「日本巫女史/第二篇/第一章/第一節」を編集中
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かく神道や民俗にまで浸潤した道教の思想は、当然の帰結として、巫女の行うところの呪術に習合せられ、これが事象は明確に指摘し得るほどに現われて来た。「用明紀」二年夏四月の条に、 | かく神道や民俗にまで浸潤した道教の思想は、当然の帰結として、巫女の行うところの呪術に習合せられ、これが事象は明確に指摘し得るほどに現われて来た。「用明紀」二年夏四月の条に、 | ||
: 中臣勝海連、於家集衆、随助大連{○守/屋}、遂作太子彦人皇子像、与竹田皇子像<ruby><rb>厭</rb><rp>(</rp><rt>マジナフ</rt><rp>)</rp></ruby> | : 中臣勝海連、於家集衆、随助大連{○守/屋}、遂作太子彦人皇子像、与竹田皇子像<ruby><rb>厭</rb><rp>(</rp><rt>マジナフ</rt><rp>)</rp></ruby>之、俄而知事難済、帰附彦人皇子水派宮。 | ||
とあるのは、その一例である〔六〕。勿論、我が固有の呪術にも人を詛うことのあったのは、既述の如くであるが、その方法は凶言を用いるか、又は<ruby><rb>物実</rb><rp>(</rp><rt>モノザネ</rt><rp>)</rp></ruby>である土を採るかの簡単なるものであって、<ruby><rb>人像</rb><rp>(</rp><rt>ヒトガタ</rt><rp>)</rp></ruby>を作って呪詛することは曾て存していなかったのである。それが此の時代に斯くの如き呪術の行われるようになったのは、全く道教の影響としか考えられぬのである。 | とあるのは、その一例である〔六〕。勿論、我が固有の呪術にも人を詛うことのあったのは、既述の如くであるが、その方法は凶言を用いるか、又は<ruby><rb>物実</rb><rp>(</rp><rt>モノザネ</rt><rp>)</rp></ruby>である土を採るかの簡単なるものであって、<ruby><rb>人像</rb><rp>(</rp><rt>ヒトガタ</rt><rp>)</rp></ruby>を作って呪詛することは曾て存していなかったのである。それが此の時代に斯くの如き呪術の行われるようになったのは、全く道教の影響としか考えられぬのである。 |