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	<title>Docs - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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	<updated>2026-05-03T14:25:24Z</updated>
	<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>毛髪フェチシズム</title>
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		<updated>2012-05-20T11:16:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==毛髪フェチシズム==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　変態性慾の一種に、女の髪の毛を切取って、喜ぶ者がある。他人の意志に反して切取るのだから一つの犯罪行爲であって、かような変態性慾者は常に裁判所の厄介になる。&lt;br /&gt;
　女の髪は男の眼を惹き易い、「徒然草参考」に、「女に美人の徳、數多あれど、髮の麗しきが第一の徳なり。三十二相も頂上肉髻（はつ）相とて髪の見事なるを第一とす。」とあろが、このように髪の麗しきが、第一位に置かれるのは、生理学的に言えば、男に最も喜ばれるからである。近頃断髪が流行するけれど、断髪がいいか又は房々とした柔かい長い髮がいいかと尋ねたら……さて、モダーン・ボーィは何と答えるであうう。&lt;br /&gt;
　毛髪を讃美する心はどの男にもあるけれど、特に毛髪の香を嗅いいだり、毛髪に触れて見たり、或は毛髪を無理に切取って一種の性的快感を覚えるのは、病的心理と言わねばならぬ。これを毛髪フェチジスムと言い、かような人間を毛髪フェチシストと呼んで居る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　髪の美しさのうち、最も重要な部分を占めて居るのば、その色の美しさである。如何に房々した髪でも、色が悪くては美しいとは謂われない。日本では漆黒の髪が喜はれ、西洋では真紅な金髪が喜ばれる。日本の小説の若い女主人公は常に真っ黒な髪をした女であって、西洋の小説の女主人公は多くは真紅の金髪である。&lt;br /&gt;
　毛髪フェチシストに喜ばれるのも、西洋では真紅の金髪が一番多いらしい。無論その例外ば沢山あって、ヒルシュフェルドは、紅い髪に対して、特に激しい憎悪を抱く変態性慾者の事を書いて居る。然し、その男は遂に真紅な髪の女と結婚したそうである。そうしてその男はその理由として紅い髪の女を配偶者として暮して居たら、自分の紅い髪に対する憎悪心も減ずるかも知れぬと思ったからだといったそうである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　時には白髪が毛髪フェチシストの特に喜ぶ所となる。殊に若い女の白髪はかような変態性慾者に嬉しがられる。反対に又女で男の白髪を喜ぶ者が沢山ある。ヒルシュフェルドは、同衾の際、必ず良人に白髪の鬘を被らしめた女の例を記して居る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　女の髮を切取る変態性慾者は日本の記録にも少なくはない。田中香涯氏の著「愛と残酷」の中に「諸国里人談」「敗鼓録」「善庵随筆」等の、髪切り流行の記事が擧られてあるが、そのうちのある者は、恐らく毛髪フェチシストの仕事だったに違いない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　髪切り男について科学的の研究を行ったのはクラフト・エービングである。氏の名著「変態性慾」の中には沢山の例が記されてある。中に極端なのは、四十歳の錠前屋で、彼は實に六十五個の女の髪束を持って居た。彼は最初女の髪に触れたくてならず、ある時偶然若い女の髪に触れて、恍惚感に襲われた。それから彼は街へ出て女の髪を切取ったのであるが、常にその髮を弄って性的満足を得たのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　かような変態性慾者の中には女そのものに少しも愛を感じないで、唯その髮だけに愛を感ずる者がある。ウルフェンの記載せる者がそれで、その男は、妹の髪の毛をも切った。そうして、常に髮の毛の夢ばかりを見た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　毛髪フェチシストの中には随分変な例があって、クラフト・エービングの記載した所によると鬚の生えた女にのみ執着を感じた男がある。彼は男のように髪の生えた女と結婚したが、その女に死に別れてから、長い間同じような女を探し求め、漸くにして一人見つけ出して、始めて落つく事が出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　海を渡る時、難船に逢うと、船人が髪を切って龍神に捧げる習慣がある。これは「擁書雑筆」に拠ると、西蕃に真似たものだというのであるが、これによって見ると龍神は、毛髪フェチシストであるかも知れない。讃岐の金毘羅大権現、常陸の安波大杉大明神などには頭髪を断って奉るものがあるという事であるが、何故にこれ等の御神体が毛髪を御好みになるかは元より分からない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（小酒井不木『医談女談』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:小酒井不木]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<title>カテゴリ:小酒井不木</title>
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		<updated>2012-05-20T11:09:37Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: ページの作成：「こさかい‐ふぼく【小酒井不木】  　小説家、医学博士。本名光次。愛知出身。東京帝大医学部卒。東北大医学部助教授とな...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;こさかい‐ふぼく【小酒井不木】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　小説家、医学博士。本名光次。愛知出身。東京帝大医学部卒。東北大医学部助教授となって、欧米に留学したが、結核が悪化し帰国、二一年から文筆活動を始め、草創期の探偵文壇を啓発した。科学探偵小説や児童讀物、医学書など精力的に執筆したが、二九年に夭逝。死後、改造社から『小酒井不木全集』全十七巻が刊行された。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<title>毛髪フェチシズム</title>
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		<updated>2012-05-20T11:04:08Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: ページの作成：「==毛髪フェチシズム==  　変態性慾の一種に、女の髪の毛を切取って、喜ぶ者がある。他人の意志に反して切取るのだから一つ...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==毛髪フェチシズム==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　変態性慾の一種に、女の髪の毛を切取って、喜ぶ者がある。他人の意志に反して切取るのだから一つの犯罪行爲であって、かような変態性慾者は常に裁判所の厄介になる。&lt;br /&gt;
　女の髪は男の眼を惹き易い、「徒然草参考」に、「女に美人の徳、數多あれど、髮の麗しきが第一の徳なり。三十二相も頂上肉髻（はつ）相とて髪の見事なるを第一とす。」とあろが、このように髪の麗しきが、第一位に置かれるのは、生理学的に言えば、男に最も喜ばれるからである。近頃断髪が流行するけれど、断髪がいいか又は房々とした柔かい長い髮がいいかと尋ねたら……さて、モダーン・ボーィは何と答えるであうう。&lt;br /&gt;
　毛髪を讃美する心はどの男にもあるけれど、特に毛髪の香を嗅いいだり、毛髪に触れて見たり、或は毛髪を無理に切取って一種の性的快感を覚えるのは、病的心理と言わねばならぬ。これを毛髪フェチジスムと言い、かような人間を毛髪フェチシストと呼んで居る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　髪の美しさのうち、最も重要な部分を占めて居るのば、その色の美しさである。如何に房々した髪でも、色が悪くては美しいとは謂われない。日本では漆黒の髪が喜はれ、西洋では真紅な金髪が喜ばれる。日本の小説の若い女主人公は常に真っ黒な髪をした女であって、西洋の小説の女主人公は多くは真紅の金髪である。&lt;br /&gt;
　毛髪フェチシストに喜ばれるのも、西洋では真紅の金髪が一番多いらしい。無論その例外ば沢山あって、ヒルシュフェルドは、紅い髪に対して、特に激しい憎悪を抱く変態性慾者の事を書いて居る。然し、その男は遂に真紅な髪の女と結婚したそうである。そうしてその男はその理由として紅い髪の女を配偶者として暮して居たら、自分の紅い髪に対する憎悪心も減ずるかも知れぬと思ったからだといったそうである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　時には白髪が毛髪フェチシストの特に喜ぶ所となる。殊に若い女の白髪はかような変態性慾者に嬉しがられる。反対に又女で男の白髪を喜ぶ者が沢山ある。ヒルシュフェルドは、同衾の際、必ず良人に白髪の鬘を被らしめた女の例を記して居る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　女の髮を切取る変態性慾者は日本の記録にも少なくはない。田中香涯氏の著「愛と残酷」の中に「諸国里人談」「敗鼓録」「善庵随筆」等の、髪切り流行の記事が擧られてあるが、そのうちのある者は、恐らく毛髪フェチシストの仕事だったに違いない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　髪切り男について科学的の研究を行ったのはクラフト・エービングである。氏の名著「変態性慾」の中には沢山の例が記されてある。中に極端なのは、四十歳の錠前屋で、彼は實に六十五個の女の髪束を持って居た。彼は最初女の髪に触れたくてならず、ある時偶然若い女の髪に触れて、恍惚感に襲われた。それから彼は街へ出て女の髪を切取ったのであるが、常にその髮を弄って性的満足を得たのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　かような変態性慾者の中には女そのものに少しも愛を感じないで、唯その髮だけに愛を感ずる者がある。ウルフェンの記載せる者がそれで、その男は、妹の髪の毛をも切った。そうして、常に髮の毛の夢ばかりを見た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　毛髪フェチシストの中には随分変な例があって、クラフト・エービングの記載した所によると鬚の生えた女にのみ執着を感じた男がある。彼は男のように髪の生えた女と結婚したが、その女に死に別れてから、長い間同じような女を探し求め、漸くにして一人見つけ出して、始めて落つく事が出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　海を渡る時、難船に逢うと、船人が髪を切って龍神に捧げる習慣がある。これは「擁者雑筆」に拠ると、西蕃に真似たものだというのであるが、これによって見ると龍神は、毛髪フェチシストであるかも知れない。讃岐の金毘羅大権現、常陸の安波大杉大明神などには頭髪を断って奉るものがあるという事であるが、何故にこれ等の御神体が毛髪を御好みになるかは元より分からない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（小酒井不木『医談女談』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:小酒井不木]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AF%80&amp;diff=1345</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第三章/第四節</title>
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		<updated>2010-06-16T01:37:24Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第三章|第三章　巫女の社会的地位と其の生活]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第四節　明治の巫女禁断と爾後の消息==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治維新の完成が、復古神道の思想を基礎としていただけに、神道及び仏教に関する施設に就いては、頗る峻烈なる態度を以て臨んでいたようである。殊に明治四年に発布された神仏分離の法例は、これを実行するに余りに勇敢であったために、遂に常識の軌道を脱して、廃仏毀釈の埒内にまで立ち入ってしまった。勿論、これは千年余を通じて、仏教と僧侶の為に圧迫されていた神道及び社人の、反抗的空気が磅礴したものである事は言う迄もないが、兎に角にその猛烈なる運動と、果敢なる実行とには、国内の上下を挙げて張耳飛目せざるを得なかったものである〔一〕。斯うして神道方面の改革に注意した明治政府は、当然、口寄せ神子の上にも及んで来て、明治六年に教部省の名によって、左の如き巫女禁断の法令が発せられたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　達第二号　　　　　　　府　県&lt;br /&gt;
: 従来梓巫市子並憑祈禱狐下ケ杯ト相唱玉占口寄等ノ所業ヲ以テ人民ヲ眩惑セシメ候儀自今一切禁止候条於各地官此旨相心得取締厳重可相立候事&lt;br /&gt;
: 　　　明治六年一月一五日　　教部省&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時、教部省の幹部をなしたものは、殆んど悉くが平田篤胤系の神道学者であったので、鈴振り神道を嫌うこと蛇蜴の如かりしため、市子が禁断されるのは自明のことであって、且つ市子自身が社会的に存在の意義を失っていたのであるから、此の禁令は当然の措置と言わなければならぬ。併しながら、国初以来、国民迷信の対象となっていた神子の呪術は、相当深刻に国民の皮肉に喰い込んでいたので、明治政府の威力を以てしても、中々一回の禁令では剿絶されなかったものと見え、翌明治七年六月七日には、再び『禁厭祈祷を以て医業等差止め、政治の妨害と相成候様の所業』を堅く取締るべき法令の発布を見た。かくて市子の名は永久に消え、その実も永久に断たれた訳であるが、事実はこれを明確に裏切っていて、禁令の発布を見た明治六年から、約六十年を経過した現時においても、猶お依然として、各地にその弊害を流しているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市子は、名こそ変ったが、今に各地方に歴然と残っている。呪術も、方法こそ変ったが、今猶お顕然として存している。彼等は、明治の禁断以来は、宗派神道の教会に属して、肩書を教師と改め、神降しの呪文の代りに、御禊祓とか、中臣祓とかを唱えているが、その実際の所業は、昔の市子のそのままを伝えているのである。彼等は、素性の知れぬ依頼者に対しては、官憲の禁止を楯にして、古き呪術は一切行わぬが、顔馴染の者には公然と、是れが依頼に応ずるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
殊に民間における彼等の勢力には、実に驚くべきものがあって、私が昭和四年六月に常陸の潮来島に遊びしとき、近村に有名なる巫女の在ることを聞知して訪ねたところ、同人は旧正月に家を出たまま、篤信者にそれからそれへと招かれて、今に帰宅せぬとのことであった〔二〕。更に同年七月陸前の松嶋に遊び、同じく附近の高城町に知名の巫女が居ると聞き、人を派して在否を確かめさせたところが、これも三ヶ月前から村から村へ稼ぎ歩いているとのことであった。而して私は此の二回の失敗に就いて、これは巫女の方で特に辞を設けて遁げるのではないかと疑って見たが、これは私の僻見であって、実際に斯うして例は各地に存していることを耳にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の事実を目睹した私は、窃に斯う考えている。市子というが如き迷信は、恐らく人類の存する限り、時に消長あるも、永久に存するものではなかろうかと、市子の力も亦た偉なりと言うべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 明治初期の神仏分離、及び廃仏毀釈の運動に就いては、記すべき多くの事件もあり、これと同時に、是等の機運が巫女に波及した事実も若干知っているが、今は大体にとどめて省略した。神仏分離に関しては、辻善之助氏等の編纂した大部の書籍がある。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 「旅と伝説」第二年第六号所載の拙稿に詳記して置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1342</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第三章/第二節</title>
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		<updated>2010-06-13T12:42:26Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第三章|第三章　巫女の社会的地位と其の生活]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　日陰者としての巫女の生活==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
儒教の七去三従が、婦人道徳の基調となれば、巫女の身の上にも動揺を来たさぬ理由は無い筈である。神社に附属していた&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にあっても、神々に仕える者は女子に限られた制度は、疾くの昔に泯びてしまって、男子の神職の下に、有るか無きかの日陰者とならざるを得なかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、神社を離れて町村に土着した口寄せ市子にあっては、賤民として、帳外者として、社会の落伍者として、軽視されたものである。当時の神子の地位や収入が、如何に貧弱なものであったかを証明すべき記録は、諸書に散見しているが、ここには煩を避け、一臠以て全鼎を推すとして、大和国&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;おおみわ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;神社に関するものから抄出する「三輪社諸事記帳」の一節に、左の如きものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　神楽銭之儀ニ付出入之覚&lt;br /&gt;
: 一、宝永二年酉ノ五月十五日ニ、戎重織田内匠殿より拾弐貫文之神楽御願被成候所ニ、神楽銭之配当ニ付、八乙女方よりとやかく申ニ付、出入（中山曰。訴訟の意）ニ罷成、南都御番所妻木彦右衛門様御奉行之時対決御座候、彦右衛門様被仰候は、壱貫弐百迄は右之通八乙女方へ遣し、夫より以上ハ&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;壱銭&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ニ而社中不残配分致申候様ニ被出仰候而、同極月二十三日相済候、其&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;済高&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;宮ニ有之候、但シ此出入は十八年跡之通ニ被仰付候。十八年以前之対決も此度の対決も同事ニ相済申候、尤此儀神主了簡ニ而壱貫弐百文より以上ハ弐つ割ニ致シ半分は惣社中へ配分、半分は八乙女へ配分也（三輪叢書本。以下同じ）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに由れば、大神々社にて奏する神楽料は壱百二百文を定めとし、此の分配方に就いて、神主側と神子側との間に紛議を生じ、遂に奈良奉行の採決を受けることとなり、定めの壱貫二百文までは、全部神子側の収入とし、それ以上の神楽料を得た場合に限り、その過剰の分は折半して、神主と神子とに分配することとなって、落着を告げたのであるが、然も此の記録に徴すれば、宝永二年に先立つ一八年前——即ち元禄元年にも、此の種の訴訟を見たことがあるというから、神楽銭の配当問題は、長い宿題となっていたことが推察されるのである。大神々社は大和の大社であるから、信徒の奉納する神楽も尠くなかったことと思われるが、壱貫二百文の料金は、他の物価に比して軽いものであったと共に、これが八乙女（必ずしも八人ではなかった。その人員が六人であったことは、次の記録でも知れる）の収入の総てであったとすれば、決して多いとは云えぬのである。されば此の少き収入を更に神主側に引き去られたのであるから、生活を維持する点から、対決騒ぎをしたのも道理である。更に正徳三年七月十八日付の「御朱印替ノ覚」の一節に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 泉州踞尾村北村六右衛門方より、神酒五升一樽、並&amp;lt;u&amp;gt;かます&amp;lt;/u&amp;gt;少々、神楽料銀十二匁被申上候、右之神楽料八乙女方へ渡し申候、又神酒壱升斗八乙女へ遣し申候、是は此方了簡ニ而遣し申候、重而例ニは無之候&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と高宮神主越宮内昌綱の名で記してあるのを見ると、常に神子が神主に経済的にも圧迫されていた事が判然する。換言すれば、神子は神主の手盛に対して、異議を唱えるだけの権限すら与えられていなかったのである。而して更に左記の記録に徴するとき、神子の収入如何に些少であったかが知られると同時に、社領の分米に就いても、如何に神主に重くして、神子に軽かったかが併せ窺えるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　享保八年四月十三日太神楽次第事&lt;br /&gt;
: 一、新銀三百目　　神楽料&lt;br /&gt;
: 　　此銭二十三貫七十二文云々（中略）。&lt;br /&gt;
: 　　　〆銀七匁四分、此銭五百八十二文、七十六文かへ、三貫五百六十文、二口〆四貫百四十六文&lt;br /&gt;
: 引残テ社八乙女一人ニ付七百四十九文ヅツ、其外配分頭割ニテ済云々&lt;br /&gt;
: 　　　　享保中大神社覚書&lt;br /&gt;
: 　　六十石（中山曰。全社領百七十五石）&lt;br /&gt;
: 　　　　八乙女&lt;br /&gt;
: 　　　高一斗六升　　惣ノ一&lt;br /&gt;
: 　　　同断　　　　　左ノ一&lt;br /&gt;
: 　　　同　　　　　　右ノ一&lt;br /&gt;
: 　　　同　　　　　　豊ノ一&lt;br /&gt;
: 　　　同　　　　　　富ノ一&lt;br /&gt;
: 　　　同　　　　　　梅ノ一&lt;br /&gt;
: 　　三石六斗　社家　越　内膳&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
越氏は大神社の首席神主であったとは云え、神子の約二十三人分の配当を受けている事になる。分米において、既に斯くの如くであるから、神楽料は宝永の裁許により、規定の額だけは神子に渡したのであろうが、その他の参拝者の賽銭とか、信徒の奉納金とかいうものは、これ等の神主以下の者に壟断され、神子の収入とはならなかったのであろう。従って神子の生活たるや、実に惨憺たるものであって、漸く下級の神人を夫とし、或は農民を入聟として迎え、纔に内職として神社に奉仕するの余儀なき事情に置かれたのである。享保六年中に書き上げた「系譜」中に、左の如き記録が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　八乙女&lt;br /&gt;
: ○田中氏云々&lt;br /&gt;
: やど　　神前勤候　出生不知　　　　夫　甚五郎&lt;br /&gt;
: 名不知　不勤　　　大福村出生　　　夫　八兵衛&lt;br /&gt;
: 同断　　同断　　　当村八右衛門娘　夫　長五郎&lt;br /&gt;
: おさわ　（中略）　　　　　　　　　夫　清五郎&lt;br /&gt;
: 　同高宮氏被官○北村氏ニ改&lt;br /&gt;
: 名不知　当村出世　　　　　　　　　夫　仁兵衛&lt;br /&gt;
: おかめ　神前勤候云々　　　　　　　夫　弥八郎&lt;br /&gt;
: 女郎　　おかめ婿源八娘也云々　　　夫　弥八郎&amp;lt;small&amp;gt;次男&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: 辰くつた　女郎妹也&lt;br /&gt;
: 　同　○森氏ニ改&lt;br /&gt;
: 名不知　　　　　　　　　　　　　　夫　次郎兵衛&lt;br /&gt;
: 右ノ一　おさつ　神前勤申候　　　　夫　久右兵衛&lt;br /&gt;
: 　　　　&amp;lt;small&amp;gt;前夫善九郎ハ粟殿より入聟、此久右兵衛門黒崎村之出生&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: 　同　○森本氏ニ改&lt;br /&gt;
: 名不知　馬場村出世　　　　　　　　夫　清介&lt;br /&gt;
: 同断　　山城之出生　　　　　　　　夫　五郎兵衛&lt;br /&gt;
: おかち　薬師堂生神前ヲ勤　　　　　夫　半十郎&amp;lt;small&amp;gt;五郎兵衛弟也&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: 　　　　妻ハおかち娘　　　　　　　夫　宇兵衛&lt;br /&gt;
: 宮一ひさ　おかち孫也　　　　　　　夫　又兵衛&amp;lt;small&amp;gt;茅原村より養子也&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: 　同　高宮氏被官也　○藤本氏ニ改&lt;br /&gt;
: 名不知　穴師村出生　　　　　　　　夫　与右兵衛&lt;br /&gt;
: 惣ノ一　小まん　神前ヲ勤初瀬出世　夫　清兵衛&lt;br /&gt;
: 右近　　おかね　小まん孫也　　　　夫　与平次&lt;br /&gt;
: 　同　○倉橋氏ニ改&lt;br /&gt;
: 名不知　慈恩寺村出世　　　　　　　夫　助右兵衛&lt;br /&gt;
: おたま　神前ヲ勤申候蔵橋村生　　　夫　次右兵衛&lt;br /&gt;
: 権ノ一　おみや　（中略）　　　　　夫　勘三郎&lt;br /&gt;
: 　同　○松村氏ニ改&lt;br /&gt;
: おなで　神前を勤当村生　　　　　　夫　又三郎&amp;lt;small&amp;gt;同所入聟&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: おつま　　　　　　　　　　　　　　夫　与八郎&amp;lt;small&amp;gt;同断&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: 右ノ一おつや　神前ヲ勤云々　　　　夫　清八郎&amp;lt;small&amp;gt;同断与八郎甥也&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
延喜式内における名神大社の大神々社にあってすら、神子の位置は以上の如く哀れにも気の毒な境遇に甘んじなければならなかったのである〔一〕。されば、朱印地を有さぬほどの小社に属した神子にあっては、近江国栗太郡大宝村大字霊仙寺の神子が、十四五ヶ村の村々へ傭れて往ったとあるように〔二〕、それは恰も現在の村社や、無格社に仕えている神職が、十社も十五社も兼帯せねば衣食に窮するのと同じようであったに相違ない〔三〕。これでは神子が神の目を偸んで不倫を働くのも、又た是非もない成り行きであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは、町村に土着した口寄せ市子の社会的地位、及びその生活はどうであったか。これこそ、神子に比較する時、更に一段と劣等視され、全く賤民として取扱われて来たのである。三馬の「浮世床」や一九の「東海道膝栗毛」に描かれた市子は、共に作者のために興味本位に書き&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;歪&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゆが&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;められ、且つ甚だしく誇張されてはいるが、それでも社会の落伍者として、日陰者として、一般からは通婚まで忌まれ、殆んど乞胸、物吉、願人、鉦打、茶筅、事触、夷舞などの帳外者と少しも択むなき生活を営んでいたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「祠曹雑識」巻七十二に載せた左の記録は、市子が独立の生活を維持することが困難なるために、同気相求むると云うか、同病相憐むと云うか、兎に角に類似した境遇から修験の妻となり、然も恵まれぬ日常を説明するものがあると考えるので、本間に必要ある点だけを抄出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、明和五子年八月、寺社御奉行土井大炊頭殿役人小宮久右衛門殿&lt;br /&gt;
: 　　　神子之儀支配之訳相尋ニ付、今八月十日書上、左之通&lt;br /&gt;
: 　　　当山派修験&amp;lt;u&amp;gt;添合&amp;lt;/u&amp;gt;ニ而巫女勤来候訳、並相改候趣&lt;br /&gt;
: 一、当山派修験之内ニ而、添合之神子古来ヨリ家ニ附連綿仕相勤候者、並&amp;lt;u&amp;gt;注連弟子&amp;lt;/u&amp;gt;等外江嫁娵、当山派修験神子ヨリ注連ヲ請神子勤候者、縦社家之妻或者百姓之妻ニテモ、都而当山派ヨリ前々相改候、並社家ヨリ注連請候神子ニ而茂、当山派之添合ニ御座候得者、一同当山派ヨリ相改申候&lt;br /&gt;
: 右相改候趣者、延宝二年之頃、当山派修験年寄共有之、寺社御奉行所江改之儀申上置、其後元禄拾弐卯年三月、拙寺先々住、未タ鳳閣寺住職不破仰付前ニ而、吉蔵院卜号候節、寺社御奉行井上大和守殿江伺書差上、当山派修験添合神子注連弟子多ク有之、不法之儀モ相聞候ニ付、吟味之上不届仕候者ハ神職停止、当山添合分之者一派切ニ相改、国々ニ而不埒無之様可申付旨申上、相改候用脚トシテ、当山派修験添合神子並注連下之神子共ヨリ、青銅拾匹宛差出可為申哉之段、相伺候処、同四月十一日、松平志摩守殿ヨリ、於御内寄合井上大和守殿、伺之通被仰渡候以来、今以連綿仕、当山派ヨリ相改申候&lt;br /&gt;
: 右之趣ヲ以国々当山派触頭共江申付置、相改サセ申候儀ニ御座候以上〔四〕。&lt;br /&gt;
: 　　八月　　　　　　　　　　　　　　　　　鳳閣寺&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに由れば、（一）当山派の修験の妻で市子を営んだ者が相当に多かったこと、（二）是等の市子は注連下と称する弟子巫女を有していたこと、（三）修験の添合である市子、及びその弟子は、江戸浅草の当山派触頭鳳閣寺の支配を受けたこと、（四）改め料——即ち役銭として青銅十匹づつを鳳閣寺に納めたことが判然する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の結果として[[日本巫女史/第三篇/第一章/第二節|前掲]]の神事舞太夫頭の取締を受ける市子は舞太夫の妻と娘と、外に修験に属せざる特種の市子だけに限られたことが釈然とした。但し当山派以外の本山派の修験の妻にも市子があったか、若しあったとすれば、何者がそれを支配したかは、此の記録では何事も知られぬのである。而して此の乏しき資料から推すも、江戸期における市子の所属や管轄は、かなり複雑したものであることが察しられるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像: 釜払女祝.gif|thumb|釜払いと称する女祝（江戸風俗往来所載）]]&lt;br /&gt;
釜払と称する下級の女子神職が、山伏（修験）と同棲し、日陰者として生活しているところへ、仰向笠（笠の置き方で売笑を営む事を暗示したもので、その由来は[[日本巫女史/第三篇/第三章/第三節|次節]]に述べる）と称する市子が来て大喧嘩をなし、互いに身の上の秘密と非行とを摘発し合うた事件が、宝暦四年に出版された一応亭染子著の「教訓不弁舌」巻一に、「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;イチコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;釜払身の上諍」の条に、極めて露骨に描かれている。勿論、著者の誇張が加わり、事実そのままとは考えられぬけれども、克明に両者の社会的地位と生活の内容と、併せて当時の社会が如何なる態度で、これ等の者を待遇したかが窺われるので、長文の中からこれを証示するものだけを抄録する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: （上略）&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;実&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にや渡世とて、相模三河の辺より女の身にて、お江戸見ながらとの、思い付かは知らねども、すこし亀の甲&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;形&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の笠をかぶり、姿りりしく腰帯しゃんとしめて、木綿装束にて、何の商売ともしれず、ただぶらぶらと表を歩く者あり、此名を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;イチコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と呼べり。また神いさめと名付、宮祠の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;{女偏巫}&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をまね、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大麻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ぬさ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;鶴亀の模様の付たる白染衣を着、鈴扇を持て、人の門々を塩からき声、又はさもいつくしき声にて、時々の祝ひ詞にふしを付て言ふもの、是を釜払といふ（中略）。&lt;br /&gt;
: ある時、一ツの家に巫女を呼入、なにか知らぬが箸を持、茶碗に水を入れて、梓弓とやらむ、豆右衛門が二百石の時、用ひたると見てし弓を前に置、箸に水を付けて&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;索&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なめ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、何やらんたわいなき事をいへば（中略）、今まで功者に口を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;利&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;きい&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;た婆々が（中山曰。市子を呼入た婆さんなり）、俄に涙を流してくり返しくり返し涙をはらひながら、水をむけ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;仕廻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しまい&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;には銭十二銅米などを（中山曰。これが普通一回の口寄せ料であろう）泣きながら出せば、なにが長屋中の婆々嚊、聞き伝へ、寄あつまって、皆々水をいち&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にかけて銭出して泣て帰る（中略）。&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;偖&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さて&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;もそれ程に泣たいものかと、隣に住みし、かの釜払の女房が、亭主の山伏と咄しする所を、&amp;lt;u&amp;gt;いちこ&amp;lt;/u&amp;gt;聞付（中山曰。釜払が商売敵の市子の毒口をいうのを市子が聞き、押かけて大口論となり、その結果、先ず釜払が市子を罵って）、そち達が行ゥがあるといふが何の行ゥがあるぞ、大かただましよい所は、十二銅を取って、だましてあるき、若い衆の居る所で呼べば、笠を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;仰向&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あおむけ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にして這入、百銭程づつも取ってあるくであらう（中山曰。今度は市子が釜払を賎めて）、さう云ふ、そちたちが、世間を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;歩行&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あるい&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;て、若衆が呼んで、鈴はなりますかと問へば、アイといふて、小宿へ這入り、銭をとり馴染をかさねては、櫛笄あるひは鈴扇まで買ふて貰ふたであらう（中山曰。両方の口論が嵩じて、その果ては、先ず市子が釜払の前身を占いて）、我は是、元釜払なれども、鈴なりの土手組なり〔五〕。（中山曰。更に次には、市子自身の前身を神がかりの体にて）、我も元は仰向笠の同類なり云々（中山曰。すっかり己の不倫を自白してしまい、此の騒ぎを見聞した長屋の人々は、怒って市子を追い、釜払も亭主に前身を知られて離別されることになるのである）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の記事を勿論そのままに信用することは危険であるが、当時この種の巫女や釜払が多く市井を徘徊し、こうした醜態を演ずることも決して稀有ではなかったであろう。巫女の末路も又哀れにも涙多きものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 此の「系譜」を見て注意を惹くのは、入聟の多いことである。これに由ると、神子は後世に至るも、古い女系相続の面影を残していたようである。&amp;lt;br /&amp;gt;猶、此の系譜に載せた巫女の職名に「惣ノ一」又は「梅ノ一」などある一は、イチコの意なるべく、更に又別に「右近」とあるのは、古き小町や式部のことが想い出される。而して最近に、福島県石城郡草野村大字北神谷の高木誠一氏を訪うた所、同氏所蔵の「元禄九年子二月朔日禰宜神子書上」と題せる古文書の北神谷村の条に「神子市兵衛後家竹女、市兵衛娘とら女、大蔵後家&amp;lt;u&amp;gt;北ノ宮&amp;lt;/u&amp;gt;、彦左衛門後家&amp;lt;u&amp;gt;三ノ宮&amp;lt;/u&amp;gt;、彦十郎女房まん女」の名が見えている。片田舎のモリコの身で、北ノ宮の、三ノ宮のと、宮号を用いるなどは、怪しからぬことであるが、巫女が神ノ子であるという、古い俗信の一片と見るとき、その価値の多いことが知られるのである。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 「栗太志」。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 先年、栃木県神職会足利支部の講演会に出席した際、来会の神職から、同県には一人で十八社を兼務している神職があると聞いた。こうせねば、生活が出来ぬとは気の毒であると、痛感したものである。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「祠曹雑識」は柳田国男先生の所蔵本に拠る。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 土手組のことは、私にはよく判然せぬが、売笑を内職とした釜払の徒が集っていた所を、斯う謂うたものと考えて大過ないと思っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1341</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第三章/第一節</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1341"/>
		<updated>2010-06-13T05:25:02Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第三章|第三章　巫女の社会的地位と其の生活]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第一節　歌謡の伝統者としての巫女==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先年、慶応義塾大学で開かれた「地人会」の例会で、その年に壱岐の民俗採集に赴かれた、折口信夫氏の採集談を承ったことがある。席上には、柳田国男先生、金田一京助氏、小沢愛圀氏の外に、数十名の学生がいた。私も席末を汚して拝聴した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
折口氏の講演が終ってから、苦茗をすすりながら、氏の講演に関しての、批評やら、質問やらが続けられた、いつも斯うした場合に、話の中心者となるのは柳田先生であって、私などは折口氏の講演が高遠であって了解せぬところの多いのを、柳田先生のお話により会得することが出来ると云う有様であった。その時、折口氏の話に、壱岐のイチジョウと称する市子は、神降ろしの祭文として、ユリ若説経を語るのを常とし、然もそれを語る時は、ユリと称する&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;曲物&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まげもの&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を弓に載せる（此の事の詳細は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|既述]]した）との一節があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は此の話を聴いて、我国の百合若伝説の名はこれから起り〔一〕、然も巫女が説経を語ることが、同じ九州にいる盲僧が、琵琶に合せて地神経を読み、祈祷が済んでから、望まれれば&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;崩&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;くず&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れを語る風を起したものであろうと言うたところ〔二〕、柳田先生は即座に『それは近頃の発見だ』と言われたことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、壱岐のイチジョウが語るユリ若説経には、新古の二種あって、共にその内容はユリセスの影響を受けて、全くの英雄物語となっているというが、その遠い昔の説経が単なる英雄譚でなかったことは想像される。折口氏から借用したノートブックには左の如く記されてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 壱岐には、百合若説経を書いた書物が、尠くとも二本ある。一本は、イチジョウの話では、箱崎渚津の或る家にあると云うたが、諸吉南触（中山曰。地名）の松永熊雄氏の家の八十老翁は、八幡の馬場氏が持っていると言うた。今一本は、後藤正足氏の家にある本である。此方は借覧したが、イチジョウから聞きとった筋とは、幾分違うようである。&lt;br /&gt;
: 此説経は、宇佐・由須原両八幡の本地物である。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;万能&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まんのう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;長者と朝日長者との、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;宝比&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たからくら&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;べの段から始まって、宝多くて子の無い万能長者は、貧窮で子十人も持った朝日長者に、「百の倉より子が宝」と負けてしまう。それから&amp;lt;u&amp;gt;申し子&amp;lt;/u&amp;gt;の段になる。その次が&amp;lt;u&amp;gt;くらまんだん&amp;lt;/u&amp;gt;（原註。鞍馬の段か）、&amp;lt;u&amp;gt;忍びの段&amp;lt;/u&amp;gt;となって、王様のお姫様を盗んだ咎で、百合若は嶋流しになる。その後が&amp;lt;u&amp;gt;鬼攻め&amp;lt;/u&amp;gt;の段で、&amp;lt;u&amp;gt;あくどこお&amp;lt;/u&amp;gt;（原註。悪路王か）と云う鬼の目に、百合若の姿が見えないで、退治られると云う話。最後が末の段である。緑丸その他の件は、此の段に出て来るのである。トドの詰りは、百合若の妻たる王の姫は、豊後の宇佐八幡、百合若は由須原八幡になるのである。外の段は遣る事も遣らぬ事もあるらしいが、「宝比べの段」は大事故、イチジョウのお勤めには、必ず唱える事になっている。説経の間は、例の竹で弓を叩いているのである云々〔三〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の折口氏のノートによって、誰にでも知られるように、市子が唱えた古い説経の筋は、万能長者と朝日長者との交渉を語っていたものである。そして、百合若が嶋流しになる以下は、ユリセスの影響を受けたものであることが明確に認められる。即ち此の説経は、折口氏が言われたように本地物であって、古く巫女が歌謡者であったことを証示しているものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本地物は、室町期の中頃から、巫女によって隆んに謡われ（その起原は、古く平安朝まで遡り得ると思うが）るようになった。そして故荻野由之氏によって蒐集された「お伽草子」に載せてあるものだけでも、信州諏訪明神の本地である物臭太郎、厳島本地などを始めとして、決して少いものではない。伴信友翁が「此の書はすべて漫語を記せるもの」として斥けた「安居院神道集」には、殆んど各神社の本地物を集成したのではないかと思われるまでに、おびただしく採集してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して、此の本地物を謡って、各地を歩いた者が、巫女であることは、勿論である。同じ諏訪本地でありながら、物臭太郎よりは、更に一段と古いものと思われる甲賀三郎伝説が、殆んど全国的に行き亘っているなどは、諏訪を守り神とした巫女の、漂泊の結果に外ならぬのである。単にこれだけの事を論拠として、此の上の推測を逞うするのは慎しむべきことではあるが、私をして真に思う所を言わしむれば、室町期の初葉において、関東で発達した曾我物語なども、古くは箱根権現の本地物を、巫女が謡い歩いたのに端を発していると思う。而してこれが、好事家によって、文字に写される時に、大成されたのではないかと言いたいのである。柳田先生が、その高著「雪国の春」で説かれた、奥州文学の発生に、巫女の偉大なる力が潜んでいたように、歌謡者としての巫女の面影は、微かながらも当代の初期までは残っていたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに三味線が渡来してからは、これの発達が専ら男子の手によってなされ、且つ諸種の謡い物が三絃を伴奏楽とすることを条件としたので、巫女は古き伝統者でありながら、遂に謡い物を棄てなければならぬようになり、漸く呪法一つで世に処すこととなったのである。熊野比丘尼が歌を謡い、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;瞽女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ごぜ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と称する者が生れたのも、共に在りし昔の巫女の一端を偲ばせるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 百合若伝説に就いては、曾て坪内雄蔵氏が「早稲田文学」において、ギリシャのユリセスの伝説が輸入されたものであると考証されてから、此の考証が殆んど定説の如くなっているが、私は遂に首肯することが出来ぬ。百合若の文献に現われた初見は、「言継郷記」であるが、京都の公家である山科言継の日記に書かれる以前に、更に幾十年か幾百年か民間に行われていたと思われるので、日欧交通の始期がズッと引き上げられぬ限りは、ユリセス説は成立せぬと考えている。私は九州の巫女が古くユリ（ユリと称する物を叩きながらやるので此の名ありと思う）の説経を固有しているところへ、後にユリセスの伝説が附会したものだと考えている。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 九州の盲僧が、地神経を琵琶に合せて読むことは、「平家音楽史」、「三国名勝図会」等によると、頗る古いことのように記してあるが、その新古は姑らく別とするも、これを巫女の故智に学んだことは、疑いないようである。そして後世の薩摩琵琶とか、筑前琵琶とかいうものが、此の盲僧の琵琶から発達したことも疑いないようである。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 折口氏が秘蔵のノートブックをお貸しくださったことを厚くお礼申上げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1340</id>
		<title>トーク:日本巫女史/第三篇/第二章/第二節</title>
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		<updated>2010-06-05T16:04:51Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.674&lt;br /&gt;
** 「阿{門構{八下夕}}」を「阿閦」に改めた。&lt;br /&gt;
* 底本 p.676&lt;br /&gt;
** 「唱え言」直前に句点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.680&lt;br /&gt;
** 「第二は」直後に読点を補った。&lt;br /&gt;
** 「第四は」直後に読点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.685&lt;br /&gt;
**「声を掛ける」直前に句点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.687&lt;br /&gt;
** 「定めし苦労になろけれど」直後に読点を補った。&lt;br /&gt;
** 「余り座中も多ければ」直後に読点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.688&lt;br /&gt;
** 「何うも自分の気に入らず」直後に読点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.695&lt;br /&gt;
** 「中山。曰」→「中山曰。」&lt;br /&gt;
* 底本 p.697&lt;br /&gt;
**「二三人つゞ」→「二三人づゝ」&lt;br /&gt;
* 底本 p.701&lt;br /&gt;
** 「阿{門構{八下夕}}」を「阿閦」に改めた。&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.678&lt;br /&gt;
** 「仏を降す祈り言」中「かざはなざらば」が不明。「かざ&#039;&#039;&#039;わ&#039;&#039;&#039;なざらば」の可能性あり？&lt;br /&gt;
* 底本 p.682&lt;br /&gt;
**「纏めうと」は「纏めようと」か？&lt;br /&gt;
* 底本 p.684&lt;br /&gt;
** 「世話になったり放し」は七五調になっていない。「世話になったらなり放し」ではないのか？&lt;br /&gt;
* 底本 p.705&lt;br /&gt;
**註一一の「牛耳を採って」は「牛耳を執って」の間違いではないのか？意味はそれほどずれていないが--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2010年6月6日 (日) 00:52 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;br /&gt;
* 「翼ぞろい」は、何処で生れたか〜&amp;lt;u&amp;gt;印度&amp;lt;/u&amp;gt;か支那が母国ではないか: タミル語の歌集「サンガム」を調べることで、こうした説話・歌謡の元ネタが見つかるかも知れない。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年11月3日 (月) 05:56 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.693&lt;br /&gt;
** ポーランドのチャブリツカ女史: M. A. Czaplicka (1886-1921) [[wikipedia-en:Maria_Czaplicka]]&lt;br /&gt;
** アボリジナル・オブ・サイベリヤ: Aboriginal Siberia: Study in Social Anthropology [[isbn:0198231385]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
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		<updated>2010-06-05T15:52:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: /* 未修正箇所 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.674&lt;br /&gt;
** 「阿{門構{八下夕}}」を「阿閦」に改めた。&lt;br /&gt;
* 底本 p.676&lt;br /&gt;
** 「唱え言」直前に句点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.680&lt;br /&gt;
** 「第二は」直後に読点を補った。&lt;br /&gt;
** 「第四は」直後に読点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.685&lt;br /&gt;
**「声を掛ける」直前に句点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.687&lt;br /&gt;
** 「定めし苦労になろけれど」直後に読点を補った。&lt;br /&gt;
** 「余り座中も多ければ」直後に読点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.688&lt;br /&gt;
** 「何うも自分の気に入らず」直後に読点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.695&lt;br /&gt;
** 「中山。曰」→「中山曰。」&lt;br /&gt;
* 底本 p.697&lt;br /&gt;
**「二三人つゞ」→「二三人づゝ」&lt;br /&gt;
* 底本 p.701&lt;br /&gt;
** 「阿{門構{八下夕}}」を「阿閦」に改めた。&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.678&lt;br /&gt;
** 「仏を降す祈り言」中「かざはなざらば」が不明。「かざ&#039;&#039;&#039;わ&#039;&#039;&#039;なざらば」の可能性あり？&lt;br /&gt;
* 底本 p.682&lt;br /&gt;
**「纏めうと」は「纏めようと」か？&lt;br /&gt;
* 底本 p.684&lt;br /&gt;
** 「世話になったり放し」は七五調になっていない。「世話になったらなり放し」ではないのか？&lt;br /&gt;
* 底本 p.684&lt;br /&gt;
**註一一の「牛耳を採って」は「牛耳を執って」の間違いではないのか--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2010年6月6日 (日) 00:52 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;br /&gt;
* 「翼ぞろい」は、何処で生れたか〜&amp;lt;u&amp;gt;印度&amp;lt;/u&amp;gt;か支那が母国ではないか: タミル語の歌集「サンガム」を調べることで、こうした説話・歌謡の元ネタが見つかるかも知れない。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年11月3日 (月) 05:56 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.693&lt;br /&gt;
** ポーランドのチャブリツカ女史: M. A. Czaplicka (1886-1921) [[wikipedia-en:Maria_Czaplicka]]&lt;br /&gt;
** アボリジナル・オブ・サイベリヤ: Aboriginal Siberia: Study in Social Anthropology [[isbn:0198231385]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<title>日本巫女史/第三篇/第二章/第二節</title>
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		<updated>2010-06-04T22:16:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第二章|第二章　当代に於ける巫女と其の呪法]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　報告で知り得たる各地の巫女と其の呪法==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
予め問題を設けて之れが報告を求め、若しくは学友を訪ねて談話を承り、それに由って考説を試みることは、大に警戒を要すると共に、学徒としては寧ろ回避しなければならぬことである。私は深く此点に留意しているので、巫女史を起稿するに際しても、資料を厳撰し、出典の確実でないものは採用せぬよう心懸けることを忘れなかった。然るに、江戸期から明治期へかけては、巫女の社会的地位が余りに低下しているのと、その職程が余りに退化している為めに、文字に親しむ者は、之を伝うることを疎んじ、実際を知った者も、これを語ることを厭うと云う有様で、文献だけでは、如何にするも、その呪法なり、生活なりの委曲を知ることが出来ぬので、そこで回避すべき事とは知りながらも、未見曾識の学友に対して設問し、敢て報告を仰いだ次第なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して、その結果は、各位の芳志により、私の予期した以上の功果を収めることが出来たのは、非常なる仕合せであると考えているが、学術上の資料としては、その方法において、欠くところがあると信ずるので、ここに此の事を明記して、取捨は読者の高批に任せるとする。ただ、呉々も言って置きたいことは、私は報告を採用するに当り、全く私心を放れ、これを要約する場合にも、決して毫末の作為も加えぬという点である。勿論、当然のことではあるが、学徒としての私の面目をかけて、此の事を明記する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一、奥州のイタコと神附の作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中道等氏の談話を左に掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: イタコは悉く盲女である。盲女が此の事を専ら営むようになったに就いて、聴くも哀れな伝説が残っている。奥州では気候が寒冷のため、年穀の稔りが充分でないところから、大昔は盲人が出来ると、官憲がそれを一つ処に集め、五年に一遍、十年に一度という工合に、悉く殺害したものであった。それは恰も、琉球の与那国島で、食糧の自給自足を計るために、一定の人口以上は殺害し、今に「人はかり田」の哀話を残しているのと、同じような惨事が行われていた。然るに、或る年に盲人を殺すこととなったとき、領主が盲人にても何かの役に立つ者もあろうとして、一名の盲女を召し、庭前に何があるか言うて見よと命ずると、その盲女はイタコとしての修養があったものか、松の木の下に燈籠があると言い当てたので、爾来、盲女はイタコとして、生命を助くべしと定まり、これからイタコが公許されるようになったと云われている。&lt;br /&gt;
: 奥州のイタコが&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;何時&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;いつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ごろから在ったものか、それを正確に証示する記録はないが、江戸期に書かれた「遠野古事記」や「平山日記」などに見える所から推すと、相当に古い年代からと思われる。当時、音楽は普及されず、導引は工夫されず、盲女としては、積極的に生くる道が他に無かったのと、消極的には、神憑りするには、却って眼の見えぬ方が雑念を去る便利があったので、相率いて此の道に入った様である。そしてイタコは各々師匠をとって弟子入りをし、三年なり五年なりの年季が終り、愈々独立のイタコになるとき「神附」の式が挙げられる。この神附とは、そのイタコ一代の守り神となって、即ち呪力の源となるのであるから、イタコとして最も大切な事なのである。その式は、神附するイタコ米俵に馬乗りのように跨り、両足の先に神に供えるのと同じ種々の御馳走を盛った膳（膳には壱厘銭三十三個を置く）を踏まえ〔一〕、師匠始め大勢のイタコがそれを囲って呪文を唱え、終ると「何神が附いた」と囃し立てる。すると大抵は十三仏中の普賢が附いたとか、不動が附いたとか云って、それが一代の守り神と定る。そうすると、今度はその守り神と結婚する式を行うのであるが、最近では単に歯を染めるだけで済している。併し之は深い考察を要すべき点であって、古く我国の巫女が神と結婚した遺風を残しているものと信じられる。十三仏中では、弥陀と阿閦だけは余り附かぬようだが、他の仏はいづれも能くイタコに附く。之も又遠い昔にあっては、仏でなくして我が固有の神——若しくは先祖の霊が神として附いた事を考えなければならぬ。それは此の行事を「神附」と云っている点からも知る事が出来る。&lt;br /&gt;
: 私の知っている八戸町の石橋さだ子（中山曰。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|小寺氏の記事]]にあるオシラ神を遊ばせたイタコと同人である）は同地方きっての高名なイタコであるが、十六の時に完全に神が附いたほどの天分を有していた。同地方では此の神附に際し、七日の行を厳しく修めてから、三十三夜は生魚を食せず、熱心に先輩のイタコ共が集って祈るのであるが、中々憑り給わぬが普通であるのに、流石に聡明な少女であったと見え、僅に一日一夜にして託宣を得てしまった。守本尊は普賢菩薩である。此のさだ子の師匠のイタコも偉い女であって、その又先の師匠は八戸の領主の御殿へ上り、正月のオシラ遊びを始め、盆中の口寄から万般のことを占ったので、その名が遠近に聞え重きをなし、今のイタコに伝わる総ての秘法は、多く此の先々代が持っていたものだという。此のイタコの若い頃に、自分の前へ八分目ほど砂を入れた赤塗の鉢を置き、口寄せを始め、頼んだ先祖の仏を祈り下すと、いつの間にやら無数の小穴がポツポツと砂の上に現われた。これは仏の足跡だとあって、イタコよりも眼明きの方が吃驚したという話も残っている云々〔二〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二、磐城に残る笹ハタキの呪文&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像: 笹ハタキ.gif|thumb|磐城の笹ハタキ（佐坂通孝氏の写生）]]&lt;br /&gt;
[[画像: 免許.gif|thumb|left|巫女が示した免許状（半紙半分の原紙）&amp;lt;p&amp;gt;此巫女は鳴弦式の免許状なれど神座も仏座も両方をやる&amp;lt;/p&amp;gt;&amp;lt;p&amp;gt;惟神教会とあれど何処に在るが全く知らず従って教会の主神も判然せず&amp;lt;/p&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
磐城国石城郡上遠野村の佐坂通孝氏より受けた報告は、学術的に頗る価値多く、従って種々なる暗示に富んだ貴重なるものであった。左にその報告の全文を原文のまま掲載し、更に多少の私見を加えるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、神子の名称には、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ふじょ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、ワカ、モリッコ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;子守&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;こもり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、アガタ語り、笹ハタキ、其他色々ある由なれども、当地方にてはワカとのみ云う（中山曰。佐坂氏のスケッチにより見ると、呪術の作法は、明かに笹ハタキと思わるるを以て、私は姑らく斯く呼ぶこととした。殊に此の呪法は、私としては僅に一例しか知らぬ珍重すべきものと考えたからである）。&lt;br /&gt;
: 二、ワカの呪術を行う形式に二方法あり。一は、鳴弦式＝仏座、一は神降し式＝神座と云う。&lt;br /&gt;
: 鳴弦式、青竹にて弓を作り、弦は麻を撚りて之に充て、一尺五寸ばかりの竹の鞭にて、弦を打ち鳴らしつつ祈言（中山曰。呪文なり）をなしつつ、自己暗示によりて催眠す。催眠状態に入れるを普通、乗った（神仏が）と云う。神仏は弦に乗って来て、巫女に乗り移ると云っている。&lt;br /&gt;
: 降神式、珠数（中山曰。佐坂氏のスケッチを挿絵としたが、これを見ると、他の巫女が用いるのと同じ切り珠数のようである）を押し揉んで、祈言による自己暗示にて催眠に入る。&lt;br /&gt;
: 三、服装は、普通の着物の上に、赤色の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;法衣様&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ころもよう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の外被を為す。&lt;br /&gt;
: 四、机を前に置き、水を上げ、乗り移って来た時、竹ノ笹束を顔にあてて語り出す（中山曰。挿絵参照、これ即ち笹ハタキの作法である）。乗り移って来て笹を握るとやたらに震い出す（但し語る時は震えない）。&lt;br /&gt;
: 五、最初、乗り移るまでには、相当の時間を要す。祈言、唱え言、般若心経、神降し、仏降し等を、混合して繰返し繰返し約四十分ばかりにて乗り移って来て、笹を手に取り震い出して語り始めたり。私の語らせたものは四十五六の女なり。&lt;br /&gt;
: 第一回が済んで第二回、第二回を終るときには五分か十分。仏一人分を語り終ると眼が覚めるなり。そして第二回をする時には同様の祈言をなす。&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、左の祈言は、巫女に言わせて漢字を其音にあてはめたものなれば、漢字は全く当にならず。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、無学文盲の者なれば、語る処誤謬多くして、少しも意味をなさぬ所多し。少しも訂正を加えず、全く其ままなり。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、巫女の言う通りを書きつけたれば、清音も濁音に、濁音も清音になりて、意味の反対に思わるる箇所もあり。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、語句も文法も少しも当にならず、何が何やら全くチンプンカンプンなり。只大意を捉うるより外なし。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、此は神下しをする前に、静に言わせて書きたるものなり。数回反復させても同じことなれば、文句には間違なし。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　六根清浄の祓&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;無上信心&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;むじょうしんじん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;無明法益&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;むみょうほうやく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;千万劫&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;せんまんごう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;南窓劫&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なんそうごう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;禍根元&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かこんげん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、かんげに如来、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;真実儀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しんじつぎ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天孫降臨&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;てんそんこうりん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;供奉&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ぐぶ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;三十二神、天清浄、地清浄、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;内外&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ないぎ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;清浄、六根清浄、天清浄とは、天の二十八宿を清め、地清浄とは、地の三十六神を清め、清めて&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;汚&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;きたな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;きもたまりなければ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;濁&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;にご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;穢&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;けが&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れあらじとの玉垣、清く清しと申す。六根清浄の祓い、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天照皇大神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あまてらすすめおおかみ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;曰&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;のたまわ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;く、人は（心はとも云えり）即ち神と神とのあるじ、我がたましいたまし、もろことなかれ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;故&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かるがゆえ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に、目に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;諸々&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;もろもろ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず（思わずとも云えり）、口に諸々の不浄を言わず、鼻に諸々の不浄をかいで、身に諸々の不浄を触れで、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;中間&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なかま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に諸々の不浄を思わず、此の時に清く&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;潔&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;いさぎよ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ければ、神にも穢れる事なし、事を取らばハンベかりし（又はんべかりき）皆花よりなる、此の身となる、我身は即ち六根清浄なり〔三〕。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　神を降す時の祈り言&lt;br /&gt;
: 　　　　　　（荒神様や其他の神を降すに用うと云う）&lt;br /&gt;
: 南無や&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;般若&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はんにゃ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の十六善神、三昧剣はそびらにのせる、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;弓手&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゆんで&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;馬手&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;めて&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の矢壺をそれいる、般若の弓は引きたおめる、引いてはなせば悪魔を払う、観音の正座の、病者も&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;速&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;すみや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;か平癒を、タラトカンマン（中山曰。こは不動真言の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;怛羅吒晗𤚥&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たらたかんまん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の転訛と信ず）。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　仏を降す祈り言&lt;br /&gt;
: 奥の院には、駒もありそろ、駒もあれど花も咲きそろ、花ももりそろう、一丈五尺の駒だの、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;其上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そのうえ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、りんりんとうこう、かざはなざらば、音はりんりん、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;調&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ちょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;からからと、三世の諸仏も天降る、白き御幣は三十三本、赤き御幣は三十三本、青き御幣は三十と三本、合せて九十九本の御幣ははぎ奉れば、病者も&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;速&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;すみや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;か平癒をタラトカンマン、南無や観音大菩薩〔四〕。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　生霊を出す祈り言&lt;br /&gt;
: 一より二けんの三&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;勝&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;しはらい、五たんの巻物、六七ソワカ、八万（中山曰。難？）即滅、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;九&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;く&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;もつをととのい、十分&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;祀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れば、それにたたりは恐れをなし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;候&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そろ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、病者も平癒をタラトカンマン〔五〕。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;翼&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つばさ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ぞろい&lt;br /&gt;
: 雀と申す鳥は、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;聡聴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そうちょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;な鳥で、親の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;最後&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さいご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と申す時に、つけた&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鉄漿&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;もうちこぼし、柿のかたびら肩にかけ、参りたれば親の最後に逢うたとて、日本の六十余州のつくりの初穂、神にも参らぬ其の先に、餌食と与えられ。&lt;br /&gt;
: 燕と申す鳥は、聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;紅&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;べに&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;つけ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鉄漿&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;つけ、引きかンざりて、参りたれば、親の最後に逢わぬとて、日本の六十余州の土を、日に三度の餌食と与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。&lt;br /&gt;
: けらつつき申す鳥は、聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、天竺さ、はやのンぼりて、親の最後に逢わぬとて、一ツの虫は日に三度の餌食と与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。&lt;br /&gt;
: 水ほし鳥と申す鳥は聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、天竺さはやのンぼりて、親の最後に遇わぬとて、水ほしや、水欲しやと、よばわる声も恐ろしや、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。&lt;br /&gt;
: 鶏と申す鳥は聡聴な鳥など、親の最後と申す時に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;干&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ほ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;したる物をかきこぼし、干したるものを打ちこぼし、日に三度の餌食には、かき集めたるものを与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど（大正十五年八月十七日採集）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の報告は、その一つ一つが巫女史の資料として価値の多いものであるが、就中、関心すべきものは最後の「翼ぞろい」と題する一章である。此の呪文の内容は、現今においては童話となり、然も全国的に語られているものであるが、その古い相が巫女の呪文であったことは、全く佐坂氏の報告に接するまでは、想いも及ばなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して此の一事から当然考えられることは、第一は、此の「翼ぞろい」なる呪文は、私の知っている限りでは、最も古いものであって、前に載せた「千だん栗毛」などよりも更に一段と古いものであると思われる点である。第二は、これを証拠として、まだ他に沢山の呪文から出た童話がありはせぬかという想像である。第三は、斯うした童話の種を国々へ撒き歩いたのは巫女であって、大昔の巫女は小さき文化の運搬者であったことが判然した点である。第四は、更にこれから類推されることは、巫女の用いた呪文と歌謡との関係である〔六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の事象に就いては屢記を経たが、最近に金田一京助氏を訪ねた折にも此の事を語り合い、巫女が口寄せの折に、神降しの文句から他の言葉に移るときの&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;境目&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さかいめ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は『声はすれども姿は見えぬ』という一句であるが、これへ下の句の『君は野に鳴くきりぎりす』と附けて、一首の歌謡としたのは、古い作者が呪文から思いついたものだろうと話したことがある。即ち巫女の呪文は、一方には童話となって国々に行われ、一方には歌謡となって広まったことが、此の「翼ぞろい」から考えられるのである。第五は、此の「翼ぞろい」は、何処で生れたかという点である。南方熊楠氏ならぬ私には、これと類似または同根の説話が、どんな工合に分布されているか知ることは出来ぬが、恐らくは日本のみに限ったものではなく、印度か支那が母国ではないかと思うのである。そして此の文句が呪文となって、巫女の手に渡るようになったのは、都会から地方へ及ぼしたものであろうと考えている。勿論、それ等を具体的に説明することは、私の学問では企て及ばぬ所であるが、兎に角に斯うした手掛りだけでも与えて下さった佐坂氏の御配慮に対し、深く感謝の意を表する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三、信州禰津の市子の口寄せ文句&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信濃国小県郡根津村は、我国随一の巫女村であった（此の事は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第三節|後]]に詳しく述べる）。その根津の最後の巫女であった&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;初音&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はつね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ノノウというが、長野市において口寄せをした事実が、明治四十一年一月十四日から同十九日まで六回に亘り、同市発行の「長野新聞」に連載されたということを、上田中学に教鞭を執って居られる角田千里氏から通知を受けたので、私は直ちに此の記事の謄写を同社に依頼したところ、劇務に従われている同新聞記者伊勢豊氏が、私の閑事に深く厚意を有たれ『学問上の資料となるのであるから、一字一句も誤らぬよう写した』とて、左の如き記事を恵与してくれた。此の口寄せの文句は、私にとっては実に唯一のものであると同時に、こうして、死口、生口、荒神占（神口ともいう）三種を克明に記したものは、他に多く存していようとも思われぬので、少しく長文の嫌いはあるが、その全文を転載し、終りに二三の私見を添えることとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;俗に口寄せと云うものは、死口、生口、荒神の、三ツに分ってあって、死口は死人を呼出し、生口は現在の人を呼出して其思惑を聞き、荒神は一年の吉凶を占うものである。今は禁止されてあるが、偶々或る機会から其三口を聞くを得たから掲ぐる事とする。&lt;br /&gt;
: 或芸者が死んだ母親を呼出した死口から始めよう。&lt;br /&gt;
: 巫女の前には盆があって、盆の上に茶碗、茶碗の中には水が盛ってある。芸者は巫女の前に進み、枯れた木の葉を茶碗の水に入れ、右へ三度廻して亡母の行年を告げる。巫女は行くところとして必ず携帯する丈五寸横八寸程の黒い風呂敷を掛けた箱を前に、そこに右の手を頬杖に突き、左の手は肱から手を箱の上に横たえ、瞑目する事二分時、眼を閉じたまま静かに、和讃ともつかず、&amp;lt;u&amp;gt;くどき&amp;lt;/u&amp;gt;ともつかぬ可笑な節をつけて語り出した。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第一、死口　（亡母、行年五十四歳。本人某妓）&lt;br /&gt;
: 『千々に思は増す鏡、家を便り座を力、一度は聞いて見ばやとて、能うこそ呼んで呉れたぞえ、来るとは云うも夢の間に、夢ではうつつ&amp;lt;u&amp;gt;あずさ&amp;lt;/u&amp;gt;では、声聞くばかりで残り多い、姿&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;隠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;して残念だ、身も世が世でありたなら、何か便りにもなろうけれど、力になるもなれないし、便りになるもならずして、最後をしたが残り多い、往生したが残念だ、身さえ丈夫で居さえすりゃ、誰に負けなく劣らなく、両手を振って暮らすけれど、惜しい所でお&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;終&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いし、心残りに思うぞよ、定めし其方もくよくよと、俺に死なれて此方へは、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;嘸&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さぞ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;張合いが悪かろう、嘸力が落ちたろう、身は片腕をもがれたように思うだろう、惜しい所で終いして、後の所も乱脈だ、誠に後の張合も、俺があったる其時とは、はらからながらの所でも、何処か拍子の欠けたよう、何処か振合も違うよう、心残りだ後々の二人は二所、三人は謂わば三所と云うように、身も散々の振り合で、心残りに思うぞや、身も残念に思うけど、ツイ因縁が悪ければ、真実後さえも其儘に、何が何やら少しでも、物の極りと云うもなく、何うか後をばアアカリて、あれも纏めうと死ぬまでも、丹精に丹精苦労して、纏めもしたる身なれども、どれが纏めた&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;廉目&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かどめ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;やら、どれが&amp;lt;u&amp;gt;かなでた&amp;lt;/u&amp;gt;廉目やら、纏めきらぬで最後をし、かなで切らぬで往生した、後へ歎きを掛け放し、運勢の悪い俺だから、死んだ此身は何うならむ、何うも残した後々に、マダ苦になる事もあり、案ずることもマダあるぞ、どうか苦になる後々を、どうぞ纏めて、成るたけ世間の人様に、お世話にならぬようにして、ならぬ中にも精出して、出来ぬ中にも丹精して、何うか互に睦まじく、何うか依るべき血の中を、大事に掛けて暮されよ、何と云うても云われても、血は血でなければならぬから、身は身でなければならぬから、何か依るべき血の中や、遺した中だからとても、義理に切られぬ中だぞよ、何うぞ互に往復も、仏がなけりゃアアじゃないか、今の様はと陰からも、世間の口端に上らないで、何卒たっしゃで暮して呉れるように、思えば思う其度に、心残りに思うけど、これも前世の約束や…………。』&lt;br /&gt;
: 巫女の声は憐れにしめって来た。アノ世から悲しげに囁く声とも思わるる、陰にこもった声である。始めからハンカチで眼を抑えていた芸者は、ここに至って堪えがたくなったのであろう。慈愛ある母の面影さえ忍ばれたのであろう、身を慄わしてヨヨと啼きくずれたのである。&lt;br /&gt;
: 芸妓は人目も恥もかまわずに、其場へヨヨと泣きくずれたまま顔を上げ得ない。居合わせた者も憐れを誘われ&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鼻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をつまらせて眼をうるませる。一座はシンとして咳の音さえもない。&lt;br /&gt;
: 「去るものは日々に疎し」悲しい死別れに、身も世もあらぬ胸の悲しみも日を経て漸く薄らぎ行きしを、今日の口よせに依って、亡母が悲しい事の数々や、心残りを語られては、今更当時の有様を再びする心地して、正体もなく泣き沈んだのは無理もない。巫女は妙に人を引付ける抑揚のある哀調を以て尚も続ける。&lt;br /&gt;
: 『言い置く事もありたれど、身の死際の敢なさに、ツイ云う事も云わないで、語る事も語らなく、此方の事も間に合わず、目を閉ず時だからとても、末期の水も貰い外し、身の因縁が悪ければ、仕方もないが後々が、マダ血の中もあるだから、先祖の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;蔓&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つる&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の切れぬように、後の纏めをして呉れろ、西を向いても他人様、東を向いても他人様、他人の中の身の住居、長い月日の間には、善い事ばかりはなにあらん、詰らぬ事もあるだろうが、必らず悪い了簡や、そでない胸を出さないで、どうぞ彼の世の仏にも、又は身内の人々の、顔をよごさぬようにして、身の安心の出来るよに、喜ばしやれと云うように、暮して呉れろ頼むぞよ、只残念はあの時に、云い度い事の一言や、遺す言葉がありたるに、ツイ言わないで終いをし、後の所も其儘で、別れて来たるそれのみが、誠に誠に残念だ、他人様にも身内にも、皆心配を掛けた儘、ツイ一礼も告げないで、世話になったり放し、苦労掛けたら掛け棄て、終いをしたが残り多い、之も運勢が悪いので、仕方がないと諦めて、居たら居たらと思わずに、身の納まりを大切に、仏に安心させてくれ、今日の一座はようくれた、久しぶりでの物語り、語りて云おうとした心、話して胸が晴れたぞや、言えば語れば限りもなし、一日言うたからとても、話し切れない事もあり、語り切れない事あれど、何と口説いたからとても、旧の姿にゃならぬから、之で忘れて諦めて、名残惜しくも暇乞い、遙か来世へ立帰る…………』&lt;br /&gt;
: 終りを消えて行く——死んだ人が仮りに此世へ現われて、又冥途に帰って行く、それに丁度相応わしい——様に語り終った巫女は、静かに瞑目して居った眼を開いた。泣沈んだ芸妓は、漸く涙を歇め顔をあげて、其泣きはらして赤くなった瞼に、淋しい笑を浮べて一座を見渡す。雨後の名月、一段の美添えて却って痛々しい。&lt;br /&gt;
: 巫女は依頼者の悲しさも喜ばしさも関する所でない。自己の職務を為す上に於て、人の哀楽は対岸の火事である。語り了った彼女は、徐に頬杖を突いた手を解き身を起し、平然として次を待って居る。&lt;br /&gt;
: 代って他の芸妓が出る。前の死口の陰気なのに引替えて、是は亦生口の、情人？を呼出して、其意中を聴くと云う&amp;lt;u&amp;gt;イキ&amp;lt;/u&amp;gt;な派手やかなもの、一座の手前を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憚&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はばか&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;って、やろうか遣るまいかと躊躇の体、幾度か笑を浮べて一座を見廻し人の気を読んだ上、思い切って巫女の前に進む。&lt;br /&gt;
: 巫女は前同様箱に肱をして頬杖を突き、静かに眼を閉じる。芸妓は巫女の前に進んで、茶碗の水を紙の小捻に三度息を吐きかけ、右へ三遍廻し、口の中で極めて小声に男の年を告げた。誰れかが「イヨー」と声を掛ける。芸者はサッと耳元を赤くして一膝身をすさった。男の年を聞くを得なかったのは残念であった。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第二、生口　（女より男の意中を聞く）&lt;br /&gt;
: 『心の程も知れないと、案じて一座呉れたのか、苦労になるも無理はない、女心の一筋に、思い過ぎしが身に余り、どう云う積もりであろうかと、今日の一座も思うだろうが、身を疑ぐりて呉れるなよ、俺が心は了簡も知れない事もない筈だ。又身の上だからとても、自由になるもならないも、予て承知でありながら、身を疑ぐりて呉れるなよ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;当&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あて&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にならない事もなし、力にならぬ事はない、今斯うやりて身の上も、思う自由にもならぬから、其処のところからは推量して、必らず何うか俺が事、届かぬものだよくよくな、そでないものと身の上を、&amp;lt;u&amp;gt;さげすま&amp;lt;/u&amp;gt;ないで居てくれろ、今の住居をしてみれば、目上目下の中に立ち、身分も好きに往かないし、身体も自由にならぬから、其処の所は推量せよ、又往く始終や後々は、ならぬ中にも精出して、何うか力も添えようと、心に掛けて居るだから、アァは云うたが嘘らしい、斯うは云えども何うだろう、末の力になるまいか、後の便りになるまいかと、身を疑らず居て呉れよ、俺は人のように兎や斯うと、言葉の艶も嫌いだし、上手云うのも嫌いだが、腹に悪気のないだから、又往く始終や、後々はどうか此身も側にいる、人に云われた意地もあり、側で堰かれた意地もあり、又分別もする積り、身の了簡もあるだから、悪く思うて呉れるなよ、能うこそ今日の一座を、何う云う積りで居るやらと、思い過して呉れたろうか、知れない事もあるだろうが、今お互いに寄合って、是ぎり会わぬ訳じゃない、身も対面の其上は、身の善悪も知れること、何うかと疑う事はない、心に別な事もなし、身分に変る事もなし、是で聞分してくれろ、此上長座はならぬから、右で&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;体&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;からだ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は立帰る……』&lt;br /&gt;
: 右にて終る。一座の者は「お奢りお奢り」と芸者に迫る。芸者は嬉し気にニッコリ、座は急に陽気になる。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 代って一人、厳めしい洋服の紳士が出る。先生、先にやりたさは遣りたし、一寸変な工合だしと躊躇して居たのが、既に芸者と云う瀬踏みがあったから、猶予なくそれへ進む。紙を細く切ってそれに息を吐きかけ、撚って例の如く茶碗の水を右へ三遍、「先方は女二十六」キッパリ言った。「最早年寄ですネ」等冷かす者ある。紳士は、この場合聊か極りが悪い。笑を浮べた眼に一座を顧み、「出ように依っては奢るよ」と、お茶をにごして身を退ける。&lt;br /&gt;
: 老巫女は一座の動揺めくに関せず瞑目して、同一の口調を以って語り出す。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第三、生口　（男三十三歳、女二十六歳、男より女の意中を聞く）&lt;br /&gt;
: 『確と様子が知れぬから、何う云う心で居るだやら、どの了簡のものだかと、案じて寄せて呉れただろが、案じられるも無理はない、苦労になるも無理はない、身は一所にいてさえも、知れない事があるだもの、殊に斯うしてお互に、間離れて暮して居りや、どう云う様子で居るだかと、嘸ぞ心配に思うだろ、定めし苦労になろけれど、どの了簡で居られるか、何う云う運びであろうかと、案じて居ない事はない、苦労に思わぬ事はない、後の所や末始終、力になりて呉れるやら、便りになるかならないか、明くる其日も暮れる夜も、胸に思わぬ事はない、心に出ない事はない、安心させて呉れるのが、始終力になるのやら、但しは頼りにならないが、一つはお前の了簡だ、心一つのものだから、身の了簡を取極め、心定めて往後は、何うか末々お互に、力になりて頼むぞえ、便りになりて暮そうぞえ、何う云う運びに致すのも、一つはお前の胸次第、心一つのものだから、よく了簡を取極わめ、心定めてどちらになりと、力になるかならないか、何う云う運びに致すのか、どちらになりと一道の、身の挨拶をしてくれな……』。&lt;br /&gt;
: 座中の眼は紳士の一身に集まる。紳士は天井を仰ぎ、胸の時計の鎖を弄びながら得意満面？&lt;br /&gt;
: 『心懸りに思うから、何卒了簡を定めて、暮らして呉れるようにしな、身の対面の其上で、互の胸も話すべし、此上幾ら云うたとて、此処で埒がつくでなし、道理のつかぬ事だから、別けても亦物事は、余り座中も多ければ、話の出来ぬ訳もあり、身の対面をした上に、委細様子を話すから、その対面を待ちるぞえ、くどく云うまい語るまい……』。&lt;br /&gt;
: 巫女は約八分時にして語り終る。座に教員あり、官吏あり、商人あり、芸妓あり、皆一斉に紳士に向って、種々の矢を放つ。四面楚歌の裡にある紳士は、天井を仰ぎ、一層胸を突出し、右手に鎖をチャラチャラ鳴らし、大口開いて呵々と笑う。&lt;br /&gt;
: 巫女はけげん相に順序よく一々端から皆の顔を見る。&lt;br /&gt;
: 「今度は君がやって見給え」先の紳士が一人の青年を顧る。「僕ですか——まァ止しましょう」と笑う。「やり給え、面白いぞ」「でも僕には呼び出す身内も故人も知らないし、又貴方の様に意中を聞くべき者、ハハハハ女ですね、そう云う者はありませんから」「何うだか疑問だが……じゃ一年の吉凶を見る荒神と云うのをやったらいいだろう」「そうですね、敢て御幣をかつぐ訳でもありませんが、今年丁度厄年に当りますから、一ツそれをやって見ましょう」。青年は巫女の前に進み、茶碗の水に青木の葉を入れ、型の如く右へ三遍廻す。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第四、荒神　（男子二十五歳）&lt;br /&gt;
: 『天が庭には風騒ぐ、天清浄と座を祓い、地清浄と座を清め、身体を祓い身を清め、一代守る御神の吉凶大事を告げるから、心静かに聴き給え、生れに取れば随分に、心も大に平らかに、生れて来たる身であるが、身の運勢の振合いから、十と一とも云う時に、後ろ楯にもなる中に、力貰いが薄いのか、身の定まる縁談や、人の身定めて人の身の、心配をして出たが、五七年とは申すれど、中取分けて二三年、何うも好まぬ所あって、自分の常に思うよう、丁度に行くや行かないのは、身の心配もあるだろう、目上の人の言う事が、何うも自分の気に入らず、我身で思う其事が、目上の人の気に入らず、兎角心が前後して、合う辻つまが合いかねて、別けても去年一昨年の身の心配もして居たし、既に斯うかと云うような、気を揉む凶事もありたれど、マダ運勢が強かりし、目上の人の精分や、其方の自力が強いさに、後へ後へと去りながら、凌いで来たが逃れたが、見つ当年の春からも、大事の坂がありたるぞ、今年やお前の厄年だ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大刀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かたな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;なら目貫、扇なら要と云う所だから、モウ了簡を穏かに、心静かに企てろ、大事な所だ今其方も、一つ思案を違えると、目上の人の気も損ね、側の用いも薄くなり、第一運も乱れるし、今大切の身の上だ、随分其方の胸次第、了簡次第末始終の、身の安心や運勢もないのでないが、マダ何うも、身の了簡に定まらぬ、落つきかねる処あり、今身の上も色々に、どの了簡がよかろうか、どの手にしたが増しだかと、身の心配も多くあり、心も迷い気も狂い、何にかに苦労があるけれど、先ず物事も急がずに、心静かに企てろ、身の心づけ二三月、身の心配を求むるか、大事な月に当るぞよ、首尾よくそれを凌げれば、四月五月に宜けれども、六七月の表から、僅な事のいきさつで、身の心配を求むるか、云い聞けられて気を揉むか、之も宜くない大切な、月に当るが気を付けて、それを無難で逃れたら、先ず其方も八月九月に穏かで、十月よいが十一月へ掛けては、其方の大切な月に当るぞ気を付けろ……』。&lt;br /&gt;
: 紳士は青年の肩を叩く。「どうだ。君、気を付けたまえ」「イヤ一ツ的中しそうに思われる処があります」と言葉を切り、一寸首をかしげて「成程、そうかな」と独言する。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 「まてまて僕が一ツやる」座の一隅から、大声を上げて巫女の前に出たのは一人の書生、黒木綿の五ツ紋に、ヒダもくずれた袴を着けた、満身元気に満ち満ちた面魂。巫女の前に座ると「僕の先生に対する感想を聞きたい、頼むぞ」と例の茶碗の水を紙捻で廻す。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第五、生口　（男より男の意中を聞く）&lt;br /&gt;
: 『言って聞かせる此身より、其方の胸が分らない、その了簡が知れかねる、何ういう胸で居るだやら、何ういう積りのものだやら、其方の胸が知れかねる、今斯うやって見て居れば、定めし陰じゃ色々に、アァは言いそもない筈だ、斯うはしそうもないものだ、義理も人情もなきものと、必ず思うて身の上を、さげすまないで居て呉れナ、悪く思うて呉れるなよ、義理ある中を義理悪くする了簡もないし、又理を非に曲げて意気悪く、否やを云うた訳じゃなし、兎や斯う云おうと思わない、一ツは其方の胸次第、藤にもなれば柳にも、ならない事もないだから、必ず必ず身の上を、思い過ごして色々と、身をさげすんで呉れるなよ。少しの物のいきさつで、拠ろない訳からで、ツイ其方にも悪くなる、届かぬ所もありたれど、今の運びであるけれど、身は斯うやりて居ながらも、どの成行がよかろうか、何う云う手段がましだかと、色々胸じゃ気を揉むし、考え見ない事もなし、心配しない事はない、ヨモヤ斯う云う訳がらで、余計な気込みを致そうも、身の心配をしようとは、微塵が程も思わねど、これも余儀ない訳がらだ、又身の上も、七重の膝も八重に折り、事の法立も致そうけれど、真個余儀ない訳がらで、届かぬ処もあっただし、悪かな所もあったれど、其処の処は不承して、必ず悪く思うなよ、篤と合点の往くように、何うか其方へ知れるように、陰の噂や陰からの、人の陰言云わないで、内事に掛けて居てくれナ、今斯う此処の座で、言い訳らしく愚痴らしく、兎や角う云うたからとても、身の言訳をするばかり、只だ愚痴らしく此処の座で、所埒の付かぬ事だから、一座は之で聞きわけて、推量ありて頼むぞえ、能うこそ今日の一座をも、何う云う積りで居るやらと、身の親切があればこそ、今日の一座も呉れたろが、身の対面の其上で、委細様子も知らそから、今日の一座はこれ迄に、聞きわけあって頼むぞえ、気も取込みて居て見れば、思う長座もならぬから、右の体に立かえる……』。&lt;br /&gt;
: 書生君「馬鹿ッ」と一喝、「僕の先生が、そんな愚痴のような弱い事を云うものか」と肩を怒らして、大いに威張る（完）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の口寄せの文句を通読して、直ちに感ずることは、第一は、その文句が極めて通俗であり、粗野であり、如何にも無学の市子が、口から耳へ聞き覚えそうなものという事である。併し、強いて言えば、全国を旅から旅へかけて渉り歩き、あらゆる人々（殊に女子）を相手にするのであるから、斯うした俚言俗語をつらねたものが、必要とされていたのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二は、文句が始めから終りまで、何等捕捉するところがなく、下世話にいう鰻に荷鞍の譬えのように、のらりくらりとしたものであって、依頼者の考え方一つで、右にも左にも、又良くも悪くも、解釈の出来るように、不得要領のうちに、何となく要領を得ていることである。勿論、これは敢て、此の文句に始まったことではなく、古い「歌占」にせよ、更に寡見には入らぬが、昔の口寄せの文句も、必ずや斯うしたように、解釈は聞く人の心まかせに融通が出来たことと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三は、この文句は禰津の市子に限られたものか、それとも全国とまで往かずとも、関東だけでも共通していたものかどうかの問題であるが、これは他に比較すべき材料を有たぬ私には、何れとも言うことが出来ぬけれども、兎に角に、禰津と同じ流派に属していた市子だけは用いたものと見ても、間違はあるまい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四は、此の文句の中で、同じような事を繰返して『最後をしたが残り多い、往生したが残念だ』とか、又は『明くる其日も暮れる夜も、胸に思わぬ事はない、心に出ない事はない』とか云うのが眼につくが、これは聴く者の胸を打ち、納得させる必要から来た一種の修辞であろう。これも大昔から『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;旛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はた&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;すすき穂に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;出&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;で&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し神』とか『天の事代、地の事代』とか繰返して云ったのと同じ意味で、ただそれが典雅であり、卑俗であるとの差別であって、古くから伝統的に残っていたものと考えられる。語尾に「ぞえ」を添えるのも、又それであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第五は、此の文句の作者と、その時代であるが、作者はいずれの修験の徒か、又は市子の亭主であろうと思うが、どちらにしろ余りに物を知っている者で無いことは疑いなく、時代はその時々に適応するよう改作されたようにも考えられるが、江戸期の中葉であると見れば、さしたる誤りはないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四、外人の見た巫女の作法とオシラ神&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正四年の春に、我国に留学されたニコライ・ネフスキー氏は、巫女の事に興味を有していて、我々日本人が思い及ばぬほどの深い研究を試みていた。殊に、オシラ神と、これを所持しているイタコとの考証には、同氏独特の意見を有っていた。私は、同氏が留学された年の秋から交際を始め、昭和四年九月に、前後十五年の長い星霜を経て、本国ロシヤに帰えらるるまで、厚誼を重ねていたが、此の長い間に、同氏から書状や、口頭で教えられた、巫女の呪術や、作法や、更にオシラ神の由来などに関したものが、尠からず存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものであるとか、陸中国で巫女をオカミンと云うのは、内儀の意では無くして、神様の心であるとも云うが如き、まだ此の外にも多くの高示を受けている。就中、オシラ神の由来にあっては、北方民族よりの輸入説を固く主張していたが、その要旨を言うと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東北地方に現存しているオシラ神は、太古の時代に、北方民族の持っていたものが、輸入（或は民族の移住と共に将来されたか）されたものと信じて誤りがないようである。それは、ポーランドのチャブリツカ女史の書かれたアボリジナル・オブ・サイベリヤに拠ると、蒙古のブリヤート族は、モリニ・ホルボ（モリは馬、ホルボは棒）という神を持っている。そして其の棒の長さは二尺位で、頭は馬、下は蹄になっていて、これに五色の布や、小さい鈴などを付けている。&lt;br /&gt;
: 日本のオシラ神に、馬の頭のある事は言うまでもないが、陸前国気仙郡の鳥羽氏から受けた報告によれば、同地には、頭は馬で、足が蹄のオシラ神が、立派に存在しているとの事である。五色の布はオシラ神のセンタク（着衣の俚称）と同じものである所から見るも、これは決して偶然の一致ではなくして、両者の間に交渉があるものと考えるのが至当である。&lt;br /&gt;
: 更に、もう少し微細な点を述べれば、オシラ神のセンタクの着せ方は、北方民族の古俗とも見るべき、貫頭衣（一枚の布の中央に穴をあけ、そこから首を出すもの）であって、即ち、北地寒国において工夫された、胡服系の形式である。&lt;br /&gt;
: 而して加賀の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しらやま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の主神である菊理姫命と、オシラ神との関係に就いては、深く考慮したことがないので、有無ともに断言することは出来ぬけれども、此の神の出自が、日本の神典ではやや明白を欠いているが、若し日本海方面に多くの例を示している「渡り神」の一つであるということが証明されるようになったら、両者の関意すべきであろう云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とのことであった。ここに聴いたままを記して後考に資するとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;五、三州刈谷地方の市子と其作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河国碧海郡刈谷町の加藤巌氏よりの高示によれば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、市子の名称は、よせみこ、くちよせと云っているが、蔭では悪称して、狐遣い、クダ遣いと云っている。&lt;br /&gt;
: 二、市子は悉く精眼者であって、盲人は無い。&lt;br /&gt;
: 三、市子に口寄せを頼む場合は、死人を呼び出すとき、行衛不明の人の、所在、方角、生死等を尋ぬること（実験者の談によれば、死人を呼び出すと、市子の声が死人の声になり、生前の事も知りよく当るが、生きた人の事は当らぬが多いという）。&lt;br /&gt;
: 四、口寄せの作法は、他と同じく、外法箱を前に置き、手向の水を、死人は枯葉で、生者は生葉で掻き廻し、その雫を外法箱に振りかけさせ、市子は箱に両臂をつき、呪文（これは判然せぬ）を唱え、催眠状態に入るのであるが、その折に、片手を挙げて、自分の顔を数度軽く撫で廻す（中山曰。前の笹ハタキと云い、此の市子と云い、何か顔へ触れることが、催眠に入る条件のように思われるが、判然せぬ）。それから種々と口奔るようになるのである。&lt;br /&gt;
: 五、口寄せに対する世人の信用は、全く有るか無きかの状態である。「死んだ妻の三十五日だから、一度逢って来よう」という程度の気休めに、それも極めて下級の者が頼む位のものである。中には、市子の言を信じて、亡者の供養をするとか、百万遍の念仏を行うとか、八十八ヶ所廻りをするとか、新しく仏壇を買い入れるとか、その人々に相談した事をやる。市子の弊害はここに存し、いずれかと云うと、死人に託して祈祷を続いて行わせ、祈祷料を貪るのが目的のようにも考えられる。&lt;br /&gt;
: 殊に馬鹿気ているのは、或る人が亡妻の霊を寄せたところが、その死霊の云うには「私は迷っているが、その迷いの元は、××さんに衣物一重ね差上げたのを、今になって娘にやれば宜かったと思いつき、それで迷っています。あの衣物を取り戻し、娘に遣って浮ばせてください」とのことに、その亭主は仔細を語り、衣物を貰い返したという話もある云々〔七〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;六、美濃太田町附近の市子と其の生活&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
美濃国加茂郡太田町の林魁一氏よりの高示を次に掲載する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 明治維新前には太田町には二人の市子あり、一人は信州の親方に縁付き、一人は死亡して、現今は全く影だになし。隣村の同郡坂祝村大字取組には、現在一人の市子居住し、本年八十歳の老婦（精眼者）にて、幼少の時に信州にて修行せるものと云っている。全体、美濃国に常住し、又は漂泊し来る市子は、多く信州上田在（中山曰。既記の禰津村なり）から来るのである。ここには四十八軒の親方あり、親方は男子にて、二三人以上数人の巫女を養い置き、市子が各地を旅かせぎする折は、親方も同行した。市子は免許状を貰って独立して、幾分の税金の如きものを親方へ送ったものだと云う。&lt;br /&gt;
: 市子を頼むのは、他地方も同じと思うが、死人の行処及び死人の心を知りたきとき、並びに遠方に在る生ける人の心を知るとき、又は生死不明の事を知りたきを第一とし、その他には、縁談、病気、失せ物、悪事災難の多い折などであるが、現今では市子の信用が無くなったので、依頼する者は極めて稀である。&lt;br /&gt;
: 此の地方の市子は、常に紺風呂敷に包みたる蜜柑箱ほどの箱（取組の巫女の箱は桐製である）を出し、その上に長方形の肱蒲団の如きものを置き、右手に念珠を持ち（以上、取組にて見し所なり、以前は念珠を持たぬと云う人もあり）、箱の上に両手の肱をつけ、箱の前には之れも他地方と同じく茶碗に水を入れて、それへ南天の葉を載せて置き、依頼者は南天の葉に水をつけ、三度その箱に注ぎかけるのである。死者の際は枯葉を用いると云う。然る後に、市子は神降し（此の文句は秘密とて教えぬ）と称して、日本諸国の神々の名を称え、それが終れば、目的の依頼を受けたることを、神降しと同じような口調で述べる。依頼者はこれを聞いて事の善悪その他を知るのである。市子が称え終ってから後は、問い返しても答えぬのを習いとしている。&lt;br /&gt;
: 市子の口上の一例を、縁談に求めれば「北より東は宜いと云う、心に緩みのないよう、大事のことじゃ、ここが&amp;lt;u&amp;gt;かなめ&amp;lt;/u&amp;gt;で、南か西はおく（止めるの意）ように、二月か三月往かざれば、八月は身のため」云々と云うようなものである。即ち「方角は北東を吉とし、二月三月に嫁せざれば八月が宜い」と知るのである。茶碗の水と、南天の葉は、終ってから依頼者が捨てることになっている。&lt;br /&gt;
: 現今の市子の生活状態は、普通の民家に住み、農業か舟乗業を兼ぬる家族であって、一回の口寄せは二三十分間を要し、料金は二三十銭を貰う由にて、生活は言うまでもなく中流以下である。明治維新以前には、信州から二三人づつ組をなした市子が太田町に来たり、紺風呂敷に箱を包みこれを赤紐で結び背負い歩き、地方の人達はそれを呼び込んで依頼したものである云々〔八〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;七、近畿地方の市子と性的生活&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
京都府立第二中学校の井上頼寿氏から、前後四回まで高示に接しているが、その多き部分は、伊勢神宮の御子良及び母良に関するもので、然もその内容は、発表を憚からねばならぬ事もあるし、発表しても差支ないものは、私の言う口寄せ市子に交渉するところが尠く、所謂、帯に短し襷に長しというものである。それで茲には、前後四回の報告を、私が勝手に按排して、専ら近畿地方の巫女と、性的生活の方面を記すとした。此の点に就いては、深く井上氏の寛容を冀う次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山城国相楽郡地方では、神楽巫女のことを、東部では「そのいち」と称し、年齢は三十歳位を普通とし、西部にては「いちんど」と呼び、妙齢の者を普通としている。明治維新頃までは、祭礼の度に、神社の拝殿で神楽を舞う「そのいち」の家も残っていたが、現今では極めて少くなり、殊に西部では、妙齢の女子が、此の事を遣るのを厭うようになり、随って湯立の神事なども、十四五年前から廃止してしまった有様である。而して東部の「そのいち」は、巫女となると、神主との間に性に関する或種の儀式（中山曰。奥州のイタコと守り神との結婚の如きものか）が、行われたようだとの事である。同郡の&amp;lt;u&amp;gt;かわらや&amp;lt;/u&amp;gt;と云う土地では、以前「そのいち」を頼んで舞って貰う度に、お礼として米や銭を出す外に、人参や大根で男子の生殖器を作って添えたものだが、近年では警察署からの注意で、廃止することとなったと聴いた云々。&lt;br /&gt;
: 井上氏の同僚河野氏の談に『二三日前に大津市太郎坊のみこ（婆）の所へ、叔父の神経痛の薬を聞きに往きしに、年齢を問い、自己催眠の如き状になり、一種の節にて、急に&amp;lt;u&amp;gt;ぞんざい&amp;lt;/u&amp;gt;なる言葉にて物を言い始め、その中に薬を云うのであった。薬は悉く草根木皮の漢薬であるが、大てい本草綱目等に書いてあるもので、猶お、大和国宇陀郡地方の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;も、かくの如き薬名を神託によせて教えるとのことであった』云々〔九〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;八、阿波国美馬郡の市子と作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
阿波国美馬郡出身の後藤捷一氏の高示によれば、同郡地方の市子は、土着の精眼者で、社会的の地位は低く、生活も余り豊ではない。民家で市子を頼む場合は、原則としては喪家に限り、普通の家では特別の事情に由る外は、頼む事はない。横死するとか、夭亡するとかの場合に、その者が死んで仏となったか否か、それとも迷っているかと懸念して市子を煩わすのであるが、俚俗この事を「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;弓打&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゆみうち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;かける」と云っている。そして弓打かけに往く時は、必ず死者の位牌を持参し、市子は此の位牌に向って、何か呪文を唱え（中山曰。讃岐香川郡の市子は此の時に、白布で包んだ例の外法箱へ片手を載せ、その掌に飯を盛った茶碗を持つと聞いている）ているうちに、市子は何時しか位牌の主の死者となり、依頼者と談話を交換するのであるが、併しその文句は概して定まっていて、よく来てくれたとか、誰々が来ていぬとか、石碑を建ててくれぬので仏になれずに迷っているとか、或は死者が幼年である場合は、冥土で祖父さんに抱かれているとか、お父さんが来ていぬが、どうしたのかなどと云い、更に妻を残して死んだ男なれば、子供の事を呉々も頼むとか、殆んど版に起したような事を言うが、往々冥土にいる筈の祖父が健在したり、子供が無いのに頼むなどの失敗を繰り返すこともある。依頼者は、言うまでもなく、迷信の深い婦人達であって、稀には三里も五里もある遠い市子の許まで、頼みに出かける者もある。但し、同地の市子は、此の外の祈祷、縁談の吉凶、家相の善悪などの事は一切関係せぬ。喪家以外の民家で依頼する場合は、その家に不幸が続くので、何か古い時代に悪い死に方（横死憤死など）をした者の祟りではないかと思うとき、巫女を煩わして死者の望みを聞き、それを果してやる時である云々〔一〇〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;九、土佐高知市の市子と其の呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高知市の寺石正路氏の高示によれば、同市潮江町に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が居り、岸本竹子と称し、五十七八歳の老人にて夫あり、夫も祈祷師を営んでいる。世上この婦人に頼み、先祖の霊など呼び出す故、俗に『呼び出しをしてもらう』と云っている。巫女の家には、東方の棚に八百万の神々を祭り、西方の棚に諸仏を祀る。依頼者の望みにまかせ、神霊でも、仏霊でも、直ちに呼び出す。但し正月三ヶ日、或は神祭日には、神の霊は来るが、仏の霊は来らず、又た仏の霊の来たる日は、神の霊は出ず、同じ日に神と仏と憑りうつることは無いと云う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
呪法は昔の面影はなく、ただ神棚なり仏壇なりに向い、暫らく合掌祈念しているうちに、依頼者の指定した男なり女なりの霊が移り、依頼者と問答するのであって、祭り方はどうせよとか、墓の石が傾いたから直せと云うようなことを言い、更に依頼者から質問があれば、それに答弁する、巫女の声は、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かか&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;った男女、老若の声となるのが、不思議だと云われている。そして長いのになると、二三時間もかかり、それを一日に幾度も繰返すと、非常に骨が折れるものと見え、汗を流すと云う。猶この巫女は流行していて、今に毎日数人の依頼者がある。以上は、高知銀行員木股茂里馬氏及び潮江町の宮地昌次氏の実験談を聞いたものである〔一一〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一〇、筑前国直方附近の市子と其の呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
