「日本巫女史/第二篇/第四章/第一節」を編集中
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とあるのを見ると〔八〕、当時、熊野に巫女が居り、然もそれが仏教と融合していた事が知られるのである。やや後世の記事ではあるが、「宴曲抄」巻上の熊野参詣の一節に、『印南、斑鳩、切目の山、恵みもしげき梛の葉、王子王子の馴子舞〔九〕、<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>キネ</rt><rp>)</rp></ruby>が鼓も打ち鳴し、頼みをかくる<ruby><rb>木綿繦</rb><rp>(</rp><rt>ユフタスキ</rt><rp>)</rp></ruby>』とあるのでも、当時の隆盛が想像される。 | とあるのを見ると〔八〕、当時、熊野に巫女が居り、然もそれが仏教と融合していた事が知られるのである。やや後世の記事ではあるが、「宴曲抄」巻上の熊野参詣の一節に、『印南、斑鳩、切目の山、恵みもしげき梛の葉、王子王子の馴子舞〔九〕、<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>キネ</rt><rp>)</rp></ruby>が鼓も打ち鳴し、頼みをかくる<ruby><rb>木綿繦</rb><rp>(</rp><rt>ユフタスキ</rt><rp>)</rp></ruby>』とあるのでも、当時の隆盛が想像される。 | ||
然るに、鎌倉期に入るに及び、さしもに旺盛を極めた熊野信仰も漸く衰え始め、蟻の如く集った道者も、次第に影を潜めるに至り、更に同期の末葉に入ると、全く寂寥を感ずるようになってしまった。天野信景翁は此の理由を討ねて、『元弘建武之後、帝{○後/醍醐}遷南山、道路不通、此後熊野参詣絶跡』と論じている〔一〇〕。かく熊野信仰が衰滅したとなると、ここに当然湧起した問題は、如何にして三山の祠堂を経営し、併せて社僧神人等の生活を維持すべきかという事であった。然るに是より先に、同じ紀州の高野山に属する<ruby><rb>非事吏</rb><rp>(</rp><rt>ヒジリ</rt><rp>)</rp></ruby>と称する徒が〔一一〕、前述の如く護摩ノ灰なるものを頒布して諸国を勧進した故智を学び、三山の巫女達は、或は口寄せの呪術を以て、或は地獄極楽の絵解き比丘尼として、更に牛王及び酢貝を配って金銭を獲る為に、己がじし日本国中に向って漂泊の旅に出た。それは恰も後世の伊勢の御師の如く、現今の越後の毒消し売りの如く、田舎わたらいに、日を重ね月を送ったのである。而して是等の巫女又は比丘尼が女性の弱さから倫落の淵に堕ちて売色比丘尼と化したのであるが、然もその収入は極めて多かったものと見え、「倭訓栞」に | 然るに、鎌倉期に入るに及び、さしもに旺盛を極めた熊野信仰も漸く衰え始め、蟻の如く集った道者も、次第に影を潜めるに至り、更に同期の末葉に入ると、全く寂寥を感ずるようになってしまった。天野信景翁は此の理由を討ねて、『元弘建武之後、帝{○後/醍醐}遷南山、道路不通、此後熊野参詣絶跡』と論じている〔一〇〕。かく熊野信仰が衰滅したとなると、ここに当然湧起した問題は、如何にして三山の祠堂を経営し、併せて社僧神人等の生活を維持すべきかという事であった。然るに是より先に、同じ紀州の高野山に属する<ruby><rb>非事吏</rb><rp>(</rp><rt>ヒジリ</rt><rp>)</rp></ruby>と称する徒が〔一一〕、前述の如く護摩ノ灰なるものを頒布して諸国を勧進した故智を学び、三山の巫女達は、或は口寄せの呪術を以て、或は地獄極楽の絵解き比丘尼として、更に牛王及び酢貝を配って金銭を獲る為に、己がじし日本国中に向って漂泊の旅に出た。それは恰も後世の伊勢の御師の如く、現今の越後の毒消し売りの如く、田舎わたらいに、日を重ね月を送ったのである。而して是等の巫女又は比丘尼が女性の弱さから倫落の淵に堕ちて売色比丘尼と化したのであるが、然もその収入は極めて多かったものと見え、「倭訓栞」に | ||