日本巫女史/第二篇/第一章/第二節」を編集中

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欽明朝に仏教が公けに渡来し〔一〕、奈良朝に夙くも端を発した本地垂跡説は、平安朝において漸く完成し、神仏一如の教えは弘く通じ、和光同塵の実は普く行われるようになった。而して此の間にあって仏法の教相と事相とは、我が巫道に甚大なる影響を与え、遂に「<ruby><rb>法師巫</rb><rp>(</rp><rt>ホウシミコ</rt><rp>)</rp></ruby>」と称する、巫仏一体の実行者さえ出すに至った〔二〕。
欽明朝に仏教が公けに渡来し〔一〕、奈良朝に夙くも端を発した本地垂跡説は、平安朝において漸く完成し、神仏一如の教えは弘く通じ、和光同塵の実は普く行われるようになった。而して此の間にあって仏法の教相と事相とは、我が巫道に甚大なる影響を与え、遂に「<ruby><rb>法師巫</rb><rp>(</rp><rt>ホウシミコ</rt><rp>)</rp></ruby>」と称する、巫仏一体の実行者さえ出すに至った〔二〕。


元来、我国に仏教が輸入された当時は、専ら宮廷または貴族の信仰に限られていて、殆んど一般民衆とは没交渉の状態に置かれてあった。従って此の仏教が、広く民間信仰の対象となるまでには、長い年月を経過してからであることは言うを俟たぬ。そして少数の貴族の手から多数の民衆の手に移る間には、時勢の暢達と、人文の発展とに促されて、同じ仏教でありながら、幾度か信仰の対象も変遷し、教理や儀軌の消長も伴うたのである。奈良朝の小乗仏教期には、薬師と観音であって、主として加持祈祷が行われ、平安期の大乗仏教期には、大日と弥勒であって、儀軌は前期を承けた上に、更に複雑せる加持や祈祷が続けられていた。鎌倉期になると、阿弥陀と妙見、室町期には地蔵尊が崇敬されていた。勿論、此の区別は、単にその時代における信仰の中心となったものを、概括的に挙げただけであって、起伏こそあれ各仏ともに相当の信仰を維いでいたことは言うまでもない。本地垂跡説が民心を支配するようになってから、我国の神祇の本地仏なるものにも、此の推移が窺われるのである。山本信哉氏の研究によると、伊勢皇大神の本地仏なども、大日、観音、弥陀の三変遷を経たということである〔三〕。而して此の本地仏の推移が、民間信仰の反映であることは見やすい帰結である。
元来、我国に仏教が輸入された当時は、専ら宮廷または貴族の信仰に限られていて、殆んど一般民衆とは没交渉の状態に置かれてあった。従って此の仏教が、広く民間信仰の対象となるまでには、長い年月を経過してからであることは言うを俟たぬ。そして少数の貴族の手から多数の民衆の手に移る間には、時勢の暢達と、人文の発展とに促されて、同じ仏教でありながら、幾度か信仰の対象も変遷し、教理や儀軌の消長も伴うたのである。奈良朝の小乗仏教期には、薬師と観音であって、主として加持祈祷が行われ、平安期の大乗仏教期には、大日と弥勒であって、儀軌は前期を承けた上に、更に複雑せる加持や祈禱が続けられていた。鎌倉期になると、阿弥陀と妙見、室町期には地蔵尊が崇敬されていた。勿論、此の区別は、単にその時代における信仰の中心となったものを、概括的に挙げただけであって、起伏こそあれ各仏ともに相当の信仰を維いでいたことは言うまでもない。本地垂跡説が民心を支配するようになってから、我国の神祇の本地仏なるものにも、此の推移が窺われるのである。山本信哉氏の研究によると、伊勢皇大神の本地仏なども、大日、観音、弥陀の三変遷を経たということである〔三〕。而して此の本地仏の推移が、民間信仰の反映であることは見やすい帰結である。


此等の仏教にあって、就中、我が巫道に深長の交渉を有しているものは、僧最澄によって唱えられた天台宗と、僧空海によって創められた真言宗との二宗であって、これに次いでは、少しく時勢は降るが、僧日蓮が弘めた法華宗の、殊に加持方面を伝えた中山流(この流儀は元修験道から出たものである)の祈祷である。而して此等の仏教と、巫道の関係は、かなり複雑したものが存するので、左に項目を分けて、管見を記述することとした。ただ懼るることは、私は仏教に就いては、全くの無智であるために、説くに正鵠を失い、論ずるに軌道を脱し、飛んでもない見当違いや、藪睨みに陥ることがありはせぬかと思う点である。幸いに是正を仰ぐことが出来れば、独り私の仕合せばかりではないのである。
此等の仏教にあって、就中、我が巫道に深長の交渉を有しているものは、僧最澄によって唱えられた天台宗と、僧空海によって創められた真言宗との二宗であって、これに次いでは、少しく時勢は降るが、僧日蓮が弘めた法華宗の、殊に加持方面を伝えた中山流(この流儀は元修験道から出たものである)の祈禱である。而して此等の仏教と、巫道の関係は、かなり複雑したものが存するので、左に項目を分けて、管見を記述することとした。ただ懼るることは、私は仏教に就いては、全くの無智であるために、説くに正鵠を失い、論ずるに軌道を脱し、飛んでもない見当違いや、藪睨みに陥ることがありはせぬかと思う点である。幸いに是正を仰ぐことが出来れば、独り私の仕合せばかりではないのである。


'''一、仏教の促成せる巫女の二潮流'''
'''一、仏教の促成せる巫女の二潮流'''
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併しながら、十三仏と押しくるめて言うことは、古くないにせよ、その仏の一々は、仏教の渡来と共に存していたのであるから、その後に巫女が、その一々の仏を捧持し、これを守り本尊としたであろうという仮説は成り立つ訳である。「塩尻」巻三七に、
併しながら、十三仏と押しくるめて言うことは、古くないにせよ、その仏の一々は、仏教の渡来と共に存していたのであるから、その後に巫女が、その一々の仏を捧持し、これを守り本尊としたであろうという仮説は成り立つ訳である。「塩尻」巻三七に、


: 今、巫覡の祈祷とてするは、多くは密家の行法と習合の事なり(中略)。神家は祓修業と称して神人を多く集め、同音に祓の祝詞を唱え、一度毎に手ならしなんどして、千度万度の祓なんといへるいと心得ず(中略)。今社家の祓は僧の千部万部の経を読誦するやうに心得ぬるは、誠に過らずや。
: 今、巫覡の祈禱とてするは、多くは密家の行法と習合の事なり(中略)。神家は祓修業と称して神人を多く集め、同音に祓の祝詞を唱え、一度毎に手ならしなんどして、千度万度の祓なんといへるいと心得ず(中略)。今社家の祓は僧の千部万部の経を読誦するやうに心得ぬるは、誠に過らずや。


とあるは、極めて微温的ではあるが、巫仏の習合に触れているので、敢て抽出した。仏教に門外漢である私は、これ以上に突っ込んで言うべき材料を持ち合わせていぬので差控えるが、兎に角に、古く巫女が、守護神から帰依仏へ乗り代えたことだけは、事実と見て大過はないようである。
とあるは、極めて微温的ではあるが、巫仏の習合に触れているので、敢て抽出した。仏教に門外漢である私は、これ以上に突っ込んで言うべき材料を持ち合わせていぬので差控えるが、兎に角に、古く巫女が、守護神から帰依仏へ乗り代えたことだけは、事実と見て大過はないようである。
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