筑前国鞍手郡直方町の青山大麓氏からは、前後三回の高示に接しているが、ここには同氏の寛容に愬えて、私が勝手に要約することとした。但し事実においては、些末の相違なきことは改めて言うまでもない。左に掲載するものがそれである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 宗像郡上西郷村大字内殿に居る「みこじょう」は、久保田直子とて、本年六十歳ほどの老婆、私（青山氏）が訪ねた時は、籾摺りをしていた。此の家は神理教の教会になっているが、元は農家であって、現に農業を営み、教会は内職という有様である。私は附近の農家で教えてもらった通りに「仏様の御到来を聴きに参りました」と云ったところ、籾摺りの手をとどめ、直ちに私を仏間へ招じ、私の住居と死者の死亡年月日と行年及び姓名を問い仏前に蝋燭一本を点じ、線香四本（私の妻が死んで四年目だというので線香を四本立てたのか聞き漏らした）を立て、先ず初め十三仏の御詠歌とて、左の如き普通に行われている詠歌とは全く異るものを中音で唱えた。&lt;br /&gt;
:: 一、不動さま　　　　　神となり仏となりて水の中、雷火の中に立つは世のため&lt;br /&gt;
:: 二、釈迦如来さま　　　&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大小&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の年も習わぬ教文を、瑠璃を唱えしこれぞ教文&lt;br /&gt;
:: 三、文殊菩薩さま　　　普陀洛や居ながらとなう善根を、皆成仏の導きとなる&lt;br /&gt;
:: 四、普賢菩薩さま　　　としさそう只一人も百合の花、つぎざにのぼる慈悲な善根&lt;br /&gt;
:: 五、地蔵菩薩さま　　　善悪もつくりし罪は一心に、ねがえ助くる地蔵誓願&lt;br /&gt;
:: 六、弥勒菩薩さま　　　世の中はうそいつわりを納めおく、来たる未来は偽りはなし&lt;br /&gt;
:: 七、薬師如来さま　　　唱えれば薬の利益かいきある、時節を待てど養生はなし&lt;br /&gt;
:: 八、観世音菩薩さま　　神ほとけよくめも願いある深き、心をひとつ誠となえよ&lt;br /&gt;
:: 九、勢至菩薩さま　　　生れ来てそよしる事と知りながら、後生を願う人は少し&lt;br /&gt;
:: 十、阿弥陀如来さま　　父母のそだてし恩も忘れなば、救う阿弥陀の網にとまらぬ&lt;br /&gt;
:: 十一、阿閦如来さま　　願うなら仏と思う父母に、後生の元は親に孝行&lt;br /&gt;
:: 十二、大日如来さま　　幼な子よはてしこの子は契りなし、育てし親にあたえとの事&lt;br /&gt;
:: 十三、虚空蔵菩薩さま　風さそう哀れつれなし灯火の、消えし我が名は面影はなし&lt;br /&gt;
:: 　　　打ち返し　　　　面影は無いと云えども願うべし、先の苦楽はあからかにゆく&lt;br /&gt;
: 殆んど意味の通ぜぬものがある迄に唱え崩された詠歌が終ると、両手を揉んで、狐憑きのように頻りに震っていたが、今度は西国三十三番（これは流布のと同じ）の御詠歌を巡礼の口調で唱え、その終りに四五回&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;欠呻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あくび&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をして仏を招じた。この欠呻はほんとに冥府から来たというような陰気な長いものであったが、愈々仏が来ると「よう参って来てやんなさったナァ、こっちへ近う寄んなさい、今日は緩りお話をしましょう」と云うような事から始まって、色々の事を言ったが、初めから終りまで泣くことばかりであった。&lt;br /&gt;
: 仏との話が済んで、仏が帰えるとき前と同じく四五回欠呻をして、「よう参って来てやんなさった、私はほんとに嬉しい」と云って、一度泣いて仏は帰り、次で信濃の善光寺の御詠歌を唱えて終りとなった。料金は一回三十銭から五十銭だというので五十銭置いて来た。&lt;br /&gt;
: 内殿附近で尋ねた農婦の話では、祈祷を呼ぶ場合には、前に古い仏（祖父とか父親とかの仏になったもの）を呼んで、次に新仏を呼んでもらうものだと聞いたが、私の場合は直ぐに、四年前に死んだ妻の霊が出て来たのである。それから私の地方では、仏をそうして呼び出すと、位が下がると云うていて、軽々しく仏を呼んではならぬと戒めているようである〔一二〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の外にも三四の学友から高示を受けているが、市子の呪法も、生活も、社会的地位も、殆んど既載のものと大同小異であって、別段に取り立てて記すべきものが無かったので省略した。ただその中で注意を惹いたことは、浄土真宗の隆んに行われている地方には、市子の全く存して居らぬと云う事実であった。これは宗義として雑行を禁じているためであることは言うまでもない。而して以上各地の状況を高示によって比較すると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、奥州のイタコが何として古俗を伝えていて、殊に守り本尊と結婚すると云うが如きは、山城の相楽郡のそれと同じく、遠い昔に、巫女が神々と結婚した遺風として、珍重すべき資料である。&lt;br /&gt;
: 二、磐城の笹ハタキの唱える呪文中にある「翼ぞろい」の一章は、種々なる意味で有益なることは既載の如くであるが、それにしても、斯うした古い事象が残っていたことは、案外であった。&lt;br /&gt;
: 三、九州の「いちじょう」が唱える十三仏の詠歌が、普通に流布している以外のものであったことも、又私にとっては意外であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
単にこれだけを手懸りとして考察を試みることは早速であるが、民間に行われた十三仏の信仰は、その地方毎に内容を異にしていたものがあった事が知られると同時に、九州にても巫女がこれを護持仏とし、遠く離れた奥州のイタコがこれを守り本尊とするところを見ると、諸仏のうちから十三仏だけ引きぬいた信仰は、或は神道から放れた巫女が仏教に歩み寄った折に工夫したものではあるまいかとも思われる。極めて大胆な且つ粗笨な考え方ではあるが、記して後考を俟つとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お、此の機会において、高示を賜りし各位に対して、謹で敬意を表する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 青森県八戸市廿六日町のイタコ、根越スエ子（四十六歳）が、曾て「神付」を行うた折の、、用品調べというべきものを、中道等氏から恵贈されたので、茲に載せるとした。&amp;lt;br /&amp;gt;その用品の重なるものは、四斗俵二俵（一俵には米三斗三合三勺入れ、他の二俵には何にても三斗三升三合入れる）、八升俵二俵（これには米七升七合七勺を入れる）、白酒木綿四丈五尺一本、注連縄同上一本、イタコ着用の白木綿の単衣二枚（丈四尺）、腰巻二本、手拭二本（三尺三寸）、鉢巻二本（五尺五寸）、木綿一反（以上、白に限る）、白足袋二足、白扇（無地）二本、水桶（手洗鉢、盥とも三個）、膳椀（二人分）、オサゴ米、茣蓙二枚、幣束七本、礼拝用の小銭（三十三枚、五厘でも一銭でもよし）等である。&amp;lt;br /&amp;gt;尚「神付」を行う間は、イタコは一日に二三度づつ、垢離の代りにして入浴し、且つ七日間の修行中は、他家にて一切飲食せぬことの定めである。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 中道等氏は、青森県八戸市のお方で、曩に「青森県史」の大著があり、民俗学にも造詣が深く、大正の末頃に東京に移住されてから、度々お目にもかかり、文通もし、少からず裨益を受けている学友である。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 笹ハタキの唱える六根清浄祓などは、原の文句とは似つかぬまでに唱え&amp;lt;u&amp;gt;ゆがめ&amp;lt;/u&amp;gt;られていて、別段にかかるものを事々しく記載する必要はないのであるが、それを承知しながら、紙面を割いたには又相当の理由が存しているのである。それは外でもなく、先年私は九州における盲僧の徒が、堅牢地神品を琵琶に合せて誦することを中心として、盲僧派と当道派との関係を記した拙稿を「歴史地理」誌上に連載したことがある。勿論、その時は、地神品とあるから、金光最勝明王経のそれであろうと速断して記述したところ、後になって岩橋小弥太氏から「嬉遊笑覧」によると、盲僧の誦した地神品は、誠に埒ちなきものであると云うが如何と、一本参らせられたことがあるので、今度はそれを想い起し、唱え&amp;lt;u&amp;gt;ゆがめ&amp;lt;/u&amp;gt;られたものでも、後世に伝えるのは、又学徒の責任だと考えたので、敢て此の態度に出た次第である。因に言うが、佐坂氏は、石城郡上遠野村小学校に教鞭を執られているお方である。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 大正六年八月に学友ネフスキー氏と携えて、茨城県久慈郡天下野村大字持方へ旅行したことがある。その夜、同地の小学校長栗木三次氏が来られ、同地の巫女の唱える呪文とて、此の「白き御幣が三十と三本」云々の事を語り、且つ「その節調は軍歌の如く、勇しきものである」と話されたことがある。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : [[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|前]]に載せた越後国三面村の「邪権附」の呪文と同根であって、然もまだ此の方が余りに崩れていぬようである。猶おＹ先生のお話によると、此の呪文は他の地方にも行われているとのことである。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 猶、この場合に、佐坂氏の記事の暗示から導かれて、その真相がやや明確に知ることの出来たのは、平安朝に一派をなしていたと想われる「藤太巫女」の正体と、「炭焼藤太」の伝承の分布とである。&amp;lt;br /&amp;gt;而して、前者にあっては「梁塵秘抄」に『鈴はさや振る藤太みこ、眼より下にて振るときは、懈怠なりとて、神は怒らせたまふ』云々とあり、後者にあっては、柳田国男先生の「海南小記」に『炭焼小五郎が事』と題して、各地の類話を挙げ、これが詳細なる研究が試みられている。&amp;lt;br /&amp;gt;これに就いて、私の考えるには、此の「炭焼藤太」の伝承は、元は藤太の一派に属していた巫女が、謡い物として、各地を持ち歩き、その結果、西は琉球から、北は奥州まで、到る所に、此の伝承が、植えつけられたのではあるまいかと云う事である。管見を記して、江湖の叱正を仰ぐとする。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 加藤巌氏は「民族と歴史」の寄書家として知られていて、私もこれで知ったので、お手数を煩わしたのである。高示は昭和四年一月廿三日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 林魁一氏は斯界の先輩で、「東京人類学雑誌」「郷土研究」「民族」などで、芳名を存じあげていたのでお願いした。高示は昭和四年二月四日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 井上頼寿氏は、京都府立第二中学校に奉職されているが、雑誌「民族」で芳名を知り、御無理をお願いしたのである。同氏は明治の碩学井上頼国翁のお孫さんだと伝聞している。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 後藤捷一氏とは「郷土趣味」以来文通をするほどの親しみを持っていたので、それに甘えて、御手数をかけたのである。高示は昭和四年二月十二日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 寺石正路氏は、海南中学の教職に居り、著書も「食人風俗志」「南国遣事」その他多数あり、現に「土佐史壇」の牛耳を採って居らるる大先輩である。私は先年から書信を以て、常に高示に接しているので、又々その御厚誼に縋り、お願いしたのである。高示は昭和四年三月八日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 青山大麓氏は、氏が先年国学院大学に在学中から、交際を頂いていたので、今度も少からぬ御迷惑を懸けた次第なのである。氏は現に直方町の県社日方八幡宮に奉仕されている祠官で、少壮の篤学者である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1337</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第二章/第二節</title>
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		<updated>2010-05-31T08:14:12Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第二章|第二章　当代に於ける巫女と其の呪法]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　報告で知り得たる各地の巫女と其の呪法==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
予め問題を設けて之れが報告を求め、若しくは学友を訪ねて談話を承り、それに由って考説を試みることは、大に警戒を要すると共に、学徒としては寧ろ回避しなければならぬことである。私は深く此点に留意しているので、巫女史を起稿するに際しても、資料を厳撰し、出典の確実でないものは採用せぬよう心懸けることを忘れなかった。然るに、江戸期から明治期へかけては、巫女の社会的地位が余りに低下しているのと、その職程が余りに退化している為めに、文字に親しむ者は、之を伝うることを疎んじ、実際を知った者も、これを語ることを厭うと云う有様で、文献だけでは、如何にするも、その呪法なり、生活なりの委曲を知ることが出来ぬので、そこで回避すべき事とは知りながらも、未見曾識の学友に対して設問し、敢て報告を仰いだ次第なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して、その結果は、各位の芳志により、私の予期した以上の功果を収めることが出来たのは、非常なる仕合せであると考えているが、学術上の資料としては、その方法において、欠くところがあると信ずるので、ここに此の事を明記して、取捨は読者の高批に任せるとする。ただ、呉々も言って置きたいことは、私は報告を採用するに当り、全く私心を放れ、これを要約する場合にも、決して毫末の作為も加えぬという点である。勿論、当然のことではあるが、学徒としての私の面目をかけて、此の事を明記する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一、奥州のイタコと神附の作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中道等氏の談話を左に掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: イタコは悉く盲女である。盲女が此の事を専ら営むようになったに就いて、聴くも哀れな伝説が残っている。奥州では気候が寒冷のため、年穀の稔りが充分でないところから、大昔は盲人が出来ると、官憲がそれを一つ処に集め、五年に一遍、十年に一度という工合に、悉く殺害したものであった。それは恰も、琉球の与那国島で、食糧の自給自足を計るために、一定の人口以上は殺害し、今に「人はかり田」の哀話を残しているのと、同じような惨事が行われていた。然るに、或る年に盲人を殺すこととなったとき、領主が盲人にても何かの役に立つ者もあろうとして、一名の盲女を召し、庭前に何があるか言うて見よと命ずると、その盲女はイタコとしての修養があったものか、松の木の下に燈籠があると言い当てたので、爾来、盲女はイタコとして、生命を助くべしと定まり、これからイタコが公許されるようになったと云われている。&lt;br /&gt;
: 奥州のイタコが&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;何時&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;いつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ごろから在ったものか、それを正確に証示する記録はないが、江戸期に書かれた「遠野古事記」や「平山日記」などに見える所から推すと、相当に古い年代からと思われる。当時、音楽は普及されず、導引は工夫されず、盲女としては、積極的に生くる道が他に無かったのと、消極的には、神憑りするには、却って眼の見えぬ方が雑念を去る便利があったので、相率いて此の道に入った様である。そしてイタコは各々師匠をとって弟子入りをし、三年なり五年なりの年季が終り、愈々独立のイタコになるとき「神附」の式が挙げられる。この神附とは、そのイタコ一代の守り神となって、即ち呪力の源となるのであるから、イタコとして最も大切な事なのである。その式は、神附するイタコ米俵に馬乗りのように跨り、両足の先に神に供えるのと同じ種々の御馳走を盛った膳（膳には壱厘銭三十三個を置く）を踏まえ〔一〕、師匠始め大勢のイタコがそれを囲って呪文を唱え、終ると「何神が附いた」と囃し立てる。すると大抵は十三仏中の普賢が附いたとか、不動が附いたとか云って、それが一代の守り神と定る。そうすると、今度はその守り神と結婚する式を行うのであるが、最近では単に歯を染めるだけで済している。併し之は深い考察を要すべき点であって、古く我国の巫女が神と結婚した遺風を残しているものと信じられる。十三仏中では、弥陀と阿閦だけは余り附かぬようだが、他の仏はいづれも能くイタコに附く。之も又遠い昔にあっては、仏でなくして我が固有の神——若しくは先祖の霊が神として附いた事を考えなければならぬ。それは此の行事を「神附」と云っている点からも知る事が出来る。&lt;br /&gt;
: 私の知っている八戸町の石橋さだ子（中山曰。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|小寺氏の記事]]にあるオシラ神を遊ばせたイタコと同人である）は同地方きっての高名なイタコであるが、十六の時に完全に神が附いたほどの天分を有していた。同地方では此の神附に際し、七日の行を厳しく修めてから、三十三夜は生魚を食せず、熱心に先輩のイタコ共が集って祈るのであるが、中々憑り給わぬが普通であるのに、流石に聡明な少女であったと見え、僅に一日一夜にして託宣を得てしまった。守本尊は普賢菩薩である。此のさだ子の師匠のイタコも偉い女であって、その又先の師匠は八戸の領主の御殿へ上り、正月のオシラ遊びを始め、盆中の口寄から万般のことを占ったので、その名が遠近に聞え重きをなし、今のイタコに伝わる総ての秘法は、多く此の先々代が持っていたものだという。此のイタコの若い頃に、自分の前へ八分目ほど砂を入れた赤塗の鉢を置き、口寄せを始め、頼んだ先祖の仏を祈り下すと、いつの間にやら無数の小穴がポツポツと砂の上に現われた。これは仏の足跡だとあって、イタコよりも眼明きの方が吃驚したという話も残っている云々〔二〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二、磐城に残る笹ハタキの呪文&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像: 笹ハタキ.gif|thumb|磐城の笹ハタキ（佐坂通孝氏の写生）]]&lt;br /&gt;
[[画像: 免許.gif|thumb|left|巫女が示した免許状（半紙半分の原紙）&amp;lt;p&amp;gt;此巫女は鳴弦式の免許状なれど神座も仏座も両方をやる&amp;lt;/p&amp;gt;&amp;lt;p&amp;gt;惟神教会とあれど何処に在るが全く知らず従って教会の主神も判然せず&amp;lt;/p&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
磐城国石城郡上遠野村の佐坂通孝氏より受けた報告は、学術的に頗る価値多く、従って種々なる暗示に富んだ貴重なるものであった。左にその報告の全文を原文のまま掲載し、更に多少の私見を加えるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、神子の名称には、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ふじょ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、ワカ、モリッコ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;子守&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;こもり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、アガタ語り、笹ハタキ、其他色々ある由なれども、当地方にてはワカとのみ云う（中山曰。佐坂氏のスケッチにより見ると、呪術の作法は、明かに笹ハタキと思わるるを以て、私は姑らく斯く呼ぶこととした。殊に此の呪法は、私としては僅に一例しか知らぬ珍重すべきものと考えたからである）。&lt;br /&gt;
: 二、ワカの呪術を行う形式に二方法あり。一は、鳴弦式＝仏座、一は神降し式＝神座と云う。&lt;br /&gt;
: 鳴弦式、青竹にて弓を作り、弦は麻を撚りて之に充て、一尺五寸ばかりの竹の鞭にて、弦を打ち鳴らしつつ祈言（中山曰。呪文なり）をなしつつ、自己暗示によりて催眠す。催眠状態に入れるを普通、乗った（神仏が）と云う。神仏は弦に乗って来て、巫女に乗り移ると云っている。&lt;br /&gt;
: 降神式、珠数（中山曰。佐坂氏のスケッチを挿絵としたが、これを見ると、他の巫女が用いるのと同じ切り珠数のようである）を押し揉んで、祈言による自己暗示にて催眠に入る。&lt;br /&gt;
: 三、服装は、普通の着物の上に、赤色の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;法衣様&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ころもよう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の外被を為す。&lt;br /&gt;
: 四、机を前に置き、水を上げ、乗り移って来た時、竹ノ笹束を顔にあてて語り出す（中山曰。挿絵参照、これ即ち笹ハタキの作法である）。乗り移って来て笹を握るとやたらに震い出す（但し語る時は震えない）。&lt;br /&gt;
: 五、最初、乗り移るまでには、相当の時間を要す。祈言、唱え言、般若心経、神降し、仏降し等を、混合して繰返し繰返し約四十分ばかりにて乗り移って来て、笹を手に取り震い出して語り始めたり。私の語らせたものは四十五六の女なり。&lt;br /&gt;
: 第一回が済んで第二回、第二回を終るときには五分か十分。仏一人分を語り終ると眼が覚めるなり。そして第二回をする時には同様の祈言をなす。&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、左の祈言は、巫女に言わせて漢字を其音にあてはめたものなれば、漢字は全く当にならず。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、無学文盲の者なれば、語る処誤謬多くして、少しも意味をなさぬ所多し。少しも訂正を加えず、全く其ままなり。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、巫女の言う通りを書きつけたれば、清音も濁音に、濁音も清音になりて、意味の反対に思わるる箇所もあり。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、語句も文法も少しも当にならず、何が何やら全くチンプンカンプンなり。只大意を捉うるより外なし。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、此は神下しをする前に、静に言わせて書きたるものなり。数回反復させても同じことなれば、文句には間違なし。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　六根清浄の祓&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;無上信心&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;むじょうしんじん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;無明法益&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;むみょうほうやく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;千万劫&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;せんまんごう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;南窓劫&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なんそうごう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;禍根元&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かこんげん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、かんげに如来、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;真実儀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しんじつぎ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天孫降臨&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;てんそんこうりん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;供奉&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ぐぶ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;三十二神、天清浄、地清浄、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;内外&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ないぎ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;清浄、六根清浄、天清浄とは、天の二十八宿を清め、地清浄とは、地の三十六神を清め、清めて&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;汚&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;きたな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;きもたまりなければ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;濁&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;にご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;穢&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;けが&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れあらじとの玉垣、清く清しと申す。六根清浄の祓い、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天照皇大神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あまてらすすめおおかみ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;曰&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;のたまわ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;く、人は（心はとも云えり）即ち神と神とのあるじ、我がたましいたまし、もろことなかれ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;故&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かるがゆえ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に、目に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;諸々&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;もろもろ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず（思わずとも云えり）、口に諸々の不浄を言わず、鼻に諸々の不浄をかいで、身に諸々の不浄を触れで、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;中間&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なかま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に諸々の不浄を思わず、此の時に清く&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;潔&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;いさぎよ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ければ、神にも穢れる事なし、事を取らばハンベかりし（又はんべかりき）皆花よりなる、此の身となる、我身は即ち六根清浄なり〔三〕。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　神を降す時の祈り言&lt;br /&gt;
: 　　　　　　（荒神様や其他の神を降すに用うと云う）&lt;br /&gt;
: 南無や&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;般若&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はんにゃ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の十六善神、三昧剣はそびらにのせる、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;弓手&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゆんで&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;馬手&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;めて&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の矢壺をそれいる、般若の弓は引きたおめる、引いてはなせば悪魔を払う、観音の正座の、病者も&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;速&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;すみや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;か平癒を、タラトカンマン（中山曰。こは不動真言の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;怛羅吒晗𤚥&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たらたかんまん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の転訛と信ず）。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　仏を降す祈り言&lt;br /&gt;
: 奥の院には、駒もありそろ、駒もあれど花も咲きそろ、花ももりそろう、一丈五尺の駒だの、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;其上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そのうえ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、りんりんとうこう、かざはなざらば、音はりんりん、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;調&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ちょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;からからと、三世の諸仏も天降る、白き御幣は三十三本、赤き御幣は三十三本、青き御幣は三十と三本、合せて九十九本の御幣ははぎ奉れば、病者も&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;速&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;すみや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;か平癒をタラトカンマン、南無や観音大菩薩〔四〕。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　生霊を出す祈り言&lt;br /&gt;
: 一より二けんの三&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;勝&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;しはらい、五たんの巻物、六七ソワカ、八万（中山曰。難？）即滅、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;九&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;く&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;もつをととのい、十分&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;祀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れば、それにたたりは恐れをなし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;候&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そろ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、病者も平癒をタラトカンマン〔五〕。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;翼&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つばさ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ぞろい&lt;br /&gt;
: 雀と申す鳥は、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;聡聴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そうちょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;な鳥で、親の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;最後&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さいご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と申す時に、つけた&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鉄漿&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;もうちこぼし、柿のかたびら肩にかけ、参りたれば親の最後に逢うたとて、日本の六十余州のつくりの初穂、神にも参らぬ其の先に、餌食と与えられ。&lt;br /&gt;
: 燕と申す鳥は、聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;紅&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;べに&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;つけ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鉄漿&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;つけ、引きかンざりて、参りたれば、親の最後に逢わぬとて、日本の六十余州の土を、日に三度の餌食と与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。&lt;br /&gt;
: けらつつき申す鳥は、聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、天竺さ、はやのンぼりて、親の最後に逢わぬとて、一ツの虫は日に三度の餌食と与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。&lt;br /&gt;
: 水ほし鳥と申す鳥は聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、天竺さはやのンぼりて、親の最後に遇わぬとて、水ほしや、水欲しやと、よばわる声も恐ろしや、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。&lt;br /&gt;
: 鶏と申す鳥は聡聴な鳥など、親の最後と申す時に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;干&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ほ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;したる物をかきこぼし、干したるものを打ちこぼし、日に三度の餌食には、かき集めたるものを与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど（大正十五年八月十七日採集）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の報告は、その一つ一つが巫女史の資料として価値の多いものであるが、就中、関心すべきものは最後の「翼ぞろい」と題する一章である。此の呪文の内容は、現今においては童話となり、然も全国的に語られているものであるが、その古い相が巫女の呪文であったことは、全く佐坂氏の報告に接するまでは、想いも及ばなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して此の一事から当然考えられることは、第一は、此の「翼ぞろい」なる呪文は、私の知っている限りでは、最も古いものであって、前に載せた「千だん栗毛」などよりも更に一段と古いものであると思われる点である。第二は、これを証拠として、まだ他に沢山の呪文から出た童話がありはせぬかという想像である。第三は、斯うした童話の種を国々へ撒き歩いたのは巫女であって、大昔の巫女は小さき文化の運搬者であったことが判然した点である。第四は、更にこれから類推されることは、巫女の用いた呪文と歌謡との関係である〔六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の事象に就いては屢記を経たが、最近に金田一京助氏を訪ねた折にも此の事を語り合い、巫女が口寄せの折に、神降しの文句から他の言葉に移るときの&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;境目&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さかいめ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は『声はすれども姿は見えぬ』という一句であるが、これへ下の句の『君は野に鳴くきりぎりす』と附けて、一首の歌謡としたのは、古い作者が呪文から思いついたものだろうと話したことがある。即ち巫女の呪文は、一方には童話となって国々に行われ、一方には歌謡となって広まったことが、此の「翼ぞろい」から考えられるのである。第五は、此の「翼ぞろい」は、何処で生れたかという点である。南方熊楠氏ならぬ私には、これと類似または同根の説話が、どんな工合に分布されているか知ることは出来ぬが、恐らくは日本のみに限ったものではなく、印度か支那が母国ではないかと思うのである。そして此の文句が呪文となって、巫女の手に渡るようになったのは、都会から地方へ及ぼしたものであろうと考えている。勿論、それ等を具体的に説明することは、私の学問では企て及ばぬ所であるが、兎に角に斯うした手掛りだけでも与えて下さった佐坂氏の御配慮に対し、深く感謝の意を表する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三、信州禰津の市子の口寄せ文句&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信濃国小県郡根津村は、我国随一の巫女村であった（此の事は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第三節|後]]に詳しく述べる）。その根津の最後の巫女であった&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;初音&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はつね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ノノウというが、長野市において口寄せをした事実が、明治四十一年一月十四日から同十九日まで六回に亘り、同市発行の「長野新聞」に連載されたということを、上田中学に教鞭を執って居られる角田千里氏から通知を受けたので、私は直ちに此の記事の謄写を同社に依頼したところ、劇務に従われている同新聞記者伊勢豊氏が、私の閑事に深く厚意を有たれ『学問上の資料となるのであるから、一字一句も誤らぬよう写した』とて、左の如き記事を恵与してくれた。此の口寄せの文句は、私にとっては実に唯一のものであると同時に、こうして、死口、生口、荒神占（神口ともいう）三種を克明に記したものは、他に多く存していようとも思われぬので、少しく長文の嫌いはあるが、その全文を転載し、終りに二三の私見を添えることとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;俗に口寄せと云うものは、死口、生口、荒神の、三ツに分ってあって、死口は死人を呼出し、生口は現在の人を呼出して其思惑を聞き、荒神は一年の吉凶を占うものである。今は禁止されてあるが、偶々或る機会から其三口を聞くを得たから掲ぐる事とする。&lt;br /&gt;
: 或芸者が死んだ母親を呼出した死口から始めよう。&lt;br /&gt;
: 巫女の前には盆があって、盆の上に茶碗、茶碗の中には水が盛ってある。芸者は巫女の前に進み、枯れた木の葉を茶碗の水に入れ、右へ三度廻して亡母の行年を告げる。巫女は行くところとして必ず携帯する丈五寸横八寸程の黒い風呂敷を掛けた箱を前に、そこに右の手を頬杖に突き、左の手は肱から手を箱の上に横たえ、瞑目する事二分時、眼を閉じたまま静かに、和讃ともつかず、&amp;lt;u&amp;gt;くどき&amp;lt;/u&amp;gt;ともつかぬ可笑な節をつけて語り出した。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第一、死口　（亡母、行年五十四歳。本人某妓）&lt;br /&gt;
: 『千々に思は増す鏡、家を便り座を力、一度は聞いて見ばやとて、能うこそ呼んで呉れたぞえ、来るとは云うも夢の間に、夢ではうつつ&amp;lt;u&amp;gt;あずさ&amp;lt;/u&amp;gt;では、声聞くばかりで残り多い、姿&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;隠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;して残念だ、身も世が世でありたなら、何か便りにもなろうけれど、力になるもなれないし、便りになるもならずして、最後をしたが残り多い、往生したが残念だ、身さえ丈夫で居さえすりゃ、誰に負けなく劣らなく、両手を振って暮らすけれど、惜しい所でお&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;終&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いし、心残りに思うぞよ、定めし其方もくよくよと、俺に死なれて此方へは、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;嘸&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さぞ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;張合いが悪かろう、嘸力が落ちたろう、身は片腕をもがれたように思うだろう、惜しい所で終いして、後の所も乱脈だ、誠に後の張合も、俺があったる其時とは、はらからながらの所でも、何処か拍子の欠けたよう、何処か振合も違うよう、心残りだ後々の二人は二所、三人は謂わば三所と云うように、身も散々の振り合で、心残りに思うぞや、身も残念に思うけど、ツイ因縁が悪ければ、真実後さえも其儘に、何が何やら少しでも、物の極りと云うもなく、何うか後をばアアカリて、あれも纏めうと死ぬまでも、丹精に丹精苦労して、纏めもしたる身なれども、どれが纏めた&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;廉目&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かどめ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;やら、どれが&amp;lt;u&amp;gt;かなでた&amp;lt;/u&amp;gt;廉目やら、纏めきらぬで最後をし、かなで切らぬで往生した、後へ歎きを掛け放し、運勢の悪い俺だから、死んだ此身は何うならむ、何うも残した後々に、マダ苦になる事もあり、案ずることもマダあるぞ、どうか苦になる後々を、どうぞ纏めて、成るたけ世間の人様に、お世話にならぬようにして、ならぬ中にも精出して、出来ぬ中にも丹精して、何うか互に睦まじく、何うか依るべき血の中を、大事に掛けて暮されよ、何と云うても云われても、血は血でなければならぬから、身は身でなければならぬから、何か依るべき血の中や、遺した中だからとても、義理に切られぬ中だぞよ、何うぞ互に往復も、仏がなけりゃアアじゃないか、今の様はと陰からも、世間の口端に上らないで、何卒たっしゃで暮して呉れるように、思えば思う其度に、心残りに思うけど、これも前世の約束や…………。』&lt;br /&gt;
: 巫女の声は憐れにしめって来た。アノ世から悲しげに囁く声とも思わるる、陰にこもった声である。始めからハンカチで眼を抑えていた芸者は、ここに至って堪えがたくなったのであろう。慈愛ある母の面影さえ忍ばれたのであろう、身を慄わしてヨヨと啼きくずれたのである。&lt;br /&gt;
: 芸妓は人目も恥もかまわずに、其場へヨヨと泣きくずれたまま顔を上げ得ない。居合わせた者も憐れを誘われ&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鼻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をつまらせて眼をうるませる。一座はシンとして咳の音さえもない。&lt;br /&gt;
: 「去るものは日々に疎し」悲しい死別れに、身も世もあらぬ胸の悲しみも日を経て漸く薄らぎ行きしを、今日の口よせに依って、亡母が悲しい事の数々や、心残りを語られては、今更当時の有様を再びする心地して、正体もなく泣き沈んだのは無理もない。巫女は妙に人を引付ける抑揚のある哀調を以て尚も続ける。&lt;br /&gt;
: 『言い置く事もありたれど、身の死際の敢なさに、ツイ云う事も云わないで、語る事も語らなく、此方の事も間に合わず、目を閉ず時だからとても、末期の水も貰い外し、身の因縁が悪ければ、仕方もないが後々が、マダ血の中もあるだから、先祖の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;蔓&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つる&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の切れぬように、後の纏めをして呉れろ、西を向いても他人様、東を向いても他人様、他人の中の身の住居、長い月日の間には、善い事ばかりはなにあらん、詰らぬ事もあるだろうが、必らず悪い了簡や、そでない胸を出さないで、どうぞ彼の世の仏にも、又は身内の人々の、顔をよごさぬようにして、身の安心の出来るよに、喜ばしやれと云うように、暮して呉れろ頼むぞよ、只残念はあの時に、云い度い事の一言や、遺す言葉がありたるに、ツイ言わないで終いをし、後の所も其儘で、別れて来たるそれのみが、誠に誠に残念だ、他人様にも身内にも、皆心配を掛けた儘、ツイ一礼も告げないで、世話になったり放し、苦労掛けたら掛け棄て、終いをしたが残り多い、之も運勢が悪いので、仕方がないと諦めて、居たら居たらと思わずに、身の納まりを大切に、仏に安心させてくれ、今日の一座はようくれた、久しぶりでの物語り、語りて云おうとした心、話して胸が晴れたぞや、言えば語れば限りもなし、一日言うたからとても、話し切れない事もあり、語り切れない事あれど、何と口説いたからとても、旧の姿にゃならぬから、之で忘れて諦めて、名残惜しくも暇乞い、遙か来世へ立帰る…………』&lt;br /&gt;
: 終りを消えて行く——死んだ人が仮りに此世へ現われて、又冥途に帰って行く、それに丁度相応わしい——様に語り終った巫女は、静かに瞑目して居った眼を開いた。泣沈んだ芸妓は、漸く涙を歇め顔をあげて、其泣きはらして赤くなった瞼に、淋しい笑を浮べて一座を見渡す。雨後の名月、一段の美添えて却って痛々しい。&lt;br /&gt;
: 巫女は依頼者の悲しさも喜ばしさも関する所でない。自己の職務を為す上に於て、人の哀楽は対岸の火事である。語り了った彼女は、徐に頬杖を突いた手を解き身を起し、平然として次を待って居る。&lt;br /&gt;
: 代って他の芸妓が出る。前の死口の陰気なのに引替えて、是は亦生口の、情人？を呼出して、其意中を聴くと云う&amp;lt;u&amp;gt;イキ&amp;lt;/u&amp;gt;な派手やかなもの、一座の手前を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憚&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はばか&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;って、やろうか遣るまいかと躊躇の体、幾度か笑を浮べて一座を見廻し人の気を読んだ上、思い切って巫女の前に進む。&lt;br /&gt;
: 巫女は前同様箱に肱をして頬杖を突き、静かに眼を閉じる。芸妓は巫女の前に進んで、茶碗の水を紙の小捻に三度息を吐きかけ、右へ三遍廻し、口の中で極めて小声に男の年を告げた。誰れかが「イヨー」と声を掛ける。芸者はサッと耳元を赤くして一膝身をすさった。男の年を聞くを得なかったのは残念であった。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第二、生口　（女より男の意中を聞く）&lt;br /&gt;
: 『心の程も知れないと、案じて一座呉れたのか、苦労になるも無理はない、女心の一筋に、思い過ぎしが身に余り、どう云う積もりであろうかと、今日の一座も思うだろうが、身を疑ぐりて呉れるなよ、俺が心は了簡も知れない事もない筈だ。又身の上だからとても、自由になるもならないも、予て承知でありながら、身を疑ぐりて呉れるなよ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;当&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あて&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にならない事もなし、力にならぬ事はない、今斯うやりて身の上も、思う自由にもならぬから、其処のところからは推量して、必らず何うか俺が事、届かぬものだよくよくな、そでないものと身の上を、&amp;lt;u&amp;gt;さげすま&amp;lt;/u&amp;gt;ないで居てくれろ、今の住居をしてみれば、目上目下の中に立ち、身分も好きに往かないし、身体も自由にならぬから、其処の所は推量せよ、又往く始終や後々は、ならぬ中にも精出して、何うか力も添えようと、心に掛けて居るだから、アァは云うたが嘘らしい、斯うは云えども何うだろう、末の力になるまいか、後の便りになるまいかと、身を疑らず居て呉れよ、俺は人のように兎や斯うと、言葉の艶も嫌いだし、上手云うのも嫌いだが、腹に悪気のないだから、又往く始終や、後々はどうか此身も側にいる、人に云われた意地もあり、側で堰かれた意地もあり、又分別もする積り、身の了簡もあるだから、悪く思うて呉れるなよ、能うこそ今日の一座を、何う云う積りで居るやらと、思い過して呉れたろうか、知れない事もあるだろうが、今お互いに寄合って、是ぎり会わぬ訳じゃない、身も対面の其上は、身の善悪も知れること、何うかと疑う事はない、心に別な事もなし、身分に変る事もなし、是で聞分してくれろ、此上長座はならぬから、右で&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;体&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;からだ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は立帰る……』&lt;br /&gt;
: 右にて終る。一座の者は「お奢りお奢り」と芸者に迫る。芸者は嬉し気にニッコリ、座は急に陽気になる。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 代って一人、厳めしい洋服の紳士が出る。先生、先にやりたさは遣りたし、一寸変な工合だしと躊躇して居たのが、既に芸者と云う瀬踏みがあったから、猶予なくそれへ進む。紙を細く切ってそれに息を吐きかけ、撚って例の如く茶碗の水を右へ三遍、「先方は女二十六」キッパリ言った。「最早年寄ですネ」等冷かす者ある。紳士は、この場合聊か極りが悪い。笑を浮べた眼に一座を顧み、「出ように依っては奢るよ」と、お茶をにごして身を退ける。&lt;br /&gt;
: 老巫女は一座の動揺めくに関せず瞑目して、同一の口調を以って語り出す。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第三、生口　（男三十三歳、女二十六歳、男より女の意中を聞く）&lt;br /&gt;
: 『確と様子が知れぬから、何う云う心で居るだやら、どの了簡のものだかと、案じて寄せて呉れただろが、案じられるも無理はない、苦労になるも無理はない、身は一所にいてさえも、知れない事があるだもの、殊に斯うしてお互に、間離れて暮して居りや、どう云う様子で居るだかと、嘸ぞ心配に思うだろ、定めし苦労になろけれど、どの了簡で居られるか、何う云う運びであろうかと、案じて居ない事はない、苦労に思わぬ事はない、後の所や末始終、力になりて呉れるやら、便りになるかならないか、明くる其日も暮れる夜も、胸に思わぬ事はない、心に出ない事はない、安心させて呉れるのが、始終力になるのやら、但しは頼りにならないが、一つはお前の了簡だ、心一つのものだから、身の了簡を取極め、心定めて往後は、何うか末々お互に、力になりて頼むぞえ、便りになりて暮そうぞえ、何う云う運びに致すのも、一つはお前の胸次第、心一つのものだから、よく了簡を取極わめ、心定めてどちらになりと、力になるかならないか、何う云う運びに致すのか、どちらになりと一道の、身の挨拶をしてくれな……』。&lt;br /&gt;
: 座中の眼は紳士の一身に集まる。紳士は天井を仰ぎ、胸の時計の鎖を弄びながら得意満面？&lt;br /&gt;
: 『心懸りに思うから、何卒了簡を定めて、暮らして呉れるようにしな、身の対面の其上で、互の胸も話すべし、此上幾ら云うたとて、此処で埒がつくでなし、道理のつかぬ事だから、別けても亦物事は、余り座中も多ければ、話の出来ぬ訳もあり、身の対面をした上に、委細様子を話すから、その対面を待ちるぞえ、くどく云うまい語るまい……』。&lt;br /&gt;
: 巫女は約八分時にして語り終る。座に教員あり、官吏あり、商人あり、芸妓あり、皆一斉に紳士に向って、種々の矢を放つ。四面楚歌の裡にある紳士は、天井を仰ぎ、一層胸を突出し、右手に鎖をチャラチャラ鳴らし、大口開いて呵々と笑う。&lt;br /&gt;
: 巫女はけげん相に順序よく一々端から皆の顔を見る。&lt;br /&gt;
: 「今度は君がやって見給え」先の紳士が一人の青年を顧る。「僕ですか——まァ止しましょう」と笑う。「やり給え、面白いぞ」「でも僕には呼び出す身内も故人も知らないし、又貴方の様に意中を聞くべき者、ハハハハ女ですね、そう云う者はありませんから」「何うだか疑問だが……じゃ一年の吉凶を見る荒神と云うのをやったらいいだろう」「そうですね、敢て御幣をかつぐ訳でもありませんが、今年丁度厄年に当りますから、一ツそれをやって見ましょう」。青年は巫女の前に進み、茶碗の水に青木の葉を入れ、型の如く右へ三遍廻す。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第四、荒神　（男子二十五歳）&lt;br /&gt;
: 『天が庭には風騒ぐ、天清浄と座を祓い、地清浄と座を清め、身体を祓い身を清め、一代守る御神の吉凶大事を告げるから、心静かに聴き給え、生れに取れば随分に、心も大に平らかに、生れて来たる身であるが、身の運勢の振合いから、十と一とも云う時に、後ろ楯にもなる中に、力貰いが薄いのか、身の定まる縁談や、人の身定めて人の身の、心配をして出たが、五七年とは申すれど、中取分けて二三年、何うも好まぬ所あって、自分の常に思うよう、丁度に行くや行かないのは、身の心配もあるだろう、目上の人の言う事が、何うも自分の気に入らず、我身で思う其事が、目上の人の気に入らず、兎角心が前後して、合う辻つまが合いかねて、別けても去年一昨年の身の心配もして居たし、既に斯うかと云うような、気を揉む凶事もありたれど、マダ運勢が強かりし、目上の人の精分や、其方の自力が強いさに、後へ後へと去りながら、凌いで来たが逃れたが、見つ当年の春からも、大事の坂がありたるぞ、今年やお前の厄年だ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大刀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かたな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;なら目貫、扇なら要と云う所だから、モウ了簡を穏かに、心静かに企てろ、大事な所だ今其方も、一つ思案を違えると、目上の人の気も損ね、側の用いも薄くなり、第一運も乱れるし、今大切の身の上だ、随分其方の胸次第、了簡次第末始終の、身の安心や運勢もないのでないが、マダ何うも、身の了簡に定まらぬ、落つきかねる処あり、今身の上も色々に、どの了簡がよかろうか、どの手にしたが増しだかと、身の心配も多くあり、心も迷い気も狂い、何にかに苦労があるけれど、先ず物事も急がずに、心静かに企てろ、身の心づけ二三月、身の心配を求むるか、大事な月に当るぞよ、首尾よくそれを凌げれば、四月五月に宜けれども、六七月の表から、僅な事のいきさつで、身の心配を求むるか、云い聞けられて気を揉むか、之も宜くない大切な、月に当るが気を付けて、それを無難で逃れたら、先ず其方も八月九月に穏かで、十月よいが十一月へ掛けては、其方の大切な月に当るぞ気を付けろ……』。&lt;br /&gt;
: 紳士は青年の肩を叩く。「どうだ。君、気を付けたまえ」「イヤ一ツ的中しそうに思われる処があります」と言葉を切り、一寸首をかしげて「成程、そうかな」と独言する。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 「まてまて僕が一ツやる」座の一隅から、大声を上げて巫女の前に出たのは一人の書生、黒木綿の五ツ紋に、ヒダもくずれた袴を着けた、満身元気に満ち満ちた面魂。巫女の前に座ると「僕の先生に対する感想を聞きたい、頼むぞ」と例の茶碗の水を紙捻で廻す。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第五、生口　（男より男の意中を聞く）&lt;br /&gt;
: 『言って聞かせる此身より、其方の胸が分らない、その了簡が知れかねる、何ういう胸で居るだやら、何ういう積りのものだやら、其方の胸が知れかねる、今斯うやって見て居れば、定めし陰じゃ色々に、アァは言いそもない筈だ、斯うはしそうもないものだ、義理も人情もなきものと、必ず思うて身の上を、さげすまないで居て呉れナ、悪く思うて呉れるなよ、義理ある中を義理悪くする了簡もないし、又理を非に曲げて意気悪く、否やを云うた訳じゃなし、兎や斯う云おうと思わない、一ツは其方の胸次第、藤にもなれば柳にも、ならない事もないだから、必ず必ず身の上を、思い過ごして色々と、身をさげすんで呉れるなよ。少しの物のいきさつで、拠ろない訳からで、ツイ其方にも悪くなる、届かぬ所もありたれど、今の運びであるけれど、身は斯うやりて居ながらも、どの成行がよかろうか、何う云う手段がましだかと、色々胸じゃ気を揉むし、考え見ない事もなし、心配しない事はない、ヨモヤ斯う云う訳がらで、余計な気込みを致そうも、身の心配をしようとは、微塵が程も思わねど、これも余儀ない訳がらだ、又身の上も、七重の膝も八重に折り、事の法立も致そうけれど、真個余儀ない訳がらで、届かぬ処もあっただし、悪かな所もあったれど、其処の処は不承して、必ず悪く思うなよ、篤と合点の往くように、何うか其方へ知れるように、陰の噂や陰からの、人の陰言云わないで、内事に掛けて居てくれナ、今斯う此処の座で、言い訳らしく愚痴らしく、兎や角う云うたからとても、身の言訳をするばかり、只だ愚痴らしく此処の座で、所埒の付かぬ事だから、一座は之で聞きわけて、推量ありて頼むぞえ、能うこそ今日の一座をも、何う云う積りで居るやらと、身の親切があればこそ、今日の一座も呉れたろが、身の対面の其上で、委細様子も知らそから、今日の一座はこれ迄に、聞きわけあって頼むぞえ、気も取込みて居て見れば、思う長座もならぬから、右の体に立かえる……』。&lt;br /&gt;
: 書生君「馬鹿ッ」と一喝、「僕の先生が、そんな愚痴のような弱い事を云うものか」と肩を怒らして、大いに威張る（完）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の口寄せの文句を通読して、直ちに感ずることは、第一は、その文句が極めて通俗であり、粗野であり、如何にも無学の市子が、口から耳へ聞き覚えそうなものという事である。併し、強いて言えば、全国を旅から旅へかけて渉り歩き、あらゆる人々（殊に女子）を相手にするのであるから、斯うした俚言俗語をつらねたものが、必要とされていたのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二は、文句が始めから終りまで、何等捕捉するところがなく、下世話にいう鰻に荷鞍の譬えのように、のらりくらりとしたものであって、依頼者の考え方一つで、右にも左にも、又良くも悪くも、解釈の出来るように、不得要領のうちに、何となく要領を得ていることである。勿論、これは敢て、此の文句に始まったことではなく、古い「歌占」にせよ、更に寡見には入らぬが、昔の口寄せの文句も、必ずや斯うしたように、解釈は聞く人の心まかせに融通が出来たことと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三は、この文句は禰津の市子に限られたものか、それとも全国とまで往かずとも、関東だけでも共通していたものかどうかの問題であるが、これは他に比較すべき材料を有たぬ私には、何れとも言うことが出来ぬけれども、兎に角に、禰津と同じ流派に属していた市子だけは用いたものと見ても、間違はあるまい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四は、此の文句の中で、同じような事を繰返して『最後をしたが残り多い、往生したが残念だ』とか、又は『明くる其日も暮れる夜も、胸に思わぬ事はない、心に出ない事はない』とか云うのが眼につくが、これは聴く者の胸を打ち、納得させる必要から来た一種の修辞であろう。これも大昔から『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;旛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はた&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;すすき穂に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;出&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;で&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し神』とか『天の事代、地の事代』とか繰返して云ったのと同じ意味で、ただそれが典雅であり、卑俗であるとの差別であって、古くから伝統的に残っていたものと考えられる。語尾に「ぞえ」を添えるのも、又それであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第五は、此の文句の作者と、その時代であるが、作者はいずれの修験の徒か、又は市子の亭主であろうと思うが、どちらにしろ余りに物を知っている者で無いことは疑いなく、時代はその時々に適応するよう改作されたようにも考えられるが、江戸期の中葉であると見れば、さしたる誤りはないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四、外人の見た巫女の作法とオシラ神&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正四年の春に、我国に留学されたニコライ・ネフスキー氏は、巫女の事に興味を有していて、我々日本人が思い及ばぬほどの深い研究を試みていた。殊に、オシラ神と、これを所持しているイタコとの考証には、同氏独特の意見を有っていた。私は、同氏が留学された年の秋から交際を始め、昭和四年九月に、前後十五年の長い星霜を経て、本国ロシヤに帰えらるるまで、厚誼を重ねていたが、此の長い間に、同氏から書状や、口頭で教えられた、巫女の呪術や、作法や、更にオシラ神の由来などに関したものが、尠からず存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものであるとか、陸中国で巫女をオカミンと云うのは、内儀の意では無くして、神様の心であるとも云うが如き、まだ此の外にも多くの高示を受けている。就中、オシラ神の由来にあっては、北方民族よりの輸入説を固く主張していたが、その要旨を言うと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東北地方に現存しているオシラ神は、太古の時代に、北方民族の持っていたものが、輸入（或は民族の移住と共に将来されたか）されたものと信じて誤りがないようである。それは、ポーランドのチャブリツカ女史の書かれたアボリジナル・オブ・サイベリヤに拠ると、蒙古のブリヤート族は、モリニ・ホルボ（モリは馬、ホルボは棒）という神を持っている。そして其の棒の長さは二尺位で、頭は馬、下は蹄になっていて、これに五色の布や、小さい鈴などを付けている。&lt;br /&gt;
: 日本のオシラ神に、馬の頭のある事は言うまでもないが、陸前国気仙郡の鳥羽氏から受けた報告によれば、同地には、頭は馬で、足が蹄のオシラ神が、立派に存在しているとの事である。五色の布はオシラ神のセンタク（着衣の俚称）と同じものである所から見るも、これは決して偶然の一致ではなくして、両者の間に交渉があるものと考えるのが至当である。&lt;br /&gt;
: 更に、もう少し微細な点を述べれば、オシラ神のセンタクの着せ方は、北方民族の古俗とも見るべき、貫頭衣（一枚の布の中央に穴をあけ、そこから首を出すもの）であって、即ち、北地寒国において工夫された、胡服系の形式である。&lt;br /&gt;
: 而して加賀の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しらやま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の主神である菊理姫命と、オシラ神との関係に就いては、深く考慮したことがないので、有無ともに断言することは出来ぬけれども、此の神の出自が、日本の神典ではやや明白を欠いているが、若し日本海方面に多くの例を示している「渡り神」の一つであるということが証明されるようになったら、両者の関意すべきであろう云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とのことであった。ここに聴いたままを記して後考に資するとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;五、三州刈谷地方の市子と其作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河国碧海郡刈谷町の加藤巌氏よりの高示によれば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、市子の名称は、よせみこ、くちよせと云っているが、蔭では悪称して、狐遣い、クダ遣いと云っている。&lt;br /&gt;
: 二、市子は悉く精眼者であって、盲人は無い。&lt;br /&gt;
: 三、市子に口寄せを頼む場合は、死人を呼び出すとき、行衛不明の人の、所在、方角、生死等を尋ぬること（実験者の談によれば、死人を呼び出すと、市子の声が死人の声になり、生前の事も知りよく当るが、生きた人の事は当らぬが多いという）。&lt;br /&gt;
: 四、口寄せの作法は、他と同じく、外法箱を前に置き、手向の水を、死人は枯葉で、生者は生葉で掻き廻し、その雫を外法箱に振りかけさせ、市子は箱に両臂をつき、呪文（これは判然せぬ）を唱え、催眠状態に入るのであるが、その折に、片手を挙げて、自分の顔を数度軽く撫で廻す（中山曰。前の笹ハタキと云い、此の市子と云い、何か顔へ触れることが、催眠に入る条件のように思われるが、判然せぬ）。それから種々と口奔るようになるのである。&lt;br /&gt;
: 五、口寄せに対する世人の信用は、全く有るか無きかの状態である。「死んだ妻の三十五日だから、一度逢って来よう」という程度の気休めに、それも極めて下級の者が頼む位のものである。中には、市子の言を信じて、亡者の供養をするとか、百万遍の念仏を行うとか、八十八ヶ所廻りをするとか、新しく仏壇を買い入れるとか、その人々に相談した事をやる。市子の弊害はここに存し、いずれかと云うと、死人に託して祈祷を続いて行わせ、祈祷料を貪るのが目的のようにも考えられる。&lt;br /&gt;
: 殊に馬鹿気ているのは、或る人が亡妻の霊を寄せたところが、その死霊の云うには「私は迷っているが、その迷いの元は、××さんに衣物一重ね差上げたのを、今になって娘にやれば宜かったと思いつき、それで迷っています。あの衣物を取り戻し、娘に遣って浮ばせてください」とのことに、その亭主は仔細を語り、衣物を貰い返したという話もある云々〔七〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;六、美濃太田町附近の市子と其の生活&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
美濃国加茂郡太田町の林魁一氏よりの高示を次に掲載する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 明治維新前には太田町には二人の市子あり、一人は信州の親方に縁付き、一人は死亡して、現今は全く影だになし。隣村の同郡坂祝村大字取組には、現在一人の市子居住し、本年八十歳の老婦（精眼者）にて、幼少の時に信州にて修行せるものと云っている。全体、美濃国に常住し、又は漂泊し来る市子は、多く信州上田在（中山曰。既記の禰津村なり）から来るのである。ここには四十八軒の親方あり、親方は男子にて、二三人以上数人の巫女を養い置き、市子が各地を旅かせぎする折は、親方も同行した。市子は免許状を貰って独立して、幾分の税金の如きものを親方へ送ったものだと云う。&lt;br /&gt;
: 市子を頼むのは、他地方も同じと思うが、死人の行処及び死人の心を知りたきとき、並びに遠方に在る生ける人の心を知るとき、又は生死不明の事を知りたきを第一とし、その他には、縁談、病気、失せ物、悪事災難の多い折などであるが、現今では市子の信用が無くなったので、依頼する者は極めて稀である。&lt;br /&gt;
: 此の地方の市子は、常に紺風呂敷に包みたる蜜柑箱ほどの箱（取組の巫女の箱は桐製である）を出し、その上に長方形の肱蒲団の如きものを置き、右手に念珠を持ち（以上、取組にて見し所なり、以前は念珠を持たぬと云う人もあり）、箱の上に両手の肱をつけ、箱の前には之れも他地方と同じく茶碗に水を入れて、それへ南天の葉を載せて置き、依頼者は南天の葉に水をつけ、三度その箱に注ぎかけるのである。死者の際は枯葉を用いると云う。然る後に、市子は神降し（此の文句は秘密とて教えぬ）と称して、日本諸国の神々の名を称え、それが終れば、目的の依頼を受けたることを、神降しと同じような口調で述べる。依頼者はこれを聞いて事の善悪その他を知るのである。市子が称え終ってから後は、問い返しても答えぬのを習いとしている。&lt;br /&gt;
: 市子の口上の一礼を、縁談に求めれば「北より東は宜いと云う、心に緩みのないよう、大事のことじゃ、ここが&amp;lt;u&amp;gt;かなめ&amp;lt;/u&amp;gt;で、南か西はおく（止めるの意）ように、二月か三月往かざれば、八月は身のため」云々と云うようなものである。即ち「方角は北東を吉とし、二月三月に嫁せざれば八月が宜い」と知るのである。茶碗の水と、南天の葉は、終ってから依頼者が捨てることになっている。&lt;br /&gt;
: 現今の市子の生活状態は、普通の民家に住み、農業か舟乗業を兼ぬる家族であって、一回の口寄せは二三十分間を要し、料金は二三十銭を貰う由にて、生活は言うまでもなく中流以下である。明治維新以前には、信州から二三人づつ組をなした市子が太田町に来たり、紺風呂敷に箱を包みこれを赤紐で結び背負い歩き、地方の人達はそれを呼び込んで依頼したものである云々〔八〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;七、近畿地方の市子と性的生活&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
京都府立第二中学校の井上頼寿氏から、前後四回まで高示に接しているが、その多き部分は、伊勢神宮の御子良及び母良に関するもので、然もその内容は、発表を憚からねばならぬ事もあるし、発表しても差支ないものは、私の言う口寄せ市子に交渉するところが尠く、所謂、帯に短し襷に長しというものである。それで茲には、前後四回の報告を、私が勝手に按排して、専ら近畿地方の巫女と、性的生活の方面を記すとした。此の点に就いては、深く井上氏の寛容を冀う次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山城国相楽郡地方では、神楽巫女のことを、東部では「そのいち」と称し、年齢は三十歳位を普通とし、西部にては「いちんど」と呼び、妙齢の者を普通としている。明治維新頃までは、祭礼の度に、神社の拝殿で神楽を舞う「そのいち」の家も残っていたが、現今では極めて少くなり、殊に西部では、妙齢の女子が、此の事を遣るのを厭うようになり、随って湯立の神事なども、十四五年前から廃止してしまった有様である。而して東部の「そのいち」は、巫女となると、神主との間に性に関する或種の儀式（中山曰。奥州のイタコと守り神との結婚の如きものか）が、行われたようだとの事である。同郡の&amp;lt;u&amp;gt;かわらや&amp;lt;/u&amp;gt;と云う土地では、以前「そのいち」を頼んで舞って貰う度に、お礼として米や銭を出す外に、人参や大根で男子の生殖器を作って添えたものだが、近年では警察署からの注意で、廃止することとなったと聴いた云々。&lt;br /&gt;
: 井上氏の同僚河野氏の談に『二三日前に大津市太郎坊のみこ（婆）の所へ、叔父の神経痛の薬を聞きに往きしに、年齢を問い、自己催眠の如き状になり、一種の節にて、急に&amp;lt;u&amp;gt;ぞんざい&amp;lt;/u&amp;gt;なる言葉にて物を言い始め、その中に薬を云うのであった。薬は悉く草根木皮の漢薬であるが、大てい本草綱目等に書いてあるもので、猶お、大和国宇陀郡地方の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;も、かくの如き薬名を神託によせて教えるとのことであった』云々〔九〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;八、阿波国美馬郡の市子と作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
阿波国美馬郡出身の後藤捷一氏の高示によれば、同郡地方の市子は、土着の精眼者で、社会的の地位は低く、生活も余り豊ではない。民家で市子を頼む場合は、原則としては喪家に限り、普通の家では特別の事情に由る外は、頼む事はない。横死するとか、夭亡するとかの場合に、その者が死んで仏となったか否か、それとも迷っているかと懸念して市子を煩わすのであるが、俚俗この事を「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;弓打&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゆみうち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;かける」と云っている。そして弓打かけに往く時は、必ず死者の位牌を持参し、市子は此の位牌に向って、何か呪文を唱え（中山曰。讃岐香川郡の市子は此の時に、白布で包んだ例の外法箱へ片手を載せ、その掌に飯を盛った茶碗を持つと聞いている）ているうちに、市子は何時しか位牌の主の死者となり、依頼者と談話を交換するのであるが、併しその文句は概して定まっていて、よく来てくれたとか、誰々が来ていぬとか、石碑を建ててくれぬので仏になれずに迷っているとか、或は死者が幼年である場合は、冥土で祖父さんに抱かれているとか、お父さんが来ていぬが、どうしたのかなどと云い、更に妻を残して死んだ男なれば、子供の事を呉々も頼むとか、殆んど版に起したような事を言うが、往々冥土にいる筈の祖父が健在したり、子供が無いのに頼むなどの失敗を繰り返すこともある。依頼者は、言うまでもなく、迷信の深い婦人達であって、稀には三里も五里もある遠い市子の許まで、頼みに出かける者もある。但し、同地の市子は、此の外の祈祷、縁談の吉凶、家相の善悪などの事は一切関係せぬ。喪家以外の民家で依頼する場合は、その家に不幸が続くので、何か古い時代に悪い死に方（横死憤死など）をした者の祟りではないかと思うとき、巫女を煩わして死者の望みを聞き、それを果してやる時である云々〔一〇〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;九、土佐高知市の市子と其の呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高知市の寺石正路氏の高示によれば、同市潮江町に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が居り、岸本竹子と称し、五十七八歳の老人にて夫あり、夫も祈祷師を営んでいる。世上この婦人に頼み、先祖の霊など呼び出す故、俗に『呼び出しをしてもらう』と云っている。巫女の家には、東方の棚に八百万の神々を祭り、西方の棚に諸仏を祀る。依頼者の望みにまかせ、神霊でも、仏霊でも、直ちに呼び出す。但し正月三ヶ日、或は神祭日には、神の霊は来るが、仏の霊は来らず、又た仏の霊の来たる日は、神の霊は出ず、同じ日に神と仏と憑りうつることは無いと云う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
呪法は昔の面影はなく、ただ神棚なり仏壇なりに向い、暫らく合掌祈念しているうちに、依頼者の指定した男なり女なりの霊が移り、依頼者と問答するのであって、祭り方はどうせよとか、墓の石が傾いたから直せと云うようなことを言い、更に依頼者から質問があれば、それに答弁する、巫女の声は、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かか&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;った男女、老若の声となるのが、不思議だと云われている。そして長いのになると、二三時間もかかり、それを一日に幾度も繰返すと、非常に骨が折れるものと見え、汗を流すと云う。猶この巫女は流行していて、今に毎日数人の依頼者がある。以上は、高知銀行員木股茂里馬氏及び潮江町の宮地昌次氏の実験談を聞いたものである〔一一〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一〇、筑前国直方附近の市子と其の呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
筑前国鞍手郡直方町の青山大麓氏からは、前後三回の高示に接しているが、ここには同氏の寛容に愬えて、私が勝手に要約することとした。但し事実においては、些末の相違なきことは改めて言うまでもない。左に掲載するものがそれである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 宗像郡上西郷村大字内殿に居る「みこじょう」は、久保田直子とて、本年六十歳ほどの老婆、私（青山氏）が訪ねた時は、籾摺りをしていた。此の家は神理教の教会になっているが、元は農家であって、現に農業を営み、教会は内職という有様である。私は附近の農家で教えてもらった通りに「仏様の御到来を聴きに参りました」と云ったところ、籾摺りの手をとどめ、直ちに私を仏間へ招じ、私の住居と死者の死亡年月日と行年及び姓名を問い仏前に蝋燭一本を点じ、線香四本（私の妻が死んで四年目だというので線香を四本立てたのか聞き漏らした）を立て、先ず初め十三仏の御詠歌とて、左の如き普通に行われている詠歌とは全く異るものを中音で唱えた。&lt;br /&gt;
:: 一、不動さま　　　　　神となり仏となりて水の中、雷火の中に立つは世のため&lt;br /&gt;
:: 二、釈迦如来さま　　　&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大小&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の年も習わぬ教文を、瑠璃を唱えしこれぞ教文&lt;br /&gt;
:: 三、文殊菩薩さま　　　普陀洛や居ながらとなう善根を、皆成仏の導きとなる&lt;br /&gt;
:: 四、普賢菩薩さま　　　としさそう只一人も百合の花、つぎざにのぼる慈悲な善根&lt;br /&gt;
:: 五、地蔵菩薩さま　　　善悪もつくりし罪は一心に、ねがえ助くる地蔵誓願&lt;br /&gt;
:: 六、弥勒菩薩さま　　　世の中はうそいつわりを納めおく、来たる未来は偽りはなし&lt;br /&gt;
:: 七、薬師如来さま　　　唱えれば薬の利益かいきある、時節を待てど養生はなし&lt;br /&gt;
:: 八、観世音菩薩さま　　神ほとけよくめも願いある深き、心をひとつ誠となえよ&lt;br /&gt;
:: 九、勢至菩薩さま　　　生れ来てそよしる事と知りながら、後生を願う人は少し&lt;br /&gt;
:: 十、阿弥陀如来さま　　父母のそだてし恩も忘れなば、救う阿弥陀の網にとまらぬ&lt;br /&gt;
:: 十一、阿閦如来さま　　願うなら仏と思う父母に、後生の元は親に孝行&lt;br /&gt;
:: 十二、大日如来さま　　幼な子よはてしこの子は契りなし、育てし親にあたえとの事&lt;br /&gt;
:: 十三、虚空蔵菩薩さま　風さそう哀れつれなし灯火の、消えし我が名は面影はなし&lt;br /&gt;
:: 　　　打ち返し　　　　面影は無いと云えども願うべし、先の苦楽はあからかにゆく&lt;br /&gt;
: 殆んど意味の通ぜぬものがある迄に唱え崩された詠歌が終ると、両手を揉んで、狐憑きのように頻りに震っていたが、今度は西国三十三番（これは流布のと同じ）の御詠歌を巡礼の口調で唱え、その終りに四五回&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;欠呻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あくび&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をして仏を招じた。この欠呻はほんとに冥府から来たというような陰気な長いものであったが、愈々仏が来ると「よう参って来てやんなさったナァ、こっちへ近う寄んなさい、今日は緩りお話をしましょう」と云うような事から始まって、色々の事を言ったが、初めから終りまで泣くことばかりであった。&lt;br /&gt;
: 仏との話が済んで、仏が帰えるとき前と同じく四五回欠呻をして、「よう参って来てやんなさった、私はほんとに嬉しい」と云って、一度泣いて仏は帰り、次で信濃の善光寺の御詠歌を唱えて終りとなった。料金は一回三十銭から五十銭だというので五十銭置いて来た。&lt;br /&gt;
: 内殿附近で尋ねた農婦の話では、祈祷を呼ぶ場合には、前に古い仏（祖父とか父親とかの仏になったもの）を呼んで、次に新仏を呼んでもらうものだと聞いたが、私の場合は直ぐに、四年前に死んだ妻の霊が出て来たのである。それから私の地方では、仏をそうして呼び出すと、位が下がると云うていて、軽々しく仏を呼んではならぬと戒めているようである〔一二〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の外にも三四の学友から高示を受けているが、市子の呪法も、生活も、社会的地位も、殆んど既載のものと大同小異であって、別段に取り立てて記すべきものが無かったので省略した。ただその中で注意を惹いたことは、浄土真宗の隆んに行われている地方には、市子の全く存して居らぬと云う事実であった。これは宗義として雑行を禁じているためであることは言うまでもない。而して以上各地の状況を高示によって比較すると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、奥州のイタコが何として古俗を伝えていて、殊に守り本尊と結婚すると云うが如きは、山城の相楽郡のそれと同じく、遠い昔に、巫女が神々と結婚した遺風として、珍重すべき資料である。&lt;br /&gt;
: 二、磐城の笹ハタキの唱える呪文中にある「翼ぞろい」の一章は、種々なる意味で有益なることは既載の如くであるが、それにしても、斯うした古い事象が残っていたことは、案外であった。&lt;br /&gt;
: 三、九州の「いちじょう」が唱える十三仏の詠歌が、普通に流布している以外のものであったことも、又私にとっては意外であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
単にこれだけを手懸りとして考察を試みることは早速であるが、民間に行われた十三仏の信仰は、その地方毎に内容を異にしていたものがあった事が知られると同時に、九州にても巫女がこれを護持仏とし、遠く離れた奥州のイタコがこれを守り本尊とするところを見ると、諸仏のうちから十三仏だけ引きぬいた信仰は、或は神道から放れた巫女が仏教に歩み寄った折に工夫したものではあるまいかとも思われる。極めて大胆な且つ粗笨な考え方ではあるが、記して後考を俟つとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お、此の機会において、高示を賜りし各位に対して、謹で敬意を表する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 青森県八戸市廿六日町のイタコ、根越スエ子（四十六歳）が、曾て「神付」を行うた折の、、用品調べというべきものを、中道等氏から恵贈されたので、茲に載せるとした。&amp;lt;br /&amp;gt;その用品の重なるものは、四斗俵二俵（一俵には米三斗三合三勺入れ、他の二俵には何にても三斗三升三合入れる）、八升俵二俵（これには米七升七合七勺を入れる）、白酒木綿四丈五尺一本、注連縄同上一本、イタコ着用の白木綿の単衣二枚（丈四尺）、腰巻二本、手拭二本（三尺三寸）、鉢巻二本（五尺五寸）、木綿一反（以上、白に限る）、白足袋二足、白扇（無地）二本、水桶（手洗鉢、盥とも三個）、膳椀（二人分）、オサゴ米、茣蓙二枚、幣束七本、礼拝用の小銭（三十三枚、五厘でも一銭でもよし）等である。&amp;lt;br /&amp;gt;尚「神付」を行う間は、イタコは一日に二三度づつ、垢離の代りにして入浴し、且つ七日間の修行中は、他家にて一切飲食せぬことの定めである。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 中道等氏は、青森県八戸市のお方で、曩に「青森県史」の大著があり、民俗学にも造詣が深く、大正の末頃に東京に移住されてから、度々お目にもかかり、文通もし、少からず裨益を受けている学友である。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 笹ハタキの唱える六根清浄祓などは、原の文句とは似つかぬまでに唱え&amp;lt;u&amp;gt;ゆがめ&amp;lt;/u&amp;gt;られていて、別段にかかるものを事々しく記載する必要はないのであるが、それを承知しながら、紙面を割いたには又相当の理由が存しているのである。それは外でもなく、先年私は九州における盲僧の徒が、堅牢地神品を琵琶に合せて誦することを中心として、盲僧派と当道派との関係を記した拙稿を「歴史地理」誌上に連載したことがある。勿論、その時は、地神品とあるから、金光最勝明王経のそれであろうと速断して記述したところ、後になって岩橋小弥太氏から「嬉遊笑覧」によると、盲僧の誦した地神品は、誠に埒ちなきものであると云うが如何と、一本参らせられたことがあるので、今度はそれを想い起し、唱え&amp;lt;u&amp;gt;ゆがめ&amp;lt;/u&amp;gt;られたものでも、後世に伝えるのは、又学徒の責任だと考えたので、敢て此の態度に出た次第である。因に言うが、佐坂氏は、石城郡上遠野村小学校に教鞭を執られているお方である。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 大正六年八月に学友ネフスキー氏と携えて、茨城県久慈郡天下野村大字持方へ旅行したことがある。その夜、同地の小学校長栗木三次氏が来られ、同地の巫女の唱える呪文とて、此の「白き御幣が三十と三本」云々の事を語り、且つ「その節調は軍歌の如く、勇しきものである」と話されたことがある。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : [[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|前]]に載せた越後国三面村の「邪権附」の呪文と同根であって、然もまだ此の方が余りに崩れていぬようである。猶おＹ先生のお話によると、此の呪文は他の地方にも行われているとのことである。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 猶、この場合に、佐坂氏の記事の暗示から導かれて、その真相がやや明確に知ることの出来たのは、平安朝に一派をなしていたと想われる「藤太巫女」の正体と、「炭焼藤太」の伝承の分布とである。&amp;lt;br /&amp;gt;而して、前者にあっては「梁塵秘抄」に『鈴はさや振る藤太みこ、眼より下にて振るときは、懈怠なりとて、神は怒らせたまふ』云々とあり、後者にあっては、柳田国男先生の「海南小記」に『炭焼小五郎が事』と題して、各地の類話を挙げ、これが詳細なる研究が試みられている。&amp;lt;br /&amp;gt;これに就いて、私の考えるには、此の「炭焼藤太」の伝承は、元は藤太の一派に属していた巫女が、謡い物として、各地を持ち歩き、その結果、西は琉球から、北は奥州まで、到る所に、此の伝承が、植えつけられたのではあるまいかと云う事である。管見を記して、江湖の叱正を仰ぐとする。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 加藤巌氏は「民族と歴史」の寄書家として知られていて、私もこれで知ったので、お手数を煩わしたのである。高示は昭和四年一月廿三日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 林魁一氏は斯界の先輩で、「東京人類学雑誌」「郷土研究」「民族」などで、芳名を存じあげていたのでお願いした。高示は昭和四年二月四日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 井上頼寿氏は、京都府立第二中学校に奉職されているが、雑誌「民族」で芳名を知り、御無理をお願いしたのである。同氏は明治の碩学井上頼国翁のお孫さんだと伝聞している。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 後藤捷一氏とは「郷土趣味」以来文通をするほどの親しみを持っていたので、それに甘えて、御手数をかけたのである。高示は昭和四年二月十二日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 寺石正路氏は、海南中学の教職に居り、著書も「食人風俗志」「南国遣事」その他多数あり、現に「土佐史壇」の牛耳を採って居らるる大先輩である。私は先年から書信を以て、常に高示に接しているので、又々その御厚誼に縋り、お願いしたのである。高示は昭和四年三月八日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 青山大麓氏は、氏が先年国学院大学に在学中から、交際を頂いていたので、今度も少からぬ御迷惑を懸けた次第なのである。氏は現に直方町の県社日方八幡宮に奉仕されている祠官で、少壮の篤学者である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1336</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第二章/第二節</title>
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		<updated>2010-05-30T07:48:21Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第二章|第二章　当代に於ける巫女と其の呪法]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　報告で知り得たる各地の巫女と其の呪法==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
予め問題を設けて之れが報告を求め、若しくは学友を訪ねて談話を承り、それに由って考説を試みることは、大に警戒を要すると共に、学徒としては寧ろ回避しなければならぬことである。私は深く此点に留意しているので、巫女史を起稿するに際しても、資料を厳撰し、出典の確実でないものは採用せぬよう心懸けることを忘れなかった。然るに、江戸期から明治期へかけては、巫女の社会的地位が余りに低下しているのと、その職程が余りに退化している為めに、文字に親しむ者は、之を伝うることを疎んじ、実際を知った者も、これを語ることを厭うと云う有様で、文献だけでは、如何にするも、その呪法なり、生活なりの委曲を知ることが出来ぬので、そこで回避すべき事とは知りながらも、未見曾識の学友に対して設問し、敢て報告を仰いだ次第なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して、その結果は、各位の芳志により、私の予期した以上の功果を収めることが出来たのは、非常なる仕合せであると考えているが、学術上の資料としては、その方法において、欠くところがあると信ずるので、ここに此の事を明記して、取捨は読者の高批に任せるとする。ただ、呉々も言って置きたいことは、私は報告を採用するに当り、全く私心を放れ、これを要約する場合にも、決して毫末の作為も加えぬという点である。勿論、当然のことではあるが、学徒としての私の面目をかけて、此の事を明記する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一、奥州のイタコと神附の作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中道等氏の談話を左に掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: イタコは悉く盲女である。盲女が此の事を専ら営むようになったに就いて、聴くも哀れな伝説が残っている。奥州では気候が寒冷のため、年穀の稔りが充分でないところから、大昔は盲人が出来ると、官憲がそれを一つ処に集め、五年に一遍、十年に一度という工合に、悉く殺害したものであった。それは恰も、琉球の与那国島で、食糧の自給自足を計るために、一定の人口以上は殺害し、今に「人はかり田」の哀話を残しているのと、同じような惨事が行われていた。然るに、或る年に盲人を殺すこととなったとき、領主が盲人にても何かの役に立つ者もあろうとして、一名の盲女を召し、庭前に何があるか言うて見よと命ずると、その盲女はイタコとしての修養があったものか、松の木の下に燈籠があると言い当てたので、爾来、盲女はイタコとして、生命を助くべしと定まり、これからイタコが公許されるようになったと云われている。&lt;br /&gt;
: 奥州のイタコが&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;何時&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;いつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ごろから在ったものか、それを正確に証示する記録はないが、江戸期に書かれた「遠野古事記」や「平山日記」などに見える所から推すと、相当に古い年代からと思われる。当時、音楽は普及されず、導引は工夫されず、盲女としては、積極的に生くる道が他に無かったのと、消極的には、神憑りするには、却って眼の見えぬ方が雑念を去る便利があったので、相率いて此の道に入った様である。そしてイタコは各々師匠をとって弟子入りをし、三年なり五年なりの年季が終り、愈々独立のイタコになるとき「神附」の式が挙げられる。この神附とは、そのイタコ一代の守り神となって、即ち呪力の源となるのであるから、イタコとして最も大切な事なのである。その式は、神附するイタコ米俵に馬乗りのように跨り、両足の先に神に供えるのと同じ種々の御馳走を盛った膳（膳には壱厘銭三十三個を置く）を踏まえ〔一〕、師匠始め大勢のイタコがそれを囲って呪文を唱え、終ると「何神が附いた」と囃し立てる。すると大抵は十三仏中の普賢が附いたとか、不動が附いたとか云って、それが一代の守り神と定る。そうすると、今度はその守り神と結婚する式を行うのであるが、最近では単に歯を染めるだけで済している。併し之は深い考察を要すべき点であって、古く我国の巫女が神と結婚した遺風を残しているものと信じられる。十三仏中では、弥陀と阿閦だけは余り附かぬようだが、他の仏はいづれも能くイタコに附く。之も又遠い昔にあっては、仏でなくして我が固有の神——若しくは先祖の霊が神として附いた事を考えなければならぬ。それは此の行事を「神附」と云っている点からも知る事が出来る。&lt;br /&gt;
: 私の知っている八戸町の石橋さだ子（中山曰。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|小寺氏の記事]]にあるオシラ神を遊ばせたイタコと同人である）は同地方きっての高名なイタコであるが、十六の時に完全に神が附いたほどの天分を有していた。同地方では此の神附に際し、七日の行を厳しく修めてから、三十三夜は生魚を食せず、熱心に先輩のイタコ共が集って祈るのであるが、中々憑り給わぬが普通であるのに、流石に聡明な少女であったと見え、僅に一日一夜にして託宣を得てしまった。守本尊は普賢菩薩である。此のさだ子の師匠のイタコも偉い女であって、その又先の師匠は八戸の領主の御殿へ上り、正月のオシラ遊びを始め、盆中の口寄から万般のことを占ったので、その名が遠近に聞え重きをなし、今のイタコに伝わる総ての秘法は、多く此の先々代が持っていたものだという。此のイタコの若い頃に、自分の前へ八分目ほど砂を入れた赤塗の鉢を置き、口寄せを始め、頼んだ先祖の仏を祈り下すと、いつの間にやら無数の小穴がポツポツと砂の上に現われた。これは仏の足跡だとあって、イタコよりも眼明きの方が吃驚したという話も残っている云々〔二〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二、磐城に残る笹ハタキの呪文&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像: 笹ハタキ.gif|thumb|磐城の笹ハタキ（佐坂通孝氏の写生）]]&lt;br /&gt;
[[画像: 免許.gif|thumb|left|巫女が示した免許状（半紙半分の原紙）&amp;lt;p&amp;gt;此巫女は鳴弦式の免許状なれど神座も仏座も両方をやる&amp;lt;/p&amp;gt;&amp;lt;p&amp;gt;惟神教会とあれど何処に在るが全く知らず従って教会の主神も判然せず&amp;lt;/p&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
磐城国石城郡上遠野村の佐坂通孝氏より受けた報告は、学術的に頗る価値多く、従って種々なる暗示に富んだ貴重なるものであった。左にその報告の全文を原文のまま掲載し、更に多少の私見を加えるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、神子の名称には、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ふじょ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、ワカ、モリッコ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;子守&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;こもり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、アガタ語り、笹ハタキ、其他色々ある由なれども、当地方にてはワカとのみ云う（中山曰。佐坂氏のスケッチにより見ると、呪術の作法は、明かに笹ハタキと思わるるを以て、私は姑らく斯く呼ぶこととした。殊に此の呪法は、私としては僅に一例しか知らぬ珍重すべきものと考えたからである）。&lt;br /&gt;
: 二、ワカの呪術を行う形式に二方法あり。一は、鳴弦式＝仏座、一は神降し式＝神座と云う。&lt;br /&gt;
: 鳴弦式、青竹にて弓を作り、弦は麻を撚りて之に充て、一尺五寸ばかりの竹の鞭にて、弦を打ち鳴らしつつ祈言（中山曰。呪文なり）をなしつつ、自己暗示によりて催眠す。催眠状態に入れるを普通、乗った（神仏が）と云う。神仏は弦に乗って来て、巫女に乗り移ると云っている。&lt;br /&gt;
: 降神式、珠数（中山曰。佐坂氏のスケッチを挿絵としたが、これを見ると、他の巫女が用いるのと同じ切り珠数のようである）を押し揉んで、祈言による自己暗示にて催眠に入る。&lt;br /&gt;
: 三、服装は、普通の着物の上に、赤色の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;法衣様&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ころもよう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の外被を為す。&lt;br /&gt;
: 四、机を前に置き、水を上げ、乗り移って来た時、竹ノ笹束を顔にあてて語り出す（中山曰。挿絵参照、これ即ち笹ハタキの作法である）。乗り移って来て笹を握るとやたらに震い出す（但し語る時は震えない）。&lt;br /&gt;
: 五、最初、乗り移るまでには、相当の時間を要す。祈言、唱え言、般若心経、神降し、仏降し等を、混合して繰返し繰返し約四十分ばかりにて乗り移って来て、笹を手に取り震い出して語り始めたり。私の語らせたものは四十五六の女なり。&lt;br /&gt;
: 第一回が済んで第二回、第二回を終るときには五分か十分。仏一人分を語り終ると眼が覚めるなり。そして第二回をする時には同様の祈言をなす。&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、左の祈言は、巫女に言わせて漢字を其音にあてはめたものなれば、漢字は全く当にならず。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、無学文盲の者なれば、語る処誤謬多くして、少しも意味をなさぬ所多し。少しも訂正を加えず、全く其ままなり。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、巫女の言う通りを書きつけたれば、清音も濁音に、濁音も清音になりて、意味の反対に思わるる箇所もあり。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、語句も文法も少しも当にならず、何が何やら全くチンプンカンプンなり。只大意を捉うるより外なし。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、此は神下しをする前に、静に言わせて書きたるものなり。数回反復させても同じことなれば、文句には間違なし。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　六根清浄の祓&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;無上信心&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;むじょうしんじん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;無明法益&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;むみょうほうやく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;千万劫&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;せんまんごう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;南窓劫&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なんそうごう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;禍根元&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かこんげん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、かんげに如来、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;真実儀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しんじつぎ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天孫降臨&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;てんそんこうりん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;供奉&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ぐぶ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;三十二神、天清浄、地清浄、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;内外&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ないぎ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;清浄、六根清浄、天清浄とは、天の二十八宿を清め、地清浄とは、地の三十六神を清め、清めて&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;汚&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;きたな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;きもたまりなければ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;濁&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;にご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;穢&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;けが&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れあらじとの玉垣、清く清しと申す。六根清浄の祓い、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天照皇大神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あまてらすすめおおかみ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;曰&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;のたまわ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;く、人は（心はとも云えり）即ち神と神とのあるじ、我がたましいたまし、もろことなかれ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;故&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かるがゆえ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に、目に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;諸々&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;もろもろ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず（思わずとも云えり）、口に諸々の不浄を言わず、鼻に諸々の不浄をかいで、身に諸々の不浄を触れで、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;中間&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なかま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に諸々の不浄を思わず、此の時に清く&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;潔&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;いさぎよ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ければ、神にも穢れる事なし、事を取らばハンベかりし（又はんべかりき）皆花よりなる、此の身となる、我身は即ち六根清浄なり〔三〕。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　神を降す時の祈り言&lt;br /&gt;
: 　　　　　　（荒神様や其他の神を降すに用うと云う）&lt;br /&gt;
: 南無や&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;般若&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はんにゃ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の十六善神、三昧剣はそびらにのせる、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;弓手&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゆんで&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;馬手&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;めて&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の矢壺をそれいる、般若の弓は引きたおめる、引いてはなせば悪魔を払う、観音の正座の、病者も&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;速&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;すみや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;か平癒を、タラトカンマン（中山曰。こは不動真言の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;怛羅吒晗𤚥&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たらたかんまん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の転訛と信ず）。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　仏を降す祈り言&lt;br /&gt;
: 奥の院には、駒もありそろ、駒もあれど花も咲きそろ、花ももりそろう、一丈五尺の駒だの、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;其上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そのうえ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、りんりんとうこう、かざはなざらば、音はりんりん、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;調&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ちょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;からからと、三世の諸仏も天降る、白き御幣は三十三本、赤き御幣は三十三本、青き御幣は三十と三本、合せて九十九本の御幣ははぎ奉れば、病者も&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;速&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;すみや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;か平癒をタラトカンマン、南無や観音大菩薩〔四〕。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　生霊を出す祈り言&lt;br /&gt;
: 一より二けんの三&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;勝&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;しはらい、五たんの巻物、六七ソワカ、八万（中山曰。難？）即滅、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;九&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;く&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;もつをととのい、十分&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;祀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れば、それにたたりは恐れをなし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;候&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そろ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、病者も平癒をタラトカンマン〔五〕。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;翼&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つばさ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ぞろい&lt;br /&gt;
: 雀と申す鳥は、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;聡聴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そうちょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;な鳥で、親の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;最後&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さいご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と申す時に、つけた&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鉄漿&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;もうちこぼし、柿のかたびら肩にかけ、参りたれば親の最後に逢うたとて、日本の六十余州のつくりの初穂、神にも参らぬ其の先に、餌食と与えられ。&lt;br /&gt;
: 燕と申す鳥は、聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;紅&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;べに&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;つけ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鉄漿&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;つけ、引きかンざりて、参りたれば、親の最後に逢わぬとて、日本の六十余州の土を、日に三度の餌食と与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。&lt;br /&gt;
: けらつつき申す鳥は、聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、天竺さ、はやのンぼりて、親の最後に逢わぬとて、一ツの虫は日に三度の餌食と与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。&lt;br /&gt;
: 水ほし鳥と申す鳥は聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、天竺さはやのンぼりて、親の最後に遇わぬとて、水ほしや、水欲しやと、よばわる声も恐ろしや、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。&lt;br /&gt;
: 鶏と申す鳥は聡聴な鳥など、親の最後と申す時に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;干&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ほ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;したる物をかきこぼし、干したるものを打ちこぼし、日に三度の餌食には、かき集めたるものを与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど（大正十五年八月十七日採集）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の報告は、その一つ一つが巫女史の資料として価値の多いものであるが、就中、関心すべきものは最後の「翼ぞろい」と題する一章である。此の呪文の内容は、現今においては童話となり、然も全国的に語られているものであるが、その古い相が巫女の呪文であったことは、全く佐坂氏の報告に接するまでは、想いも及ばなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して此の一事から当然考えられることは、第一は、此の「翼ぞろい」なる呪文は、私の知っている限りでは、最も古いものであって、前に載せた「千だん栗毛」などよりも更に一段と古いものであると思われる点である。第二は、これを証拠として、まだ他に沢山の呪文から出た童話がありはせぬかという想像である。第三は、斯うした童話の種を国々へ撒き歩いたのは巫女であって、大昔の巫女は小さき文化の運搬者であったことが判然した点である。第四は、更にこれから類推されることは、巫女の用いた呪文と歌謡との関係である〔六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の事象に就いては屢記を経たが、最近に金田一京助氏を訪ねた折にも此の事を語り合い、巫女が口寄せの折に、神降しの文句から他の言葉に移るときの&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;境目&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さかいめ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は『声はすれども姿は見えぬ』という一句であるが、これへ下の句の『君は野に鳴くきりぎりす』と附けて、一首の歌謡としたのは、古い作者が呪文から思いついたものだろうと話したことがある。即ち巫女の呪文は、一方には童話となって国々に行われ、一方には歌謡となって広まったことが、此の「翼ぞろい」から考えられるのである。第五は、此の「翼ぞろい」は、何処で生れたかという点である。南方熊楠氏ならぬ私には、これと類似または同根の説話が、どんな工合に分布されているか知ることは出来ぬが、恐らくは日本のみに限ったものではなく、印度か支那が母国ではないかと思うのである。そして此の文句が呪文となって、巫女の手に渡るようになったのは、都会から地方へ及ぼしたものであろうと考えている。勿論、それ等を具体的に説明することは、私の学問では企て及ばぬ所であるが、兎に角に斯うした手掛りだけでも与えて下さった佐坂氏の御配慮に対し、深く感謝の意を表する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三、信州禰津の市子の口寄せ文句&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信濃国小県郡根津村は、我国随一の巫女村であった（此の事は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第三節|後]]に詳しく述べる）。その根津の最後の巫女であった&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;初音&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はつね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ノノウというが、長野市において口寄せをした事実が、明治四十一年一月十四日から同十九日まで六回に亘り、同市発行の「長野新聞」に連載されたということを、上田中学に教鞭を執って居られる角田千里氏から通知を受けたので、私は直ちに此の記事の謄写を同社に依頼したところ、劇務に従われている同新聞記者伊勢豊氏が、私の閑事に深く厚意を有たれ『学問上の資料となるのであるから、一字一句も誤らぬよう写した』とて、左の如き記事を恵与してくれた。此の口寄せの文句は、私にとっては実に唯一のものであると同時に、こうして、死口、生口、荒神占（神口ともいう）三種を克明に記したものは、他に多く存していようとも思われぬので、少しく長文の嫌いはあるが、その全文を転載し、終りに二三の私見を添えることとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;俗に口寄せと云うものは、死口、生口、荒神の、三ツに分ってあって、死口は死人を呼出し、生口は現在の人を呼出して其思惑を聞き、荒神は一年の吉凶を占うものである。今は禁止されてあるが、偶々或る機会から其三口を聞くを得たから掲ぐる事とする。&lt;br /&gt;
: 或芸者が死んだ母親を呼出した死口から始めよう。&lt;br /&gt;
: 巫女の前には盆があって、盆の上に茶碗、茶碗の中には水が盛ってある。芸者は巫女の前に進み、枯れた木の葉を茶碗の水に入れ、右へ三度廻して亡母の行年を告げる。巫女は行くところとして必ず携帯する丈五寸横八寸程の黒い風呂敷を掛けた箱を前に、そこに右の手を頬杖に突き、左の手は肱から手を箱の上に横たえ、瞑目する事二分時、眼を閉じたまま静かに、和讃ともつかず、&amp;lt;u&amp;gt;くどき&amp;lt;/u&amp;gt;ともつかぬ可笑な節をつけて語り出した。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第一、死口　（亡母、行年五十四歳。本人某妓）&lt;br /&gt;
