋から交際を始め、昭和四年九月に、前後十五年の長い星霜を経て、本国ロシヤに帰えらるるまで、厚誼を重ねていたが、此の長い間に、同氏から書状や、口頭で教えられた、巫女の呪術や、作法や、更にオシラ神の由来などに関したものが、少からず存している。 | |||
例えば、常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものであるとか、陸中国で巫女をオカミンと云うのは、内儀の意では無くして、神様の心であるとも云うが如き、まだ此の外にも多くの高示を受けている。就中、オシラ神の由来にあっては、北方民族よりの輸入説を固く主張していたが、その要旨を言うと、 | 例えば、常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものであるとか、陸中国で巫女をオカミンと云うのは、内儀の意では無くして、神様の心であるとも云うが如き、まだ此の外にも多くの高示を受けている。就中、オシラ神の由来にあっては、北方民族よりの輸入説を固く主張していたが、その要旨を言うと、 | ||
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'''七、近畿地方の市子と性的生活''' | '''七、近畿地方の市子と性的生活''' | ||
京都府立第二中学校の井上頼寿氏から、前後四回まで高示に接しているが、その多き部分は、伊勢神宮の御子良及び母良に関するもので、然もその内容は、発表を憚からねばならぬ事もあるし、発表しても差支ないものは、私の言う口寄せ市子に交渉するところが少く、所謂、帯に短し襷に長しというものである。それで茲には、前後四回の報告を、私が勝手に按排して、専ら近畿地方の巫女と、性的生活の方面を記すとした。此の点に就いては、深く井上氏の寛容を冀う次第である。 | |||
山城国相楽郡地方では、神楽巫女のことを、東部では「そのいち」と称し、年齢は三十歳位を普通とし、西部にては「いちんど」と呼び、妙齢の者を普通としている。明治維新頃までは、祭礼の度に、神社の拝殿で神楽を舞う「そのいち」の家も残っていたが、現今では極めて少くなり、殊に西部では、妙齢の女子が、此の事を遣るのを厭うようになり、随って湯立の神事なども、十四五年前から廃止してしまった有様である。而して東部の「そのいち」は、巫女となると、神主との間に性に関する或種の儀式(中山曰。奥州のイタコと守り神との結婚の如きものか)が、行われたようだとの事である。同郡の<u>かわらや</u>と云う土地では、以前「そのいち」を頼んで舞って貰う度に、お礼として米や銭を出す外に、人参や大根で男子の生殖器を作って添えたものだが、近年では警察署からの注意で、廃止することとなったと聴いた云々。 | 山城国相楽郡地方では、神楽巫女のことを、東部では「そのいち」と称し、年齢は三十歳位を普通とし、西部にては「いちんど」と呼び、妙齢の者を普通としている。明治維新頃までは、祭礼の度に、神社の拝殿で神楽を舞う「そのいち」の家も残っていたが、現今では極めて少くなり、殊に西部では、妙齢の女子が、此の事を遣るのを厭うようになり、随って湯立の神事なども、十四五年前から廃止してしまった有様である。而して東部の「そのいち」は、巫女となると、神主との間に性に関する或種の儀式(中山曰。奥州のイタコと守り神との結婚の如きものか)が、行われたようだとの事である。同郡の<u>かわらや</u>と云う土地では、以前「そのいち」を頼んで舞って貰う度に、お礼として米や銭を出す外に、人参や大根で男子の生殖器を作って添えたものだが、近年では警察署からの注意で、廃止することとなったと聴いた云々。 |