: 『千々に思は増す鏡、家を便り座を力、一度は聞いて見ばやとて、能うこそ呼んで呉れたぞえ、来るとは云うも夢の間に、夢ではうつつ&amp;lt;u&amp;gt;あずさ&amp;lt;/u&amp;gt;では、声聞くばかりで残り多い、姿&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;隠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;して残念だ、身も世が世でありたなら、何か便りにもなろうけれど、力になるもなれないし、便りになるもならずして、最後をしたが残り多い、往生したが残念だ、身さえ丈夫で居さえすりゃ、誰に負けなく劣らなく、両手を振って暮らすけれど、惜しい所でお&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;終&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いし、心残りに思うぞよ、定めし其方もくよくよと、俺に死なれて此方へは、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;嘸&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さぞ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;張合いが悪かろう、嘸力が落ちたろう、身は片腕をもがれたように思うだろう、惜しい所で終いして、後の所も乱脈だ、誠に後の張合も、俺があったる其時とは、はらからながらの所でも、何処か拍子の欠けたよう、何処か振合も違うよう、心残りだ後々の二人は二所、三人は謂わば三所と云うように、身も散々の振り合で、心残りに思うぞや、身も残念に思うけど、ツイ因縁が悪ければ、真実後さえも其儘に、何が何やら少しでも、物の極りと云うもなく、何うか後をばアアカリて、あれも纏めうと死ぬまでも、丹精に丹精苦労して、纏めもしたる身なれども、どれが纏めた&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;廉目&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かどめ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;やら、どれが&amp;lt;u&amp;gt;かなでた&amp;lt;/u&amp;gt;廉目やら、纏めきらぬで最後をし、かなで切らぬで往生した、後へ歎きを掛け放し、運勢の悪い俺だから、死んだ此身は何うならむ、何うも残した後々に、マダ苦になる事もあり、案ずることもマダあるぞ、どうか苦になる後々を、どうぞ纏めて、成るたけ世間の人様に、お世話にならぬようにして、ならぬ中にも精出して、出来ぬ中にも丹精して、何うか互に睦まじく、何うか依るべき血の中を、大事に掛けて暮されよ、何と云うても云われても、血は血でなければならぬから、身は身でなければならぬから、何か依るべき血の中や、遺した中だからとても、義理に切られぬ中だぞよ、何うぞ互に往復も、仏がなけりゃアアじゃないか、今の様はと陰からも、世間の口端に上らないで、何卒たっしゃで暮して呉れるように、思えば思う其度に、心残りに思うけど、これも前世の約束や…………。』&lt;br /&gt;
: 巫女の声は憐れにしめって来た。アノ世から悲しげに囁く声とも思わるる、陰にこもった声である。始めからハンカチで眼を抑えていた芸者は、ここに至って堪えがたくなったのであろう。慈愛ある母の面影さえ忍ばれたのであろう、身を慄わしてヨヨと啼きくずれたのである。&lt;br /&gt;
: 芸妓は人目も恥もかまわずに、其場へヨヨと泣きくずれたまま顔を上げ得ない。居合わせた者も憐れを誘われ&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鼻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をつまらせて眼をうるませる。一座はシンとして咳の音さえもない。&lt;br /&gt;
: 「去るものは日々に疎し」悲しい死別れに、身も世もあらぬ胸の悲しみも日を経て漸く薄らぎ行きしを、今日の口よせに依って、亡母が悲しい事の数々や、心残りを語られては、今更当時の有様を再びする心地して、正体もなく泣き沈んだのは無理もない。巫女は妙に人を引付ける抑揚のある哀調を以て尚も続ける。&lt;br /&gt;
: 『言い置く事もありたれど、身の死際の敢なさに、ツイ云う事も云わないで、語る事も語らなく、此方の事も間に合わず、目を閉ず時だからとても、末期の水も貰い外し、身の因縁が悪ければ、仕方もないが後々が、マダ血の中もあるだから、先祖の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;蔓&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つる&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の切れぬように、後の纏めをして呉れろ、西を向いても他人様、東を向いても他人様、他人の中の身の住居、長い月日の間には、善い事ばかりはなにあらん、詰らぬ事もあるだろうが、必らず悪い了簡や、そでない胸を出さないで、どうぞ彼の世の仏にも、又は身内の人々の、顔をよごさぬようにして、身の安心の出来るよに、喜ばしやれと云うように、暮して呉れろ頼むぞよ、只残念はあの時に、云い度い事の一言や、遺す言葉がありたるに、ツイ言わないで終いをし、後の所も其儘で、別れて来たるそれのみが、誠に誠に残念だ、他人様にも身内にも、皆心配を掛けた儘、ツイ一礼も告げないで、世話になったり放し、苦労掛けたら掛け棄て、終いをしたが残り多い、之も運勢が悪いので、仕方がないと諦めて、居たら居たらと思わずに、身の納まりを大切に、仏に安心させてくれ、今日の一座はようくれた、久しぶりでの物語り、語りて云おうとした心、話して胸が晴れたぞや、言えば語れば限りもなし、一日言うたからとても、話し切れない事もあり、語り切れない事あれど、何と口説いたからとても、旧の姿にゃならぬから、之で忘れて諦めて、名残惜しくも暇乞い、遙か来世へ立帰る…………』&lt;br /&gt;
: 終りを消えて行く——死んだ人が仮りに此世へ現われて、又冥途に帰って行く、それに丁度相応わしい——様に語り終った巫女は、静かに瞑目して居った眼を開いた。泣沈んだ芸妓は、漸く涙を歇め顔をあげて、其泣きはらして赤くなった瞼に、淋しい笑を浮べて一座を見渡す。雨後の名月、一段の美添えて却って痛々しい。&lt;br /&gt;
: 巫女は依頼者の悲しさも喜ばしさも関する所でない。自己の職務を為す上に於て、人の哀楽は対岸の火事である。語り了った彼女は、徐に頬杖を突いた手を解き身を起し、平然として次を待って居る。&lt;br /&gt;
: 代って他の芸妓が出る。前の死口の陰気なのに引替えて、是は亦生口の、情人？を呼出して、其意中を聴くと云う&amp;lt;u&amp;gt;イキ&amp;lt;/u&amp;gt;な派手やかなもの、一座の手前を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憚&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はばか&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;って、やろうか遣るまいかと躊躇の体、幾度か笑を浮べて一座を見廻し人の気を読んだ上、思い切って巫女の前に進む。&lt;br /&gt;
: 巫女は前同様箱に肱をして頬杖を突き、静かに眼を閉じる。芸妓は巫女の前に進んで、茶碗の水を紙の小捻に三度息を吐きかけ、右へ三遍廻し、口の中で極めて小声に男の年を告げた。誰れかが「イヨー」と声を掛ける。芸者はサッと耳元を赤くして一膝身をすさった。男の年を聞くを得なかったのは残念であった。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第二、生口　（女より男の意中を聞く）&lt;br /&gt;
: 『心の程も知れないと、案じて一座呉れたのか、苦労になるも無理はない、女心の一筋に、思い過ぎしが身に余り、どう云う積もりであろうかと、今日の一座も思うだろうが、身を疑ぐりて呉れるなよ、俺が心は了簡も知れない事もない筈だ。又身の上だからとても、自由になるもならないも、予て承知でありながら、身を疑ぐりて呉れるなよ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;当&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あて&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にならない事もなし、力にならぬ事はない、今斯うやりて身の上も、思う自由にもならぬから、其処のところからは推量して、必らず何うか俺が事、届かぬものだよくよくな、そでないものと身の上を、&amp;lt;u&amp;gt;さげすま&amp;lt;/u&amp;gt;ないで居てくれろ、今の住居をしてみれば、目上目下の中に立ち、身分も好きに往かないし、身体も自由にならぬから、其処の所は推量せよ、又往く始終や後々は、ならぬ中にも精出して、何うか力も添えようと、心に掛けて居るだから、アァは云うたが嘘らしい、斯うは云えども何うだろう、末の力になるまいか、後の便りになるまいかと、身を疑らず居て呉れよ、俺は人のように兎や斯うと、言葉の艶も嫌いだし、上手云うのも嫌いだが、腹に悪気のないだから、又往く始終や、後々はどうか此身も側にいる、人に云われた意地もあり、側で堰かれた意地もあり、又分別もする積り、身の了簡もあるだから、悪く思うて呉れるなよ、能うこそ今日の一座を、何う云う積りで居るやらと、思い過して呉れたろうか、知れない事もあるだろうが、今お互いに寄合って、是ぎり会わぬ訳じゃない、身も対面の其上は、身の善悪も知れること、何うかと疑う事はない、心に別な事もなし、身分に変る事もなし、是で聞分してくれろ、此上長座はならぬから、右で&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;体&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;からだ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は立帰る……』&lt;br /&gt;
: 右にて終る。一座の者は「お奢りお奢り」と芸者に迫る。芸者は嬉し気にニッコリ、座は急に陽気になる。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 代って一人、厳めしい洋服の紳士が出る。先生、先にやりたさは遣りたし、一寸変な工合だしと躊躇して居たのが、既に芸者と云う瀬踏みがあったから、猶予なくそれへ進む。紙を細く切ってそれに息を吐きかけ、撚って例の如く茶碗の水を右へ三遍、「先方は女二十六」キッパリ言った。「最早年寄ですネ」等冷かす者ある。紳士は、この場合聊か極りが悪い。笑を浮べた眼に一座を顧み、「出ように依っては奢るよ」と、お茶をにごして身を退ける。&lt;br /&gt;
: 老巫女は一座の動揺めくに関せず瞑目して、同一の口調を以って語り出す。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第三、生口　（男三十三歳、女二十六歳、男より女の意中を聞く）&lt;br /&gt;
: 『確と様子が知れぬから、何う云う心で居るだやら、どの了簡のものだかと、案じて寄せて呉れただろが、案じられるも無理はない、苦労になるも無理はない、身は一所にいてさえも、知れない事があるだもの、殊に斯うしてお互に、間離れて暮して居りや、どう云う様子で居るだかと、嘸ぞ心配に思うだろ、定めし苦労になろけれど、どの了簡で居られるか、何う云う運びであろうかと、案じて居ない事はない、苦労に思わぬ事はない、後の所や末始終、力になりて呉れるやら、便りになるかならないか、明くる其日も暮れる夜も、胸に思わぬ事はない、心に出ない事はない、安心させて呉れるのが、始終力になるのやら、但しは頼りにならないが、一つはお前の了簡だ、心一つのものだから、身の了簡を取極め、心定めて往後は、何うか末々お互に、力になりて頼むぞえ、便りになりて暮そうぞえ、何う云う運びに致すのも、一つはお前の胸次第、心一つのものだから、よく了簡を取極わめ、心定めてどちらになりと、力になるかならないか、何う云う運びに致すのか、どちらになりと一道の、身の挨拶をしてくれな……』。&lt;br /&gt;
: 座中の眼は紳士の一身に集まる。紳士は天井を仰ぎ、胸の時計の鎖を弄びながら得意満面？&lt;br /&gt;
: 『心懸りに思うから、何卒了簡を定めて、暮らして呉れるようにしな、身の対面の其上で、互の胸も話すべし、此上幾ら云うたとて、此処で埒がつくでなし、道理のつかぬ事だから、別けても亦物事は、余り座中も多ければ、話の出来ぬ訳もあり、身の対面をした上に、委細様子を話すから、その対面を待ちるぞえ、くどく云うまい語るまい……』。&lt;br /&gt;
: 巫女は約八分時にして語り終る。座に教員あり、官吏あり、商人あり、芸妓あり、皆一斉に紳士に向って、種々の矢を放つ。四面楚歌の裡にある紳士は、天井を仰ぎ、一層胸を突出し、右手に鎖をチャラチャラ鳴らし、大口開いて呵々と笑う。&lt;br /&gt;
: 巫女はけげん相に順序よく一々端から皆の顔を見る。&lt;br /&gt;
: 「今度は君がやって見給え」先の紳士が一人の青年を顧る。「僕ですか——まァ止しましょう」と笑う。「やり給え、面白いぞ」「でも僕には呼び出す身内も故人も知らないし、又貴方の様に意中を聞くべき者、ハハハハ女ですね、そう云う者はありませんから」「何うだか疑問だが……じゃ一年の吉凶を見る荒神と云うのをやったらいいだろう」「そうですね、敢て御幣をかつぐ訳でもありませんが、今年丁度厄年に当りますから、一ツそれをやって見ましょう」。青年は巫女の前に進み、茶碗の水に青木の葉を入れ、型の如く右へ三遍廻す。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第四、荒神　（男子二十五歳）&lt;br /&gt;
: 『天が庭には風騒ぐ、天清浄と座を祓い、地清浄と座を清め、身体を祓い身を清め、一代守る御神の吉凶大事を告げるから、心静かに聴き給え、生れに取れば随分に、心も大に平らかに、生れて来たる身であるが、身の運勢の振合いから、十と一とも云う時に、後ろ楯にもなる中に、力貰いが薄いのか、身の定まる縁談や、人の身定めて人の身の、心配をして出たが、五七年とは申すれど、中取分けて二三年、何うも好まぬ所あって、自分の常に思うよう、丁度に行くや行かないのは、身の心配もあるだろう、目上の人の言う事が、何うも自分の気に入らず、我身で思う其事が、目上の人の気に入らず、兎角心が前後して、合う辻つまが合いかねて、別けても去年一昨年の身の心配もして居たし、既に斯うかと云うような、気を揉む凶事もありたれど、マダ運勢が強かりし、目上の人の精分や、其方の自力が強いさに、後へ後へと去りながら、凌いで来たが逃れたが、見つ当年の春からも、大事の坂がありたるぞ、今年やお前の厄年だ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大刀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かたな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;なら目貫、扇なら要と云う所だから、モウ了簡を穏かに、心静かに企てろ、大事な所だ今其方も、一つ思案を違えると、目上の人の気も損ね、側の用いも薄くなり、第一運も乱れるし、今大切の身の上だ、随分其方の胸次第、了簡次第末始終の、身の安心や運勢もないのでないが、マダ何うも、身の了簡に定まらぬ、落つきかねる処あり、今身の上も色々に、どの了簡がよかろうか、どの手にしたが増しだかと、身の心配も多くあり、心も迷い気も狂い、何にかに苦労があるけれど、先ず物事も急がずに、心静かに企てろ、身の心づけ二三月、身の心配を求むるか、大事な月に当るぞよ、首尾よくそれを凌げれば、四月五月に宜けれども、六七月の表から、僅な事のいきさつで、身の心配を求むるか、云い聞けられて気を揉むか、之も宜くない大切な、月に当るが気を付けて、それを無難で逃れたら、先ず其方も八月九月に穏かで、十月よいが十一月へ掛けては、其方の大切な月に当るぞ気を付けろ……』。&lt;br /&gt;
: 紳士は青年の肩を叩く。「どうだ。君、気を付けたまえ」「イヤ一ツ的中しそうに思われる処があります」と言葉を切り、一寸首をかしげて「成程、そうかな」と独言する。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 「まてまて僕が一ツやる」座の一隅から、大声を上げて巫女の前に出たのは一人の書生、黒木綿の五ツ紋に、ヒダもくずれた袴を着けた、満身元気に満ち満ちた面魂。巫女の前に座ると「僕の先生に対する感想を聞きたい、頼むぞ」と例の茶碗の水を紙捻で廻す。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第五、生口　（男より男の意中を聞く）&lt;br /&gt;
: 『言って聞かせる此身より、其方の胸が分らない、その了簡が知れかねる、何ういう胸で居るだやら、何ういう積りのものだやら、其方の胸が知れかねる、今斯うやって見て居れば、定めし陰じゃ色々に、アァは言いそもない筈だ、斯うはしそうもないものだ、義理も人情もなきものと、必ず思うて身の上を、さげすまないで居て呉れナ、悪く思うて呉れるなよ、義理ある中を義理悪くする了簡もないし、又理を非に曲げて意気悪く、否やを云うた訳じゃなし、兎や斯う云おうと思わない、一ツは其方の胸次第、藤にもなれば柳にも、ならない事もないだから、必ず必ず身の上を、思い過ごして色々と、身をさげすんで呉れるなよ。少しの物のいきさつで、拠ろない訳からで、ツイ其方にも悪くなる、届かぬ所もありたれど、今の運びであるけれど、身は斯うやりて居ながらも、どの成行がよかろうか、何う云う手段がましだかと、色々胸じゃ気を揉むし、考え見ない事もなし、心配しない事はない、ヨモヤ斯う云う訳がらで、余計な気込みを致そうも、身の心配をしようとは、微塵が程も思わねど、これも余儀ない訳がらだ、又身の上も、七重の膝も八重に折り、事の法立も致そうけれど、真個余儀ない訳がらで、届かぬ処もあっただし、悪かな所もあったれど、其処の処は不承して、必ず悪く思うなよ、篤と合点の往くように、何うか其方へ知れるように、陰の噂や陰からの、人の陰言云わないで、内事に掛けて居てくれナ、今斯う此処の座で、言い訳らしく愚痴らしく、兎や角う云うたからとても、身の言訳をするばかり、只だ愚痴らしく此処の座で、所埒の付かぬ事だから、一座は之で聞きわけて、推量ありて頼むぞえ、能うこそ今日の一座をも、何う云う積りで居るやらと、身の親切があればこそ、今日の一座も呉れたろが、身の対面の其上で、委細様子も知らそから、今日の一座はこれ迄に、聞きわけあって頼むぞえ、気も取込みて居て見れば、思う長座もならぬから、右の体に立かえる……』。&lt;br /&gt;
: 書生君「馬鹿ッ」と一喝、「僕の先生が、そんな愚痴のような弱い事を云うものか」と肩を怒らして、大いに威張る（完）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の口寄せの文句を通読して、直ちに感ずることは、第一は、その文句が極めて通俗であり、粗野であり、如何にも無学の市子が、口から耳へ聞き覚えそうなものという事である。併し、強いて言えば、全国を旅から旅へかけて渉り歩き、あらゆる人々（殊に女子）を相手にするのであるから、斯うした俚言俗語をつらねたものが、必要とされていたのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二は、文句が始めから終りまで、何等捕捉するところがなく、下世話にいう鰻に荷鞍の譬えのように、のらりくらりとしたものであって、依頼者の考え方一つで、右にも左にも、又良くも悪くも、解釈の出来るように、不得要領のうちに、何となく要領を得ていることである。勿論、これは敢て、此の文句に始まったことではなく、古い「歌占」にせよ、更に寡見には入らぬが、昔の口寄せの文句も、必ずや斯うしたように、解釈は聞く人の心まかせに融通が出来たことと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三は、この文句は禰津の市子に限られたものか、それとも全国とまで往かずとも、関東だけでも共通していたものかどうかの問題であるが、これは他に比較すべき材料を有たぬ私には、何れとも言うことが出来ぬけれども、兎に角に、禰津と同じ流派に属していた市子だけは用いたものと見ても、間違はあるまい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四は、此の文句の中で、同じような事を繰返して『最後をしたが残り多い、往生したが残念だ』とか、又は『明くる其日も暮れる夜も、胸に思わぬ事はない、心に出ない事はない』とか云うのが眼につくが、これは聴く者の胸を打ち、納得させる必要から来た一種の修辞であろう。これも大昔から『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;旛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はた&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;すすき穂に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;出&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;で&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し神』とか『天の事代、地の事代』とか繰返して云ったのと同じ意味で、ただそれが典雅であり、卑俗であるとの差別であって、古くから伝統的に残っていたものと考えられる。語尾に「ぞえ」を添えるのも、又それであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第五は、此の文句の作者と、その時代であるが、作者はいずれの修験の徒か、又は市子の亭主であろうと思うが、どちらにしろ余りに物を知っている者で無いことは疑いなく、時代はその時々に適応するよう改作されたようにも考えられるが、江戸期の中葉であると見れば、さしたる誤りはないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四、外人の見た巫女の作法とオシラ神&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正四年の春に、我国に留学されたニコライ・ネフスキー氏は、巫女の事に興味を有していて、我々日本人が思い及ばぬほどの深い研究を試みていた。殊に、オシラ神と、これを所持しているイタコとの考証には、同氏独特の意見を有っていた。私は、同氏が留学された年の秋から交際を始め、昭和四年九月に、前後十五年の長い星霜を経て、本国ロシヤに帰えらるるまで、厚誼を重ねていたが、此の長い間に、同氏から書状や、口頭で教えられた、巫女の呪術や、作法や、更にオシラ神の由来などに関したものが、尠からず存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものであるとか、陸中国で巫女をオカミンと云うのは、内儀の意では無くして、神様の心であるとも云うが如き、まだ此の外にも多くの高示を受けている。就中、オシラ神の由来にあっては、北方民族よりの輸入説を固く主張していたが、その要旨を言うと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東北地方に現存しているオシラ神は、太古の時代に、北方民族の持っていたものが、輸入（或は民族の移住と共に将来されたか）されたものと信じて誤りがないようである。それは、ポーランドのチャブリツカ女史の書かれたアボリジナル・オブ・サイベリヤに拠ると、蒙古のブリヤート族は、モリニ・ホルボ（モリは馬、ホルボは棒）という神を持っている。そして其の棒の長さは二尺位で、頭は馬、下は蹄になっていて、これに五色の布や、小さい鈴などを付けている。&lt;br /&gt;
: 日本のオシラ神に、馬の頭のある事は言うまでもないが、陸前国気仙郡の鳥羽氏から受けた報告によれば、同地には、頭は馬で、足が蹄のオシラ神が、立派に存在しているとの事である。五色の布はオシラ神のセンタク（着衣の俚称）と同じものである所から見るも、これは決して偶然の一致ではなくして、両者の間に交渉があるものと考えるのが至当である。&lt;br /&gt;
: 更に、もう少し微細な点を述べれば、オシラ神のセンタクの着せ方は、北方民族の古俗とも見るべき、貫頭衣（一枚の布の中央に穴をあけ、そこから首を出すもの）であって、即ち、北地寒国において工夫された、胡服系の形式である。&lt;br /&gt;
: 而して加賀の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しらやま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の主神である菊理姫命と、オシラ神との関係に就いては、深く考慮したことがないので、有無ともに断言することは出来ぬけれども、此の神の出自が、日本の神典ではやや明白を欠いているが、若し日本海方面に多くの例を示している「渉り神」の一つであるということが証明されるようになったら、両者の関意すべきであろう云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とのことであった。ここに聴いたままを記して後考に資するとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;五、三州刈谷地方の市子と其作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河国碧海郡刈谷町の加藤巌氏よりの高示によれば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、市子の名称は、よせみこ、くちよせと云っているが、蔭では悪称して、狐遣い、クダ遣いと云っている。&lt;br /&gt;
: 二、市子は悉く精眼者であって、盲人は無い。&lt;br /&gt;
: 三、市子に口寄せを頼む場合は、死人を呼び出すとき、行衛不明の人の、所在、方角、生死等を尋ぬること（実験者の談によれば、死人を呼び出すと、市子の声が死人の声になり、生前の事も知りよく当るが、生きた人の事は当らぬが多いという）。&lt;br /&gt;
: 四、口寄せの作法は、他と同じく、外法箱を前に置き、手向の水を、死人は枯葉で、生者は生葉で掻き廻し、その雫を外法箱に振りかけさせ、市子は箱に両臂をつき、呪文（これは判然せぬ）を唱え、催眠状態に入るのであるが、その折に、片手を挙げて、自分の顔を数度軽く撫で廻す（中山曰。前の笹ハタキと云い、此の市子と云い、何か顔へ触れることが、催眠に入る条件のように思われるが、判然せぬ）。それから種々と口奔るようになるのである。&lt;br /&gt;
: 五、口寄せに対する世人の信用は、全く有るか無きかの状態である。「死んだ妻の三十五日だから、一度逢って来よう」という程度の気休めに、それも極めて下級の者が頼む位のものである。中には、市子の言を信じて、亡者の供養をするとか、百万遍の念仏を行うとか、八十八ヶ所廻りをするとか、新しく仏壇を買い入れるとか、その人々に相談した事をやる。市子の弊害はここに存し、いずれかと云うと、死人に託して祈祷を続いて行わせ、祈祷料を貪るのが目的のようにも考えられる。&lt;br /&gt;
: 殊に馬鹿気ているのは、或る人が亡妻の霊を寄せたところが、その死霊の云うには「私は迷っているが、その迷いの元は、××さんに衣物一重ね差上げたのを、今になって娘にやれば宜かったと思いつき、それで迷っています。あの衣物を取り戻し、娘に遣って浮ばせてください」とのことに、その亭主は仔細を語り、衣物を貰い返したという話もある云々〔七〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;六、美濃太田町附近の市子と其の生活&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
美濃国加茂郡太田町の林魁一氏よりの高示を次に掲載する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 明治維新前には太田町には二人の市子あり、一人は信州の親方に縁付き、一人は死亡して、現今は全く影だになし。隣村の同郡坂祝村大字取組には、現在一人の市子居住し、本年八十歳の老婦（精眼者）にて、幼少の時に信州にて修行せるものと云っている。全体、美濃国に常住し、又は漂泊し来る市子は、多く信州上田在（中山曰。既記の禰津村なり）から来るのである。ここには四十八軒の親方あり、親方は男子にて、二三人以上数人の巫女を養い置き、市子が各地を旅かせぎする折は、親方も同行した。市子は免許状を貰って独立して、幾分の税金の如きものを親方へ送ったものだと云う。&lt;br /&gt;
: 市子を頼むのは、他地方も同じと思うが、死人の行処及び死人の心を知りたきとき、並びに遠方に在る生ける人の心を知るとき、又は生死不明の事を知りたきを第一とし、その他には、縁談、病気、失せ物、悪事災難の多い折などであるが、現今では市子の信用が無くなったので、依頼する者は極めて稀である。&lt;br /&gt;
: 此の地方の市子は、常に紺風呂敷に包みたる蜜柑箱ほどの箱（取組の巫女の箱は桐製である）を出し、その上に長方形の肱蒲団の如きものを置き、右手に念珠を持ち（以上、取組にて見し所なり、以前は念珠を持たぬと云う人もあり）、箱の上に両手の肱をつけ、箱の前には之れも他地方と同じく茶碗に水を入れて、それへ南天の葉を載せて置き、依頼者は南天の葉に水をつけ、三度その箱に注ぎかけるのである。死者の際は枯葉を用いると云う。然る後に、市子は神降し（此の文句は秘密とて教えぬ）と称して、日本諸国の神々の名を称え、それが終れば、目的の依頼を受けたることを、神降しと同じような口調で述べる。依頼者はこれを聞いて事の善悪その他を知るのである。市子が称え終ってから後は、問い返しても答えぬのを習いとしている。&lt;br /&gt;
: 市子の口上の一礼を、縁談に求めれば「北より東は宜いと云う、心に緩みのないよう、大事のことじゃ、ここが&amp;lt;u&amp;gt;かなめ&amp;lt;/u&amp;gt;で、南か西はおく（止めるの意）ように、二月か三月往かざれば、八月は身のため」云々と云うようなものである。即ち「方角は北東を吉とし、二月三月に嫁せざれば八月が宜い」と知るのである。茶碗の水と、南天の葉は、終ってから依頼者が捨てることになっている。&lt;br /&gt;
: 現今の市子の生活状態は、普通の民家に住み、農業か舟乗業を兼ぬる家族であって、一回の口寄せは二三十分間を要し、料金は二三十銭を貰う由にて、生活は言うまでもなく中流以下である。明治維新以前には、信州から二三人づつ組をなした市子が太田町に来たり、紺風呂敷に箱を包みこれを赤紐で結び背負い歩き、地方の人達はそれを呼び込んで依頼したものである云々〔八〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;七、近畿地方の市子と性的生活&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
京都府立第二中学校の井上頼寿氏から、前後四回まで高示に接しているが、その多き部分は、伊勢神宮の御子良及び母良に関するもので、然もその内容は、発表を憚からねばならぬ事もあるし、発表しても差支ないものは、私の言う口寄せ市子に交渉するところが尠く、所謂、帯に短し襷に長しというものである。それで茲には、前後四回の報告を、私が勝手に按排して、専ら近畿地方の巫女と、性的生活の方面を記すとした。此の点に就いては、深く井上氏の寛容を冀う次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山城国相楽郡地方では、神楽巫女のことを、東部では「そのいち」と称し、年齢は三十歳位を普通とし、西部にては「いちんど」と呼び、妙齢の者を普通としている。明治維新頃までは、祭礼の度に、神社の拝殿で神楽を舞う「そのいち」の家も残っていたが、現今では極めて少くなり、殊に西部では、妙齢の女子が、此の事を遣るのを厭うようになり、随って湯立の神事なども、十四五年前から廃止してしまった有様である。而して東部の「そのいち」は、巫女となると、神主との間に性に関する或種の儀式（中山曰。奥州のイタコと守り神との結婚の如きものか）が、行われたようだとの事である。同郡の&amp;lt;u&amp;gt;かわらや&amp;lt;/u&amp;gt;と云う土地では、以前「そのいち」を頼んで舞って貰う度に、お礼として米や銭を出す外に、人参や大根で男子の生殖器を作って添えたものだが、近年では警察署からの注意で、廃止することとなったと聴いた云々。&lt;br /&gt;
: 井上氏の同僚河野氏の談に『二三日前に大津市太郎坊のみこ（婆）の所へ、叔父の神経痛の薬を聞きに往きしに、年齢を問い、自己催眠の如き状になり、一種の節にて、急に&amp;lt;u&amp;gt;ぞんざい&amp;lt;/u&amp;gt;なる言葉にて物を言い始め、その中に薬を云うのであった。薬は悉く草根木皮の漢薬であるが、大てい本草綱目等に書いてあるもので、猶お、大和国宇陀郡地方の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;も、かくの如き薬名を神託によせて教えるとのことであった』云々〔九〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;八、阿波国美馬郡の市子と作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
阿波国美馬郡出身の後藤捷一氏の高示によれば、同郡地方の市子は、土着の精眼者で、社会的の地位は低く、生活も余り豊ではない。民家で市子を頼む場合は、原則としては喪家に限り、普通の家では特別の事情に由る外は、頼む事はない。横死するとか、夭亡するとかの場合に、その者が死んで仏となったか否か、それとも迷っているかと懸念して市子を煩わすのであるが、俚俗この事を「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;弓打&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゆみうち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;かける」と云っている。そして弓打かけに往く時は、必ず死者の位牌を持参し、市子は此の位牌に向って、何か呪文を唱え（中山曰。讃岐香川郡の市子は此の時に、白布で包んだ例の外法箱へ片手を載せ、その掌に飯を盛った茶碗を持つと聞いている）ているうちに、市子は何時しか位牌の主の死者となり、依頼者と談話を交換するのであるが、併しその文句は概して定まっていて、よく来てくれたとか、誰々が来ていぬとか、石碑を建ててくれぬので仏になれずに迷っているとか、或は死者が幼年である場合は、冥土で祖父さんに抱かれているとか、お父さんが来ていぬが、どうしたのかなどと云い、更に妻を残して死んだ男なれば、子供の事を呉々も頼むとか、殆んど版に起したような事を言うが、往々冥土にいる筈の祖父が健在したり、子供が無いのに頼むなどの失敗を繰り返すこともある。依頼者は、言うまでもなく、迷信の深い婦人達であって、稀には三里も五里もある遠い市子の許まで、頼みに出かける者もある。但し、同地の市子は、此の外の祈祷、縁談の吉凶、家相の善悪などの事は一切関係せぬ。喪家以外の民家で依頼する場合は、その家に不幸が続くので、何か古い時代に悪い死に方（横死憤死など）をした者の祟りではないかと思うとき、巫女を煩わして死者の望みを聞き、それを果してやる時である云々〔一〇〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;九、土佐高知市の市子と其の呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高知市の寺石正路氏の高示によれば、同市潮江町に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が居り、岸本竹子と称し、五十七八歳の老人にて夫あり、夫も祈祷師を営んでいる。世上この婦人に頼み、先祖の霊など呼び出す故、俗に『呼び出しをしてもらう』と云っている。巫女の家には、東方の棚に八百万の神々を祭り、西方の棚に諸仏を祀る。依頼者の望みにまかせ、神霊でも、仏霊でも、直ちに呼び出す。但し正月三ヶ日、或は神祭日には、神の霊は来るが、仏の霊は来らず、又た仏の霊の来たる日は、神の霊は出ず、同じ日に神と仏と憑りうつることは無いと云う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
呪法は昔の面影はなく、ただ神棚なり仏壇なりに向い、暫らく合掌祈念しているうちに、依頼者の指定した男なり女なりの霊が移り、依頼者と問答するのであって、祭り方はどうせよとか、墓の石が傾いたから直せと云うようなことを言い、更に依頼者から質問があれば、それに答弁する、巫女の声は、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かか&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;った男女、老若の声となるのが、不思議だと云われている。そして長いのになると、二三時間もかかり、それを一日に幾度も繰返すと、非常に骨が折れるものと見え、汗を流すと云う。猶この巫女は流行していて、今に毎日数人の依頼者がある。以上は、高知銀行員木股茂里馬氏及び潮江町の宮地昌次氏の実験談を聞いたものである〔一一〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一〇、筑前国直方附近の市子と其の呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
筑前国鞍手郡直方町の青山大麓氏からは、前後三回の高示に接しているが、ここには同氏の寛容に愬えて、私が勝手に要約することとした。但し事実においては、些末の相違なきことは改めて言うまでもない。左に掲載するものがそれである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 宗像郡上西郷村大字内殿に居る「みこじょう」は、久保田直子とて、本年六十歳ほどの老婆、私（青山氏）が訪ねた時は、籾摺りをしていた。此の家は神理教の教会になっているが、元は農家であって、現に農業を営み、教会は内職という有様である。私は附近の農家で教えてもらった通りに「仏様の御到来を聴きに参りました」と云ったところ、籾摺りの手をとどめ、直ちに私を仏間へ招じ、私の住居と死者の死亡年月日と行年及び姓名を問い仏前に蝋燭一本を点じ、線香四本（私の妻が死んで四年目だというので線香を四本立てたのか聞き漏らした）を立て、先ず初め十三仏の御詠歌とて、左の如き普通に行われている詠歌とは全く異るものを中音で唱えた。&lt;br /&gt;
:: 一、不動さま　　　　　神となり仏となりて水の中、雷火の中に立つは世のため&lt;br /&gt;
:: 二、釈迦如来さま　　　&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大小&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の年も習わぬ教文を、瑠璃を唱えしこれぞ教文&lt;br /&gt;
:: 三、文殊菩薩さま　　　普陀洛や居ながらとなう善根を、皆成仏の導きとなる&lt;br /&gt;
:: 四、普賢菩薩さま　　　としさそう只一人も百合の花、つぎざにのぼる慈悲な善根&lt;br /&gt;
:: 五、地蔵菩薩さま　　　善悪もつくりし罪は一心に、ねがえ助くる地蔵誓願&lt;br /&gt;
:: 六、弥勒菩薩さま　　　世の中はうそいつわりを納めおく、来たる未来は偽りはなし&lt;br /&gt;
:: 七、薬師如来さま　　　唱えれば薬の利益かいきある、時節を待てど養生はなし&lt;br /&gt;
:: 八、観世音菩薩さま　　神ほとけよくめも願いある深き、心をひとつ誠となえよ&lt;br /&gt;
:: 九、勢至菩薩さま　　　生れ来てそよしる事と知りながら、後生を願う人は少し&lt;br /&gt;
:: 十、阿弥陀如来さま　　父母のそだてし恩も忘れなば、救う阿弥陀の網にとまらぬ&lt;br /&gt;
:: 十一、阿閦如来さま　　願うなら仏と思う父母に、後生の元は親に孝行&lt;br /&gt;
:: 十二、大日如来さま　　幼な子よはてしこの子は契りなし、育てし親にあたえとの事&lt;br /&gt;
:: 十三、虚空蔵菩薩さま　風さそう哀れつれなし灯火の、消えし我が名は面影はなし&lt;br /&gt;
:: 　　　打ち返し　　　　面影は無いと云えども願うべし、先の苦楽はあからかにゆく&lt;br /&gt;
: 殆んど意味の通ぜぬものがある迄に唱え崩された詠歌が終ると、両手を揉んで、狐憑きのように頻りに震っていたが、今度は西国三十三番（これは流布のと同じ）の御詠歌を巡礼の口調で唱え、その終りに四五回&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;欠呻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あくび&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をして仏を招じた。この欠呻はほんとに冥府から来たというような陰気な長いものであったが、愈々仏が来ると「よう参って来てやんなさったナァ、こっちへ近う寄んなさい、今日は緩りお話をしましょう」と云うような事から始まって、色々の事を言ったが、初めから終りまで泣くことばかりであった。&lt;br /&gt;
: 仏との話が済んで、仏が帰えるとき前と同じく四五回欠呻をして、「よう参って来てやんなさった、私はほんとに嬉しい」と云って、一度泣いて仏は帰り、次で信濃の善光寺の御詠歌を唱えて終りとなった。料金は一回三十銭から五十銭だというので五十銭置いて来た。&lt;br /&gt;
: 内殿附近で尋ねた農婦の話では、祈祷を呼ぶ場合には、前に古い仏（祖父とか父親とかの仏になったもの）を呼んで、次に新仏を呼んでもらうものだと聞いたが、私の場合は直ぐに、四年前に死んだ妻の霊が出て来たのである。それから私の地方では、仏をそうして呼び出すと、位が下がると云うていて、軽々しく仏を呼んではならぬと戒めているようである〔一二〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の外にも三四の学友から高示を受けているが、市子の呪法も、生活も、社会的地位も、殆んど既載のものと大同小異であって、別段に取り立てて記すべきものが無かったので省略した。ただその中で注意を惹いたことは、浄土真宗の隆んに行われている地方には、市子の全く存して居らぬと云う事実であった。これは宗義として雑行を禁じているためであることは言うまでもない。而して以上各地の状況を高示によって比較すると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、奥州のイタコが何として古俗を伝えていて、殊に守り本尊と結婚すると云うが如きは、山城の相楽郡のそれと同じく、遠い昔に、巫女が神々と結婚した遺風として、珍重すべき資料である。&lt;br /&gt;
: 二、磐城の笹ハタキの唱える呪文中にある「翼ぞろい」の一章は、種々なる意味で有益なることは既載の如くであるが、それにしても、斯うした古い事象が残っていたことは、案外であった。&lt;br /&gt;
: 三、九州の「いちじょう」が唱える十三仏の詠歌が、普通に流布している以外のものであったことも、又私にとっては意外であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
単にこれだけを手懸りとして考察を試みることは早速であるが、民間に行われた十三仏の信仰は、その地方毎に内容を異にしていたものがあった事が知られると同時に、九州にても巫女がこれを護持仏とし、遠く離れた奥州のイタコがこれを守り本尊とするところを見ると、諸仏のうちから十三仏だけ引きぬいた信仰は、或は神道から放れた巫女が仏教に歩み寄った折に工夫したものではあるまいかとも思われる。極めて大胆な且つ粗笨な考え方ではあるが、記して後考を俟つとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お、此の機会において、高示を賜りし各位に対して、謹で敬意を表する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 青森県八戸市廿六日町のイタコ、根越スエ子（四十六歳）が、曾て「神付」を行うた折の、、用品調べというべきものを、中道等氏から恵贈されたので、茲に載せるとした。&amp;lt;br /&amp;gt;その用品の重なるものは、四斗俵二俵（一俵には米三斗三合三勺入れ、他の二俵には何にても三斗三升三合入れる）、八升俵二俵（これには米七升七合七勺を入れる）、白酒木綿四丈五尺一本、注連縄同上一本、イタコ着用の白木綿の単衣二枚（丈四尺）、腰巻二本、手拭二本（三尺三寸）、鉢巻二本（五尺五寸）、木綿一反（以上、白に限る）、白足袋二足、白扇（無地）二本、水桶（手洗鉢、盥とも三個）、膳椀（二人分）、オサゴ米、茣蓙二枚、幣束七本、礼拝用の小銭（三十三枚、五厘でも一銭でもよし）等である。&amp;lt;br /&amp;gt;尚「神付」を行う間は、イタコは一日に二三度づつ、垢離の代りにして入浴し、且つ七日間の修行中は、他家にて一切飲食せぬことの定めである。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 中道等氏は、青森県八戸市のお方で、曩に「青森県史」の大著があり、民俗学にも造詣が深く、大正の末頃に東京に移住されてから、度々お目にもかかり、文通もし、少からず裨益を受けている学友である。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 笹ハタキの唱える六根清浄祓などは、原の文句とは似つかぬまでに唱え&amp;lt;u&amp;gt;ゆがめ&amp;lt;/u&amp;gt;られていて、別段にかかるものを事々しく記載する必要はないのであるが、それを承知しながら、紙面を割いたには又相当の理由が存しているのである。それは外でもなく、先年私は九州における盲僧の徒が、堅牢地神品を琵琶に合せて誦することを中心として、盲僧派と当道派との関係を記した拙稿を「歴史地理」誌上に連載したことがある。勿論、その時は、地神品とあるから、金光最勝明王経のそれであろうと速断して記述したところ、後になって岩橋小弥太氏から「嬉遊笑覧」によると、盲僧の誦した地神品は、誠に埒ちなきものであると云うが如何と、一本参らせられたことがあるので、今度はそれを想い起し、唱え&amp;lt;u&amp;gt;ゆがめ&amp;lt;/u&amp;gt;られたものでも、後世に伝えるのは、又学徒の責任だと考えたので、敢て此の態度に出た次第である。因に言うが、佐坂氏は、石城郡上遠野村小学校に教鞭を執られているお方である。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 大正六年八月に学友ネフスキー氏と携えて、茨城県久慈郡天下野村大字持方へ旅行したことがある。その夜、同地の小学校長栗木三次氏が来られ、同地の巫女の唱える呪文とて、此の「白き御幣が三十と三本」云々の事を語り、且つ「その節調は軍歌の如く、勇しきものである」と話されたことがある。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : [[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|前]]に載せた越後国三面村の「邪権附」の呪文と同根であって、然もまだ此の方が余りに崩れていぬようである。猶おＹ先生のお話によると、此の呪文は他の地方にも行われているとのことである。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 猶、この場合に、佐坂氏の記事の暗示から導かれて、その真相がやや明確に知ることの出来たのは、平安朝に一派をなしていたと想われる「藤太巫女」の正体と、「炭焼藤太」の伝承の分布とである。&amp;lt;br /&amp;gt;而して、前者にあっては「梁塵秘抄」に『鈴はさや振る藤太みこ、眼より下にて振るときは、懈怠なりとて、神は怒らせたまふ』云々とあり、後者にあっては、柳田国男先生の「海南小記」に『炭焼小五郎が事』と題して、各地の類話を挙げ、これが詳細なる研究が試みられている。&amp;lt;br /&amp;gt;これに就いて、私の考えるには、此の「炭焼藤太」の伝承は、元は藤太の一派に属していた巫女が、謡い物として、各地を持ち歩き、その結果、西は琉球から、北は奥州まで、到る所に、此の伝承が、植えつけられたのではあるまいかと云う事である。管見を記して、江湖の叱正を仰ぐとする。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 加藤巌氏は「民族と歴史」の寄書家として知られていて、私もこれで知ったので、お手数を煩わしたのである。高示は昭和四年一月廿三日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 林魁一氏は斯界の先輩で、「東京人類学雑誌」「郷土研究」「民族」などで、芳名を存じあげていたのでお願いした。高示は昭和四年二月四日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 井上頼寿氏は、京都府立第二中学校に奉職されているが、雑誌「民族」で芳名を知り、御無理をお願いしたのである。同氏は明治の碩学井上頼国翁のお孫さんだと伝聞している。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 後藤捷一氏とは「郷土趣味」以来文通をするほどの親しみを持っていたので、それに甘えて、御手数をかけたのである。高示は昭和四年二月十二日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 寺石正路氏は、海南中学の教職に居り、著書も「食人風俗志」「南国遣事」その他多数あり、現に「土佐史壇」の牛耳を採って居らるる大先輩である。私は先年から書信を以て、常に高示に接しているので、又々その御厚誼に縋り、お願いしたのである。高示は昭和四年三月八日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 青山大麓氏は、氏が先年国学院大学に在学中から、交際を頂いていたので、今度も少からぬ御迷惑を懸けた次第なのである。氏は現に直方町の県社日方八幡宮に奉仕されている祠官で、少壮の篤学者である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1335</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第二章/第二節</title>
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		<updated>2010-05-28T17:55:27Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第二章|第二章　当代に於ける巫女と其の呪法]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　報告で知り得たる各地の巫女と其の呪法==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
予め問題を設けて之れが報告を求め、若しくは学友を訪ねて談話を承り、それに由って考説を試みることは、大に警戒を要すると共に、学徒としては寧ろ回避しなければならぬことである。私は深く此点に留意しているので、巫女史を起稿するに際しても、資料を厳撰し、出典の確実でないものは採用せぬよう心懸けることを忘れなかった。然るに、江戸期から明治期へかけては、巫女の社会的地位が余りに低下しているのと、その職程が余りに退化している為めに、文字に親しむ者は、之を伝うることを疎んじ、実際を知った者も、これを語ることを厭うと云う有様で、文献だけでは、如何にするも、その呪法なり、生活なりの委曲を知ることが出来ぬので、そこで回避すべき事とは知りながらも、未見曾識の学友に対して設問し、敢て報告を仰いだ次第なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して、その結果は、各位の芳志により、私の予期した以上の功果を収めることが出来たのは、非常なる仕合せであると考えているが、学術上の資料としては、その方法において、欠くところがあると信ずるので、ここに此の事を明記して、取捨は読者の高批に任せるとする。ただ、呉々も言って置きたいことは、私は報告を採用するに当り、全く私心を放れ、これを要約する場合にも、決して毫末の作為も加えぬという点である。勿論、当然のことではあるが、学徒としての私の面目をかけて、此の事を明記する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一、奥州のイタコと神附の作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中道等氏の談話を左に掲げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: イタコは悉く盲女である。盲女が此の事を専ら営むようになったに就いて、聴くも哀れな伝説が残っている。奥州では気候が寒冷のため、年穀の稔りが充分でないところから、大昔は盲人が出来ると、官憲がそれを一つ処に集め、五年に一遍、十年に一度という工合に、悉く殺害したものであった。それは恰も、琉球の与那国島で、食糧の自給自足を計るために、一定の人口以上は殺害し、今に「人はかり田」の哀話を残しているのと、同じような惨事が行われていた。然るに、或る年に盲人を殺すこととなったとき、領主が盲人にても何かの役に立つ者もあろうとして、一名の盲女を召し、庭前に何があるか言うて見よと命ずると、その盲女はイタコとしての修養があったものか、松の木の下に燈籠があると言い当てたので、爾来、盲女はイタコとして、生命を助くべしと定まり、これからイタコが公許されるようになったと云われている。&lt;br /&gt;
: 奥州のイタコが&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;何時&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;いつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ごろから在ったものか、それを正確に証示する記録はないが、江戸期に書かれた「遠野古事記」や「平山日記」などに見える所から推すと、相当に古い年代からと思われる。当時、音楽は普及されず、導引は工夫されず、盲女としては、積極的に生くる道が他に無かったのと、消極的には、神憑りするには、却って眼の見えぬ方が雑念を去る便利があったので、相率いて此の道に入った様である。そしてイタコは各々師匠をとって弟子入りをし、三年なり五年なりの年季が終り、愈々独立のイタコになるとき「神附」の式が挙げられる。この神附とは、そのイタコ一代の守り神となって、即ち呪力の源となるのであるから、イタコとして最も大切な事なのである。その式は、神附するイタコ米俵に馬乗りのように跨り、両足の先に神に供えるのと同じ種々の御馳走を盛った膳（膳には壱厘銭三十三個を置く）を踏まえ〔一〕、師匠始め大勢のイタコがそれを囲って呪文を唱え、終ると「何神が附いた」と囃し立てる。すると大抵は十三仏中の普賢が附いたとか、不動が附いたとか云って、それが一代の守り神と定る。そうすると、今度はその守り神と結婚する式を行うのであるが、最近では単に歯を染めるだけで済している。併し之は深い考察を要すべき点であって、古く我国の巫女が神と結婚した遺風を残しているものと信じられる。十三仏中では、弥陀と阿閦だけは余り附かぬようだが、他の仏はいづれも能くイタコに附く。之も又遠い昔にあっては、仏でなくして我が固有の神——若しくは先祖の霊が神として附いた事を考えなければならぬ。それは此の行事を「神附」と云っている点からも知る事が出来る。&lt;br /&gt;
: 私の知っている八戸町の石橋さだ子（中山曰。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|小寺氏の記事]]にあるオシラ神を遊ばせたイタコと同人である）は同地方きっての高名なイタコであるが、十六の時に完全に神が附いたほどの天分を有していた。同地方では此の神附に際し、七日の行を厳しく修めてから、三十三夜は生魚を食せず、熱心に先輩のイタコ共が集って祈るのであるが、中々憑り給わぬが普通であるのに、流石に聡明な少女であったと見え、僅に一日一夜にして託宣を得てしまった。守本尊は普賢菩薩である。此のさだ子の師匠のイタコも偉い女であって、その又先の師匠は八戸の領主の御殿へ上り、正月のオシラ遊びを始め、盆中の口寄から万般のことを占ったので、その名が遠近に聞え重きをなし、今のイタコに伝わる総ての秘法は、多く此の先々代が持っていたものだという。此のイタコの若い頃に、自分の前へ八分目ほど砂を入れた赤塗の鉢を置き、口寄せを始め、頼んだ先祖の仏を祈り下すと、いつの間にやら無数の小穴がポツポツと砂の上に現われた。これは仏の足跡だとあって、イタコよりも眼明きの方が吃驚したという話も残っている云々〔二〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二、磐城に残る笹ハタキの呪文&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像: 笹ハタキ.gif|thumb|磐城の笹ハタキ（佐坂通孝氏の写生）]]&lt;br /&gt;
[[画像: 免許.gif|thumb|left|巫女が示した免許状（半紙半分の原紙）&amp;lt;p&amp;gt;此巫女は鳴弦式の免許状なれど神座も仏座も両方をやる&amp;lt;/p&amp;gt;&amp;lt;p&amp;gt;惟神教会とあれど何処に在るが全く知らず従って教会の主神も判然せず&amp;lt;/p&amp;gt;]]&lt;br /&gt;
磐城国石城郡上遠野村の佐坂通孝氏より受けた報告は、学術的に頗る価値多く、従って種々なる暗示に富んだ貴重なるものであった。左にその報告の全文を原文のまま掲載し、更に多少の私見を加えるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、神子の名称には、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ふじょ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、ワカ、モリッコ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;子守&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;こもり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、アガタ語り、笹ハタキ、其他色々ある由なれども、当地方にてはワカとのみ云う（中山曰。佐坂氏のスケッチにより見ると、呪術の作法は、明かに笹ハタキと思わるるを以て、私は姑らく斯く呼ぶこととした。殊に此の呪法は、私としては僅に一例しか知らぬ珍重すべきものと考えたからである）。&lt;br /&gt;
: 二、ワカの呪術を行う形式に二方法あり。一は、鳴弦式＝仏座、一は神降し式＝神座と云う。&lt;br /&gt;
: 鳴弦式、青竹にて弓を作り、弦は麻を撚りて之に充て、一尺五寸ばかりの竹の鞭にて、弦を打ち鳴らしつつ祈言（中山曰。呪文なり）をなしつつ、自己暗示によりて催眠す。催眠状態に入れるを普通、乗った（神仏が）と云う。神仏は弦に乗って来て、巫女に乗り移ると云っている。&lt;br /&gt;
: 降神式、珠数（中山曰。佐坂氏のスケッチを挿絵としたが、これを見ると、他の巫女が用いるのと同じ切り珠数のようである）を押し揉んで、祈言による自己暗示にて催眠に入る。&lt;br /&gt;
: 三、服装は、普通の着物の上に、赤色の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;法衣様&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ころもよう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の外被を為す。&lt;br /&gt;
: 四、机を前に置き、水を上げ、乗り移って来た時、竹ノ笹束を顔にあてて語り出す（中山曰。挿絵参照、これ即ち笹ハタキの作法である）。乗り移って来て笹を握るとやたらに震い出す（但し語る時は震えない）。&lt;br /&gt;
: 五、最初、乗り移るまでには、相当の時間を要す。祈言、唱え言、般若心経、神降し、仏降し等を、混合して繰返し繰返し約四十分ばかりにて乗り移って来て、笹を手に取り震い出して語り始めたり。私の語らせたものは四十五六の女なり。&lt;br /&gt;
: 第一回が済んで第二回、第二回を終るときには五分か十分。仏一人分を語り終ると眼が覚めるなり。そして第二回をする時には同様の祈言をなす。&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、左の祈言は、巫女に言わせて漢字を其音にあてはめたものなれば、漢字は全く当にならず。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、無学文盲の者なれば、語る処誤謬多くして、少しも意味をなさぬ所多し。少しも訂正を加えず、全く其ままなり。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、巫女の言う通りを書きつけたれば、清音も濁音に、濁音も清音になりて、意味の反対に思わるる箇所もあり。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、語句も文法も少しも当にならず、何が何やら全くチンプンカンプンなり。只大意を捉うるより外なし。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
: &amp;lt;small&amp;gt;一、此は神下しをする前に、静に言わせて書きたるものなり。数回反復させても同じことなれば、文句には間違なし。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　六根清浄の祓&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;無上信心&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;むじょうしんじん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;無明法益&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;むみょうほうやく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;千万劫&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;せんまんごう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;南窓劫&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なんそうごう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;禍根元&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かこんげん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、かんげに如来、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;真実儀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しんじつぎ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天孫降臨&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;てんそんこうりん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;供奉&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ぐぶ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;三十二神、天清浄、地清浄、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;内外&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ないぎ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;清浄、六根清浄、天清浄とは、天の二十八宿を清め、地清浄とは、地の三十六神を清め、清めて&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;汚&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;きたな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;きもたまりなければ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;濁&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;にご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;穢&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;けが&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れあらじとの玉垣、清く清しと申す。六根清浄の祓い、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天照皇大神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あまてらすすめおおかみ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;曰&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;のたまわ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;く、人は（心はとも云えり）即ち神と神とのあるじ、我がたましいたまし、もろことなかれ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;故&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かるがゆえ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に、目に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;諸々&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;もろもろ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず（思わずとも云えり）、口に諸々の不浄を言わず、鼻に諸々の不浄をかいで、身に諸々の不浄を触れで、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;中間&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なかま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に諸々の不浄を思わず、此の時に清く&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;潔&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;いさぎよ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ければ、神にも穢れる事なし、事を取らばハンベかりし（又はんべかりき）皆花よりなる、此の身となる、我身は即ち六根清浄なり〔三〕。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　神を降す時の祈り言&lt;br /&gt;
: 　　　　　　（荒神様や其他の神を降すに用うと云う）&lt;br /&gt;
: 南無や&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;般若&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はんにゃ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の十六善神、三昧剣はそびらにのせる、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;弓手&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゆんで&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;馬手&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;めて&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の矢壺をそれいる、般若の弓は引きたおめる、引いてはなせば悪魔を払う、観音の正座の、病者も&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;速&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;すみや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;か平癒を、タラトカンマン（中山曰。こは不動真言の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;怛羅吒晗𤚥&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たらたかんまん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の転訛と信ず）。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　仏を降す祈り言&lt;br /&gt;
: 奥の院には、駒もありそろ、駒もあれど花も咲きそろ、花ももりそろう、一丈五尺の駒だの、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;其上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そのうえ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、りんりんとうこう、かざはなざらば、音はりんりん、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;調&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ちょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;からからと、三世の諸仏も天降る、白き御幣は三十三本、赤き御幣は三十三本、青き御幣は三十と三本、合せて九十九本の御幣ははぎ奉れば、病者も&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;速&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;すみや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;か平癒をタラトカンマン、南無や観音大菩薩〔四〕。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　生霊を出す祈り言&lt;br /&gt;
: 一より二けんの三&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;勝&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;しはらい、五たんの巻物、六七ソワカ、八万（中山曰。難？）即滅、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;九&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;く&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;もつをととのい、十分&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;祀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れば、それにたたりは恐れをなし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;候&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そろ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、病者も平癒をタラトカンマン〔五〕。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;翼&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つばさ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ぞろい&lt;br /&gt;
: 雀と申す鳥は、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;聡聴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そうちょう&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;な鳥で、親の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;最後&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さいご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と申す時に、つけた&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鉄漿&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;もうちこぼし、柿のかたびら肩にかけ、参りたれば親の最後に逢うたとて、日本の六十余州のつくりの初穂、神にも参らぬ其の先に、餌食と与えられ。&lt;br /&gt;
: 燕と申す鳥は、聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;紅&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;べに&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;つけ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鉄漿&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;つけ、引きかンざりて、参りたれば、親の最後に逢わぬとて、日本の六十余州の土を、日に三度の餌食と与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。&lt;br /&gt;
: けらつつき申す鳥は、聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、天竺さ、はやのンぼりて、親の最後に逢わぬとて、一ツの虫は日に三度の餌食と与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。&lt;br /&gt;
: 水ほし鳥と申す鳥は聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、天竺さはやのンぼりて、親の最後に遇わぬとて、水ほしや、水欲しやと、よばわる声も恐ろしや、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。&lt;br /&gt;
: 鶏と申す鳥は聡聴な鳥など、親の最後と申す時に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;干&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ほ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;したる物をかきこぼし、干したるものを打ちこぼし、日に三度の餌食には、かき集めたるものを与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど（大正十五年八月十七日採集）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の報告は、その一つ一つが巫女史の資料として価値の多いものであるが、就中、関心すべきものは最後の「翼ぞろい」と題する一章である。此の呪文の内容は、現今においては童話となり、然も全国的に語られているものであるが、その古い相が巫女の呪文であったことは、全く佐坂氏の報告に接するまでは、想いも及ばなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して此の一事から当然考えられることは、第一は、此の「翼ぞろい」なる呪文は、私の知っている限りでは、最も古いものであって、前に載せた「千だん栗毛」などよりも更に一段と古いものであると思われる点である。第二は、これを証拠として、まだ他に沢山の呪文から出た童話がありはせぬかという想像である。第三は、斯うした童話の種を国々へ撒き歩いたのは巫女であって、大昔の巫女は小さき文化の運搬者であったことが判然した点である。第四は、更にこれから類推されることは、巫女の用いた呪文と歌謡との関係である〔六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の事象に就いては屢記を経たが、最近に金田一京助氏を訪ねた折にも此の事を語り合い、巫女が口寄せの折に、神降しの文句から他の言葉に移るときの&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;境目&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さかいめ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は『声はすれども姿は見えぬ』という一句であるが、これへ下の句の『君は野に鳴くきりぎりす』と附けて、一首の歌謡としたのは、古い作者が呪文から思いついたものだろうと話したことがある。即ち巫女の呪文は、一方には童話となって国々に行われ、一方には歌謡となって広まったことが、此の「翼ぞろい」から考えられるのである。第五は、此の「翼ぞろい」は、何処で生れたかという点である。南方熊楠氏ならぬ私には、これと類似または同根の説話が、どんな工合に分布されているか知ることは出来ぬが、恐らくは日本のみに限ったものではなく、印度か支那が母国ではないかと思うのである。そして此の文句が呪文となって、巫女の手に渡るようになったのは、都会から地方へ及ぼしたものであろうと考えている。勿論、それ等を具体的に説明することは、私の学問では企て及ばぬ所であるが、兎に角に斯うした手掛りだけでも与えて下さった佐坂氏の御配慮に対し、深く感謝の意を表する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三、信州禰津の市子の口寄せ文句&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信濃国小県郡根津村は、我国随一の巫女村であった（此の事は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第三節|後]]に詳しく述べる）。その根津の最後の巫女であった&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;初音&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はつね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ノノウというが、長野市において口寄せをした事実が、明治四十一年一月十四日から同十九日まで六回に亘り、同市発行の「長野新聞」に連載されたということを、上田中学に教鞭を執って居られる角田千里氏から通知を受けたので、私は直ちに此の記事の謄写を同社に依頼したところ、劇務に従われている同新聞記者伊勢豊氏が、私の閑事に深く厚意を有たれ『学問上の資料となるのであるから、一字一句も誤らぬよう写した』とて、左の如き記事を恵与してくれた。此の口寄せの文句は、私にとっては実に唯一のものであると同時に、こうして、死口、生口、荒神占（神口ともいう）三種を克明に記したものは、他に多く存していようとも思われぬので、少しく長文の嫌いはあるが、その全文を転載し、終りに二三の私見を添えることとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;俗に口寄せと云うものは、死口、生口、荒神の、三ツに分ってあって、死口は死人を呼出し、生口は現在の人を呼出して其思惑を聞き、荒神は一年の吉凶を占うものである。今は禁止されてあるが、偶々或る機会から其三口を聞くを得たから掲ぐる事とする。&lt;br /&gt;
: 或芸者が死んだ母親を呼出した死口から始めよう。&lt;br /&gt;
: 巫女の前には盆があって、盆の上に茶碗、茶碗の中には水が盛ってある。芸者は巫女の前に進み、枯れた木の葉を茶碗の水に入れ、右へ三度廻して亡母の行年を告げる。巫女は行くところとして必ず携帯する丈五寸横八寸程の黒い風呂敷を掛けた箱を前に、そこに右の手を頬杖に突き、左の手は肱から手を箱の上に横たえ、瞑目する事二分時、眼を閉じたまま静かに、和讃ともつかず、&amp;lt;u&amp;gt;くどき&amp;lt;/u&amp;gt;ともつかぬ可笑な節をつけて語り出した。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第一、死口　（亡母、行年五十四歳。本人某妓）&lt;br /&gt;
: 『千々に思は増す鏡、家を便り座を力、一度は聞いて見ばやとて、能うこそ呼んで呉れたぞえ、来るとは云うも夢の間に、夢ではうつつ&amp;lt;u&amp;gt;あずさ&amp;lt;/u&amp;gt;では、声聞くばかりで残り多い、姿&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;隠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;して残念だ、身も世が世でありたなら、何か便りにもなろうけれど、力になるもなれないし、便りになるもならずして、最後をしたが残り多い、往生したが残念だ、身さえ丈夫で居さえすりゃ、誰に負けなく劣らなく、両手を振って暮らすけれど、惜しい所でお&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;終&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いし、心残りに思うぞよ、定めし其方もくよくよと、俺に死なれて此方へは、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;嘸&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さぞ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;張合いが悪かろう、嘸力が落ちたろう、身は片腕をもがれたように思うだろう、惜しい所で終いして、後の所も乱脈だ、誠に後の張合も、俺があったる其時とは、はらからながらの所でも、何処か拍子の欠けたよう、何処か振合も違うよう、心残りだ後々の二人は二所、三人は謂わば三所と云うように、身も散々の振り合で、心残りに思うぞや、身も残念に思うけど、ツイ因縁が悪ければ、真実後さえも其儘に、何が何やら少しでも、物の極りと云うもなく、何うか後をばアアカリて、あれも纏めうと死ぬまでも、丹精に丹精苦労して、纏めもしたる身なれども、どれが纏めた&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;廉目&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かどめ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;やら、どれが&amp;lt;u&amp;gt;かなでた&amp;lt;/u&amp;gt;廉目やら、纏めきらぬで最後をし、かなで切らぬで往生した、後へ歎きを掛け放し、運勢の悪い俺だから、死んだ此身は何うならむ、何うも残した後々に、マダ苦になる事もあり、案ずることもマダあるぞ、どうか苦になる後々を、どうぞ纏めて、成るたけ世間の人様に、お世話にならぬようにして、ならぬ中にも精出して、出来ぬ中にも丹精して、何うか互に睦まじく、何うか依るべき血の中を、大事に掛けて暮されよ、何と云うても云われても、血は血でなければならぬから、身は身でなければならぬから、何か依るべき血の中や、遺した中だからとても、義理に切られぬ中だぞよ、何うぞ互に往復も、仏がなけりゃアアじゃないか、今の様はと陰からも、世間の口端に上らないで、何卒たっしゃで暮して呉れるように、思えば思う其度に、心残りに思うけど、これも前世の約束や…………。』&lt;br /&gt;
: 巫女の声は憐れにしめって来た。アノ世から悲しげに囁く声とも思わるる、陰にこもった声である。始めからハンカチで眼を抑えていた芸者は、ここに至って堪えがたくなったのであろう。慈愛ある母の面影さえ忍ばれたのであろう、身を慄わしてヨヨと啼きくずれたのである。&lt;br /&gt;
: 芸妓は人目も恥もかまわずに、其場へヨヨと泣きくずれたまま顔を上げ得ない。居合わせた者も憐れを誘われ&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鼻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をつまらせて眼をうるませる。一座はシンとして咳の音さえもない。&lt;br /&gt;
: 「去るものは日々に疎し」悲しい死別れに、身も世もあらぬ胸の悲しみも日を経て漸く薄らぎ行きしを、今日の口よせに依って、亡母が悲しい事の数々や、心残りを語られては、今更当時の有様を再びする心地して、正体もなく泣き沈んだのは無理もない。巫女は妙に人を引付ける抑揚のある哀調を以て尚も続ける。&lt;br /&gt;
: 『言い置く事もありたれど、身の死際の敢なさに、ツイ云う事も云わないで、語る事も語らなく、此方の事も間に合わず、目を閉ず時だからとても、末期の水も貰い外し、身の因縁が悪ければ、仕方もないが後々が、マダ血の中もあるだから、先祖の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;蔓&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つる&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の切れぬように、後の纏めをして呉れろ、西を向いても他人様、東を向いても他人様、他人の中の身の住居、長い月日の間には、善い事ばかりはなにあらん、詰らぬ事もあるだろうが、必らず悪い了簡や、そでない胸を出さないで、どうぞ彼の世の仏にも、又は身内の人々の、顔をよごさぬようにして、身の安心の出来るよに、喜ばしやれと云うように、暮して呉れろ頼むぞよ、只残念はあの時に、云い度い事の一言や、遺す言葉がありたるに、ツイ言わないで終いをし、後の所も其儘で、別れて来たるそれのみが、誠に誠に残念だ、他人様にも身内にも、皆心配を掛けた儘、ツイ一礼も告げないで、世話になったり放し、苦労掛けたら掛け棄て、終いをしたが残り多い、之も運勢が悪いので、仕方がないと諦めて、居たら居たらと思わずに、身の納まりを大切に、仏に安心させてくれ、今日の一座はようくれた、久しぶりでの物語り、語りて云おうとした心、話して胸が晴れたぞや、言えば語れば限りもなし、一日言うたからとても、話し切れない事もあり、語り切れない事あれど、何と口説いたからとても、旧の姿にゃならぬから、之で忘れて諦めて、名残惜しくも暇乞い、遙か来世へ立帰る…………』&lt;br /&gt;
: 終りを消えて行く——死んだ人が仮りに此世へ現われて、又冥途に帰って行く、それに丁度相応わしい——様に語り終った巫女は、静かに瞑目して居った眼を開いた。泣沈んだ芸妓は、漸く涙を歇め顔をあげて、其泣きはらして赤くなった瞼に、淋しい笑を浮べて一座を見渡す。雨後の名月、一段の美添えて却って痛々しい。&lt;br /&gt;
: 巫女は依頼者の悲しさも喜ばしさも関する所でない。自己の職務を為す上に於て、人の哀楽は対岸の火事である。語り了った彼女は、徐に頬杖を突いた手を解き身を起し、平然として次を待って居る。&lt;br /&gt;
: 代って他の芸妓が出る。前の死口の陰気なのに引替えて、是は亦生口の、情人？を呼出して、其意中を聴くと云う&amp;lt;u&amp;gt;イキ&amp;lt;/u&amp;gt;な派手やかなもの、一座の手前を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憚&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はばか&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;って、やろうか遣るまいかと躊躇の体、幾度か笑を浮べて一座を見廻し人の気を読んだ上、思い切って巫女の前に進む。&lt;br /&gt;
: 巫女は前同様箱に肱をして頬杖を突き、静かに眼を閉じる。芸妓は巫女の前に進んで、茶碗の水を紙の小捻に三度息を吐きかけ、右へ三遍廻し、口の中で極めて小声に男の年を告げた。誰れかが「イヨー」と声を掛ける。芸者はサッと耳元を赤くして一膝身をすさった。男の年を聞くを得なかったのは残念であった。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第二、生口　（女より男の意中を聞く）&lt;br /&gt;
: 『心の程も知れないと、案じて一座呉れたのか、苦労になるも無理はない、女心の一筋に、思い過ぎしが身に余り、どう云う積もりであろうかと、今日の一座も思うだろうが、身を疑ぐりて呉れるなよ、俺が心は了簡も知れない事もない筈だ。又身の上だからとても、自由になるもならないも、予て承知でありながら、身を疑ぐりて呉れるなよ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;当&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あて&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にならない事もなし、力にならぬ事はない、今斯うやりて身の上も、思う自由にもならぬから、其処のところからは推量して、必らず何うか俺が事、届かぬものだよくよくな、そでないものと身の上を、&amp;lt;u&amp;gt;さげすま&amp;lt;/u&amp;gt;ないで居てくれろ、今の住居をしてみれば、目上目下の中に立ち、身分も好きに往かないし、身体も自由にならぬから、其処の所は推量せよ、又往く始終や後々は、ならぬ中にも精出して、何うか力も添えようと、心に掛けて居るだから、アァは云うたが嘘らしい、斯うは云えども何うだろう、末の力になるまいか、後の便りになるまいかと、身を疑らず居て呉れよ、俺は人のように兎や斯うと、言葉の艶も嫌いだし、上手云うのも嫌いだが、腹に悪気のないだから、又往く始終や、後々はどうか此身も側にいる、人に云われた意地もあり、側で堰かれた意地もあり、又分別もする積り、身の了簡もあるだから、悪く思うて呉れるなよ、能うこそ今日の一座を、何う云う積りで居るやらと、思い過して呉れたろうか、知れない事もあるだろうが、今お互いに寄合って、是ぎり会わぬ訳じゃない、身も対面の其上は、身の善悪も知れること、何うかと疑う事はない、心に別な事もなし、身分に変る事もなし、是で聞分してくれろ、此上長座はならぬから、右で&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;体&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;からだ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は立帰る……』&lt;br /&gt;
: 右にて終る。一座の者は「お奢りお奢り」と芸者に迫る。芸者は嬉し気にニッコリ、座は急に陽気になる。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 代って一人、厳めしい洋服の紳士が出る。先生、先にやりたさは遣りたし、一寸変な工合だしと躊躇して居たのが、既に芸者と云う瀬踏みがあったから、猶予なくそれへ進む。紙を細く切ってそれに息を吐きかけ、撚って例の如く茶碗の水を右へ三遍、「先方は女二十六」キッパリ言った。「最早年寄ですネ」等冷かす者ある。紳士は、この場合聊か極りが悪い。笑を浮べた眼に一座を顧み、「出ように依っては奢るよ」と、お茶をにごして身を退ける。&lt;br /&gt;
: 老巫女は一座の動揺めくに関せず瞑目して、同一の口調を以って語り出す。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第三、生口　（男三十三歳、女二十六歳、男より女の意中を聞く）&lt;br /&gt;
: 『確と様子が知れぬから、何う云う心で居るだやら、どの了簡のものだかと、案じて寄せて呉れただろが、案じられるも無理はない、苦労になるも無理はない、身は一所にいてさえも、知れない事があるだもの、殊に斯うしてお互に、間離れて暮して居りや、どう云う様子で居るだかと、嘸ぞ心配に思うだろ、定めし苦労になろけれど、どの了簡で居られるか、何う云う運びであろうかと、案じて居ない事はない、苦労に思わぬ事はない、後の所や末始終、力になりて呉れるやら、便りになるかならないか、明くる其日も暮れる夜も、胸に思わぬ事はない、心に出ない事はない、安心させて呉れるのが、始終力になるのやら、但しは頼りにならないが、一つはお前の了簡だ、心一つのものだから、身の了簡を取極め、心定めて往後は、何うか末々お互に、力になりて頼むぞえ、便りになりて暮そうぞえ、何う云う運びに致すのも、一つはお前の胸次第、心一つのものだから、よく了簡を取極わめ、心定めてどちらになりと、力になるかならないか、何う云う運びに致すのか、どちらになりと一道の、身の挨拶をしてくれな……』。&lt;br /&gt;
: 座中の眼は紳士の一身に集まる。紳士は天井を仰ぎ、胸の時計の鎖を弄びながら得意満面？&lt;br /&gt;
: 『心懸りに思うから、何卒了簡を定めて、暮らして呉れるようにしな、身の対面の其上で、互の胸も話すべし、此上幾ら云うたとて、此処で埒がつくでなし、道理のつかぬ事だから、別けても亦物事は、余り座中も多ければ、話の出来ぬ訳もあり、身の対面をした上に、委細様子を話すから、その対面を待ちるぞえ、くどく云うまい語るまい……』。&lt;br /&gt;
: 巫女は約八分時にして語り終る。座に教員あり、官吏あり、商人あり、芸妓あり、皆一斉に紳士に向って、種々の矢を放つ。四面楚歌の裡にある紳士は、天井を仰ぎ、一唇胸を突出し、右手に鎖をチャラチャラ鳴らし、大口開いて呵々と笑う。&lt;br /&gt;
: 巫女はけげん相に順序よく一々端から皆の顔を見る。&lt;br /&gt;
: 「今度は君がやって見給え」先の紳士が一人の青年を顧る。「僕ですか——まァ止しましょう」と笑う。「やり給え、面白いぞ」「でも僕には呼び出す身内も故人も知らないし、又貴方の様に意中を聞くべき者、ハハハハ女ですね、そう云う者はありませんから」「何うだか疑問だが……じゃ一年の吉凶を見る荒神と云うのをやったらいいだろう」「そうですね、敢て御幣をかつぐ訳でもありませんが、今年丁度厄年に当りますから、一ツそれをやって見ましょう」。青年は巫女の前に進み、茶碗の水に青木の葉を入れ、型の如く右へ三遍廻す。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第四、荒神　（男子二十五歳）&lt;br /&gt;
: 『天が庭には風騒ぐ、天清浄と座を祓い、地清浄と座を清め、身体を祓い身を清め、一代守る御神の吉凶大事を告げるから、心静かに聴き給え、生れに取れば随分に、心も大に平らかに、生れて来たる身であるが、身の運勢の振合いから、十と一とも云う時に、後ろ楯にもなる中に、力貰いが薄いのか、身の定まる縁談や、人の身定めて人の身の、心配をして出たが、五七年とは申すれど、中取分けて二三年、何うも好まぬ所あって、自分の常に思うよう、丁度に行くや行かないのは、身の心配もあるだろう、目上の人の言う事が、何うも自分の気に入らず、我身で思う其事が、目上の人の気に入らず、兎角心が前後して、合う辻つまが合いかねて、別けても去年一昨年の身の心配もして居たし、既に斯うかと云うような、気を揉む凶事もありたれど、マダ運勢が強かりし、目上の人の精分や、其方の自力が強いさに、後へ後へと去りながら、凌いで来たが逃れたが、見つ当年の春からも、大事の坂がありたるぞ、今年やお前の厄年だ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大刀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かたな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;なら目貫、扇なら要と云う所だから、モウ了簡を穏かに、心静かに企てろ、大事な所だ今其方も、一つ思案を違えると、目上の人の気も損ね、側の用いも薄くなり、第一運も乱れるし、今大切の身の上だ、随分其方の胸次第、了簡次第末始終の、身の安心や運勢もないのでないが、マダ何うも、身の了簡に定まらぬ、落つきかねる処あり、今身の上も色々に、どの了簡がよかろうか、どの手にしたが増しだかと、身の心配も多くあり、心も迷い気も狂い、何にかに苦労があるけれど、先ず物事も急がずに、心静かに企てろ、身の心づけ二三月、身の心配を求むるか、大事な月に当るぞよ、首尾よくそれを凌げれば、四月五月に宜けれども、六七月の表から、僅な事のいきさつで、身の心配を求むるか、云い聞けられて気を揉むか、之も宜くない大切な、月に当るが気を付けて、それを無難で逃れたら、先ず其方も八月九月に穏かで、十月よいが十一月へ掛けては、其方の大切な月に当るぞ気を付けろ……』。&lt;br /&gt;
: 紳士は青年の肩を叩く。「どうだ。君、気を付けたまえ」「イヤ一ツ的中しそうに思われる処があります」と言葉を切り、一寸首をかしげて「成程、そうかな」と独言する。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 「まてまて僕が一ツやる」座の一隅から、大声を上げて巫女の前に出たのは一人の書生、黒木綿の五ツ紋に、ヒダもくずれた袴を着けた、満身元気に満ち満ちた面魂。巫女の前に座ると「僕の先生に対する感想を聞きたい、頼むぞ」と例の茶碗の水を紙捻で廻す。&lt;br /&gt;
: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: 　　　　第五、生口　（男より男の意中を聞く）&lt;br /&gt;
: 『言って聞かせる此身より、其方の胸が分らない、その了簡が知れかねる、何ういう胸で居るだやら、何ういう積りのものだやら、其方の胸が知れかねる、今斯うやって見て居れば、定めし陰じゃ色々に、アァは言いそもない筈だ、斯うはしそうもないものだ、義理も人情もなきものと、必ず思うて身の上を、さげすまないで居て呉れナ、悪く思うて呉れるなよ、義理ある中を義理悪くする了簡もないし、又理を非に曲げて意気悪く、否やを云うた訳じゃなし、兎や斯う云おうと思わない、一ツは其方の胸次第、藤にもなれば柳にも、ならない事もないだから、必ず必ず身の上を、思い過ごして色々と、身をさげすんで呉れるなよ。少しの物のいきさつで、拠ろない訳からで、ツイ其方にも悪くなる、届かぬ所もありたれど、今の運びであるけれど、身は斯うやりて居ながらも、どの成行がよかろうか、何う云う手段がましだかと、色々胸じゃ気を揉むし、考え見ない事もなし、心配しない事はない、ヨモヤ斯う云う訳がらで、余計な気込みを致そうも、身の心配をしようとは、微塵が程も思わねど、これも余儀ない訳がらだ、又身の上も、七重の膝も八重に折り、事の法立も致そうけれど、真個余儀ない訳がらで、届かぬ処もあっただし、悪かな所もあったれど、其処の処は不承して、必ず悪く思うなよ、篤と合点の往くように、何うか其方へ知れるように、陰の噂や陰からの、人の陰言云わないで、内事に掛けて居てくれナ、今斯う此処の座で、言い訳らしく愚痴らしく、兎や角う云うたからとても、身の言訳をするばかり、只だ愚痴らしく此処の座で、所埒の付かぬ事だから、一座は之で聞きわけて、推量ありて頼むぞえ、能うこそ今日の一座をも、何う云う積りで居るやらと、身の親切があればこそ、今日の一座も呉れたろが、身の対面の其上で、委細様子も知らそから、今日の一座はこれ迄に、聞きわけあって頼むぞえ、気も取込みて居て見れば、思う長座もならぬから、右の体に立かえる……』。&lt;br /&gt;
: 書生君「馬鹿ッ」と一喝、「僕の先生が、そんな愚痴のような弱い事を云うものか」と肩を怒らして、大いに威張る（完）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の口寄せの文句を通読して、直ちに感ずることは、第一は、その文句が極めて通俗であり、粗野であり、如何にも無学の市子が、口から耳へ聞き覚えそうなものという事である。併し、強いて言えば、全国を旅から旅へかけて渉り歩き、あらゆる人々（殊に女子）を相手にするのであるから、斯うした俚言俗語をつらねたものが、必要とされていたのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二は、文句が始めから終りまで、何等捕捉するところがなく、下世話にいう鰻に荷鞍の譬えのように、のらりくらりとしたものであって、依頼者の考え方一つで、右にも左にも、又良くも悪くも、解釈の出来るように、不得要領のうちに、何となく要領を得ていることである。勿論、これは敢て、此の文句に始まったことではなく、古い「歌占」にせよ、更に寡見には入らぬが、昔の口寄せの文句も、必ずや斯うしたように、解釈は聞く人の心まかせに融通が出来たことと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三は、この文句は禰津の市子に限られたものか、それとも全国とまで往かずとも、関東だけでも共通していたものかどうかの問題であるが、これは他に比較すべき材料を有たぬ私には、何れとも言うことが出来ぬけれども、兎に角に、禰津と同じ流派に属していた市子だけは用いたものと見ても、間違はあるまい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四は、此の文句の中で、同じような事を繰返して『最後をしたが残り多い、往生したが残念だ』とか、又は『明くる其日も暮れる夜も、胸に思わぬ事はない、心に出ない事はない』とか云うのが眼につくが、これは聴く者の胸を打ち、納得させる必要から来た一種の修辞であろう。これも大昔から『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;旛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;はた&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;すすき穂に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;出&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;で&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し神』とか『天の事代、地の事代』とか繰返して云ったのと同じ意味で、ただそれが典雅であり、卑俗であるとの差別であって、古くから伝統的に残っていたものと考えられる。語尾に「ぞえ」を添えるのも、又それであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第五は、此の文句の作者と、その時代であるが、作者はいずれの修験の徒か、又は市子の亭主であろうと思うが、どちらにしろ余りに物を知っている者で無いことは疑いなく、時代はその時々に適応するよう改作されたようにも考えられるが、江戸期の中葉であると見れば、さしたる誤りはないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四、外人の見た巫女の作法とオシラ神&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正四年の春に、我国に留学されたニコライ・ネフスキー氏は、巫女の事に興味を有していて、我々日本人が思い及ばぬほどの深い研究を試みていた。殊に、オシラ神と、これを所持しているイタコとの考証には、同氏独特の意見を有っていた。私は、同氏が留学された年の秋から交際を始め、昭和四年九月に、前後十五年の長い星霜を経て、本国ロシヤに帰えらるるまで、厚誼を重ねていたが、此の長い間に、同氏から書状や、口頭で教えられた、巫女の呪術や、作法や、更にオシラ神の由来などに関したものが、尠からず存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものであるとか、陸中国で巫女をオカミンと云うのは、内儀の意では無くして、神様の心であるとも云うが如き、まだ此の外にも多くの高示を受けている。就中、オシラ神の由来にあっては、北方民族よりの輸入説を固く主張していたが、その要旨を言うと、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東北地方に現存しているオシラ神は、太古の時代に、北方民族の持っていたものが、輸入（或は民族の移住と共に将来されたか）されたものと信じて誤りがないようである。それは、ポーランドのチャブリツカ女史の書かれたアボリジナル・オブ・サイベリヤに拠ると、蒙古のブリヤート族は、モリニ・ホルボ（モリは馬、ホルボは棒）という神を持っている。そして其の棒の長さは二尺位で、頭は馬、下は蹄になっていて、これに五色の布や、小さい鈴などを付けている。&lt;br /&gt;
: 日本のオシラ神に、馬の頭のある事は言うまでもないが、陸前国気仙郡の鳥羽氏から受けた報告によれば、同地には、頭は馬で、足が蹄のオシラ神が、立派に存在しているとの事である。五色の布はオシラ神のセンタク（着衣の俚称）と同じものである所から見るも、これは決して偶然の一致ではなくして、両者の間に交渉があるものと考えるのが至当である。&lt;br /&gt;
: 更に、もう少し微細な点を述べれば、オシラ神のセンタクの着せ方は、北方民族の古俗とも見るべき、貫頭衣（一枚の布の中央に穴をあけ、そこから首を出すもの）であって、即ち、北地寒国において工夫された、胡服系の形式である。&lt;br /&gt;
: 而して加賀の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しらやま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の主神である菊理姫命と、オシラ神との関係に就いては、深く考慮したことがないので、有無ともに断言することは出来ぬけれども、此の神の出自が、日本の神典ではやや明白を欠いているが、若し日本海方面に多くの例を示している「渉り神」の一つであるということが証明されるようになったら、両者の関意すべきであろう云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とのことであった。ここに聴いたままを記して後考に資するとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;五、三州刈谷地方の市子と其作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河国碧海郡刈谷町の加藤巌氏よりの高示によれば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、市子の名称は、よせみこ、くちよせと云っているが、蔭では悪称して、狐遣い、クダ遣いと云っている。&lt;br /&gt;
: 二、市子は悉く精眼者であって、盲人は無い。&lt;br /&gt;
: 三、市子に口寄せを頼む場合は、死人を呼び出すとき、行衛不明の人の、所在、方角、生死等を尋ぬること（実験者の談によれば、死人を呼び出すと、市子の声が死人の声になり、生前の事も知りよく当るが、生きた人の事は当らぬが多いという）。&lt;br /&gt;
: 四、口寄せの作法は、他と同じく、外法箱を前に置き、手向の水を、死人は枯葉で、生者は生葉で掻き廻し、その雫を外法箱に振りかけさせ、市子は箱に両臂をつき、呪文（これは判然せぬ）を唱え、催眠状態に入るのであるが、その折に、片手を挙げて、自分の顔を数度軽く撫で廻す（中山曰。前の笹ハタキと云い、此の市子と云い、何か顔へ触れることが、催眠に入る条件のように思われるが、判然せぬ）。それから種々と口奔るようになるのである。&lt;br /&gt;
: 五、口寄せに対する世人の信用は、全く有るか無きかの状態である。「死んだ妻の三十五日だから、一度逢って来よう」という程度の気休めに、それも極めて下級の者が頼む位のものである。中には、市子の言を信じて、亡者の供養をするとか、百万遍の念仏を行うとか、八十八ヶ所廻りをするとか、新しく仏壇を買い入れるとか、その人々に相談した事をやる。市子の弊害はここに存し、いずれかと云うと、死人に託して祈祷を続いて行わせ、祈祷料を貪るのが目的のようにも考えられる。&lt;br /&gt;
: 殊に馬鹿気ているのは、或る人が亡妻の霊を寄せたところが、その死霊の云うには「私は迷っているが、その迷いの元は、××さんに衣物一重ね差上げたのを、今になって娘にやれば宜かったと思いつき、それで迷っています。あの衣物を取り戻し、娘に遣って浮ばせてください」とのことに、その亭主は仔細を語り、衣物を貰い返したという話もある云々〔七〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;六、美濃太田町附近の市子と其の生活&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
美濃国加茂郡太田町の林魁一氏よりの高示を次に掲載する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 明治維新前には太田町には二人の市子あり、一人は信州の親方に縁付き、一人は死亡して、現今は全く影だになし。隣村の同郡坂祝村大字取組には、現在一人の市子居住し、本年八十歳の老婦（精眼者）にて、幼少の時に信州にて修行せるものと云っている。全体、美濃国に常住し、又は漂泊し来る市子は、多く信州上田在（中山曰。既記の禰津村なり）から来るのである。ここには四十八軒の親方あり、親方は男子にて、二三人以上数人の巫女を養い置き、市子が各地を旅かせぎする折は、親方も同行した。市子は免許状を貰って独立して、幾分の税金の如きものを親方へ送ったものだと云う。&lt;br /&gt;
: 市子を頼むのは、他地方も同じと思うが、死人の行処及び死人の心を知りたきとき、並びに遠方に在る生ける人の心を知るとき、又は生死不明の事を知りたきを第一とし、その他には、縁談、病気、失せ物、悪事災難の多い折などであるが、現今では市子の信用が無くなったので、依頼する者は極めて稀である。&lt;br /&gt;
: 此の地方の市子は、常に紺風呂敷に包みたる蜜柑箱ほどの箱（取組の巫女の箱は桐製である）を出し、その上に長方形の肱蒲団の如きものを置き、右手に念珠を持ち（以上、取組にて見し所なり、以前は念珠を持たぬと云う人もあり）、箱の上に両手の肱をつけ、箱の前には之れも他地方と同じく茶碗に水を入れて、それへ南天の葉を載せて置き、依頼者は南天の葉に水をつけ、三度その箱に注ぎかけるのである。死者の際は枯葉を用いると云う。然る後に、市子は神降し（此の文句は秘密とて教えぬ）と称して、日本諸国の神々の名を称え、それが終れば、目的の依頼を受けたることを、神降しと同じような口調で述べる。依頼者はこれを聞いて事の善悪その他を知るのである。市子が称え終ってから後は、問い返しても答えぬのを習いとしている。&lt;br /&gt;
: 市子の口上の一礼を、縁談に求めれば「北より東は宜いと云う、心に緩みのないよう、大事のことじゃ、ここが&amp;lt;u&amp;gt;かなめ&amp;lt;/u&amp;gt;で、南か西はおく（止めるの意）ように、二月か三月往かざれば、八月は身のため」云々と云うようなものである。即ち「方角は北東を吉とし、二月三月に嫁せざれば八月が宜い」と知るのである。茶碗の水と、南天の葉は、終ってから依頼者が捨てることになっている。&lt;br /&gt;
: 現今の市子の生活状態は、普通の民家に住み、農業か舟乗業を兼ぬる家族であって、一回の口寄せは二三十分間を要し、料金は二三十銭を貰う由にて、生活は言うまでもなく中流以下である。明治維新以前には、信州から二三人づつ組をなした市子が太田町に来たり、紺風呂敷に箱を包みこれを赤紐で結び背負い歩き、地方の人達はそれを呼び込んで依頼したものである云々〔八〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;七、近畿地方の市子と性的生活&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
京都府立第二中学校の井上頼寿氏から、前後四回まで高示に接しているが、その多き部分は、伊勢神宮の御子良及び母良に関するもので、然もその内容は、発表を憚からねばならぬ事もあるし、発表しても差支ないものは、私の言う口寄せ市子に交渉するところが尠く、所謂、帯に短し襷に長しというものである。それで茲には、前後四回の報告を、私が勝手に按排して、専ら近畿地方の巫女と、性的生活の方面を記すとした。此の点に就いては、深く井上氏の寛容を冀う次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山城国相楽郡地方では、神楽巫女のことを、東部では「そのいち」と称し、年齢は三十歳位を普通とし、西部にては「いちんど」と呼び、妙齢の者を普通としている。明治維新頃までは、祭礼の度に、神社の拝殿で神楽を舞う「そのいち」の家も残っていたが、現今では極めて少くなり、殊に西部では、妙齢の女子が、此の事を遣るのを厭うようになり、随って湯立の神事なども、十四五年前から廃止してしまった有様である。而して東部の「そのいち」は、巫女となると、神主との間に性に関する或種の儀式（中山曰。奥州のイタコと守り神との結婚の如きものか）が、行われたようだとの事である。同郡の&amp;lt;u&amp;gt;かわらや&amp;lt;/u&amp;gt;と云う土地では、以前「そのいち」を頼んで舞って貰う度に、お礼として米や銭を出す外に、人参や大根で男子の生殖器を作って添えたものだが、近年では警察署からの注意で、廃止することとなったと聴いた云々。&lt;br /&gt;
: 井上氏の同僚河野氏の談に『二三日前に大津市太郎坊のみこ（婆）の所へ、叔父の神経痛の薬を聞きに往きしに、年齢を問い、自己催眠の如き状になり、一種の節にて、急に&amp;lt;u&amp;gt;ぞんざい&amp;lt;/u&amp;gt;なる言葉にて物を言い始め、その中に薬を云うのであった。薬は悉く草根木皮の漢薬であるが、大てい本草綱目等に書いてあるもので、猶お、大和国宇陀郡地方の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;も、かくの如き薬名を神託によせて教えるとのことであった』云々〔九〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;八、阿波国美馬郡の市子と作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
阿波国美馬郡出身の後藤捷一氏の高示によれば、同郡地方の市子は、土着の精眼者で、社会的の地位は低く、生活も余り豊ではない。民家で市子を頼む場合は、原則としては喪家に限り、普通の家では特別の事情に由る外は、頼む事はない。横死するとか、夭亡するとかの場合に、その者が死んで仏となったか否か、それとも迷っているかと懸念して市子を煩わすのであるが、俚俗この事を「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;弓打&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゆみうち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;かける」と云っている。そして弓打かけに往く時は、必ず死者の位牌を持参し、市子は此の位牌に向って、何か呪文を唱え（中山曰。讃岐香川郡の市子は此の時に、白布で包んだ例の外法箱へ片手を載せ、その掌に飯を盛った茶碗を持つと聞いている）ているうちに、市子は何時しか位牌の主の死者となり、依頼者と談話を交換するのであるが、併しその文句は概して定まっていて、よく来てくれたとか、誰々が来ていぬとか、石碑を建ててくれぬので仏になれずに迷っているとか、或は死者が幼年である場合は、冥土で祖父さんに抱かれているとか、お父さんが来ていぬが、どうしたのかなどと云い、更に妻を残して死んだ男なれば、子供の事を呉々も頼むとか、殆んど版に起したような事を言うが、往々冥土にいる筈の祖父が健在したり、子供が無いのに頼むなどの失敗を繰り返すこともある。依頼者は、言うまでもなく、迷信の深い婦人達であって、稀には三里も五里もある遠い市子の許まで、頼みに出かける者もある。但し、同地の市子は、此の外の祈祷、縁談の吉凶、家相の善悪などの事は一切関係せぬ。喪家以外の民家で依頼する場合は、その家に不幸が続くので、何か古い時代に悪い死に方（横死憤死など）をした者の祟りではないかと思うとき、巫女を煩わして死者の望みを聞き、それを果してやる時である云々〔一〇〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;九、土佐高知市の市子と其の呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高知市の寺石正路氏の高示によれば、同市潮江町に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が居り、岸本竹子と称し、五十七八歳の老人にて夫あり、夫も祈祷師を営んでいる。世上この婦人に頼み、先祖の霊など呼び出す故、俗に『呼び出しをしてもらう』と云っている。巫女の家には、東方の棚に八百万の神々を祭り、西方の棚に諸仏を祀る。依頼者の望みにまかせ、神霊でも、仏霊でも、直ちに呼び出す。但し正月三ヶ日、或は神祭日には、神の霊は来るが、仏の霊は来らず、又た仏の霊の来たる日は、神の霊は出ず、同じ日に神と仏と憑りうつることは無いと云う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
呪法は昔の面影はなく、ただ神棚なり仏壇なりに向い、暫らく合掌祈念しているうちに、依頼者の指定した男なり女なりの霊が移り、依頼者と問答するのであって、祭り方はどうせよとか、墓の石が傾いたから直せと云うようなことを言い、更に依頼者から質問があれば、それに答弁する、巫女の声は、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かか&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;った男女、老若の声となるのが、不思議だと云われている。そして長いのになると、二三時間もかかり、それを一日に幾度も繰返すと、非常に骨が折れるものと見え、汗を流すと云う。猶この巫女は流行していて、今に毎日数人の依頼者がある。以上は、高知銀行員木股茂里馬氏及び潮江町の宮地昌次氏の実験談を聞いたものである〔一一〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一〇、筑前国直方附近の市子と其の呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
筑前国鞍手郡直方町の青山大麓氏からは、前後三回の高示に接しているが、ここには同氏の寛容に愬えて、私が勝手に要約することとした。但し事実においては、些末の相違なきことは改めて言うまでもない。左に掲載するものがそれである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 宗像郡上西郷村大字内殿に居る「みこじょう」は、久保田直子とて、本年六十歳ほどの老婆、私（青山氏）が訪ねた時は、籾摺りをしていた。此の家は神理教の教会になっているが、元は農家であって、現に農業を営み、教会は内職という有様である。私は附近の農家で教えてもらった通りに「仏様の御到来を聴きに参りました」と云ったところ、籾摺りの手をとどめ、直ちに私を仏間へ招じ、私の住居と死者の死亡年月日と行年及び姓名を問い仏前に蝋燭一本を点じ、線香四本（私の妻が死んで四年目だというので線香を四本立てたのか聞き漏らした）を立て、先ず初め十三仏の御詠歌とて、左の如き普通に行われている詠歌とは全く異るものを中音で唱えた。&lt;br /&gt;
:: 一、不動さま　　　　　神となり仏となりて水の中、雷火の中に立つは世のため&lt;br /&gt;
:: 二、釈迦如来さま　　　&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大小&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の年も習わぬ教文を、瑠璃を唱えしこれぞ教文&lt;br /&gt;
:: 三、文殊菩薩さま　　　普陀洛や居ながらとなう善根を、皆成仏の導きとなる&lt;br /&gt;
:: 四、普賢菩薩さま　　　としさそう只一人も百合の花、つぎざにのぼる慈悲な善根&lt;br /&gt;
:: 五、地蔵菩薩さま　　　善悪もつくりし罪は一心に、ねがえ助くる地蔵誓願&lt;br /&gt;
:: 六、弥勒菩薩さま　　　世の中はうそいつわりを納めおく、来たる未来は偽りはなし&lt;br /&gt;
:: 七、薬師如来さま　　　唱えれば薬の利益かいきある、時節を待てど養生はなし&lt;br /&gt;
:: 八、観世音菩薩さま　　神ほとけよくめも願いある深き、心をひとつ誠となえよ&lt;br /&gt;
:: 九、勢至菩薩さま　　　生れ来てそよしる事と知りながら、後生を願う人は少し&lt;br /&gt;
:: 十、阿弥陀如来さま　　父母のそだてし恩も忘れなば、救う阿弥陀の網にとまらぬ&lt;br /&gt;
:: 十一、阿閦如来さま　　願うなら仏と思う父母に、後生の元は親に孝行&lt;br /&gt;
:: 十二、大日如来さま　　幼な子よはてしこの子は契りなし、育てし親にあたえとの事&lt;br /&gt;
:: 十三、虚空蔵菩薩さま　風さそう哀れつれなし灯火の、消えし我が名は面影はなし&lt;br /&gt;
:: 　　　打ち返し　　　　面影は無いと云えども願うべし、先の苦楽はあからかにゆく&lt;br /&gt;
: 殆んど意味の通ぜぬものがある迄に唱え崩された詠歌が終ると、両手を揉んで、狐憑きのように頻りに震っていたが、今度は西国三十三番（これは流布のと同じ）の御詠歌を巡礼の口調で唱え、その終りに四五回&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;欠呻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あくび&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をして仏を招じた。この欠呻はほんとに冥府から来たというような陰気な長いものであったが、愈々仏が来ると「よう参って来てやんなさったナァ、こっちへ近う寄んなさい、今日は緩りお話をしましょう」と云うような事から始まって、色々の事を言ったが、初めから終りまで泣くことばかりであった。&lt;br /&gt;
: 仏との話が済んで、仏が帰えるとき前と同じく四五回欠呻をして、「よう参って来てやんなさった、私はほんとに嬉しい」と云って、一度泣いて仏は帰り、次で信濃の善光寺の御詠歌を唱えて終りとなった。料金は一回三十銭から五十銭だというので五十銭置いて来た。&lt;br /&gt;
: 内殿附近で尋ねた農婦の話では、祈祷を呼ぶ場合には、前に古い仏（祖父とか父親とかの仏になったもの）を呼んで、次に新仏を呼んでもらうものだと聞いたが、私の場合は直ぐに、四年前に死んだ妻の霊が出て来たのである。それから私の地方では、仏をそうして呼び出すと、位が下がると云うていて、軽々しく仏を呼んではならぬと戒めているようである〔一二〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の外にも三四の学友から高示を受けているが、市子の呪法も、生活も、社会的地位も、殆んど既載のものと大同小異であって、別段に取り立てて記すべきものが無かったので省略した。ただその中で注意を惹いたことは、浄土真宗の隆んに行われている地方には、市子の全く存して居らぬと云う事実であった。これは宗義として雑行を禁じているためであることは言うまでもない。而して以上各地の状況を高示によって比較すると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、奥州のイタコが何として古俗を伝えていて、殊に守り本尊と結婚すると云うが如きは、山城の相楽郡のそれと同じく、遠い昔に、巫女が神々と結婚した遺風として、珍重すべき資料である。&lt;br /&gt;
: 二、磐城の笹ハタキの唱える呪文中にある「翼ぞろい」の一章は、種々なる意味で有益なることは既載の如くであるが、それにしても、斯うした古い事象が残っていたことは、案外であった。&lt;br /&gt;
: 三、九州の「いちじょう」が唱える十三仏の詠歌が、普通に流布している以外のものであったことも、又私にとっては意外であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
単にこれだけを手懸りとして考察を試みることは早速であるが、民間に行われた十三仏の信仰は、その地方毎に内容を異にしていたものがあった事が知られると同時に、九州にても巫女がこれを護持仏とし、遠く離れた奥州のイタコがこれを守り本尊とするところを見ると、諸仏のうちから十三仏だけ引きぬいた信仰は、或は神道から放れた巫女が仏教に歩み寄った折に工夫したものではあるまいかとも思われる。極めて大胆な且つ粗笨な考え方ではあるが、記して後考を俟つとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お、此の機会において、高示を賜りし各位に対して、謹で敬意を表する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 青森県八戸市廿六日町のイタコ、根越スエ子（四十六歳）が、曾て「神付」を行うた折の、、用品調べというべきものを、中道等氏から恵贈されたので、茲に載せるとした。&amp;lt;br /&amp;gt;その用品の重なるものは、四斗俵二俵（一俵には米三斗三合三勺入れ、他の二俵には何にても三斗三升三合入れる）、八升俵二俵（これには米七升七合七勺を入れる）、白酒木綿四丈五尺一本、注連縄同上一本、イタコ着用の白木綿の単衣二枚（丈四尺）、腰巻二本、手拭二本（三尺三寸）、鉢巻二本（五尺五寸）、木綿一反（以上、白に限る）、白足袋二足、白扇（無地）二本、水桶（手洗鉢、盥とも三個）、膳椀（二人分）、オサゴ米、茣蓙二枚、幣束七本、礼拝用の小銭（三十三枚、五厘でも一銭でもよし）等である。&amp;lt;br /&amp;gt;尚「神付」を行う間は、イタコは一日に二三度づつ、垢離の代りにして入浴し、且つ七日間の修行中は、他家にて一切飲食せぬことの定めである。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 中道等氏は、青森県八戸市のお方で、曩に「青森県史」の大著があり、民俗学にも造詣が深く、大正の末頃に東京に移住されてから、度々お目にもかかり、文通もし、少からず裨益を受けている学友である。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 笹ハタキの唱える六根清浄祓などは、原の文句とは似つかぬまでに唱え&amp;lt;u&amp;gt;ゆがめ&amp;lt;/u&amp;gt;られていて、別段にかかるものを事々しく記載する必要はないのであるが、それを承知しながら、紙面を割いたには又相当の理由が存しているのである。それは外でもなく、先年私は九州における盲僧の徒が、堅牢地神品を琵琶に合せて誦することを中心として、盲僧派と当道派との関係を記した拙稿を「歴史地理」誌上に連載したことがある。勿論、その時は、地神品とあるから、金光最勝明王経のそれであろうと速断して記述したところ、後になって岩橋小弥太氏から「嬉遊笑覧」によると、盲僧の誦した地神品は、誠に埒ちなきものであると云うが如何と、一本参らせられたことがあるので、今度はそれを想い起し、唱え&amp;lt;u&amp;gt;ゆがめ&amp;lt;/u&amp;gt;られたものでも、後世に伝えるのは、又学徒の責任だと考えたので、敢て此の態度に出た次第である。因に言うが、佐坂氏は、石城郡上遠野村小学校に教鞭を執られているお方である。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 大正六年八月に学友ネフスキー氏と携えて、茨城県久慈郡天下野村大字持方へ旅行したことがある。その夜、同地の小学校長栗木三次氏が来られ、同地の巫女の唱える呪文とて、此の「白き御幣が三十と三本」云々の事を語り、且つ「その節調は軍歌の如く、勇しきものである」と話されたことがある。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : [[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|前]]に載せた越後国三面村の「邪権附」の呪文と同根であって、然もまだ此の方が余りに崩れていぬようである。猶おＹ先生のお話によると、此の呪文は他の地方にも行われているとのことである。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 猶、この場合に、佐坂氏の記事の暗示から導かれて、その真相がやや明確に知ることの出来たのは、平安朝に一派をなしていたと想われる「藤太巫女」の正体と、「炭焼藤太」の伝承の分布とである。&amp;lt;br /&amp;gt;而して、前者にあっては「梁塵秘抄」に『鈴はさや振る藤太みこ、眼より下にて振るときは、懈怠なりとて、神は怒らせたまふ』云々とあり、後者にあっては、柳田国男先生の「海南小記」に『炭焼小五郎が事』と題して、各地の類話を挙げ、これが詳細なる研究が試みられている。&amp;lt;br /&amp;gt;これに就いて、私の考えるには、此の「炭焼藤太」の伝承は、元は藤太の一派に属していた巫女が、謡い物として、各地を持ち歩き、その結果、西は琉球から、北は奥州まで、到る所に、此の伝承が、植えつけられたのではあるまいかと云う事である。管見を記して、江湖の叱正を仰ぐとする。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 加藤巌氏は「民族と歴史」の寄書家として知られていて、私もこれで知ったので、お手数を煩わしたのである。高示は昭和四年一月廿三日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 林魁一氏は斯界の先輩で、「東京人類学雑誌」「郷土研究」「民族」などで、芳名を存じあげていたのでお願いした。高示は昭和四年二月四日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 井上頼寿氏は、京都府立第二中学校に奉職されているが、雑誌「民族」で芳名を知り、御無理をお願いしたのである。同氏は明治の碩学井上頼国翁のお孫さんだと伝聞している。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 後藤捷一氏とは「郷土趣味」以来文通をするほどの親しみを持っていたので、それに甘えて、御手数をかけたのである。高示は昭和四年二月十二日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 寺石正路氏は、海南中学の教職に居り、著書も「食人風俗志」「南国遣事」その他多数あり、現に「土佐史壇」の牛耳を採って居らるる大先輩である。私は先年から書信を以て、常に高示に接しているので、又々その御厚誼に縋り、お願いしたのである。高示は昭和四年三月八日に接手した。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 青山大麓氏は、氏が先年国学院大学に在学中から、交際を頂いていたので、今度も少からぬ御迷惑を懸けた次第なのである。氏は現に直方町の県社日方八幡宮に奉仕されている祠官で、少壮の篤学者である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1333</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第二章/第一節</title>
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		<updated>2010-05-17T03:36:06Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第二章|第二章　当代に於ける巫女と其の呪法]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第一節　文献に現われたる各地の巫女と其の呪法==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巫女は堕落し、呪法は形式化した当代のこととて、文献に現われたものは、異流を雑糅し、異法を混淆してあって、それを体系づけて、一々整然と書き分けることは、殆んど不可能と云っても差支ないほどである。それ故に、私は大体同じような記録を一まとめに記述する程度にとどめて置くとする。元より資料の整理が行届かなかったという高叱は、此の場合甘んじて受ける所存である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一、巫女の持った人形の二種&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「謡曲拾葉集」に、[[日本巫女史/第二篇/第二章/第二節|前]]に載せた葵ノ上の『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;寄&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;人&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は今ぞ寄り来る長浜や、芦毛の駒に手綱ゆりかけ』の呪歌を解読して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 寄人は寄神とも降童とも云ふ、或は生霊死霊を祈る時、彼の霊の代りに童子をそなへ置て祈つけ、降参さする事なり、或は霊を人形に作り藁にて馬など拵へかの人形を乗せて祷り、終りて後に川へ流す事もあり、この歌も是等の事を詠めると見えたり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのは、遂に巫道に通ぜぬ千慮の一失であった。解説の前半は、その通りであるが、後半の霊を人形に作り、藁の馬に乗せて川に流すとは、全く贖物の思想であると同時に、芦毛の駒云々の字句から想像した無稽の事である。此の呪歌の意義に就いては、私の学問の力では釈然せぬことは既述の如くであるが、拾葉抄の著者が考証したような事実を、此の呪歌から検出することは無理であるし、且つかかる呪法の存したことを曾て見聞せぬのである。何か巫女の持っている人形などから、想いついた説のようにしか信じられぬ。併しながら、当代の巫女が、怪しげなる物を呪力の源泉として、所持していたことは考えられる。而して是れには、（Ａ）外法頭を持ったものと、（Ｂ）単なる人形を持ったものとの二つの系統が存していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ａ、外法頭を持った巫女&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「嬉遊笑覧」巻八に、「龍宮船」という草子を引用して、左の如き記事が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 予が隣家に、毎年相州より巫女来りけるが、往来の事を語るに当らずといふ事なし。或時、袱紗包を忘れ置たり。開きて見るに二寸許の厨子に、一寸五分程の仏像ありて、何仏とも見分がたく、外に猫の頭とも云べき干かたまりし物一ツあり。程なくかの巫女大汗になりて走り来り、袱紗包を尋ねける故即ち取出し遣し、扨是は何作なるぞとたづねければ、是は我家の法術秘密の事なれども、今日の報恩にあらあら語り申べし。是は今時の如く太平の代には致しがたき事なり、此尊像も我まで六代持来れり、此法を行はんと思ふ人々幾人にても言ひ合せ、此法に用ゐる異相の人を常々見立置き、生涯の時より約束をいたし、其人終らんとする前に首を切り落し、往来しげき土中に埋み置く事十二月にて取出し、髑髏に付たる土を取り、言ひ合せたる人数ほど此像を拵へ、骨はよくよく弔ひ申事なり。此像はかの異相の神霊にて、是を懐中すれば如何やうの事にても知れずといふ事なしといふ。今一ツの獣の頭のことも尋ねけるが、是は語りにくき訳あるにや大切の事なりとばかり言ひける由、これなん世上にいふ外法つかひと云ふ者なるべきか（近藤活版所本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是れ殆んど符節を合わすが如き狐の髑髏を持つ事実のあったことが、奥州の見聞を書いた「黒甜瑣語」に載せてあるが、これは[[日本巫女史/第二篇/第五章/第一節|既述]]したので、ここには省略する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｂ、人形を持った巫女&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
奥州のイタコが公然と持っているオシラ神と称する人形とは異り、外法箱の中に、秘密に収めた人形を持った巫女は、諸書に散見しているが、やや詳しく記してあるのは、根岸鎮衛の「耳袋」巻三に、「矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事」と題せるものと思うので、左に転載することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 宝暦の始めには、三州矢作橋、御普請にて、江戸表より、大勢役人職人等、彼地へ至りしに、或日人足頭の者、川縁に立ちしに、板の上に人形やうのものを乗せて流れ来れり（中略）、面白きものと、取て帰り、旅宿にさし置けるに、夢にもなく、今日かかりし事ありしが、明日かくかくの事あるべし、誰は明日煩ひ、誰は明日いづ方へ行べしなど、夜中申けるにぞ、面白き物也、これはかの巫女などの用る外法とやらにもあるやと、懐中なしけるに、翌日もいろいろの事をいひけるにぞ、始めの程は面白かりしが、大きにうるさく、いとひ思ひしかども、捨てん事も又怖ろしさに、所のものに語りければ、彼者大に驚き、由なきものを拾ひ給ひけるなり（中略）、其品捨給はでは禍を受る事なりと言ひし故、せん方なく、十方にくれて如何し可然哉と、愁ひ歎きければ、老人の申けるは、其品を拾ひし時の通り、板に乗せて川上に至り（中略）、彼人形を慰める心にて、其身うしろに向いて、いつ放すとなく、右船を流し放して、跡を見ず立帰りぬれば、其祟りなしといひ伝ふ由、語りけるにぞ、大きに悦び、其通りなして放し捨しと也（日本芸林叢書本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の拾った人形が、単なる木像であったか、それとも前掲の如き、外法頭系のものか判然せぬが、私は木像であったと考えたい。それは、記事中に『其人形のやう、小児の翫びとも思はれず』とあるが、神仏いずれとも見定め難きほどの物と思われるので、ここには単なる木像と見るのが穏当であろう。而してそれとこれとは、趣きを異にしているが、斯うした呪物が、水を恐れる話は、他にも聴いている。南方熊楠氏の談に、紀州の某が、大阪で、猫神を所持していると、米相場で金儲けが出来るとて、それを所持していたところ、金は儲かるが、夜となく、昼となく種々なことを告げ知らせるので、うるさくもあり、怖ろしくもなり、遂に淀川の水中に身を没し、天窓まで水をかぶっていて、漸く猫神を離したとのことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二、口寄せの種類とその作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市子の呪術も、当代に入るとその範囲も狭められて来て、専ら民間の——それも少数の愚夫愚婦を相手にするようになり、国家の大事とか、戦争の進退とかいう、注意すべき問題に全く与ることは出来なくなってしまい、漸く、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、口寄せと称する、死霊を冥界より喚び出して、市子の身に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かか&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;らせて物語りをする（俗にこれを「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;死口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シニクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」という）か、これに反して、遠隔の地にある者の生霊を喚び寄せて物語りする（俗にこれを「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;生口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;イキクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」という）こと&lt;br /&gt;
: 二、依頼者の一年間（又は一代）の吉凶を判断する（俗にこれを「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」とも「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;荒神占&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コウジンウラナイ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」ともいう）こと&lt;br /&gt;
: 三、病気その他の悪事災難を治癒させ、又は祓除すること&lt;br /&gt;
: 四、病気に適応する薬剤の名を神に問うて知らせること&lt;br /&gt;
: 五、紛失物、その他走り人などのあったとき、方角または出る出ないの予言をすること&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この位のものになってしまった。而して是等のうちで、尤も依頼者も多く、市子としても収入の多かったものは、死口、生口、神口の三つで、当代の市子といえば、直ちに口寄せを意味し、口寄せといえば、又この三つを意味するものと思われるまでになっていたのである。就中、民間の信仰をつないでいたものは死口であって、亡き両親や、同胞の死霊、又は亡き恋人や、友人の死霊が、市子の誘うままに幽界から出て来て、明界にいる子孫なり、関係者なりと、談話を交えるというのであるから、不思議にも思われ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神事&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミゴト&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と信じられたのも無理のないことで『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が語る声まで、死んだ母親そっくりだ』などとは、幾度となく聴かされたことで、且つ三歳か五歳で夭折した子供の死霊が現われて、地獄の苦しみを物語る哀れな&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;声音&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;こわね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を耳にしては、その親たるものは、涙を絞り袖を濡らし、信ぜざらんとしても、迷わざるを得ぬのである。最近に金田一京助氏が記された実見談によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 姉の家で、口寄せした時には（中略）、例の珠数を押し揉み押し揉み、口に唱えごとを繰返しているうちに、それが一種の歌に聞きとられる様になって来た。その歌詞は、姉などは聞き覚えに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;暗&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そら&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;んじている程、いつもきっと出て来るきまりの文句らしく、『……声はすれど、姿は見えの（ぬの訛りらしい）、影ばっかりに……』すると、髣髴として、亡き魂がそこに降りでもするような気分が座に満ちて来て、笑ったものも笑顔を収め、動いていたものも&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鳴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を鎮めてじっとする其の時、呪女の口からは、『五十九で亡くなった仏様を』とだけ頼んで、にじり出た姉へ向って云うような口調で『お前には苦労を掛けた……』と聞かれるような歌になった。と亡父の生前死後、羸弱な身を以て私に代って一家の世話を見つつ、浮世の辛酸を、滓の滓まで飲み尽した姉は、わっと泣きくずれて、『お父様、もう其の御一言で沢山です』と咽び入る云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるように〔一〕、気丈なものでも——馬鹿々々しいとは思っていながらも、引き入れられるのが常である。巫女が科学を万能とする現代においても猶お、残喘を保って、各地に存しているのは、全く此の呪法を行うことに由るのである。而して此の呪法を行うには、又左の如き種々なる作法があったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ａ、手向の水ということ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:死口市子一.gif|thumb|死口を寄せている市子（外法箱膝のは梓弓前のは手向の水）]]&lt;br /&gt;
[[画像: 死口市子二.gif|thumb|left|死口を聞いている人々（川柳本所載）]]&lt;br /&gt;
市子は口寄せの折には、その対象が、死霊と生霊と神口との別なく、必ず依頼者に、茶碗その他の器物に水を盛らせ、それを巫女の膝の前（又は机の上）に置かせて、死霊の場合には、枯葉（又は樒の葉）で左廻わしに三度水を掻かせ、生霊の場合には、青い木葉（種類は何でもよい）で右廻わしに三度掻かせ、神口の場合には、紙撚り（併しこれも流派によって一定せぬが、大体は先ずこうである）で水を三度掻き廻させる。此の水を手向けることは、巫女が呪術を行うに大切なものとされていて、出て来る霊魂が『よくこそ水を手向けてくれた』と云うほど、重い儀軌？になっているのであるが、さて此の理由に就いては定説を聞かぬ。「松屋筆記」巻八七に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 塩尻（中山曰。天野信景翁の著書）一ノ巻に或人云、凡そ亡者の霊に水を手向るは仏法に効へるなりと、予按に是我国上古の習俗歟、「日本紀」十六に鮪臣が死せし時、影媛哀傷の倭歌を詠じて「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;玉笥&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タマケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;飯盛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;イヒモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;玉椀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タマモヒ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;水盛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミヅモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」などいひ、其葬の時「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;水喰&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミヅクヒ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ごもりみな&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;酒&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ソソ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ぎ」の詞あり、これ我国仏教来らざる以前の事也、仏氏といへども餓鬼の他、仏菩薩等に水手向る事なし（中略）「空華談叢」巻一に亡霊薦水六則あり、可考合。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と載せてある。之に由れば、巫女がその霊に水を手向けることは、我が古俗のようにも考えられるのであるが、単に是だけの資料で決定するのは危険である。殊に仏法にも亡霊薦水の法があるというし、且つ故前田太郎氏の研究によると、死者の霊に水を手向ける土俗は、殆んど世界的に遍在していたというから〔二〕、これは我が古俗にも存し、仏法にも在ったもので、巫女のそれは、古俗に仏法を加えたものと見るのが、微温的ではあるが、穏当だと考える。樒ノ葉を用いるに至っては、仏法の影響と見るも〔三〕、蓋し何人も異議のない事と思う。故長塚節氏の力作「土」には、茨城県下の農村における巫女の所作が克明に委曲に描かれているが、生口を寄せる一節に、巫女が『白紙&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;手頼&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り水手頼り、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;紙捻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コヨリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;手頼りにい……』と唱えたと記している。此の水の手向けは古くから広く行われていたようである。而して此の手向の水ということが、後には市子に祈祷してもらえと云う意味に転用されるようになり、呼び出される死霊が『水が足らぬ』とか『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;水向&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミズムケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を頼む』と云うのは、即ち市子が死霊の言に託して、自分の収入を謀った狡猾なる手段なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｂ、巫女の唱えた神降しの呪詞&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像: 山伏.gif|thumb|山伏と地しゃ（七十一番職人歌合所載）]]&lt;br /&gt;
[[画像: 笹ハタ.gif|thumb|笹ハタキと称する市子（川柳語彙所載）]]&lt;br /&gt;
当代に入ると、巫女の用いた&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;しの呪詞も、修験道の影響を濃厚に受け容れて、殆んど古き相は&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;摘&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;むほどしか残っていぬという有様になってしまい、然もその文句たるや、余程無学者が作ったものと見え、神仏の混雑は、当時の信仰から推して、先ず恕すべきとするも、措辞が野卑である上に、文理が滅裂で、全く体裁をなしていぬ。それを無智な巫女達が、矢鱈に唱い崩し、言い訛ったものと見えて、中には何事を意味しているのか解釈に苦しむものさえある。而して是等の呪詞は、京伝の「昔話稲妻表紙」を始めとし、三馬の「浮世床」や、一九の「東海道膝栗毛」等に載せてあるが、何れも多少の出入こそあれ大同小異で、僅に巫女が呪法を行う土地の一ノ宮または&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;産土神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ウブスナガミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の名を変える位で、その他は取り立てて言うほどの事もないし、それに是等の書物は、流布本の多いものゆえ、ここにはその中でも、やや古いと思う「稲妻表紙」から抄出するとして、他は省略した。同書巻四「仇家の恩人」の一節に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 扨ある年の春、藤波が祥月祥日にあたれる日、妻小枝妹阿龍等がすすめにより、県巫女をやとひ、藤波が口をよせて、冥途のおとづれをききぬ。さて降巫上座に居なほりて、目うへの人にや目下にや（中山曰。今では此の事は聞かず、、ただ黙って頼めば、巫女の方で言いあてる）、生口か死口かとたづぬれば、小枝すすみ出で、目下の者にて死口なりと答へつつ、樒の葉にて水むけすれば、巫はささやかなる弓をとりいだし、弦を打ならして&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;旦&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まづ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神保&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をぞ唱へける。&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;夫&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;それ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;つつしみ敬てまうし奉る。上は梵天帝釈四大天王。下は閻魔明王。五道の冥官。天の神。地の神。家の内には井の神。竃の神。伊勢の国には。天照皇太神宮。外宮には四十末社。内宮には八十末社。雨の宮。風の宮。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;月読日読&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツキヨミヒヨミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;御神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;おんかみ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;。当国（中山曰。近江）の霊社には。坂本山王大権現。伊吹の神社。多賀明神。竹生島弁財天。筑摩明神。田村の社。日本六十余州すべての神の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;政所&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まんどころ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;。出雲の国&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大社&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;おほやしろ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;。神の数は九万八千七社の御神。仏の数は一万三千四個の霊場。冥道をおどろかし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;此&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ここ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;くだ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し奉る。おそれありや。この時によろづの事を残りなく。おしへてたべや梓の神。うからやからの諸精霊。弓と箭のつがひの親。一郎どのより三郎どの。人もかはれ水もかはれ。かはらぬものは五尺の弓。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一打&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ひとうち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;うてば寺々の。仏壇にひびくめり。&lt;br /&gt;
: 梓の弓にひかれひかれて、藤波が亡き魂ここまでまうで来つるぞや。懐しやよく水手向て玉はりしぞ、主君とは申しながら、畏れ多くも心には、&amp;lt;u&amp;gt;枕ぞひ&amp;lt;/u&amp;gt;（中山曰。圏点を打ちし句は巫女の隠語、[[日本巫女史/第二篇/第五章/第四節|既載]]のものを参照あれ）とも思ひしから、&amp;lt;u&amp;gt;烏帽子宝&amp;lt;/u&amp;gt;を産みはべりて、&amp;lt;u&amp;gt;唐の鏡&amp;lt;/u&amp;gt;とかしつがれ、おん身等にも安堵させ、楽しき暮しをさせ申さんと思ひし事も左り縄、云ひがひもなき妾が身の上、露ばかりも罪なくて、邪見の刃に身をほふられ、尽きぬ恨みの悪念が、此身を焦す炎となり、晴れぬ思ひの冥道に、今に迷ふて居り候云々（以上。帝国文庫本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;しの呪詞は、別段に解釈を要せぬまでに明白であるし、又た解釈を要するほどの『一郎殿より三郎殿、人もかはれば水もかはる』云々の如きは、これを唱えていた巫女にも解らず、従って他の者には、皆目見当もつかぬものである〔四〕。殊に、神の数が九万八千とか、仏の数が一万三千とかいうのは、全くの出たら目で、何等の根拠もなければ、理由もなく、ただ巫女が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;旋律的&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;リズミカル&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に唱える上に、舌に唾のたまらぬよう、語呂の点から択んだ文句に外ならぬのであって、それが古く歌謡の系統に属していた名残りをとどめているのであるが、夙に歌謡は、巫女の手から離れて、独立した芸術として発達しているのに反し、巫女は堕落して、糊口の料に神降しを唱え、それも旧態を保つに懸命であって、生面を拓くことが出来なかったので、益々世相と遠ざかるようになってしまったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巫女は別名を「大弓」とも「小弓」とも、更に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;梓巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アヅサミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;とも言われているほどとて、呪術を行う場合に、弓弦を細き竹の棒にてたたくことは既述したが、この作法は、必ずしも総ての巫女に通じて行われたものではない。私の知っている限りでは、（一）都会に定住していた者と、（二）漂泊をつづけた歩き巫女と。（三）奥州のイタコと称する者は、概して弓を用いず、これに反して、町や村に土着した巫女は、弓を用いたようである。折口信夫氏のノートに拠ると、壱岐のイチジョウと称する巫女は、長さ八尺もある黒塗の木ノ弓（二ツ折になって袋に入れて、持ち歩くに便にしてある）に、麻の弦をかけ、南天の葉を&amp;lt;u&amp;gt;ひい&amp;lt;/u&amp;gt;て油をとりしものを弦に塗り、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;盒&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゆり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（中山曰。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;曲物&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まげもの&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にて楕円形をなし、高さ四五寸、大きさ一尺二三寸なり）を伏せて、麻縄で二ヶ所&amp;lt;u&amp;gt;くび&amp;lt;/u&amp;gt;った上に、弓を持たせかけ、釣り竿のように反った一尺五寸ほどの竹の棒二本で、弦をたたきながら、初めは「神寄せ」の文句（中山曰。此の文句は判然せぬ）を唱え、次に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;御籤&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミクジ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;あげ」をなし、それから「百合若説教」を宜いほどに唱える（中山曰。百合若説教のこと注意されたし）そうである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに、常陸辺では、既述の如く、二三尺位の粗製の竹の弓を用いるとあり、私が同じ常陸の潮来町で聴いたところでは、巫女は弓を持参せず、往く先々で青竹を切って、二尺ほどの弓を拵えてもらい、それを用いるとのことであった。而して此の弓の弦をたたく音は、弦が&amp;lt;u&amp;gt;ゆる&amp;lt;/u&amp;gt;く張ってあるためか、ベンベンと如何にも眠気を誘うような響きがするものであって、巫女がこの響きにつれて神降しの呪詞を唱えすすむうちに、催眠状態（その実際は後世の巫女は催眠を仮装するだけで覚醒している）にでも入りそうな心もちのするものである。因みに「笹ハタキ」とは、その文字の如く、始めは笹の葉を両手に持ち、それで自分の顔を軽くたたきながら催眠状態に入ったので負うた名である。これも後には雑糅されてしまって、小さい弓を用いる巫女まで、此の名で呼ぶようになったのである。猶お巫女の修業、神つけの方法、各地の神降し等に就いては、文献には見えぬので、次節の報告の条に詳述する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三、イタコのオシラ神の遊ばせ方&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像: 新オシラ.gif|thumb|新しきオシラ神（故伊能嘉矩氏所蔵）]]&lt;br /&gt;
奥州のイタコ（これは殆んど悉く盲女であって、精眼者あるを今に聞かぬ）と称する巫女が、オシラ神を持っていることは屢記したが、さて此のオシラ神は、如何なる場合に用いるか、併せてその用法は如何にと云うに、イタコは依頼者の意を受けて、生霊なり、死霊なりの口寄せをするときは、金田一氏の記事にある如く、イラタカの珠数を両手で押し揉み（秋田地方では揉まずに珠を繰る方法もある）ながら、神降しを済ませ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;人&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;となって種々なる呪法を行うことは、昔の普通の巫女と別段に変りはないが、呪法が終ってから、依頼者の希望により、その家（奥州では草分け百姓とか、又は旧家とか云われる家には、各相伝のオシラ神がある）のオシラ神を遊ばせる（春秋二期のオシラ神祭りの日は云うまでもない）ことがある。而してその遊ばせ方に就いては「民俗芸術」第二巻第4号に、小寺融吉氏の詳細なる記事があり、更にこれを遊ばせる祭文は、「民族」第三巻第三号に、中道等氏の寄稿があるので、幸い私は両氏の厚誼を辱しているので、甚だ勝手ながら、左にこれを自由に取り交ぜて、抄録することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東北地方に名高いオシラ様の祭を私{○小/寺氏}は、偶然にも昨年{○昭和/三年}東京で見ることが出来た。それは柳田国男先生のお宅に、以前から届いてあった此の神様を、本式に祭るため、はるばる奥州から盲目の巫女が、三月一八日の祭日を期して上京したのに列席したのであった云々。&lt;br /&gt;
: 祭壇を前に石橋&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;貞&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さだ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;子という老いた盲目のイタコ（巫女）が静かに座った。常の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;髪形&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かみかたち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、常の服装のままで、黒い袈裟を左肩から掛け、次に長い数珠を首に掛けた。数珠の玉は黒くて大きい。そして円筒形の筒（中山曰。呪力の源泉である神を入れたもの）を押し頂いて、右肩から左脇へ掛けた。この筒は神秘不可思議で、中に何があるか分らない。&lt;br /&gt;
: さて祭壇と云っても、ただの机だが、その上にイタコから見て、正面に一対のオシラ神、右が女神左が男神（原註略）。右の奥に茶碗に水、その前に蝋燭、左の奥に菓子、その前に蝋燭、そして中央の前に、右には塩、左には米が在る。&lt;br /&gt;
: 抑々オシラ様の御神体は、八寸ほどの長さの桑の木（中略）、毎年の祭に着物（東北でセンタクと云う）を上に一枚づつ重ね参らせる。着物と云っても一枚の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;布&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;きれ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;冠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かぶ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;せるだけで、首の上からスッポリ冠せるのと、布の中央に穴を明けて、穴から首を出すのと二通りある（中略）。今日の御神体は首を露出せぬ方だが、首を包んだ布のまわりに、小さい鈴を女神は四個、男神は三個結んで区別している云々。&lt;br /&gt;
: イタコは先ず塩を取って振りまいた。次に我昔所造諸悪行……一切我今皆懺悔の四句の懺悔文を誦し、次に般若心経に移った（中略）。そして般若心経の時に、途中で息を切って一寸休む折りは合ノ手のように、しきりに数珠を揉んだ。これは左掌を下にし、右掌を上にして揉むので、胸の前で合掌するのとは違う。次に普門品の偈だけを読んだようで、念被観音力、還著於本人なぞの文句が聞き取れた。これを終って柏手を打ち、いよいよオシラ祭文に移った。&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: 　　　　千だん栗毛物語（オシラ遊びの経文）&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: しら神の御本尊&lt;br /&gt;
:: くはしく尋ね奉れば&lt;br /&gt;
:: 我が京にては白神の御本尊と申也&lt;br /&gt;
:: 朝日の長者ようひ長者と申して&lt;br /&gt;
:: 数の宝を相添ひて&lt;br /&gt;
:: おがひ申して&lt;br /&gt;
:: おがひに長じて身を清め&lt;br /&gt;
:: よき金三百両&lt;br /&gt;
:: こがねのにはちで納め置く&lt;br /&gt;
:: 鰐口ちょうと打ならし&lt;br /&gt;
:: 南無や大慈大悲の親世音さま&lt;br /&gt;
:: 願はくば赤子一人授けてたまはれと&lt;br /&gt;
:: 願はくばおどうかうによう申すべし&lt;br /&gt;
:: そげんの破風に瑪瑙の垂木&lt;br /&gt;
:: やんくゎぎぼうに至るまで&lt;br /&gt;
:: 金銀の入ればに&lt;br /&gt;
:: 表しろかね中こがね&lt;br /&gt;
:: 厚さ三寸五分なり&lt;br /&gt;
:: 錦のとうざう七流れ&lt;br /&gt;
:: 我も子のことかなしみて&lt;br /&gt;
:: とりかへかきかへ申すべし&lt;br /&gt;
:: 大千世界めぐりて&lt;br /&gt;
:: 鳥類畜類めぐれども&lt;br /&gt;
:: 汝らに授くる宝も無し&lt;br /&gt;
:: 今度この度しらの種申し下す&lt;br /&gt;
:: 此子は六つ七つに至りては&lt;br /&gt;
:: 命に恐れあるべし&lt;br /&gt;
:: 東方父にて西方母&lt;br /&gt;
:: 兄は御いきと申すなり&lt;br /&gt;
:: 左りの袂より右りの袂へ&lt;br /&gt;
:: すらりと入れると覚えて&lt;br /&gt;
:: 夢さめて長者夫婦の人々は&lt;br /&gt;
:: 斯うまで有難き御利生を&lt;br /&gt;
:: 七度の礼物なされけり&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: 我が家に帰りついたる時&lt;br /&gt;
:: 懐胎となって&lt;br /&gt;
:: 当る十月と申して&lt;br /&gt;
:: 御産の紐を開せとくがや&lt;br /&gt;
:: 玉や御前と名をつけて&lt;br /&gt;
:: 二つになるから三つ四つと心を用いて&lt;br /&gt;
:: 六つになる年右の御手に筆とらせ&lt;br /&gt;
:: 七重の愛馬に飼立てられたる千だん栗毛&lt;br /&gt;
:: 立つに千段すはるに千だん&lt;br /&gt;
:: 三千四だん五だんの形をもたせ玉ふ&lt;br /&gt;
:: めん馬に乗じて馬の頭を&lt;br /&gt;
:: おしなでかきなでたまひて&lt;br /&gt;
:: この屋形のうちに入らせたまふ&lt;br /&gt;
:: 一才になるから二才三才やうなる&lt;br /&gt;
:: 御育ておいた徳を以て&lt;br /&gt;
:: 前足のつき相を見れば&lt;br /&gt;
:: てむく茶碗をすゑたる如く&lt;br /&gt;
:: 後足のつき相を見れば&lt;br /&gt;
:: ごばんちょうこすゑたる如く&lt;br /&gt;
:: 目鼻尾のつきあひ&lt;br /&gt;
:: 毛はだまでもやうなる様に&lt;br /&gt;
:: 御育て置いた徳を以て&lt;br /&gt;
:: 今日も見物人ひとは百人&lt;br /&gt;
:: またも二百人三百人の&lt;br /&gt;
:: 見物人の無い日とてはあるまい&lt;br /&gt;
:: おれも見物に出でて見ようと云うて&lt;br /&gt;
:: 十二ひとへを重ね&lt;br /&gt;
:: 十二人のつまとりを附け&lt;br /&gt;
:: つまどりには褄を取らせ&lt;br /&gt;
:: 七重のまや迄見物に出でたるれば&lt;br /&gt;
:: 上のまやには赤きめん馬百三十三匹&lt;br /&gt;
:: 下の厩には青きめん馬百三十三匹&lt;br /&gt;
:: 中の厩には白きめん馬百三十二匹&lt;br /&gt;
:: 後ろ残りし一疋のせんだん栗毛&lt;br /&gt;
:: 見るまも無く玉や御前のほめるには&lt;br /&gt;
:: 前足のつき相を見れば&lt;br /&gt;
:: てむく茶わんをすゑたる如く&lt;br /&gt;
:: 後足のつきあひを見れば&lt;br /&gt;
:: 朝顔の咲いたる如く&lt;br /&gt;
:: 目の色はからかね目&lt;br /&gt;
:: 目鼻耳のつきあひ&lt;br /&gt;
:: 毛肌までもふしのつけやうは無い&lt;br /&gt;
:: これが人間のからだなれば&lt;br /&gt;
:: どうぞ夫婦になりそめたいものと&lt;br /&gt;
:: 三度までも馬のからだを撫でたまふ&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: 声は千だん栗毛の耳にとまりまして&lt;br /&gt;
:: 恋のわづらひとなりました&lt;br /&gt;
:: 糠草も食することは無く&lt;br /&gt;
:: 粕や米糠くぢょやすすき草&lt;br /&gt;
:: どの様に食わせても食することは無く&lt;br /&gt;
:: 如何致したわけである&lt;br /&gt;
:: この家の亭主に伺ひ見るべしと&lt;br /&gt;
:: 伺ひ見たならば&lt;br /&gt;
:: はくらくでも取りよせ見たならば&lt;br /&gt;
:: せんだん栗毛の相分るべしというて&lt;br /&gt;
:: 西東北南四うぢ隅より&lt;br /&gt;
:: 伯楽の三十七人までも取寄せたけれども&lt;br /&gt;
:: どの伯楽も千だん栗毛の病気&lt;br /&gt;
:: 名をつけるはくらくはあるまい&lt;br /&gt;
:: 天が下に無いほどの西の方には&lt;br /&gt;
:: よい占い師があることだ&lt;br /&gt;
:: そんなら取りよせ見るべしと&lt;br /&gt;
:: 取りよせ見たなれば&lt;br /&gt;
:: 憚りながら此家の千だん栗毛の病気は&lt;br /&gt;
:: 外なる病気ではない&lt;br /&gt;
:: 二階ひとり姫玉や御前&lt;br /&gt;
:: 恋がけの病気と判じたれば&lt;br /&gt;
:: 金満長者の夫も腹を立てて&lt;br /&gt;
:: さて憎い畜生だ&lt;br /&gt;
:: 畜類は人間に恋をするといふこと&lt;br /&gt;
:: 此世には無いことだ&lt;br /&gt;
:: 早く千だん栗毛を&lt;br /&gt;
:: 投げ棄てて来いとのいひつけをさるる&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: さてせんだん栗毛せんだん栗毛&lt;br /&gt;
:: 今までは七重の馬&lt;br /&gt;
:: あいの馬に飼育てられたる千だん栗毛&lt;br /&gt;
:: 今更姫に恋して投棄てらるるぞよと&lt;br /&gt;
:: どのやう意見そひしんされても&lt;br /&gt;
:: 頭をふり上ることは無い&lt;br /&gt;
:: これは二階の一人姫&lt;br /&gt;
:: 玉や御前を見舞させたなら&lt;br /&gt;
:: せんだん栗毛の病気は相分ると謂うて&lt;br /&gt;
:: 二階一人姫玉や御前さまに&lt;br /&gt;
:: 見まひを致しくれといひば&lt;br /&gt;
:: 二階一人姫玉や御前も人目を忍んで&lt;br /&gt;
:: 夫婦のちぎりある故に&lt;br /&gt;
:: ゑ顔あげて十二ひとへ引重ね&lt;br /&gt;
:: 十二人の褄どりをつけ&lt;br /&gt;
:: つまどりには褄を取らせ&lt;br /&gt;
:: 右の手には萩を持ち&lt;br /&gt;
:: 左の手にはすすきを持ち&lt;br /&gt;
:: 二階はしごを下りまゐり&lt;br /&gt;
:: 七重のまやまでとり運ぶ&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: さて千段栗毛せんだん栗毛&lt;br /&gt;
:: おれの為に病気になって&lt;br /&gt;
:: 居るさうだと謂うて声かけたるれば&lt;br /&gt;
:: すぐ頭をふりあげて&lt;br /&gt;
:: 萩やすすきを一本ままではむこと&lt;br /&gt;
:: 以前と異ならず&lt;br /&gt;
:: 玉や御前と千だん栗毛と別るる時は&lt;br /&gt;
:: 生木の枝を割かるる如く&lt;br /&gt;
:: 血の涙で別れおいて&lt;br /&gt;
:: とうとう二階一人姫も病気になりました&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: これは来る三月一六日に&lt;br /&gt;
:: 御神明のみかぐらでも企てたならば&lt;br /&gt;
:: 姫の病気は快気になるかと&lt;br /&gt;
:: いうて企てたなれば&lt;br /&gt;
:: おれも見物に出でて見ようと云うて&lt;br /&gt;
:: 十二ひとへひき重ね&lt;br /&gt;
:: 十二人のつまどりをつけ&lt;br /&gt;
:: つまどりには褄を取らせ&lt;br /&gt;
:: 七十人の供をつれ&lt;br /&gt;
:: 一沢越え二沢越え三沢目の&lt;br /&gt;
:: 大きな桂の大木の根に腰をかけ&lt;br /&gt;
:: うつの宮より褄取りとも人皆ほろき落して&lt;br /&gt;
:: ただ御神楽よそに見て&lt;br /&gt;
:: 千相桑の林に一飛び運び参り&lt;br /&gt;
:: 真砂の珠数御手につまぐり&lt;br /&gt;
:: それそれははかせを喚んで&lt;br /&gt;
:: 博士は八十三のこよみ&lt;br /&gt;
:: さて千だん栗毛千だん栗毛&lt;br /&gt;
:: 玉や御前がこの処に運んだについて&lt;br /&gt;
:: しんが有るなら一声出せと&lt;br /&gt;
:: 大声あげて歌をよみあげる&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: すぐなまぐさき風は吹き&lt;br /&gt;
:: 五色の雲をたなびきて&lt;br /&gt;
:: 八間四方の皮をならされた&lt;br /&gt;
:: 御姫さまをぐるりと巻取って&lt;br /&gt;
:: 天に昇り天竺の方に参ったり&lt;br /&gt;
:: 褄取り供人は皆つらづらになりまして&lt;br /&gt;
:: 家に帰りしなれば&lt;br /&gt;
:: 我々の命は一ときも堪らんものか云ふて&lt;br /&gt;
:: 早く伺ひ見るべしと&lt;br /&gt;
:: 一飛びに運ぶ&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: さて金満長者の旦那さま&lt;br /&gt;
:: うちのいたはしき二階一人姫&lt;br /&gt;
:: 玉や御前さんは千だん栗毛の為に&lt;br /&gt;
:: 盗みとられました&lt;br /&gt;
:: おらの命ばかりは御助けなされてくだされと&lt;br /&gt;
:: それは手まへだちのかかはりたる事では無い&lt;br /&gt;
:: 姫はさうあなたはいの因縁づくと云うて&lt;br /&gt;
:: 涙にくれて居るところへ&lt;br /&gt;
:: 虫は二十四疋ふりくだる&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: 白き虫の顔見れば&lt;br /&gt;
:: おら処の玉や御前に似たる顔&lt;br /&gt;
:: 黒き虫の顔見れば&lt;br /&gt;
:: 千だん栗毛に似たる顔&lt;br /&gt;
:: 米はませても米はまず&lt;br /&gt;
:: 粟はませても粟はまず&lt;br /&gt;
:: 麦はませても麦はまず&lt;br /&gt;
:: 豆はませても豆はまず&lt;br /&gt;
:: 百人二百人三百人の&lt;br /&gt;
:: 見物人は参りしなれど&lt;br /&gt;
:: 何はむ虫と判ずる人はあるまい&lt;br /&gt;
:: 七十あまりのぢいさまは&lt;br /&gt;
:: 桑の杖をついて見物に出たなれば&lt;br /&gt;
:: 残らず其の杖につたはりました&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: これは何の木、これは桑の木&lt;br /&gt;
:: これは何虫、桑の木のもえを食ふ虫&lt;br /&gt;
:: ととこ虫とあらはれて&lt;br /&gt;
:: 三十七人の桑とりをまはす&lt;br /&gt;
:: しろがねのまな板こがねの庖丁で&lt;br /&gt;
:: きり刻みて与えしなれば&lt;br /&gt;
:: 残らずさりこんではむこと&lt;br /&gt;
:: 一をり板しけば二をりの板&lt;br /&gt;
:: 二をり板しけば三をり板&lt;br /&gt;
:: 三をり板しけば四をり板&lt;br /&gt;
:: 四をり板しけば五をり板&lt;br /&gt;
:: 五をり板しけば六をり板&lt;br /&gt;
:: 六をり板しけば七をり板&lt;br /&gt;
:: 七をり板しけば八をり板&lt;br /&gt;
:: 十二をり板&lt;br /&gt;
:: きんこ糸を取る時なれば&lt;br /&gt;
:: 一さをかければ二さを&lt;br /&gt;
:: 二さをかければ三さを&lt;br /&gt;
:: 三さをかければ四さを&lt;br /&gt;
:: 四さをかければ五さを&lt;br /&gt;
:: 五さをかければ六さを&lt;br /&gt;
:: 六さをかければ七さを&lt;br /&gt;
:: 七さをかければ八さを&lt;br /&gt;
:: 十二さを&lt;br /&gt;
:: 金満長者のおんしょう返すが為に&lt;br /&gt;
:: つぼの松に下り&lt;br /&gt;
:: 馬とともに十六ぜんの&lt;br /&gt;
:: 大しらのしら神にあらはれ&lt;br /&gt;
:: 尾張の国金満長者は&lt;br /&gt;
:: 日本一の真綿屋と名をつけられて&lt;br /&gt;
:: 銭かねに不自由なく暮すさうや&lt;br /&gt;
:: 父がそひてあつかひば父になづく&lt;br /&gt;
:: 母がそひてあつかひば母になづく&lt;br /&gt;
:: 庭にそひてあつかひば庭になづく&lt;br /&gt;
:: 竹にそひてあつかひば竹ごともなづく&lt;br /&gt;
:: 舟にそひてあつかひば舟子ともなづく&lt;br /&gt;
:: あれ乱風大風火難盗難&lt;br /&gt;
:: あきなひその他作る田畠も護らせたまふ&lt;br /&gt;
:: 家内安全商売繁昌の御祈祷と&lt;br /&gt;
:: 敬ってまをす〔五〕&lt;br /&gt;
:: ○中山曰。小野寺氏の記事には、祭文の文句は記して無いのを、私が勝手に中道氏の寄稿から、此の文句ならんと考えて掲げたのである。&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: オシラ祭文は、オシラ神の由緒を物語る長い叙事詩を歌うので、長者の厩に飼われたせんだん栗毛という名馬が長者の姫に恋をして、結局二人が蚕の神様になるという歌で、イタコは歌いながら、両手に持つ二つの御神体を動かすので、「如何に動かすか」が私の興味なのである。そこでイタコは机に並んだ位置をそのままに、右手で女神左手で男神を持った。センタクの下へ手を入れ、柄（つまり人形の胴体）を持つ、この人形は手足はなく、首と胴と着物のみである。&lt;br /&gt;
: 男は右、女は左の法則なのに、何故か此のイタコは右に女神を、左に男神を持った。然しこれは神がイタコに乗り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;うつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;るのでなくて、イタコはあくまでもイタコとして、神を舞わすのであるという意味かも知れぬ。そこでイタコは&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;俯&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;うつむ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いて、自分の顔を御神体に触れて、何事か云った。それから胸の前に出して、半分倒すようにして持つ、自分の膝に対して垂直には持たない。これが基本の形である（中略）。&lt;br /&gt;
: 長い恋物語のオシラ様由来記が終ると、イタコは一休みした。それから一年十二ヶ月の年中行事に関する謡いものに移り、やはり左掌を下に、右掌を上にして小指を組合せ、何か印を結ぶような事をし、次に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;拍手&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かしわで&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を打ち、再び人形を取り上げた。前の祭文が荘重厳粛であるとすれば、これは打ちくつろいだもので、人形の動かしかたも変って来た（中略）。&lt;br /&gt;
: 次に一休みして、「えびすまい」。次に「地獄さがし」。これは鼻歌でお経を読むと思えば、見ない人も、ほぼ想像がつく。珠数を拍手とりつつつまぐり、それに合せて歌うので、人形とは関係はない。少し可笑味のものである。最後に「神送り」と云い、神を山林山野に送る歌を、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;祝詞&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;のりと&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;式口調で歌った。イタコも大分疲れたので、これだけで全部を終り、あとは二三の人を占いをして散会した（中略）。&lt;br /&gt;
: オシラ神の鈴は、人形自身の声である（中略）。イタコの歌は、人形の鈴の音の意味を、人間の言葉に翻訳しているとも見ることが出来る云々〔六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の記事によっても知らるる如く、イタコの持っているオシラ神は呪神では無く、呪神は何物か納めてある円筒形の筒の中にあるので、オシラ神は此の筒の中の神を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;和&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;め&amp;lt;u&amp;gt;いさめ&amp;lt;/u&amp;gt;るために舞わし遊ばせるのに過ぎぬのである。従ってオシラの元は神ではなくして、人形その物であったと信ずべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四、各地方の市子と其の作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市子に幾多の流派のあったことは看取されるが、その独特の作法を比較して、異流を検出することは雑糅された後に残された文献を基調としたのでは、その労のみ多くして功がなく、結局は何が何やら判然せぬものになってしまう虞れなしとせぬので、此処には寡見に入った各地方の市子と、その作法とを列挙して、読者に異同を研究する資料を提供するにとどめるとする。猶お文献以外の報告によるものは、[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|後節]]に記述する。同じような事を二度に分けて書くことは、少しく煩しい嫌いもあるが、資料の整理上から、斯うすることが学問的であると考えたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ａ、羽後国仙北郡地方の座頭嚊&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同郡長信田村の出身で、今東京市外田端町に居る鈴木久治氏の談に次の如くある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 私の国では「いちこ」を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;座頭嚊&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ザトカカ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と云う。嚊と云っても、東京辺の賤民の妻を呼ぶような下賤の言葉の意味では無く女房を一体に「かか」と呼んでいる。その座頭嚊は、女子の盲目な者がなるのであって、其亭主は普通の百姓をしている。さて人が死んで、葬式を済ませた後、この座頭嚊を招んで仏を寄せて語って貰う。其時には近所の人に知らせてやると、近所の人達は重箱へ食物を詰めたのを持って集って来る。神仏の有った家では仏壇の前へ家内の者や村人が大勢集まる。この場合は先ず神仏を呼んで貰う（中山曰。鈴木氏はこの事を「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;座下&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クラオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し」と云うと語り補うた）のが例である。そうで無く死霊を招んで貰う時もあるが、呼んで貰う霊を心に念じて仏前の水に樒の葉を浸すと、呼び出される霊は必ず奇妙に当る。そこで座頭嚊は神寄せの呪文を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;誦&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;とな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;える。何でもよくは知らないが、日本国中の一ノ宮の神々を寄せるらしい（原註。神寄せの呪文と&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;門語&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カドカタ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りの呪文とがある云々）。この口寄せがすむと、次は他の人で呼んで貰いたい霊があれば、又仏壇の水に樒の葉を浸すのである。座頭嚊の持物には箱も弓もない（中山曰。此の事は注意すべき点である）。只長い&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;木欒子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;もくれんじ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の珠数を爪繰っている（中略）。私の国では女児や男児が生れても、&amp;lt;u&amp;gt;ひ&amp;lt;/u&amp;gt;弱くて早死する様な憂のある児は、座頭嚊の「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;取子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トリコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」にして貰う。取子というのは、胎内にある時から座頭嚊に頼んで、生れた子の丈夫に育つ様に祈祷をして貰うのである。其時は珠数の木欒子の珠を一つお守として頂いて、巾着なんどへ大事に入れて置く。そんな事で珠数の数は「取子」の為に分けてやるから、多い人と少い人とある訳だ云々〔七〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｂ、陸中国東山地方のオカミン&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「郷土研究」第三巻第四号に次の如き記事がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 陸中国東磐井郡門崎村近傍では、巫女をオカミサマと云う。盲目の女子の仕事である。巫女になるには、七箇年の年季で弟子入りし、其期間は師匠の食料までも自弁する定めである。さて一定の修業が終ると「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt; 神附 &amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミツケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と云う式を行う。是れがオカミン様の卒業式である。至って荘厳な式で、若しも不浄な者が式場に入れば、神が附かぬと云っている。式の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;荒増&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あらまし&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を言えば、先ず舞台を設けて注連縄を張り、真中に神附せらるべき女子その近親に擁せられ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;眼&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を手拭で鉢巻して坐る。その周囲を多数の巫女が取巻いて坐り祈祷するのである。然る後「何神附いた何神附いた」と問うと、真中に坐った女子「八幡様附いた」とか「愛宕様附いた」とか言う。斯うなれば、一人前の巫女となったものとして大なる祝宴をする。時にはには神の附かぬことがある。その時は列座の巫女たち御迎と称して坐を立つ。然る後は、大抵「何神附いた」と言うものである。巫女の業務は「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;口寄&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クチヨセ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」をすることである。これは死人あったときの一七日、お&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;盆&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ぼん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;又は秋の彼岸に、各戸殆どこれを行わぬ者は無い。&lt;br /&gt;
: 口寄を行うには、巫女は神降しと称して暫時祈祷をした後、希望せらるる死人となって、希望した人に対して言葉哀れに語り出す。婦女子等は大抵泣いて之を聴く。その聴いているうちに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;問口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トイクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（中山曰。古代の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;審神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さにわ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;である）と云うことをする。即ち聞手の方から口寄につれて色々の事を問うので、巫女はこの問口が無いと語り苦しいものだと云っている。又口寄の言うことの中に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;日忌&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒイミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と云うのがある。例えば何月何日何方へ往けば損をするとか、不治の病に罹るとか云う類である。地方では之を信ずること甚だしく、その日は必ず在宅して謹慎する風がある。この迷信の結果、自分等（寄稿者島畑隆治氏）幼少の時までは、学校さえも欠席したものである。今は日忌の風は次第に薄らいで行くが、巫女に口寄させる風に至っては、まだ減退せぬようである云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｃ、越後国三面村の変態的巫術&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
越後と羽前の国境なる三面村（越後国岩船郡に属す）は、肥後の五箇ノ庄、飛騨の白川村などと共に、山浅く谷幽なるだけに異った生活を営んでいる村落として有名であるが、明治二十九年八月に同地の土俗調査のため旅行された宮嶋幹之助氏の記事の一節に、下の如くある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 此村の一年間の楽しみは、正月と、盆と、旧十月の山神祭礼なり（中略）。旧十月十二日には、山神の祭とて（中略）。山伏を招き、一週間位は全村業を休み置酒す。而して祭には&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神下&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と云うをなす。其法、村人皆神前に集まりて、村中にて最も実直にて、少しく&amp;lt;u&amp;gt;ぼんやり&amp;lt;/u&amp;gt;せる男を撰び&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;とし、「ボンデン」を携え坐せしむ。衆人は之を囲み、手に藁を縄にて巻きたるを持ち地を打ち、一斉に大なる声にて「ホーイ、ホーイ」と唱う。繰返すこと暫時にして、神子は一度眠れるが如くなり、次で携うる「ボンデン」を勢いよく振り舞わす。此期を外さず村民は、傍より歳の豊凶を問い、禍福を尋ぬれば、言に応じて答う。問を止むれば、神子は倒れ、昏睡して、不覚となる。後に至り、醒むれば、自身が何を言いしや覚えずと。度々神子となりたる者は、少しく雑沓の場にて衆人の喧しきに逢えば、恰も神下しの時の如き現象を呈すと云う。案内者の言に依れば、舟渡村（中山曰。同郡なれど三面村と六里を隔つ）其他の村にて、神下しの時に衆人の唱言は異って、&lt;br /&gt;
:: トラウハ、シマンテ、キリカミテンノウ、ハヤウデカノウハ、ソーワタダイテン&lt;br /&gt;
: と是を幾遍も繰返すなり。又一種異れる神下あり。「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;邪権付&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ジャケンツキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と云う。其唱に曰く、&lt;br /&gt;
:: 一ヨリ二ヨリ、三ヨリ四ハラヘ、五ダンノマキモノ、六七サイホウ、八ポウカタメテ、イーノルナラバ、イカナルジャケンモ、ツイニハツカンデ、カンノーマイヨ&lt;br /&gt;
: と是を繰りかえせば、衆人が呼出さんとする人の霊、神子に付きて、種々の事を口奔ると云う。此神下の唱えは米沢地方の山神祭に言う所と同じ云々〔八〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の三面村の巫術の方法が、屢記した護法附と、全く軌を一にしていることは言う迄もないが、更に一段と古いところに遡れば、神子が巫女であったことが推知されるのである。それは「邪権附」に唱える呪文なるものが、私の接した報告によれば、磐城国の「笹ハタキ」と称する巫女が用いているのと同じであるからである。猶おその呪文等に就いては[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|次節]]に述べる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｄ、常陸国土浦地方のモリコ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「民族と歴史」第八巻第一号に、常陸国土浦町地方の巫女を記せる一節に、次の如く出ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 他にモリコと云うのがあります。それは大抵盲目の婦人です。病気などへ招かれて室内を暗くし、僅か一本の灯心に火を点じ、弦を鳴らして八百万神を呼び集め、それから自身が仏になって、我は死んだ祖父であるとか、伯母であるとか、又は大先祖なりと名乗りつつ、物凄く家族の人々を叱ったり宥めたり、既往将来の事を物語り、此の病人は何々の祟りだ。何神を信仰せよ、何々の薬を服用せよ。何れの方角から医者を頼めよと仏に代って種々の告げをするのであるが、是は「大弓モリコ」と称し、今でも病家などで、稀に行う事があります云々〔九〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｅ、信州における二三の市子と其作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信州は古くから巫女の名産地で、諏訪郡からも出ているが、殊に多かったのは、小県郡根津村であった（此の事は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|次節]]に詳述する）。「郷土研究」第二巻第六号に『信州では口寄巫を一般にノノウと呼び、その夫をボッポクと云う。神社に属して、神楽を奏する巫を鈴振ノノウと云う』とある。而して「民族」第三巻第一号には、同じ信州における巫女に関して、次の如く載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 川中島では竃祓いをノノサンと云った。松本の近在から来るという事であったが、出所は明かでない。矢張り婆さん（中山曰。精眼者である）が多かった。千早を着て、髪は御守殿風に結び、提げて来る風呂敷包は、松本のと似ていた。「ごめんなさい」と云って入って来た（原註略）。鈴を振りながら経を誦んだ。口寄せの如く神口をきいた。お神楽を上げるときには、右手に鈴を振り、左手に布紗に包んだ経本の如きものを持ち、経を誦みながら、両手を頭上高く挙げ、やがて、ぴたりと鈴を止め、「我が一代の、守り神であるぞよ……」から初めて、神口をきいた（中略）。&lt;br /&gt;
: 北小谷（中山曰。北安曇郡）の竃祓いは、あの辺ではモリと云った。盲目の巫女が多かった。根知（小谷下流の越後分）から多く来た。四隅をしばった風呂敷包に鈴を持って居り、家の者に挨拶してから祓にかかった。御洗米といって米一升に銭若干が礼であった。モリは神口もきいた。若い女が多かった（中略）。&lt;br /&gt;
: 川中島地方では、別に梓巫をクチヨセと呼んで、竃祓のノノサンと区別していた。「お神楽を上げれば一段上り口寄を寄せると二段下へ下がる」といったから、竃祓の方を位良しとしていたのであろう。針箱位の風呂敷包を背負って、それに傘一本いつけて来た。その箱の中には人形が入っているということであったが、どうしても見せなかった。風呂敷包の箱に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;靠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;もた&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れて、神口、生口、死口をきいて、口寄せをした。神口のときには「神の初めは伊勢明神、越後ぢゃ弥彦の明神よ、信州ぢゃ一は諏訪さんよ……」と節調をつけて、神々を招ぎ降す。死口をきくときには、よく「某（嗣子の名等を呼び）は馬鹿だし、俺も行くところへ行かれぬ、それに水が呑み不足で一足出れば三足戻る……水向けしろや、お線香を立ててくれろや、さうすりゃ俺も助かる」などというので、身内の者などは涙を流して聴き入ったものだという（中略）。&lt;br /&gt;
: 小谷では之をイチコと云った。イチコの箱の中には外法仏が入っている。何か練って拵えたものだという事であったが、誰も見たものは無かった。ところが明治十年頃の事だったろうか（と話手の老人は云った）、イチコの泊っている家に集まって一杯やっていた博労共が、段々酔って来る中に、イチコがぶらりと遊びに出て行ったのを見てとり、その不在に主人の制止するのもきかず、箱の中から外法仏を出して見た。中には土で拵えたキボコ（人形）が入っていた。聖天様の様に男女のキボコが口を吸い合ってからまって居た。後でイチコが帰って来て「俺を勿体ない、いびりものにした」と腹立ち、箱に靠れて外法仏に聞いて、「誰と誰が云い出し、誰が風呂敷を解き誰々が箱を開いて、誰々で見た」と云った。皆の者弁解に窮し、それに薄気味悪くなって、繋銭（中山曰。各自銭を出し合うこと）をして包金であやまった事があったと云う云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｆ、大阪市天王寺村の黒格子&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸期には、江戸郊外の亀井戸村（天満宮の裏門脇）、京都郊外の等持院村〔一〇〕、大阪郊外の天王寺村に、小規模ながら市子の集団的部落があった。明治四十四年に、私が在阪中の余暇を偸み、天王寺の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女町&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこまち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を訪れた時は、まだ三軒ほど黒格子独特の暖簾を下げた家があったので、呪術を頼んで見たが、禁制だと称して口寄せはしてくれなかった。東京の亀井戸も、大正六年に私がネフスキー氏と尋ねた折には、家の表へ注連縄を引き回した家が二軒あって、昔の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女町&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこまち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の面影を微かにとどめていたが、ここでも官憲の命令だといって、口寄せに応じてくれなかった。而して天王寺に就いては、「浪花百事談」巻九に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 梓&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;数軒住ける地なり、其家みな格子造りにて、表の入口の外には、長三尺計りの三巾暖簾を木綿にて製し、それに大なる紋を染ぬき、仮字にて&amp;lt;u&amp;gt;くろがしら&amp;lt;/u&amp;gt;何々、&amp;lt;u&amp;gt;やぶのはた&amp;lt;/u&amp;gt;何々など、巫の名をも染ぬき、入口の上には注連縄を張る、黒格子といへるは、格子を墨にて塗り、家の内の表の間には、何か祀りて薄暗くせり云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。格子を黒く塗り、家を薄暗くするのは、神がかりする為の便利から来ているのであろうが、遂にそれが黒格子と云えば、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と思われるまでの俚称となったのである。大近松が宝永三年に執筆した「緋縮緬卯月の紅葉」二十二社めぐりの段に、お亀が情人の与兵衛の身の上を案じて、黒格子の巫女に生口を寄せてもらう光景が、巣林子の麗筆を以て叙述されている。而して此の一節は、単に大阪の古い巫女の存在を知るばかりでなく、その神降しの呪文にも、隠語にも、他のそれと異ったものが記してあるので、少しく重複に渉る嫌いはあるが、必要と思うところだけを左に抄録する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 幼き時より気に入りて、幾春秋をふりと云ふ、年季の下女を身になして、隠す事をも語りしは、黒格子の辻とかや、上手と聞きし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の門、ああ申し、ちと口寄を頼みませうとぞ案内ける。弟子の小女郎心得て、お通りなされと戸をあくれば、お亀は&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一間&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ひとま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に入りにけり。暫くあって立出づる、神子もよっぽど見えるもの、アァようお出でなされました、大阪のお衆で御座りますか（中略）。&lt;br /&gt;
: して先づ御用の事ありとは、生口か死口かと云へば、いやさればとよ、頼みたきとは生口なるが、海山隔てし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;方&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かた&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;でもなし、只二三里の道を越え、五日六日の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;便&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たよ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りもなし、どうがなかうがな、くよくよと、案じわびたる御身の程、寄せたべとぞ仰せる。神子は合掌目をふさぎ、珠数をくりひく梓弓、神下して寄せにける。&lt;br /&gt;
:: 天清浄地清浄、内外清浄六根清浄、天の神地の外、家の内には井の神、庭の神、竃の神、神の御数は八百万、過去の仏、未来の仏、弥陀薬師弥勒阿閦、観音勢至普賢菩薩、知恵文殊、三国伝来仏法流布、聖徳太子の御本地は霊山浄土三界の、救主世尊の御事なり、此の御教への梓弓、釈迦の子&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が弦音に、引かれ誘はれ寄り来り、逢ひたさ見たさに寄り来たよ。&lt;br /&gt;
: なう&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;懐&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;かしの&amp;lt;u&amp;gt;合の枕&amp;lt;/u&amp;gt;（圏点を附せるは[[日本巫女史/第二篇/第五章/第四節|隠語]]）や、我懐かしとはおぼつかなみの、寄り来る人は誰ぞいの、誰とて二人思ふ身が、一つねふしの二股竹与兵衛を、夫と思へばこそ問ふてたもって嬉しやの、問はれて今の恥かしや（中略）。とは云ひながら扇の影の立烏帽子、舅といひてもとは伯父（中略）。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;額&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ひたへ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に角も入れたもの、丁稚小者を云ふ如く、内の手代や&amp;lt;u&amp;gt;庭宝&amp;lt;/u&amp;gt;の侮り者になし果てて（中略）。語るに尽きぬ生口も今は是まで梓弓、引いては帰る習ひなり云々（帝国文庫本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大近松の慣用手段とて、情景併叙の筆を運び、殆んど天衣無縫の如き感あるも、それでもお亀が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;問口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トイクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をなし、市子がそれに答える遣り取りの工合が、巧妙に描かれている。それにしても、此の神降しの呪文は、神を言うよりは、仏を称えることが多いのは、兎に角に注意すべき点だと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｇ、紀州地方の算所と巫女の関係&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本居春庭翁の「賤者考」の一節にこうある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: サンジョと唱ふる所ありて、大抵忌む所&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;夙&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に同じ、伊都郡（紀伊）相賀荘野村今陰陽師あり、同郡官省符荘浄土寺村{今巫村なり日高/郡茨木村のうち}などをいひて他村より婚せず、サンジョは産所の意にて、昔産婦はここに出て産し、穢中を過して本村に帰りしなりなどいへれば、夙の所にいへる意に同じ、是も後には陰陽師巫女など移り住みしなるべし、夙よりはいささか勝れる如く他村にていへども、同火を禁ぜざるのみにて婚を忌めば同じ事なり（中略）。陰陽師、巫女、神楽舞やうの者も、人の同歯せざる事あり（中略）。巫女は前にいふ伊都郡浄土寺村、在田郡藤並荘熊井村などなり、、其他一二戸づつなるもあり云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お同国田辺町の巫女に就いては、[[日本巫女史/総論/第四章/第一節|既載]]したので省略する。而して「賤者考」の記事にもある如く、江戸期に入っては、巫女の堕落はその極に達し、漸く賤民として、落伍者として、社会の一隅に噞喁したまでであって、その社会的地位の如きは、殆んど問題とされず、修験の徒や、陰陽師の妻女となって、大昔の勢威などは夢にも見ることが出来なかった生活であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｈ、出雲地方の刀自ばなし&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「郷土研究」第二巻第四号に、出雲国の一部に就いて、次の如く記載してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 死者の精霊を呼んで、生前の物語を聞くことを「とじばなし」と云う。小庵の尼寺に至り、「とじばなし」を乞うと、尼は萩の弓（中山曰。此の萩の弓は他国には見えぬ）を射て、戒名と命日を唱えて精霊を呼び出して、物語をはじめる。昔死んだ子を呼んでもらって、茶の袷と杖を信州の善光寺まで届けてくれと頼まれて、長の旅路に財産を無くした母親もあった。「とじばなし」は精霊を呼ぶのは易いが、返すのは容易でない。若し誤ると亡霊は勿論のこと、遺族にも不幸が来る云々〔一一〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上は寡見に入った文献に現われた巫女の作法であるが、更にこれが詳細のもの、及びここに漏れたもので、報告に接している分は後出する。さて此の乏しき資料を比較して巫女の異流を考うると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、奥州のイタコの如く盲女に限るものと、これに反して、常陸のモリコや、大阪の黒格子の如く、精眼者のあったこと&lt;br /&gt;
: 二、梓弓を用いる者と用いぬ者&lt;br /&gt;
: 三、珠数を用いる者と用いぬ者&lt;br /&gt;
: 四、神降しの呪文にあっても、神道七分に仏法三分というのと、此の反対に仏法七分に神道三分のもののあったこと&lt;br /&gt;
: 五、稀には萩の弓を用いる者のあったこと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
等が知られるのである。併し、斯かる異流が何故に生じたか、更に異流双互間の関係等に就いては、遂に何事も知る事が出来ぬのである。猶お本節中に収むべき記事も相当に残っているが、余りに長文になり、且つ大体を尽したと信ずるので、他は別に節を設けて記述することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 金田一氏の故郷である盛岡市の令姉の御宅で行われたこと、詳細は「民俗芸術」第二巻第三号に就いて御覧を乞う。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 前田太郎氏著の「世界風俗大観」参照。前田氏は言語学を専攻された方と聞くが、民俗学にも興味を有していられたと見え、此の種の研究や、考察が「東京人類学雑誌」その外に多く載せてある。宿痾のために、壮年で易簀されたのは惜しいことであった。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 我国の榊（栄樹）とは、古くは常緑樹の総てであったから、樒もそれであるなどと云う学者もあるが、覚束ない。私は我国には、樒の野生はなく、支那あたりから輸入されたものと考えている。従って、樒が常緑樹だからとて、榊としては取扱はないことだと思う。尤も、私も正月の門松の代りに樒を用いる村が、日本で一ヶ所あることだけは承知している。併し、此の一例だけでは、榊説は成り立つまい。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「一郎殿より三郎殿」の私案は、前に述べたが、その後考え直すと、此の呪文がエビスオロシと称する者によって工夫されたという証明が出来ぬ以上は、甚だ覚束ないと自分でも思っている。敢て後賢を俟つとする。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 柳田国男先生の御説によると、此の千だん栗毛の祭文に比較すると、同じ「民族」第一巻第六号に載った「まんのう長者」の方が、一段と古いものだとのことである。成る程、そう言われて両者を比べると、新古が明確に判然し、且つ「千だん栗毛」の方は、詞章をそのまま伝えたものでなく、意味だけ伝えて、文句は後人が勝手に言い改めたものであることが知られる。それに、此の祭文の中心思想である、姫と馬の交りから蚕が生れるという筋は、支那の「捜神記」そのままである。そして之れが奥州に残り、イタコに伝ったのは同地が名馬の産地であるのと、養蚕にも関係が深かったためであろう。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 小寺氏の記事は、詳細委曲を尽した長文のものであるゆえ、猶お詳しくは、本文に就いて、御覧を願いたい。更に此の機会に於て、私の運墨の都合から、小寺中道両氏の記事を、勝手に取り交ぜて引用した失礼を、深くお詫びする次第である。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 「郷土研究」第四巻第四号。因に、私は鈴木氏と親交ある香取秀真氏の御紹介を得て、鈴木氏を市外田端の御宅へ両度まで参上し、有益なるお話を承った上に、氏の秘蔵せるイラタカの珠数の撮影まで許された。ここに感謝の意を表する。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 「東京人類学雑誌」第一二六号。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 常陸で巫女を「大弓」又は「モリコ」と云ったことは、「新編常陸国誌」にあること[[日本巫女史/総論/第一章/第一節|既述]]した。これを重ねて呼ぶことは如何かと思うが、今は本文に従うとする。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 京都市外等持院村が巫女村であったことは、京都の地誌類に見えているが、詳細が知れぬので、在京都の友人に、詳細を尽せる書名なりとも知らせてくれと頼んだが、遂に返書にすら接しなかったのは、遺憾千万であった。それで茲に、新井白蛾翁の「闇の曙」巻下（日本随筆大成本）に拠ると、同地方では巫女を俗にヒンヒンと呼んだようである。これは弓弦の擬声から来ていることは言うまでもない。ただ同書には巫女の無学と、弊害とが力説されていて、その呪法や生活に触れていぬのは物足らなかった。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 猶お此の外に、アイヌ民族の間に行われた巫女（ツス）の呪法や、琉球の各島々に在る巫女（ユタ）の作法などに就いて、記述すべき幾多の資料を蒐めて置いたが、今は長文になるのを恐れて、内地だけにとどめるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<title>トーク:日本巫女史/第三篇/第二章/第一節</title>
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		<updated>2010-05-16T08:03:07Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: /* メモ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.637&lt;br /&gt;
**「異法を混淆してあって」直後に読点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.638&lt;br /&gt;
**「袱紗包を忘れ置たり」直後に句点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.639&lt;br /&gt;
**「知れずといふ事なしといふ」直後に句点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.640&lt;br /&gt;
** 「死口」直後に閉じカギ括弧を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.646&lt;br /&gt;
**「竹生島弁財天」直後に句点を補った。&lt;br /&gt;
**「圏点を打&#039;&#039;&#039;つ&#039;&#039;&#039;し句」→「圏点を打&#039;&#039;&#039;ち&#039;&#039;&#039;し句」&lt;br /&gt;
** 「既載のもの&#039;&#039;&#039;と&#039;&#039;&#039;参照」→「既載のもの&#039;&#039;&#039;を&#039;&#039;&#039;参照」&lt;br /&gt;
* 底本 p.648&lt;br /&gt;
**「弦&amp;lt;u&amp;gt;がゆる&amp;lt;/u&amp;gt;く張ってある」→「弦が&amp;lt;u&amp;gt;ゆる&amp;lt;/u&amp;gt;く張ってある」&lt;br /&gt;
** 「負うた名である」直後に句点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.650&lt;br /&gt;
**「一枚つゞ重ね」→「一枚づゝ重ね」&lt;br /&gt;
* 底本 p.653&lt;br /&gt;
** 「見物に出てゞ」→「見物に出でゝ」&lt;br /&gt;
* 底本 p.654&lt;br /&gt;
** 「畜類は人間を恋にするといふこと」→おそらく「畜類は人間&#039;&#039;&#039;に&#039;&#039;&#039;恋&#039;&#039;&#039;を&#039;&#039;&#039;するといふこと」ではないかと思われるので改めた。&lt;br /&gt;
* 底本 p.663&lt;br /&gt;
** 「不覚となる」直後に句点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.667&lt;br /&gt;
** 「神かゞりする為」→「神がゝりする為」&lt;br /&gt;
** 「阿{門構{八下夕}}」を「阿閦」に改めた。&lt;br /&gt;
* 底本 p.670&lt;br /&gt;
** 註二「参照」直後の読点を句点に改めた。&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.649, 664&lt;br /&gt;
** 「精眼者」→「晴眼者」&lt;br /&gt;
* 底本 p.659&lt;br /&gt;
** 「&#039;&#039;&#039;拍&#039;&#039;&#039;手」に「かしわで」の振り仮名がなされているが、だとすれば「&#039;&#039;&#039;柏&#039;&#039;&#039;手」の誤植ではないか。&lt;br /&gt;
* 底本 p.668&lt;br /&gt;
** 本居春庭翁の「賤者考」: 本居内遠の間違いでは。&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;br /&gt;
* 底本 p.648&lt;br /&gt;
** 百合若説教: [[wikipedia:百合若大臣]]&lt;br /&gt;
* 底本 p.650&lt;br /&gt;
** 女神は四個、男神は三個: 鰹木も、女神は偶数本、男神は奇数本。&lt;br /&gt;
* 底本 p.651&lt;br /&gt;
** 東方父にて西方母: 西王母のことか。&lt;br /&gt;
* 底本 p.653&lt;br /&gt;
** 粕や米糠くぢょやすすき草: 「くじょ」は「葛」の方言らしい。&lt;br /&gt;
* 底本 p.662&lt;br /&gt;
** 「これは死人あったときの一七日」の「一七日」は恐らく十七日の意味ではなく、”一回目の”七日を意味すると思う。中国では「頭七」と呼ばわれる。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2010年5月16日 (日) 17:03 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.663&lt;br /&gt;
** 九行目には「邪権&#039;&#039;&#039;付&#039;&#039;&#039;」、一五行目では「邪権&#039;&#039;&#039;附&#039;&#039;&#039;」というように、表記に揺らぎがある。&lt;br /&gt;
* 底本 p.664&lt;br /&gt;
** その夫をボッポクと云う: [[日本巫女史/総論/第一章/第一節|総論第一章第一節]]には「ボッポ&#039;&#039;&#039;ㇰ&#039;&#039;&#039;」とある。&lt;br /&gt;
* 底本 p.666-667&lt;br /&gt;
** 「大阪市天王寺村の黒格子 ... 黒格子といへるは、格子を墨にて塗り、家の内の表の間には、何か祀りて薄暗くせり ... 格子を黒く塗り、家を薄暗くするのは、神がかりする為の便利から来ているのであろう」&lt;br /&gt;
*** 室内を薄暗くするために格子を黒く塗ったというのではおかしい。黒格子とは九字の印を模した呪術的修飾であったのではなかろうか。たとえばかつて伊勢の海女たちは、ドーマンセーマンと呼ばれる魔除けの印を衣に書き入れていた。セーマンとは五芒星すなわち晴明桔梗印、対してドーマンは横五本縦四本の九字印といわれる。どちらも呪力を持った図形として認識されていたことが窺える。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2009年2月15日 (日) 19:40 (JST)&lt;br /&gt;
**** 蛇足ながら、天王寺には[[wikipedia:安倍晴明神社|安倍晴明神社]]がある。かつてこの地に五芒星と九字、阿倍晴明と蘆屋道満の流れを汲む(と各々が主張する)二つの呪術者集団が並び立っていたなら大変面白いと思うのだが…。(伝奇小説のネタくらいにはなりそう。)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<updated>2010-05-16T08:02:38Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.637&lt;br /&gt;
**「異法を混淆してあって」直後に読点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.638&lt;br /&gt;
**「袱紗包を忘れ置たり」直後に句点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.639&lt;br /&gt;
**「知れずといふ事なしといふ」直後に句点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.640&lt;br /&gt;
** 「死口」直後に閉じカギ括弧を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.646&lt;br /&gt;
**「竹生島弁財天」直後に句点を補った。&lt;br /&gt;
**「圏点を打&#039;&#039;&#039;つ&#039;&#039;&#039;し句」→「圏点を打&#039;&#039;&#039;ち&#039;&#039;&#039;し句」&lt;br /&gt;
** 「既載のもの&#039;&#039;&#039;と&#039;&#039;&#039;参照」→「既載のもの&#039;&#039;&#039;を&#039;&#039;&#039;参照」&lt;br /&gt;
* 底本 p.648&lt;br /&gt;
**「弦&amp;lt;u&amp;gt;がゆる&amp;lt;/u&amp;gt;く張ってある」→「弦が&amp;lt;u&amp;gt;ゆる&amp;lt;/u&amp;gt;く張ってある」&lt;br /&gt;
** 「負うた名である」直後に句点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.650&lt;br /&gt;
**「一枚つゞ重ね」→「一枚づゝ重ね」&lt;br /&gt;
* 底本 p.653&lt;br /&gt;
** 「見物に出てゞ」→「見物に出でゝ」&lt;br /&gt;
* 底本 p.654&lt;br /&gt;
** 「畜類は人間を恋にするといふこと」→おそらく「畜類は人間&#039;&#039;&#039;に&#039;&#039;&#039;恋&#039;&#039;&#039;を&#039;&#039;&#039;するといふこと」ではないかと思われるので改めた。&lt;br /&gt;
* 底本 p.663&lt;br /&gt;
** 「不覚となる」直後に句点を補った。&lt;br /&gt;
* 底本 p.667&lt;br /&gt;
** 「神かゞりする為」→「神がゝりする為」&lt;br /&gt;
** 「阿{門構{八下夕}}」を「阿閦」に改めた。&lt;br /&gt;
* 底本 p.670&lt;br /&gt;
** 註二「参照」直後の読点を句点に改めた。&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.649, 664&lt;br /&gt;
** 「精眼者」→「晴眼者」&lt;br /&gt;
* 底本 p.659&lt;br /&gt;
** 「&#039;&#039;&#039;拍&#039;&#039;&#039;手」に「かしわで」の振り仮名がなされているが、だとすれば「&#039;&#039;&#039;柏&#039;&#039;&#039;手」の誤植ではないか。&lt;br /&gt;
* 底本 p.668&lt;br /&gt;
** 本居春庭翁の「賤者考」: 本居内遠の間違いでは。&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;br /&gt;
* 底本 p.648&lt;br /&gt;
** 百合若説教: [[wikipedia:百合若大臣]]&lt;br /&gt;
* 底本 p.650&lt;br /&gt;
** 女神は四個、男神は三個: 鰹木も、女神は偶数本、男神は奇数本。&lt;br /&gt;
* 底本 p.651&lt;br /&gt;
** 東方父にて西方母: 西王母のことか。&lt;br /&gt;
* 底本 p.653&lt;br /&gt;
** 粕や米糠くぢょやすすき草: 「くじょ」は「葛」の方言らしい。&lt;br /&gt;
* 底本 p.662&lt;br /&gt;
** 「これは死人あったときの一七日」の「一七日」は恐らく十七日の意味ではなく、”一回目の”七日を意味すると思う。中国では「頭七」と呼ばわれる。&lt;br /&gt;
* 底本 p.663&lt;br /&gt;
** 九行目には「邪権&#039;&#039;&#039;付&#039;&#039;&#039;」、一五行目では「邪権&#039;&#039;&#039;附&#039;&#039;&#039;」というように、表記に揺らぎがある。&lt;br /&gt;
* 底本 p.664&lt;br /&gt;
** その夫をボッポクと云う: [[日本巫女史/総論/第一章/第一節|総論第一章第一節]]には「ボッポ&#039;&#039;&#039;ㇰ&#039;&#039;&#039;」とある。&lt;br /&gt;
* 底本 p.666-667&lt;br /&gt;
** 「大阪市天王寺村の黒格子 ... 黒格子といへるは、格子を墨にて塗り、家の内の表の間には、何か祀りて薄暗くせり ... 格子を黒く塗り、家を薄暗くするのは、神がかりする為の便利から来ているのであろう」&lt;br /&gt;
*** 室内を薄暗くするために格子を黒く塗ったというのではおかしい。黒格子とは九字の印を模した呪術的修飾であったのではなかろうか。たとえばかつて伊勢の海女たちは、ドーマンセーマンと呼ばれる魔除けの印を衣に書き入れていた。セーマンとは五芒星すなわち晴明桔梗印、対してドーマンは横五本縦四本の九字印といわれる。どちらも呪力を持った図形として認識されていたことが窺える。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2009年2月15日 (日) 19:40 (JST)&lt;br /&gt;
**** 蛇足ながら、天王寺には[[wikipedia:安倍晴明神社|安倍晴明神社]]がある。かつてこの地に五芒星と九字、阿倍晴明と蘆屋道満の流れを汲む(と各々が主張する)二つの呪術者集団が並び立っていたなら大変面白いと思うのだが…。(伝奇小説のネタくらいにはなりそう。)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1330</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第二章/第一節</title>
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		<updated>2010-05-16T08:00:16Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第二章|第二章　当代に於ける巫女と其の呪法]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第一節　文献に現われたる各地の巫女と其の呪法==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巫女は堕落し、呪法は形式化した当代のこととて、文献に現われたものは、異流を雑糅し、異法を混淆してあって、それを体系づけて、一々整然と書き分けることは、殆んど不可能と云っても差支ないほどである。それ故に、私は大体同じような記録を一まとめに記述する程度にとどめて置くとする。元より資料の整理が行届かなかったという高叱は、此の場合甘んじて受ける所存である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一、巫女の持った人形の二種&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「謡曲拾葉集」に、[[日本巫女史/第二篇/第二章/第二節|前]]に載せた葵ノ上の『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;寄&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;人&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は今ぞ寄り来る長浜や、芦毛の駒に手綱ゆりかけ』の呪歌を解読して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 寄人は寄神とも降童とも云ふ、或は生霊死霊を祈る時、彼の霊の代りに童子をそなへ置て祈つけ、降参さする事なり、或は霊を人形に作り藁にて馬など拵へかの人形を乗せて祷り、終りて後に川へ流す事もあり、この歌も是等の事を詠めると見えたり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのは、遂に巫道に通ぜぬ千慮の一失であった。解説の前半は、その通りであるが、後半の霊を人形に作り、藁の馬に乗せて川に流すとは、全く贖物の思想であると同時に、芦毛の駒云々の字句から想像した無稽の事である。此の呪歌の意義に就いては、私の学問の力では釈然せぬことは既述の如くであるが、拾葉抄の著者が考証したような事実を、此の呪歌から検出することは無理であるし、且つかかる呪法の存したことを曾て見聞せぬのである。何か巫女の持っている人形などから、想いついた説のようにしか信じられぬ。併しながら、当代の巫女が、怪しげなる物を呪力の源泉として、所持していたことは考えられる。而して是れには、（Ａ）外法頭を持ったものと、（Ｂ）単なる人形を持ったものとの二つの系統が存していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ａ、外法頭を持った巫女&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「嬉遊笑覧」巻八に、「龍宮船」という草子を引用して、左の如き記事が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 予が隣家に、毎年相州より巫女来りけるが、往来の事を語るに当らずといふ事なし。或時、袱紗包を忘れ置たり。開きて見るに二寸許の厨子に、一寸五分程の仏像ありて、何仏とも見分がたく、外に猫の頭とも云べき干かたまりし物一ツあり。程なくかの巫女大汗になりて走り来り、袱紗包を尋ねける故即ち取出し遣し、扨是は何作なるぞとたづねければ、是は我家の法術秘密の事なれども、今日の報恩にあらあら語り申べし。是は今時の如く太平の代には致しがたき事なり、此尊像も我まで六代持来れり、此法を行はんと思ふ人々幾人にても言ひ合せ、此法に用ゐる異相の人を常々見立置き、生涯の時より約束をいたし、其人終らんとする前に首を切り落し、往来しげき土中に埋み置く事十二月にて取出し、髑髏に付たる土を取り、言ひ合せたる人数ほど此像を拵へ、骨はよくよく弔ひ申事なり。此像はかの異相の神霊にて、是を懐中すれば如何やうの事にても知れずといふ事なしといふ。今一ツの獣の頭のことも尋ねけるが、是は語りにくき訳あるにや大切の事なりとばかり言ひける由、これなん世上にいふ外法つかひと云ふ者なるべきか（近藤活版所本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是れ殆んど符節を合わすが如き狐の髑髏を持つ事実のあったことが、奥州の見聞を書いた「黒甜瑣語」に載せてあるが、これは[[日本巫女史/第二篇/第五章/第一節|既述]]したので、ここには省略する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｂ、人形を持った巫女&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
奥州のイタコが公然と持っているオシラ神と称する人形とは異り、外法箱の中に、秘密に収めた人形を持った巫女は、諸書に散見しているが、やや詳しく記してあるのは、根岸鎮衛の「耳袋」巻三に、「矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事」と題せるものと思うので、左に転載することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 宝暦の始めには、三州矢作橋、御普請にて、江戸表より、大勢役人職人等、彼地へ至りしに、或日人足頭の者、川縁に立ちしに、板の上に人形やうのものを乗せて流れ来れり（中略）、面白きものと、取て帰り、旅宿にさし置けるに、夢にもなく、今日かかりし事ありしが、明日かくかくの事あるべし、誰は明日煩ひ、誰は明日いづ方へ行べしなど、夜中申けるにぞ、面白き物也、これはかの巫女などの用る外法とやらにもあるやと、懐中なしけるに、翌日もいろいろの事をいひけるにぞ、始めの程は面白かりしが、大きにうるさく、いとひ思ひしかども、捨てん事も又怖ろしさに、所のものに語りければ、彼者大に驚き、由なきものを拾ひ給ひけるなり（中略）、其品捨給はでは禍を受る事なりと言ひし故、せん方なく、十方にくれて如何し可然哉と、愁ひ歎きければ、老人の申けるは、其品を拾ひし時の通り、板に乗せて川上に至り（中略）、彼人形を慰める心にて、其身うしろに向いて、いつ放すとなく、右船を流し放して、跡を見ず立帰りぬれば、其祟りなしといひ伝ふ由、語りけるにぞ、大きに悦び、其通りなして放し捨しと也（日本芸林叢書本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の拾った人形が、単なる木像であったか、それとも前掲の如き、外法頭系のものか判然せぬが、私は木像であったと考えたい。それは、記事中に『其人形のやう、小児の翫びとも思はれず』とあるが、神仏いずれとも見定め難きほどの物と思われるので、ここには単なる木像と見るのが穏当であろう。而してそれとこれとは、趣きを異にしているが、斯うした呪物が、水を恐れる話は、他にも聴いている。南方熊楠氏の談に、紀州の某が、大阪で、猫神を所持していると、米相場で金儲けが出来るとて、それを所持していたところ、金は儲かるが、夜となく、昼となく種々なことを告げ知らせるので、うるさくもあり、怖ろしくもなり、遂に淀川の水中に身を没し、天窓まで水をかぶっていて、漸く猫神を離したとのことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二、口寄せの種類とその作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市子の呪術も、当代に入るとその範囲も狭められて来て、専ら民間の——それも少数の愚夫愚婦を相手にするようになり、国家の大事とか、戦争の進退とかいう、注意すべき問題に全く与ることは出来なくなってしまい、漸く、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、口寄せと称する、死霊を冥界より喚び出して、市子の身に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かか&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;らせて物語りをする（俗にこれを「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;死口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シニクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」という）か、これに反して、遠隔の地にある者の生霊を喚び寄せて物語りする（俗にこれを「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;生口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;イキクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」という）こと&lt;br /&gt;
: 二、依頼者の一年間（又は一代）の吉凶を判断する（俗にこれを「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」とも「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;荒神占&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コウジンウラナイ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」ともいう）こと&lt;br /&gt;
: 三、病気その他の悪事災難を治癒させ、又は祓除すること&lt;br /&gt;
: 四、病気に適応する薬剤の名を神に問うて知らせること&lt;br /&gt;
: 五、紛失物、その他走り人などのあったとき、方角または出る出ないの予言をすること&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この位のものになってしまった。而して是等のうちで、尤も依頼者も多く、市子としても収入の多かったものは、死口、生口、神口の三つで、当代の市子といえば、直ちに口寄せを意味し、口寄せといえば、又この三つを意味するものと思われるまでになっていたのである。就中、民間の信仰をつないでいたものは死口であって、亡き両親や、同胞の死霊、又は亡き恋人や、友人の死霊が、市子の誘うままに幽界から出て来て、明界にいる子孫なり、関係者なりと、談話を交えるというのであるから、不思議にも思われ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神事&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミゴト&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と信じられたのも無理のないことで『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が語る声まで、死んだ母親そっくりだ』などとは、幾度となく聴かされたことで、且つ三歳か五歳で夭折した子供の死霊が現われて、地獄の苦しみを物語る哀れな&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;声音&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;こわね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を耳にしては、その親たるものは、涙を絞り袖を濡らし、信ぜざらんとしても、迷わざるを得ぬのである。最近に金田一京助氏が記された実見談によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 姉の家で、口寄せした時には（中略）、例の珠数を押し揉み押し揉み、口に唱えごとを繰返しているうちに、それが一種の歌に聞きとられる様になって来た。その歌詞は、姉などは聞き覚えに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;暗&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そら&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;んじている程、いつもきっと出て来るきまりの文句らしく、『……声はすれど、姿は見えの（ぬの訛りらしい）、影ばっかりに……』すると、髣髴として、亡き魂がそこに降りでもするような気分が座に満ちて来て、笑ったものも笑顔を収め、動いていたものも&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鳴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を鎮めてじっとする其の時、呪女の口からは、『五十九で亡くなった仏様を』とだけ頼んで、にじり出た姉へ向って云うような口調で『お前には苦労を掛けた……』と聞かれるような歌になった。と亡父の生前死後、羸弱な身を以て私に代って一家の世話を見つつ、浮世の辛酸を、滓の滓まで飲み尽した姉は、わっと泣きくずれて、『お父様、もう其の御一言で沢山です』と咽び入る云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるように〔一〕、気丈なものでも——馬鹿々々しいとは思っていながらも、引き入れられるのが常である。巫女が科学を万能とする現代においても猶お、残喘を保って、各地に存しているのは、全く此の呪法を行うことに由るのである。而して此の呪法を行うには、又左の如き種々なる作法があったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ａ、手向の水ということ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:死口市子一.gif|thumb|死口を寄せている市子（外法箱膝のは梓弓前のは手向の水）]]&lt;br /&gt;
[[画像: 死口市子二.gif|thumb|left|死口を聞いている人々（川柳本所載）]]&lt;br /&gt;
市子は口寄せの折には、その対象が、死霊と生霊と神口との別なく、必ず依頼者に、茶碗その他の器物に水を盛らせ、それを巫女の膝の前（又は机の上）に置かせて、死霊の場合には、枯葉（又は樒の葉）で左廻わしに三度水を掻かせ、生霊の場合には、青い木葉（種類は何でもよい）で右廻わしに三度掻かせ、神口の場合には、紙撚り（併しこれも流派によって一定せぬが、大体は先ずこうである）で水を三度掻き廻させる。此の水を手向けることは、巫女が呪術を行うに大切なものとされていて、出て来る霊魂が『よくこそ水を手向けてくれた』と云うほど、重い儀軌？になっているのであるが、さて此の理由に就いては定説を聞かぬ。「松屋筆記」巻八七に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 塩尻（中山曰。天野信景翁の著書）一ノ巻に或人云、凡そ亡者の霊に水を手向るは仏法に効へるなりと、予按に是我国上古の習俗歟、「日本紀」十六に鮪臣が死せし時、影媛哀傷の倭歌を詠じて「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;玉笥&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タマケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;飯盛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;イヒモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;玉椀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タマモヒ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;水盛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミヅモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」などいひ、其葬の時「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;水喰&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミヅクヒ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ごもりみな&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;酒&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ソソ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ぎ」の詞あり、これ我国仏教来らざる以前の事也、仏氏といへども餓鬼の他、仏菩薩等に水手向る事なし（中略）「空華談叢」巻一に亡霊薦水六則あり、可考合。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と載せてある。之に由れば、巫女がその霊に水を手向けることは、我が古俗のようにも考えられるのであるが、単に是だけの資料で決定するのは危険である。殊に仏法にも亡霊薦水の法があるというし、且つ故前田太郎氏の研究によると、死者の霊に水を手向ける土俗は、殆んど世界的に遍在していたというから〔二〕、これは我が古俗にも存し、仏法にも在ったもので、巫女のそれは、古俗に仏法を加えたものと見るのが、微温的ではあるが、穏当だと考える。樒ノ葉を用いるに至っては、仏法の影響と見るも〔三〕、蓋し何人も異議のない事と思う。故長塚節氏の力作「土」には、茨城県下の農村における巫女の所作が克明に委曲に描かれているが、生口を寄せる一節に、巫女が『白紙&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;手頼&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り水手頼り、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;紙捻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コヨリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;手頼りにい……』と唱えたと記している。此の水の手向けは古くから広く行われていたようである。而して此の手向の水ということが、後には市子に祈祷してもらえと云う意味に転用されるようになり、呼び出される死霊が『水が足らぬ』とか『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;水向&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミズムケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を頼む』と云うのは、即ち市子が死霊の言に託して、自分の収入を謀った狡猾なる手段なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｂ、巫女の唱えた神降しの呪詞&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像: 山伏.gif|thumb|山伏と地しゃ（七十一番職人歌合所載）]]&lt;br /&gt;
[[画像: 笹ハタ.gif|thumb|笹ハタキと称する市子（川柳語彙所載）]]&lt;br /&gt;
当代に入ると、巫女の用いた&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;しの呪詞も、修験道の影響を濃厚に受け容れて、殆んど古き相は&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;摘&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;むほどしか残っていぬという有様になってしまい、然もその文句たるや、余程無学者が作ったものと見え、神仏の混雑は、当時の信仰から推して、先ず恕すべきとするも、措辞が野卑である上に、文理が滅裂で、全く体裁をなしていぬ。それを無智な巫女達が、矢鱈に唱い崩し、言い訛ったものと見えて、中には何事を意味しているのか解釈に苦しむものさえある。而して是等の呪詞は、京伝の「昔話稲妻表紙」を始めとし、三馬の「浮世床」や、一九の「東海道膝栗毛」等に載せてあるが、何れも多少の出入こそあれ大同小異で、僅に巫女が呪法を行う土地の一ノ宮または&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;産土神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ウブスナガミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の名を変える位で、その他は取り立てて言うほどの事もないし、それに是等の書物は、流布本の多いものゆえ、ここにはその中でも、やや古いと思う「稲妻表紙」から抄出するとして、他は省略した。同書巻四「仇家の恩人」の一節に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 扨ある年の春、藤波が祥月祥日にあたれる日、妻小枝妹阿龍等がすすめにより、県巫女をやとひ、藤波が口をよせて、冥途のおとづれをききぬ。さて降巫上座に居なほりて、目うへの人にや目下にや（中山曰。今では此の事は聞かず、、ただ黙って頼めば、巫女の方で言いあてる）、生口か死口かとたづぬれば、小枝すすみ出で、目下の者にて死口なりと答へつつ、樒の葉にて水むけすれば、巫はささやかなる弓をとりいだし、弦を打ならして&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;旦&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まづ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神保&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をぞ唱へける。&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;夫&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;それ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;つつしみ敬てまうし奉る。上は梵天帝釈四大天王。下は閻魔明王。五道の冥官。天の神。地の神。家の内には井の神。竃の神。伊勢の国には。天照皇太神宮。外宮には四十末社。内宮には八十末社。雨の宮。風の宮。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;月読日読&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツキヨミヒヨミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;御神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;おんかみ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;。当国（中山曰。近江）の霊社には。坂本山王大権現。伊吹の神社。多賀明神。竹生島弁財天。筑摩明神。田村の社。日本六十余州すべての神の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;政所&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まんどころ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;。出雲の国&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大社&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;おほやしろ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;。神の数は九万八千七社の御神。仏の数は一万三千四個の霊場。冥道をおどろかし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;此&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ここ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;くだ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し奉る。おそれありや。この時によろづの事を残りなく。おしへてたべや梓の神。うからやからの諸精霊。弓と箭のつがひの親。一郎どのより三郎どの。人もかはれ水もかはれ。かはらぬものは五尺の弓。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一打&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ひとうち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;うてば寺々の。仏壇にひびくめり。&lt;br /&gt;
: 梓の弓にひかれひかれて、藤波が亡き魂ここまでまうで来つるぞや。懐しやよく水手向て玉はりしぞ、主君とは申しながら、畏れ多くも心には、&amp;lt;u&amp;gt;枕ぞひ&amp;lt;/u&amp;gt;（中山曰。圏点を打ちし句は巫女の隠語、[[日本巫女史/第二篇/第五章/第四節|既載]]のものを参照あれ）とも思ひしから、&amp;lt;u&amp;gt;烏帽子宝&amp;lt;/u&amp;gt;を産みはべりて、&amp;lt;u&amp;gt;唐の鏡&amp;lt;/u&amp;gt;とかしつがれ、おん身等にも安堵させ、楽しき暮しをさせ申さんと思ひし事も左り縄、云ひがひもなき妾が身の上、露ばかりも罪なくて、邪見の刃に身をほふられ、尽きぬ恨みの悪念が、此身を焦す炎となり、晴れぬ思ひの冥道に、今に迷ふて居り候云々（以上。帝国文庫本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;しの呪詞は、別段に解釈を要せぬまでに明白であるし、又た解釈を要するほどの『一郎殿より三郎殿、人もかはれば水もかはる』云々の如きは、これを唱えていた巫女にも解らず、従って他の者には、皆目見当もつかぬものである〔四〕。殊に、神の数が九万八千とか、仏の数が一万三千とかいうのは、全くの出たら目で、何等の根拠もなければ、理由もなく、ただ巫女が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;旋律的&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;リズミカル&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に唱える上に、舌に唾のたまらぬよう、語呂の点から択んだ文句に外ならぬのであって、それが古く歌謡の系統に属していた名残りをとどめているのであるが、夙に歌謡は、巫女の手から離れて、独立した芸術として発達しているのに反し、巫女は堕落して、糊口の料に神降しを唱え、それも旧態を保つに懸命であって、生面を拓くことが出来なかったので、益々世相と遠ざかるようになってしまったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巫女は別名を「大弓」とも「小弓」とも、更に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;梓巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アヅサミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;とも言われているほどとて、呪術を行う場合に、弓弦を細き竹の棒にてたたくことは既述したが、この作法は、必ずしも総ての巫女に通じて行われたものではない。私の知っている限りでは、（一）都会に定住していた者と、（二）漂泊をつづけた歩き巫女と。（三）奥州のイタコと称する者は、概して弓を用いず、これに反して、町や村に土着した巫女は、弓を用いたようである。折口信夫氏のノートに拠ると、壱岐のイチジョウと称する巫女は、長さ八尺もある黒塗の木ノ弓（二ツ折になって袋に入れて、持ち歩くに便にしてある）に、麻の弦をかけ、南天の葉を&amp;lt;u&amp;gt;ひい&amp;lt;/u&amp;gt;て油をとりしものを弦に塗り、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;盒&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゆり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（中山曰。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;曲物&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まげもの&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にて楕円形をなし、高さ四五寸、大きさ一尺二三寸なり）を伏せて、麻縄で二ヶ所&amp;lt;u&amp;gt;くび&amp;lt;/u&amp;gt;った上に、弓を持たせかけ、釣り竿のように反った一尺五寸ほどの竹の棒二本で、弦をたたきながら、初めは「神寄せ」の文句（中山曰。此の文句は判然せぬ）を唱え、次に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;御籤&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミクジ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;あげ」をなし、それから「百合若説教」を宜いほどに唱える（中山曰。百合若説教のこと注意されたし）そうである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに、常陸辺では、既述の如く、二三尺位の粗製の竹の弓を用いるとあり、私が同じ常陸の潮来町で聴いたところでは、巫女は弓を持参せず、往く先々で青竹を切って、二尺ほどの弓を拵えてもらい、それを用いるとのことであった。而して此の弓の弦をたたく音は、弦が&amp;lt;u&amp;gt;ゆる&amp;lt;/u&amp;gt;く張ってあるためか、ベンベンと如何にも眠気を誘うような響きがするものであって、巫女がこの響きにつれて神降しの呪詞を唱えすすむうちに、催眠状態（その実際は後世の巫女は催眠を仮装するだけで覚醒している）にでも入りそうな心もちのするものである。因みに「笹ハタキ」とは、その文字の如く、始めは笹の葉を両手に持ち、それで自分の顔を軽くたたきながら催眠状態に入ったので負うた名である。これも後には雑糅されてしまって、小さい弓を用いる巫女まで、此の名で呼ぶようになったのである。猶お巫女の修業、神つけの方法、各地の神降し等に就いては、文献には見えぬので、次節の報告の条に詳述する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三、イタコのオシラ神の遊ばせ方&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像: 新オシラ.gif|thumb|新しきオシラ神（故伊能嘉矩氏所蔵）]]&lt;br /&gt;
奥州のイタコ（これは殆んど悉く盲女であって、精眼者あるを今に聞かぬ）と称する巫女が、オシラ神を持っていることは屢記したが、さて此のオシラ神は、如何なる場合に用いるか、併せてその用法は如何にと云うに、イタコは依頼者の意を受けて、生霊なり、死霊なりの口寄せをするときは、金田一氏の記事にある如く、イラタカの珠数を両手で押し揉み（秋田地方では揉まずに珠を繰る方法もある）ながら、神降しを済ませ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;人&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;となって種々なる呪法を行うことは、昔の普通の巫女と別段に変りはないが、呪法が終ってから、依頼者の希望により、その家（奥州では草分け百姓とか、又は旧家とか云われる家には、各相伝のオシラ神がある）のオシラ神を遊ばせる（春秋二期のオシラ神祭りの日は云うまでもない）ことがある。而してその遊ばせ方に就いては「民俗芸術」第二巻第4号に、小寺融吉氏の詳細なる記事があり、更にこれを遊ばせる祭文は、「民族」第三巻第三号に、中道等氏の寄稿があるので、幸い私は両氏の厚誼を辱しているので、甚だ勝手ながら、左にこれを自由に取り交ぜて、抄録することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東北地方に名高いオシラ様の祭を私{○小/寺氏}は、偶然にも昨年{○昭和/三年}東京で見ることが出来た。それは柳田国男先生のお宅に、以前から届いてあった此の神様を、本式に祭るため、はるばる奥州から盲目の巫女が、三月一八日の祭日を期して上京したのに列席したのであった云々。&lt;br /&gt;
: 祭壇を前に石橋&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;貞&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さだ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;子という老いた盲目のイタコ（巫女）が静かに座った。常の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;髪形&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かみかたち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、常の服装のままで、黒い袈裟を左肩から掛け、次に長い数珠を首に掛けた。数珠の玉は黒くて大きい。そして円筒形の筒（中山曰。呪力の源泉である神を入れたもの）を押し頂いて、右肩から左脇へ掛けた。この筒は神秘不可思議で、中に何があるか分らない。&lt;br /&gt;
: さて祭壇と云っても、ただの机だが、その上にイタコから見て、正面に一対のオシラ神、右が女神左が男神（原註略）。右の奥に茶碗に水、その前に蝋燭、左の奥に菓子、その前に蝋燭、そして中央の前に、右には塩、左には米が在る。&lt;br /&gt;
: 抑々オシラ様の御神体は、八寸ほどの長さの桑の木（中略）、毎年の祭に着物（東北でセンタクと云う）を上に一枚づつ重ね参らせる。着物と云っても一枚の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;布&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;きれ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;冠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かぶ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;せるだけで、首の上からスッポリ冠せるのと、布の中央に穴を明けて、穴から首を出すのと二通りある（中略）。今日の御神体は首を露出せぬ方だが、首を包んだ布のまわりに、小さい鈴を女神は四個、男神は三個結んで区別している云々。&lt;br /&gt;
: イタコは先ず塩を取って振りまいた。次に我昔所造諸悪行……一切我今皆懺悔の四句の懺悔文を誦し、次に般若心経に移った（中略）。そして般若心経の時に、途中で息を切って一寸休む折りは合ノ手のように、しきりに数珠を揉んだ。これは左掌を下にし、右掌を上にして揉むので、胸の前で合掌するのとは違う。次に普門品の偈だけを読んだようで、念被観音力、還著於本人なぞの文句が聞き取れた。これを終って柏手を打ち、いよいよオシラ祭文に移った。&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: 　　　　千だん栗毛物語（オシラ遊びの経文）&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: しら神の御本尊&lt;br /&gt;
:: くはしく尋ね奉れば&lt;br /&gt;
:: 我が京にては白神の御本尊と申也&lt;br /&gt;
:: 朝日の長者ようひ長者と申して&lt;br /&gt;
:: 数の宝を相添ひて&lt;br /&gt;
:: おがひ申して&lt;br /&gt;
:: おがひに長じて身を清め&lt;br /&gt;
:: よき金三百両&lt;br /&gt;
:: こがねのにはちで納め置く&lt;br /&gt;
:: 鰐口ちょうと打ならし&lt;br /&gt;
:: 南無や大慈大悲の親世音さま&lt;br /&gt;
:: 願はくば赤子一人授けてたまはれと&lt;br /&gt;
:: 願はくばおどうかうによう申すべし&lt;br /&gt;
:: そげんの破風に瑪瑙の垂木&lt;br /&gt;
:: やんくゎぎぼうに至るまで&lt;br /&gt;
:: 金銀の入ればに&lt;br /&gt;
:: 表しろかね中こがね&lt;br /&gt;
:: 厚さ三寸五分なり&lt;br /&gt;
:: 錦のとうざう七流れ&lt;br /&gt;
:: 我も子のことかなしみて&lt;br /&gt;
:: とりかへかきかへ申すべし&lt;br /&gt;
:: 大千世界めぐりて&lt;br /&gt;
:: 鳥類畜類めぐれども&lt;br /&gt;
:: 汝らに授くる宝も無し&lt;br /&gt;
:: 今度この度しらの種申し下す&lt;br /&gt;
:: 此子は六つ七つに至りては&lt;br /&gt;
:: 命に恐れあるべし&lt;br /&gt;
:: 東方父にて西方母&lt;br /&gt;
:: 兄は御いきと申すなり&lt;br /&gt;
:: 左りの袂より右りの袂へ&lt;br /&gt;
:: すらりと入れると覚えて&lt;br /&gt;
:: 夢さめて長者夫婦の人々は&lt;br /&gt;
:: 斯うまで有難き御利生を&lt;br /&gt;
:: 七度の礼物なされけり&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: 我が家に帰りついたる時&lt;br /&gt;
:: 懐胎となって&lt;br /&gt;
:: 当る十月と申して&lt;br /&gt;
:: 御産の紐を開せとくがや&lt;br /&gt;
:: 玉や御前と名をつけて&lt;br /&gt;
:: 二つになるから三つ四つと心を用いて&lt;br /&gt;
:: 六つになる年右の御手に筆とらせ&lt;br /&gt;
:: 七重の愛馬に飼立てられたる千だん栗毛&lt;br /&gt;
:: 立つに千段すはるに千だん&lt;br /&gt;
:: 三千四だん五だんの形をもたせ玉ふ&lt;br /&gt;
:: めん馬に乗じて馬の頭を&lt;br /&gt;
:: おしなでかきなでたまひて&lt;br /&gt;
:: この屋形のうちに入らせたまふ&lt;br /&gt;
:: 一才になるから二才三才やうなる&lt;br /&gt;
:: 御育ておいた徳を以て&lt;br /&gt;
:: 前足のつき相を見れば&lt;br /&gt;
:: てむく茶碗をすゑたる如く&lt;br /&gt;
:: 後足のつき相を見れば&lt;br /&gt;
:: ごばんちょうこすゑたる如く&lt;br /&gt;
:: 目鼻尾のつきあひ&lt;br /&gt;
:: 毛はだまでもやうなる様に&lt;br /&gt;
:: 御育て置いた徳を以て&lt;br /&gt;
:: 今日も見物人ひとは百人&lt;br /&gt;
:: またも二百人三百人の&lt;br /&gt;
:: 見物人の無い日とてはあるまい&lt;br /&gt;
:: おれも見物に出でて見ようと云うて&lt;br /&gt;
:: 十二ひとへを重ね&lt;br /&gt;
:: 十二人のつまとりを附け&lt;br /&gt;
:: つまどりには褄を取らせ&lt;br /&gt;
:: 七重のまや迄見物に出でたるれば&lt;br /&gt;
:: 上のまやには赤きめん馬百三十三匹&lt;br /&gt;
:: 下の厩には青きめん馬百三十三匹&lt;br /&gt;
:: 中の厩には白きめん馬百三十二匹&lt;br /&gt;
:: 後ろ残りし一疋のせんだん栗毛&lt;br /&gt;
:: 見るまも無く玉や御前のほめるには&lt;br /&gt;
:: 前足のつき相を見れば&lt;br /&gt;
:: てむく茶わんをすゑたる如く&lt;br /&gt;
:: 後足のつきあひを見れば&lt;br /&gt;
:: 朝顔の咲いたる如く&lt;br /&gt;
:: 目の色はからかね目&lt;br /&gt;
:: 目鼻耳のつきあひ&lt;br /&gt;
:: 毛肌までもふしのつけやうは無い&lt;br /&gt;
:: これが人間のからだなれば&lt;br /&gt;
:: どうぞ夫婦になりそめたいものと&lt;br /&gt;
:: 三度までも馬のからだを撫でたまふ&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: 声は千だん栗毛の耳にとまりまして&lt;br /&gt;
:: 恋のわづらひとなりました&lt;br /&gt;
:: 糠草も食することは無く&lt;br /&gt;
:: 粕や米糠くぢょやすすき草&lt;br /&gt;
:: どの様に食わせても食することは無く&lt;br /&gt;
:: 如何致したわけである&lt;br /&gt;
:: この家の亭主に伺ひ見るべしと&lt;br /&gt;
:: 伺ひ見たならば&lt;br /&gt;
:: はくらくでも取りよせ見たならば&lt;br /&gt;
:: せんだん栗毛の相分るべしというて&lt;br /&gt;
:: 西東北南四うぢ隅より&lt;br /&gt;
:: 伯楽の三十七人までも取寄せたけれども&lt;br /&gt;
:: どの伯楽も千だん栗毛の病気&lt;br /&gt;
:: 名をつけるはくらくはあるまい&lt;br /&gt;
:: 天が下に無いほどの西の方には&lt;br /&gt;
:: よい占い師があることだ&lt;br /&gt;
:: そんなら取りよせ見るべしと&lt;br /&gt;
:: 取りよせ見たなれば&lt;br /&gt;
:: 憚りながら此家の千だん栗毛の病気は&lt;br /&gt;
:: 外なる病気ではない&lt;br /&gt;
:: 二階ひとり姫玉や御前&lt;br /&gt;
:: 恋がけの病気と判じたれば&lt;br /&gt;
:: 金満長者の夫も腹を立てて&lt;br /&gt;
:: さて憎い畜生だ&lt;br /&gt;
:: 畜類は人間に恋をするといふこと&lt;br /&gt;
:: 此世には無いことだ&lt;br /&gt;
:: 早く千だん栗毛を&lt;br /&gt;
:: 投げ棄てて来いとのいひつけをさるる&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: さてせんだん栗毛せんだん栗毛&lt;br /&gt;
:: 今までは七重の馬&lt;br /&gt;
:: あいの馬に飼育てられたる千だん栗毛&lt;br /&gt;
:: 今更姫に恋して投棄てらるるぞよと&lt;br /&gt;
:: どのやう意見そひしんされても&lt;br /&gt;
:: 頭をふり上ることは無い&lt;br /&gt;
:: これは二階の一人姫&lt;br /&gt;
:: 玉や御前を見舞させたなら&lt;br /&gt;
:: せんだん栗毛の病気は相分ると謂うて&lt;br /&gt;
:: 二階一人姫玉や御前さまに&lt;br /&gt;
:: 見まひを致しくれといひば&lt;br /&gt;
:: 二階一人姫玉や御前も人目を忍んで&lt;br /&gt;
:: 夫婦のちぎりある故に&lt;br /&gt;
:: ゑ顔あげて十二ひとへ引重ね&lt;br /&gt;
:: 十二人の褄どりをつけ&lt;br /&gt;
:: つまどりには褄を取らせ&lt;br /&gt;
:: 右の手には萩を持ち&lt;br /&gt;
:: 左の手にはすすきを持ち&lt;br /&gt;
:: 二階はしごを下りまゐり&lt;br /&gt;
:: 七重のまやまでとり運ぶ&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: さて千段栗毛せんだん栗毛&lt;br /&gt;
:: おれの為に病気になって&lt;br /&gt;
:: 居るさうだと謂うて声かけたるれば&lt;br /&gt;
:: すぐ頭をふりあげて&lt;br /&gt;
:: 萩やすすきを一本ままではむこと&lt;br /&gt;
:: 以前と異ならず&lt;br /&gt;
:: 玉や御前と千だん栗毛と別るる時は&lt;br /&gt;
:: 生木の枝を割かるる如く&lt;br /&gt;
:: 血の涙で別れおいて&lt;br /&gt;
:: とうとう二階一人姫も病気になりました&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: これは来る三月一六日に&lt;br /&gt;
:: 御神明のみかぐらでも企てたならば&lt;br /&gt;
:: 姫の病気は快気になるかと&lt;br /&gt;
:: いうて企てたなれば&lt;br /&gt;
:: おれも見物に出でて見ようと云うて&lt;br /&gt;
:: 十二ひとへひき重ね&lt;br /&gt;
:: 十二人のつまどりをつけ&lt;br /&gt;
:: つまどりには褄を取らせ&lt;br /&gt;
:: 七十人の供をつれ&lt;br /&gt;
:: 一沢越え二沢越え三沢目の&lt;br /&gt;
:: 大きな桂の大木の根に腰をかけ&lt;br /&gt;
:: うつの宮より褄取りとも人皆ほろき落して&lt;br /&gt;
:: ただ御神楽よそに見て&lt;br /&gt;
:: 千相桑の林に一飛び運び参り&lt;br /&gt;
:: 真砂の珠数御手につまぐり&lt;br /&gt;
:: それそれははかせを喚んで&lt;br /&gt;
:: 博士は八十三のこよみ&lt;br /&gt;
:: さて千だん栗毛千だん栗毛&lt;br /&gt;
:: 玉や御前がこの処に運んだについて&lt;br /&gt;
:: しんが有るなら一声出せと&lt;br /&gt;
:: 大声あげて歌をよみあげる&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: すぐなまぐさき風は吹き&lt;br /&gt;
:: 五色の雲をたなびきて&lt;br /&gt;
:: 八間四方の皮をならされた&lt;br /&gt;
:: 御姫さまをぐるりと巻取って&lt;br /&gt;
:: 天に昇り天竺の方に参ったり&lt;br /&gt;
:: 褄取り供人は皆つらづらになりまして&lt;br /&gt;
:: 家に帰りしなれば&lt;br /&gt;
:: 我々の命は一ときも堪らんものか云ふて&lt;br /&gt;
:: 早く伺ひ見るべしと&lt;br /&gt;
:: 一飛びに運ぶ&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: さて金満長者の旦那さま&lt;br /&gt;
:: うちのいたはしき二階一人姫&lt;br /&gt;
:: 玉や御前さんは千だん栗毛の為に&lt;br /&gt;
:: 盗みとられました&lt;br /&gt;
:: おらの命ばかりは御助けなされてくだされと&lt;br /&gt;
:: それは手まへだちのかかはりたる事では無い&lt;br /&gt;
:: 姫はさうあなたはいの因縁づくと云うて&lt;br /&gt;
:: 涙にくれて居るところへ&lt;br /&gt;
:: 虫は二十四疋ふりくだる&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: 白き虫の顔見れば&lt;br /&gt;
:: おら処の玉や御前に似たる顔&lt;br /&gt;
:: 黒き虫の顔見れば&lt;br /&gt;
:: 千だん栗毛に似たる顔&lt;br /&gt;
:: 米はませても米はまず&lt;br /&gt;
:: 粟はませても粟はまず&lt;br /&gt;
:: 麦はませても麦はまず&lt;br /&gt;
:: 豆はませても豆はまず&lt;br /&gt;
:: 百人二百人三百人の&lt;br /&gt;
:: 見物人は参りしなれど&lt;br /&gt;
:: 何はむ虫と判ずる人はあるまい&lt;br /&gt;
:: 七十あまりのぢいさまは&lt;br /&gt;
:: 桑の杖をついて見物に出たなれば&lt;br /&gt;
:: 残らず其の杖につたはりました&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: これは何の木、これは桑の木&lt;br /&gt;
:: これは何虫、桑の木のもえを食ふ虫&lt;br /&gt;
:: ととこ虫とあらはれて&lt;br /&gt;
:: 三十七人の桑とりをまはす&lt;br /&gt;
:: しろがねのまな板こがねの庖丁で&lt;br /&gt;
:: きり刻みて与えしなれば&lt;br /&gt;
:: 残らずさりこんではむこと&lt;br /&gt;
:: 一をり板しけば二をりの板&lt;br /&gt;
:: 二をり板しけば三をり板&lt;br /&gt;
:: 三をり板しけば四をり板&lt;br /&gt;
:: 四をり板しけば五をり板&lt;br /&gt;
:: 五をり板しけば六をり板&lt;br /&gt;
:: 六をり板しけば七をり板&lt;br /&gt;
:: 七をり板しけば八をり板&lt;br /&gt;
:: 十二をり板&lt;br /&gt;
:: きんこ糸を取る時なれば&lt;br /&gt;
:: 一さをかければ二さを&lt;br /&gt;
:: 二さをかければ三さを&lt;br /&gt;
:: 三さをかければ四さを&lt;br /&gt;
:: 四さをかければ五さを&lt;br /&gt;
:: 五さをかければ六さを&lt;br /&gt;
:: 六さをかければ七さを&lt;br /&gt;
:: 七さをかければ八さを&lt;br /&gt;
:: 十二さを&lt;br /&gt;
:: 金満長者のおんしょう返すが為に&lt;br /&gt;
:: つぼの松に下り&lt;br /&gt;
:: 馬とともに十六ぜんの&lt;br /&gt;
:: 大しらのしら神にあらはれ&lt;br /&gt;
:: 尾張の国金満長者は&lt;br /&gt;
:: 日本一の真綿屋と名をつけられて&lt;br /&gt;
:: 銭かねに不自由なく暮すさうや&lt;br /&gt;
:: 父がそひてあつかひば父になづく&lt;br /&gt;
:: 母がそひてあつかひば母になづく&lt;br /&gt;
:: 庭にそひてあつかひば庭になづく&lt;br /&gt;
:: 竹にそひてあつかひば竹ごともなづく&lt;br /&gt;
:: 舟にそひてあつかひば舟子ともなづく&lt;br /&gt;
:: あれ乱風大風火難盗難&lt;br /&gt;
:: あきなひその他作る田畠も護らせたまふ&lt;br /&gt;
:: 家内安全商売繁昌の御祈祷と&lt;br /&gt;
:: 敬ってまをす〔五〕&lt;br /&gt;
:: ○中山曰。小野寺氏の記事には、祭文の文句は記して無いのを、私が勝手に中道氏の寄稿から、此の文句ならんと考えて掲げたのである。&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: オシラ祭文は、オシラ神の由緒を物語る長い叙事詩を歌うので、長者の厩に飼われたせんだん栗毛という名馬が長者の姫に恋をして、結局二人が蚕の神様になるという歌で、イタコは歌いながら、両手に持つ二つの御神体を動かすので、「如何に動かすか」が私の興味なのである。そこでイタコは机に並んだ位置をそのままに、右手で女神左手で男神を持った。センタクの下へ手を入れ、柄（つまり人形の胴体）を持つ、この人形は手足はなく、首と胴と着物のみである。&lt;br /&gt;
: 男は右、女は左の法則なのに、何故か此のイタコは右に女神を、左に男神を持った。然しこれは神がイタコに乗り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;うつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;るのでなくて、イタコはあくまでもイタコとして、神を舞わすのであるという意味かも知れぬ。そこでイタコは&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;俯&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;うつむ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いて、自分の顔を御神体に触れて、何事か云った。それから胸の前に出して、半分倒すようにして持つ、自分の膝に対して垂直には持たない。これが基本の形である（中略）。&lt;br /&gt;
: 長い恋物語のオシラ様由来記が終ると、イタコは一休みした。それから一年十二ヶ月の年中行事に関する謡いものに移り、やはり左掌を下に、右掌を上にして小指を組合せ、何か印を結ぶような事をし、次に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;拍手&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かしわで&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を打ち、再び人形を取り上げた。前の祭文が荘重厳粛であるとすれば、これは打ちくつろいだもので、人形の動かしかたも変って来た（中略）。&lt;br /&gt;
: 次に一休みして、「えびすまい」。次に「地獄さがし」。これは鼻歌でお経を読むと思えば、見ない人も、ほぼ想像がつく。珠数を拍手とりつつつまぐり、それに合せて歌うので、人形とは関係はない。少し可笑味のものである。最後に「神送り」と云い、神を山林山野に送る歌を、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;祝詞&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;のりと&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;式口調で歌った。イタコも大分疲れたので、これだけで全部を終り、あとは二三の人を占いをして散会した（中略）。&lt;br /&gt;
: オシラ神の鈴は、人形自身の声である（中略）。イタコの歌は、人形の鈴の音の意味を、人間の言葉に翻訳しているとも見ることが出来る云々〔六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の記事によっても知らるる如く、イタコの持っているオシラ神は呪神では無く、呪神は何物か納めてある円筒形の筒の中にあるので、オシラ神は此の筒の中の神を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;和&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;め&amp;lt;u&amp;gt;いさめ&amp;lt;/u&amp;gt;るために舞わし遊ばせるのに過ぎぬのである。従ってオシラの元は神ではなくして、人形その物であったと信ずべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四、各地方の市子と其の作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市子に幾多の流派のあったことは看取されるが、その独特の作法を比較して、異流を検出することは雑糅された後に残された文献を基調としたのでは、その労のみ多くして功がなく、結局は何が何やら判然せぬものになってしまう虞れなしとせぬので、此処には寡見に入った各地方の市子と、その作法とを列挙して、読者に異同を研究する資料を提供するにとどめるとする。猶お文献以外の報告によるものは、[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|後節]]に記述する。同じような事を二度に分けて書くことは、少しく煩しい嫌いもあるが、資料の整理上から、斯うすることが学問的であると考えたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ａ、羽後国仙北郡地方の座頭嚊&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同郡長信田村の出身で、今東京市外田端町に居る鈴木久治氏の談に次の如くある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 私の国では「いちこ」を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;座頭嚊&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ザトカカ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と云う。嚊と云っても、東京辺の賤民の妻を呼ぶような下賤の言葉の意味では無く女房を一体に「かか」と呼んでいる。その座頭嚊は、女子の盲目な者がなるのであって、其亭主は普通の百姓をしている。さて人が死んで、葬式を済ませた後、この座頭嚊を招んで仏を寄せて語って貰う。其時には近所の人に知らせてやると、近所の人達は重箱へ食物を詰めたのを持って集って来る。神仏の有った家では仏壇の前へ家内の者や村人が大勢集まる。この場合は先ず神仏を呼んで貰う（中山曰。鈴木氏はこの事を「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;座下&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クラオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し」と云うと語り補うた）のが例である。そうで無く死霊を招んで貰う時もあるが、呼んで貰う霊を心に念じて仏前の水に樒の葉を浸すと、呼び出される霊は必ず奇妙に当る。そこで座頭嚊は神寄せの呪文を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;誦&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;とな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;える。何でもよくは知らないが、日本国中の一ノ宮の神々を寄せるらしい（原註。神寄せの呪文と&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;門語&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カドカタ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りの呪文とがある云々）。この口寄せがすむと、次は他の人で呼んで貰いたい霊があれば、又仏壇の水に樒の葉を浸すのである。座頭嚊の持物には箱も弓もない（中山曰。此の事は注意すべき点である）。只長い&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;木欒子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;もくれんじ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の珠数を爪繰っている（中略）。私の国では女児や男児が生れても、&amp;lt;u&amp;gt;ひ&amp;lt;/u&amp;gt;弱くて早死する様な憂のある児は、座頭嚊の「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;取子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トリコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」にして貰う。取子というのは、胎内にある時から座頭嚊に頼んで、生れた子の丈夫に育つ様に祈祷をして貰うのである。其時は珠数の木欒子の珠を一つお守として頂いて、巾着なんどへ大事に入れて置く。そんな事で珠数の数は「取子」の為に分けてやるから、多い人と少い人とある訳だ云々〔七〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｂ、陸中国東山地方のオカミン&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「郷土研究」第三巻第四号に次の如き記事がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 陸中国東磐井郡門崎村近傍では、巫女をオカミサマと云う。盲目の女子の仕事である。巫女になるには、七箇年の年季で弟子入りし、其期間は師匠の食料までも自弁する定めである。さて一定の修業が終ると「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt; 神附 &amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミツケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と云う式を行う。是れがオカミン様の卒業式である。至って荘厳な式で、若しも不浄な者が式場に入れば、神が附かぬと云っている。式の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;荒増&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あらまし&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を言えば、先ず舞台を設けて注連縄を張り、真中に神附せらるべき女子その近親に擁せられ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;眼&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を手拭で鉢巻して坐る。その周囲を多数の巫女が取巻いて坐り祈祷するのである。然る後「何神附いた何神附いた」と問うと、真中に坐った女子「八幡様附いた」とか「愛宕様附いた」とか言う。斯うなれば、一人前の巫女となったものとして大なる祝宴をする。時にはには神の附かぬことがある。その時は列座の巫女たち御迎と称して坐を立つ。然る後は、大抵「何神附いた」と言うものである。巫女の業務は「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;口寄&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クチヨセ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」をすることである。これは死人あったときの一七日、お&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;盆&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ぼん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;又は秋の彼岸に、各戸殆どこれを行わぬ者は無い。&lt;br /&gt;
: 口寄を行うには、巫女は神降しと称して暫時祈祷をした後、希望せらるる死人となって、希望した人に対して言葉哀れに語り出す。婦女子等は大抵泣いて之を聴く。その聴いているうちに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;問口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トイクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（中山曰。古代の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;審神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さにわ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;である）と云うことをする。即ち聞手の方から口寄につれて色々の事を問うので、巫女はこの問口が無いと語り苦しいものだと云っている。又口寄の言うことの中に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;日忌&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒイミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と云うのがある。例えば何月何日何方へ往けば損をするとか、不治の病に罹るとか云う類である。地方では之を信ずること甚だしく、その日は必ず在宅して謹慎する風がある。この迷信の結果、自分等（寄稿者島畑隆治氏）幼少の時までは、学校さえも欠席したものである。今は日忌の風は次第に薄らいで行くが、巫女に口寄させる風に至っては、まだ減退せぬようである云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｃ、越後国三面村の変態的巫術&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
越後と羽前の国境なる三面村（越後国岩船郡に属す）は、肥後の五箇ノ庄、飛騨の白川村などと共に、山浅く谷幽なるだけに異った生活を営んでいる村落として有名であるが、明治二十九年八月に同地の土俗調査のため旅行された宮嶋幹之助氏の記事の一節に、下の如くある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 此村の一年間の楽しみは、正月と、盆と、旧十月の山神祭礼なり（中略）。旧十月十二日には、山神の祭とて（中略）。山伏を招き、一週間位は全村業を休み置酒す。而して祭には&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神下&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と云うをなす。其法、村人皆神前に集まりて、村中にて最も実直にて、少しく&amp;lt;u&amp;gt;ぼんやり&amp;lt;/u&amp;gt;せる男を撰び&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;とし、「ボンデン」を携え坐せしむ。衆人は之を囲み、手に藁を縄にて巻きたるを持ち地を打ち、一斉に大なる声にて「ホーイ、ホーイ」と唱う。繰返すこと暫時にして、神子は一度眠れるが如くなり、次で携うる「ボンデン」を勢いよく振り舞わす。此期を外さず村民は、傍より歳の豊凶を問い、禍福を尋ぬれば、言に応じて答う。問を止むれば、神子は倒れ、昏睡して、不覚となる。後に至り、醒むれば、自身が何を言いしや覚えずと。度々神子となりたる者は、少しく雑沓の場にて衆人の喧しきに逢えば、恰も神下しの時の如き現象を呈すと云う。案内者の言に依れば、舟渡村（中山曰。同郡なれど三面村と六里を隔つ）其他の村にて、神下しの時に衆人の唱言は異って、&lt;br /&gt;
:: トラウハ、シマンテ、キリカミテンノウ、ハヤウデカノウハ、ソーワタダイテン&lt;br /&gt;
: と是を幾遍も繰返すなり。又一種異れる神下あり。「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;邪権付&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ジャケンツキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と云う。其唱に曰く、&lt;br /&gt;
:: 一ヨリ二ヨリ、三ヨリ四ハラヘ、五ダンノマキモノ、六七サイホウ、八ポウカタメテ、イーノルナラバ、イカナルジャケンモ、ツイニハツカンデ、カンノーマイヨ&lt;br /&gt;
: と是を繰りかえせば、衆人が呼出さんとする人の霊、神子に付きて、種々の事を口奔ると云う。此神下の唱えは米沢地方の山神祭に言う所と同じ云々〔八〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の三面村の巫術の方法が、屢記した護法附と、全く軌を一にしていることは言う迄もないが、更に一段と古いところに遡れば、神子が巫女であったことが推知されるのである。それは「邪権附」に唱える呪文なるものが、私の接した報告によれば、磐城国の「笹ハタキ」と称する巫女が用いているのと同じであるからである。猶おその呪文等に就いては[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|次節]]に述べる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｄ、常陸国土浦地方のモリコ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「民族と歴史」第八巻第一号に、常陸国土浦町地方の巫女を記せる一節に、次の如く出ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 他にモリコと云うのがあります。それは大抵盲目の婦人です。病気などへ招かれて室内を暗くし、僅か一本の灯心に火を点じ、弦を鳴らして八百万神を呼び集め、それから自身が仏になって、我は死んだ祖父であるとか、伯母であるとか、又は大先祖なりと名乗りつつ、物凄く家族の人々を叱ったり宥めたり、既往将来の事を物語り、此の病人は何々の祟りだ。何神を信仰せよ、何々の薬を服用せよ。何れの方角から医者を頼めよと仏に代って種々の告げをするのであるが、是は「大弓モリコ」と称し、今でも病家などで、稀に行う事があります云々〔九〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｅ、信州における二三の市子と其作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信州は古くから巫女の名産地で、諏訪郡からも出ているが、殊に多かったのは、小県郡根津村であった（此の事は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|次節]]に詳述する）。「郷土研究」第二巻第六号に『信州では口寄巫を一般にノノウと呼び、その夫をボッポクと云う。神社に属して、神楽を奏する巫を鈴振ノノウと云う』とある。而して「民族」第三巻第一号には、同じ信州における巫女に関して、次の如く載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 川中島では竃祓いをノノサンと云った。松本の近在から来るという事であったが、出所は明かでない。矢張り婆さん（中山曰。精眼者である）が多かった。千早を着て、髪は御守殿風に結び、提げて来る風呂敷包は、松本のと似ていた。「ごめんなさい」と云って入って来た（原註略）。鈴を振りながら経を誦んだ。口寄せの如く神口をきいた。お神楽を上げるときには、右手に鈴を振り、左手に布紗に包んだ経本の如きものを持ち、経を誦みながら、両手を頭上高く挙げ、やがて、ぴたりと鈴を止め、「我が一代の、守り神であるぞよ……」から初めて、神口をきいた（中略）。&lt;br /&gt;
: 北小谷（中山曰。北安曇郡）の竃祓いは、あの辺ではモリと云った。盲目の巫女が多かった。根知（小谷下流の越後分）から多く来た。四隅をしばった風呂敷包に鈴を持って居り、家の者に挨拶してから祓にかかった。御洗米といって米一升にい銭若干が礼であった。モリは神口もきいた。若い女が多かった（中略）。&lt;br /&gt;
: 川中島地方では、別に梓巫をクチヨセと呼んで、竃祓のノノサンと区別していた。「お神楽を上げれば一段上り口寄を寄せると二段下へ下がる」といったから、竃祓の方を位良しとしていたのであろう。針箱位の風呂敷包を背負って、それに傘一本いつけて来た。その箱の中には人形が入っているということであったが、どうしても見せなかった。風呂敷包の箱に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;靠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;もた&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れて、神口、生口、死口をきいて、口寄せをした。神口のときには「神の初めは伊勢明神、越後ぢゃ弥彦の明神よ、信州ぢゃ一は諏訪さんよ……」と節調をつけて、神々を招ぎ降す。死口をきくときには、よく「某（嗣子の名等を呼び）は馬鹿だし、俺も行くところへ行かれぬ、それに水が呑み不足で一足出れば三足戻る……水向けしろや、お線香を立ててくれろや、さうすりゃ俺も助かる」などというので、身内の者などは涙を流して聴き入ったものだという（中略）。&lt;br /&gt;
: 小谷では之をイチコと云った。イチコの箱の中には外法仏が入っている。何か練って拵えたものだという事であったが、誰も見たものは無かった。ところが明治十年頃の事だったろうか（と話手の老人は云った）、イチコの泊っている家に集まって一杯やっていた博労共が、段々酔って来る中に、イチコがぶらりと遊びに出て行ったのを見てとり、その不在に主人の制止するのもきかず、箱の中から外法仏を出して見た。中には土で拵えたキボコ（人形）が入っていた。聖天様の様に男女のキボコが口を吸い合ってからまって居た。後でイチコが帰って来て「俺を勿体ない、いびりものにした」と腹立ち、箱に靠れて外法仏に聞いて、「誰と誰が云い出し、誰が風呂敷を解き誰々が箱を開いて、誰々で見た」と云った。皆の者弁解に窮し、それに薄気味悪くなって、繋銭（中山曰。各自銭を出し合うこと）をして包金であやまった事があったと云う云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｆ、大阪市天王寺村の黒格子&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸期には、江戸郊外の亀井戸村（天満宮の裏門脇）、京都郊外の等持院村〔一〇〕、大阪郊外の天王寺村に、小規模ながら市子の集団的部落があった。明治四十四年に、私が在阪中の余暇を偸み、天王寺の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女町&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこまち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を訪れた時は、まだ三軒ほど黒格子独特の暖簾を下げた家があったので、呪術を頼んで見たが、禁制だと称して口寄せはしてくれなかった。東京の亀井戸も、大正六年に私がネフスキー氏と尋ねた折には、家の表へ注連縄を引き回した家が二軒あって、昔の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女町&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこまち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の面影を微かにとどめていたが、ここでも官憲の命令だといって、口寄せに応じてくれなかった。而して天王寺に就いては、「浪花百事談」巻九に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 梓&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;数軒住ける地なり、其家みな格子造りにて、表の入口の外には、長三尺計りの三巾暖簾を木綿にて製し、それに大なる紋を染ぬき、仮字にて&amp;lt;u&amp;gt;くろがしら&amp;lt;/u&amp;gt;何々、&amp;lt;u&amp;gt;やぶのはた&amp;lt;/u&amp;gt;何々など、巫の名をも染ぬき、入口の上には注連縄を張る、黒格子といへるは、格子を墨にて塗り、家の内の表の間には、何か祀りて薄暗くせり云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。格子を黒く塗り、家を薄暗くするのは、神がかりする為の便利から来ているのであろうが、遂にそれが黒格子と云えば、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と思われるまでの俚称となったのである。大近松が宝永三年に執筆した「緋縮緬卯月の紅葉」二十二社めぐりの段に、お亀が情人の与兵衛の身の上を案じて、黒格子の巫女に生口を寄せてもらう光景が、巣林子の麗筆を以て叙述されている。而して此の一節は、単に大阪の古い巫女の存在を知るばかりでなく、その神降しの呪文にも、隠語にも、他のそれと異ったものが記してあるので、少しく重複に渉る嫌いはあるが、必要と思うところだけを左に抄録する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 幼き時より気に入りて、幾春秋をふりと云ふ、年季の下女を身になして、隠す事をも語りしは、黒格子の辻とかや、上手と聞きし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の門、ああ申し、ちと口寄を頼みませうとぞ案内ける。弟子の小女郎心得て、お通りなされと戸をあくれば、お亀は&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一間&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ひとま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に入りにけり。暫くあって立出づる、神子もよっぽど見えるもの、アァようお出でなされました、大阪のお衆で御座りますか（中略）。&lt;br /&gt;
: して先づ御用の事ありとは、生口か死口かと云へば、いやさればとよ、頼みたきとは生口なるが、海山隔てし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;方&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かた&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;でもなし、只二三里の道を越え、五日六日の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;便&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たよ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りもなし、どうがなかうがな、くよくよと、案じわびたる御身の程、寄せたべとぞ仰せる。神子は合掌目をふさぎ、珠数をくりひく梓弓、神下して寄せにける。&lt;br /&gt;
:: 天清浄地清浄、内外清浄六根清浄、天の神地の外、家の内には井の神、庭の神、竃の神、神の御数は八百万、過去の仏、未来の仏、弥陀薬師弥勒阿閦、観音勢至普賢菩薩、知恵文殊、三国伝来仏法流布、聖徳太子の御本地は霊山浄土三界の、救主世尊の御事なり、此の御教への梓弓、釈迦の子&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が弦音に、引かれ誘はれ寄り来り、逢ひたさ見たさに寄り来たよ。&lt;br /&gt;
: なう&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;懐&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;かしの&amp;lt;u&amp;gt;合の枕&amp;lt;/u&amp;gt;（圏点を附せるは[[日本巫女史/第二篇/第五章/第四節|隠語]]）や、我懐かしとはおぼつかなみの、寄り来る人は誰ぞいの、誰とて二人思ふ身が、一つねふしの二股竹与兵衛を、夫と思へばこそ問ふてたもって嬉しやの、問はれて今の恥かしや（中略）。とは云ひながら扇の影の立烏帽子、舅といひてもとは伯父（中略）。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;額&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ひたへ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に角も入れたもの、丁稚小者を云ふ如く、内の手代や&amp;lt;u&amp;gt;庭宝&amp;lt;/u&amp;gt;の侮り者になし果てて（中略）。語るに尽きぬ生口も今は是まで梓弓、引いては帰る習ひなり云々（帝国文庫本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大近松の慣用手段とて、情景併叙の筆を運び、殆んど天衣無縫の如き感あるも、それでもお亀が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;問口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トイクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をなし、市子がそれに答える遣り取りの工合が、巧妙に描かれている。それにしても、此の神降しの呪文は、神を言うよりは、仏を称えることが多いのは、兎に角に注意すべき点だと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｇ、紀州地方の算所と巫女の関係&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本居春庭翁の「賤者考」の一節にこうある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: サンジョと唱ふる所ありて、大抵忌む所&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;夙&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に同じ、伊都郡（紀伊）相賀荘野村今陰陽師あり、同郡官省符荘浄土寺村{今巫村なり日高/郡茨木村のうち}などをいひて他村より婚せず、サンジョは産所の意にて、昔産婦はここに出て産し、穢中を過して本村に帰りしなりなどいへれば、夙の所にいへる意に同じ、是も後には陰陽師巫女など移り住みしなるべし、夙よりはいささか勝れる如く他村にていへども、同火を禁ぜざるのみにて婚を忌めば同じ事なり（中略）。陰陽師、巫女、神楽舞やうの者も、人の同歯せざる事あり（中略）。巫女は前にいふ伊都郡浄土寺村、在田郡藤並荘熊井村などなり、、其他一二戸づつなるもあり云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お同国田辺町の巫女に就いては、[[日本巫女史/総論/第四章/第一節|既載]]したので省略する。而して「賤者考」の記事にもある如く、江戸期に入っては、巫女の堕落はその極に達し、漸く賤民として、落伍者として、社会の一隅に噞喁したまでであって、その社会的地位の如きは、殆んど問題とされず、修験の徒や、陰陽師の妻女となって、大昔の勢威などは夢にも見ることが出来なかった生活であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｈ、出雲地方の刀自ばなし&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「郷土研究」第二巻第四号に、出雲国の一部に就いて、次の如く記載してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 死者の精霊を呼んで、生前の物語を聞くことを「とじばなし」と云う。小庵の尼寺に至り、「とじばなし」を乞うと、尼は萩の弓（中山曰。此の萩の弓は他国には見えぬ）を射て、戒名と命日を唱えて精霊を呼び出して、物語をはじめる。昔死んだ子を呼んでもらって、茶の袷と杖を信州の善光寺まで届けてくれと頼まれて、長の旅路に財産を無くした母親もあった。「とじばなし」は精霊を呼ぶのは易いが、返すのは容易でない。若し誤ると亡霊は勿論のこと、遺族にも不幸が来る云々〔一一〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上は寡見に入った文献に現われた巫女の作法であるが、更にこれが詳細のもの、及びここに漏れたもので、報告に接している分は後出する。さて此の乏しき資料を比較して巫女の異流を考うると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、奥州のイタコの如く盲女に限るものと、これに反して、常陸のモリコや、大阪の黒格子の如く、精眼者のあったこと&lt;br /&gt;
: 二、梓弓を用いる者と用いぬ者&lt;br /&gt;
: 三、珠数を用いる者と用いぬ者&lt;br /&gt;
: 四、神降しの呪文にあっても、神道七分に仏法三分というのと、此の反対に仏法七分に神道三分のもののあったこと&lt;br /&gt;
: 五、稀には萩の弓を用いる者のあったこと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
等が知られるのである。併し、斯かる異流が何故に生じたか、更に異流双互間の関係等に就いては、遂に何事も知る事が出来ぬのである。猶お本節中に収むべき記事も相当に残っているが、余りに長文になり、且つ大体を尽したと信ずるので、他は別に節を設けて記述することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 金田一氏の故郷である盛岡市の令姉の御宅で行われたこと、詳細は「民俗芸術」第二巻第三号に就いて御覧を乞う。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 前田太郎氏著の「世界風俗大観」参照。前田氏は言語学を専攻された方と聞くが、民俗学にも興味を有していられたと見え、此の種の研究や、考察が「東京人類学雑誌」その外に多く載せてある。宿痾のために、壮年で易簀されたのは惜しいことであった。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 我国の榊（栄樹）とは、古くは常緑樹の総てであったから、樒もそれであるなどと云う学者もあるが、覚束ない。私は我国には、樒の野生はなく、支那あたりから輸入されたものと考えている。従って、樒が常緑樹だからとて、榊としては取扱はないことだと思う。尤も、私も正月の門松の代りに樒を用いる村が、日本で一ヶ所あることだけは承知している。併し、此の一例だけでは、榊説は成り立つまい。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「一郎殿より三郎殿」の私案は、前に述べたが、その後考え直すと、此の呪文がエビスオロシと称する者によって工夫されたという証明が出来ぬ以上は、甚だ覚束ないと自分でも思っている。敢て後賢を俟つとする。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 柳田国男先生の御説によると、此の千だん栗毛の祭文に比較すると、同じ「民族」第一巻第六号に載った「まんのう長者」の方が、一段と古いものだとのことである。成る程、そう言われて両者を比べると、新古が明確に判然し、且つ「千だん栗毛」の方は、詞章をそのまま伝えたものでなく、意味だけ伝えて、文句は後人が勝手に言い改めたものであることが知られる。それに、此の祭文の中心思想である、姫と馬の交りから蚕が生れるという筋は、支那の「捜神記」そのままである。そして之れが奥州に残り、イタコに伝ったのは同地が名馬の産地であるのと、養蚕にも関係が深かったためであろう。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 小寺氏の記事は、詳細委曲を尽した長文のものであるゆえ、猶お詳しくは、本文に就いて、御覧を願いたい。更に此の機会に於て、私の運墨の都合から、小寺中道両氏の記事を、勝手に取り交ぜて引用した失礼を、深くお詫びする次第である。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 「郷土研究」第四巻第四号。因に、私は鈴木氏と親交ある香取秀真氏の御紹介を得て、鈴木氏を市外田端の御宅へ両度まで参上し、有益なるお話を承った上に、氏の秘蔵せるイラタカの珠数の撮影まで許された。ここに感謝の意を表する。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 「東京人類学雑誌」第一二六号。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 常陸で巫女を「大弓」又は「モリコ」と云ったことは、「新編常陸国誌」にあること[[日本巫女史/総論/第一章/第一節|既述]]した。これを重ねて呼ぶことは如何かと思うが、今は本文に従うとする。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 京都市外等持院村が巫女村であったことは、京都の地誌類に見えているが、詳細が知れぬので、在京都の友人に、詳細を尽せる書名なりとも知らせてくれと頼んだが、遂に返書にすら接しなかったのは、遺憾千万であった。それで茲に、新井白蛾翁の「闇の曙」巻下（日本随筆大成本）に拠ると、同地方では巫女を俗にヒンヒンと呼んだようである。これは弓弦の擬声から来ていることは言うまでもない。ただ同書には巫女の無学と、弊害とが力説されていて、その呪法や生活に触れていぬのは物足らなかった。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 猶お此の外に、アイヌ民族の間に行われた巫女（ツス）の呪法や、琉球の各島々に在る巫女（ユタ）の作法などに就いて、記述すべき幾多の資料を蒐めて置いたが、今は長文になるのを恐れて、内地だけにとどめるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1327</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第二章/第一節</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1327"/>
		<updated>2010-05-07T13:27:31Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第二章|第二章　当代に於ける巫女と其の呪法]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第一節　文献に現われたる各地の巫女と其の呪法==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巫女は堕落し、呪法は形式化した当代のこととて、文献に現われたものは、異流を雑糅し、異法を混淆してあって、それを体系づけて、一々整然と書き分けることは、殆んど不可能と云っても差支ないほどである。それ故に、私は大体同じような記録を一まとめに記述する程度にとどめて置くとする。元より資料の整理が行届かなかったという高叱は、此の場合甘んじて受ける所存である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一、巫女の持った人形の二種&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「謡曲拾葉集」に、[[日本巫女史/第二篇/第二章/第二節|前]]に載せた葵ノ上の『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;寄&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;人&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は今ぞ寄り来る長浜や、芦毛の駒に手綱ゆりかけ』の呪歌を解読して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 寄人は寄神とも降童とも云ふ、或は生霊死霊を祈る時、彼の霊の代りに童子をそなへ置て祈つけ、降参さする事なり、或は霊を人形に作り藁にて馬など拵へかの人形を乗せて祷り、終りて後に川へ流す事もあり、この歌も是等の事を詠めると見えたり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのは、遂に巫道に通ぜぬ千慮の一失であった。解説の前半は、その通りであるが、後半の霊を人形に作り、藁の馬に乗せて川に流すとは、全く贖物の思想であると同時に、芦毛の駒云々の字句から想像した無稽の事である。此の呪歌の意義に就いては、私の学問の力では釈然せぬことは既述の如くであるが、拾葉抄の著者が考証したような事実を、此の呪歌から検出することは無理であるし、且つかかる呪法の存したことを曾て見聞せぬのである。何か巫女の持っている人形などから、想いついた説のようにしか信じられぬ。併しながら、当代の巫女が、怪しげなる物を呪力の源泉として、所持していたことは考えられる。而して是れには、（Ａ）外法頭を持ったものと、（Ｂ）単なる人形を持ったものとの二つの系統が存していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ａ、外法頭を持った巫女&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「嬉遊笑覧」巻八に、「龍宮船」という草子を引用して、左の如き記事が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 予が隣家に、毎年相州より巫女来りけるが、往来の事を語るに当らずといふ事なし。或時、袱紗包を忘れ置たり。開きて見るに二寸許の厨子に、一寸五分程の仏像ありて、何仏とも見分がたく、外に猫の頭とも云べき干かたまりし物一ツあり。程なくかの巫女大汗になりて走り来り、袱紗包を尋ねける故即ち取出し遣し、扨是は何作なるぞとたづねければ、是は我家の法術秘密の事なれども、今日の報恩にあらあら語り申べし。是は今時の如く太平の代には致しがたき事なり、此尊像も我まで六代持来れり、此法を行はんと思ふ人々幾人にても言ひ合せ、此法に用ゐる異相の人を常々見立置き、生涯の時より約束をいたし、其人終らんとする前に首を切り落し、往来しげき土中に埋み置く事十二月にて取出し、髑髏に付たる土を取り、言ひ合せたる人数ほど此像を拵へ、骨はよくよく弔ひ申事なり。此像はかの異相の神霊にて、是を懐中すれば如何やうの事にても知れずといふ事なしといふ。今一ツの獣の頭のことも尋ねけるが、是は語りにくき訳あるにや大切の事なりとばかり言ひける由、これなん世上にいふ外法つかひと云ふ者なるべきか（近藤活版所本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是れ殆んど符節を合わすが如き狐の髑髏を持つ事実のあったことが、奥州の見聞を書いた「黒甜瑣語」に載せてあるが、これは[[日本巫女史/第二篇/第五章/第一節|既述]]したので、ここには省略する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｂ、人形を持った巫女&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
奥州のイタコが公然と持っているオシラ神と称する人形とは異り、外法箱の中に、秘密に収めた人形を持った巫女は、諸書に散見しているが、やや詳しく記してあるのは、根岸鎮衛の「耳袋」巻三に、「矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事」と題せるものと思うので、左に転載することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 宝暦の始めには、三州矢作橋、御普請にて、江戸表より、大勢役人職人等、彼地へ至りしに、或日人足頭の者、川縁に立ちしに、板の上に人形やうのものを乗せて流れ来れり（中略）、面白きものと、取て帰り、旅宿にさし置けるに、夢にもなく、今日かかりし事ありしが、明日かくかくの事あるべし、誰は明日煩ひ、誰は明日いづ方へ行べしなど、夜中申けるにぞ、面白き物也、これはかの巫女などの用る外法とやらにもあるやと、懐中なしけるに、翌日もいろいろの事をいひけるにぞ、始めの程は面白かりしが、大きにうるさく、いとひ思ひしかども、捨てん事も又怖ろしさに、所のものに語りければ、彼者大に驚き、由なきものを拾ひ給ひけるなり（中略）、其品捨給はでは禍を受る事なりと言ひし故、せん方なく、十方にくれて如何し可然哉と、愁ひ歎きければ、老人の申けるは、其品を拾ひし時の通り、板に乗せて川上に至り（中略）、彼人形を慰める心にて、其身うしろに向いて、いつ放すとなく、右船を流し放して、跡を見ず立帰りぬれば、其祟りなしといひ伝ふ由、語りけるにぞ、大きに悦び、其通りなして放し捨しと也（日本芸林叢書本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の拾った人形が、単なる木像であったか、それとも前掲の如き、外法頭系のものか判然せぬが、私は木像であったと考えたい。それは、記事中に『其人形のやう、小児の翫びとも思はれず』とあるが、神仏いずれとも見定め難きほどの物と思われるので、ここには単なる木像と見るのが穏当であろう。而してそれとこれとは、趣きを異にしているが、斯うした呪物が、水を恐れる話は、他にも聴いている。南方熊楠氏の談に、紀州の某が、大阪で、猫神を所持していると、米相場で金儲けが出来るとて、それを所持していたところ、金は儲かるが、夜となく、昼となく種々なことを告げ知らせるので、うるさくもあり、怖ろしくもなり、遂に淀川の水中に身を没し、天窓まで水をかぶっていて、漸く猫神を離したとのことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二、口寄せの種類とその作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市子の呪術も、当代に入るとその範囲も狭められて来て、専ら民間の——それも少数の愚夫愚婦を相手にするようになり、国家の大事とか、戦争の進退とかいう、注意すべき問題に全く与ることは出来なくなってしまい、漸く、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、口寄せと称する、死霊を冥界より喚び出して、市子の身に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かか&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;らせて物語りをする（俗にこれを「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;死口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シニクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」という）か、これに反して、遠隔の地にある者の生霊を喚び寄せて物語りする（俗にこれを「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;生口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;イキクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」という）こと&lt;br /&gt;
: 二、依頼者の一年間（又は一代）の吉凶を判断する（俗にこれを「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」とも「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;荒神占&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コウジンウラナイ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」ともいう）こと&lt;br /&gt;
: 三、病気その他の悪事災難を治癒させ、又は祓除すること&lt;br /&gt;
: 四、病気に適応する薬剤の名を神に問うて知らせること&lt;br /&gt;
: 五、紛失物、その他走り人などのあったとき、方角または出る出ないの予言をすること&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この位のものになってしまった。而して是等のうちで、尤も依頼者も多く、市子としても収入の多かったものは、死口、生口、神口の三つで、当代の市子といえば、直ちに口寄せを意味し、口寄せといえば、又この三つを意味するものと思われるまでになっていたのである。就中、民間の信仰をつないでいたものは死口であって、亡き両親や、同胞の死霊、又は亡き恋人や、友人の死霊が、市子の誘うままに幽界から出て来て、明界にいる子孫なり、関係者なりと、談話を交えるというのであるから、不思議にも思われ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神事&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミゴト&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と信じられたのも無理のないことで『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が語る声まで、死んだ母親そっくりだ』などとは、幾度となく聴かされたことで、且つ三歳か五歳で夭折した子供の死霊が現われて、地獄の苦しみを物語る哀れな&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;声音&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;こわね&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を耳にしては、その親たるものは、涙を絞り袖を濡らし、信ぜざらんとしても、迷わざるを得ぬのである。最近に金田一京助氏が記された実見談によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 姉の家で、口寄せした時には（中略）、例の珠数を押し揉み押し揉み、口に唱えごとを繰返しているうちに、それが一種の歌に聞きとられる様になって来た。その歌詞は、姉などは聞き覚えに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;暗&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;そら&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;んじている程、いつもきっと出て来るきまりの文句らしく、『……声はすれど、姿は見えの（ぬの訛りらしい）、影ばっかりに……』すると、髣髴として、亡き魂がそこに降りでもするような気分が座に満ちて来て、笑ったものも笑顔を収め、動いていたものも&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鳴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を鎮めてじっとする其の時、呪女の口からは、『五十九で亡くなった仏様を』とだけ頼んで、にじり出た姉へ向って云うような口調で『お前には苦労を掛けた……』と聞かれるような歌になった。と亡父の生前死後、羸弱な身を以て私に代って一家の世話を見つつ、浮世の辛酸を、滓の滓まで飲み尽した姉は、わっと泣きくずれて、『お父様、もう其の御一言で沢山です』と咽び入る云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるように〔一〕、気丈なものでも——馬鹿々々しいとは思っていながらも、引き入れられるのが常である。巫女が科学を万能とする現代においても猶お、残喘を保って、各地に存しているのは、全く此の呪法を行うことに由るのである。而して此の呪法を行うには、又左の如き種々なる作法があったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ａ、手向の水ということ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:死口市子一.gif|thumb|死口を寄せている市子（外法箱膝のは梓弓前のは手向の水）]]&lt;br /&gt;
[[画像: 死口市子二.gif|thumb|left|死口を聞いている人々（川柳本所載）]]&lt;br /&gt;
市子は口寄せの折には、その対象が、死霊と生霊と神口との別なく、必ず依頼者に、茶碗その他の器物に水を盛らせ、それを巫女の膝の前（又は机の上）に置かせて、死霊の場合には、枯葉（又は樒の葉）で左廻わしに三度水を掻かせ、生霊の場合には、青い木葉（種類は何でもよい）で右廻わしに三度掻かせ、神口の場合には、紙撚り（併しこれも流派によって一定せぬが、大体は先ずこうである）で水を三度掻き廻させる。此の水を手向けることは、巫女が呪術を行うに大切なものとされていて、出て来る霊魂が『よくこそ水を手向けてくれた』と云うほど、重い儀軌？になっているのであるが、さて此の理由に就いては定説を聞かぬ。「松屋筆記」巻八七に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 塩尻（中山曰。天野信景翁の著書）一ノ巻に或人云、凡そ亡者の霊に水を手向るは仏法に効へるなりと、予按に是我国上古の習俗歟、「日本紀」十六に鮪臣が死せし時、影媛哀傷の倭歌を詠じて「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;玉笥&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タマケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;飯盛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;イヒモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;玉椀&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タマモヒ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;水盛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミヅモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」などいひ、其葬の時「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;水喰&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミヅクヒ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ごもりみな&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;酒&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ソソ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ぎ」の詞あり、これ我国仏教来らざる以前の事也、仏氏といへども餓鬼の他、仏菩薩等に水手向る事なし（中略）「空華談叢」巻一に亡霊薦水六則あり、可考合。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と載せてある。之に由れば、巫女がその霊に水を手向けることは、我が古俗のようにも考えられるのであるが、単に是だけの資料で決定するのは危険である。殊に仏法にも亡霊薦水の法があるというし、且つ故前田太郎氏の研究によると、死者の霊に水を手向ける土俗は、殆んど世界的に遍在していたというから〔二〕、これは我が古俗にも存し、仏法にも在ったもので、巫女のそれは、古俗に仏法を加えたものと見るのが、微温的ではあるが、穏当だと考える。樒ノ葉を用いるに至っては、仏法の影響と見るも〔三〕、蓋し何人も異議のない事と思う。故長塚節氏の力作「土」には、茨城県下の農村における巫女の所作が克明に委曲に描かれているが、生口を寄せる一節に、巫女が『白紙&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;手頼&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り水手頼り、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;紙捻&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コヨリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;手頼りにい……』と唱えたと記している。此の水の手向けは古くから広く行われていたようである。而して此の手向の水ということが、後には市子に祈祷してもらえと云う意味に転用されるようになり、呼び出される死霊が『水が足らぬ』とか『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;水向&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミズムケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を頼む』と云うのは、即ち市子が死霊の言に託して、自分の収入を謀った狡猾なる手段なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｂ、巫女の唱えた神降しの呪詞&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像: 山伏.gif|thumb|山伏と地しゃ（七十一番職人歌合所載）]]&lt;br /&gt;
[[画像: 笹ハタ.gif|thumb|笹ハタキと称する市子（川柳語彙所載）]]&lt;br /&gt;
当代に入ると、巫女の用いた&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;しの呪詞も、修験道の影響を濃厚に受け容れて、殆んど古き相は&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;摘&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;むほどしか残っていぬという有様になってしまい、然もその文句たるや、余程無学者が作ったものと見え、神仏の混雑は、当時の信仰から推して、先ず恕すべきとするも、措辞が野卑である上に、文理が滅裂で、全く体裁をなしていぬ。それを無智な巫女達が、矢鱈に唱い崩し、言い訛ったものと見えて、中には何事を意味しているのか解釈に苦しむものさえある。而して是等の呪詞は、京伝の「昔話稲妻表紙」を始めとし、三馬の「浮世床」や、一九の「東海道膝栗毛」等に載せてあるが、何れも多少の出入こそあれ大同小異で、僅に巫女が呪法を行う土地の一ノ宮または&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;産土神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ウブスナガミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の名を変える位で、その他は取り立てて言うほどの事もないし、それに是等の書物は、流布本の多いものゆえ、ここにはその中でも、やや古いと思う「稲妻表紙」から抄出するとして、他は省略した。同書巻四「仇家の恩人」の一節に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 扨ある年の春、藤波が祥月祥日にあたれる日、妻小枝妹阿龍等がすすめにより、県巫女をやとひ、藤波が口をよせて、冥途のおとづれをききぬ。さて降巫上座に居なほりて、目うへの人にや目下にや（中山曰。今では此の事は聞かず、、ただ黙って頼めば、巫女の方で言いあてる）、生口か死口かとたづぬれば、小枝すすみ出で、目下の者にて死口なりと答へつつ、樒の葉にて水むけすれば、巫はささやかなる弓をとりいだし、弦を打ならして&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;旦&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まづ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神保&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をぞ唱へける。&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;夫&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;それ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;つつしみ敬てまうし奉る。上は梵天帝釈四大天王。下は閻魔明王。五道の冥官。天の神。地の神。家の内には井の神。竃の神。伊勢の国には。天照皇太神宮。外宮には四十末社。内宮には八十末社。雨の宮。風の宮。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;月読日読&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツキヨミヒヨミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;御神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;おんかみ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;。当国（中山曰。近江）の霊社には。坂本山王大権現。伊吹の神社。多賀明神。竹生島弁財天。筑摩明神。田村の社。日本六十余州すべての神の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;政所&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まんどころ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;。出雲の国&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大社&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;おほやしろ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;。神の数は九万八千七社の御神。仏の数は一万三千四個の霊場。冥道をおどろかし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;此&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ここ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;くだ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し奉る。おそれありや。この時によろづの事を残りなく。おしへてたべや梓の神。うからやからの諸精霊。弓と箭のつがひの親。一郎どのより三郎どの。人もかはれ水もかはれ。かはらぬものは五尺の弓。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一打&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ひとうち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;うてば寺々の。仏壇にひびくめり。&lt;br /&gt;
: 梓の弓にひかれひかれて、藤波が亡き魂ここまでまうで来つるぞや。懐しやよく水手向て玉はりしぞ、主君とは申しながら、畏れ多くも心には、&amp;lt;u&amp;gt;枕ぞひ&amp;lt;/u&amp;gt;（中山曰。圏点を打ちし句は巫女の隠語、[[日本巫女史/第二篇/第五章/第四節|既載]]のものを参照あれ）とも思ひしから、&amp;lt;u&amp;gt;烏帽子宝&amp;lt;/u&amp;gt;を産みはべりて、&amp;lt;u&amp;gt;唐の鏡&amp;lt;/u&amp;gt;とかしつがれ、おん身等にも安堵させ、楽しき暮しをさせ申さんと思ひし事も左り縄、云ひがひもなき妾が身の上、露ばかりも罪なくて、邪見の刃に身をほふられ、尽きぬ恨みの悪念が、此身を焦す炎となり、晴れぬ思ひの冥道に、今に迷ふて居り候云々（以上。帝国文庫本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;しの呪詞は、別段に解釈を要せぬまでに明白であるし、又た解釈を要するほどの『一郎殿より三郎殿、人もかはれば水もかはる』云々の如きは、これを唱えていた巫女にも解らず、従って他の者には、皆目見当もつかぬものである〔四〕。殊に、神の数が九万八千とか、仏の数が一万三千とかいうのは、全くの出たら目で、何等の根拠もなければ、理由もなく、ただ巫女が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;旋律的&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;リズミカル&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に唱える上に、舌に唾のたまらぬよう、語呂の点から択んだ文句に外ならぬのであって、それが古く歌謡の系統に属していた名残りをとどめているのであるが、夙に歌謡は、巫女の手から離れて、独立した芸術として発達しているのに反し、巫女は堕落して、糊口の料に神降しを唱え、それも旧態を保つに懸命であって、生面を拓くことが出来なかったので、益々世相と遠ざかるようになってしまったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巫女は別名を「大弓」とも「小弓」とも、更に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;梓巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アヅサミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;とも言われているほどとて、呪術を行う場合に、弓弦を細き竹の棒にてたたくことは既述したが、この作法は、必ずしも総ての巫女に通じて行われたものではない。私の知っている限りでは、（一）都会に定住していた者と、（二）漂泊をつづけた歩き巫女と。（三）奥州のイタコと称する者は、概して弓を用いず、これに反して、町や村に土着した巫女は、弓を用いたようである。折口信夫氏のノートに拠ると、壱岐のイチジョウと称する巫女は、長さ八尺もある黒塗の木ノ弓（二ツ折になって袋に入れて、持ち歩くに便にしてある）に、麻の弦をかけ、南天の葉を&amp;lt;u&amp;gt;ひい&amp;lt;/u&amp;gt;て油をとりしものを弦に塗り、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;盒&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゆり&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（中山曰。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;曲物&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;まげもの&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にて楕円形をなし、高さ四五寸、大きさ一尺二三寸なり）を伏せて、麻縄で二ヶ所&amp;lt;u&amp;gt;くび&amp;lt;/u&amp;gt;った上に、弓を持たせかけ、釣り竿のように反った一尺五寸ほどの竹の棒二本で、弦をたたきながら、初めは「神寄せ」の文句（中山曰。此の文句は判然せぬ）を唱え、次に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;御籤&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミクジ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;あげ」をなし、それから「百合若説教」を宜いほどに唱える（中山曰。百合若説教のこと注意されたし）そうである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに、常陸辺では、既述の如く、二三尺位の粗製の竹の弓を用いるとあり、私が同じ常陸の潮来町で聴いたところでは、巫女は弓を持参せず、往く先々で青竹を切って、二尺ほどの弓を拵えてもらい、それを用いるとのことであった。而して此の弓の弦をたたく音は、弦が&amp;lt;u&amp;gt;ゆる&amp;lt;/u&amp;gt;く張ってあるためか、ベンベンと如何にも眠気を誘うような響きがするものであって、巫女がこの響きにつれて神降しの呪詞を唱えすすむうちに、催眠状態（その実際は後世の巫女は催眠を仮装するだけで覚醒している）にでも入りそうな心もちのするものである。因みに「笹ハタキ」とは、その文字の如く、始めは笹の葉を両手に持ち、それで自分の顔を軽くたたきながら催眠状態に入ったので負うた名である。これも後には雑糅されてしまって、小さい弓を用いる巫女まで、此の名で呼ぶようになったのである。猶お巫女の修業、神つけの方法、各地の神降し等に就いては、文献には見えぬので、次節の報告の条に詳述する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三、イタコのオシラ神の遊ばせ方&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像: 新オシラ.gif|thumb|新しきオシラ神（故伊能嘉矩氏所蔵）]]&lt;br /&gt;
奥州のイタコ（これは殆んど悉く盲女であって、精眼者あるを今に聞かぬ）と称する巫女が、オシラ神を持っていることは屢記したが、さて此のオシラ神は、如何なる場合に用いるか、併せてその用法は如何にと云うに、イタコは依頼者の意を受けて、生霊なり、死霊なりの口寄せをするときは、金田一氏の記事にある如く、イラタカの珠数を両手で押し揉み（秋田地方では揉まずに珠を繰る方法もある）ながら、神降しを済ませ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;人&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;となって種々なる呪法を行うことは、昔の普通の巫女と別段に変りはないが、呪法が終ってから、依頼者の希望により、その家（奥州では草分け百姓とか、又は旧家とか云われる家には、各相伝のオシラ神がある）のオシラ神を遊ばせる（春秋二期のオシラ神祭りの日は云うまでもない）ことがある。而してその遊ばせ方に就いては「民俗芸術」第二巻第4号に、小寺融吉氏の詳細なる記事があり、更にこれを遊ばせる祭文は、「民族」第三巻第三号に、中道等氏の寄稿があるので、幸い私は両氏の厚誼を辱しているので、甚だ勝手ながら、左にこれを自由に取り交ぜて、抄録することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東北地方に名高いオシラ様の祭を私{○小/寺氏}は、偶然にも昨年{○昭和/三年}東京で見ることが出来た。それは柳田国男先生のお宅に、以前から届いてあった此の神様を、本式に祭るため、はるばる奥州から盲目の巫女が、三月一八日の祭日を期して上京したのに列席したのであった云々。&lt;br /&gt;
: 祭壇を前に石橋&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;貞&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さだ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;子という老いた盲目のイタコ（巫女）が静かに座った。常の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;髪形&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かみかたち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、常の服装のままで、黒い袈裟を左肩から掛け、次に長い数珠を首に掛けた。数珠の玉は黒くて大きい。そして円筒形の筒（中山曰。呪力の源泉である神を入れたもの）を押し頂いて、右肩から左脇へ掛けた。この筒は神秘不可思議で、中に何があるか分らない。&lt;br /&gt;
: さて祭壇と云っても、ただの机だが、その上にイタコから見て、正面に一対のオシラ神、右が女神左が男神（原註略）。右の奥に茶碗に水、その前に蝋燭、左の奥に菓子、その前に蝋燭、そして中央の前に、右には塩、左には米が在る。&lt;br /&gt;
: 抑々オシラ様の御神体は、八寸ほどの長さの桑の木（中略）、毎年の祭に着物（東北でセンタクと云う）を上に一枚づつ重ね参らせる。着物と云っても一枚の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;布&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;きれ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;冠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かぶ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;せるだけで、首の上からスッポリ冠せるのと、布の中央に穴を明けて、穴から首を出すのと二通りある（中略）。今日の御神体は首を露出せぬ方だが、首を包んだ布のまわりに、小さい鈴を女神は四個、男神は三個結んで区別している云々。&lt;br /&gt;
: イタコは先ず塩を取って振りまいた。次に我昔所造諸悪行……一切我今皆懺悔の四句の懺悔文を誦し、次に般若心経に移った（中略）。そして般若心経の時に、途中で息を切って一寸休む折りは合ノ手のように、しきりに数珠を揉んだ。これは左掌を下にし、右掌を上にして揉むので、胸の前で合掌するのとは違う。次に普門品の偈だけを読んだようで、念被観音力、還著於本人なぞの文句が聞き取れた。これを終って柏手を打ち、いよいよオシラ祭文に移った。&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: 　　　　千だん栗毛物語（オシラ遊びの経文）&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: しら神の御本尊&lt;br /&gt;
:: くはしく尋ね奉れば&lt;br /&gt;
:: 我が京にては白神の御本尊と申也&lt;br /&gt;
:: 朝日の長者ようひ長者と申して&lt;br /&gt;
:: 数の宝を相添ひて&lt;br /&gt;
:: おがひ申して&lt;br /&gt;
:: おがひに長じて身を清め&lt;br /&gt;
:: よき金三百両&lt;br /&gt;
:: こがねのにはちで納め置く&lt;br /&gt;
:: 鰐口ちょうと打ならし&lt;br /&gt;
:: 南無や大慈大悲の親世音さま&lt;br /&gt;
:: 願はくば赤子一人授けてたまはれと&lt;br /&gt;
:: 願はくばおどうかうによう申すべし&lt;br /&gt;
:: そげんの破風に瑪瑙の垂木&lt;br /&gt;
:: やんくゎぎぼうに至るまで&lt;br /&gt;
:: 金銀の入ればに&lt;br /&gt;
:: 表しろかね中こがね&lt;br /&gt;
:: 厚さ三寸五分なり&lt;br /&gt;
:: 錦のとうざう七流れ&lt;br /&gt;
:: 我も子のことかなしみて&lt;br /&gt;
:: とりかへかきかへ申すべし&lt;br /&gt;
:: 大千世界めぐりて&lt;br /&gt;
:: 鳥類畜類めぐれども&lt;br /&gt;
:: 汝らに授くる宝も無し&lt;br /&gt;
:: 今度この度しらの種申し下す&lt;br /&gt;
:: 此子は六つ七つに至りては&lt;br /&gt;
:: 命に恐れあるべし&lt;br /&gt;
:: 東方父にて西方母&lt;br /&gt;
:: 兄は御いきと申すなり&lt;br /&gt;
:: 左りの袂より右りの袂へ&lt;br /&gt;
:: すらりと入れると覚えて&lt;br /&gt;
:: 夢さめて長者夫婦の人々は&lt;br /&gt;
:: 斯うまで有難き御利生を&lt;br /&gt;
:: 七度の礼物なされけり&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: 我が家に帰りついたる時&lt;br /&gt;
:: 懐胎となって&lt;br /&gt;
:: 当る十月と申して&lt;br /&gt;
:: 御産の紐を開せとくがや&lt;br /&gt;
:: 玉や御前と名をつけて&lt;br /&gt;
:: 二つになるから三つ四つと心を用いて&lt;br /&gt;
:: 六つになる年右の御手に筆とらせ&lt;br /&gt;
:: 七重の愛馬に飼立てられたる千だん栗毛&lt;br /&gt;
:: 立つに千段すはるに千だん&lt;br /&gt;
:: 三千四だん五だんの形をもたせ玉ふ&lt;br /&gt;
:: めん馬に乗じて馬の頭を&lt;br /&gt;
:: おしなでかきなでたまひて&lt;br /&gt;
:: この屋形のうちに入らせたまふ&lt;br /&gt;
:: 一才になるから二才三才やうなる&lt;br /&gt;
:: 御育ておいた徳を以て&lt;br /&gt;
:: 前足のつき相を見れば&lt;br /&gt;
:: てむく茶碗をすゑたる如く&lt;br /&gt;
:: 後足のつき相を見れば&lt;br /&gt;
:: ごばんちょうこすゑたる如く&lt;br /&gt;
:: 目鼻尾のつきあひ&lt;br /&gt;
:: 毛はだまでもやうなる様に&lt;br /&gt;
:: 御育て置いた徳を以て&lt;br /&gt;
:: 今日も見物人ひとは百人&lt;br /&gt;
:: またも二百人三百人の&lt;br /&gt;
:: 見物人の無い日とてはあるまい&lt;br /&gt;
:: おれも見物に出でて見ようと云うて&lt;br /&gt;
:: 十二ひとへを重ね&lt;br /&gt;
:: 十二人のつまとりを附け&lt;br /&gt;
:: つまどりには褄を取らせ&lt;br /&gt;
:: 七重のまや迄見物に出でたるれば&lt;br /&gt;
:: 上のまやには赤きめん馬百三十三匹&lt;br /&gt;
:: 下の厩には青きめん馬百三十三匹&lt;br /&gt;
:: 中の厩には白きめん馬百三十二匹&lt;br /&gt;
:: 後ろ残りし一疋のせんだん栗毛&lt;br /&gt;
:: 見るまも無く玉や御前のほめるには&lt;br /&gt;
:: 前足のつき相を見れば&lt;br /&gt;
:: てむく茶わんをすゑたる如く&lt;br /&gt;
:: 後足のつきあひを見れば&lt;br /&gt;
:: 朝顔の咲いたる如く&lt;br /&gt;
:: 目の色はからかね目&lt;br /&gt;
:: 目鼻耳のつきあひ&lt;br /&gt;
:: 毛肌までもふしのつけやうは無い&lt;br /&gt;
:: これが人間のからだなれば&lt;br /&gt;
:: どうぞ夫婦になりそめたいものと&lt;br /&gt;
:: 三度までも馬のからだを撫でたまふ&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: 声は千だん栗毛の耳にとまりまして&lt;br /&gt;
:: 恋のわづらひとなりました&lt;br /&gt;
:: 糠草も食することは無く&lt;br /&gt;
:: 粕や米糠くぢょやすすき草&lt;br /&gt;
:: どの様に食わせても食することは無く&lt;br /&gt;
:: 如何致したわけである&lt;br /&gt;
:: この家の亭主に伺ひ見るべしと&lt;br /&gt;
:: 伺ひ見たならば&lt;br /&gt;
:: はくらくでも取りよせ見たならば&lt;br /&gt;
:: せんだん栗毛の相分るべしというて&lt;br /&gt;
:: 西東北南四うぢ隅より&lt;br /&gt;
:: 伯楽の三十七人までも取寄せたけれども&lt;br /&gt;
:: どの伯楽も千だん栗毛の病気&lt;br /&gt;
:: 名をつけるはくらくはあるまい&lt;br /&gt;
:: 天が下に無いほどの西の方には&lt;br /&gt;
:: よい占い師があることだ&lt;br /&gt;
:: そんなら取りよせ見るべしと&lt;br /&gt;
:: 取りよせ見たなれば&lt;br /&gt;
:: 憚りながら此家の千だん栗毛の病気は&lt;br /&gt;
:: 外なる病気ではない&lt;br /&gt;
:: 二階ひとり姫玉や御前&lt;br /&gt;
:: 恋がけの病気と判じたれば&lt;br /&gt;
:: 金満長者の夫も腹を立てて&lt;br /&gt;
:: さて憎い畜生だ&lt;br /&gt;
:: 畜類は人間に恋をするといふこと&lt;br /&gt;
:: 此世には無いことだ&lt;br /&gt;
:: 早く千だん栗毛を&lt;br /&gt;
:: 投げ棄てて来いとのいひつけをさるる&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: さてせんだん栗毛せんだん栗毛&lt;br /&gt;
:: 今までは七重の馬&lt;br /&gt;
:: あいの馬に飼育てられたる千だん栗毛&lt;br /&gt;
:: 今更姫に恋して投棄てらるるぞよと&lt;br /&gt;
:: どのやう意見そひしんされても&lt;br /&gt;
:: 頭をふり上ることは無い&lt;br /&gt;
:: これは二階の一人姫&lt;br /&gt;
:: 玉や御前を見舞させたなら&lt;br /&gt;
:: せんだん栗毛の病気は相分ると謂うて&lt;br /&gt;
:: 二階一人姫玉や御前さまに&lt;br /&gt;
:: 見まひを致しくれといひば&lt;br /&gt;
:: 二階一人姫玉や御前も人目を忍んで&lt;br /&gt;
:: 夫婦のちぎりある故に&lt;br /&gt;
:: ゑ顔あげて十二ひとへ引重ね&lt;br /&gt;
:: 十二人の褄どりをつけ&lt;br /&gt;
:: つまどりには褄を取らせ&lt;br /&gt;
:: 右の手には萩を持ち&lt;br /&gt;
:: 左の手にはすすきを持ち&lt;br /&gt;
:: 二階はしごを下りまゐり&lt;br /&gt;
:: 七重のまやまでとり運ぶ&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: さて千段栗毛せんだん栗毛&lt;br /&gt;
:: おれの為に病気になって&lt;br /&gt;
:: 居るさうだと謂うて声かけたるれば&lt;br /&gt;
:: すぐ頭をふりあげて&lt;br /&gt;
:: 萩やすすきを一本ままではむこと&lt;br /&gt;
:: 以前と異ならず&lt;br /&gt;
:: 玉や御前と千だん栗毛と別るる時は&lt;br /&gt;
:: 生木の枝を割かるる如く&lt;br /&gt;
:: 血の涙で別れおいて&lt;br /&gt;
:: とうとう二階一人姫も病気になりました&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: これは来る三月一六日に&lt;br /&gt;
:: 御神明のみかぐらでも企てたならば&lt;br /&gt;
:: 姫の病気は快気になるかと&lt;br /&gt;
:: いうて企てたなれば&lt;br /&gt;
:: おれも見物に出でて見ようと云うて&lt;br /&gt;
:: 十二ひとへひき重ね&lt;br /&gt;
:: 十二人のつまどりをつけ&lt;br /&gt;
:: つまどりには褄を取らせ&lt;br /&gt;
:: 七十人の供をつれ&lt;br /&gt;
:: 一沢越え二沢越え三沢目の&lt;br /&gt;
:: 大きな桂の大木の根に腰をかけ&lt;br /&gt;
:: うつの宮より褄取りとも人皆ほろき落して&lt;br /&gt;
:: ただ御神楽よそに見て&lt;br /&gt;
:: 千相桑の林に一飛び運び参り&lt;br /&gt;
:: 真砂の珠数御手につまぐり&lt;br /&gt;
:: それそれははかせを喚んで&lt;br /&gt;
:: 博士は八十三のこよみ&lt;br /&gt;
:: さて千だん栗毛千だん栗毛&lt;br /&gt;
:: 玉や御前がこの処に運んだについて&lt;br /&gt;
:: しんが有るなら一声出せと&lt;br /&gt;
:: 大声あげて歌をよみあげる&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: すぐなまぐさき風は吹き&lt;br /&gt;
:: 五色の雲をたなびきて&lt;br /&gt;
:: 八間四方の皮をならされた&lt;br /&gt;
:: 御姫さまをぐるりと巻取って&lt;br /&gt;
:: 天に昇り天竺の方に参ったり&lt;br /&gt;
:: 褄取り供人は皆つらづらになりまして&lt;br /&gt;
:: 家に帰りしなれば&lt;br /&gt;
:: 我々の命は一ときも堪らんものか云ふて&lt;br /&gt;
:: 早く伺ひ見るべしと&lt;br /&gt;
:: 一飛びに運ぶ&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: さて金満長者の旦那さま&lt;br /&gt;
:: うちのいたはしき二階一人姫&lt;br /&gt;
:: 玉や御前さんは千だん栗毛の為に&lt;br /&gt;
:: 盗みとられました&lt;br /&gt;
:: おらの命ばかりは御助けなされてくだされと&lt;br /&gt;
:: それは手まへだちのかかはりたる事では無い&lt;br /&gt;
:: 姫はさうあなたはいの因縁づくと云うて&lt;br /&gt;
:: 涙にくれて居るところへ&lt;br /&gt;
:: 虫は二十四疋ふりくだる&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: 白き虫の顔見れば&lt;br /&gt;
:: おら処の玉や御前に似たる顔&lt;br /&gt;
:: 黒き虫の顔見れば&lt;br /&gt;
:: 千だん栗毛に似たる顔&lt;br /&gt;
:: 米はませても米はまず&lt;br /&gt;
:: 粟はませても粟はまず&lt;br /&gt;
:: 麦はませても麦はまず&lt;br /&gt;
:: 豆はませても豆はまず&lt;br /&gt;
:: 百人二百人三百人の&lt;br /&gt;
:: 見物人は参りしなれど&lt;br /&gt;
:: 何はむ虫と判ずる人はあるまい&lt;br /&gt;
:: 七十あまりのぢいさまは&lt;br /&gt;
:: 桑の杖をついて見物に出たなれば&lt;br /&gt;
:: 残らず其の杖につたはりました&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
:: これは何の木、これは桑の木&lt;br /&gt;
:: これは何虫、桑の木のもえを食ふ虫&lt;br /&gt;
:: ととこ虫とあらはれて&lt;br /&gt;
:: 三十七人の桑とりをまはす&lt;br /&gt;
:: しろがねのまな板こがねの庖丁で&lt;br /&gt;
:: きり刻みて与えしなれば&lt;br /&gt;
:: 残らずさりこんではむこと&lt;br /&gt;
:: 一をり板しけば二をりの板&lt;br /&gt;
:: 二をり板しけば三をり板&lt;br /&gt;
:: 三をり板しけば四をり板&lt;br /&gt;
:: 四をり板しけば五をり板&lt;br /&gt;
:: 五をり板しけば六をり板&lt;br /&gt;
:: 六をり板しけば七をり板&lt;br /&gt;
:: 七をり板しけば八をり板&lt;br /&gt;
:: 十二をり板&lt;br /&gt;
:: きんこ糸を取る時なれば&lt;br /&gt;
:: 一さをかければ二さを&lt;br /&gt;
:: 二さをかければ三さを&lt;br /&gt;
:: 三さをかければ四さを&lt;br /&gt;
:: 四さをかければ五さを&lt;br /&gt;
:: 五さをかければ六さを&lt;br /&gt;
:: 六さをかければ七さを&lt;br /&gt;
:: 七さをかければ八さを&lt;br /&gt;
:: 十二さを&lt;br /&gt;
:: 金満長者のおんしょう返すが為に&lt;br /&gt;
:: つぼの松に下り&lt;br /&gt;
:: 馬とともに十六ぜんの&lt;br /&gt;
:: 大しらのしら神にあらはれ&lt;br /&gt;
:: 尾張の国金満長者は&lt;br /&gt;
:: 日本一の真綿屋と名をつけられて&lt;br /&gt;
:: 銭かねに不自由なく暮すさうや&lt;br /&gt;
:: 父がそひてあつかひば父になづく&lt;br /&gt;
:: 母がそひてあつかひば母になづく&lt;br /&gt;
:: 庭にそひてあつかひば庭になづく&lt;br /&gt;
:: 竹にそひてあつかひば竹ごともなづく&lt;br /&gt;
:: 舟にそひてあつかひば舟子ともなづく&lt;br /&gt;
:: あれ乱風大風火難盗難&lt;br /&gt;
:: あきなひその他作る田畠も護らせたまふ&lt;br /&gt;
:: 家内安全商売繁昌の御祈祷と&lt;br /&gt;
:: 敬ってまをす〔五〕&lt;br /&gt;
:: ○中山曰。小野寺氏の記事には、祭文の文句は記して無いのを、私が勝手に中道氏の寄稿から、此の文句ならんと考えて掲げたのである。&lt;br /&gt;
:: &amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
: オシラ祭文は、オシラ神の由緒を物語る長い叙事詩を歌うので、長者の厩に飼われたせんだん栗毛という名馬が長者の姫に恋をして、結局二人が蚕の神様になるという歌で、イタコは歌いながら、両手に持つ二つの御神体を動かすので、「如何に動かすか」が私の興味なのである。そこでイタコは机に並んだ位置をそのままに、右手で女神左手で男神を持った。センタクの下へ手を入れ、柄（つまり人形の胴体）を持つ、この人形は手足はなく、首と胴と着物のみである。&lt;br /&gt;
: 男は右、女は左の法則なのに、何故か此のイタコは右に女神を、左に男神を持った。然しこれは神がイタコに乗り&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;うつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;るのでなくて、イタコはあくまでもイタコとして、神を舞わすのであるという意味かも知れぬ。そこでイタコは&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;俯&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;うつむ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いて、自分の顔を御神体に触れて、何事か云った。それから胸の前に出して、半分倒すようにして持つ、自分の膝に対して垂直には持たない。これが基本の形である（中略）。&lt;br /&gt;
: 長い恋物語のオシラ様由来記が終ると、イタコは一休みした。それから一年十二ヶ月の年中行事に関する謡いものに移り、やはり左掌を下に、右掌を上にして小指を組合せ、何か印を結ぶような事をし、次に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;拍手&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かしわで&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を打ち、再び人形を取り上げた。前の祭文が荘重厳粛であるとすれば、これは打ちくつろいだもので、人形の動かしかたも変って来た（中略）。&lt;br /&gt;
: 次に一休みして、「えびすまい」。次に「地獄さがし」。これは鼻歌でお経を読むと思えば、見ない人も、ほぼ想像がつく。珠数を拍手とりつつつまぐり、それに合せて歌うので、人形とは関係はない。少し可笑味のものである。最後に「神送り」と云い、神を山林山野に送る歌を、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;祝詞&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;のりと&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;式口調で歌った。イタコも大分疲れたので、これだけで全部を終り、あとは二三の人を占いをして散会した（中略）。&lt;br /&gt;
: オシラ神の鈴は、人形自身の声である（中略）。イタコの歌は、人形の鈴の音の意味を、人間の言葉に翻訳しているとも見ることが出来る云々〔六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の記事によっても知らるる如く、イタコの持っているオシラ神は呪神では無く、呪神は何物か納めてある円筒形の筒の中にあるので、オシラ神は此の筒の中の神を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;和&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;め&amp;lt;u&amp;gt;いさめ&amp;lt;/u&amp;gt;るために舞わし遊ばせるのに過ぎぬのである。従ってオシラの元は神ではなくして、人形その物であったと信ずべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四、各地方の市子と其の作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市子に幾多の流派のあったことは看取されるが、その独特の作法を比較して、異流を検出することは雑糅された後に残された文献を基調としたのでは、その労のみ多くして功がなく、結局は何が何やら判然せぬものになってしまう虞れなしとせぬので、此処には寡見に入った各地方の市子と、その作法とを列挙して、読者に異同を研究する資料を提供するにとどめるとする。猶お文献以外の報告によるものは、[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|後節]]に記述する。同じような事を二度に分けて書くことは、少しく煩しい嫌いもあるが、資料の整理上から、斯うすることが学問的であると考えたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ａ、羽後国仙北郡地方の座頭嚊&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同郡長信田村の出身で、今東京市外田端町に居る鈴木久治氏の談に次の如くある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 私の国では「いちこ」を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;座頭嚊&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ザトカカ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と云う。嚊と云っても、東京辺の賤民の妻を呼ぶような下賤の言葉の意味では無く女房を一体に「かか」と呼んでいる。その座頭嚊は、女子の盲目な者がなるのであって、其亭主は普通の百姓をしている。さて人が死んで、葬式を済ませた後、この座頭嚊を招んで仏を寄せて語って貰う。其時には近所の人に知らせてやると、近所の人達は重箱へ食物を詰めたのを持って集って来る。神仏の有った家では仏壇の前へ家内の者や村人が大勢集まる。この場合は先ず神仏を呼んで貰う（中山曰。鈴木氏はこの事を「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;座下&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クラオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し」と云うと語り補うた）のが例である。そうで無く死霊を招んで貰う時もあるが、呼んで貰う霊を心に念じて仏前の水に樒の葉を浸すと、呼び出される霊は必ず奇妙に当る。そこで座頭嚊は神寄せの呪文を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;誦&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;とな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;える。何でもよくは知らないが、日本国中の一ノ宮の神々を寄せるらしい（原註。神寄せの呪文と&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;門語&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カドカタ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りの呪文とがある云々）。この口寄せがすむと、次は他の人で呼んで貰いたい霊があれば、又仏壇の水に樒の葉を浸すのである。座頭嚊の持物には箱も弓もない（中山曰。此の事は注意すべき点である）。只長い&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;木欒子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;もくれんじ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の珠数を爪繰っている（中略）。私の国では女児や男児が生れても、&amp;lt;u&amp;gt;ひ&amp;lt;/u&amp;gt;弱くて早死する様な憂のある児は、座頭嚊の「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;取子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トリコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」にして貰う。取子というのは、胎内にある時から座頭嚊に頼んで、生れた子の丈夫に育つ様に祈祷をして貰うのである。其時は珠数の木欒子の珠を一つお守として頂いて、巾着なんどへ大事に入れて置く。そんな事で珠数の数は「取子」の為に分けてやるから、多い人と少い人とある訳だ云々〔七〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｂ、陸中国東山地方のオカミン&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「郷土研究」第三巻第四号に次の如き記事がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 陸中国東磐井郡門崎村近傍では、巫女をオカミサマと云う。盲目の女子の仕事である。巫女になるには、七箇年の年季で弟子入りし、其期間は師匠の食料までも自弁する定めである。さて一定の修業が終ると「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt; 神附 &amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミツケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と云う式を行う。是れがオカミン様の卒業式である。至って荘厳な式で、若しも不浄な者が式場に入れば、神が附かぬと云っている。式の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;荒増&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;あらまし&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を言えば、先ず舞台を設けて注連縄を張り、真中に神附せらるべき女子その近親に擁せられ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;眼&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を手拭で鉢巻して坐る。その周囲を多数の巫女が取巻いて坐り祈祷するのである。然る後「何神附いた何神附いた」と問うと、真中に坐った女子「八幡様附いた」とか「愛宕様附いた」とか言う。斯うなれば、一人前の巫女となったものとして大なる祝宴をする。時には列座の巫女たち御迎と称して坐を立つ。然る後は、大抵「何神附いた」と言うものである。巫女の業務は「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;口寄&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クチヨセ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」をすることである。これは死人あったときの一七日、お&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;盆&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ぼん&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;又は秋の彼岸に、各戸殆どこれを行わぬ者は無い。&lt;br /&gt;
: 口寄を行うには、巫女は神降しと称して暫時祈祷をした後、希望せらるる死人となって、希望した人に対して言葉哀れに語り出す。婦女子等は大抵泣いて之を聴く。その聴いているうちに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;問口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トイクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（中山曰。古代の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;審神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;さにわ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;である）と云うことをする。即ち聞手の方から口寄につれて色々の事を問うので、巫女はこの問口が無いと語り苦しいものだと云っている。又口寄の言うことの中に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;日忌&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒイミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と云うのがある。例えば何月何日何方へ往けば損をするとか、不治の病に罹るとか云う類である。地方では之を信ずること甚だしく、その日は必ず在宅して謹慎する風がある。この迷信の結果、自分等（寄稿者島畑隆治氏）幼少の時までは、学校さえも欠席したものである。今は日忌の風は次第に薄らいで行くが、巫女に口寄させる風に至っては、まだ減退せぬようである云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｃ、越後国三面村の変態的巫術&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
越後と羽前の国境なる三面村（越後国岩船郡に属す）は、肥後の五箇ノ庄、飛騨の白川村などと共に、山浅く谷幽なるだけに異った生活を営んでいる村落として有名であるが、明治二十九年八月に同地の土俗調査のため旅行された宮嶋幹之助氏の記事の一節に、下の如くある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 此村の一年間の楽しみは、正月と、盆と、旧十月の山神祭礼なり（中略）。旧十月十二日には、山神の祭とて（中略）。山伏を招き、一週間位は全村業を休み置酒す。而して祭には&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神下&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と云うをなす。其法、村人皆神前に集まりて、村中にて最も実直にて、少しく&amp;lt;u&amp;gt;ぼんやり&amp;lt;/u&amp;gt;せる男を撰び&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;とし、「ボンデン」を携え坐せしむ。衆人は之を囲み、手に藁を縄にて巻きたるを持ち地を打ち、一斉に大なる声にて「ホーイ、ホーイ」と唱う。繰返すこと暫時にして、神子は一度眠れるが如くなり、次で携うる「ボンデン」を勢いよく振り舞わす。此期を外さず村民は、傍より歳の豊凶を問い、禍福を尋ぬれば、言に応じて答う。問を止むれば、神子は倒れ、昏睡して、不覚となる。後に至り、醒むれば、自身が何を言いしや覚えずと。度々神子となりたる者は、少しく雑沓の場にて衆人の喧しきに逢えば、恰も神下しの時の如き現象を呈すと云う。案内者の言に依れば、舟渡村（中山曰。同郡なれど三面村と六里を隔つ）其他の村にて、神下しの時に衆人の唱言は異って、&lt;br /&gt;
:: トラウハ、シマンテ、キリカミテンノウ、ハヤウデカノウハ、ソーワタダイテン&lt;br /&gt;
: と是を幾遍も繰返すなり。又一種異れる神下あり。「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;邪権付&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ジャケンツキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と云う。其唱に曰く、&lt;br /&gt;
:: 一ヨリ二ヨリ、三ヨリ四ハラヘ、五ダンノマキモノ、六七サイホウ、八ポウカタメテ、イーノルナラバ、イカナルジャケンモ、ツイニハツカンデ、カンノーマイヨ&lt;br /&gt;
: と是を繰りかえせば、衆人が呼出さんとする人の霊、神子に付きて、種々の事を口奔ると云う。此神下の唱えは米沢地方の山神祭に言う所と同じ云々〔八〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の三面村の巫術の方法が、屢記した護法附と、全く軌を一にしていることは言う迄もないが、更に一段と古いところに遡れば、神子が巫女であったことが推知されるのである。それは「邪権附」に唱える呪文なるものが、私の接した報告によれば、磐城国の「笹ハタキ」と称する巫女が用いているのと同じであるからである。猶おその呪文等に就いては[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|次節]]に述べる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｄ、常陸国土浦地方のモリコ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「民族と歴史」第八巻第一号に、常陸国土浦町地方の巫女を記せる一節に、次の如く出ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 他にモリコと云うのがあります。それは大抵盲目の婦人です。病気などへ招かれて室内を暗くし、僅か一本の灯心に火を点じ、弦を鳴らして八百万神を呼び集め、それから自身が仏になって、我は死んだ祖父であるとか、伯母であるとか、又は大先祖なりと名乗りつつ、物凄く家族の人々を叱ったり宥めたり、既往将来の事を物語り、此の病人は何々の祟りだ。何神を信仰せよ、何々の薬を服用せよ。何れの方角から医者を頼めよと仏に代って種々の告げをするのであるが、是は「大弓モリコ」と称し、今でも病家などで、稀に行う事があります云々〔九〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｅ、信州における二三の市子と其作法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信州は古くから巫女の名産地で、諏訪郡からも出ているが、殊に多かったのは、小県郡根津村であった（此の事は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|次節]]に詳述する）。「郷土研究」第二巻第六号に『信州では口寄巫を一般にノノウと呼び、その夫をボッポクと云う。神社に属して、神楽を奏する巫を鈴振ノノウと云う』とある。而して「民族」第三巻第一号には、同じ信州における巫女に関して、次の如く載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 川中島では竃祓いをノノサンと云った。松本の近在から来るという事であったが、出所は明かでない。矢張り婆さん（中山曰。精眼者である）が多かった。千早を着て、髪は御守殿風に結び、提げて来る風呂敷包は、松本のと似ていた。「ごめんなさい」と云って入って来た（原註略）。鈴を振りながら経を誦んだ。口寄せの如く神口をきいた。お神楽を上げるときには、右手に鈴を振り、左手に布紗に包んだ経本の如きものを持ち、経を誦みながら、両手を頭上高く挙げ、やがて、ぴたりと鈴を止め、「我が一代の、守り神であるぞよ……」から初めて、神口をきいた（中略）。&lt;br /&gt;
: 北小谷（中山曰。北安曇郡）の竃祓いは、あの辺ではモリと云った。盲目の巫女が多かった。根知（小谷下流の越後分）から多く来た。四隅をしばった風呂敷包に鈴を持って居り、家の者に挨拶してから祓にかかった。御洗米といって米一升にい銭若干が礼であった。モリは神口もきいた。若い女が多かった（中略）。&lt;br /&gt;
: 川中島地方では、別に梓巫をクチヨセと呼んで、竃祓のノノサンと区別していた。「お神楽を上げれば一段上り口寄を寄せると二段下へ下がる」といったから、竃祓の方を位良しとしていたのであろう。針箱位の風呂敷包を背負って、それに傘一本いつけて来た。その箱の中には人形が入っているということであったが、どうしても見せなかった。風呂敷包の箱に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;靠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;もた&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;れて、神口、生口、死口をきいて、口寄せをした。神口のときには「神の初めは伊勢明神、越後ぢゃ弥彦の明神よ、信州ぢゃ一は諏訪さんよ……」と節調をつけて、神々を招ぎ降す。死口をきくときには、よく「某（嗣子の名等を呼び）は馬鹿だし、俺も行くところへ行かれぬ、それに水が呑み不足で一足出れば三足戻る……水向けしろや、お線香を立ててくれろや、さうすりゃ俺も助かる」などというので、身内の者などは涙を流して聴き入ったものだという（中略）。&lt;br /&gt;
: 小谷では之をイチコと云った。イチコの箱の中には外法仏が入っている。何か練って拵えたものだという事であったが、誰も見たものは無かった。ところが明治十年頃の事だったろうか（と話手の老人は云った）、イチコの泊っている家に集まって一杯やっていた博労共が、段々酔って来る中に、イチコがぶらりと遊びに出て行ったのを見てとり、その不在に主人の制止するのもきかず、箱の中から外法仏を出して見た。中には土で拵えたキボコ（人形）が入っていた。聖天様の様に男女のキボコが口を吸い合ってからまって居た。後でイチコが帰って来て「俺を勿体ない、いびりものにした」と腹立ち、箱に靠れて外法仏に聞いて、「誰と誰が云い出し、誰が風呂敷を解き誰々が箱を開いて、誰々で見た」と云った。皆の者弁解に窮し、それに薄気味悪くなって、繋銭（中山曰。各自銭を出し合うこと）をして包金であやまった事があったと云う云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｆ、大阪市天王寺村の黒格子&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸期には、江戸郊外の亀井戸村（天満宮の裏門脇）、京都郊外の等持院村〔一〇〕、大阪郊外の天王寺村に、小規模ながら市子の集団的部落があった。明治四十四年に、私が在阪中の余暇を偸み、天王寺の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女町&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこまち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を訪れた時は、まだ三軒ほど黒格子独特の暖簾を下げた家があったので、呪術を頼んで見たが、禁制だと称して口寄せはしてくれなかった。東京の亀井戸も、大正六年に私がネフスキー氏と尋ねた折には、家の表へ注連縄を引き回した家が二軒あって、昔の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女町&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;みこまち&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の面影を微かにとどめていたが、ここでも官憲の命令だといって、口寄せに応じてくれなかった。而して天王寺に就いては、「浪花百事談」巻九に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 梓&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;数軒住ける地なり、其家みな格子造りにて、表の入口の外には、長三尺計りの三巾暖簾を木綿にて製し、それに大なる紋を染ぬき、仮字にて&amp;lt;u&amp;gt;くろがしら&amp;lt;/u&amp;gt;何々、&amp;lt;u&amp;gt;やぶのはた&amp;lt;/u&amp;gt;何々など、巫の名をも染ぬき、入口の上には注連縄を張る、黒格子といへるは、格子を墨にて塗り、家の内の表の間には、何か祀りて薄暗くせり云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。格子を黒く塗り、家を薄暗くするのは、神がかりする為の便利から来ているのであろうが、遂にそれが黒格子と云えば、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と思われるまでの俚称となったのである。大近松が宝永三年に執筆した「緋縮緬卯月の紅葉」二十二社めぐりの段に、お亀が情人の与兵衛の身の上を案じて、黒格子の巫女に生口を寄せてもらう光景が、巣林子の麗筆を以て叙述されている。而して此の一節は、単に大阪の古い巫女の存在を知るばかりでなく、その神降しの呪文にも、隠語にも、他のそれと異ったものが記してあるので、少しく重複に渉る嫌いはあるが、必要と思うところだけを左に抄録する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 幼き時より気に入りて、幾春秋をふりと云ふ、年季の下女を身になして、隠す事をも語りしは、黒格子の辻とかや、上手と聞きし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の門、ああ申し、ちと口寄を頼みませうとぞ案内ける。弟子の小女郎心得て、お通りなされと戸をあくれば、お亀は&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一間&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ひとま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に入りにけり。暫くあって立出づる、神子もよっぽど見えるもの、アァようお出でなされました、大阪のお衆で御座りますか（中略）。&lt;br /&gt;
: して先づ御用の事ありとは、生口か死口かと云へば、いやさればとよ、頼みたきとは生口なるが、海山隔てし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;方&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かた&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;でもなし、只二三里の道を越え、五日六日の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;便&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たよ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りもなし、どうがなかうがな、くよくよと、案じわびたる御身の程、寄せたべとぞ仰せる。神子は合掌目をふさぎ、珠数をくりひく梓弓、神下して寄せにける。&lt;br /&gt;
:: 天清浄地清浄、内外清浄六根清浄、天の神地の外、家の内には井の神、庭の神、竃の神、神の御数は八百万、過去の仏、未来の仏、弥陀薬師弥勒阿閦、観音勢至普賢菩薩、知恵文殊、三国伝来仏法流布、聖徳太子の御本地は霊山浄土三界の、救主世尊の御事なり、此の御教への梓弓、釈迦の子&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が弦音に、引かれ誘はれ寄り来り、逢ひたさ見たさに寄り来たよ。&lt;br /&gt;
: なう&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;懐&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なつ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;かしの&amp;lt;u&amp;gt;合の枕&amp;lt;/u&amp;gt;（圏点を附せるは[[日本巫女史/第二篇/第五章/第四節|隠語]]）や、我懐かしとはおぼつかなみの、寄り来る人は誰ぞいの、誰とて二人思ふ身が、一つねふしの二股竹与兵衛を、夫と思へばこそ問ふてたもって嬉しやの、問はれて今の恥かしや（中略）。とは云ひながら扇の影の立烏帽子、舅といひてもとは伯父（中略）。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;額&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ひたへ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に角も入れたもの、丁稚小者を云ふ如く、内の手代や&amp;lt;u&amp;gt;庭宝&amp;lt;/u&amp;gt;の侮り者になし果てて（中略）。語るに尽きぬ生口も今は是まで梓弓、引いては帰る習ひなり云々（帝国文庫本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大近松の慣用手段とて、情景併叙の筆を運び、殆んど天衣無縫の如き感あるも、それでもお亀が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;問口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トイクチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をなし、市子がそれに答える遣り取りの工合が、巧妙に描かれている。それにしても、此の神降しの呪文は、神を言うよりは、仏を称えることが多いのは、兎に角に注意すべき点だと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｇ、紀州地方の算所と巫女の関係&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本居春庭翁の「賤者考」の一節にこうある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: サンジョと唱ふる所ありて、大抵忌む所&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;夙&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;しく&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に同じ、伊都郡（紀伊）相賀荘野村今陰陽師あり、同郡官省符荘浄土寺村{今巫村なり日高/郡茨木村のうち}などをいひて他村より婚せず、サンジョは産所の意にて、昔産婦はここに出て産し、穢中を過して本村に帰りしなりなどいへれば、夙の所にいへる意に同じ、是も後には陰陽師巫女など移り住みしなるべし、夙よりはいささか勝れる如く他村にていへども、同火を禁ぜざるのみにて婚を忌めば同じ事なり（中略）。陰陽師、巫女、神楽舞やうの者も、人の同歯せざる事あり（中略）。巫女は前にいふ伊都郡浄土寺村、在田郡藤並荘熊井村などなり、、其他一二戸づつなるもあり云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お同国田辺町の巫女に就いては、[[日本巫女史/総論/第四章/第一節|既載]]したので省略する。而して「賤者考」の記事にもある如く、江戸期に入っては、巫女の堕落はその極に達し、漸く賤民として、落伍者として、社会の一隅に噞喁したまでであって、その社会的地位の如きは、殆んど問題とされず、修験の徒や、陰陽師の妻女となって、大昔の勢威などは夢にも見ることが出来なかった生活であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;Ｈ、出雲地方の刀自ばなし&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「郷土研究」第二巻第四号に、出雲国の一部に就いて、次の如く記載してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 死者の精霊を呼んで、生前の物語を聞くことを「とじばなし」と云う。小庵の尼寺に至り、「とじばなし」を乞うと、尼は萩の弓（中山曰。此の萩の弓は他国には見えぬ）を射て、戒名と命日を唱えて精霊を呼び出して、物語をはじめる。昔死んだ子を呼んでもらって、茶の袷と杖を信州の善光寺まで届けてくれと頼まれて、長の旅路に財産を無くした母親もあった。「とじばなし」は精霊を呼ぶのは易いが、返すのは容易でない。若し誤ると亡霊は勿論のこと、遺族にも不幸が来る云々〔一一〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上は寡見に入った文献に現われた巫女の作法であるが、更にこれが詳細のもの、及びここに漏れたもので、報告に接している分は後出する。さて此の乏しき資料を比較して巫女の異流を考うると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、奥州のイタコの如く盲女に限るものと、これに反して、常陸のモリコや、大阪の黒格子の如く、精眼者のあったこと&lt;br /&gt;
: 二、梓弓を用いる者と用いぬ者&lt;br /&gt;
: 三、珠数を用いる者と用いぬ者&lt;br /&gt;
: 四、神降しの呪文にあっても、神道七分に仏法三分というのと、此の反対に仏法七分に神道三分のもののあったこと&lt;br /&gt;
: 五、稀には萩の弓を用いる者のあったこと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
等が知られるのである。併し、斯かる異流が何故に生じたか、更に異流双互間の関係等に就いては、遂に何事も知る事が出来ぬのである。猶お本節中に収むべき記事も相当に残っているが、余りに長文になり、且つ大体を尽したと信ずるので、他は別に節を設けて記述することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 金田一氏の故郷である盛岡市の令姉の御宅で行われたこと、詳細は「民俗芸術」第二巻第三号に就いて御覧を乞う。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 前田太郎氏著の「世界風俗大観」参照。前田氏は言語学を専攻された方と聞くが、民俗学にも興味を有していられたと見え、此の種の研究や、考察が「東京人類学雑誌」その外に多く載せてある。宿痾のために、壮年で易簀されたのは惜しいことであった。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 我国の榊（栄樹）とは、古くは常緑樹の総てであったから、樒もそれであるなどと云う学者もあるが、覚束ない。私は我国には、樒の野生はなく、支那あたりから輸入されたものと考えている。従って、樒が常緑樹だからとて、榊としては取扱はないことだと思う。尤も、私も正月の門松の代りに樒を用いる村が、日本で一ヶ所あることだけは承知している。併し、此の一例だけでは、榊説は成り立つまい。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「一郎殿より三郎殿」の私案は、前に述べたが、その後考え直すと、此の呪文がエビスオロシと称する者によって工夫されたという証明が出来ぬ以上は、甚だ覚束ないと自分でも思っている。敢て後賢を俟つとする。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 柳田国男先生の御説によると、此の千だん栗毛の祭文に比較すると、同じ「民族」第一巻第六号に載った「まんのう長者」の方が、一段と古いものだとのことである。成る程、そう言われて両者を比べると、新古が明確に判然し、且つ「千だん栗毛」の方は、詞章をそのまま伝えたものでなく、意味だけ伝えて、文句は後人が勝手に言い改めたものであることが知られる。それに、此の祭文の中心思想である、姫と馬の交りから蚕が生れるという筋は、支那の「捜神記」そのままである。そして之れが奥州に残り、イタコに伝ったのは同地が名馬の産地であるのと、養蚕にも関係が深かったためであろう。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 小寺氏の記事は、詳細委曲を尽した長文のものであるゆえ、猶お詳しくは、本文に就いて、御覧を願いたい。更に此の機会に於て、私の運墨の都合から、小寺中道両氏の記事を、勝手に取り交ぜて引用した失礼を、深くお詫びする次第である。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 「郷土研究」第四巻第四号。因に、私は鈴木氏と親交ある香取秀真氏の御紹介を得て、鈴木氏を市外田端の御宅へ両度まで参上し、有益なるお話を承った上に、氏の秘蔵せるイラタカの珠数の撮影まで許された。ここに感謝の意を表する。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 「東京人類学雑誌」第一二六号。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 常陸で巫女を「大弓」又は「モリコ」と云ったことは、「新編常陸国誌」にあること[[日本巫女史/総論/第一章/第一節|既述]]した。これを重ねて呼ぶことは如何かと思うが、今は本文に従うとする。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 京都市外等持院村が巫女村であったことは、京都の地誌類に見えているが、詳細が知れぬので、在京都の友人に、詳細を尽せる書名なりとも知らせてくれと頼んだが、遂に返書にすら接しなかったのは、遺憾千万であった。それで茲に、新井白蛾翁の「闇の曙」巻下（日本随筆大成本）に拠ると、同地方では巫女を俗にヒンヒンと呼んだようである。これは弓弦の擬声から来ていることは言うまでもない。ただ同書には巫女の無学と、弊害とが力説されていて、その呪法や生活に触れていぬのは物足らなかった。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 猶お此の外に、アイヌ民族の間に行われた巫女（ツス）の呪法や、琉球の各島々に在る巫女（ユタ）の作法などに就いて、記述すべき幾多の資料を蒐めて置いたが、今は長文になるのを恐れて、内地だけにとどめるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1326</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第一章/第二節</title>
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		<updated>2010-04-30T18:51:24Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第一章|第一章　巫道を退化させた当代の世相]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　関東の市子頭田村家の消長==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸期のうち約二百年の長きを通じて、関東八ヶ国と、甲信二ヶ国、及び奥州の一部へかけての市子は、江戸浅草田原町一丁目に住した田村八太夫（代々此の名を通称としたが、家の伝えによると、関八州の支配をしたので八太夫と称したとある）なる者が、代々市子頭として、一切の取締りをして、明治期に至ったのである。従って、田村家の詳細を知ることは、一面江戸期における神子の生活に触れ、一面八太夫配下の市子の呪術の他と異るところを考えさせるものがあるので、茲に私が親しく田村氏の遺族を訪ねて、見聞せるものと、諸書に散見せる記事とを参酌して、出来るだけ委曲を尽したいと思っている。江戸期における或る種の意味の名家であった田村氏も、明治期の大勢に打ち敗られて退転し、遺族も僅に女子一人を残しただけで、他は悉く死に断えてしまったので、今にその事跡を伝えなければ、遂に煙滅に帰してしまうと考えたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　田村家の由来と舞太夫&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田村家の家系は、何でも彼でも無理勿体をつけたがる江戸期の影響を受けていて、かなり粉飾されていると同時に誇張の限りを尽したものである。明治二年に東京府へ書上げたと称する書類の手控に由ると、同家は本国は参河、佐々木源氏の支流で、一時兵乱を避けて、相模国田村郷に住んだので、田村を姓とすることになったが、初代田村直親が、天正十八年小田原征伐のとき、徳川氏に仕えて戦功があったので、釆地二百石を賜り、後に慶長五年関ヶ原の戦役に、又々殊勲あって、三百石を加増され、代々旗下の士として、江戸幕府に仕えて来た。然るに、四代田村道則のときに至り、正徳三年正月、関八州及び甲信奥の十一ヶ国の、神事舞太夫の支配を願い出たところ、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 権現様（中山曰。家康）御由緒を以て、職号を習合神道関東一派武官神職と相唱改、国々職掌之者法例取極渡度旨、安藤右京亮殿を以て御許容（中略）、是迄頂戴の高差上、惣支配下より役料と唱壱人別鐚六百孔宛取立度旨相願候処、同十二月中御聞済（中略）、代々各例を以支配一手に御任被遊、御用書物役所と唱、京都に差図を不受、進退共仕候事云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と先ずその由来を記し、更に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 天文年中十一ヶ国御免勧化永代御容ノ義、松平左近将監殿奉願候処、御聞済に相成御代々様無滞被下置候事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記載してある。而して更に、同家に伝えた別紙の系譜に由ると、田村氏は饒速日命より四十三代（一々神名と人名とが書いてあるが省略する）を経て、印葉太郎物部政雄より分れ、幸松物部直親より四代を経て、前記の初代田村直親になったと記してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の家系や、由来が、到底、信用すべき限りでない事は、記事そのものが、有力に証示している。私はこれに関する管見を述べる前に、更に十三代目田村甲子太郎氏（即ち最後の田村八太夫）が、大正七年四月二十六日より同年翌月三日まで、前後七回に亘って「都新聞」に連載した記事中から、家系に関する主なる点を抄出して、両者の間に如何程の相違があり、従って同家に伝えた由緒書なるものが、如何にするも無条件では受け容れられぬことを明示したいと思う。即ち、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 大阪落城の折に、徳川家康を助けた桶屋の親爺が江戸へ下り、浅草田原町に住し幸松勘太夫と称し、関八州の巫女の取締りとなった。吉田家（陰陽師の家）、土御門、白河、幸松の四家だけで通婚して、他家とは縁組しなかった。関八州の取締となったので八太夫と通称を言うようになり、後に浅草三社権現の祠官となったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:遺族常子.gif|thumb|田村常子氏]]&lt;br /&gt;
これによれば、最後の八太夫は、流石に家系の奈何がわしいことに気附いていたと見え、饒速日命も、関ヶ原の戦功も語らなかったものと思われる。然るに、現存の田村常子（最後の八太夫の長女で、併も田村氏の血を承けし唯一人の遺族）は、家系と亡父の記事との矛盾を救うために『桶屋の親爺ではなくして、掘井戸用の桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;で家康を助けたのである』と言っているが、これは要するに、堅白同異の弁であって、家康は桶屋の親爺には勿論のこと、桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;の中に隠れて助かったことなどは、正史には曾て無いことであるから、何れにするも問題にはならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に田村家が代々五百石の食禄を領し、旗本として何不足なき身でありながら、四代目になって、突如として食禄を返還し、当時の社会感情から言えば、賤業卑職とまで思われていた神事舞太夫や市子頭——よし、それが触頭であったにせよ、取締であったにせよ、好んで人生の逆境に処したとは、如何にするも常識では考えられぬことである。これは何か他に事情が存していたか、それでなければ、家康の由緒書が全く偽造であるか、その二つのうちの一つでなければならぬ。喜多村信節翁は、何によって考えたものか、その著「嬉遊笑覧」巻六において、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 江戸神田明神は、昔より神事能としてこれ有しとぞ。北条以後暮松太夫上方より下り、江戸に住んで此の神事能をつとめしが、其者没して宝生太夫これをつとむ。暮松が子孫は大神楽打の頭となれりとなむ。思ふに田村八太夫は暮松の子孫なる歟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記している。而して私の愚案を簡単に云うと、田村氏の祖先は、三河院内の作太夫の徒であったのが、家康が江戸に幕府を開いたので、その縁故を言い立てて、神事舞太夫の取締となり、後にずるずるべったりに、巫女の取締まで兼ねるようになったのであると考えている。全体、江戸期における舞々は、帳外者の職業であって、その取締は、例の弾左衛門がして来たものである。その舞々に、少し毛が生えた位の舞太夫を、好んで勤めるほどの八太夫、饒速日命は愚かのこと、作太夫と同じ畑の者と見るのが至当のようである。殊に家系にも幸松の姓が見え、八太夫の記事にも幸松とあるのから推すと、作太夫の徒が幸松の業を学び、江戸に居ついたものと考えても、差支ないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　習合神道と舞太夫の関係&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化年中に、江戸幕府で、諸国の地誌の編纂を企て、これが資料を覓めて、一二の地誌の脱稿を見るに至ったが、その中に、文化十三年に江戸市内から書上げさせたもので「御府内備考」と云うのがある。此の巻十六浅草田原町の条に、田村家に関する詳細なる書上が載っているので、少しく長文に亘る嫌いもあるが、左に転載して、これに私見の蛇足を添えるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　習合神道神事舞太夫頭田村沢之助&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　沢之助幼年に付後見友山求馬書上左之通&lt;br /&gt;
: 一、習合神道神事舞太夫家道之儀は、往古より相立、頼朝公御治世始て支配頭相立、乍恐、御当家に至ては、御入国之砌参州より御供仕、習合神道神事舞太夫頭被仰付、京都神家之不請差図、御公儀御威光を以一派相極め被下置、支配下の神主宮持並社役之者には、頼朝公並北条家之御墨附致所持候もの、又は御府内御免勧化被仰付候者有之候、且支配下へ風折烏帽子装束之許状差出申候。尤右免許之儀者私代替家督被仰付候段、御奉行所於御内寄合に先格之通被仰渡候、且呼名国名等も差免し候事。&lt;br /&gt;
: 一、習合神道一派に三像札御許容有之候。&lt;br /&gt;
: 一、竃神青襖札、古来より年々正・五・九月御府内御免、配札名代のもの巡行為致候事。&lt;br /&gt;
: 一、御免絵馬札配札之儀者、文化十三年子年十一月中、阿部備中守様え友山求馬奉願、同十二月十八日、松平右近将監様於御内寄合に願之通被仰渡、年々正月配札名代のもの御府内致巡行候。且在々えは配下のもの致配札候事。&lt;br /&gt;
: 一、当四月（中山曰。文化十三年）二十五日吹上へ被召出候一件は、吉田殿関東執役宮川弾正より、下総国葛飾郡栗沢村茂侶神社神主友野相模え吉田家配下見廻り役申付候故、同人儀田村沢之助支配下、下総国印旛郡米本村神事舞太夫小林丹波へ呼状相付、装束へ差障候に付、其段友山求馬並本庄内記、鈴木豊後より友野相模相手取奉出訴候処、段々御吟味之上今般熟談、御吟味下げ奉願候は、友野相模儀習合神道之儀者京都神家之不請指図、御公儀御威光を以一派御極め被下置候を不相弁、呼状相付職道へ差障候は重々心得違に付、訴訟方へ相詫、且宮川弾正儀も向後手入ヶ間敷儀致間敷筈にて、規定致し候事。&lt;br /&gt;
: 一、吉田家、白川家配下神主社人どもに許状無之ものは、御奉行所、御評席且御評定所へ被召出候節は、牢人台之御取扱に候得共、私支配下老若男女共に武家に属し致故、御評定所にては上訴訟へ被召出、御評席にては上椽通之御取扱に御座候事（中山曰。以下、浅草三社権現祭礼、天下乞の神楽、観音市、稲荷社の四項を省略す）。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由緒&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家道之儀は、習合神道にて往古より武家に属、乍恐御公儀様御威光を以、神事舞太夫職は一派御極被下置、職札、法例、烏帽子装束之許状御許容被成下、他之神職相構候義無之、一派之職道相立来候、且又私支配之儀は関八ヶ国並信州甲州、会津表迄散在仕、配下之輩には神主に宮持、社役人之品有之、各社例を以神事祭礼相勧来は、宮々は御朱印地之配当を請、又は御料、私領之内御除地所持仕候者共数多有之、其外総支配下神事舞太夫の義は、宮持社役人未流にて、総応の且中相分習合神道を以家職勧来候。&lt;br /&gt;
: 一、関東に支配頭相勤罷在候起りは、頼朝公御治世鶴若孫藤治と申者、頭役相勤申候御墨附頂戴仕、其子孫今に相州平塚宿に罷在、御除地所持仕、鶴岡八幡宮の社役相勤罷在候、将亦小田原北条家時分天十郎と申もの、関東八ヶ国の頭役相勤御墨附頂戴仕（中山曰。此の事は「新編相模風土記稿」にも載せてある）其子孫今以相州小田原に御除地所持仕罷在候、右両人の子孫私支配下の神職にて、今以相続仕罷在候、此砌より武家に属、一派之神職相立来候。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由来&lt;br /&gt;
: 一、私支配下之儀は諸国散在仕神主、社役人之品有之、代々社例を以神事祭礼神楽相勤、御除地之宮社所持仕罷在候、且亦社役人之内には天台真言或は社家本山修験之宮社にて、従古来由緒筋目を以御朱印配当、又は御除地所持仕候もの共数多御座候（中山曰。以下、水戸東照宮、水戸砂金山、浅草三社権現、千葉妙見社、武蔵六所明神、相州高麗大権現の六祭礼の神事舞太夫の記事を省略す）。&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫帯刀之儀は、宮持社役人平配下之者一統従古来致来申候。去る明和三年戌二月二十四日、土岐美濃守様帯刀之儀御尋御座候に付、古来より支配一統仕来候段、親父八太夫時代書付差上申候。且又席之儀は支配下之者一同願、訴訟御座候節は先々御下通へ罷出申候。此段相違無御座候以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の書上は、同じような事を幾度となく繰返して記しているが、結局は種の無い手品を遣う様なもので、取りとめたものは、一つも無いと云えるのである。元々、舞太夫の由緒に過ぎぬ問題を兎や角と詮議立てするのも大人気ない話ではあるが、「家道は往古遠久」の一点張りで逃げ道を開け、頼朝の墨附があるなどと云うかと思えば、それは田村家ではなくして鶴若家だとは、かなり人を喰った言い分と云わなければならぬ。併し、そんな事は巫女史の上からは、どうでも宜い問題であるから、深く洗い立てせぬとするが、此の書上に附いて見るも、田村氏が市子の取締をしたということは、一言半句も説明していぬ。これは如何なる事情であろうか、私としては此の詮議こそ出来るだけ充分に尽さなければならぬ問題である。以下これに就いての管見を述べるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　田村家の巫女取締とその呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫が関八州の梓&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の取締となったのは、果して何年頃に如何なる理由に基くのか、少しも判然して居らぬ。前掲の書上にも、神事舞太夫の事は管々しいと思うほど書き列ねてあるが、市子に関しては、遂に一言半句も触れていない。若し、各地の舞太夫の妻女は概して市子であったから、夫の舞太夫を取締るという事は、直ちに妻の巫女を取締ることを意味しているのであると云えば、此の問題も容易に解決する訳ではあるが、それでは舞太夫以外の修験者の妻女である市子や、更に人妻で無い市子（此の数は決して少くなく、恐らく、修験者関係の市子と独身者の巫女の合計は、舞太夫関係の実数よりは、迥かに多かったと思われる）を如何にしたかと云う問題が残されるのである。併し、此の事の真相は、寡見に入っただけの資料では、遂に判然せぬ問題ではあるけれども、兎に角に、田村氏が江戸期の中葉から関八州の市子の取緒をして来たことだけは、否定されぬ事実である。前に引用した「聞伝叢書」巻四に左の如き文書が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫並梓巫女之事&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　神事舞太夫次第書&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家法之儀は、往古遠久之職道にて国々散在致し、何れも習合之神道之則法を以、且中之諸祈祷相勤来申候、然に社法之儀者天台真言社家、並本山修験等之宮々に順往古より社礼を相勤申候、依之其社々之衣之装束風折烏帽子着用致し相勤申候、且又梓巫女権与之儀者、往古遠久呪歌之伝授にて、梓神子一家之法式にて他家に不伝、習合神道之行法を以諸祈祷等相勤申候、有増如斯御座候事、諸国配下の者共の儀は、乍恐常陸国水戸東照宮様御神事を奉初、同国金砂大権現大祭礼七十三年一度宛の御神事、正徳五年三月朔日に執行仕候まで十三度に及申候、依之国々に於て社礼之儀、天下泰平御武運御長久御祭礼相勤来申候事。&lt;br /&gt;
: 一、元禄十五年閏八月二十七日西宮神職と争論之節、阿部飛騨守様、永井伊賀守様、本多弾正少弼様御裁許之上にて猶以相極申候、各社役之儀、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;委&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は正徳元年卯正月十八日本多弾正少弼様、森川出羽守様、安藤右京進様御裁許の上にて、梓神子法例文章御吟味之上御極被下置候事。&lt;br /&gt;
: 右は今般家法之儀御尋に付、支配頭田村八太夫之儀御座候得者、難尽筆紙之儀は、猶又御尋も御座候はば、乍恐以口上逐一言上可申上候、以上&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　江戸浅草三社権現神主&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　田村八太夫支配国役人&lt;br /&gt;
: 宝暦六年子三月　　　　　　　　　　　　信州北条郡長窪新町　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　梓神子法例&lt;br /&gt;
: 諸国之散在神子如伝来相勤、諸神勧請&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;次&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;家法之梓致執行、勿論神差帰上之法式、並荒神鎮座之祓及び幣帛等、以習合神道而壇中之諸祈祷可相勤之者也、若於国々粉敷梓神子於致徘徊者、以此判而相改、堅可停止事。&lt;br /&gt;
: 右書附之趣厳密可相守之矣、若以新法他職而乱家法者於有之者、急度可為越度者也&lt;br /&gt;
: 正徳巳亥暦正月十八日　　　　　　　　　　　　　神事舞太夫　田村八太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　飯嶋　兵庫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　国役人　丸山　式部（印）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
之に由れば、田村家が正徳年中には、既に巫女の取締をやっていた事は明白であるし、更に「高崎誌」巻下に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 下横町に神事舞太夫という者三四人あり（中略）、彼等が妻は多く梓巫なり（中略）、彼等は江戸浅草神事舞太夫田村八太夫と云う者より、職法書を受て三社権現を祭る由云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記してある。猶お少々煩雑に過ぎるようではあるが、前掲の信州長窪町の神事舞太夫である飯嶋与太夫が、妻、妹、娵の三梓巫女のために差出した関所通行の文書があるので、参考までに抄録した。これに由ると、舞太夫の家庭に在る女性は、悉く巫女を営んだようにも思われ、且つその名称などに就いても、多少の資料となると信じたので、鶏助の譏りを知りつつ、敢て此の挙に出た次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　上野国甘楽郡磯沢村御関所梓神子人別帳&lt;br /&gt;
: 信州小県郡長久保宿　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　妻梓神子　注連翁&lt;br /&gt;
: 　　　妹梓神子　宮　高&lt;br /&gt;
: 　　　娵梓神子　朝　日&lt;br /&gt;
: 右之通人別帳差上候処、少も相違無御座候、如例年御関所御通被遊可被下候、右神子之内紛敷者壱人も無御座候、若粉敷ものと申もの有之候はば、私共何方迄も罷出急度申訳可仕候、為後日仍如件&lt;br /&gt;
: 　　年号月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　梓神子組頭　飯嶋与太夫&lt;br /&gt;
: 右は長久保宿神事舞太夫蛭子方梓神子有之、宗門帳も別帳に差出候、然る所諸国散在梓神子共、御関所御手判なしに通候抔と所々にて申候由に付、右宿名主前右衛門を無急度内糺し候処、右之通前右衛門を以書付坂本役所へ差出候也（前掲の「聞伝叢書」巻四に拠る）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯うした資料がある上に、「甲子夜話」巻七十七にも、「田村氏関東の梓巫女を支配す」と裏書をしているし、且つ代々の八太夫の妻や、娘が、市子を業としていた事から考えても疑いはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは田村家に伝わった呪術の方法は、如何なるものであったかと云うに、先ず&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;詠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;み歌（この歌詞は教えると飯の種がなくなるとて常子さんも教えてくれなかった）三十六首を基調とし、神占を依頼する人が神前へ入るまでに一首、入って坐った時に一首と云った風に声低く唱え（ここでは単なる和歌ではなくして呪文としてであることは言うまでもない）て往って、呪術を行う市子の膝の前には六張の弓（これを六首六張と云うている）を並べ、菅の葉でこれを掻き鳴らしながら残りの歌を詠むのを、神懸りの作法としていた。そして六張の弓とは、梓の弓、雌竹、雄竹の弓、桑の弓、南天の弓などで、弦は女の髪の毛を麻にまぜて撚り合せたものである。此の弓の故事は、神功皇后が征韓の折に神占をなされたが、弓が無かったので、手頃の木を切って弓となし、弦には畏くも御自身の髪の毛を用いたものだと伝えている（以上「都新聞」記事摘要）。併し、私に言わせると、是等の呪法は、別段に八太夫独特のものではなく、九州の巫女が、十三仏や西国三十三番の詠歌を唱えて（此の事は後段に詳述する）神懸りするのと、全く同じものである上に、更に弓の故事などに至っては、無理勿体をつけて、俗人を嚇すほどの&amp;lt;u&amp;gt;さかしら&amp;lt;/u&amp;gt;にしか過ぎぬ。神后の征韓といえば、戦いに赴かれる陣中であるのに、武器である弓が無いとは辻褄の合わぬ話である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の血筋を伝えている唯一人の田村常子さんは、本年三十五歳の女盛りのお方であるが、呪術は実母の故菊子刀自（相模国愛甲郡生れ）から学び、更に菊子刀自は、祖父（十二代目の八太夫）に教えられたもので、常子さんは十九歳の娘の時から是れに従事したそうである。私が第一回に訪ねた際には、家に伝えた呪術用の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;外法箱&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゲホウバコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（高さ一尺ほど横八寸ほど幅五寸ほど、外は黒漆塗り内は朱塗り、印籠蓋になっていて、蓋をとると中に深さ一寸位の&amp;lt;u&amp;gt;かけ&amp;lt;/u&amp;gt;盒があって、常には玉珠数を入れて置いたという）や、玉珠数（これに就いては後に述べる）その他の秘伝書まで見せてくれ、種々親切に話してくれたが、その折に外法箱に関して語られるには、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: この箱はずっと以前には用いたそうですが、母の代からは遣わぬことになっていました。外の梓巫女は、此の箱の中へ犬の頭だとか、又は木偶だとかを入れると聞きましたが、私の家では是等の物は一切用いず、ただ十八柱の神の名（この神名を尋ねたが、常子さんには明確に答えられず、多分、天神七代に地神五代を併せ、その他に六柱を加えたものでしょうとの事であったが、それでは後に載せる常子さんの亡父八太夫の話とは少しく異る点がある）を紙に書いて入れたに過ぎません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と殆んど弁明的の態度で語られたが、紙に記した神名を納めるには、如何にも箱が深かすぎるので、或は古くは他流の市子と同じく、何か異物を納めたのではあるまいか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お「都新聞」の記事によると、八太夫も後になると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 古風の通り遣っていたのでは、頼む方が笑って相手にせぬので、切り離した珠数（常子さんの話に、此の珠数の珠は我国の数を象って六十六とし、外に親玉として天地を象り二つを加えてある。そして神占のときには、その珠を九々で払って往って、残った数でやるのだという。私は全く周易を真似たようなものだと考えた）一本と、錦襴の布に包んだ女神六柱と、男神六柱の神名を書いたもので、伺いを立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と語っている。そして此の珠数を用いる事を、俗に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;珠数占&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ジュズウラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と称している。又た同家に伝えた呪術に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;九気&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;キュウキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」の法とて、一気天上ノ水、二気虚空ノ火、三気造作ノ木、四気剣鉄ノ金、五気欲界ノ土、六気江河ノ水、七気国土ノ火、八気森林ノ火、九気山中ノ金というがあり、更に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し」の呪文は、神を祭るとき、仏を呼ぶとき、生霊を招ぐとき、病気を治すとき、神占のときなど、事毎に別のものがあるとて、これは教えることを好まぬようであったので、私も深く尋ねることを差控えるとした。併し強いて言えば、九気の法と称するものは、現に一部の迷信者の間に行われている九星と称するものと、さして変っているとも思われぬし、且つ数珠占も、他の市子（大正六年、東京市外亀井戸町の天満宮の裏門の所に市子がいるので、学友ネフスキー氏と携え訪ねた時にも、此の数珠占のことを聴かされた）も用いるので、神降しの呪文も又そうしたものではないかと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私に斯う考えさせたに就いて一つの旁証がある。余りに非学術的の事ではあるが、巫女が呪文と称して、此の上もなく神秘のものとする正体も、詮索して見ると、想ったよりは価値の無いものだということを説明しているので、筆序に附記するとした。それは、明治初年に、八太夫の弟子巫女で、横浜の福徳稲荷の宮守りをしていたお寅婆というのがあった。占術神の如しというので流行ッ子となり、毎日幾十人となく依頼者があるので、小金を蓄えるようになったが、同家の飯炊き婆が之を見たり聞いたりして羨しがり、別に一戸を構えて巫女の業を始めると、之も不思議と俗信を集め繁昌した。八太夫が或る日、その飯炊き婆の所へ往って見ると、一生懸命に神降しをしていたが、その唱える呪文が『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一二三四&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒフミヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;南無阿弥陀仏』を繰り返している。八太夫はその出鱈目に驚いたものの、依頼客の前でそれは間違っているとも云えぬので、客が帰ってから呪文は『一二三四五六七八九十百千万』と唱えるもので、然もこれは天鈿女命が天の岩戸開きの折に唱えた、尊いものであると教えて戻って来ると、十日ほどしてその飯炊き婆が八太夫の許へ来て、正しい呪文より、口なれた呪文の方が、よく神占が当るとて、又元の一二三四南無阿弥陀仏を用いたということである（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
呪文の正体（これは後段に幾つかの変ったものを挙げるが、これを押しくるめて）は、蓋しその悉くが、斯かる他愛もないものである。私の郷里である南下野地方で行われた寄り祈祷などでも、御幣を持った仲座に神をつける時に用いた呪文は『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;月山羽山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツキヤマハヤマ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、羽黒の大権現、並びに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;稲荷&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウカ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の大明神』というのを、大勢して、然も高声に、妙な節をつけて、やや急速に唱えるだけであった。私はその時分から、これは大勢が寄ってたかって、異口同音に大声を出して&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;怒鳴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;どな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りさえすれば、仲座は催眠状態に入るのだなと考えていた。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|後]]に言うが、越後と羽後の国境の三面村に行われた神降しの呪文などは、実に簡単でもあり、且つ意味をなさぬようなものであるのは、私の考えが必ずしも無稽でないことを裏附けていると信じたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　巫女の修行法と田村家の収入&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の記事の一節に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;u&amp;gt;いち&amp;lt;/u&amp;gt;子は七つから十五歳まで、諸方の神社へ八丁&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;舞籠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マイコモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神楽巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カグラミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に差出し（中山曰。これは、神楽&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;と、口寄&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;とを混同したように思われるが、今は原文に従うこととする）、十五歳になると身体が汚れるので、早速結婚させ、古くから此の掟を守って来た。市子の修業は、宰領（中山曰。前掲の飯嶋与太夫の文書に「国役人」とあるのと同意であろう）とて、市子二十人位に一人づつ取締を置き、地方では宰領の許に収容して、これが一切の教えをしたものである。若い市子連を、国々へ出張修行させたのは、これは国々の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;訛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りを覚えさせるためで、訛りを知らぬと、口寄せの文句が、誠らしく聞えぬからである云々（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。而して常子さんが、私に示してくれた書類によると、此の修行は、九気、玉占（珠数占の事）、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（死霊を祀る事）、八方責、神占等の二十六種に分れていたが、果して之だけ教えたものか否か、実際は判然しなかった。而して、常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 自分は修行の方法として、方々の神社仏閣へ毎日のように参詣に遣られたものです。催眠状態に入るには相当の修練を要しますが、馴れて来ると、直ぐに此の状態になることが出来ます。巫女と神様との関係は、親子夫婦よりは親密なもので、覚醒しているときでも、更に常住坐臥ともに、絶えず神様がついているように気持が致します。本来なれば、巫女は亭主は持てぬこと（中山曰。常子さんは岡田光太郎という良人を有し、三人の子供を儲けている上に、私が第二回目に訪ねたときには臨月に近い大きなお腹をしていた）になっていました。そして身体の不浄なときには、神様に近寄らぬようにしますが、永年この神懸りをしていますと、女子でありながら段々男子のようになって（即ち性格変換である）来ます云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とのことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 亡父の話に、徳川時代には、関八州の市子達が、免許状を貰いに来るので、殆んど毎日のように、その人物や修行を試験するので、多忙を極めたそうです。そして是等の市子から、何程の役料を収めたものか知りませんが、明治になってからは、壱年一円二十銭づつであったと記憶しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
との事であった。併しながら、江戸期における田村家の収入は莫大なもので、免許状の授与料や、年々の役料も相当の金額に達したであろうし、更に此の外に、表芸の神事舞太夫関係の収入や、青襖像の御影の収入もあり、かなり豪奢な生活であったらしい。殊に十一代目の八太夫は中々の遣り手で、妾なども蓄えていたが、重要なる書類や、什具などは、悉く妾に持ち去られたとのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;五　明治維新と田村家の退転&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治元年十一月四日に、田村八太夫は東京府へ召出され、『是迄の通り頭役仰付』との辞令を受け、漸く安堵の胸を撫で下したのも束の間で、翌明治二年七月に、左記の如き——八太夫としては殆んど致命的の布達に接し、古来の特権は悉く奪わるることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 神事舞太夫職ノ儀に付、先般配下職業勤方、以箇条書雛形相伺候件々（中山曰。此の伺書は田村家に残っていぬ）ハ、不正ノ節ニ付一切禁止申付候事&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫頭之名目差止、向後舞夫頭ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、神社祭礼之節、神楽相勤候儀、是迄之通不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、舞夫支配ノ儀ハ是迄之通、東京ヘ居住之輩而己配下ト可相心得事&lt;br /&gt;
: 一、大国主命之像配り候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、幣帛ヲ以テ竃土公ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、月待日待祈念之時、幣帛ヲ以執行、符字差出候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、梓神子之名目差止、向後梓女ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、玉占之儀不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、青襖札ヲ以竃之向ヘ張、竃ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、絵馬札配リ候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 右之条堅可相守、配下之輩モ禁止ノ廉無洩相触、急度為相守可申候、此段相達候事（中山曰。句読点は私の加えたものである）&lt;br /&gt;
: 巳七月　　　　　　　　　　　東京府&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　社寺局印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この布達に由れば、八太夫は、従来の特権の大部分を失い、僅に、（一）東京に居住する舞太夫だけを配下とすること、（二）神楽舞を勤めること、（三）梓女を支配することだけに局限されてしまったのである。田村家の打撃は言うまでもないが、「巫学談弊」を著して、所謂鈴振り神道なるものを極端にまで嫌厭した、平田篤胤翁の学風が海内を吹巻り、併もその学風が、当時の神祇官の方針となっていた明治維新の変革としては、蓋し止む得ぬ結果と見なければならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに明治初年の混雑は、神道や仏教方面にも多大の影響を来たし、万事を改革するに急なる余り、かなり非常識の事も行われ、神仏分離を励行しながら、神仏習合の神社を拵えるやら、祭神の入れ変えをするやら、社地の誤認をするやら、今から思うと少からぬ手落ちもあった様である。殊に民間信仰の対象となっていた富士講は扶桑教となり、御嶽講は神習教となり、就中、富士講は一先達であった宍野半という人物が、一躍して扶桑教の管長となり、然も道教の管長は宍野家代々の世襲たるべしという両本願寺を真似て、管長を独占してしまった。而して是等の現状を見せつけられた八太夫は、巫女を中心として一種の教会を建設し、これを支配下に置こうと企て、幸い東京府の布達にも梓女を認め、玉占を許しているので、ここに「神道梓女教」なるものを造り、従来の如く、諸方の巫女を集めて呪法を教え、左の如き免許状を出して収入を計り、独立を期したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 九気、玉占、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、八方責、招魂式、神占、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;佐々&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ササ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;祓祈祷法&lt;br /&gt;
: 右八ヶ課ヲ修行セシ事ヲ正ニ証ス&lt;br /&gt;
: 明治　年月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　神道梓女教　田村八太夫　印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の田村氏の運動が、どの位までに成功したか、それは今からは明確に知ることは出来ぬが、私の推測するところでは、余り成功を見ずに終ったようである。現に八太夫の女婿岡田光太郎氏（常子さんの良人）の談に徴するも、岡田氏が八太夫の供となり、江戸時代から田村氏の配下である東京市内及び近郊の市子の許を歴訪した事があったが、今人この道を棄てて泥土の如き譬えに漏れず、心から八太夫を以前の取締または触頭として迎えてくれた者は極めて少数であって、他の多くの市子は冷淡を越えて、寧ろ厄介者扱いにするという態度であったという点からも、こう推測して大過はないようである。而して斯くてある間に、明治六年教部省令を以て、一切の市子の呪術が禁止されることとなり、これに加うるに、文化の向上は市子を信ぜぬようになったので、八太夫の計画も全く壊滅に帰し、田村家最後の八太夫であった甲子太郎氏も、陋巷に老いを嘆ずるようになり、遂に補助ボーイとまで零落して、頽齢に負いきれぬ生活苦と闘いつつあったが、あの大地震のあった大正十二年十一月七日に六十一歳を以て永眠し、ここに江戸以来の或種の名家であった田村家も、男系尽きて断絶することになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記述後「祠曹雑識」巻三十六を見ると、寛政七年四月に田村家から寺社奉行に差出した書上があって、その一節に宝永四年十二月に幸松勘右衛門（元の神事舞太夫頭）が不埒のため頭役を召放されたので、翌宝永五年に八太夫が頭役を相続したとあるから、家乗の信用されぬことが明白となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1325</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第一章/第二節</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1325"/>
		<updated>2010-04-30T16:03:22Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第一章|第一章　巫道を退化させた当代の世相]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　関東の市子頭田村家の消長==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸期のうち約二百年の長きを通じて、関東八ヶ国と、甲信二ヶ国、及び奥州の一部へかけての市子は、江戸浅草田原町一丁目に住した田村八太夫（代々此の名を通称としたが、家の伝えによると、関八州の支配をしたので八太夫と称したとある）なる者が、代々市子頭として、一切の取締りをして、明治期に至ったのである。従って、田村家の詳細を知ることは、一面江戸期における神子の生活に触れ、一面八太夫配下の市子の呪術の他と異るところを考えさせるものがあるので、茲に私が親しく田村氏の遺族を訪ねて、見聞せるものと、諸書に散見せる記事とを参酌して、出来るだけ委曲を尽したいと思っている。江戸期における或る種の意味の名家であった田村氏も、明治期の大勢に打ち敗られて退転し、遺族も僅に女子一人を残しただけで、他は悉く死に断えてしまったので、今にその事跡を伝えなければ、遂に煙滅に帰してしまうと考えたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　田村家の由来と舞太夫&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田村家の家系は、何でも彼でも無理勿体をつけたがる江戸期の影響を受けていて、かなり粉飾されていると同時に誇張の限りを尽したものである。明治二年に東京府へ書上げたと称する書類の手控に由ると、同家は本国は参河、佐々木源氏の支流で、一時兵乱を避けて、相模国田村郷に住んだので、田村を姓とすることになったが、初代田村直親が、天正十八年小田原征伐のとき、徳川氏に仕えて戦功があったので、釆地二百石を賜り、後に慶長五年関ヶ原の戦役に、又々殊勲あって、三百石を加増され、代々旗下の士として、江戸幕府に仕えて来た。然るに、四代田村道則のときに至り、正徳三年正月、関八州及び甲信奥の十一ヶ国の、神事舞太夫の支配を願い出たところ、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 権現様（中山曰。家康）御由緒を以て、職号を習合神道関東一派武官神職と相唱改、国々職掌之者法例取極渡度旨、安藤右京亮殿を以て御許容（中略）、是迄頂戴の高差上、惣支配下より役料と唱壱人別鐚六百孔宛取立度旨相願候処、同十二月中御聞済（中略）、代々各例を以支配一手に御任被遊、御用書物役所と唱、京都に差図を不受、進退共仕候事云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と先ずその由来を記し、更に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 天文年中十一ヶ国御免勧化永代御容ノ義、松平左近将監殿奉願候処、御聞済に相成御代々様無滞被下置候事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記載してある。而して更に、同家に伝えた別紙の系譜に由ると、田村氏は饒速日命より四十三代（一々神名と人名とが書いてあるが省略する）を経て、印葉太郎物部政雄より分れ、幸松物部直親より四代を経て、前記の初代田村直親になったと記してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の家系や、由来が、到底、信用すべき限りでない事は、記事そのものが、有力に証示している。私はこれに関する管見を述べる前に、更に十三代目田村甲子太郎氏（即ち最後の田村八太夫）が、大正七年四月二十六日より同年翌月三日まで、前後七回に亘って「都新聞」に連載した記事中から、家系に関する主なる点を抄出して、両者の間に如何程の相違があり、従って同家に伝えた由緒書なるものが、如何にするも無条件では受け容れられぬことを明示したいと思う。即ち、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 大阪落城の折に、徳川家康を助けた桶屋の親爺が江戸へ下り、浅草田原町に住し幸松勘太夫と称し、関八州の巫女の取締りとなった。吉田家（陰陽師の家）、土御門、白河、幸松の四家だけで通婚して、他家とは縁組しなかった。関八州の取締となったので八太夫と通称を言うようになり、後に浅草三社権現の祠官となったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:遺族常子.gif|thumb|田村常子氏]]&lt;br /&gt;
これによれば、最後の八太夫は、流石に家系の奈何がわしいことに気附いていたと見え、饒速日命も、関ヶ原の戦功も語らなかったものと思われる。然るに、現存の田村常子（最後の八太夫の長女で、併も田村氏の血を承けし唯一人の遺族）は、家系と亡父の記事との矛盾を救うために『桶屋の親爺ではなくして、掘井戸用の桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;で家康を助けたのである』と言っているが、これは要するに、堅白同異の弁であって、家康は桶屋の親爺には勿論のこと、桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;の中に隠れて助かったことなどは、正史には曾て無いことであるから、何れにするも問題にはならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に田村家が代々五百石の食禄を領し、旗本として何不足なき身でありながら、四代目になって、突如として食禄を返還し、当時の社会感情から言えば、賤業卑職とまで思われていた神事舞太夫や市子頭——よし、それが触頭であったにせよ、取締であったにせよ、好んで人生の逆境に処したとは、如何にするも常識では考えられぬことである。これは何か他に事情が存していたか、それでなければ、家康の由緒書が全く偽造であるか、その二つのうちの一つでなければならぬ。喜多村信節翁は、何によって考えたものか、その著「嬉遊笑覧」巻六において、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 江戸神田明神は、昔より神事能としてこれ有しとぞ。北条以後暮松太夫上方より下り、江戸に住んで此の神事能をつとめしが、其者没して宝生太夫これをつとむ。暮松が子孫は大神楽打の頭となれりとなむ。思ふに田村八太夫は暮松の子孫なる歟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記している。而して私の愚案を簡単に云うと、田村氏の祖先は、三河院内の作太夫の徒であったのが、家康が江戸に幕府を開いたので、その縁故を言い立てて、神事舞太夫の取締となり、後にずるずるべったりに、巫女の取締まで兼ねるようになったのであると考えている。全体、江戸期における舞々は、帳外者の職業であって、その取締は、例の弾左衛門がして来たものである。その舞々に、少し毛が生えた位の舞太夫を、好んで勤めるほどの八太夫、饒速日命は愚かのこと、作太夫と同じ畑の者と見るのが至当のようである。殊に家系にも幸松の姓が見え、八太夫の記事にも幸松とあるのから推すと、作太夫の徒が幸松の業を学び、江戸に居ついたものと考えても、差支ないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　習合神道と舞太夫の関係&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化年中に、江戸幕府で、諸国の地誌の編纂を企て、これが資料を覓めて、一二の地誌の脱稿を見るに至ったが、その中に、文化十三年に江戸市内から書上げさせたもので「御府内備考」と云うのがある。此の巻十六浅草田原町の条に、田村家に関する詳細なる書上が載っているので、少しく長文に亘る嫌いもあるが、左に転載して、これに私見の蛇足を添えるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　習合神道神事舞太夫頭田村沢之助&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　沢之助幼年に付後見友山求馬書上左之通&lt;br /&gt;
: 一、習合神道神事舞太夫家道之儀は、往古より相立、頼朝公御治世始て支配頭相立、乍恐、御当家に至ては、御入国之砌参州より御供仕、習合神道神事舞太夫頭被仰付、京都神家之不請差図、御公儀御威光を以一派相極め被下置、支配下の神主宮持並社役之者には、頼朝公並北条家之御墨附致所持候もの、又は御府内御免勧化被仰付候者有之候、且支配下へ風折烏帽子装束之許状差出申候。尤右免許之儀者私代替家督被仰付候段、御奉行所於御内寄合に先格之通被仰渡候、且呼名国名等も差免し候事。&lt;br /&gt;
: 一、習合神道一派に三像札御許容有之候。&lt;br /&gt;
: 一、竃神青襖札、古来より年々正・五・九月御府内御免、配札名代のもの巡行為致候事。&lt;br /&gt;
: 一、御免絵馬札配札之儀者、文化十三年子年十一月中、阿部備中守様え友山求馬奉願、同十二月十八日、松平右近将監様於御内寄合に願之通被仰渡、年々正月配札名代のもの御府内致巡行候。且在々えは配下のもの致配札候事。&lt;br /&gt;
: 一、当四月（中山曰。文化十三年）二十五日吹上へ被召出候一件は、吉田殿関東執役宮川弾正より、下総国葛飾郡栗沢村茂侶神社神主友野相模え吉田家配下見廻り役申付候故、同人儀田村沢之助支配下、下総国印旛郡米本村神事舞太夫小林丹波へ呼状相付、装束へ差障候に付、其段友山求馬並本庄内記、鈴木豊後より友野相模相手取奉出訴候処、段々御吟味之上今般熟談、御吟味下げ奉願候は、友野相模儀習合神道之儀者京都神家之不請指図、御公儀御威光を以一派御極め被下置候を不相弁、呼状相付職道へ差障候は重々心得違に付、訴訟方へ相詫、且宮川弾正儀も向後手入ヶ間敷儀致間敷筈にて、規定致し候事。&lt;br /&gt;
: 一、吉田家、白川家配下神主社人どもに許状無之ものは、御奉行所、御評席且御評定所へ被召出候節は、牢人台之御取扱に候得共、私支配下老若男女共に武家に属し致故、御評定所にては上訴訟へ被召出、御評席にては上椽通之御取扱に御座候事（中山曰。以下、浅草三社権現祭礼、天下乞の神楽、観音市、稲荷社の四項を省略す）。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由緒&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家道之儀は、習合神道にて往古より武家に属、乍恐御公儀様御威光を以、神事舞太夫職は一派御極被下置、職札、法例、烏帽子装束之許状御許容被成下、他之神職相構候義無之、一派之職道相立来候、且又私支配之儀は関八ヶ国並信州甲州、会津表迄散在仕、配下之輩には神主に宮持、社役人之品有之、各社例を以神事祭礼相勧来は、宮々は御朱印地之配当を請、又は御料、私領之内御除地所持仕候者共数多有之、其外総支配下神事舞太夫の義は、宮持社役人未流にて、総応の且中相分習合神道を以家職勧来候。&lt;br /&gt;
: 一、関東に支配頭相勤罷在候起りは、頼朝公御治世鶴若孫藤治と申者、頭役相勤申候御墨附頂戴仕、其子孫今に相州平塚宿に罷在、御除地所持仕、鶴岡八幡宮の社役相勤罷在候、将亦小田原北条家時分天十郎と申もの、関東八ヶ国の頭役相勤御墨附頂戴仕（中山曰。此の事は「新編相模風土記稿」にも載せてある）其子孫今以相州小田原に御除地所持仕罷在候、右両人の子孫私支配下の神職にて、今以相続仕罷在候、此砌より武家に属、一派之神職相立来候。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由来&lt;br /&gt;
: 一、私支配下之儀は諸国散在仕神主、社役人之品有之、代々社例を以神事祭礼神楽相勤、御除地之宮社所持仕罷在候、且亦社役人之内には天台真言或は社家本山修験之宮社にて、従古来由緒筋目を以御朱印配当、又は御除地所持仕候もの共数多御座候（中山曰。以下、水戸東照宮、水戸砂金山、浅草三社権現、千葉妙見社、武蔵六所明神、相州高麗大権現の六祭礼の神事舞太夫の記事を省略す）。&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫帯刀之儀は、宮持社役人平配下之者一統従古来致来申候。去る明和三年戌二月二十四日、土岐美濃守様帯刀之儀御尋御座候に付、古来より支配一統仕来候段、親父八太夫時代書付差上申候。且又席之儀は支配下之者一同願、訴訟御座候節は先々御下通へ罷出申候。此段相違無御座候以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の書上は、同じような事を幾度となく繰返して記しているが、結局は種の無い手品を遣う様なもので、取りとめたものは、一つも無いと云えるのである。元々、舞太夫の由緒に過ぎぬ問題を兎や角と詮議立てするのも大人気ない話ではあるが、「家道は往古遠久」の一点張りで逃げ道を開け、頼朝の墨附があるなどと云うかと思えば、それは田村家ではなくして鶴若家だとは、かなり人を喰った言い分と云わなければならぬ。併し、そんな事は巫女史の上からは、どうでも宜い問題であるから、深く洗い立てせぬとするが、此の書上に附いて見るも、田村氏が市子の取締をしたということは、一言半句も説明していぬ。これは如何なる事情であろうか、私としては此の詮議こそ出来るだけ充分に尽さなければならぬ問題である。以下これに就いての管見を述べるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　田村家の巫女取締とその呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫が関八州の梓&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の取締となったのは、果して何年頃に如何なる理由に基くのか、少しも判然して居らぬ。前掲の書上にも、神事舞太夫の事は管々しいと思うほど書き列ねてあるが、市子に関しては、遂に一言半句も触れていない。若し、各地の舞太夫の妻女は概して市子であったから、夫の舞太夫を取締るという事は、直ちに妻の巫女を取締ることを意味しているのであると云えば、此の問題も容易に解決する訳ではあるが、それでは舞太夫以外の修験者の妻女である市子や、更に人妻で無い市子（此の数は決して少くなく、恐らく、修験者関係の市子と独身者の巫女の合計は、舞太夫関係の実数よりは、迥かに多かったと思われる）を如何にしたかと云う問題が残されるのである。併し、此の事の真相は、寡見に入っただけの資料では、遂に判然せぬ問題ではあるけれども、兎に角に、田村氏が江戸期の中葉から関八州の市子の取緒をして来たことだけは、否定されぬ事実である。前に引用した「聞伝叢書」巻四に左の如き文書が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫並梓巫女之事&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　神事舞太夫次第書&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家法之儀は、往古遠久之職道にて国々散在致し、何れも習合之神道之則法を以、且中之諸祈祷相勤来申候、然に社法之儀者天台真言社家、並本山修験等之宮々に順往古より社礼を相勤申候、依之其社々之衣之装束風折烏帽子着用致し相勤申候、且又梓巫女権与之儀者、往古遠久呪歌之伝授にて、梓神子一家之法式にて他家に不伝、習合神道之行法を以諸祈祷等相勤申候、有増如斯御座候事、諸国配下の者共の儀は、乍恐常陸国水戸東照宮様御神事を奉初、同国金砂大権現大祭礼七十三年一度宛の御神事、正徳五年三月朔日に執行仕候まで十三度に及申候、依之国々に於て社礼之儀、天下泰平御武運御長久御祭礼相勤来申候事。&lt;br /&gt;
: 一、元禄十五年閏八月二十七日西宮神職と争論之節、阿部飛騨守様、永井伊賀守様、本多弾正少弼様御裁許之上にて猶以相極申候、各社役之儀、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;委&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は正徳元年卯正月十八日本多弾正少弼様、森川出羽守様、安藤右京進様御裁許の上にて、梓神子法例文章御吟味之上御極被下置候事。&lt;br /&gt;
: 右は今般家法之儀御尋に付、支配頭田村八太夫之儀御座候得者、難尽筆紙之儀は、猶又御尋も御座候はば、乍恐以口上逐一言上可申上候、以上&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　江戸浅草三社権現神主&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　田村八太夫支配国役人&lt;br /&gt;
: 宝暦六年子三月　　　　　　　　　　　　信州北条郡長窪新町　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　梓神子法例&lt;br /&gt;
: 諸国之散在神子如伝来相勤、諸神勧請&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;次&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;家法之梓致執行、勿論神差帰上之法式、並荒神鎮座之祓及び幣帛等、以習合神道而壇中之諸祈祷可相勤之者也、若於国々粉敷梓神子於致徘徊者、以此判而相改、堅可停止事。&lt;br /&gt;
: 右書附之趣厳密可相守之矣、若以新法他職而乱家法者於有之者、急度可為越度者也&lt;br /&gt;
: 正徳巳亥暦正月十八日　　　　　　　　　　　　　神事舞太夫　田村八太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　飯嶋　兵庫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　国役人　丸山　式部（印）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
之に由れば、田村家が正徳年中には、既に巫女の取締をやっていた事は明白であるし、更に「高崎誌」巻下に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 下横町に神事舞太夫という者三四人あり（中略）、彼等が妻は多く梓巫なり（中略）、彼等は江戸浅草神事舞太夫田村八太夫と云う者より、職法書を受て三社権現を祭る由云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記してある。猶お少々煩雑に過ぎるようではあるが、前掲の信州長窪町の神事舞太夫である飯嶋与太夫が、妻、妹、娵の三梓巫女のために差出した関所通行の文書があるので、参考までに抄録した。これに由ると、舞太夫の家庭に在る女性は、悉く巫女を営んだようにも思われ、且つその名称などに就いても、多少の資料となると信じたので、鶏助の譏りを知りつつ、敢て此の挙に出た次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　上野国甘楽郡磯沢村御関所梓神子人別帳&lt;br /&gt;
: 信州小県郡長久保宿　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　妻梓神子　注連翁&lt;br /&gt;
: 　　　妹梓神子　宮　高&lt;br /&gt;
: 　　　娵梓神子　朝　日&lt;br /&gt;
: 右之通人別帳差上候処、少も相違無御座候、如例年御関所御通被遊可被下候、右神子之内紛敷者壱人も無御座候、若粉敷ものと申もの有之候はば、私共何方迄も罷出急度申訳可仕候、為後日仍如件&lt;br /&gt;
: 　　年号月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　梓神子組頭　飯嶋与太夫&lt;br /&gt;
: 右は長久保宿神事舞太夫蛭子方梓神子有之、宗門帳も別帳に差出候、然る所諸国散在梓神子共、御関所御手判なしに通候抔と所々にて申候由に付、右宿名主前右衛門を無急度内糺し候処、右之通前右衛門を以書付坂本役所へ差出候也（前掲の「聞伝叢書」巻四に拠る）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯うした資料がある上に、「甲子夜話」巻七十七にも、「田村氏関東の梓巫女を支配す」と裏書をしているし、且つ代々の八太夫の妻や、娘が、市子を業としていた事から考えても疑いはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは田村家に伝わった呪術の方法は、如何なるものであったかと云うに、先ず&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;詠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;み歌（この歌詞は教えると飯の種がなくなるとて常子さんも教えてくれなかった）三十六首を基調とし、神占を依頼する人が神前へ入るまでに一首、入って坐った時に一首と云った風に声低く唱え（ここでは単なる和歌ではなくして呪文としてであることは言うまでもない）て往って、呪術を行う市子の膝の前には六張の弓（これを六首六張と云うている）を並べ、菅の葉でこれを掻き鳴らしながら残りの歌を詠むのを、神懸りの作法としていた。そして六張の弓とは、梓の弓、雌竹、雄竹の弓、桑の弓、南天の弓などで、弦は女の髪の毛を麻にまぜて撚り合せたものである。此の弓の故事は、神功皇后が征韓の折に神占をなされたが、弓が無かったので、手頃の木を切って弓となし、弦には畏くも御自身の髪の毛を用いたものだと伝えている（以上「都新聞」記事摘要）。併し、私に言わせると、是等の呪法は、別段に八太夫独特のものではなく、九州の巫女が、十三仏や西国三十三番の詠歌を唱えて（此の事は後段に詳述する）神懸りするのと、全く同じものである上に、更に弓の故事などに至っては、無理勿体をつけて、俗人を嚇すほどの&amp;lt;u&amp;gt;さかしら&amp;lt;/u&amp;gt;にしか過ぎぬ。神后の征韓といえば、戦いに赴かれる陣中であるのに、武器である弓が無いとは辻褄の合わぬ話である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の血筋を伝えている唯一人の田村常子さんは、本年三十五歳の女盛りのお方であるが、呪術は実母の故菊子刀自（相模国愛甲郡生れ）から学び、更に菊子刀自は、祖父（十二代目の八太夫）に教えられたもので、常子さんは十九歳の娘の時から是れに従事したそうである。私が第一回に訪ねた際には、家に伝えた呪術用の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;外法箱&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゲホウバコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（高さ一尺ほど横八寸ほど幅五寸ほど、外は黒漆塗り内は朱塗り、印籠蓋になっていて、蓋をとると中に深さ一寸位の&amp;lt;u&amp;gt;かけ&amp;lt;/u&amp;gt;盒があって、常には玉珠数を入れて置いたという）や、玉珠数（これに就いては後に述べる）その他の秘伝書まで見せてくれ、種々親切に話してくれたが、その折に外法箱に関して語られるには、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: この箱はずっと以前には用いたそうですが、母の代からは遣わぬことになっていました。外の梓巫女は、此の箱の中へ犬の頭だとか、又は木偶だとかを入れると聞きましたが、私の家では是等の物は一切用いず、ただ十八柱の神の名（この神名を尋ねたが、常子さんには明確に答えられず、多分、天神七代に地神五代を併せ、その他に六柱を加えたものでしょうとの事であったが、それでは後に載せる常子さんの亡父八太夫の話とは少しく異る点がある）を紙に書いて入れたに過ぎません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と殆んど弁明的の態度で語られたが、紙に記した神名を納めるには、如何にも箱が深かすぎるので、或は古くは他流の市子と同じく、何か異物を納めたのではあるまいか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お「都新聞」の記事によると、八太夫も後になると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 古風の通り遣っていたのでは、頼む方が笑って相手にせぬので、切り離した珠数（常子さんの話に、此の珠数の珠は我国の数を象って六十六とし、外に親玉として天地を象り二つを加えてある。そして神占のときには、その珠を九々で払って往って、残った数でやるのだという。私は全く周易を真似たようなものだと考えた）一本と、錦襴の布に包んだ女神六柱と、男神六柱の神名を書いたもので、伺いを立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と語っている。そして此の珠数を用いる事を、俗に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;珠数占&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ジュズウラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と称している。又た同家に伝えた呪術に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;九気&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;キュウキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」の法とて、一気天上ノ水、二気虚空ノ火、三気造作ノ木、四気剣鉄ノ金、五気欲界ノ土、六気江河ノ水、七気国土ノ火、八気森林ノ火、九気山中ノ金というがあり、更に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し」の呪文は、神を祭るとき、仏を呼ぶとき、生霊を招ぐとき、病気を治すとき、神占のときなど、事毎に別のものがあるとて、これは教えることを好まぬようであったので、私も深く尋ねることを差控えるとした。併し強いて言えば、九気の法と称するものは、現に一部の迷信者の間に行われている九星と称するものと、さして変っているとも思われぬし、且つ数珠占も、他の市子（大正六年、東京市外亀井戸町の天満宮の裏門の所に市子がいるので、学友ネフスキー氏と携え訪ねた時にも、此の数珠占のことを聴かされた）も用いるので、神降しの呪文も又そうしたものではないかと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私に斯う考えさせたに就いて一つの旁証がある。余りに非学術的の事ではあるが、巫女が呪文と称して、此の上もなく神秘のものとする正体も、詮索して見ると、想ったよりは価値の無いものだということを説明しているので、筆序に附記するとした。それは、明治初年に、八太夫の弟子巫女で、横浜の福徳稲荷の宮守りをしていたお寅婆というのがあった。占術神の如しというので流行ッ子となり、毎日幾十人となく依頼者があるので、小金を蓄えるようになったが、同家の飯炊き婆が之を見たり聞いたりして羨しがり、別に一戸を構えて巫女の業を始めると、之も不思議と俗信を集め繁昌した。八太夫が或る日、その飯炊き婆の所へ往って見ると、一生懸命に神降しをしていたが、その唱える呪文が『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一二三四&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒフミヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;南無阿弥陀仏』を繰り返している。八太夫はその出鱈目に驚いたものの、依頼客の前でそれは間違っているとも云えぬので、客が帰ってから呪文は『一二三四五六七八九十百千万』と唱えるもので、然もこれは天鈿女命が天の岩戸開きの折に唱えた、尊いものであると教えて戻って来ると、十日ほどしてその飯炊き婆が八太夫の許へ来て、正しい呪文より、口なれた呪文の方が、よく神占が当るとて、又元の一二三四南無阿弥陀仏を用いたということである（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
呪文の正体（これは後段に幾つかの変ったものを挙げるが、これを押しくるめて）は、蓋しその悉くが、斯かる他愛もないものである。私の郷里である南下野地方で行われた寄り祈祷などでも、御幣を持った仲座に神をつける時に用いた呪文は『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;月山羽山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツキヤマハヤマ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、羽黒の大権現、並びに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;稲荷&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウカ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の大明神』というのを、大勢して、然も高声に、妙な節をつけて、やや急速に唱えるだけであった。私はその時分から、これは大勢が寄ってたかって、異口同音に大声を出して&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;怒鳴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;どな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りさえすれば、仲座は催眠状態に入るのだなと考えていた。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|後]]に言うが、越後と羽後の国境の三面村に行われた神降しの呪文などは、実に簡単でもあり、且つ意味をなさぬようなものであるのは、私の考えが必ずしも無稽でないことを裏附けていると信じたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　巫女の修行法と田村家の収入&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の記事の一節に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;u&amp;gt;いち&amp;lt;/u&amp;gt;子は七つから十五歳まで、諸方の神社へ八丁&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;舞籠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マイコモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神楽巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カグラミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に差出し（中山曰。これは、神楽&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;と、口寄&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;とを混同したように思われるが、今は原文に従うこととする）、十五歳になると身体が汚れるので、早速結婚させ、古くから此の掟を守って来た。市子の修業は、宰領（中山曰。前掲の飯嶋与太夫の文書に「国役人」とあるのと同意であろう）とて、市子二十人位に一人づつ取締を置き、地方では宰領の許に収容して、これが一切の教えをしたものである。若い市子連を、国々へ出張修行させたのは、これは国々の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;訛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りを覚えさせるためで、訛りを知らぬと、口寄せの文句が、誠らしく聞えぬからである云々（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。而して常子さんが、私に示してくれた書類によると、此の修行は、九気、玉占（珠数占の事）、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（死霊を祀る事）、八方責、神占等の二十六種に分れていたが、果して之だけ教えたものか否か、実際は判然しなかった。而して、常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 自分は修行の方法として、方々の神社仏閣へ毎日のように参詣に遣られたものです。催眠状態に入るには相当の修練を要しますが、馴れて来ると、直ぐに此の状態になることが出来ます。巫女と神様との関係は、親子夫婦よりは親密なもので、覚醒しているときでも、更に常住坐臥ともに、絶えず神様がついているように気持が致します。本来なれば、巫女は亭主は持てぬこと（中山曰。常子さんは岡田光太郎という良人を有し、三人の子供を儲けている上に、私が第二回目に訪ねたときには臨月に近い大きなお腹をしていた）になっていました。そして身体の不浄なときには、神様に近寄らぬようにしますが、永年この神懸りをしていますと、女子でありながら段々男子のようになって（即ち性格変換である）来ます云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とのことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 亡父の話に、徳川時代には、関八州の市子達が、免許状を貰いに来るので、殆んど毎日のように、その人物や修行を試験するので、多忙を極めたそうです。そして是等の市子から、何程の役料を収めたものか知りませんが、明治になってからは、壱年一円二十銭づつであったと記憶しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
との事であった。併しながら、江戸期における田村家の収入は莫大なもので、免許状の授与料や、年々の役料も相当の金額に達したであろうし、更に此の外に、表芸の神事舞太夫関係の収入や、青襖像の御影の収入もあり、かなり豪奢な生活であったらしい。殊に十一代目の八太夫は中々の遣り手で、妾なども蓄えていたが、重要なる書類や、什具などは、悉く妾に持ち去られたとのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;五　明治石院と田村家の退転&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治元年十一月四日に、田村八太夫は東京府へ召出され、『是迄の通り頭役仰付』との辞令を受け、漸く安堵の胸を撫で下したのも束の間で、翌明治二年七月に、左記の如き——八太夫としては殆んど致命的の布達に接し、古来の特権は悉く奪わるることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 神事舞太夫職ノ儀に付、先般配下職業勤方、以箇条書雛形相伺候件々（中山曰。此の伺書は田村家に残っていぬ）ハ、不正ノ節ニ付一切禁止申付候事&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫頭之名目差止、向後舞夫頭ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、神社祭礼之節、神楽相勤候儀、是迄之通不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、舞夫支配ノ儀ハ是迄之通、東京ヘ居住之輩而己配下ト可相心得事&lt;br /&gt;
: 一、大国主命之像配り候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、幣帛ヲ以テ竃土公ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、月待日待祈念之時、幣帛ヲ以執行、符字差出候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、梓神子之名目差止、向後梓女ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、玉占之儀不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、青襖札ヲ以竃之向ヘ張、竃ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、絵馬札配リ候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 右之条堅可相守、配下之輩モ禁止ノ廉無洩相触、急度為相守可申候、此段相達候事（中山曰。句読点は私の加えたものである）&lt;br /&gt;
: 巳七月　　　　　　　　　　　東京府&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　社寺局印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この布達に由れば、八太夫は、従来の特権の大部分を失い、僅に、（一）東京に居住する舞太夫だけを配下とすること、（二）神楽舞を勤めること、（三）梓女を支配することだけに局限されてしまったのである。田村家の打撃は言うまでもないが、「巫学談弊」を著して、所謂鈴振り神道なるものを極端にまで嫌厭した、平田篤胤翁の学風が海内を吹巻り、併もその学風が、当時の神祇官の方針となっていた明治維新の変革としては、蓋し止む得ぬ結果と見なければならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに明治初年の混雑は、神道や仏教方面にも多大の影響を来たし、万事を改革するに急なる余り、かなり非常識の事も行われ、神仏分離を励行しながら、神仏習合の神社を拵えるやら、祭神の入れ変えをするやら、社地の誤認をするやら、今から思うと少からぬ手落ちもあった様である。殊に民間信仰の対象となっていた富士講は扶桑教となり、御嶽講は神習教となり、就中、富士講は一先達であった宍野半という人物が、一躍して扶桑教の管長となり、然も道教の管長は宍野家代々の世襲たるべしという両本願寺を真似て、管長を独占してしまった。而して是等の現状を見せつけられた八太夫は、巫女を中心として一種の教会を建設し、これを支配下に置こうと企て、幸い東京府の布達にも梓女を認め、玉占を許しているので、ここに「神道梓女教」なるものを造り、従来の如く、諸方の巫女を集めて呪法を教え、左の如き免許状を出して収入を計り、独立を期したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 九気、玉占、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、八方責、招魂式、神占、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;佐々&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ササ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;祓祈祷法&lt;br /&gt;
: 右八ヶ課ヲ修行セシ事ヲ正ニ証ス&lt;br /&gt;
: 明治　年月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　神道梓女教　田村八太夫　印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の田村氏の運動が、どの位までに成功したか、それは今からは明確に知ることは出来ぬが、私の推測するところでは、余り成功を見ずに終ったようである。現に八太夫の女婿岡田光太郎氏（常子さんの良人）の談に徴するも、岡田氏が八太夫の供となり、江戸時代から田村氏の配下である東京市内及び近郊の市子の許を歴訪した事があったが、今人この道を棄てて泥土の如き譬えに漏れず、心から八太夫を以前の取締または触頭として迎えてくれた者は極めて少数であって、他の多くの市子は冷淡を越えて、寧ろ厄介者扱いにするという態度であったという点からも、こう推測して大過はないようである。而して斯くてある間に、明治六年教部省令を以て、一切の市子の呪術が禁止されることとなり、これに加うるに、文化の向上は市子を信ぜぬようになったので、八太夫の計画も全く壊滅に帰し、田村家最後の八太夫であった甲子太郎氏も、陋巷に老いを嘆ずるようになり、遂に補助ボーイとまで零落して、頽齢に負いきれぬ生活苦と闘いつつあったが、あの大地震のあった大正十二年十一月七日に六十一歳を以て永眠し、ここに江戸以来の或種の名家であった田村家も、男系尽きて断絶することになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記述後「祠曹雑識」巻三十六を見ると、寛政七年四月に田村家から寺社奉行に差出した書上があって、その一節に宝永四年十二月に幸松勘右衛門（元の神事舞太夫頭）が不埒のため頭役を召放されたので、翌宝永五年に八太夫が頭役を相続したとあるから、家乗の信用されぬことが明白となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1324</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第一章/第二節</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1324"/>
		<updated>2010-04-30T15:24:46Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第一章|第一章　巫道を退化させた当代の世相]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　関東の市子頭田村家の消長==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸期のうち約二百年の長きを通じて、関東八ヶ国と、甲信二ヶ国、及び奥州の一部へかけての市子は、江戸浅草田原町一丁目に住した田村八太夫（代々此の名を通称としたが、家の伝えによると、関八州の支配をしたので八太夫と称したとある）なる者が、代々市子頭として、一切の取締りをして、明治期に至ったのである。従って、田村家の詳細を知ることは、一面江戸期における神子の生活に触れ、一面八太夫配下の市子の呪術の他と異るところを考えさせるものがあるので、茲に私が親しく田村氏の遺族を訪ねて、見聞せるものと、諸書に散見せる記事とを参酌して、出来るだけ委曲を尽したいと思っている。江戸期における或る種の意味の名家であった田村氏も、明治期の大勢に打ち敗られて退転し、遺族も僅に女子一人を残しただけで、他は悉く死に断えてしまったので、今にその事跡を伝えなければ、遂に煙滅に帰してしまうと考えたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　田村家の由来と舞太夫&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田村家の家系は、何でも彼でも無理勿体をつけたがる江戸期の影響を受けていて、かなり粉飾されていると同時に誇張の限りを尽したものである。明治二年に東京府へ書上げたと称する書類の手控に由ると、同家は本国は参河、佐々木源氏の支流で、一時兵乱を避けて、相模国田村郷に住んだので、田村を姓とすることになったが、初代田村直親が、天正十八年小田原征伐のとき、徳川氏に仕えて戦功があったので、釆地二百石を賜り、後に慶長五年関ヶ原の戦役に、又々殊勲あって、三百石を加増され、代々旗下の士として、江戸幕府に仕えて来た。然るに、四代田村道則のときに至り、正徳三年正月、関八州及び甲信奥の十一ヶ国の、神事舞太夫の支配を願い出たところ、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 権現様（中山曰。家康）御由緒を以て、職号を習合神道関東一派武官神職と相唱改、国々職掌之者法例取極渡度旨、安藤右京亮殿を以て御許容（中略）、是迄頂戴の高差上、惣支配下より役料と唱壱人別鐚六百孔宛取立度旨相願候処、同十二月中御聞済（中略）、代々各例を以支配一手に御任被遊、御用書物役所と唱、京都に差図を不受、進退共仕候事云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と先ずその由来を記し、更に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 天文年中十一ヶ国御免勧化永代御容ノ義、松平左近将監殿奉願候処、御聞済に相成御代々様無滞被下置候事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記載してある。而して更に、同家に伝えた別紙の系譜に由ると、田村氏は饒速日命より四十三代（一々神名と人名とが書いてあるが省略する）を経て、印葉太郎物部政雄より分れ、幸松物部直親より四代を経て、前記の初代田村直親になったと記してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の家系や、由来が、到底、信用すべき限りでない事は、記事そのものが、有力に証示している。私はこれに関する管見を述べる前に、更に十三代目田村甲子太郎氏（即ち最後の田村八太夫）が、大正七年四月二十六日より同年翌月三日まで、前後七回に亘って「都新聞」に連載した記事中から、家系に関する主なる点を抄出して、両者の間に如何程の相違があり、従って同家に伝えた由緒書なるものが、如何にするも無条件では受け容れられぬことを明示したいと思う。即ち、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 大阪落城の折に、徳川家康を助けた桶屋の親爺が江戸へ下り、浅草田原町に住し幸松勘太夫と称し、関八州の巫女の取締りとなった。吉田家（陰陽師の家）、土御門、白河、幸松の四家だけで通婚して、他家とは縁組しなかった。関八州の取締となったので八太夫と通称を言うようになり、後に浅草三社権現の祠官となったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:遺族常子.gif|thumb|田村常子氏]]&lt;br /&gt;
これによれば、最後の八太夫は、流石に家系の奈何がわしいことに気附いていたと見え、饒速日命も、関ヶ原の戦功も語らなかったものと思われる。然るに、現存の田村常子（最後の八太夫の長女で、併も田村氏の血を承けし唯一人の遺族）は、家系と亡父の記事との矛盾を救うために『桶屋の親爺ではなくして、掘井戸用の桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;で家康を助けたのである』と言っているが、これは要するに、堅白同異の弁であって、家康は桶屋の親爺には勿論のこと、桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;の中に隠れて助かったことなどは、正史には曾て無いことであるから、何れにするも問題にはならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に田村家が代々五百石の食禄を領し、旗本として何不足なき身でありながら、四代目になって、突如として食禄を返還し、当時の社会感情から言えば、賤業卑職とまで思われていた神事舞太夫や市子頭——よし、それが触頭であったにせよ、取締であったにせよ、好んで人生の逆境に処したとは、如何にするも常識では考えられぬことである。これは何か他に事情が存していたか、それでなければ、家康の由緒書が全く偽造であるか、その二つのうちの一つでなければならぬ。喜多村信節翁は、何によって考えたものか、その著「嬉遊笑覧」巻六において、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 江戸神田明神は、昔より神事能としてこれ有しとぞ。北条以後暮松太夫上方より下り、江戸に住んで此の神事能をつとめしが、其者没して宝生太夫これをつとむ。暮松が子孫は大神楽打の頭となれりとなむ。思ふに田村八太夫は暮松の子孫なる歟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記している。而して私の愚案を簡単に云うと、田村氏の祖先は、三河院内の作太夫の徒であったのが、家康が江戸に幕府を開いたので、その縁故を言い立てて、神事舞太夫の取締となり、後にずるずるべったりに、巫女の取締まで兼ねるようになったのであると考えている。全体、江戸期における舞々は、帳外者の職業であって、その取締は、例の弾左衛門がして来たものである。その舞々に、少し毛が生えた位の舞太夫を、好んで勤めるほどの八太夫、饒速日命は愚かのこと、作太夫と同じ畑の者と見るのが至当のようである。殊に家系にも幸松の姓が見え、八太夫の記事にも幸松とあるのから推すと、作太夫の徒が幸松の業を学び、江戸に居ついたものと考えても、差支ないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　習合神道と舞太夫の関係&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化年中に、江戸幕府で、諸国の地誌の編纂を企て、これが資料を覓めて、一二の地誌の脱稿を見るに至ったが、その中に、文化十三年に江戸市内から書上げさせたもので「御府内備考」と云うのがある。此の巻十六浅草田原町の条に、田村家に関する詳細なる書上が載っているので、少しく長文に亘る嫌いもあるが、左に転載して、これに私見の蛇足を添えるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　習合神道神事舞太夫頭田村沢之助&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　沢之助幼年に付後見友山求馬書上左之通&lt;br /&gt;
: 一、習合神道神事舞太夫家道之儀は、往古より相立、頼朝公御治世始て支配頭相立、乍恐、御当家に至ては、御入国之砌参州より御供仕、習合神道神事舞太夫頭被仰付、京都神家之不請差図、御公儀御威光を以一派相極め被下置、支配下の神主宮持並社役之者には、頼朝公並北条家之御墨附致所持候もの、又は御府内御免勧化被仰付候者有之候、且支配下へ風折烏帽子装束之許状差出申候。尤右免許之儀者私代替家督被仰付候段、御奉行所於御内寄合に先格之通被仰渡候、且呼名国名等も差免し候事。&lt;br /&gt;
: 一、習合神道一派に三像札御許容有之候。&lt;br /&gt;
: 一、竃神青襖札、古来より年々正・五・九月御府内御免、配札名代のもの巡行為致候事。&lt;br /&gt;
: 一、御免絵馬札配札之儀者、文化十三年子年十一月中、阿部備中守様え友山求馬奉願、同十二月十八日、松平右近将監様於御内寄合に願之通被仰渡、年々正月配札名代のもの御府内致巡行候。且在々えは配下のもの致配札候事。&lt;br /&gt;
: 一、当四月（中山曰。文化十三年）二十五日吹上へ被召出候一件は、吉田殿関東執役宮川弾正より、下総国葛飾郡栗沢村茂侶神社神主友野相模え吉田家配下見廻り役申付候故、同人儀田村沢之助支配下、下総国印旛郡米本村神事舞太夫小林丹波へ呼状相付、装束へ差障候に付、其段友山求馬並本庄内記、鈴木豊後より友野相模相手取奉出訴候処、段々御吟味之上今般熟談、御吟味下げ奉願候は、友野相模儀習合神道之儀者京都神家之不請指図、御公儀御威光を以一派御極め被下置候を不相弁、呼状相付職道へ差障候は重々心得違に付、訴訟方へ相詫、且宮川弾正儀も向後手入ヶ間敷儀致間敷筈にて、規定致し候事。&lt;br /&gt;
: 一、吉田家、白川家配下神主社人どもに許状無之ものは、御奉行所、御評席且御評定所へ被召出候節は、牢人台之御取扱に候得共、私支配下老若男女共に武家に属し致故、御評定所にては上訴訟へ被召出、御評席にては上椽通之御取扱に御座候事（中山曰。以下、浅草三社権現祭礼、天下乞の神楽、観音市、稲荷社の四項を省略す）。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由緒&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家道之儀は、習合神道にて往古より武家に属、乍恐御公儀様御威光を以、神事舞太夫職は一派御極被下置、職札、法例、烏帽子装束之許状御許容被成下、他之神職相構候義無之、一派之職道相立来候、且又私支配之儀は関八ヶ国並信州甲州、会津表迄散在仕、配下之輩には神主に宮持、社役人之品有之、各社例を以神事祭礼相勧来は、宮々は御朱印地之配当を請、又は御料、私領之内御除地所持仕候者共数多有之、其外総支配下神事舞太夫の義は、宮持社役人未流にて、総応の且中相分習合神道を以家職勧来候。&lt;br /&gt;
: 一、関東に支配頭相勤罷在候起りは、頼朝公御治世鶴若孫藤治と申者、頭役相勤申候御墨附頂戴仕、其子孫今に相州平塚宿に罷在、御除地所持仕、鶴岡八幡宮の社役相勤罷在候、将亦小田原北条家時分天十郎と申もの、関東八ヶ国の頭役相勤御墨附頂戴仕（中山曰。此の事は「新編相模風土記稿」にも載せてある）其子孫今以相州小田原に御除地所持仕罷在候、右両人の子孫私支配下の神職にて、今以相続仕罷在候、此砌より武家に属、一派之神職相立来候。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由来&lt;br /&gt;
: 一、私支配下之儀は諸国散在仕神主、社役人之品有之、代々社例を以神事祭礼神楽相勤、御除地之宮社所持仕罷在候、且亦社役人之内には天台真言或は社家本山修験之宮社にて、従古来由緒筋目を以御朱印配当、又は御除地所持仕候もの共数多御座候（中山曰。以下、水戸東照宮、水戸砂金山、浅草三社権現、千葉妙見社、武蔵六所明神、相州高麗大権現の六祭礼の神事舞太夫の記事を省略す）。&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫帯刀之儀は、宮持社役人平配下之者一統従古来致来申候。去る明和三年戌二月二十四日、土岐美濃守様帯刀之儀御尋御座候に付、古来より支配一統仕来候段、親父八太夫時代書付差上申候。且又席之儀は支配下之者一同願、訴訟御座候節は先々御下通へ罷出申候。此段相違無御座候以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の書上は、同じような事を幾度となく繰返して記しているが、結局は種の無い手品を遣う様なもので、取りとめたものは、一つも無いと云えるのである。元々、舞太夫の由緒に過ぎぬ問題を兎や角と詮議立てするのも大人気ない話ではあるが、「家道は往古遠久」の一点張りで逃げ道を開け、頼朝の墨附があるなどと云うかと思えば、それは田村家ではなくして鶴若家だとは、かなり人を喰った言い分と云わなければならぬ。併し、そんな事は巫女史の上からは、どうでも宜い問題であるから、深く洗い立てせぬとするが、此の書上に附いて見るも、田村氏が市子の取締をしたということは、一言半句も説明していぬ。これは如何なる事情であろうか、私としては此の詮議こそ出来るだけ充分に尽さなければならぬ問題である。以下これに就いての管見を述べるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　田村家の巫女取締とその呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫が関八州の梓&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の取締となったのは、果して何年頃に如何なる理由に基くのか、少しも判然して居らぬ。前掲の書上にも、神事舞太夫の事は管々しいと思うほど書き列ねてあるが、市子に関しては、遂に一言半句も触れていない。若し、各地の舞太夫の妻女は概して市子であったから、夫の舞太夫を取締るという事は、直ちに妻の巫女を取締ることを意味しているのであると云えば、此の問題も容易に解決する訳ではあるが、それでは舞太夫以外の修験者の妻女である市子や、更に人妻で無い市子（此の数は決して少くなく、恐らく、修験者関係の市子と独身者の巫女の合計は、舞太夫関係の実数よりは、迥かに多かったと思われる）を如何にしたかと云う問題が残されるのである。併し、此の事の真相は、寡見に入っただけの資料では、遂に判然せぬ問題ではあるけれども、兎に角に、田村氏が江戸期の中葉から関八州の市子の取緒をして来たことだけは、否定されぬ事実である。前に引用した「聞伝叢書」巻四に左の如き文書が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫並梓巫女之事&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　神事舞太夫次第書&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家法之儀は、往古遠久之職道にて国々散在致し、何れも習合之神道之則法を以、且中之諸祈祷相勤来申候、然に社法之儀者天台真言社家、並本山修験等之宮々に順往古より社礼を相勤申候、依之其社々之衣之装束風折烏帽子着用致し相勤申候、且又梓巫女権与之儀者、往古遠久呪歌之伝授にて、梓神子一家之法式にて他家に不伝、習合神道之行法を以諸祈祷等相勤申候、有増如斯御座候事、諸国配下の者共の儀は、乍恐常陸国水戸東照宮様御神事を奉初、同国金砂大権現大祭礼七十三年一度宛の御神事、正徳五年三月朔日に執行仕候まで十三度に及申候、依之国々に於て社礼之儀、天下泰平御武運御長久御祭礼相勤来申候事。&lt;br /&gt;
: 一、元禄十五年閏八月二十七日西宮神職と争論之節、阿部飛騨守様、永井伊賀守様、本多弾正少弼様御裁許之上にて猶以相極申候、各社役之儀、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;委&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は正徳元年卯正月十八日本多弾正少弼様、森川出羽守様、安藤右京進様御裁許の上にて、梓神子法例文章御吟味之上御極被下置候事。&lt;br /&gt;
: 右は今般家法之儀御尋に付、支配頭田村八太夫之儀御座候得者、難尽筆紙之儀は、猶又御尋も御座候はば、乍恐以口上逐一言上可申上候、以上&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　江戸浅草三社権現神主&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　田村八太夫支配国役人&lt;br /&gt;
: 宝暦六年子三月　　　　　　　　　　　　信州北条郡長窪新町　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　梓神子法例&lt;br /&gt;
: 諸国之散在神子如伝来相勤、諸神勧請&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;次&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;家法之梓致執行、勿論神差帰上之法式、並荒神鎮座之祓及び幣帛等、以習合神道而壇中之諸祈祷可相勤之者也、若於国々粉敷梓神子於致徘徊者、以此判而相改、堅可停止事。&lt;br /&gt;
: 右書附之趣厳密可相守之矣、若以新法他職而乱家法者於有之者、急度可為越度者也&lt;br /&gt;
: 正徳巳亥暦正月十八日　　　　　　　　　　　　　神事舞太夫　田村八太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　飯嶋　兵庫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　国役人　丸山　式部（印）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
之に由れば、田村家が正徳年中には、既に巫女の取締をやっていた事は明白であるし、更に「高崎誌」巻下に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 下横町に神事舞太夫という者三四人あり（中略）、彼等が妻は多く梓巫なり（中略）、彼等は江戸浅草神事舞太夫田村八太夫と云う者より、職法書を受て三社権現を祭る由云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記してある。猶お少々煩雑に過ぎるようではあるが、前掲の信州長窪町の神事舞太夫である飯嶋与太夫が、妻、妹、娵の三梓巫女のために差出した関所通行の文書があるので、参考までに抄録した。これに由ると、舞太夫の家庭に在る女性は、悉く巫女を営んだようにも思われ、且つその名称などに就いても、多少の資料となると信じたので、鶏助の譏りを知りつつ、敢て此の挙に出た次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　上野国甘楽郡磯沢村御関所梓神子人別帳&lt;br /&gt;
: 信州小県郡長久保宿　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　妻梓神子　注連翁&lt;br /&gt;
: 　　　妹梓神子　宮　高&lt;br /&gt;
: 　　　娵梓神子　朝　日&lt;br /&gt;
: 右之通人別帳差上候処、少も相違無御座候、如例年御関所御通被遊可被下候、右神子之内紛敷者壱人も無御座候、若粉敷ものと申もの有之候はば、私共何方迄も罷出急度申訳可仕候、為後日仍如件&lt;br /&gt;
: 　　年号月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　梓神子組頭　飯嶋与太夫&lt;br /&gt;
: 右は長久保宿神事舞太夫蛭子方梓神子有之、宗門帳も別帳に差出候、然る所諸国散在梓神子共、御関所御手判なしに通候抔と所々にて申候由に付、右宿名主前右衛門を無急度内糺し候処、右之通前右衛門を以書付坂本役所へ差出候也（前掲の「聞伝叢書」巻四に拠る）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯うした資料がある上に、「甲子夜話」巻七十七にも、「田村氏関東の梓巫女を支配す」と裏書をしているし、且つ代々の八太夫の妻や、娘が、市子を業としていた事から考えても疑いはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは田村家に伝わった呪術の方法は、如何なるものであったかと云うに、先ず&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;詠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;み歌（この歌詞は教えると飯の種がなくなるとて常子さんも教えてくれなかった）三十六首を基調とし、神占を依頼する人が神前へ入るまでに一首、入って坐った時に一首と云った風に声低く唱え（ここでは単なる和歌ではなくして呪文としてであることは言うまでもない）て往って、呪術を行う市子の膝の前には六張の弓（これを六首六張と云うている）を並べ、菅の葉でこれを掻き鳴らしながら残りの歌を詠むのを、神懸りの作法としていた。そして六張の弓とは、梓の弓、雌竹、雄竹の弓、桑の弓、南天の弓などで、弦は女の髪の毛を麻にまぜて撚り合せたものである。此の弓の故事は、神功皇后が征韓の折に神占をなされたが、弓が無かったので、手頃の木を切って弓となし、弦には畏くも御自身の髪の毛を用いたものだと伝えている（以上「都新聞」記事摘要）。併し、私に言わせると、是等の呪法は、別段に八太夫独特のものではなく、九州の巫女が、十三仏や西国三十三番の詠歌を唱えて（此の事は後段に詳述する）神懸りするのと、全く同じものである上に、更に弓の故事などに至っては、無理勿体をつけて、俗人を嚇すほどの&amp;lt;u&amp;gt;さかしら&amp;lt;/u&amp;gt;にしか過ぎぬ。神后の征韓といえば、戦いに赴かれる陣中であるのに、武器である弓が無いとは辻褄の合わぬ話である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の血筋を伝えている唯一人の田村常子さんは、本年三十五歳の女盛りのお方であるが、呪術は実母の故菊子刀自（相模国愛甲郡生れ）から学び、更に菊子刀自は、祖父（十二代目の八太夫）に教えられたもので、常子さんは十九歳の娘の時から是れに従事したそうである。私が第一回に訪ねた際には、家に伝えた呪術用の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;外法箱&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゲホウバコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（高さ一尺ほど横八寸ほど幅五寸ほど、外は黒漆塗り内は朱塗り、印籠蓋になっていて、蓋をとると中に深さ一寸位の&amp;lt;u&amp;gt;かけ&amp;lt;/u&amp;gt;盒があって、常には玉珠数を入れて置いたという）や、玉珠数（これに就いては後に述べる）その他の秘伝書まで見せてくれ、種々親切に話してくれたが、その折に外法箱に関して語られるには、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: この箱はずっと以前には用いたそうですが、母の代からは遣わぬことになっていました。外の梓巫女は、此の箱の中へ犬の頭だとか、又は木偶だとかを入れると聞きましたが、私の家では是等の物は一切用いず、ただ十八柱の神の名（この神名を尋ねたが、常子さんには明確に答えられず、多分、天神七代に地神五代を併せ、その他に六柱を加えたものでしょうとの事であったが、それでは後に載せる常子さんの亡父八太夫の話とは少しく異る点がある）を紙に書いて入れたに過ぎません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と殆んど弁明的の態度で語られたが、紙に記した神名を納めるには、如何にも箱が深かすぎるので、或は古くは他流の市子と同じく、何か異物を納めたのではあるまいか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お「都新聞」の記事によると、八太夫も後になると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 古風の通り遣っていたのでは、頼む方が笑って相手にせぬので、切り離した珠数（常子さんの話に、此の珠数の珠は我国の数を象って六十六とし、外に親玉として天地を象り二つを加えてある。そして神占のときには、その珠を九々で払って往って、残った数でやるのだという。私は全く周易を真似たようなものだと考えた）一本と、錦襴の布に包んだ女神六柱と、男神六柱の神名を書いたもので、伺いを立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と語っている。そして此の珠数を用いる事を、俗に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;珠数占&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ジュズウラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と称している。又た同家に伝えた呪術に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;九気&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;キュウキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」の法とて、一気天上ノ水、二気虚空ノ火、三気造作ノ木、四気剣鉄ノ金、五気欲界ノ土、六気江河ノ水、七気国土ノ火、八気森林ノ火、九気山中ノ金というがあり、更に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し」の呪文は、神を祭るとき、仏を呼ぶとき、生霊を招ぐとき、病気を治すとき、神占のときなど、事毎に別のものがあるとて、これは教えることを好まぬようであったので、私も深く尋ねることを差控えるとした。併し強いて言えば、九気の法と称するものは、現に一部の迷信者の間に行われている九星と称するものと、さして変っているとも思われぬし、且つ数珠占も、他の市子（大正六年、東京市外亀井戸町の天満宮の裏門の所に市子がいるので、学友ネフスキー氏と携え訪ねた時にも、此の数珠占のことを聴かされた）も用いるので、神降しの呪文も又そうしたものではないかと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私に斯う考えさせたに就いて一つの旁証がある。余りに非学術的の事ではあるが、巫女が呪文と称して、此の上もなく神秘のものとする正体も、詮索して見ると、想ったよりは価値の無いものだということを説明しているので、筆序に附記するとした。それは、明治初年に、八太夫の弟子巫女で、横浜の福徳稲荷の宮守りをしていたお寅婆というのがあった。占術神の如しというので流行ッ子となり、毎日幾十人となく依頼者があるので、小金を蓄えるようになったが、同家の飯炊き婆が之を見たり聞いたりして羨しがり、別に一戸を構えて巫女の業を始めると、之も不思議と俗信を集め繁昌した。八太夫が或る日、その飯炊き婆の所へ往って見ると、一生懸命に神降しをしていたが、その唱える呪文が『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一二三四&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒフミヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;南無阿弥陀仏』を繰り返している。八太夫はその出鱈目に驚いたものの、依頼客の前でそれは間違っているとも云えぬので、客が帰ってから呪文は『一二三四五六七八九十百千万』と唱えるもので、然もこれは天鈿女命が天の岩戸開きの折に唱えた、尊いものであると教えて戻って来ると、十日ほどしてその飯炊き婆が八太夫の許へ来て、正しい呪文より、口なれた呪文の方が、よく神占が当るとて、又元の一二三四南無阿弥陀仏を用いたということである（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
呪文の正体（これは後段に幾つかの変ったものを挙げるが、これを押しくるめて）は、蓋しその悉くが、斯かる他愛もないものである。私の郷里である南下野地方で行われた寄り祈祷などでも、御幣を持った仲座に神をつける時に用いた呪文は『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;月山羽山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツキヤマハヤマ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、羽黒の大権現、並びに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;稲荷&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウカ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の大明神』というのを、大勢して、然も高声に、妙な節をつけて、やや急速に唱えるだけであった。私はその時分から、これは大勢が寄ってたかって、異口同音に大声を出して&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;怒鳴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;どな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りさえすれば、仲座は催眠状態に入るのだなと考えていた。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|後]]に言うが、越後と羽後の国境の三面村に行われた神降しの呪文などは、実に簡単でもあり、且つ意味をなさぬようなものであるのは、私の考えが必ずしも無稽でないことを裏附けていると信じたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　巫女の修行法と田村家の収入&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の記事の一節に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;u&amp;gt;いち&amp;lt;/u&amp;gt;子は七つから十五歳まで、諸方の神社へ八丁&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;舞籠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マイコモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神楽巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カグラミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に差出し（中山曰。これは、神楽&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;と、口寄&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;とを混同したように思われるが、今は原文に従うこととする）、十五歳になると身体が汚れるので、早速結婚させ、古くから此の掟を守って来た。市子の修業は、宰領（中山曰。前掲の飯嶋与太夫の文書に「国役人」とあるのと同意であろう）とて、市子二十人位に一人づつ取締を置き、地方では宰領の許に収容して、これが一切の教えをしたものである。若い市子連を、国々へ出張修行させたのは、これは国々の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;訛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りを覚えさせるためで、訛りを知らぬと、口寄せの文句が、誠らしく聞えぬからである云々（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。而して常子さんが、私に示してくれた書類によると、此の修行は、九気、玉占（珠数占の事）、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（死霊を祀る事）、八方責、神占等の二十六種に分れていたが、果して之だけ教えたものか否か、実際は判然しなかった。而して、常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 自分は修行の方法として、方々の神社仏閣へ毎日のように参詣に遣られたものです。催眠状態に入るには相当の修練を要しますが、馴れて来ると、直ぐに此の状態になることが出来ます。巫女と神様との関係は、親子夫婦よりは親密なもので、覚醒しているときでも、更に常住坐臥ともに、絶えず神様がついているように気持が致します。本来なれば、巫女は亭主は持てぬこと（中山曰。常子さんは岡田光太郎という良人を有し、三人の子供を儲けている上に、私が第二回目に訪ねたときには臨月に近い大きなお腹をしていた）になっていました。そして身体の不浄なときには、神様に近寄らぬようにしますが、永年この神懸りをしていますと、女子でありながら段々男子のようになって（即ち性格変換である）来ます云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とのことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 亡父の話に、徳川時代には、関八州の市子達が、免許状を貰いに来るので、殆んど毎日のように、その人物や修行を試験するので、多忙を極めたそうです。そして是等の市子から、何程の役料を収めたものか知りませんが、明治になってからは、壱年一円二十銭づつであったと記憶しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
との事であった。併しながら、江戸期における田村家の収入は莫大なもので、免許状の授与料や、年々の役料も相当の金額に達したであろうし、更に此の外に、表芸の神事舞太夫関係の収入や、青襖像の御影の収入もあり、かなり豪奢な生活であったらしい。殊に十一代目の八太夫は中々の遣り手で、妾なども蓄えていたが、重要なる書類や、什具などは、悉く妾に持ち去られたとのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;五　明治石院と田村家の退転&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治元年十一月四日に、田村八太夫は東京府へ召出され、『是迄の通り頭役仰付』との辞令を受け、漸く安堵の胸を撫で下したのも束の間で、翌明治二年七月に、左記の如き——八太夫としては殆んど致命的の布達に接し、古来の特権は悉く奪わるることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 神事舞太夫職ノ儀に付、先般配下職業勤方、以箇条書雛形相伺候件々（中山曰。此の伺書は田村家に残っていぬ）ハ、不正ノ節ニ付一切禁止申付候事&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫頭之名目差止、向後舞夫頭ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、神社祭礼之節、神楽相勤候儀、是迄之通不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、舞夫支配ノ儀ハ是迄之通、東京ヘ居住之輩而己配下ト可相心得事&lt;br /&gt;
: 一、大国主命之像配り候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、幣帛ヲ以テ竃土公ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、月待日待祈念之時、幣帛ヲ以執行、符字差出候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、梓神子之名目差止、向後梓女ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、玉占之儀不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、青襖札ヲ以竃之向ヘ張、竃ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、絵馬札配リ候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 右之条堅可相守、配下之輩モ禁止ノ廉無洩相触、急度為相守可申候、此段相達候事（中山曰。句読点は私の加えたものである）&lt;br /&gt;
: 巳七月　　　　　　　　　　　東京府&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　社寺局印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この布達に由れば、八太夫は、従来の特権の大部分を失い、僅に、（一）東京に居住する舞太夫だけを配下とすること、（二）神楽舞を勤めること、（三）梓女を支配することだけに局限されてしまったのである。田村家の打撃は言うまでもないが、「巫学談弊」を著して、所謂鈴振り神道なるものを極端にまで嫌厭した、平田篤胤翁の学風が海内を吹巻り、併もその学風が、当時の神祇官の方針となっていた明治維新の変革としては、蓋し止む得ぬ結果と見なければならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに明治初年の混雑は、神道や仏教方面にも多大の影響を来たし、万事を改革するに急なる余り、かなり非常識の事も行われ、神仏分離を励行しながら、神仏習合の神社を拵えるやら、祭神の入れ変えをするやら、社地の誤認をするやら、今から思うと少からぬ手落ちもあった様である。殊に民間信仰の対象となっていた富士講は扶桑教となり、御嶽講は神習教となり、就中、富士講は一先達であった宍野半という人物が、一躍して扶桑教の管長となり、然も道教の管長は宍野家代々の世襲たるべしという両本願寺を真似て、管長を独占してしまった。而して是等の現状を見せつけられた八太夫は、巫女を中心として一種の教会を建設し、これを支配下に置こうと企て、幸い東京府の布達にも梓女を認め、玉占を許しているので、ここに「神道梓女教」なるものを造り、従来の如く、諸方の巫女を集めて呪法を教え、左の如き免許状を出して収入を計り、独立を期したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 九気、玉占、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、八方責、招魂式、神占、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;佐々&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ササ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;祓祈祷法&lt;br /&gt;
: 右八ヶ課ヲ修行セシ事ヲ正ニ証ス&lt;br /&gt;
: 明治　年月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　神道梓女教　田村八太夫　印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の田村氏の運動が、どの位までに成功したか、それは今からは明確に知ることは出来ぬが、私の推測するところでは、余り成功を見ずに終ったようである。現に八太夫の女婿岡田光太郎氏（常子さんの良人）の談に徴するも、岡田氏が八太夫の供となり、江戸時代から田村氏の配下である東京市内及び近郊の市子の許を歴訪した事があったが、今人この道を棄てて泥土の如き譬えに漏れず、心から八太夫を以前の取締または触頭として迎えてくれた者は極めて少数であって、他の多くの市子は冷淡を越えて、寧ろ厄介者扱いにするという態度であったという点からも、こう推測して大過はないようである。而して斯くてある間に、明治六年教部省令を以て、一切の市子の呪術が禁止されることとなり、これに加うるに、文化の向上は市子を信ぜぬようになったので、八太夫の計画も全く壊滅に帰し、田村家最後の八太夫であった甲子太郎氏も、陋巷に老いを嘆ずるようになり、遂に補助ボーイとまで零落して、頽齢に負いきれぬ生活苦と闘いつつあったが、あの大地震のあった大正十二年十一月七日に六十一歳を以て永眠し、ここに江戸以来の或種の名家であった田村家も、男系尽きて断絶することになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記述後「祠曹雑識」巻三十六を見ると、寛政七年四月に田村家から寺社奉行に差出した書上があって、その一節に宝永四年十二月に幸松勧右衛門（元の神事舞太夫頭）が不埒のため頭役を召放されたので、翌宝永五年に八太夫が頭役を相続したとあるから、家乗の信用されぬことが明白となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1323</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第一章/第二節</title>
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		<updated>2010-04-25T00:18:54Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第一章|第一章　巫道を退化させた当代の世相]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　関東の市子頭田村家の消長==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸期のうち約二百年の長きを通じて、関東八ヶ国と、甲信二ヶ国、及び奥州の一部へかけての市子は、江戸浅草田原町一丁目に住した田村八太夫（代々此の名を通称としたが、家の伝えによると、関八州の支配をしたので八太夫と称したとある）なる者が、代々市子頭として、一切の取締りをして、明治期に至ったのである。従って、田村家の詳細を知ることは、一面江戸期における神子の生活に触れ、一面八太夫配下の市子の呪術の他と異るところを考えさせるものがあるので、茲に私が親しく田村氏の遺族を訪ねて、見聞せるものと、諸書に散見せる記事とを参酌して、出来るだけ委曲を尽したいと思っている。江戸期における或る種の意味の名家であった田村氏も、明治期の大勢に打ち敗られて退転し、遺族も僅に女子一人を残しただけで、他は悉く死に断えてしまったので、今にその事跡を伝えなければ、遂に煙滅に帰してしまうと考えたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　田村家の由来と舞太夫&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田村家の家系は、何でも彼でも無理勿体をつけたがる江戸期の影響を受けていて、かなり粉飾されていると同時に誇張の限りを尽したものである。明治二年に東京府へ書上げたと称する書類の手控に由ると、同家は本国は参河、佐々木源氏の支流で、一時兵乱を避けて、相模国田村郷に住んだので、田村を姓とすることになったが、初代田村直親が、天正十八年小田原征伐のとき、徳川氏に仕えて戦功があったので、釆地二百石を賜り、後に慶長五年関ヶ原の戦役に、又々殊勲あって、三百石を加増され、代々旗下の士として、江戸幕府に仕えて来た。然るに、四代田村道則のときに至り、正徳三年正月、関八州及び甲信奥の十一ヶ国の、神事舞太夫の支配を願い出たところ、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 権現様（中山曰。家康）御由緒を以て、職号を習合神道関東一派武官神職と相唱改、国々職掌之者法例取極渡度旨、安藤右京亮殿を以て御許容（中略）、是迄頂戴の高差上、惣支配下より役料と唱壱人別鐚六百孔宛取立度旨相願候処、同十二月中御聞済（中略）、代々各例を以支配一手に御任被遊、御用書物役所と唱、京都に差図を不受、進退共仕候事云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と先ずその由来を記し、更に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 天文年中十一ヶ国御免勧化永代御容ノ義、松平左近将監殿奉願候処、御聞済に相成御代々様無滞被下置候事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記載してある。而して更に、同家に伝えた別紙の系譜に由ると、田村氏は饒速日命より四十三代（一々神名と人名とが書いてあるが省略する）を経て、印葉太郎物部政雄より分れ、幸松物部直親より四代を経て、前記の初代田村直親になったと記してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の家系や、由来が、到底、信用すべき限りでない事は、記事そのものが、有力に証示している。私はこれに関する管見を述べる前に、更に十三代目田村甲子太郎氏（即ち最後の田村八太夫）が、大正七年四月二十六日より同年翌月三日まで、前後七回に亘って「都新聞」に連載した記事中から、家系に関する主なる点を抄出して、両者の間に如何程の相違があり、従って同家に伝えた由緒書なるものが、如何にするも無条件では受け容れられぬことを明示したいと思う。即ち、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 大阪落城の折に、徳川家康を助けた桶屋の親爺が江戸へ下り、浅草田原町に住し幸松勘太夫と称し、関八州の巫女の取締りとなった。吉田家（陰陽師の家）、土御門、白河、幸松の四家だけで通婚して、他家とは縁組しなかった。関八州の取締となったので八太夫と通称を言うようになり、後に浅草三社権現の祠官となったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:遺族常子.gif|thumb|田村常子氏]]&lt;br /&gt;
これによれば、最後の八太夫は、流石に家系の奈何がわしいことに気附いていたと見え、饒速日命も、関ヶ原の戦功も語らなかったものと思われる。然るに、現存の田村常子（最後の八太夫の長女で、併も田村氏の血を承けし唯一人の遺族）は、家系と亡父の記事との矛盾を救うために『桶屋の親爺ではなくして、掘井戸用の桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;で家康を助けたのである』と言っているが、これは要するに、堅白同異の弁であって、家康は桶屋の親爺には勿論のこと、桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;の中に隠れて助かったことなどは、正史には曾て無いことであるから、何れにするも問題にはならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に田村家が代々五百石の食禄を領し、旗本として何不足なき身でありながら、四代目になって、突如として食禄を返還し、当時の社会感情から言えば、賤業卑職とまで思われていた神事舞太夫や市子頭——よし、それが触頭であったにせよ、取締であったにせよ、好んで人生の逆境に処したとは、如何にするも常識では考えられぬことである。これは何か他に事情が存していたか、それでなければ、家康の由緒書が全く偽造であるか、その二つのうちの一つでなければならぬ。喜多村信節翁は、何によって考えたものか、その著「嬉遊笑覧」巻六において、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 江戸神田明神は、昔より神事能としてこれ有しとぞ。北条以後暮松太夫上方より下り、江戸に住んで此の神事能をつとめしが、其者没して宝生太夫これをつとむ。暮松が子孫は大神楽打の頭となれりとなむ。思ふに田村八太夫は暮松の子孫なる歟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記している。而して私の愚案を簡単に云うと、田村氏の祖先は、三河院内の作太夫の徒であったのが、家康が江戸に幕府を開いたので、その縁故を言い立てて、神事舞太夫の取締となり、後にずるずるべったりに、巫女の取締まで兼ねるようになったのであると考えている。全体、江戸期における舞々は、帳外者の職業であって、その取締は、例の弾左衛門がして来たものである。その舞々に、少し毛が生えた位の舞太夫を、好んで勤めるほどの八太夫、饒速日命は愚かのこと、作太夫と同じ畑の者と見るのが至当のようである。殊に家系にも幸松の姓が見え、八太夫の記事にも幸松とあるのから推すと、作太夫の徒が幸松の業を学び、江戸に居ついたものと考えても、差支ないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　習合神道と舞太夫の関係&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化年中に、江戸幕府で、諸国の地誌の編纂を企て、これが資料を覓めて、一二の地誌の脱稿を見るに至ったが、その中に、文化十三年に江戸市内から書上げさせたもので「御府内備考」と云うのがある。此の巻十六浅草田原町の条に、田村家に関する詳細なる書上が載っているので、少しく長文に亘る嫌いもあるが、左に転載して、これに私見の蛇足を添えるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　習合神道神事舞太夫頭田村沢之助&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　沢之助幼年に付後見友山求馬書上左之通&lt;br /&gt;
: 一、習合神道神事舞太夫家道之儀は、往古より相立、頼朝公御治世始て支配頭相立、乍恐、御当家に至ては、御入国之砌参州より御供仕、習合神道神事舞太夫頭被仰付、京都神家之不請差図、御公儀御威光を以一派相極め被下置、支配下の神主宮持並社役之者には、頼朝公並北条家之御墨附致所持候もの、又は御府内御免勧化被仰付候者有之候、且支配下へ風折烏帽子装束之許状差出申候。尤右免許之儀者私代替家督被仰付候段、御奉行所於御内寄合に先格之通被仰渡候、且呼名国名等も差免し候事。&lt;br /&gt;
: 一、習合神道一派に三像札御許容有之候。&lt;br /&gt;
: 一、竃神青襖札、古来より年々正・五・九月御府内御免、配札名代のもの巡行為致候事。&lt;br /&gt;
: 一、御免絵馬札配札之儀者、文化十三年子年十一月中、阿部備中守様え友山求馬奉願、同十二月十八日、松平右近将監様於御内寄合に願之通被仰渡、年々正月配札名代のもの御府内致巡行候。且在々えは配下のもの致配札候事。&lt;br /&gt;
: 一、当四月（中山曰。文化十三年）二十五日吹上へ被召出候一件は、吉田殿関東執役宮川弾正より、下総国葛飾郡栗沢村茂侶神社神主友野相模え吉田家配下見廻り役申付候故、同人儀田村沢之助支配下、下総国印旛郡米本村神事舞太夫小林丹波へ呼状相付、装束へ差障候に付、其段友山求馬並本庄内記、鈴木豊後より友野相模相手取奉出訴候処、段々御吟味之上今般熟談、御吟味下げ奉願候は、友野相模儀習合神道之儀者京都神家之不請指図、御公儀御威光を以一派御極め被下置候を不相弁、呼状相付職道へ差障候は重々心得違に付、訴訟方へ相詫、且宮川弾正儀も向後手入ヶ間敷儀致間敷筈にて、規定致し候事。&lt;br /&gt;
: 一、吉田家、白川家配下神主社人どもに許状無之ものは、御奉行所、御評席且御評定所へ被召出候節は、牢人台之御取扱に候得共、私支配下老若男女共に武家に属し致故、御評定所にては上訴訟へ被召出、御評席にては上椽通之御取扱に御座候事（中山曰。以下、浅草三社権現祭礼、天下乞の神楽、観音市、稲荷社の四項を省略す）。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由緒&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家道之儀は、習合神道にて往古より武家に属、乍恐御公儀様御威光を以、神事舞太夫職は一派御極被下置、職札、法例、烏帽子装束之許状御許容被成下、他之神職相構候義無之、一派之職道相立来候、且又私支配之儀は関八ヶ国並信州甲州、会津表迄散在仕、配下之輩には神主に宮持、社役人之品有之、各社例を以神事祭礼相勧来は、宮々は御朱印地之配当を請、又は御料、私領之内御除地所持仕候者共数多有之、其外総支配下神事舞太夫の義は、宮持社役人未流にて、総応の且中相分習合神道を以家職勧来候。&lt;br /&gt;
: 一、関東に支配頭相勤罷在候起りは、頼朝公御治世鶴若孫藤治と申者、頭役相勤申候御墨附頂戴仕、其子孫今に相州平塚宿に罷在、御除地所持仕、鶴岡八幡宮の社役相勤罷在候、将亦小田原北条家時分天十郎と申もの、関東八ヶ国の頭役相勤御墨附頂戴仕（中山曰。此の事は「新編相模風土記稿」にも載せてある）其子孫今以相州小田原に御除地所持仕罷在候、右両人の子孫私支配下の神職にて、今以相続仕罷在候、此砌より武家に属、一派之神職相立来候。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由来&lt;br /&gt;
: 一、私支配下之儀は諸国散在仕神主、社役人之品有之、代々社例を以神事祭礼神楽相勤、御除地之宮社所持仕罷在候、且亦社役人之内には天台真言或は社家本山修験之宮社にて、従古来由緒筋目を以御朱印配当、又は御除地所持仕候もの共数多御座候（中山曰。以下、水戸東照宮、水戸砂金山、浅草三社権現、千葉妙見社、武蔵六所明神、相州高麗大権現の六祭礼の神事舞太夫の記事を省略す）。&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫帯刀之儀は、宮持社役人平配下之者一統従古来致来申候。去る明和三年戌二月二十四日、土岐美濃守様帯刀之儀御尋御座候に付、古来より支配一統仕来候段、親父八太夫時代書付差上申候。且又席之儀は支配下之者一同願、訴訟御座候節は先々御下通へ罷出申候。此段相違無御座候以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の書上は、同じような事を幾度となく繰返して記しているが、結局は種の無い手品を遣う様なもので、取りとめたものは、一つも無いと云えるのである。元々、舞太夫の由緒に過ぎぬ問題を兎や角と詮議立てするのも大人気ない話ではあるが、「家道は往古遠久」の一点張りで逃げ道を開け、頼朝の墨附があるなどと云うかと思えば、それは田村家ではなくして鶴若家だとは、かなり人を喰った言い分と云わなければならぬ。併し、そんな事は巫女史の上からは、どうでも宜い問題であるから、深く洗い立てせぬとするが、此の書上に附いて見るも、田村氏が市子の取締をしたということは、一言半句も説明していぬ。これは如何なる事情であろうか、私としては此の詮議こそ出来るだけ充分に尽さなければならぬ問題である。以下これに就いての管見を述べるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　田村家の巫女取締とその呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫が関八州の梓&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の取締となったのは、果して何年頃に如何なる理由に基くのか、少しも判然して居らぬ。前掲の書上にも、神事舞太夫の事は管々しいと思うほど書き列ねてあるが、市子に関しては、遂に一言半句も触れていない。若し、各地の舞太夫の妻女は概して市子であったから、夫の舞太夫を取締るという事は、直ちに妻の巫女を取締ることを意味しているのであると云えば、此の問題も容易に解決する訳ではあるが、それでは舞太夫以外の修験者の妻女である市子や、更に人妻で無い市子（此の数は決して少くなく、恐らく、修験者関係の市子と独身者の巫女の合計は、舞太夫関係の実数よりは、迥かに多かったと思われる）を如何にしたかと云う問題が残されるのである。併し、此の事の真相は、寡見に入っただけの資料では、遂に判然せぬ問題ではあるけれども、兎に角に、田村氏が江戸期の中葉から関八州の市子の取緒をして来たことだけは、否定されぬ事実である。前に引用した「聞伝叢書」巻四に左の如き文書が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫並梓巫女之事&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　神事舞太夫次第書&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家法之儀は、往古遠久之職道にて国々散在致し、何れも習合之神道之則法を以、且中之諸祈祷相勤来申候、然に社法之儀者天台真言社家、並本山修験等之宮々に順往古より社礼を相勤申候、依之其社々之衣之装束風折烏帽子着用致し相勤申候、且又梓巫女権与之儀者、往古遠久呪歌之伝授にて、梓神子一家之法式にて他家に不伝、習合神道之行法を以諸祈祷等相勤申候、有増如斯御座候事、諸国配下の者共の儀は、乍恐常陸国水戸東照宮様御神事を奉初、同国金砂大権現大祭礼七十三年一度宛の御神事、正徳五年三月朔日に執行仕候まで十三度に及申候、依之国々に於て社礼之儀、天下泰平御武運御長久御祭礼相勤来申候事。&lt;br /&gt;
: 一、元禄十五年閏八月二十七日西宮神職と争論之節、阿部飛騨守様、永井伊賀守様、本多弾正少弼様御裁許之上にて猶以相極申候、各社役之儀、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;委&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は正徳元年卯正月十八日本多弾正少弼様、森川出羽守様、安藤右京進様御裁許の上にて、梓神子法例文章御吟味之上御極被下置候事。&lt;br /&gt;
: 右は今般家法之儀御尋に付、支配頭田村八太夫之儀御座候得者、難尽筆紙之儀は、猶又御尋も御座候はば、乍恐以口上逐一言上可申上候、以上&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　江戸浅草三社権現神主&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　田村八太夫支配国役人&lt;br /&gt;
: 宝暦六年子三月　　　　　　　　　　　　信州北条郡長窪新町　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　梓神子法例&lt;br /&gt;
: 諸国之散在神子如伝来相勤、諸神勧請&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;次&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;家法之梓致執行、勿論神差帰上之法式、並荒神鎮座之祓及び幣帛等、以習合神道而壇中之諸祈祷可相勤之者也、若於国々粉敷梓神子於致徘徊者、以此判而相改、堅可停止事。&lt;br /&gt;
: 右書附之趣厳密可相守之矣、若以新法他職而乱家法者於有之者、急度可為越度者也&lt;br /&gt;
: 正徳巳亥暦正月十八日　　　　　　　　　　　　　神事舞太夫　田村八太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　飯嶋　兵庫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　国役人　丸山　式部（印）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
之に由れば、田村家が正徳年中には、既に巫女の取締をやっていた事は明白であるし、更に「高崎誌」巻下に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 下横町に神事舞太夫という者三四人あり（中略）、彼等が妻は多く梓巫なり（中略）、彼等は江戸浅草神事舞太夫田村八太夫と云う者より、職法書を受て三社権現を祭る由云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記してある。猶お少々煩雑に過ぎるようではあるが、前掲の信州長窪町の神事舞太夫である飯嶋与太夫が、妻、妹、娵の三梓巫女のために差出した関所通行の文書があるので、参考までに抄録した。これに由ると、舞太夫の家庭に在る女性は、悉く巫女を営んだようにも思われ、且つその名称などに就いても、多少の資料となると信じたので、鶏助の譏りを知りつつ、敢て此の挙に出た次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　上野国甘楽郡磯沢村御関所梓神子人別帳&lt;br /&gt;
: 信州小県郡長久保宿　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　妻梓神子　注連翁&lt;br /&gt;
: 　　　妹梓神子　宮　高&lt;br /&gt;
: 　　　娵梓神子　朝　日&lt;br /&gt;
: 右之通人別帳差上候処、少も相違無御座候、如例年御関所御通被遊可被下候、右神子之内紛敷者壱人も無御座候、若粉敷ものと申もの有之候はば、私共何方迄も罷出急度申訳可仕候、為後日仍如件&lt;br /&gt;
: 　　年号月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　梓神子組頭　飯嶋与太夫&lt;br /&gt;
: 右は長久保宿神事舞太夫蛭子方梓神子有之、宗門帳も別帳に差出候、然る所諸国散在梓神子共、御関所御手判なしに通候抔と所々にて申候由に付、右宿名主前右衛門を無急度内糺し候処、右之通前右衛門を以書付坂本役所へ差出候也（前掲の「聞伝叢書」巻四に拠る）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯うした資料がある上に、「甲子夜話」巻七十七にも、「田村氏関東の梓巫女を支配す」と裏書をしているし、且つ代々の八太夫の妻や、娘が、市子を業としていた事から考えても疑いはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは田村家に伝わった呪術の方法は、如何なるものであったかと云うに、先ず&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;詠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;み歌（この歌詞は教えると飯の種がなくなるとて常子さんも教えてくれなかった）三十六首を基調とし、神占を依頼する人が神前へ入るまでに一首、入って坐った時に一首と云った風に声低く唱え（ここでは単なる和歌ではなくして呪文としてであることは言うまでもない）て往って、呪術を行う市子の膝の前には六張の弓（これを六首六張と云うている）を並べ、菅の葉でこれを掻き鳴らしながら残りの歌を詠むのを、神懸りの作法としていた。そして六張の弓とは、梓の弓、雌竹、雄竹の弓、桑の弓、南天の弓などで、弦は女の髪の毛を麻にまぜて撚り合せたものである。此の弓の故事は、神功皇后が征韓の折に神占をなされたが、弓が無かったので、手頃の木を切って弓となし、弦には畏くも御自身の髪の毛を用いたものだと伝えている（以上「都新聞」記事摘要）。併し、私に言わせると、是等の呪法は、別段に八太夫独特のものではなく、九州の巫女が、十三仏や西国三十三番の詠歌を唱えて（此の事は後段に詳述する）神懸りするのと、全く同じものである上に、更に弓の故事などに至っては、無理勿体をつけて、俗人を嚇すほどの&amp;lt;u&amp;gt;さかしら&amp;lt;/u&amp;gt;にしか過ぎぬ。神后の征韓といえば、戦いに赴かれる陣中であるのに、武器である弓が無いとは辻褄の合わぬ話である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の血筋を伝えている唯一人の田村常子さんは、本年三十五歳の女盛りのお方であるが、呪術は実母の故菊子刀自（相模国愛甲郡生れ）から学び、更に菊子刀自は、祖父（十二代目の八太夫）に教えられたもので、常子さんは十九歳の娘の時から是れに従事したそうである。私が第一回に訪ねた際には、家に伝えた呪術用の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;外法箱&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゲホウバコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（高さ一尺ほど横八寸ほど幅五寸ほど、外は黒漆塗り内は朱塗り、印籠蓋になっていて、蓋をとると中に深さ一寸位の&amp;lt;u&amp;gt;かけ&amp;lt;/u&amp;gt;盒があって、常には玉珠数を入れて置いたという）や、玉珠数（これに就いては後に述べる）その他の秘伝書まで見せてくれ、種々親切に話してくれたが、その折に外法箱に関して語られるには、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: この箱はずっと以前には用いたそうですが、母の代からは遣わぬことになっていました。外の梓巫女は、此の箱の中へ犬の頭だとか、又は木偶だとかを入れると聞きましたが、私の家では是等の物は一切用いず、ただ十八柱の神の名（この神名を尋ねたが、常子さんには明確に答えられず、多分、天神七代に地神五代を併せ、その他に六柱を加えたものでしょうとの事であったが、それでは後に載せる常子さんの亡父八太夫の話とは少しく異る点がある）を紙に書いて入れたに過ぎません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と殆んど弁明的の態度で語られたが、紙に記した神名を納めるには、如何にも箱が深かすぎるので、或は古くは他流の市子と同じく、何か異物を納めたのではあるまいか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お「都新聞」の記事によると、八太夫も後になると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 古風の通り遣っていたのでは、頼む方が笑って相手にせぬので、切り離した珠数（常子さんの話に、此の珠数の珠は我国の数を象って六十六とし、外に親玉として天地を象り二つを加えてある。そして神占のときには、その珠を九々で払って往って、残った数でやるのだという。私は全く周易を真似たようなものだと考えた）一本と、錦襴の布に包んだ女神六柱と、男神六柱の神名を書いたもので、伺いを立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と語っている。そして此の珠数を用いる事を、俗に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;珠数占&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ジュズウラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と称している。又た同家に伝えた呪術に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;九気&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;キュウキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」の法とて、一気天上ノ水、二気虚空ノ火、三気造作ノ木、四気剣鉄ノ金、五気欲界ノ土、六気江河ノ水、七気国土ノ火、八気森林ノ火、九気山中ノ金というがあり、更に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し」の呪文は、神を祭るとき、仏を呼ぶとき、生霊を招ぐとき、病気を治すとき、神占のときなど、事毎に別のものがあるとて、これは教えることを好まぬようであったので、私も深く尋ねることを差控えるとした。併し強いて言えば、九気の法と称するものは、現に一部の迷信者の間に行われている九星と称するものと、さして変っているとも思われぬし、且つ数珠占も、他の市子（大正六年、東京市外亀井戸町の天満宮の裏門の所に市子がいるので、学友ネフスキー氏と携え訪ねた時にも、此の数珠占のことを聴かされた）も用いるので、神降しの呪文も又そうしたものではないかと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私に斯う考えさせたに就いて一つの旁証がある。余りに非学術的の事ではあるが、巫女が呪文と称して、此の上もなく神秘のものとする正体も、詮索して見ると、想ったよりは価値の無いものだということを説明しているので、筆序に附記するとした。それは、明治初年に、八太夫の弟子巫女で、横浜の福徳稲荷の宮守りをしていたお寅婆というのがあった。占術神の如しというので流行ッ子となり、毎日幾十人となく依頼者があるので、小金を蓄えるようになったが、同家の飯炊き婆が之を見たり聞いたりして羨しがり、別に一戸を構えて巫女の業を始めると、之も不思議と俗信を集め繁昌した。八太夫が或る日、その飯炊き婆の所へ往って見ると、一生懸命に神降しをしていたが、その唱える呪文が『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一二三四&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒフミヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;南無阿弥陀仏』を繰り返している。八太夫はその出鱈目に驚いたものの、依頼客の前でそれは間違っているとも云えぬので、客が帰ってから呪文は『一二三四五六七八九十百千万』と唱えるもので、然もこれは天鈿女命が天の岩戸開きの折に唱えた、尊いものであると教えて戻って来ると、十日ほどしてその飯炊き婆が八太夫の許へ来て、正しい呪文より、口なれた呪文の方が、よく神占が当るとて、又元の一二三四南無阿弥陀仏を用いたということである（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
呪文の正体（これは後段に幾つかの変ったものを挙げるが、これを押しくるめて）は、蓋しその悉くが、斯かる他愛もないものである。私の郷里である南下野地方で行われた寄り祈祷などでも、御幣を持った仲座に神をつける時に用いた呪文は『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;月山羽山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツキヤマハヤマ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、羽黒の大権現、並びに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;稲荷&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウカ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の大明神』というのを、大勢して、然も高声に、妙な節をつけて、やや急速に唱えるだけであった。私はその時分から、これは大勢が寄ってたかって、異口同音に大声を出して&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;怒鳴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;どな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りさえすれば、仲座は催眠状態に入るのだなと考えていた。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|後]]に言うが、越後と羽後の国境の三面村に行われた神降しの呪文などは、実に簡単でもあり、且つ意味をなさぬようなものであるのは、私の考えが必ずしも無稽でないことを裏附けていると信じたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　巫女の修行法と田村家の収入&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の記事の一節に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;u&amp;gt;いち&amp;lt;/u&amp;gt;子は七つから十五歳まで、諸方の神社へ八丁&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;舞籠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マイコモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神楽巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カグラミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に差出し（中山曰。これは、神楽&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;と、口寄&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;とを混同したように思われるが、今は原文に従うこととする）、十五歳になると身体が汚れるので、早速結婚させ、古くから此の掟を守って来た。市子の修業は、宰領（中山曰。前掲の飯嶋与太夫の文書に「国役人」とあるのと同意であろう）とて、市子二十人位に一人づつ取締を置き、地方では宰領の許に収容して、これが一切の教えをしたものである。若い市子連を、国々へ出張修行させたのは、これは国々の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;訛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りを覚えさせるためで、訛りを知らぬと、口寄せの文句が、誠らしく聞えぬからである云々（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。而して常子さんが、私に示してくれた書類によると、此の修行は、九気、玉占（珠数占の事）、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（死霊を祀る事）、八方責、神占等の二十六種に分れていたが、果して之だけ教えたものか否か、実際は判然しなかった。而して、常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 自分は修行の方法として、方々の神社仏閣へ毎日のように参詣に遣られたものです。催眠状態に入るには相当の修練を要しますが、馴れて来ると、直ぐに此の状態になることが出来ます。巫女と神様との関係は、親子夫婦よりは親密なもので、覚醒しているときでも、更に常住坐臥ともに、絶えず神様がついているように気持が致します。本来なれば、巫女は亭主は持てぬこと（中山曰。常子さんは岡田光太郎という良人を有し、三人の子供を儲けている上に、私が第二回目に訪ねたときには臨月に近い大きなお腹をしていた）になっていました。そして身体の不浄なときには、神様に近寄らぬようにしますが、永年この神懸りをしていますと、女子でありながら段々男子のようになって（即ち性格変換である）来ます云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とのことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 亡父の話に、徳川時代には、関八州の市子達が、免許状を貰いに来るので、殆んど毎日のように、その人物や修行を試験するので、多忙を極めたそうです。そして是等の市子から、何程の役料を収めたものか知りませんが、明治になってからは、壱年一円二十銭づつでったと記憶しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
との事であった。併しながら、江戸期における田村家の収入は莫大なもので、免許状の授与料や、年々の役料も相当の金額に達したであろうし、更に此の外に、表芸の神事舞太夫関係の収入や、青襖像の御影の収入もあり、かなり豪奢な生活であったらしい。殊に十一代目の八太夫は中々の遣り手で、妾なども蓄えていたが、重要なる書類や、什具などは、悉く妾に持ち去られたとのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;五　明治石院と田村家の退転&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治元年十一月四日に、田村八太夫は東京府へ召出され、『是迄の通り頭役仰付』との辞令を受け、漸く安堵の胸を撫で下したのも束の間で、翌明治二年七月に、左記の如き——八太夫としては殆んど致命的の布達に接し、古来の特権は悉く奪わるることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 神事舞太夫職ノ儀に付、先般配下職業勤方、以箇条書雛形相伺候件々（中山曰。此の伺書は田村家に残っていぬ）ハ、不正ノ節ニ付一切禁止申付候事&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫頭之名目差止、向後舞夫頭ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、神社祭礼之節、神楽相勤候儀、是迄之通不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、舞夫支配ノ儀ハ是迄之通、東京ヘ居住之輩而己配下ト可相心得事&lt;br /&gt;
: 一、大国主命之像配り候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、幣帛ヲ以テ竃土公ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、月待日待祈念之時、幣帛ヲ以執行、符字差出候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、梓神子之名目差止、向後梓女ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、玉占之儀不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、青襖札ヲ以竃之向ヘ張、竃ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、絵馬札配リ候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 右之条堅可相守、配下之輩モ禁止ノ廉無洩相触、急度為相守可申候、此段相達候事（中山曰。句読点は私の加えたものである）&lt;br /&gt;
: 巳七月　　　　　　　　　　　東京府&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　社寺局印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この布達に由れば、八太夫は、従来の特権の大部分を失い、僅に、（一）東京に居住する舞太夫だけを配下とすること、（二）神楽舞を勤めること、（三）梓女を支配することだけに局限されてしまったのである。田村家の打撃は言うまでもないが、「巫学談弊」を著して、所謂鈴振り神道なるものを極端にまで嫌厭した、平田篤胤翁の学風が海内を吹巻り、併もその学風が、当時の神祇官の方針となっていた明治維新の変革としては、蓋し止む得ぬ結果と見なければならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに明治初年の混雑は、神道や仏教方面にも多大の影響を来たし、万事を改革するに急なる余り、かなり非常識の事も行われ、神仏分離を励行しながら、神仏習合の神社を拵えるやら、祭神の入れ変えをするやら、社地の誤認をするやら、今から思うと少からぬ手落ちもあった様である。殊に民間信仰の対象となっていた富士講は扶桑教となり、御嶽講は神習教となり、就中、富士講は一先達であった宍野半という人物が、一躍して扶桑教の管長となり、然も道教の管長は宍野家代々の世襲たるべしという両本願寺を真似て、管長を独占してしまった。而して是等の現状を見せつけられた八太夫は、巫女を中心として一種の教会を建設し、これを支配下に置こうと企て、幸い東京府の布達にも梓女を認め、玉占を許しているので、ここに「神道梓女教」なるものを造り、従来の如く、諸方の巫女を集めて呪法を教え、左の如き免許状を出して収入を計り、独立を期したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 九気、玉占、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、八方責、招魂式、神占、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;佐々&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ササ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;祓祈祷法&lt;br /&gt;
: 右八ヶ課ヲ修行セシ事ヲ正ニ証ス&lt;br /&gt;
: 明治　年月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　神道梓女教　田村八太夫　印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の田村氏の運動が、どの位までに成功したか、それは今からは明確に知ることは出来ぬが、私の推測するところでは、余り成功を見ずに終ったようである。現に八太夫の女婿岡田光太郎氏（常子さんの良人）の談に徴するも、岡田氏が八太夫の供となり、江戸時代から田村氏の配下である東京市内及び近郊の市子の許を歴訪した事があったが、今人この道を棄てて泥土の如き譬えに漏れず、心から八太夫を以前の取締または触頭として迎えてくれた者は極めて少数であって、他の多くの市子は冷淡を越えて、寧ろ厄介者扱いにするという態度であったという点からも、こう推測して大過はないようである。而して斯くてある間に、明治六年教部省令を以て、一切の市子の呪術が禁止されることとなり、これに加うるに、文化の向上は市子を信ぜぬようになったので、八太夫の計画も全く壊滅に帰し、田村家最後の八太夫であった甲子太郎氏も、陋巷に老いを嘆ずるようになり、遂に補助ボーイとまで零落して、頽齢に負いきれぬ生活苦と闘いつつあったが、あの大地震のあった大正十二年十一月七日に六十一歳を以て永眠し、ここに江戸以来の或種の名家であった田村家も、男系尽きて断絶することになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記述後「祠曹雑識」巻三十六を見ると、寛政七年四月に田村家から寺社奉行に差出した書上があって、その一節に宝永四年十二月に幸松勧右衛門（元の神事舞太夫頭）が不埒のため頭役を召放されたので、翌宝永五年に八太夫が頭役を相続したとあるから、家乗の信用されぬことが明白となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<title>日本巫女史/第三篇/第一章/第二節</title>
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		<updated>2010-04-24T00:23:46Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第一章|第一章　巫道を退化させた当代の世相]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　関東の市子頭田村家の消長==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸期のうち約二百年の長きを通じて、関東八ヶ国と、甲信二ヶ国、及び奥州の一部へかけての市子は、江戸浅草田原町一丁目に住した田村八太夫（代々此の名を通称としたが、家の伝えによると、関八州の支配をしたので八太夫と称したとある）なる者が、代々市子頭として、一切の取締りをして、明治期に至ったのである。従って、田村家の詳細を知ることは、一面江戸期における神子の生活に触れ、一面八太夫配下の市子の呪術の他と異るところを考えさせるものがあるので、茲に私が親しく田村氏の遺族を訪ねて、見聞せるものと、諸書に散見せる記事とを参酌して、出来るだけ委曲を尽したいと思っている。江戸期における或る種の意味の名家であった田村氏も、明治期の大勢に打ち敗られて退転し、遺族も僅に女子一人を残しただけで、他は悉く死に断えてしまったので、今にその事跡を伝えなければ、遂に煙滅に帰してしまうと考えたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　田村家の由来と舞太夫&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田村家の家系は、何でも彼でも無理勿体をつけたがる江戸期の影響を受けていて、かなり粉飾されていると同時に誇張の限りを尽したものである。明治二年に東京府へ書上げたと称する書類の手控に由ると、同家は本国は参河、佐々木源氏の支流で、一時兵乱を避けて、相模国田村郷に住んだので、田村を姓とすることになったが、初代田村直親が、天正十八年小田原征伐のとき、徳川氏に仕えて戦功があったので、釆地二百石を賜り、後に慶長五年関ヶ原の戦役に、又々殊勲あって、三百石を加増され、代々旗下の士として、江戸幕府に仕えて来た。然るに、四代田村道則のときに至り、正徳三年正月、関八州及び甲信奥の十一ヶ国の、神事舞太夫の支配を願い出たところ、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 権現様（中山曰。家康）御由緒を以て、職号を習合神道関東一派武官神職と相唱改、国々職掌之者法例取極渡度旨、安藤右京亮殿を以て御許容（中略）、是迄頂戴の高差上、惣支配下より役料と唱壱人別鐚六百孔宛取立度旨相願候処、同十二月中御聞済（中略）、代々各例を以支配一手に御任被遊、御用書物役所と唱、京都に差図を不受、進退共仕候事云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と先ずその由来を記し、更に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 天文年中十一ヶ国御免勧化永代御容ノ義、松平左近将監殿奉願候処、御聞済に相成御代々様無滞被下置候事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記載してある。而して更に、同家に伝えた別紙の系譜に由ると、田村氏は饒速日命より四十三代（一々神名と人名とが書いてあるが省略する）を経て、印葉太郎物部政雄より分れ、幸松物部直親より四代を経て、前記の初代田村直親になったと記してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の家系や、由来が、到底、信用すべき限りでない事は、記事そのものが、有力に証示している。私はこれに関する管見を述べる前に、更に十三代目田村甲子太郎氏（即ち最後の田村八太夫）が、大正七年四月二十六日より同年翌月三日まで、前後七回に亘って「都新聞」に連載した記事中から、家系に関する主なる点を抄出して、両者の間に如何程の相違があり、従って同家に伝えた由緒書なるものが、如何にするも無条件では受け容れられぬことを明示したいと思う。即ち、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 大阪落城の折に、徳川家康を助けた桶屋の親爺が江戸へ下り、浅草田原町に住し幸松勘太夫と称し、関八州の巫女の取締りとなった。吉田家（陰陽師の家）、土御門、白河、幸松の四家だけで通婚して、他家とは縁組しなかった。関八州の取締となったので八太夫と通称を言うようになり、後に浅草三社権現の祠官となったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:遺族常子.gif|thumb|田村常子氏]]&lt;br /&gt;
これによれば、最後の八太夫は、流石に家系の奈何がわしいことに気附いていたと見え、饒速日命も、関ヶ原の戦功も語らなかったものと思われる。然るに、現存の田村常子（最後の八太夫の長女で、併も田村氏の血を承けし唯一人の遺族）は、家系と亡父の記事との矛盾を救うために『桶屋の親爺ではなくして、掘井戸用の桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;で家康を助けたのである』と言っているが、これは要するに、堅白同異の弁であって、家康は桶屋の親爺には勿論のこと、桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;の中に隠れて助かったことなどは、正史には曾て無いことであるから、何れにするも問題にはならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に田村家が代々五百石の食禄を領し、旗本として何不足なき身でありながら、四代目になって、突如として食禄を返還し、当時の社会感情から言えば、賤業卑職とまで思われていた神事舞太夫や市子頭——よし、それが触頭であったにせよ、取締であったにせよ、好んで人生の逆境に処したとは、如何にするも常識では考えられぬことである。これは何か他に事情が存していたか、それでなければ、家康の由緒書が全く偽造であるか、その二つのうちの一つでなければならぬ。喜多村信節翁は、何によって考えたものか、その著「嬉遊笑覧」巻六において、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 江戸神田明神は、昔より神事能としてこれ有しとぞ。北条以後暮松太夫上方より下り、江戸に住んで此の神事能をつとめしが、其者没して宝生太夫これをつとむ。暮松が子孫は大神楽打の頭となれりとなむ。思ふに田村八太夫は暮松の子孫なる歟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記している。而して私の愚案を簡単に云うと、田村氏の祖先は、三河院内の作太夫の徒であったのが、家康が江戸に幕府を開いたので、その縁故を言い立てて、神事舞太夫の取締となり、後にずるずるべったりに、巫女の取締まで兼ねるようになったのであると考えている。全体、江戸期における舞々は、帳外者の職業であって、その取締は、例の弾左衛門がして来たものである。その舞々に、少し毛が生えた位の舞太夫を、好んで勤めるほどの八太夫、饒速日命は愚かのこと、作太夫と同じ畑の者と見るのが至当のようである。殊に家系にも幸松の姓が見え、八太夫の記事にも幸松とあるのから推すと、作太夫の徒が幸松の業を学び、江戸に居ついたものと考えても、差支ないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　習合神道と舞太夫の関係&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化年中に、江戸幕府で、諸国の地誌の編纂を企て、これが資料を覓めて、一二の地誌の脱稿を見るに至ったが、その中に、文化十三年に江戸市内から書上げさせたもので「御府内備考」と云うのがある。此の巻十六浅草田原町の条に、田村家に関する詳細なる書上が載っているので、少しく長文に亘る嫌いもあるが、左に転載して、これに私見の蛇足を添えるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　習合神道神事舞太夫頭田村沢之助&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　沢之助幼年に付後見友山求馬書上左之通&lt;br /&gt;
: 一、習合神道神事舞太夫家道之儀は、往古より相立、頼朝公御治世始て支配頭相立、乍恐、御当家に至ては、御入国之砌参州より御供仕、習合神道神事舞太夫頭被仰付、京都神家之不請差図、御公儀御威光を以一派相極め被下置、支配下の神主宮持並社役之者には、頼朝公並北条家之御墨附致所持候もの、又は御府内御免勧化被仰付候者有之候、且支配下へ風折烏帽子装束之許状差出申候。尤右免許之儀者私代替家督被仰付候段、御奉行所於御内寄合に先格之通被仰渡候、且呼名国名等も差免し候事。&lt;br /&gt;
: 一、習合神道一派に三像札御許容有之候。&lt;br /&gt;
: 一、竃神青襖札、古来より年々正・五・九月御府内御免、配札名代のもの巡行為致候事。&lt;br /&gt;
: 一、御免絵馬札配札之儀者、文化十三年子年十一月中、阿部備中守様え友山求馬奉願、同十二月十八日、松平右近将監様於御内寄合に願之通被仰渡、年々正月配札名代のもの御府内致巡行候。且在々えは配下のもの致配札候事。&lt;br /&gt;
: 一、当四月（中山曰。文化十三年）二十五日吹上へ被召出候一件は、吉田殿関東執役宮川弾正より、下総国葛飾郡栗沢村茂侶神社神主友野相模え吉田家配下見廻り役申付候故、同人儀田村沢之助支配下、下総国印旛郡米本村神事舞太夫小林丹波へ呼状相付、装束へ差障候に付、其段友山求馬並本庄内記、鈴木豊後より友野相模相手取奉出訴候処、段々御吟味之上今般熟談、御吟味下げ奉願候は、友野相模儀習合神道之儀者京都神家之不請指図、御公儀御威光を以一派御極め被下置候を不相弁、呼状相付職道へ差障候は重々心得違に付、訴訟方へ相詫、且宮川弾正儀も向後手入ヶ間敷儀致間敷筈にて、規定致し候事。&lt;br /&gt;
: 一、吉田家、白川家配下神主社人どもに許状無之ものは、御奉行所、御評席且御評定所へ被召出候節は、牢人台之御取扱に候得共、私支配下老若男女共に武家に属し致故、御評定所にては上訴訟へ被召出、御評席にては上椽通之御取扱に御座候事（中山曰。以下、浅草三社権現祭礼、天下乞の神楽、観音市、稲荷社の四項を省略す）。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由緒&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家道之儀は、習合神道にて往古より武家に属、乍恐御公儀様御威光を以、神事舞太夫職は一派御極被下置、職札、法例、烏帽子装束之許状御許容被成下、他之神職相構候義無之、一派之職道相立来候、且又私支配之儀は関八ヶ国並信州甲州、会津表迄散在仕、配下之輩には神主に宮持、社役人之品有之、各社例を以神事祭礼相勧来は、宮々は御朱印地之配当を請、又は御料、私領之内御除地所持仕候者共数多有之、其外総支配下神事舞太夫の義は、宮持社役人未流にて、総応の且中相分習合神道を以家職勧来候。&lt;br /&gt;
: 一、関東に支配頭相勤罷在候起りは、頼朝公御治世鶴若孫藤治と申者、頭役相勤申候御墨附頂戴仕、其子孫今に相州平塚宿に罷在、御除地所持仕、鶴岡八幡宮の社役相勤罷在候、将亦小田原北条家時分天十郎と申もの、関東八ヶ国の頭役相勤御墨附頂戴仕（中山曰。此の事は「新編相模風土記稿」にも載せてある）其子孫今以相州小田原に御除地所持仕罷在候、右両人の子孫私支配下の神職にて、今以相続仕罷在候、此砌より武家に属、一派之神職相立来候。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由来&lt;br /&gt;
: 一、私支配下之儀は諸国散在仕神主、社役人之品有之、代々社例を以神事祭礼神楽相勤、御除地之宮社所持仕罷在候、且亦社役人之内には天台真言或は社家本山修験之宮社にて、従古来由緒筋目を以御朱印配当、又は御除地所持仕候もの共数多御座候（中山曰。以下、水戸東照宮、水戸砂金山、浅草三社権現、千葉妙見社、武蔵六所明神、相州高麗大権現の六祭礼の神事舞太夫の記事を省略す）。&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫帯刀之儀は、宮持社役人平配下之者一統従古来致来申候。去る明和三年戌二月二十四日、土岐美濃守様帯刀之儀御尋御座候に付、古来より支配一統仕来候段、親父八太夫時代書付差上申候。且又席之儀は支配下之者一同願、訴訟御座候節は先々御下通へ罷出申候。此段相違無御座候以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の書上は、同じような事を幾度となく繰返して記しているが、結局は種の無い手品を遣う様なもので、取りとめたものは、一つも無いと云えるのである。元々、舞太夫の由緒に過ぎぬ問題を兎や角と詮議立てするのも大人気ない話ではあるが、「家道は往古遠久」の一点張りで逃げ道を開け、頼朝の墨附があるなどと云うかと思えば、それは田村家ではなくして鶴若家だとは、かなり人を喰った言い分と云わなければならぬ。併し、そんな事は巫女史の上からは、どうでも宜い問題であるから、深く洗い立てせぬとするが、此の書上に附いて見るも、田村氏が市子の取締をしたということは、一言半句も説明していぬ。これは如何なる事情であろうか、私としては此の詮議こそ出来るだけ充分に尽さなければならぬ問題である。以下これに就いての管見を述べるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　田村家の巫女取締とその呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫が関八州の梓&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の取締となったのは、果して何年頃に如何なる理由に基くのか、少しも判然して居らぬ。前掲の書上にも、神事舞太夫の事は管々しいと思うほど書き列ねてあるが、市子に関しては、遂に一言半句も触れていない。若し、各地の舞太夫の妻女は概して市子であったから、夫の舞太夫を取締るという事は、直ちに妻の巫女を取締ることを意味しているのであると云えば、此の問題も容易に解決する訳ではあるが、それでは舞太夫以外の修験者の妻女である市子や、更に人妻で無い市子（此の数は決して少くなく、恐らく、修験者関係の市子と独身者の巫女の合計は、舞太夫関係の実数よりは、迥かに多かったと思われる）を如何にしたかと云う問題が残されるのである。併し、此の事の真相は、寡見に入っただけの資料では、遂に判然せぬ問題ではあるけれども、兎に角に、田村氏が江戸期の中葉から関八州の市子の取緒をして来たことだけは、否定されぬ事実である。前に引用した「聞伝叢書」巻四に左の如き文書が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫並梓巫女之事&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　神事舞太夫次第書&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家法之儀は、往古遠久之職道にて国々散在致し、何れも習合之神道之則法を以、且中之諸祈祷相勤来申候、然に社法之儀者天台真言社家、並本山修験等之宮々に順往古より社礼を相勤申候、依之其社々之衣之装束風折烏帽子着用致し相勤申候、且又梓巫女権与之儀者、往古遠久呪歌之伝授にて、梓神子一家之法式にて他家に不伝、習合神道之行法を以諸祈祷等相勤申候、有増如斯御座候事、諸国配下の者共の儀は、乍恐常陸国水戸東照宮様御神事を奉初、同国金砂大権現大祭礼七十三年一度宛の御神事、正徳五年三月朔日に執行仕候まで十三度に及申候、依之国々に於て社礼之儀、天下泰平御武運御長久御祭礼相勤来申候事。&lt;br /&gt;
: 一、元禄十五年閏八月二十七日西宮神職と争論之節、阿部飛騨守様、永井伊賀守様、本多弾正少弼様御裁許之上にて猶以相極申候、各社役之儀、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;委&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は正徳元年卯正月十八日本多弾正少弼様、森川出羽守様、安藤右京進様御裁許の上にて、梓神子法例文章御吟味之上御極被下置候事。&lt;br /&gt;
: 右は今般家法之儀御尋に付、支配頭田村八太夫之儀御座候得者、難尽筆紙之儀は、猶又御尋も御座候はば、乍恐以口上逐一言上可申上候、以上&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　江戸浅草三社権現神主&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　田村八太夫支配国役人&lt;br /&gt;
: 宝暦六年子三月　　　　　　　　　　　　信州北条郡長窪新町　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　梓神子法例&lt;br /&gt;
: 諸国之散在神子如伝来相勤、諸神勧請&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;次&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;家法之梓致執行、勿論神差帰上之法式、並荒神鎮座之祓及び幣帛等、以習合神道而壇中之諸祈祷可相勤之者也、若於国々粉敷梓神子於致徘徊者、以此判而相改、堅可停止事。&lt;br /&gt;
: 右書附之趣厳密可相守之矣、若以新法他職而乱家法者於有之者、急度可為越度者也&lt;br /&gt;
: 正徳巳亥暦正月十八日　　　　　　　　　　　　　神事舞太夫　田村八太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　飯嶋　兵庫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　国役人　丸山　式部（印）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
之に由れば、田村家が正徳年中には、既に巫女の取締をやっていた事は明白であるし、更に「高崎誌」巻下に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 下横町に神事舞太夫という者三四人あり（中略）、彼等が妻は多く梓巫なり（中略）、彼等は江戸浅草神事舞太夫田村八太夫と云う者より、職法書を受て三社権現を祭る由云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記してある。猶お少々煩雑に過ぎるようではあるが、前掲の信州長窪町の神事舞太夫である飯嶋与太夫が、妻、妹、娵の三梓巫女のために差出した関所通行の文書があるので、参考までに抄録した。これに由ると、舞太夫の家庭に在る女性は、悉く巫女を営んだようにも思われ、且つその名称などに就いても、多少の資料となると信じたので、鶏助の譏りを知りつつ、敢て此の挙に出た次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　上野国甘楽郡磯沢村御関所梓神子人別帳&lt;br /&gt;
: 信州小県郡長久保宿　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　妻梓神子　注連翁&lt;br /&gt;
: 　　　妹梓神子　宮　高&lt;br /&gt;
: 　　　娵梓神子　朝　日&lt;br /&gt;
: 右之通人別帳差上候処、少も相違無御座候、如例年御関所御通被遊可被下候、右神子之内紛敷者壱人も無御座候、若粉敷ものと申もの有之候はば、私共何方迄も罷出急度申訳可仕候、為後日仍如件&lt;br /&gt;
: 　　年号月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　梓神子組頭　飯嶋与太夫&lt;br /&gt;
: 右は長久保宿神事舞太夫蛭子方梓神子有之、宗門帳も別帳に差出候、然る所諸国散在梓神子共、御関所御手判なしに通候抔と所々にて申候由に付、右宿名主前右衛門を無急度内糺し候処、右之通前右衛門を以書付坂本役所へ差出候也（前掲の「聞伝叢書」巻四に拠る）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯うした資料がある上に、「甲子夜話」巻七十七にも、「田村氏関東の梓巫女を支配す」と裏書をしているし、且つ代々の八太夫の妻や、娘が、市子を業としていた事から考えても疑いはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは田村家に伝わった呪術の方法は、如何なるものであったかと云うに、先ず&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;詠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;み歌（この歌詞は教えると飯の種がなくなるとて常子さんも教えてくれなかった）三十六首を基調とし、神占を依頼する人が神前へ入るまでに一首、入って坐った時に一首と云った風に声低く唱え（ここでは単なる和歌ではなくして呪文としてであることは言うまでもない）て往って、呪術を行う市子の膝の前には六張の弓（これを六首六張と云うている）を並べ、菅の葉でこれを掻き鳴らしながら残りの歌を詠むのを、神懸りの作法としていた。そして六張の弓とは、梓の弓、雌竹、雄竹の弓、桑の弓、南天の弓などで、弦は女の髪の毛を麻にまぜて撚り合せたものである。此の弓の故事は、神功皇后が征韓の折に神占をなされたが、弓が無かったので、手頃の木を切って弓となし、弦には畏くも御自身の髪の毛を用いたものだと伝えている（以上「都新聞」記事摘要）。併し、私に言わせると、是等の呪法は、別段に八太夫独特のものではなく、九州の巫女が、十三仏や西国三十三番の詠歌を唱えて（此の事は後段に詳述する）神懸りするのと、全く同じものである上に、更に弓の故事などに至っては、無理勿体をつけて、俗人を嚇すほどの&amp;lt;u&amp;gt;さかしら&amp;lt;/u&amp;gt;にしか過ぎぬ。神后の征韓といえば、戦いに赴かれる陣中であるのに、武器である弓が無いとは辻褄の合わぬ話である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の血筋を伝えている唯一人の田村常子さんは、本年三十五歳の女盛りのお方であるが、呪術は実母の故菊子刀自（相模国愛甲郡生れ）から学び、更に菊子刀自は、祖父（十二代目の八太夫）に教えられたもので、常子さんは十九歳の娘の時から是れに従事したそうである。私が第一回に訪ねた際には、家に伝えた呪術用の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;外法箱&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゲホウバコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（高さ一尺ほど横八寸ほど幅五寸ほど、外は黒漆塗り内は朱塗り、印籠蓋になっていて、蓋をとると中に深さ一寸位の&amp;lt;u&amp;gt;かけ&amp;lt;/u&amp;gt;盒があって、常には玉珠数を入れて置いたという）や、玉珠数（これに就いては後に述べる）その他の秘伝書まで見せてくれ、種々親切に話してくれたが、その折に外法箱に関して語られるには、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: この箱はずっと以前には用いたそうですが、母の代からは遣わぬことになっていました。外の梓巫女は、此の箱の中へ犬の頭だとか、又は木偶だとかを入れると聞きましたが、私の家では是等の物は一切用いず、ただ十八柱の神の名（この神名を尋ねたが、常子さんには明確に答えられず、多分、天神七代に地神五代を併せ、その他に六柱を加えたものでしょうとの事であったが、それでは後に載せる常子さんの亡父八太夫の話とは少しく異る点がある）を紙に書いて入れたに過ぎません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と殆んど弁明的の態度で語られたが、紙に記した神名を納めるには、如何にも箱が深かすぎるので、或は古くは他流の市子と同じく、何か異物を納めたのではあるまいか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お「都新聞」の記事によると、八太夫も後になると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 古風の通り遣っていたのでは、頼む方が笑って相手にせぬので、切り離した珠数（常子さんの話に、此の珠数の珠は我国の数を象って六十六とし、外に親玉として天地を象り二つを加えてある。そして神占のときには、その珠を九々で払って往って、残った数でやるのだという。私は全く周易を真似たようなものだと考えた）一本と、錦襴の布に包んだ女神六柱と、男神六柱の神名を書いたもので、伺いを立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と語っている。そして此の珠数を用いる事を、俗に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;珠数占&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ジュズウラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と称している。又た同家に伝えた呪術に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;九気&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;キュウキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」の法とて、一気天上ノ水、二気虚空ノ火、三気造作ノ木、四気剣鉄ノ金、五気欲界ノ土、六気江河ノ水、七気国土ノ火、八気森林ノ火、九気山中ノ金というがあり、更に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し」の呪文は、神を祭るとき、仏を呼ぶとき、生霊を招ぐとき、病気を治すとき、神占のときなど、事毎に別のものがあるとて、これは教えることを好まぬようであったので、私も深く尋ねることを差控えるとした。併し強いて言えば、九気の法と称するものは、現に一部の迷信者の間に行われている九星と称するものと、さして変っているとも思われぬし、且つ数珠占も、他の市子（大正六年、東京市外亀井戸町の天満宮の裏門の所に市子がいるので、学友ネフスキー氏と携え訪ねた時にも、此の数珠占のことを聴かされた）も用いるので、神降しの呪文も又そうしたものではないかと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私に斯う考えさせたに就いて一つの旁証がある。余りに非学術的の事ではあるが、巫女が呪文と称して、此の上もなく神秘のものとする正体も、詮索して見ると、想ったよりは価値の無いものだということを説明しているので、筆序に附記するとした。それは、明治初年に、八太夫の弟子巫女で、横浜の福徳稲荷の宮守りをしていたお寅婆というのがあった。占術神の如しというので流行ッ子となり、毎日幾十人となく依頼者があるので、小金を蓄えるようになったが、同家の飯炊き婆が之を見たり聞いたりして羨しがり、別に一戸を構えて巫女の業を始めると、之も不思議と俗信を集め繁昌した。八太夫が或る日、その飯炊き婆の所へ往って見ると、一生懸命に神降しをしていたが、その唱える呪文が『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一二三四&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒフミヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;南無阿弥陀仏』を繰り返している。八太夫はその出鱈目に驚いたものの、依頼客の前でそれは間違っているとも云えぬので、客が帰ってから呪文は『一二三四五六七八九十百千万』と唱えるもので、然もこれは天鈿女命が天の岩戸開きの折に唱えた、尊いものであると教えて戻って来ると、十日ほどしてその飯炊き婆が八太夫の許へ来て、正しい呪文より、口なれた呪文の方が、よく神占が当るとて、又元の一二三四南無阿弥陀仏を用いたということである（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
呪文の正体（これは後段に幾つかの変ったものを挙げるが、これを押しくるめて）は、蓋しその悉くが、斯かる他愛もないものである。私の郷里である南下野地方で行われた寄り祈祷などでも、御幣を持った仲座に神をつける時に用いた呪文は『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;月山羽山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツキヤマハヤマ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、羽黒の大権現、並びに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;稲荷&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウカ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の大明神』というのを、大勢して、然も高声に、妙な節をつけて、やや急速に唱えるだけであった。私はその時分から、これは大勢が寄ってたかって、異口同音に大声を出して&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;怒鳴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;どな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りさえすれば、仲座は催眠状態に入るのだなと考えていた。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|後]]に言うが、越後と羽後の国境の三面村に行われた神降しの呪文などは、実に簡単でもあり、且つ意味をなさぬようなものであるのは、私の考えが必ずしも無稽でないことを裏附けていると信じたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　巫女の修行法と田村家の収入&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の記事の一節に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;u&amp;gt;いち&amp;lt;/u&amp;gt;子は七つから十五歳まで、諸方ほ神社へ八丁&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;舞籠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マイコモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神楽巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カグラミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に差出し（中山曰。これは、神楽&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;と、口寄&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;とを混同したように思われるが、今は原文に従うこととする）、十五歳になると身体が汚れるので、早速結婚させ、古くから此の掟を守って来た。市子の修業は、宰領（中山曰。前掲の飯嶋与太夫の文書に「国役人」とあるのと同意であろう）とて、市子二十人位に一人づつ取締を置き、地方では宰領の許に収容して、これが一切の教えをしたものである。若い市子連を、国々へ出張修行させたのは、これは国々の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;訛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りを覚えさせるためで、訛りを知らぬと、口寄せの文句が、誠らしく聞えぬからである云々（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。而して常子さんが、私に示してくれた書類によると、此の修行は、九気、玉占（珠数占の事）、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（死霊を祀る事）、八方責、神占等の二十六種に分れていたが、果して之だけ教えたものか否か、実際は判然しなかった。而して、常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 自分は修行の方法として、方々の神社仏閣へ毎日のように参詣に遣られたものです。催眠状態に入るには相当の修練を要しますが、馴れて来ると、直ぐに此の状態になることが出来ます。巫女と神様との関係は、親子夫婦よりは親密なもので、覚醒しているときでも、更に常住坐臥ともに、絶えず神様がついているように気持が致します。本来なれば、巫女は亭主は持てぬこと（中山曰。常子さんは岡田光太郎という良人を有し、三人の子供を儲けている上に、私が第二回目に訪ねたときには臨月に近い大きなお腹をしていた）になっていました。そして身体の不浄なときには、神様に近寄らぬようにしますが、永年この神懸りをしていますと、女子でありながら段々男子のようになって（即ち性格変換である）来ます云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とのことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 亡父の話に、徳川時代には、関八州の市子達が、免許状を貰いに来るので、殆んど毎日のように、その人物や修行を試験するので、多忙を極めたそうです。そして是等の市子から、何程の役料を収めたものか知りませんが、明治になってからは、壱年一円二十銭づつでったと記憶しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
との事であった。併しながら、江戸期における田村家の収入は莫大なもので、免許状の授与料や、年々の役料も相当の金額に達したであろうし、更に此の外に、表芸の神事舞太夫関係の収入や、青襖像の御影の収入もあり、かなり豪奢な生活であったらしい。殊に十一代目の八太夫は中々の遣り手で、妾なども蓄えていたが、重要なる書類や、什具などは、悉く妾に持ち去られたとのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;五　明治石院と田村家の退転&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治元年十一月四日に、田村八太夫は東京府へ召出され、『是迄の通り頭役仰付』との辞令を受け、漸く安堵の胸を撫で下したのも束の間で、翌明治二年七月に、左記の如き——八太夫としては殆んど致命的の布達に接し、古来の特権は悉く奪わるることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 神事舞太夫職ノ儀に付、先般配下職業勤方、以箇条書雛形相伺候件々（中山曰。此の伺書は田村家に残っていぬ）ハ、不正ノ節ニ付一切禁止申付候事&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫頭之名目差止、向後舞夫頭ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、神社祭礼之節、神楽相勤候儀、是迄之通不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、舞夫支配ノ儀ハ是迄之通、東京ヘ居住之輩而己配下ト可相心得事&lt;br /&gt;
: 一、大国主命之像配り候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、幣帛ヲ以テ竃土公ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、月待日待祈念之時、幣帛ヲ以執行、符字差出候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、梓神子之名目差止、向後梓女ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、玉占之儀不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、青襖札ヲ以竃之向ヘ張、竃ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、絵馬札配リ候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 右之条堅可相守、配下之輩モ禁止ノ廉無洩相触、急度為相守可申候、此段相達候事（中山曰。句読点は私の加えたものである）&lt;br /&gt;
: 巳七月　　　　　　　　　　　東京府&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　社寺局印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この布達に由れば、八太夫は、従来の特権の大部分を失い、僅に、（一）東京に居住する舞太夫だけを配下とすること、（二）神楽舞を勤めること、（三）梓女を支配することだけに局限されてしまったのである。田村家の打撃は言うまでもないが、「巫学談弊」を著して、所謂鈴振り神道なるものを極端にまで嫌厭した、平田篤胤翁の学風が海内を吹巻り、併もその学風が、当時の神祇官の方針となっていた明治維新の変革としては、蓋し止む得ぬ結果と見なければならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに明治初年の混雑は、神道や仏教方面にも多大の影響を来たし、万事を改革するに急なる余り、かなり非常識の事も行われ、神仏分離を励行しながら、神仏習合の神社を拵えるやら、祭神の入れ変えをするやら、社地の誤認をするやら、今から思うと少からぬ手落ちもあった様である。殊に民間信仰の対象となっていた富士講は扶桑教となり、御嶽講は神習教となり、就中、富士講は一先達であった宍野半という人物が、一躍して扶桑教の管長となり、然も道教の管長は宍野家代々の世襲たるべしという両本願寺を真似て、管長を独占してしまった。而して是等の現状を見せつけられた八太夫は、巫女を中心として一種の教会を建設し、これを支配下に置こうと企て、幸い東京府の布達にも梓女を認め、玉占を許しているので、ここに「神道梓女教」なるものを造り、従来の如く、諸方の巫女を集めて呪法を教え、左の如き免許状を出して収入を計り、独立を期したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 九気、玉占、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、八方責、招魂式、神占、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;佐々&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ササ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;祓祈祷法&lt;br /&gt;
: 右八ヶ課ヲ修行セシ事ヲ正ニ証ス&lt;br /&gt;
: 明治　年月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　神道梓女教　田村八太夫　印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の田村氏の運動が、どの位までに成功したか、それは今からは明確に知ることは出来ぬが、私の推測するところでは、余り成功を見ずに終ったようである。現に八太夫の女婿岡田光太郎氏（常子さんの良人）の談に徴するも、岡田氏が八太夫の供となり、江戸時代から田村氏の配下である東京市内及び近郊の市子の許を歴訪した事があったが、今人この道を棄てて泥土の如き譬えに漏れず、心から八太夫を以前の取締または触頭として迎えてくれた者は極めて少数であって、他の多くの市子は冷淡を越えて、寧ろ厄介者扱いにするという態度であったという点からも、こう推測して大過はないようである。而して斯くてある間に、明治六年教部省令を以て、一切の市子の呪術が禁止されることとなり、これに加うるに、文化の向上は市子を信ぜぬようになったので、八太夫の計画も全く壊滅に帰し、田村家最後の八太夫であった甲子太郎氏も、陋巷に老いを嘆ずるようになり、遂に補助ボーイとまで零落して、頽齢に負いきれぬ生活苦と闘いつつあったが、あの大地震のあった大正十二年十一月七日に六十一歳を以て永眠し、ここに江戸以来の或種の名家であった田村家も、男系尽きて断絶することになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記述後「祠曹雑識」巻三十六を見ると、寛政七年四月に田村家から寺社奉行に差出した書上があって、その一節に宝永四年十二月に幸松勧右衛門（元の神事舞太夫頭）が不埒のため頭役を召放されたので、翌宝永五年に八太夫が頭役を相続したとあるから、家乗の信用されぬことが明白となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1321</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第一章/第二節</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1321"/>
		<updated>2010-04-17T02:25:19Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第一章|第一章　巫道を退化させた当代の世相]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　関東の市子頭田村家の消長==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸期のうち約二百年の長きを通じて、関東八ヶ国と、甲信二ヶ国、及び奥州の一部へかけての市子は、江戸浅草田原町一丁目に住した田村八太夫（代々此の名を通称としたが、家の伝えによると、関八州の支配をしたので八太夫と称したとある）なる者が、代々市子頭として、一切の取締りをして、明治期に至ったのである。従って、田村家の詳細を知ることは、一面江戸期における神子の生活に触れ、一面八太夫配下の市子の呪術の他と異るところを考えさせるものがあるので、茲に私が親しく田村氏の遺族を訪ねて、見聞せるものと、諸書に散見せる記事とを参酌して、出来るだけ委曲を尽したいと思っている。江戸期における或る種の意味の名家であった田村氏も、明治期の大勢に打ち敗られて退転し、遺族も僅に女子一人を残しただけで、他は悉く死に断えてしまったので、今にその事跡を伝えなければ、遂に煙滅に帰してしまうと考えたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　田村家の由来と舞太夫&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田村家の家系は、何でも彼でも無理勿体をつけたがる江戸期の影響を受けていて、かなり粉飾されていると同時に誇張の限りを尽したものである。明治二年に東京府へ書上げたと称する書類の手控に由ると、同家は本国は参河、佐々木源氏の支流で、一時兵乱を避けて、相模国田村郷に住んだので、田村を姓とすることになったが、初代田村直親が、天正十八年小田原征伐のとき、徳川氏に仕えて戦功があったので、釆地二百石を賜り、後に慶長五年関ヶ原の戦役に、又々殊勲あって、三百石を加増され、代々旗下の士として、江戸幕府に仕えて来た。然るに、四代田村道則のときに至り、正徳三年正月、関八州及び甲信奥の十一ヶ国の、神事舞太夫の支配を願い出たところ、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 権現様（中山曰。家康）御由緒を以て、職号を習合神道関東一派武官神職と相唱改、国々職掌之者法例取極渡度旨、安藤右京亮殿を以て御許容（中略）、是迄頂戴の高差上、惣支配下より役料と唱壱人別鐚六百孔宛取立度旨相願候処、同十二月中御聞済（中略）、代々各例を以支配一手に御任被遊、御用書物役所と唱、京都に差図を不受、進退共仕候事云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と先ずその由来を記し、更に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 天文年中十一ヶ国御免勧化永代御容ノ義、松平左近将監殿奉願候処、御聞済に相成御代々様無滞被下置候事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記載してある。而して更に、同家に伝えた別紙の系譜に由ると、田村氏は饒速日命より四十三代（一々神名と人名とが書いてあるが省略する）を経て、印葉太郎物部政雄より分れ、幸松物部直親より四代を経て、前記の初代田村直親になったと記してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の家系や、由来が、到底、信用すべき限りでない事は、記事そのものが、有力に証示している。私はこれに関する管見を述べる前に、更に十三代目田村甲子太郎氏（即ち最後の田村八太夫）が、大正七年四月二十六日より同年翌月三日まで、前後七回に亘って「都新聞」に連載した記事中から、家系に関する主なる点を抄出して、両者の間に如何程の相違があり、従って同家に伝えた由緒書なるものが、如何にするも無条件では受け容れられぬことを明示したいと思う。即ち、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 大阪落城の折に、徳川家康を助けた桶屋の親爺が江戸へ下り、浅草田原町に住し幸松勘太夫と称し、関八州の巫女の取締りとなった。吉田家（陰陽師の家）、土御門、白河、幸松の四家だけで通婚して、他家とは縁組しなかった。関八州の取締となったので八太夫と通称を言うようになり、後に浅草三社権現の祠官となったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:遺族常子.gif|thumb|田村常子氏]]&lt;br /&gt;
これによれば、最後の八太夫は、流石に家系の奈何がわしいことに気附いていたと見え、饒速日命も、関ヶ原の戦功も語らなかったものと思われる。然るに、現存の田村常子（最後の八太夫の長女で、併も田村氏の血を承けし唯一人の遺族）は、家系と亡父の記事との矛盾を救うために『桶屋の親爺ではなくして、掘井戸用の桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;で家康を助けたのである』と言っているが、これは要するに、堅白同異の弁であって、家康は桶屋の親爺には勿論のこと、桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;の中に隠れて助かったことなどは、正史には曾て無いことであるから、何れにするも問題にはならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に田村家が代々五百石の食禄を領し、旗本として何不足なき身でありながら、四代目になって、突如として食禄を返還し、当時の社会感情から言えば、賤業卑職とまで思われていた神事舞太夫や市子頭——よし、それが触頭であったにせよ、取締であったにせよ、好んで人生の逆境に処したとは、如何にするも常識では考えられぬことである。これは何か他に事情が存していたか、それでなければ、家康の由緒書が全く偽造であるか、その二つのうちの一つでなければならぬ。喜多村信節翁は、何によって考えたものか、その著「嬉遊笑覧」巻六において、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 江戸神田明神は、昔より神事能としてこれ有しとぞ。北条以後暮松太夫上方より下り、江戸に住んで此の神事能をつとめしが、其者没して宝生太夫これをつとむ。暮松が子孫は大神楽打の頭となれりとなむ。思ふに田村八太夫は暮松の子孫なる歟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記している。而して私の愚案を簡単に云うと、田村氏の祖先は、三河院内の作太夫の徒であったのが、家康が江戸に幕府を開いたので、その縁故を言い立てて、神事舞太夫の取締となり、後にずるずるべったりに、巫女の取締まで兼ねるようになったのであると考えている。全体、江戸期における舞々は、帳外者の職業であって、その取締は、例の弾左衛門がして来たものである。その舞々に、少し毛が生えた位の舞太夫を、好んで勤めるほどの八太夫、饒速日命は愚かのこと、作太夫と同じ畑の者と見るのが至当のようである。殊に家系にも幸松の姓が見え、八太夫の記事にも幸松とあるのから推すと、作太夫の徒が幸松の業を学び、江戸に居ついたものと考えても、差支ないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　習合神道と舞太夫の関係&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化年中に、江戸幕府で、諸国の地誌の編纂を企て、これが資料を覓めて、一二の地誌の脱稿を見るに至ったが、その中に、文化十三年に江戸市内から書上げさせたもので「御府内備考」と云うのがある。此の巻十六浅草田原町の条に、田村家に関する詳細なる書上が載っているので、少しく長文に亘る嫌いもあるが、左に転載して、これに私見の蛇足を添えるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　習合神道神事舞太夫頭田村沢之助&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　沢之助幼年に付後見友山求馬書上左之通&lt;br /&gt;
: 一、習合神道神事舞太夫家道之儀は、往古より相立、頼朝公御治世始て支配頭相立、乍恐、御当家に至ては、御入国之砌参州より御供仕、習合神道神事舞太夫頭被仰付、京都神家之不請差図、御公儀御威光を以一派相極め被下置、支配下の神主宮持並社役之者には、頼朝公並北条家之御墨附致所持候もの、又は御府内御免勧化被仰付候者有之候、且支配下へ風折烏帽子装束之許状差出申候。尤右免許之儀者私代替家督被仰付候段、御奉行所於御内寄合に先格之通被仰渡候、且呼名国名等も差免し候事。&lt;br /&gt;
: 一、習合神道一派に三像札御許容有之候。&lt;br /&gt;
: 一、竃神青襖札、古来より年々正・五・九月御府内御免、配札名代のもの巡行為致候事。&lt;br /&gt;
: 一、御免絵馬札配札之儀者、文化十三年子年十一月中、阿部備中守様え友山求馬奉願、同十二月十八日、松平右近将監様於御内寄合に願之通被仰渡、年々正月配札名代のもの御府内致巡行候。且在々えは配下のもの致配札候事。&lt;br /&gt;
: 一、当四月（中山曰。文化十三年）二十五日吹上へ被召出候一件は、吉田殿関東執役宮川弾正より、下総国葛飾郡栗沢村茂侶神社神主友野相模え吉田家配下見廻り役申付候故、同人儀田村沢之助支配下、下総国印旛郡米本村神事舞太夫小林丹波へ呼状相付、装束へ差障候に付、其段友山求馬並本庄内記、鈴木豊後より友野相模相手取奉出訴候処、段々御吟味之上今般熟談、御吟味下げ奉願候は、友野相模儀習合神道之儀者京都神家之不請指図、御公儀御威光を以一派御極め被下置候を不相弁、呼状相付職道へ差障候は重々心得違に付、訴訟方へ相詫、且宮川弾正儀も向後手入ヶ間敷儀致間敷筈にて、規定致し候事。&lt;br /&gt;
: 一、吉田家、白川家配下神主社人どもに許状無之ものは、御奉行所、御評席且御評定所へ被召出候節は、牢人台之御取扱に候得共、私支配下老若男女共に武家に属し致故、御評定所にては上訴訟へ被召出、御評席にては上椽通之御取扱に御座候事（中山曰。以下、浅草三社権現祭礼、天下乞の神楽、観音市、稲荷社の四項を省略す）。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由緒&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家道之儀は、習合神道にて往古より武家に属、乍恐御公儀様御威光を以、神事舞太夫職は一派御極被下置、職札、法例、烏帽子装束之許状御許容被成下、他之神職相構候義無之、一派之職道相立来候、且又私支配之儀は関八ヶ国並信州甲州、会津表迄散在仕、配下之輩には神主に宮持、社役人之品有之、各社例を以神事祭礼相勧来は、宮々は御朱印地之配当を請、又は御料、私領之内御除地所持仕候者共数多有之、其外総支配下神事舞太夫の義は、宮持社役人未流にて、総応の且中相分習合神道を以家職勧来候。&lt;br /&gt;
: 一、関東に支配頭相勤罷在候起りは、頼朝公御治世鶴若孫藤治と申者、頭役相勤申候御墨附頂戴仕、其子孫今に相州平塚宿に罷在、御除地所持仕、鶴岡八幡宮の社役相勤罷在候、将亦小田原北条家時分天十郎と申もの、関東八ヶ国の頭役相勤御墨附頂戴仕（中山曰。此の事は「新編相模風土記稿」にも載せてある）其子孫今以相州小田原に御除地所持仕罷在候、右両人の子孫私支配下の神職にて、今以相続仕罷在候、此砌より武家に属、一派之神職相立来候。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由来&lt;br /&gt;
: 一、私支配下之儀は諸国散在仕神主、社役人之品有之、代々社例を以神事祭礼神楽相勤、御除地之宮社所持仕罷在候、且亦社役人之内には天台真言或は社家本山修験之宮社にて、従古来由緒筋目を以御朱印配当、又は御除地所持仕候もの共数多御座候（中山曰。以下、水戸東照宮、水戸砂金山、浅草三社権現、千葉妙見社、武蔵六所明神、相州高麗大権現の六祭礼の神事舞太夫の記事を省略す）。&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫帯刀之儀は、宮持社役人平配下之者一統従古来致来申候。去る明和三年戌二月二十四日、土岐美濃守様帯刀之儀御尋御座候に付、古来より支配一統仕来候段、親父八太夫時代書付差上申候。且又席之儀は支配下之者一同願、訴訟御座候節は先々御下通へ罷出申候。此段相違無御座候以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の書上は、同じような事を幾度となく繰返して記しているが、結局は種の無い手品を遣う様なもので、取りとめたものは、一つも無いと云えるのである。元々、舞太夫の由緒に過ぎぬ問題を兎や角と詮議立てするのも大人気ない話ではあるが、「家道は往古遠久」の一点張りで逃げ道を開け、頼朝の墨附があるなどと云うかと思えば、それは田村家ではなくして鶴若家だとは、かなり人を喰った言い分と云わなければならぬ。併し、そんな事は巫女史の上からは、どうでも宜い問題であるから、深く洗い立てせぬとするが、此の書上に附いて見るも、田村氏が市子の取締をしたということは、一言半句も説明していぬ。これは如何なる事情であろうか、私としては此の詮議こそ出来るだけ充分に尽さなければならぬ問題である。以下これに就いての管見を述べるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　田村家の巫女取締とその呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫が関八州の梓&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の取締となったのは、果して何年頃に如何なる理由に基くのか、少しも判然して居らぬ。前掲の書上にも、神事舞太夫の事は管々しいと思うほど書き列ねてあるが、市子に関しては、遂に一言半句も触れていない。若し、各地の舞太夫の妻女は概して市子であったから、夫の舞太夫を取締るという事は、直ちに妻の巫女を取締ることを意味しているのであると云えば、此の問題も容易に解決する訳ではあるが、それでは舞太夫以外の修験者の妻女である市子や、更に人妻で無い市子（此の数は決して少くなく、恐らく、修験者関係の市子と独身者の巫女の合計は、舞太夫関係の実数よりは、迥かに多かったと思われる）を如何にしたかと云う問題が残されるのである。併し、此の事の真相は、寡見に入っただけの資料では、遂に判然せぬ問題ではあるけれども、兎に角に、田村氏が江戸期の中葉から関八州の市子の取緒をして来たことだけは、否定されぬ事実である。前に引用した「聞伝叢書」巻四に左の如き文書が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫並梓巫女之事&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　神事舞太夫次第書&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家法之儀は、往古遠久之職道にて国々散在致し、何れも習合之神道之則法を以、且中之諸祈祷相勤来申候、然に社法之儀者天台真言社家、並本山修験等之宮々に順往古より社礼を相勤申候、依之其社々之衣之装束風折烏帽子着用致し相勤申候、且又梓巫女権与之儀者、往古遠久呪歌之伝授にて、梓神子一家之法式にて他家に不伝、習合神道之行法を以諸祈祷等相勤申候、有増如斯御座候事、諸国配下の者共の儀は、乍恐常陸国水戸東照宮様御神事を奉初、同国金砂大権現大祭礼七十三年一度宛の御神事、正徳五年三月朔日に執行仕候まで十三度に及申候、依之国々に於て社礼之儀、天下泰平御武運御長久御祭礼相勤来申候事。&lt;br /&gt;
: 一、元禄十五年閏八月二十七日西宮神職と争論之節、阿部飛騨守様、永井伊賀守様、本多弾正少弼様御裁許之上にて猶以相極申候、各社役之儀、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;委&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は正徳元年卯正月十八日本多弾正少弼様、森川出羽守様、安藤右京進様御裁許の上にて、梓神子法例文章御吟味之上御極被下置候事。&lt;br /&gt;
: 右は今般家法之儀御尋に付、支配頭田村八太夫之儀御座候得者、難尽筆紙之儀は、猶又御尋も御座候はば、乍恐以口上逐一言上可申上候、以上&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　江戸浅草三社権現神主&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　田村八太夫支配国役人&lt;br /&gt;
: 宝暦六年子三月　　　　　　　　　　　　信州北条郡長窪新町　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　梓神子法例&lt;br /&gt;
: 諸国之散在神子如伝来相勤、諸神勧請&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;次&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;家法之梓致執行、勿論神差帰上之法式、並荒神鎮座之祓及び幣帛等、以習合神道而壇中之諸祈祷可相勤之者也、若於国々粉敷梓神子於致徘徊者、以此判而相改、堅可停止事。&lt;br /&gt;
: 右書附之趣厳密可相守之矣、若以新法他職而乱家法者於有之者、急度可為越度者也&lt;br /&gt;
: 正徳巳亥暦正月十八日　　　　　　　　　　　　　神事舞太夫　田村八太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　飯嶋　兵庫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　国役人　丸山　式部（印）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
之に由れば、田村家が正徳年中には、既に巫女の取締をやっていた事は明白であるし、更に「高崎誌」巻下に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 下横町に神事舞太夫という者三四人あり（中略）、彼等が妻は多く梓巫なり（中略）、彼等は江戸浅草神事舞太夫田村八太夫と云う者より、職法書を受て三社権現を祭る由云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記してある。猶お少々煩雑に過ぎるようではあるが、前掲の信州長窪町の神事舞太夫である飯嶋与太夫が、妻、妹、娵の三梓巫女のために差出した関所通行の文書があるので、参考までに抄録した。これに由ると、舞太夫の家庭に在る女性は、悉く巫女を営んだようにも思われ、且つその名称などに就いても、多少の資料となると信じたので、鶏助の譏りを知りつつ、敢て此の挙に出た次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　上野国甘楽郡磯沢村御関所梓神子人別帳&lt;br /&gt;
: 信州小県郡長久保宿　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　妻梓神子　注連翁&lt;br /&gt;
: 　　　妹梓神子　宮　高&lt;br /&gt;
: 　　　娵梓神子　朝　日&lt;br /&gt;
: 右之通人別帳差上候処、少も相違無御座候、如例年御関所御通被遊可被下候、右神子之内紛敷者壱人も無御座候、若粉敷ものと申もの有之候はば、私共何方迄も罷出急度申訳可仕候、為後日仍如件&lt;br /&gt;
: 　　年号月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　梓神子組頭　飯嶋与太夫&lt;br /&gt;
: 右は長久保宿神事舞太夫蛭子方梓神子有之、宗門帳も別帳に差出候、然る所諸国散在梓神子共、御関所御手判なしに通候抔と所々にて申候由に付、右宿名主前右衛門を無急度内糺し候処、右之通前右衛門を以書付坂本役所へ差出候也（前掲の「聞伝叢書」巻四に拠る）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯うした資料がある上に、「甲子夜話」巻七十七にも、「田村氏関東の梓巫女を支配す」と裏書をしているし、且つ代々の八太夫の妻や、娘が、市子を業としていた事から考えても疑いはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは田村家に伝わった呪術の方法は、如何なるものであったかと云うに、先ず&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;詠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;み歌（この歌詞は教えると飯の種がなくなるとて常子さんも教えてくれなかった）三十六首を基調とし、神占を依頼する人が神前へ入るまでに一首、入って坐った時に一首と云った風に声低く唱え（ここでは単なる和歌ではなくして呪文としてであることは言うまでもない）て往って、呪術を行う市子の膝の前には六張の弓（これを六首六張と云うている）を並べ、菅の葉でこれを掻き鳴らしながら残りの歌を詠むのを、神懸りの作法としていた。そして六張の弓とは、梓の弓、雌竹、雄竹の弓、桑の弓、南天の弓などで、弦は女の髪の毛を麻にまぜて撚り合せたものである。此の弓の故事は、神功皇后が征韓の折に神占をなされたが、弓が無かったので、手頃の木を切って弓となし、弦には畏くも御自身の髪の毛を用いたものだと伝えている（以上「都新聞」記事摘要）。併し、私に言わせると、是等の呪法は、別段に八太夫独特のものではなく、九州の巫女が、十三仏や西国三十三番の詠歌を唱えて（此の事は後段に詳述する）神懸りするのと、全く同じものである上に、更に弓の故事などに至っては、無理勿体をつけて、俗人を嚇すほどの&amp;lt;u&amp;gt;さかしら&amp;lt;/u&amp;gt;にしか過ぎぬ。神后の征韓といえば、戦いに赴かれる陣中であるのに、武器である弓が無いとは辻褄の合わぬ話である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の血筋を伝えている唯一人の田村常子さんは、本年三十五歳の女盛りのお方であるが、呪術は実母の故菊子刀自（相模国愛甲郡生れ）から学び、更に菊子刀自は、祖父（十二代目の八太夫）に教えられたもので、常子さんは十九歳の娘の時から是れに従事したそうである。私が第一回に訪ねた際には、家に伝えた呪術用の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;外法箱&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゲホウバコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（高さ一尺ほど横八寸ほど幅五寸ほど、外は黒漆塗り内は朱塗り、印籠蓋になっていて、蓋をとると中に深さ一寸位の&amp;lt;u&amp;gt;かけ&amp;lt;/u&amp;gt;盒があって、常には玉珠数を入れて置いたという）や、玉珠数（これに就いては後に述べる）その他の秘伝書まで見せてくれ、種々親切に話してくれたが、その折に外法箱に関して語られるには、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: この箱はずっと以前には用いたそうですが、母の代からは遣わぬことになっていました。外の梓巫女は、此の箱の中へ犬の頭だとか、又は木偶だとかを入れると聞きましたが、私の家では是等の物は一切用いず、ただ十八柱の神の名（この神名を尋ねたが、常子さんには明確に答えられず、多分、天神七代に地神五代を併せ、その他に六柱を加えたものでしょうとの事であったが、それでは後に載せる常子さんの亡父八太夫の話とは少しく異る点がある）を紙に書いて入れたに過ぎません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と殆んど弁明的の態度で語られたが、紙に記した神名を納めるには、如何にも箱が深かすぎるので、或は古くは他流の市子と同じく、何か異物を納めたのではあるまいか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お「都新聞」の記事によると、八太夫も後になると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 古風の通り遣っていたのでは、頼む方が笑って相手にせぬので、切り離した珠数（常子さんの話に、此の珠数の珠は我国の数を象って六十六とし、外に親玉として天地を象り二つを加えてある。そして神占のときには、その珠を九々で払って往って、残った数でやるのだという。私は全く周易を真似たようなものだと考えた）一本と、錦襴の布に包んだ女神六柱と、男神六柱の神名を書いたもので、伺いを立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と語っている。そして此の珠数を用いる事を、俗に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;珠数占&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ジュズウラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と称している。又た同家に伝えた呪術に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;九気&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;キュウキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」の法とて、一気天上ノ水、二気虚空ノ火、三気造作ノ木、四気剣鉄ノ金、五気欲界ノ土、六気江河ノ水、七気国土ノ火、八気森林ノ火、九気山中ノ金というがあり、更に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し」の呪文は、神を祭るとき、仏を呼ぶとき、生霊を招ぐとき、病気を治すとき、神占のときなど、事毎に別のものがあるとて、これは教えることを好まぬようであったので、私も深く尋ねることを差控えるとした。併し強いて言えば、九気の法と称するものは、現に一部の迷信者の間に行われている九星と称するものと、さして変っているとも思われぬし、且つ数珠占も、他の市子（大正六年、東京市外亀井戸町の天満宮の裏門の所に市子がいるので、学友ネフスキー氏と携え訪ねた時にも、此の数珠占のことを聴かされた）も用いるので、神降しの呪文も又そうしたものではないかと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私に斯う考えさせたに就いて一つの旁証がある。余りに非学術的の事ではあるが、巫女が呪文と称して、此の上もなく神秘のものとする正体も、詮索して見ると、想ったよりは価値の無いものだということを説明しているので、筆序に附記するとした。それは、明治初年に、八太夫の弟子巫女で、横浜の福徳稲荷の宮守りをしていたお寅婆というのがあった。占術神の如しというので流行ッ子となり、毎日幾十人となく依頼者があるので、小金を蓄えるようになったが、同家の飯炊き婆が之を見たり聞いたりして羨しがり、別に一戸を構えて巫女の業を始めると、之も不思議と俗信を集め繁昌した。八太夫が或る日、その飯炊き婆の所へ往って見ると、一生懸命に神降しをしていたが、その唱える呪文が『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一二三四&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒフミヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;南無阿弥陀仏』を繰り返している。八太夫はその出鱈目に驚いたものの、依頼客の前でそれは間違っているとも云えぬので、客が帰ってから呪文は『一二三四五六七八九十百千万』と唱えるもので、然もこれは天鈿女命が天の岩戸開きの折に唱えた、尊いものであると教えて戻って来ると、十日ほどしてその飯炊き婆が八太夫の許へ来て、正しい呪文より、口なれた呪文の方が、よく神占が当るとて、又元の一二三四南無阿弥陀仏を用いたということである（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
呪文の正体（これは後段に幾つかの変ったものを挙げるが、これを押しくるめて）は、蓋しその悉くが、斯かる他愛もないものである。私の郷里である南下野地方でえ行われた寄り祈祷などでも、御幣を持った仲座に神をつける時に用いた呪文は『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;月山羽山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツキヤマハヤマ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、羽黒の大権現、並びに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;稲荷&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウカ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の大明神』というのを、大勢して、然も高声に、妙な節をつけて、やや急速に唱えるだけであった。私はその時分から、これは大勢が寄ってたかって、異口同音に大声を出して&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;怒鳴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;どな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りさえすれば、仲座は催眠状態に入るのだなと考えていた。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|後]]に言うが、越後と羽後の国境の三面村に行われた神降しの呪文などは、実に簡単でもあり、且つ意味をなさぬようなものであるのは、私の考えが必ずしも無稽でないことを裏附けていると信じたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　巫女の修行法と田村家の収入&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の記事の一節に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;u&amp;gt;いち&amp;lt;/u&amp;gt;子は七つから十五歳まで、諸方ほ神社へ八丁&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;舞籠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マイコモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神楽巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カグラミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に差出し（中山曰。これは、神楽&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;と、口寄&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;とを混同したように思われるが、今は原文に従うこととする）、十五歳になると身体が汚れるので、早速結婚させ、古くから此の掟を守って来た。市子の修業は、宰領（中山曰。前掲の飯嶋与太夫の文書に「国役人」とあるのと同意であろう）とて、市子二十人位に一人づつ取締を置き、地方では宰領の許に収容して、これが一切の教えをしたものである。若い市子連を、国々へ出張修行させたのは、これは国々の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;訛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りを覚えさせるためで、訛りを知らぬと、口寄せの文句が、誠らしく聞えぬからである云々（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。而して常子さんが、私に示してくれた書類によると、此の修行は、九気、玉占（珠数占の事）、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（死霊を祀る事）、八方責、神占等の二十六種に分れていたが、果して之だけ教えたものか否か、実際は判然しなかった。而して、常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 自分は修行の方法として、方々の神社仏閣へ毎日のように参詣に遣られたものです。催眠状態に入るには相当の修練を要しますが、馴れて来ると、直ぐに此の状態になることが出来ます。巫女と神様との関係は、親子夫婦よりは親密なもので、覚醒しているときでも、更に常住坐臥ともに、絶えず神様がついているように気持が致します。本来なれば、巫女は亭主は持てぬこと（中山曰。常子さんは岡田光太郎という良人を有し、三人の子供を儲けている上に、私が第二回目に訪ねたときには臨月に近い大きなお腹をしていた）になっていました。そして身体の不浄なときには、神様に近寄らぬようにしますが、永年この神懸りをしていますと、女子でありながら段々男子のようになって（即ち性格変換である）来ます云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とのことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 亡父の話に、徳川時代には、関八州の市子達が、免許状を貰いに来るので、殆んど毎日のように、その人物や修行を試験するので、多忙を極めたそうです。そして是等の市子から、何程の役料を収めたものか知りませんが、明治になってからは、壱年一円二十銭づつでったと記憶しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
との事であった。併しながら、江戸期における田村家の収入は莫大なもので、免許状の授与料や、年々の役料も相当の金額に達したであろうし、更に此の外に、表芸の神事舞太夫関係の収入や、青襖像の御影の収入もあり、かなり豪奢な生活であったらしい。殊に十一代目の八太夫は中々の遣り手で、妾なども蓄えていたが、重要なる書類や、什具などは、悉く妾に持ち去られたとのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;五　明治石院と田村家の退転&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治元年十一月四日に、田村八太夫は東京府へ召出され、『是迄の通り頭役仰付』との辞令を受け、漸く安堵の胸を撫で下したのも束の間で、翌明治二年七月に、左記の如き——八太夫としては殆んど致命的の布達に接し、古来の特権は悉く奪わるることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 神事舞太夫職ノ儀に付、先般配下職業勤方、以箇条書雛形相伺候件々（中山曰。此の伺書は田村家に残っていぬ）ハ、不正ノ節ニ付一切禁止申付候事&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫頭之名目差止、向後舞夫頭ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、神社祭礼之節、神楽相勤候儀、是迄之通不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、舞夫支配ノ儀ハ是迄之通、東京ヘ居住之輩而己配下ト可相心得事&lt;br /&gt;
: 一、大国主命之像配り候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、幣帛ヲ以テ竃土公ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、月待日待祈念之時、幣帛ヲ以執行、符字差出候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、梓神子之名目差止、向後梓女ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、玉占之儀不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、青襖札ヲ以竃之向ヘ張、竃ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、絵馬札配リ候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 右之条堅可相守、配下之輩モ禁止ノ廉無洩相触、急度為相守可申候、此段相達候事（中山曰。句読点は私の加えたものである）&lt;br /&gt;
: 巳七月　　　　　　　　　　　東京府&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　社寺局印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この布達に由れば、八太夫は、従来の特権の大部分を失い、僅に、（一）東京に居住する舞太夫だけを配下とすること、（二）神楽舞を勤めること、（三）梓女を支配することだけに局限されてしまったのである。田村家の打撃は言うまでもないが、「巫学談弊」を著して、所謂鈴振り神道なるものを極端にまで嫌厭した、平田篤胤翁の学風が海内を吹巻り、併もその学風が、当時の神祇官の方針となっていた明治維新の変革としては、蓋し止む得ぬ結果と見なければならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに明治初年の混雑は、神道や仏教方面にも多大の影響を来たし、万事を改革するに急なる余り、かなり非常識の事も行われ、神仏分離を励行しながら、神仏習合の神社を拵えるやら、祭神の入れ変えをするやら、社地の誤認をするやら、今から思うと少からぬ手落ちもあった様である。殊に民間信仰の対象となっていた富士講は扶桑教となり、御嶽講は神習教となり、就中、富士講は一先達であった宍野半という人物が、一躍して扶桑教の管長となり、然も道教の管長は宍野家代々の世襲たるべしという両本願寺を真似て、管長を独占してしまった。而して是等の現状を見せつけられた八太夫は、巫女を中心として一種の教会を建設し、これを支配下に置こうと企て、幸い東京府の布達にも梓女を認め、玉占を許しているので、ここに「神道梓女教」なるものを造り、従来の如く、諸方の巫女を集めて呪法を教え、左の如き免許状を出して収入を計り、独立を期したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 九気、玉占、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、八方責、招魂式、神占、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;佐々&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ササ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;祓祈祷法&lt;br /&gt;
: 右八ヶ課ヲ修行セシ事ヲ正ニ証ス&lt;br /&gt;
: 明治　年月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　神道梓女教　田村八太夫　印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の田村氏の運動が、どの位までに成功したか、それは今からは明確に知ることは出来ぬが、私の推測するところでは、余り成功を見ずに終ったようである。現に八太夫の女婿岡田光太郎氏（常子さんの良人）の談に徴するも、岡田氏が八太夫の供となり、江戸時代から田村氏の配下である東京市内及び近郊の市子の許を歴訪した事があったが、今人この道を棄てて泥土の如き譬えに漏れず、心から八太夫を以前の取締または触頭として迎えてくれた者は極めて少数であって、他の多くの市子は冷淡を越えて、寧ろ厄介者扱いにするという態度であったという点からも、こう推測して大過はないようである。而して斯くてある間に、明治六年教部省令を以て、一切の市子の呪術が禁止されることとなり、これに加うるに、文化の向上は市子を信ぜぬようになったので、八太夫の計画も全く壊滅に帰し、田村家最後の八太夫であった甲子太郎氏も、陋巷に老いを嘆ずるようになり、遂に補助ボーイとまで零落して、頽齢に負いきれぬ生活苦と闘いつつあったが、あの大地震のあった大正十二年十一月七日に六十一歳を以て永眠し、ここに江戸以来の或種の名家であった田村家も、男系尽きて断絶することになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記述後「祠曹雑識」巻三十六を見ると、寛政七年四月に田村家から寺社奉行に差出した書上があって、その一節に宝永四年十二月に幸松勧右衛門（元の神事舞太夫頭）が不埒のため頭役を召放されたので、翌宝永五年に八太夫が頭役を相続したとあるから、家乗の信用されぬことが明白となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1320</id>
		<title>日本巫女史/第三篇/第一章/第二節</title>
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		<updated>2010-04-16T17:40:23Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第一章|第一章　巫道を退化させた当代の世相]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　関東の市子頭田村家の消長==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸期のうち約二百年の長きを通じて、関東八ヶ国と、甲信二ヶ国、及び奥州の一部へかけての市子は、江戸浅草田原町一丁目に住した田村八太夫（代々此の名を通称としたが、家の伝えによると、関八州の支配をしたので八太夫と称したとある）なる者が、代々市子頭として、一切の取締りをして、明治期に至ったのである。従って、田村家の詳細を知ることは、一面江戸期における神子の生活に触れ、一面八太夫配下の市子の呪術の他と異るところを考えさせるものがあるので、茲に私が親しく田村氏の遺族を訪ねて、見聞せるものと、諸書に散見せる記事とを参酌して、出来るだけ委曲を尽したいと思っている。江戸期における或る種の意味の名家であった田村氏も、明治期の大勢に打ち敗られて退転し、遺族も僅に女子一人を残しただけで、他は悉く死に断えてしまったので、今にその事跡を伝えなければ、遂に煙滅に帰してしまうと考えたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　田村家の由来と舞太夫&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田村家の家系は、何でも彼でも無理勿体をつけたがる江戸期の影響を受けていて、かなり粉飾されていると同時に誇張の限りを尽したものである。明治二年に東京府へ書上げたと称する書類の手控に由ると、同家は本国は参河、佐々木源氏の支流で、一時兵乱を避けて、相模国田村郷に住んだので、田村を姓とすることになったが、初代田村直親が、天正十八年小田原征伐のとき、徳川氏に仕えて戦功があったので、釆地二百石を賜り、後に慶長五年関ヶ原の戦役に、又々殊勲あって、三百石を加増され、代々旗下の士として、江戸幕府に仕えて来た。然るに、四代田村道則のときに至り、正徳三年正月、関八州及び甲信奥の十一ヶ国の、神事舞太夫の支配を願い出たところ、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 権現様（中山曰。家康）御由緒を以て、職号を習合神道関東一派武官神職と相唱改、国々職掌之者法例取極渡度旨、安藤右京亮殿を以て御許容（中略）、是迄頂戴の高差上、惣支配下より役料と唱壱人別鐚六百孔宛取立度旨相願候処、同十二月中御聞済（中略）、代々各例を以支配一手に御任被遊、御用書物役所と唱、京都に差図を不受、進退共仕候事云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と先ずその由来を記し、更に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 天文年中十一ヶ国御免勧化永代御容ノ義、松平左近将監殿奉願候処、御聞済に相成御代々様無滞被下置候事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記載してある。而して更に、同家に伝えた別紙の系譜に由ると、田村氏は饒速日命より四十三代（一々神名と人名とが書いてあるが省略する）を経て、印葉太郎物部政雄より分れ、幸松物部直親より四代を経て、前記の初代田村直親になったと記してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の家系や、由来が、到底、信用すべき限りでない事は、記事そのものが、有力に証示している。私はこれに関する管見を述べる前に、更に十三代目田村甲子太郎氏（即ち最後の田村八太夫）が、大正七年四月二十六日より同年翌月三日まで、前後七回に亘って「都新聞」に連載した記事中から、家系に関する主なる点を抄出して、両者の間に如何程の相違があり、従って同家に伝えた由緒書なるものが、如何にするも無条件では受け容れられぬことを明示したいと思う。即ち、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 大阪落城の折に、徳川家康を助けた桶屋の親爺が江戸へ下り、浅草田原町に住し幸松勘太夫と称し、関八州の巫女の取締りとなった。吉田家（陰陽師の家）、土御門、白河、幸松の四家だけで通婚して、他家とは縁組しなかった。関八州の取締となったので八太夫と通称を言うようになり、後に浅草三社権現の祠官となったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:遺族常子.gif|thumb|田村常子氏]]&lt;br /&gt;
これによれば、最後の八太夫は、流石に家系の奈何がわしいことに気附いていたと見え、饒速日命も、関ヶ原の戦功も語らなかったものと思われる。然るに、現存の田村常子（最後の八太夫の長女で、併も田村氏の血を承けし唯一人の遺族）は、家系と亡父の記事との矛盾を救うために『桶屋の親爺ではなくして、掘井戸用の桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;で家康を助けたのである』と言っているが、これは要するに、堅白同異の弁であって、家康は桶屋の親爺には勿論のこと、桶&amp;lt;u&amp;gt;がわ&amp;lt;/u&amp;gt;の中に隠れて助かったことなどは、正史には曾て無いことであるから、何れにするも問題にはならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に田村家が代々五百石の食禄を領し、旗本として何不足なき身でありながら、四代目になって、突如として食禄を返還し、当時の社会感情から言えば、賤業卑職とまで思われていた神事舞太夫や市子頭——よし、それが触頭であったにせよ、取締であったにせよ、好んで人生の逆境に処したとは、如何にするも常識では考えられぬことである。これは何か他に事情が存していたか、それでなければ、家康の由緒書が全く偽造であるか、その二つのうちの一つでなければならぬ。喜多村信節翁は、何によって考えたものか、その著「嬉遊笑覧」巻六において、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 江戸神田明神は、昔より神事能としてこれ有しとぞ。北条以後暮松太夫上方より下り、江戸に住んで此の神事能をつとめしが、其者没して宝生太夫これをつとむ。暮松が子孫は大神楽打の頭となれりとなむ。思ふに田村八太夫は暮松の子孫なる歟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記している。而して私の愚案を簡単に云うと、田村氏の祖先は、三河院内の作太夫の徒であったのが、家康が江戸に幕府を開いたので、その縁故を言い立てて、神事舞太夫の取締となり、後にずるずるべったりに、巫女の取締まで兼ねるようになったのであると考えている。全体、江戸期における舞々は、帳外者の職業であって、その取締は、例の弾左衛門がして来たものである。その舞々に、少し毛が生えた位の舞太夫を、好んで勤めるほどの八太夫、饒速日命は愚かのこと、作太夫と同じ畑の者と見るのが至当のようである。殊に家系にも幸松の姓が見え、八太夫の記事にも幸松とあるのから推すと、作太夫の徒が幸松の業を学び、江戸に居ついたものと考えても、差支ないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　習合神道と舞太夫の関係&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文化年中に、江戸幕府で、諸国の地誌の編纂を企て、これが資料を覓めて、一二の地誌の脱稿を見るに至ったが、その中に、文化十三年に江戸市内から書上げさせたもので「御府内備考」と云うのがある。此の巻十六浅草田原町の条に、田村家に関する詳細なる書上が載っているので、少しく長文に亘る嫌いもあるが、左に転載して、これに私見の蛇足を添えるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　習合神道神事舞太夫頭田村沢之助&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　沢之助幼年に付後見友山求馬書上左之通&lt;br /&gt;
: 一、習合神道神事舞太夫家道之儀は、往古より相立、頼朝公御治世始て支配頭相立、乍恐、御当家に至ては、御入国之砌参州より御供仕、習合神道神事舞太夫頭被仰付、京都神家之不請差図、御公儀御威光を以一派相極め被下置、支配下の神主宮持並社役之者には、頼朝公並北条家之御墨附致所持候もの、又は御府内御免勧化被仰付候者有之候、且支配下へ風折烏帽子装束之許状差出申候。尤右免許之儀者私代替家督被仰付候段、御奉行所於御内寄合に先格之通被仰渡候、且呼名国名等も差免し候事。&lt;br /&gt;
: 一、習合神道一派に三像札御許容有之候。&lt;br /&gt;
: 一、竃神青襖札、古来より年々正・五・九月御府内御免、配札名代のもの巡行為致候事。&lt;br /&gt;
: 一、御免絵馬札配札之儀者、文化十三年子年十一月中、阿部備中守様え友山求馬奉願、同十二月十八日、松平右近将監様於御内寄合に願之通被仰渡、年々正月配札名代のもの御府内致巡行候。且在々えは配下のもの致配札候事。&lt;br /&gt;
: 一、当四月（中山曰。文化十三年）二十五日吹上へ被召出候一件は、吉田殿関東執役宮川弾正より、下総国葛飾郡栗沢村茂侶神社神主友野相模え吉田家配下見廻り役申付候故、同人儀田村沢之助支配下、下総国印旛郡米本村神事舞太夫小林丹波へ呼状相付、装束へ差障候に付、其段友山求馬並本庄内記、鈴木豊後より友野相模相手取奉出訴候処、段々御吟味之上今般熟談、御吟味下げ奉願候は、友野相模儀習合神道之儀者京都神家之不請指図、御公儀御威光を以一派御極め被下置候を不相弁、呼状相付職道へ差障候は重々心得違に付、訴訟方へ相詫、且宮川弾正儀も向後手入ヶ間敷儀致間敷筈にて、規定致し候事。&lt;br /&gt;
: 一、吉田家、白川家配下神主社人どもに許状無之ものは、御奉行所、御評席且御評定所へ被召出候節は、牢人台之御取扱に候得共、私支配下老若男女共に武家に属し致故、御評定所にては上訴訟へ被召出、御評席にては上椽通之御取扱に御座候事（中山曰。以下、浅草三社権現祭礼、天下乞の神楽、観音市、稲荷社の四項を省略す）。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由緒&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家道之儀は、習合神道にて往古より武家に属、乍恐御公儀様御威光を以、神事舞太夫職は一派御極被下置、職札、法例、烏帽子装束之許状御許容被成下、他之神職相構候義無之、一派之職道相立来候、且又私支配之儀は関八ヶ国並信州甲州、会津表迄散在仕、配下之輩には神主に宮持、社役人之品有之、各社例を以神事祭礼相勧来は、宮々は御朱印地之配当を請、又は御料、私領之内御除地所持仕候者共数多有之、其外総支配下神事舞太夫の義は、宮持社役人未流にて、総応の且中相分習合神道を以家職勧来候。&lt;br /&gt;
: 一、関東に支配頭相勤罷在候起りは、頼朝公御治世鶴若孫藤治と申者、頭役相勤申候御墨附頂戴仕、其子孫今に相州平塚宿に罷在、御除地所持仕、鶴岡八幡宮の社役相勤罷在候、将亦小田原北条家時分天十郎と申もの、関東八ヶ国の頭役相勤御墨附頂戴仕（中山曰。此の事は「新編相模風土記稿」にも載せてある）其子孫今以相州小田原に御除地所持仕罷在候、右両人の子孫私支配下の神職にて、今以相続仕罷在候、此砌より武家に属、一派之神職相立来候。&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫由来&lt;br /&gt;
: 一、私支配下之儀は諸国散在仕神主、社役人之品有之、代々社例を以神事祭礼神楽相勤、御除地之宮社所持仕罷在候、且亦社役人之内には天台真言或は社家本山修験之宮社にて、従古来由緒筋目を以御朱印配当、又は御除地所持仕候もの共数多御座候（中山曰。以下、水戸東照宮、水戸砂金山、浅草三社権現、千葉妙見社、武蔵六所明神、相州高麗大権現の六祭礼の神事舞太夫の記事を省略す）。&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫帯刀之儀は、宮持社役人平配下之者一統従古来致来申候。去る明和三年戌二月二十四日、土岐美濃守様帯刀之儀御尋御座候に付、古来より支配一統仕来候段、親父八太夫時代書付差上申候。且又席之儀は支配下之者一同願、訴訟御座候節は先々御下通へ罷出申候。此段相違無御座候以上。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の書上は、同じような事を幾度となく繰返して記しているが、結局は種の無い手品を遣う様なもので、取りとめたものは、一つも無いと云えるのである。元々、舞太夫の由緒に過ぎぬ問題を兎や角と詮議立てするのも大人気ない話ではあるが、「家道は往古遠久」の一点張りで逃げ道を開け、頼朝の墨附があるなどと云うかと思えば、それは田村家ではなくして鶴若家だとは、かなり人を喰った言い分と云わなければならぬ。併し、そんな事は巫女史の上からは、どうでも宜い問題であるから、深く洗い立てせぬとするが、此の書上に附いて見るも、田村氏が市子の取締をしたということは、一言半句も説明していぬ。これは如何なる事情であろうか、私としては此の詮議こそ出来るだけ充分に尽さなければならぬ問題である。以下これに就いての管見を述べるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　田村家の巫女取締とその呪法&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫が関八州の梓&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の取締となったのは、果して何年頃に如何なる理由に基くのか、少しも判然して居らぬ。前掲の書上にも、神事舞太夫の事は管々しいと思うほど書き列ねてあるが、市子に関しては、遂に一言半句も触れていない。若し、各地の舞太夫の妻女は概して市子であったから、夫の舞太夫を取締るという事は、直ちに妻の巫女を取締ることを意味しているのであると云えば、此の問題も容易に解決する訳ではあるが、それでは舞太夫以外の修験者の妻女である市子や、更に人妻で無い市子（此の数は決して少くなく、恐らく、修験者関係の市子と独身者の巫女の合計は、舞太夫関係の実数よりは、迥かに多かったと思われる）を如何にしたかと云う問題が残されるのである。併し、此の事の真相は、寡見に入っただけの資料では、遂に判然せぬ問題ではあるけれども、兎に角に、田村氏が江戸期の中葉から関八州の市子の取緒をして来たことだけは、否定されぬ事実である。前に引用した「聞伝叢書」巻四に左の如き文書が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　神事舞太夫並梓巫女之事&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　神事舞太夫次第書&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫家法之儀は、往古遠久之職道にて国々散在致し、何れも習合之神道之則法を以、且中之諸祈祷相勤来申候、然に社法之儀者天台真言社家、並本山修験等之宮々に順往古より社礼を相勤申候、依之其社々之衣之装束風折烏帽子着用致し相勤申候、且又梓巫女権与之儀者、往古遠久呪歌之伝授にて、梓神子一家之法式にて他家に不伝、習合神道之行法を以諸祈祷等相勤申候、有増加斯御座候事、諸国配下の者共の儀は、乍恐仕候まで十三度に及申候、依之国々に於て社礼之儀、天下泰平御武運御長久御祭礼相勤来申候事。&lt;br /&gt;
: 一、元禄十五年閏八月二十七日西宮神職と争論之節、阿部飛騨守様、永井伊賀守様、本多弾正少弼様御裁許之上にて猶以相極申候、各社役之儀、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;委&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は正徳元年卯正月十八日本多弾正少弼様、森川出羽守様、安藤右京進様御裁許の上にて、梓神子法例文章御吟味之上御極被下置候事。&lt;br /&gt;
: 右は今般家法之儀御尋に付、支配頭田村八太夫之儀御座候得者、難尽筆紙之儀は、猶又御尋も御座候はば、乍恐以口上逐一言上可申上候、以上&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　江戸浅草三社権現神主&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　田村八太夫支配国役人&lt;br /&gt;
: 宝暦六年子三月　　　　　　　　　　　　信州北条郡長窪新町　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　梓神子法例&lt;br /&gt;
: 諸国之散在神子如伝来相勤、諸神勧請&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;次&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;家法之梓致執行、勿論神差帰上之法式、並荒神鎮座之祓及び幣帛等、以習合神道而壇中之諸祈祷可相勤之者也、若於国々粉敷梓神子於致徘徊者、以此判而相改、堅可停止事。&lt;br /&gt;
: 右書附之趣厳密可相守之矣、若以新法他職而乱家法者於有之者、急度可為越度者也&lt;br /&gt;
: 正徳巳亥暦正月十八日　　　　　　　　　　　　　神事舞太夫　田村八太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　飯嶋　兵庫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　国役人　丸山　式部（印）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
之に由れば、田村家が正徳年中には、既に巫女の取締をやっていた事は明白であるし、更に「高崎誌」巻下に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 下横町に神事舞太夫という者三四人あり（中略）、彼等が妻は多く梓巫なり（中略）、彼等は江戸浅草神事舞太夫田村八太夫と云う者より、職法書を受て三社権現を祭る由云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記してある。猶お少々煩雑に過ぎるようではあるが、前掲の信州長窪町の神事舞太夫である飯嶋与太夫が、妻、妹、娵の三梓巫女のために差出した関所通行の文書があるので、参考までに抄録した。これに由ると、舞太夫の家庭に在る女性は、悉く巫女を営んだようにも思われ、且つその名称などに就いても、多少の資料となると信じたので、鶏助の譏りを知りつつ、敢て此の挙に出た次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　上野国甘楽郡磯沢村御関所梓神子人別帳&lt;br /&gt;
: 信州小県郡長久保宿　飯嶋与太夫（印）&lt;br /&gt;
: 　　　妻梓神子　注連翁&lt;br /&gt;
: 　　　妹梓神子　宮　高&lt;br /&gt;
: 　　　娵梓神子　朝　日&lt;br /&gt;
: 右之通人別帳差上候処、少も相違無御座候、如例年御関所御通被遊可被下候、右神子之内紛敷者壱人も無御座候、若粉敷ものと申もの有之候はば、私共何方迄も罷出急度申訳可仕候、為後日仍如件&lt;br /&gt;
: 　　年号月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　梓神子組頭　飯嶋与太夫&lt;br /&gt;
: 右は長久保宿神事舞太夫蛭子方梓神子有之、宗門帳も別帳に差出候、然る所諸国散在梓神子共、御関所御手判なしに通候抔と所々にて申候由に付、右宿名主前右衛門を無急度内糺し候処、右之通前右衛門を以書付坂本役所へ差出候也（前掲の「聞伝叢書」巻四に拠る）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯うした資料がある上に、「甲子夜話」巻七十七にも、「田村氏関東の梓巫女を支配す」と裏書をしているし、且つ代々の八太夫の妻や、娘が、市子を業としていた事から考えても疑いはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは田村家に伝わった呪術の方法は、如何なるものであったかと云うに、先ず&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;詠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;み歌（この歌詞は教えると飯の種がなくなるとて常子さんも教えてくれなかった）三十六首を基調とし、神占を依頼する人が神前へ入るまでに一首、入って坐った時に一首と云った風に声低く唱え（ここでは単なる和歌ではなくして呪文としてであることは言うまでもない）て往って、呪術を行う市子の膝の前には六張の弓（これを六首六張と云うている）を並べ、菅の葉でこれを掻き鳴らしながら残りの歌を詠むのを、神懸りの作法としていた。そして六張の弓とは、梓の弓、雌竹、雄竹の弓、桑の弓、南天の弓などで、弦は女の髪の毛を麻にまぜて撚り合せたものである。此の弓の故事は、神功皇后が征韓の折に神占をなされたが、弓が無かったので、手頃の木を切って弓となし、弦には畏くも御自身の髪の毛を用いたものだと伝えている（以上「都新聞」記事摘要）。併し、私に言わせると、是等の呪法は、別段に八太夫独特のものではなく、九州の巫女が、十三仏や西国三十三番の詠歌を唱えて（此の事は後段に詳述する）神懸りするのと、全く同じものである上に、更に弓の故事などに至っては、無理勿体をつけて、俗人を嚇すほどの&amp;lt;u&amp;gt;さかしら&amp;lt;/u&amp;gt;にしか過ぎぬ。神后の征韓といえば、戦いに赴かれる陣中であるのに、武器である弓が無いとは辻褄の合わぬ話である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の血筋を伝えている唯一人の田村常子さんは、本年三十五歳の女盛りのお方であるが、呪術は実母の故菊子刀自（相模国愛甲郡生れ）から学び、更に菊子刀自は、祖父（十二代目の八太夫）に教えられたもので、常子さんは十九歳の娘の時から是れに従事したそうである。私が第一回に訪ねた際には、家に伝えた呪術用の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;外法箱&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゲホウバコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（高さ一尺ほど横八寸ほど幅五寸ほど、外は黒漆塗り内は朱塗り、印籠蓋になっていて、蓋をとると中に深さ一寸位の&amp;lt;u&amp;gt;かけ&amp;lt;/u&amp;gt;盒があって、常には玉珠数を入れて置いたという）や、玉珠数（これに就いては後に述べる）その他の秘伝書まで見せてくれ、種々親切に話してくれたが、その折に外法箱に関して語られるには、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: この箱はずっと以前には用いたそうですが、母の代からは遣わぬことになっていました。外の梓巫女は、此の箱の中へ犬の頭だとか、又は木偶だとかを入れると聞きましたが、私の家では是等の物は一切用いず、ただ十八柱の神の名（この神名を尋ねたが、常子さんには明確に答えられず、多分、天神七代に地神五代を併せ、その他に六柱を加えたものでしょうとの事であったが、それでは後に載せる常子さんの亡父八太夫の話とは少しく異る点がある）を紙に書いて入れたに過ぎません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と殆んど弁明的の態度で語られたが、紙に記した神名を納めるには、如何にも箱が深かすぎるので、或は古くは他流の市子と同じく、何か異物を納めたのではあるまいか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お「都新聞」の記事によると、八太夫も後になると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 古風の通り遣っていたのでは、頼む方が笑って相手にせぬので、切り離した珠数（常子さんの話に、此の珠数の珠は我国の数を象って六十六とし、外に親玉として天地を象り二つを加えてある。そして神占のときには、その珠を九々で払って往って、残った数でやるのだという。私は全く周易を真似たようなものだと考えた）一本と、錦襴の布に包んだ女神六柱と、男神六柱の神名を書いたもので、伺いを立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と語っている。そして此の珠数を用いる事を、俗に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;珠数占&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ジュズウラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」と称している。又た同家に伝えた呪術に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;九気&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;キュウキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」の法とて、一気天上ノ水、二気虚空ノ火、三気造作ノ木、四気剣鉄ノ金、五気欲界ノ土、六気江河ノ水、七気国土ノ火、八気森林ノ火、九気山中ノ金というがあり、更に「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミオロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;し」の呪文は、神を祭るとき、仏を呼ぶとき、生霊を招ぐとき、病気を治すとき、神占のときなど、事毎に別のものがあるとて、これは教えることを好まぬようであったので、私も深く尋ねることを差控えるとした。併し強いて言えば、九気の法と称するものは、現に一部の迷信者の間に行われている九星と称するものと、さして変っているとも思われぬし、且つ数珠占も、他の市子（大正六年、東京市外亀井戸町の天満宮の裏門の所に市子がいるので、学友ネフスキー氏と携え訪ねた時にも、此の数珠占のことを聴かされた）も用いるので、神降しの呪文も又そうしたものではないかと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして私に斯う考えさせたに就いて一つの旁証がある。余りに非学術的の事ではあるが、巫女が呪文と称して、此の上もなく神秘のものとする正体も、詮索して見ると、想ったよりは価値の無いものだということを説明しているので、筆序に附記するとした。それは、明治初年に、八太夫の弟子巫女で、横浜の福徳稲荷の宮守りをしていたお寅婆というのがあった。占術神の如しというので流行ッ子となり、毎日幾十人となく依頼者があるので、小金を蓄えるようになったが、同家の飯炊き婆が之を見たり聞いたりして羨しがり、別に一戸を構えて巫女の業を始めると、之も不思議と俗信を集め繁昌した。八太夫が或る日、その飯炊き婆の所へ往って見ると、一生懸命に神降しをしていたが、その唱える呪文が『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;一二三四&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒフミヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;南無阿弥陀仏』を繰り返している。八太夫はその出鱈目に驚いたものの、依頼客の前でそれは間違っているとも云えぬので、客が帰ってから呪文は『一二三四五六七八九十百千万』と唱えるもので、然もこれは天鈿女命が天の岩戸開きの折に唱えた、尊いものであると教えて戻って来ると、十日ほどしてその飯炊き婆が八太夫の許へ来て、正しい呪文より、口なれた呪文の方が、よく神占が当るとて、又元の一二三四南無阿弥陀仏を用いたということである（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
呪文の正体（これは後段に幾つかの変ったものを挙げるが、これを押しくるめて）は、蓋しその悉くが、斯かる他愛もないものである。私の郷里である南下野地方でえ行われた寄り祈祷などでも、御幣を持った仲座に神をつける時に用いた呪文は『&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;月山羽山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツキヤマハヤマ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、羽黒の大権現、並びに&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;稲荷&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウカ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の大明神』というのを、大勢して、然も高声に、妙な節をつけて、やや急速に唱えるだけであった。私はその時分から、これは大勢が寄ってたかって、異口同音に大声を出して&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;怒鳴&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;どな&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りさえすれば、仲座は催眠状態に入るのだなと考えていた。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|後]]に言うが、越後と羽後の国境の三面村に行われた神降しの呪文などは、実に簡単でもあり、且つ意味をなさぬようなものであるのは、私の考えが必ずしも無稽でないことを裏附けていると信じたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　巫女の修行法と田村家の収入&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八太夫の記事の一節に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;u&amp;gt;いち&amp;lt;/u&amp;gt;子は七つから十五歳まで、諸方ほ神社へ八丁&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;舞籠&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マイコモリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神楽巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カグラミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に差出し（中山曰。これは、神楽&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;と、口寄&amp;lt;u&amp;gt;みこ&amp;lt;/u&amp;gt;とを混同したように思われるが、今は原文に従うこととする）、十五歳になると身体が汚れるので、早速結婚させ、古くから此の掟を守って来た。市子の修業は、宰領（中山曰。前掲の飯嶋与太夫の文書に「国役人」とあるのと同意であろう）とて、市子二十人位に一人づつ取締を置き、地方では宰領の許に収容して、これが一切の教えをしたものである。若い市子連を、国々へ出張修行させたのは、これは国々の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;訛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なま&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りを覚えさせるためで、訛りを知らぬと、口寄せの文句が、誠らしく聞えぬからである云々（以上「都新聞」記事摘要）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。而して常子さんが、私に示してくれた書類によると、此の修行は、九気、玉占（珠数占の事）、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（死霊を祀る事）、八方責、神占等の二十六種に分れていたが、果して之だけ教えたものか否か、実際は判然しなかった。而して、常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 自分は修行の方法として、方々の神社仏閣へ毎日のように参詣に遣られたものです。催眠状態に入るには相当の修練を要しますが、馴れて来ると、直ぐに此の状態になることが出来ます。巫女と神様との関係は、親子夫婦よりは親密なもので、覚醒しているときでも、更に常住坐臥ともに、絶えず神様がついているように気持が致します。本来なれば、巫女は亭主は持てぬこと（中山曰。常子さんは岡田光太郎という良人を有し、三人の子供を儲けている上に、私が第二回目に訪ねたときには臨月に近い大きなお腹をしていた）になっていました。そして身体の不浄なときには、神様に近寄らぬようにしますが、永年この神懸りをしていますと、女子でありながら段々男子のようになって（即ち性格変換である）来ます云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とのことであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に常子さんの語る所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 亡父の話に、徳川時代には、関八州の市子達が、免許状を貰いに来るので、殆んど毎日のように、その人物や修行を試験するので、多忙を極めたそうです。そして是等の市子から、何程の役料を収めたものか知りませんが、明治になってからは、壱年一円二十銭づつでったと記憶しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
との事であった。併しながら、江戸期における田村家の収入は莫大なもので、免許状の授与料や、年々の役料も相当の金額に達したであろうし、更に此の外に、表芸の神事舞太夫関係の収入や、青襖像の御影の収入もあり、かなり豪奢な生活であったらしい。殊に十一代目の八太夫は中々の遣り手で、妾なども蓄えていたが、重要なる書類や、什具などは、悉く妾に持ち去られたとのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;五　明治石院と田村家の退転&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治元年十一月四日に、田村八太夫は東京府へ召出され、『是迄の通り頭役仰付』との辞令を受け、漸く安堵の胸を撫で下したのも束の間で、翌明治二年七月に、左記の如き——八太夫としては殆んど致命的の布達に接し、古来の特権は悉く奪わるることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 神事舞太夫職ノ儀に付、先般配下職業勤方、以箇条書雛形相伺候件々（中山曰。此の伺書は田村家に残っていぬ）ハ、不正ノ節ニ付一切禁止申付候事&lt;br /&gt;
: 一、神事舞太夫頭之名目差止、向後舞夫頭ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、神社祭礼之節、神楽相勤候儀、是迄之通不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、舞夫支配ノ儀ハ是迄之通、東京ヘ居住之輩而己配下ト可相心得事&lt;br /&gt;
: 一、大国主命之像配り候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、幣帛ヲ以テ竃土公ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、月待日待祈念之時、幣帛ヲ以執行、符字差出候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、梓神子之名目差止、向後梓女ト唱可申事&lt;br /&gt;
: 一、玉占之儀不苦候事&lt;br /&gt;
: 一、青襖札ヲ以竃之向ヘ張、竃ヲ祓候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 一、絵馬札配リ候儀禁止之事&lt;br /&gt;
: 右之条堅可相守、配下之輩モ禁止ノ廉無洩相触、急度為相守可申候、此段相達候事（中山曰。句読点は私の加えたものである）&lt;br /&gt;
: 巳七月　　　　　　　　　　　東京府&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　社寺局印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この布達に由れば、八太夫は、従来の特権の大部分を失い、僅に、（一）東京に居住する舞太夫だけを配下とすること、（二）神楽舞を勤めること、（三）梓女を支配することだけに局限されてしまったのである。田村家の打撃は言うまでもないが、「巫学談弊」を著して、所謂鈴振り神道なるものを極端にまで嫌厭した、平田篤胤翁の学風が海内を吹巻り、併もその学風が、当時の神祇官の方針となっていた明治維新の変革としては、蓋し止む得ぬ結果と見なければならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに明治初年の混雑は、神道や仏教方面にも多大の影響を来たし、万事を改革するに急なる余り、かなり非常識の事も行われ、神仏分離を励行しながら、神仏習合の神社を拵えるやら、祭神の入れ変えをするやら、社地の誤認をするやら、今から思うと少からぬ手落ちもあった様である。殊に民間信仰の対象となっていた富士講は扶桑教となり、御嶽講は神習教となり、就中、富士講は一先達であった宍野半という人物が、一躍して扶桑教の管長となり、然も道教の管長は宍野家代々の世襲たるべしという両本願寺を真似て、管長を独占してしまった。而して是等の現状を見せつけられた八太夫は、巫女を中心として一種の教会を建設し、これを支配下に置こうと企て、幸い東京府の布達にも梓女を認め、玉占を許しているので、ここに「神道梓女教」なるものを造り、従来の如く、諸方の巫女を集めて呪法を教え、左の如き免許状を出して収入を計り、独立を期したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 九気、玉占、六首六張、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神差帰上&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミサキアゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、八方責、招魂式、神占、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;佐々&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ササ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;祓祈祷法&lt;br /&gt;
: 右八ヶ課ヲ修行セシ事ヲ正ニ証ス&lt;br /&gt;
: 明治　年月日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　神道梓女教　田村八太夫　印&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の田村氏の運動が、どの位までに成功したか、それは今からは明確に知ることは出来ぬが、私の推測するところでは、余り成功を見ずに終ったようである。現に八太夫の女婿岡田光太郎氏（常子さんの良人）の談に徴するも、岡田氏が八太夫の供となり、江戸時代から田村氏の配下である東京市内及び近郊の市子の許を歴訪した事があったが、今人この道を棄てて泥土の如き譬えに漏れず、心から八太夫を以前の取締または触頭として迎えてくれた者は極めて少数であって、他の多くの市子は冷淡を越えて、寧ろ厄介者扱いにするという態度であったという点からも、こう推測して大過はないようである。而して斯くてある間に、明治六年教部省令を以て、一切の市子の呪術が禁止されることとなり、これに加うるに、文化の向上は市子を信ぜぬようになったので、八太夫の計画も全く壊滅に帰し、田村家最後の八太夫であった甲子太郎氏も、陋巷に老いを嘆ずるようになり、遂に補助ボーイとまで零落して、頽齢に負いきれぬ生活苦と闘いつつあったが、あの大地震のあった大正十二年十一月七日に六十一歳を以て永眠し、ここに江戸以来の或種の名家であった田村家も、男系尽きて断絶することになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記述後「祠曹雑識」巻三十六を見ると、寛政七年四月に田村家から寺社奉行に差出した書上があって、その一節に宝永四年十二月に幸松勧右衛門（元の神事舞太夫頭）が不埒のため頭役を召放されたので、翌宝永五年に八太夫が頭役を相続したとあるから、家乗の信用されぬことが明白となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
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		<title>日本巫女史/第三篇/第一章/第一節</title>
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		<updated>2010-03-28T09:13:38Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇|第三篇　退化呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第三篇/第一章|第一章　巫道を退化させた当代の世相]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第一節　巫女の流派と是れに対する官憲の態度==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来の史家は、室町期三百年間を闇黒時代と言っている。成る程、将軍の威令が地に墜ち、社会の秩序は毀たれ、海内は群雄の一起一仆の戦乱の巷と化し、国民は塗炭の苦を続けると云うのであるから、闇黒といえば言われぬこともないが、併し国家としては、相当の発達を遂げているのである。将軍代々の僭上好きは東山美術を大成し、五山文学の振興はやがて儒教の普及となり、支那及び和蘭との交通は、海外の新知識を呼吸するなど、後代の文化を招致すべき準備が講ぜられていたのである。殊に、巫女史の立場から見て、注意すべき点は、戦乱の苦杯を満喫させられた社会と民衆は、物質的にも精神的にも、深甚なる困憊を経験したのである。而して此の結果として、民間に著しき増加を来たしたものは迷信である。江戸期から明治期の中頃まで、民間に行われた迷信の多くは、概して室町期において集成されたものである。財神信仰である七福神も、暦術の中段下段の穿鑿も、七曜九星の方術も、更に明治初年に廃止された修験道も、此の修験道と運命を共にした市子なる者も、その他の冠婚葬祭、及び日常生活に伴う細大の迷信的事象は、殆んど此の室町期に工夫されたものか、又は大成されたものである。迷信と空想とは、失望時代の産物である。巫女史の観点に起つとき、室町期は注意すべき時代たるを失わぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の室町期に代った江戸期の三百年は、軍国政治を基調としただけに、重刑主義と威嚇主義とが幕府の総てであった。勿論、幕府は、当時の神道や、仏教が、共に形骸だけであって、民心を支配し、陶冶するに足らぬことを知っていたので、隆んに儒教を重用して、教化主義を鼓吹した。併しながら、搾取機関として存在を許されていた国民の生活は、単純でもあり、寂寥でもあり、且つ空虚でもあった。従って迷信が国民の生活に彩りを加えて、単調を救うようになったのも、当然の成り行きである。実際、江戸期の国民は、迷信を好んでいた。然もこれを勇敢に実行したものである。市子の如きは、此の時代にあっては、極端にまで堕落して、夙にも自滅すべき程の状態にありながら、猶お且つ全国の津々浦々にまで存在していたのは、国民が挙って迷信に沈湎していたためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本篇においては、此の室町期の末葉から江戸期を通じ、更に明治の禁断と、大正の余喘期を述べるのであるが、巫女は堕落し、呪術は胡盧を描くにとどまっているので、少しく不熟の嫌いはあるが、姑らく退化呪法時代と称した所以なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市子（口寄系）の流派は、前代を承けて、これを形式から見るときは、紀州熊野系、加賀白山系、稲荷下げ、飯綱遣い、夷子おろしなどが存していたようであるが、その悉くが、殆んど雑糅してしまって、私の浅学では、それを明確に区別することが出来ぬのである。更に呪術の方法においても、梓弓（長短の二種がある）を用いるもの、珠数を用いるもの、例の外法（髑髏）神を用いるものなどが在ったようであるが、これも全く混淆してしまって、同じく私の寡聞では、仔細に判別することが出来ぬのである。換言すれば、熊野系は珠数を用いるとか、白山系は梓弓をたたくとかいう分類が出来ぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば「丹後宮津府志」巻中に、同国与謝郡宮津町字中ノ町の鉾立山大乗寺の中興開山僧寛印が、下向の途すがら丹波の桂川にて一女に逢い、破戒して之を伴い、同町字波路町に居住するうち、一女を儲けた。後に寛印これを悔い&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;枳椇&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ケンホナシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の病気に利くと謀りて、婦人を黒崎山に赴かしめ、その身は死せりと偽り、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鱇魚&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コノシロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を焚き、火葬の態をした。婦女帰り来て、此の事を聞き悲しみて、海中に投じて死んで了った。残った娘は、成長して後に巫女となったが、これが我国の梓巫女の始めである。その子孫代々波路町に在りて、巫女を業としていたが、近世に至り、同所は断絶し、但馬国に末孫が残っているそうだ。波路町に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;屋敷、神子川などの地名が今に在るのは、此の由縁である云々。僧寛印が丹後に赴いたことは「元享釈書」にも載せてあり、その年代は、凡そ一条朝の寛弘八年頃と考えられるが、これの娘が我国の梓巫女の権輿者などとは信じられぬし、更に鱇魚を焚いて、火葬の態をすることは、下野国の室ノ八嶋の故事を附会したものと思われるので、従って、此の記事の学問上の価値は、頗る割引されるのであるが、強いて云えば、何か僧寛印から呪法を学んだ巫女のあったことを意味したもので、所謂、一派をなした巫女があったのではないかと考えられぬでもないが確証なきが如く、概念的には巫女の異流別派を認めるものの、さて具体的には、克明に詮索することが出来ぬのである。これは雑糅されてから余り多くの年代を経たのと、元々、公札の裏の営業であったために、長い間の秘密が、斯うした結果を将来したものと見るより外に致し方がないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
室町幕府が是等の巫女に対して、如何なる態度を以て臨んだかに就いては、是れ又た何事も寡聞に入らぬ。併し幕府としては、戦乱に慌しくして、さる些末の事には配慮する余裕もなかったろうし、或は制令を下すようなことがあったとしても、下克上を世相とした当代にあっては、励行されたとは考えられぬ。然るに国々の領主にあっては、おのがしじ適当と信ずる方法を以て、巫女に対していたようである。その一例を覓めれば、武田信玄は巫女を公許し、巫女頭と称する取締人を認め、これに左の如き免許状を与えている〔一〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 今度自身聞附の神託無誹謗真法顕然之至令感人畢依而分国之内右職分ニテ徘徊之輩&lt;br /&gt;
: 対当家江守護長久可抽之旨依而如件&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　今福民部&amp;lt;sub&amp;gt;奉&amp;lt;/sub&amp;gt;&lt;br /&gt;
: 丸龍朱印　永禄十二年&lt;br /&gt;
: 　　　　　　巳五月　日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　甲信両国神子頭&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　千代女房へ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦国の英雄は、概して迷信が強く、信玄の好敵手であった上杉謙信の如きも、篤く飯綱の邪法に陥り、それが為めに生涯、女色を遠ざけたとまで伝えられている〔二〕。信玄も又その一人であって、常に巫覡の言を信じ、或は利用したものと見え、此の外にも信州戸隠神社の巫女に祈願を命じた文書が残っている〔三〕。而して此の免許状を受けた千代なる巫女は、信州の名族滋野氏の末裔で、此の女が後に小県郡禰津村に土着し、日本一の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女村&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコムラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を造るようになったのであるが、それに就いては、[[日本巫女史/第三篇/第二章/第三節|後段]]に詳述する考えである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸幕府は伝統政策として、特殊の職業に対しては、出来るだけ自治を許し、所謂、治めざるを以て治むる方針を執ったのである。盲人に当道派と称する団体を認めて、殺人、放火、姦通の三罪以外には、団体の名を以て刑の執行まで許し〔四〕、修験道にあっては、更に石子詰の極刑まで黙認したと伝えられている〔五〕。従って巫女の如きは「帳外者」として、一切の納税を免除すると同時に、古くはエタ頭弾左衛門の配下とし〔六〕、後には「遊民」として之を取扱った。「続地方落穂集」巻二の「人別四段認様之事」と題せる記事中に、遊民として『陰陽&amp;lt;u&amp;gt;いち&amp;lt;/u&amp;gt;御子の類、釜祓、瞽女、虚無僧、鉦打、行人』等を挙げているのが、それである。既に帳外者であり、遊民である以上は、巫女の社会的地位は極めて低級なるものであって、全く普通民とは伍することの出来ぬ境涯に置かれ、院内、算所、願人などと同視されていたのである。されば殆んど全国に亘って巫女を賤め、甲斐のシラカミ筋、中国のミコ筋を始めとして、普通人はこれと通婚する事さえ絶対に拒否したものである。「徳川禁令考」巻四十「神社神職之者評定所着席之例」に『神子女に候得者、下椽』と定め、更に但書にて『巫女と認候ても&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と読申候』としたのは、即ち神社に附属する神子であって、巫女は神子の名によって、漸く此の資格を得るという有様であった。それであるから、江戸期には神社附属の神子と、町村土着の市子との権限、及び作法を厳重に区別し、前者は悉く吉田家の管下となし、後者は関八州にあっては田村家の配下となし、その他は、国々の触頭ともいうべき者に、支配させたのである。「聞伝叢書」巻四（日本経済大典本）に載せた左の裁許状は、前者の作法を明記したものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　神子之事&lt;br /&gt;
: 信濃国小県郡古町諏訪大明神新町諏訪大明神両社之神子志摩着赤色早舞衣任先例神事神楽等可勤仕者&lt;br /&gt;
: 　神道裁許状如件&lt;br /&gt;
: 　　宝暦七年四月十六日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　氏刂阝月&lt;br /&gt;
: 神祇管領長上従二位神権大卜臣兼雄&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　示畐礻𠦝&lt;br /&gt;
: 四組木綿手繦之事許宮神子志摩起、向後可掛用之状如件&lt;br /&gt;
: 　　宝暦七年四月十六日&lt;br /&gt;
: 　　　　　神祇管領&lt;br /&gt;
: 右之外中臣祓三種祓六根清浄大祓相渡也&lt;br /&gt;
: 右は吉田家より長久保町神子志摩へ之許状写也、且神子官位之儀者、師匠神主祠官等之取次にて相添由志摩申聞候、且国名を不附朝日春日抔と申名之神子は無官にて、瓔珞金入之千早等者不相成神子祠子山伏等を師として七条抔と申法を請、鶴亀模様等之白絹千早着神楽等勤候段、右志摩申聞候事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
即ち此の裁許状の証示するところに由れば、（一）神子は、志摩とか、山城とか、国名を附けることが出来たが、市子は、それが出来ぬので、朝日とか、春日とか称したのである。（二）神子は、瓔珞金入りの千早を着ることが出来たが、市子は鶴亀模様の白絹の千早より着ることが出来なかった。猶お後出の文書によると、（三）神子は、湯立の神事を行うことを許されていたが、市子は行うことを禁じられていたようである。而して後者の所属（関八州の市子の事は[[日本巫女史/第三篇/第一章/第二節|次節]]に述べる）に就いては、「民族と歴史」第四巻第四号所載の「須富田村（中山曰。土佐国香美郡？）疋田七五三太夫文書」に下の如き下知状が見えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 追而申遣候、物部川より東甲浦限、両郡中所々算所取前&amp;lt;u&amp;gt;神子&amp;lt;/u&amp;gt;くし之事、前々のごとく此主馬太夫に申付候間、先代□□万事可申付候、並、役義等之事無油断可仕候也&lt;br /&gt;
: 　二月六日　　（山内）一豊（花押）&lt;br /&gt;
: 　　　　　かかの郡&lt;br /&gt;
: 　　　　　あき郡&lt;br /&gt;
: 　　　　　　所々庄屋中&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の文書によれば、土佐国にては、市子は算所の配下に属し、然も算所に対して、多少の役銭（取前神子くしとは此の意なるべし）を納めたようにも思われるのである。市子の社会的地位は、全くドン底であったとも云えるのである。猶お、吉田家管下の神子と、修験派支配の市子との間に起った、権限作法等に関する訴訟に就いては、[[日本巫女史/第三篇/第一章/第三節|後段]]に記すので彼之を参照せられたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 此の古文書は、東京市外杉並町馬橋百四十番地町田良一氏の発見保管せるものにて、同氏の好意で、茲に掲ぐることが出来たのである。謹んで謝意を表する次第である。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 「関八州古戦録」で見たと記憶している。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 「徴古文書」の乙集に載録してあるが、本書には関係が少いので、省略した。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「当道大記録」、「瞽幻書」、「当道式目」等参照せられたい。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 「郷土研究」第四巻第六号所載の拙稿「石子詰の刑に就いて」を参照されたい。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 弾左衛門の家に伝えた治承年間源頼朝の下し文のうちに、賤業卑職二十八種を挙げて、支配すべしとあるうちに、巫女がある。勿論、此の文書は、疑いないまでの偽書であるが、然も此の偽書であることを知っていながら、幕府が弾左衛門に支配させたところに、治めざるを以て治むるとした政策が窺われるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80&amp;diff=1317</id>
		<title>トーク:日本巫女史/第二篇/第六章/第三節</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://docs.miko.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80&amp;diff=1317"/>
		<updated>2010-03-21T05:06:03Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.598&lt;br /&gt;
** 目次に従い「巫女の流せる弊害と&#039;&#039;&#039;そ&#039;&#039;&#039;の禁断」を「巫女の流せる弊害と&#039;&#039;&#039;其&#039;&#039;&#039;の禁断」に改めた。&lt;br /&gt;
* 底本 p.599&lt;br /&gt;
** 「続日本紀」引用中、多麻呂の流刑先として「多{衣偏{坴攵}}島」とあるのを「多褹島」に改めた。&lt;br /&gt;
** 「続日本紀」引用中、「就薬師寺&#039;&#039;&#039;宜&#039;&#039;&#039;詔」は「就薬師寺&#039;&#039;&#039;宣&#039;&#039;&#039;詔」の誤植と思われる為に改めた。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2010年3月21日 (日) 14:06 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.601&lt;br /&gt;
** 「類聚三代格」引用中「宜於京外祓除」直後の読点を省いた。&lt;br /&gt;
** 「出来なかつも見え」→「出来なかったと見え」&lt;br /&gt;
** 「巫覡の出歿」→「巫覡の出沒」--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2010年3月21日 (日) 14:06 (JST)&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.599&lt;br /&gt;
** 「続日本紀」の引用に「与八幡神宮主神多麻呂」とあるが、原文では「與八幡神宮主&#039;&#039;&#039;神司大&#039;&#039;&#039;神&#039;&#039;&#039;朝臣&#039;&#039;&#039;多麻呂」のようだ。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2010年3月21日 (日) 14:06 (JST)&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80&amp;diff=1316</id>
		<title>トーク:日本巫女史/第二篇/第六章/第三節</title>
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		<updated>2010-03-21T04:37:35Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.598&lt;br /&gt;
** 目次に従い「巫女の流せる弊害と&#039;&#039;&#039;そ&#039;&#039;&#039;の禁断」を「巫女の流せる弊害と&#039;&#039;&#039;其&#039;&#039;&#039;の禁断」に改めた。&lt;br /&gt;
* 底本 p.599&lt;br /&gt;
** 「続日本紀」引用中、多麻呂の流刑先として「多{衣偏{坴攵}}島」とあるのを「多褹島」に改めた。&lt;br /&gt;
** 「続日本紀」引用中、「就薬師寺&#039;&#039;&#039;宜&#039;&#039;&#039;詔」は「就薬師寺&#039;&#039;&#039;宣&#039;&#039;&#039;詔」の誤植と思われる為に改めた。&lt;br /&gt;
* 底本 p.601&lt;br /&gt;
** 「類聚三代格」引用中「宜於京外祓除」直後の読点を省いた。&lt;br /&gt;
** 「出来なかつも見え」→「出来なかったと見え」&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.599&lt;br /&gt;
** 「続日本紀」の引用に「与八幡神宮主神多麻呂」とあるが、原文では「與八幡神宮主&#039;&#039;&#039;神司大&#039;&#039;&#039;神&#039;&#039;&#039;朝臣&#039;&#039;&#039;多麻呂」のようだ。&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
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		<title>日本巫女史/第二篇/第六章/第二節</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1315"/>
		<updated>2010-03-20T17:23:58Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第六章|第六章　巫女の社会的地位と其の生活]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　巫女の給分と其の風俗==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巫女の給分及びその収入等に就いては、神社に附属せる&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神和&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カンナギ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;系の神子と、町村に土着せる&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;口寄&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クチヨセ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;系の市子とに区別して記述するのが正当であるが、私の寡聞のため、前者に関しては多少の資料を有するも、後者に関しては全く知見するところが無いのである。そこで止むなく、茲には前者に就いてのみ記し、後者に就いては仮定を述べて、後人の大成に俟つこととする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊勢の斎宮、賀茂の斎院は、普通の巫女と申上げることは出来ぬので今は省くが、先ず宮中における御巫、巫等に就いては、（一）一定の給分と、（二）臨時の給分とがあった。而して一定の給分に就いては「延喜式」巻三に『新任&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;御巫&amp;lt;sub&amp;gt;ニハ&amp;lt;/sub&amp;gt;皆給&amp;lt;sub&amp;gt;へ&amp;lt;/sub&amp;gt;屋一宇&amp;lt;sub&amp;gt;ヲ&amp;lt;/sub&amp;gt;{長二丈。庇二/面長各二丈}』とあって、現今なれば、官舎ともいうべきものを給り、外に『凡諸&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;御巫者。各給夏&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;時服絁一疋。冬&amp;lt;sub&amp;gt;ハ&amp;lt;/sub&amp;gt;不給。其&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;食&amp;lt;sub&amp;gt;ハ&amp;lt;/sub&amp;gt;人別&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;人&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;白米一升五合。塩一勺五撮』とある。併し、これ等の給分は、誠に寡少のものであって、金額に見積れば、実にお話にならぬほどであるが、要するに、宮中における御巫や、巫等は、神々に仕える聖職であり、且つ無上なる名誉でもあったので、余り物質上のことなどは苦にせぬ人々であったに相違ない。殊に、宮中のことは、九重雲深くして詳細に漏れ承ることは出来ぬが、これ等の御巫や巫等は、世襲的に奉仕したものと察せられるので、旁々、その給分の如きは、問題とされていなかったであろう。然るに、これに反して、臨時的の給分にあっては、その祭儀により、元より一様ではないが、相当の収入となったようである。「延喜式」に散見するところを要約して、左に記載することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;春日&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;神四座&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;祭&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 斎服料&lt;br /&gt;
: 物忌一人&amp;lt;sub&amp;gt;ガ&amp;lt;/sub&amp;gt;料。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;夾纈&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カフケチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;帛三丈五尺。羅&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;帯一条。紫&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;絲四両。錦鞋一両。{已上/封物}錦二条。{一条長三尺五寸。一/条長六尺。並広四寸}絁三疋二丈九尺。縁&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;絁一疋。紗七尺。韓櫛二枚。紅花一斤二両。東絁三尺五寸。綿三屯半。支子五升（中略）。右祭&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;料依前&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;件。春&amp;lt;sub&amp;gt;ハ&amp;lt;/sub&amp;gt;二月。冬&amp;lt;sub&amp;gt;ハ&amp;lt;/sub&amp;gt;十一月&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;上申日祭之（中略）。其物忌一人食。日&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;白米一升二合。塩一勺二撮云々（以上。巻一、四時祭上）。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;大原野&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;神四座&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;祭&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 斎服料&lt;br /&gt;
: 物忌二人&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;。別&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;夾纈&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;帛。浅緑&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;帛各三丈。絁一疋二丈五尺。帛一疋五丈六尺五寸。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;表裙&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ウハモ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;一腰。帯一条。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;縹&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ハナダ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;帛二丈四尺。緋&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;帛一丈五尺。紫&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;絲二両。綿四屯。東絁三尺五寸。履一両。紅花五両。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;支子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クチナシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;五升。御巫一人&amp;lt;sub&amp;gt;ガ&amp;lt;/sub&amp;gt;絁一疋。浅緑帛一匹。綿二屯。表裙一腰。物忌御巫別&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;縁&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;絁一疋云々（同上）。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;平岡&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;神四座&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;祭&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 斎服料&lt;br /&gt;
: 物忌一人&amp;lt;sub&amp;gt;ガ&amp;lt;/sub&amp;gt;装束料絹四疋九尺。夾纈&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;絁三丈五尺。綿三屯六両。錦九尺五寸。紗七尺。紅花一斤三両。支子五升。錦鞋一両。紫絲四両。韓櫛二枚云々（同上）。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;松尾祭&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 斎服料&lt;br /&gt;
: 物忌&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;王&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;オホギミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;氏夏&amp;lt;sub&amp;gt;ハ&amp;lt;/sub&amp;gt;絹五疋。{冬加/一疋}綿十屯。紅花小六斤。銭一貫六百卅文。{冬料/准此}&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;和&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヤマト&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;氏。大江氏並&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;夏&amp;lt;sub&amp;gt;ハ&amp;lt;/sub&amp;gt;別&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;絹二疋。{冬加/一疋}綿三屯。紅花小三斤。銭六百卅文。{冬料/准此}云々（同上）。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;大殿祭&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 斎服料&lt;br /&gt;
: 供奉&amp;lt;sub&amp;gt;スル&amp;lt;/sub&amp;gt;神今食御巫等&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;装束。{十二月/不給}&lt;br /&gt;
: 御巫絹四疋。絁一丈一尺。綿二屯。細布六尺。紅花六斤。銭百卅文。{中宮御/巫亦同}&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;座摩&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヰカスリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;。御門。生島。東宮&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;巫各絹三疋。絁各九尺。綿一屯。細布六尺。紅花一斤。銭百卅文。&lt;br /&gt;
: 供奉神今食人等&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;禄。&lt;br /&gt;
: （前略）。御巫&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;絹三疋。{中宮御/巫亦同}座摩。御門。生島。東宮&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;巫各二疋（同上）。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;鎮魂祭&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 官人以下&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;装束料。{中宮宮/主准此}&lt;br /&gt;
: （前略）。御巫{中宮。東宮。/御巫准此}御門&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;巫一人。生島&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;巫一人&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;。各青摺&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;袍一領。{表裏別/帛三丈}綿二屯。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;下衣&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シタカサネ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;一領。{表裏別/帛三丈}綿二屯。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;単衣&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒトへ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;一領。{帛三/丈}表裙一腰。{表裏別帛/三丈。腰料一丈}綿二屯。下裾一腰。{同/上}袴一腰。{帛三丈/五尺}綿二屯。単袴一腰。{帛二/丈}&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;帔&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ウチカケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;一條。{帛二/丈}&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;褶&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒラミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;一條。{緋帛/四丈}紐一条。{錦三/丈}髻髪并襪料細布一丈。領布&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;紗七尺。櫛二枚。履一両。座摩巫一人&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;青摺袍一領{表裏別帛/二丈五尺}綿一屯。下衣一領{同/上}綿一屯。単衣一領。{帛二丈/五尺}表裙一腰。{表裏別帛三丈/腰料一丈}綿一屯。下裙一腰。{同/上}袴一腰。{帛一丈/五尺}綿一屯。単袴一腰。{帛一/丈}&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;帔&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;一條。{帛一/丈}褶一條。{緋帛一/丈五尺}紐一条。{錦一/丈}領巾・六尺。襪&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;料細布五尺。履一両（以上。巻二。四時祭下）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の祭儀を一々詳述して、御巫及び巫等の職掌を細説し、而して是等の給分の事を説明すべきであるが、そう克明に渉らずとも、大体は会得されることと信じたので省略した。而して、伊勢の両皇太神宮における物忌の定員、及び給分等は、「延喜式」巻四によると、大略左の如きものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;太神宮三座&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: （前略）。物忌九人。{童男一人/童女八人}&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;父&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;チチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;九人云々。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;荒祭宮一座&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 内人二人。物忌。父各一人。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;度会宮四座&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: （前略）。物忌六人。父六人云々。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;多賀宮一座&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 内人二人。物忌。父各一人。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;九月神嘗祭&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;太神宮&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: 祢宜。大物忌二人&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;。各絹三疋。綿三屯（中略）。物忌。。絹一疋三丈。綿一屯云々。大物忌云々。日&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;祈&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;御巫云々。絹一疋。綿一屯云々。荒祭&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;宮（中略）。物忌一人&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;。絹一疋三丈。綿一屯云々。&lt;br /&gt;
: &#039;&#039;&#039;度会宮&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
: （前略）。大物忌一人&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;。絹二疋。綿二屯云々。物忌。絹一疋三丈。綿一屯云々（中山曰。これは僅にその一節を挙げたもの、詳しくは本書に就いて見られたい）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祭儀の行われる毎に、伊勢両宮の物忌は、臨時の給分を受けたことは、以上の一例を以て知る事が出来るが、更に一定の給分としては、同じ「延喜式」巻四に『物忌太神宮四人。度会宮三人。給年中食料、日&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;各米八合』とあり、猶お三節祭の直会には『物忌&amp;lt;sub&amp;gt;ニ&amp;lt;/sub&amp;gt;汗袗一領』を給することとなっていた。これも宮中の御巫などと同じく、給分としては、誠に些少のものであるが、併し大物忌は、荒木田氏の女に限り、その他の物忌も、各々家筋が限られていたほどの名誉の職掌とて、物質上の問題などはどうでも宜いという境遇であったようである。而して後世に、此の物忌が御子良と改り、物忌&amp;lt;sub&amp;gt;ノ&amp;lt;/sub&amp;gt;父が母良と改まるようになると、神領のうちからそれぞれ一定の給分を与えたものと見えて、「神鳳抄」に左の如き記事が散見している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　諸神田注進文（建久四年云々）&lt;br /&gt;
: 　　　　　安濃郡&lt;br /&gt;
: 重昌神田、宮守子良神田五段云々。&lt;br /&gt;
: 中万神田十一町之内二町五段之宮守子良神田。&lt;br /&gt;
: 一町七段百八十歩、大物忌子弘子良粮料。&lt;br /&gt;
: 二町五段在安東郡、大物忌父季貞神主、子良衣粮料。&lt;br /&gt;
: 一町五段在安西郡、同季貞神主子良衣粮料。&lt;br /&gt;
: 三町七段在安西郡、大物忌父光兼子良衣粮料。&lt;br /&gt;
: 一町四段在安西郡、大物忌父氏弘子良衣粮料。&lt;br /&gt;
: 　　　　　伊勢国安西郡&lt;br /&gt;
: 母良神田{一丁三/反大}子良神田{四丁/余}（中略）。舘母神田。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「神鳳抄」は、源頼朝が鎌倉に覇府を開いた折に、伊勢神領の整理をした記録であるが、これに由ると、物忌、子良の給分は、相当に豊富であったように考えられる〔一〕。併し、これ以外の神楽料等の雑収入が、如何に是等の者に配分されたかは、遂に寡見の及ばぬ問題である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宮中及び伊勢の御巫、物忌等の給分に就いては、極めて概略の記述を試みたが、さて是れ以外の、賀茂、春日、八幡、熱田等の大社に附属していた巫女の給分はどうであったか、これは各神社の古記録を仔細に検討したら、容易に知り得らるることと思うが、今の私としては此の容易の問題を詮索する余裕を有たぬので、誠に申訳の無い次第ではあるが、触目した資料だけを掲載し、一臠を以て全鼎の味を推すこととする。而して[[日本巫女史/第二篇/第三章/第一節|既述]]した宇佐八幡宮の巫朝臣杜女に従四位下を授け、これに伴う封戸を賜ったことは元より例外であるが、普通の巫女の給分は大体において尠少であったようである。「延喜式」巻卅五大炊寮の条に『松尾社物忌一人。料米三斗六升、小月、三斗四升八合』とあるが、これは日割にすれば、一升二合にしか当らず、然も小ノ月には一日分を控除するとは、かなり手厳しい待遇と云わなければならぬ。更に「三代実録」には、巫女の給分に関する記事が二ヶ所ほど見えているが、第一は貞観十二年六月二十七日の条に『松尾神社物忌一人、充日{○一本/作月}粮、立為永例云々』とあるが、恐らく、前掲の給分が一時的であったのを、定制としたまでであろう。第二は、元慶三年閏十月十九日の条に『伊勢高宮物忌、准諸宮物忌、永充月粮、以神封物給之』とあるのも、他の物忌に准ずとあれば、同じく食米を給せられる程度であったと見て大過ないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これでは如何に物質に縁遠き聖職にある巫女であっても、その日の生活にも追われがちではあるまいかと想像されるが、神々に仕え、信仰に活きる者には、又た相当の収入が在ったようである。これに就いて、[[日本巫女史/第一篇/第五章/第四節|既述]]の摂州広田、西宮の両社に仕えて、五十年の神職生活を送られた吉井良秀翁が、その著書「老の思い出」に載せられた『平安末期に御巫が置かれて有った事』と題せる一節は、よく広西両社の巫女の臨時収入の点を明かにし、且つ一般の巫女の生活にも触れているところが多いので、左にこれを転載することとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: この頃、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;など云うと、洵に卑いように思われるが、昔は決してそうで無い。宮中を始め、諸国の大社々々には、何方も置かれてあって、我広田西宮にも同様であった。今日では、里神楽と称して、各大小神社の私祭に雇われて来る者がある。之は各社でも、其の待遇が粗末で、一般からも軽視されている。伊勢神宮や、住吉、春日などは、その神楽所のみに、奉仕しているは別段で、是は品位を保たせてある。昔は何れにても、普通一般神社の如くで無く、品位を有ったものである。我が広田西宮でも、優に位置高く置かれてあった事は、書に見えてある。併し上下の階級はあったらしい。平家時代の厳島神社の如きは、幽雅美麗の御巫が置かれてあった事は〔二〕、高倉院厳島御代の途次、福原（中山曰。神戸市）の御所に御立寄の時、予て厳島から招き寄せてあった内侍八人（原注。内侍としてあるが全く御巫である）の舞楽を叡覧に入れ、終って御神楽を奏している。内大臣土御門通親公が、天人の降りたらんもかくやとぞ見ゆると、周囲の装飾もあったからであろうが、劇賞して日記に書いている。厳島御参拝の折にも、内侍ども老いたる若き、さまざま歩き連りて、神供まいらせ、とりつづきて、がくどもして、御戸ひらき参らせ云々とある如く、栄えたる神社には、いつも斯うした御巫があった。当神社（中山曰。西宮社）でも、古くは置かれてあったと見えて、近衛天皇の康治元年の事であるが、美福門院が新に寵を得られて、待賢門院の侍女で津守島子が、其夫なる散位源盛行が待賢門院の旨を受けて、広田神社の御巫朱雀と云うを召して、美福門院を呪詛せしめ、其事露顕して、検非違使を遣わし、盛行を捕え、銀筥を&amp;lt;u&amp;gt;西宮&amp;lt;/u&amp;gt;神宮に得て、盛行を流に処した事がある。是は「百練抄」に書いてある（原注。「大日本史」にもある）当時朱雀と称した巫女が、西宮にあったと見える。之を想像して見ると、現今大小神社にある所の巫女の様でなく、神前に常侍して居たもので、位置も決して卑しい者では無かったのである。夫れから五十年許りの後、後鳥羽天皇の建久頃に、巫女寿王と云う人が、当社にある事を「諸社禁忌」と云う書物に書いてある。此寿王という巫女も、文意を見ると、社中の上位に置かれた人である。それから又三十年許り後の、後堀河天皇の貞応三年に、神祇伯王が当社に参拝せられて、巫女の四条女宅を宿所とした。是は代々の例であると、「神祇官年中行事」に見えるが、此時伯王の行列と云うものは盛んな事で、船七八艘して下向し、大勢の行列で西宮浜に着き、伯王は乗輿で、衣冠の力者十二人で舁いで、神祇官員若干も皆衣冠、諸大夫以下皆布衣とあって、大層な様子に書いてある。夫れが巫女の四条の宅を宿所としたのである。されば巫女の宅は宏荘な物であったであろう。仮令、随行者皆迄が、此家で宿泊したのではあるまいが、兎も角も長官伯王の宿所と定めてあるから、夫れ相応な設備を要する資格の家でなければならない。況や代々の常宿であるらしい。巫女といえど社中でも立派な位置に居たものと見える。夫れからまだ書いてある事に、『今夜女房の宿願を果す為に、又&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;夷宮&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヱビスノミヤ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に参る、前に御神楽を行ふ、夷三郎及御大教前に於て、種々の事等あって、衣一領を「北宮四条に給ひ」絹一疋を「南宮兵庫一戎台」直垂「史巫為延」已上巫女等に給り了ぬ。此他堪能の巫女に纏頭を給ふ。大口一領、守護袋、帖紙等の類である』としてある。其四条とは巫女の名で北宮は広田社であろう。南宮兵庫の兵庫は巫女の名で、南宮に専属の巫女であろう。一戎台は何とも解き難かけれど〔三〕、夷社、専属の巫女の名であろう。史巫為延は即ち覡で、男の巫であろう。其他堪能の巫女にも夫々今云う祝儀を呉れたのである。之を見ると、巫女等の人数も、随分多かった事と見える。巫女に物を与える事は、当節の慣例と見えて、「厳島御幸記」にも、一々綿を給った事が見えている。今から七百八十年以前（中山曰。昭和三年より起算して）、巫女が当社に仕えていた。その地位を察すると、現今各社に用いる巫女の如きで無く、一廉の地位を占めていたらしい。此件を見て往昔広田西宮の隆昌であった事が知られる。序に云うて置きたい事がある。明治維新当時まで、当社には男の巫子が二人あって、表門前に宿屋を兼業していた。元禄正徳頃には幣司、鳥飼、大石、五十田等の名が見えている。維新頃の所作を見ると、神楽と云う程で無く極簡素な業で、講中や氏子の乞いにより、神楽所にて鈴の行事を行うのである。社役人と同じく下級の社人となっていた。然れども苗字帯刀はしていた（中山曰。読み易きよう句読点を加えた所がある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当代の巫女の生活と収入とを説いて詳細を尽しているが、併し斯うした事象は、独り広田西宮の両社に限られたことではなく、他の名神大社に附属していた巫女の上にも在った事と想われる。勿論、神徳の高下や、神社の隆替によって、その悉くが軌を一にしていたとは言われぬが、大体において共通したものと考えて差支ないようである。従って巫女の収入は一定の給分よりは、臨時に参拝者より受くる纏頭が多きをなしていたのであろう。江戸期になると、巫女の神社における位置は極めて低下し、殆んど有るか無きかの待遇に甘んじなければならぬ迄に余儀なくされていたが、それでも神楽銭の分配だけは収得する権利を有していた。是等に就いては、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に述べるので、茲に保留して置くが、平安朝頃の巫女の臨時収入は蓋し尠くなかったであろう。さればにや、[[日本巫女史/第二篇/第三章/第三節|既述]]の如く、金持の巫女を後妻に迎えた大臣のあったことが「宇津保物語」に見え、更に「源平盛衰記」によれば、平清盛が厳島の内侍（巫女）を愛し、その間に儲けた女を宮中にすすめ、然も此の内侍は、後に土肥実平の妻となったことが載せてあり、所謂、氏なくして玉の輿の好運を贏ち得た者もあったに相違ない。時代は降るが、室町期に常陸国鹿島神宮の物忌（即ち巫女）が、田地一町歩を同地の根本寺に永代寄進した古文書（著者採訪）が同寺に保存されている。左にこれを転載する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　奉寄進田地之事&lt;br /&gt;
: 　　　　合壱町者{鹿嶋郡宮本郷之内/神野下青木町也}&lt;br /&gt;
: 右彼田者依有志限永代寄附根本寺者也末代於此田不可有他之違乱妨如往古可被知行仍為後証寄附之状如件&lt;br /&gt;
: 　　応永十九年{壬/辰}十二月三日&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　鹿島太神宮　物忌　妙善&lt;br /&gt;
: 　　　　　当寺長老水賛西堂&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鹿島社の物忌は、他の巫女とは多少性質を異にし（此の事は[[日本巫女史/第一篇/第六章/第一節|既述]]した）ているし、殊に此の寄進者は物忌でありながら、仏教の篤信者と思われるので、此の一例を以て、他の総てを律することは、元より危険である。否々、危険ばかりでなく、是等は一般巫女の生活から見れば、全く稀有のことであって、その多くは薄給に苦しみ、世過ぎの途に窮していたのである。例えば「越知神社文書」に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　大谷寺（表袖書）「得石御子補任谷下禰宜子」&lt;br /&gt;
: 　　　　補任　八乙女神人事&lt;br /&gt;
: 　　　　　橘氏女&lt;br /&gt;
: 右以彼人所補任神人八乙女等宜承知、敢以勿違失、依大衆僉議、所補任之状如件&lt;br /&gt;
: 　　延徳二年四月　日　　　　　　　　　　　　　　　　　　公文在庁法印&lt;br /&gt;
: 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　院主伝燈大法師&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。大衆の僉議の、補任のと、大袈裟であるから、巫女の収入もこれに伴うものかと思えば、事実は極めて貧弱のもので、漸く祭礼のある毎に『大飯二前』か、『大飯三前、小飯四前、酒二瓶子』かの分け前を受ける外には、『御神楽料米銭成在所』として『六斗応神寺、八斗在田村、八斗坪谷村、二斗厳蔵寺、壱貫文田中郷』等の給分を〔四〕、然も神楽に従事する楽人や、八乙女など、大勢で分配するのであるから、その収入は実に粥を啜る程の乏しきものであった。されば、信仰の衰えると共に、巫女の地位も下り、後には下級の神人の妻女が、片手業にこれに従事するようになってしまったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記事が少しく前後するが、武家が勃興した鎌倉期にあっては、武家のために往々神領を奪取され、神社の経営にすら困難を来たすようになったので、さらぬだに軽視されていた巫女にあっては、猶お一段と給分を減少され、或は没却される破目に置かれるのであった。「吾妻鏡」巻三十三に、此の事を考えさせる左の如き記事が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、神宮御子職掌等、依為祠官、所充給之地、無指罪科、乍帯其職、不可点定事&lt;br /&gt;
: 一、同社司給地、無上仰之外、別当以私心、不可立替遠所狭少地事&lt;br /&gt;
: 一、依為社司、令拝領地輩之中、無子息之族、或譲後家女子、或付養君、権門致沙汰之間、新補宮人無給地之条、不便事也、自今以後、子息不相伝之者、付職可充行其地事&lt;br /&gt;
: 　以前条々、社家存此旨、不可違失之状、依仰下知如件&lt;br /&gt;
: 　　延応二年二月二十五日　　前武蔵守（泰時）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯うして幕府の保護のあるうちは、まだ巫女の給分も多少の確実性を有していたが、これが武家の押領が猖んになり、此の反対に神威が行われぬようになれば、巫女の生活の如きは、有るか無きかの境地に落されたのも、又た止むを得ぬ世の帰趨であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に神社を離れて村落に土着した口寄系の市子の収入であるが、之に就いては、皆目知ることが出来ぬのである。これこそ、全く私の寡聞の致すところではあるが、止むを得ない。江戸期になると、多少とも知るべき手掛りが残っているが、それ以前にあっては、その手掛りすら発見されぬ。併しながら、強いて想像すれば、その収入は決して多かったものとは考えられぬ。後世の事情を以て中世を推しても、流行ッ児とか上手とか言われる程の者であったら、生活するだけ位の収入もあったろうが、それ以外の者では、漸く糊口の料を得るのが関の山であったろう。旅を漂泊した巫女にあっても、内職の性的収入を別にしたら、その所得は必ず尠少であったに相違ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巫女は聖職に服する関係上、その風俗において常人と異るものがあったと思うが、之を証示する資料は余り多く残されていない。「続日本紀」巻三慶雲二年十二月の条に『令天下婦女、自非神部斎宮宮人及老嫗、皆髻髪云々』とあるのは、古代から巫女は、放ち髪（後世の下げ髪）であって、然も文武朝においても、猶お髪を結ばずとも差支ない事を許されていたのである。鉢巻と千早は、神に仕える女性が一般に用いた古制であるから、口寄せ市子も必ずやこれに倣ったことと思う。時代が迥かに降って室町期の末頃になると、関東辺の市子は、武田信玄が許せるという特殊の竹ノ子笠（此の事は[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に詳述する）を被り、信濃巫女は一名を白湯文字と呼ばれただけに、二布の白き湯具を纏うのを常としていたようであるが、これ以外にあっては、未だ耳福に接して居らぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 古代から中世へかけての巫女は、恰も近古の琉球の祝女の如く、一定の口分田を有していたことと思うが、これを明確に証示する資料は見当らなかった。後世の「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;御子免&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコメン&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」又は「神楽免」或は「獅子免」などと称する神田は、各地方の神社の附属地として存していたもので、即ち巫女の給分であったことを意味しているのである。併し、それも江戸期になると、多く民有地となってしまい、纔に耕地の字名として残るようになってしまった。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 「山槐記」治承三年六月七日の条に「今暁前太政大臣（平清盛）令参安芸伊都岐嶋給（中略）於放被□経供養竝内侍（巫也）等禄物料也、卅石可有許督云々」と見えている。即ち巫女の臨時収入の一例である。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 此の問題は、吉井翁の洽聞を以てしても、猶お解し難しとある如く、相当に難問ではあるけれども、茲に試みに私見を簡単に記せば、西宮神社のエビス神には、末社に一ノエビス、二ノエビス、三ノエビスと三社あり、後にこれを、一郎殿、二郎殿、三郎殿と呼び習わしたものと信じている。それ故に一戎台とは、即ち一ノエビス（一郎殿）に仕えた巫女で、台とは女性の通称を用いたものと思う。後世の巫女の「神おろし」の一節に「一郎殿より三郎殿、番もかわれば水もかわる」云々とあるのは、必ずしもエビス神を指したものとは言えぬかも知れぬ（此の事は猶お[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]の本文に述べる）が、之が一神、二神、三神の意であることは、明白である。エビス三郎とあるより推して、事代主命が三男であるなどという合理的説明の信用すべき限りでない事は、既に拙稿「エビス神異考」（郷土趣味連載）で発表したところである。吉井翁、果して私見を是認せらるるか否か、参考までに附記するとした。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「越知神社文書」の享禄二年五月の「越知山大谷寺所々御神領坊領目録事」その他に拠った。因に言うが、越知神社は、越前国丹生郡糸生村大字大谷寺に鎮座の郷社である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1313</id>
		<title>日本巫女史/第二篇/第六章/第一節</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1313"/>
		<updated>2010-03-07T00:22:22Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第六章|第六章　巫女の社会的地位と其の生活]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第一節　歌舞音楽の保存者としての巫女==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神懸りにおいて舞踊を発明し、歌謡の源流である叙事詩を生んだ巫女が、更に是等を発達に導き、併せてその保存者となるべき地位に置かれるのは、寧ろ当然の帰結である。神遊び（後の神楽）は、時勢の降ると共に、漸く複雑化せるも〔一〕、猶お遊びの前後に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;阿知女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アチメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の作法を行うほどの用意を忘れず、歌謡も神楽歌より、催馬楽、今様、風俗と多くの種目を加えたけれども、その歌手は概して巫女か、それでなければ巫女から出た&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;歌女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と称するものであった。併しながら、時勢の発達は、舞踊や、歌謡を、いつ迄も巫女の手に委ねては置かず、それぞれ専門の者を出すようになったが、茲にはその過程に就いて記述する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　歌占の発達と巫女の詩人的素養&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古代における巫女の託宣が、俗談平語を離れて、律語的に、且つ叙事詩的に発せられるのを常としたが、此の傾向は、漸次に歌占と称する歌謡の形式を以て行われるようになった。[[日本巫女史/第二篇/第一章/第二節|前載]]の、恵心僧都が金峯山に巫女を訪ねたときに答えたるものが、その一例であるが、更に「平治物語」に鳥羽法皇が熊野へ参詣し、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 権現を勧請し奉らばやと思召て、まさしき巫女やあると仰せければ、山中無双の巫女を思召す、御不審の事あり、占申せと仰せありければ、権現すでにおりさせたまへりと云へるところのことを（中略）半井本には、巫、法皇に向進らせて、歌占を出したり、「手にむすぶ水に宿れる月影は、あるかなきかの世にはありけり」とありて、下文にさて云々と申たてば、巫女取あへず「夏はつる扇と秋の白露と、いづれかさきに置まさるべき」、夏の終秋の始とぞ仰せられける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのも、又それである〔二〕。更に「安居院神道集」に、「和歌抄」を引用して、左の如き記事がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 白河院御時、御両所市阿波ト云御子を召、御&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;□&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;紙魚不明&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;云事ハ何様ナル事アラント、銀ノ壺ニ乳ヲ入テ、此ヲ亦物ニ入ツ、蓋ヲシテ、帝ト后トノ二人御心ニテ、亦人ニ不知之、サテ此中ナル物ヲ占ヘト、御子ノ前ニ差出ケレバ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;度&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シバラク&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;計跟蹡ナル歌占ニ、「シロカネノツホヲナラヘテ水ヲ入ハ、フタシテカタク見ルヘクモナシ」ト、□出、御涙ヲ流給テ□勇事哉ト思食サレタリケリ、□銀共ヲ賜ハリケリ（宮内省図書寮本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯く巫女が、託宣を歌謡の形式を以て表現するようになったのは、巫女の伝統的因襲の外に、歌謡の流行したことを併せ考えなければならぬ。私は曾て自ら揣らず「我国の神詠の考察」と題する剪劣なる管見を発表したことがあるが〔三〕、代々の勅撰歌集を読んで見て、平安朝以降において、神々の詠歌と称するものの遽かに増加した事は、注意すべき点である。熱田、賀茂、住吉、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミワ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の各神を始めとして、神託の形式を殆んど和歌に仮りているのである。而して此の流行？は、仏教方面にも取り入れられて、又た盛んにこれが利用されているのである〔四〕。勿論、私は是等の神詠なるものが、巫女によって仮作されたものであるなどとは、夢にも考えていぬ所であるが、斯うした和歌流行の世相は、巫女を駆って歌人的素養を深からしめた事だけは言い得るものと信じている。更に一口に、巫女と云っても、その中には自から階級があり、名神大社に仕える者と、叢祠藪神に仕える者との間に、出自、品性、素養の相違あることは言う迄もないから、高級者にあっては、短歌や、今様ぐらいは、平生の嗜みとしても、作り得らるるだけの用意はあったろうが、それにしても巫女をして詩人たらしめる世相の存したことは看取される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに、此の託宣を歌謡を以てすることが、固定するようになれば、その歌謡を以て直ちに神意を占うことに利用されるに至った。換言すれば、曾て巫女によって制作された歌謡、又は神詠と称する歌謡、若しくはその他の歌謡の或る数を限り、此のうちの何れかを取り当てたもの（即ち後世の御籤に似たもの）に由って、吉凶を判ずるという信仰を生むようになった。「長秋記」長承二年七月六日の条に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 自女院被仰云、七月七日当庚申時、於乞巧奠前、不論男女、七人会同、各書旧歌百首、都合為一巻、用歌占、如指不違云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのは、即ちその一例で、然も是が民間に移されて、七夕の星祭に、歌占を以て男女の縁を結ぶ（神判成婚の意）民俗にまでなったのである〔五〕。而して更に此の信仰の最も通俗化したものが、謡曲の「歌占」と称する方法である。これに関しては、「参宮名所図会」巻下にも記載があるので、彼之を参酌要約すると、概ね左の如きものであったことが知られるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊勢国度会郡二見郷三津村に、度会家次（謡曲にある歌占の発明者という）の子孫なる者があって、家号を北村と称し、此の者が歌占の弓という物を持ち伝えていた。即ち長さ三尺ばかりの丸木弓の握り柄を赤絹にて纏き、上を糸で巻き、その弓の本末に短冊一枚づつ付けて、本には『神心たねとこそなれ歌占の』と書き、末には『ひくもしらきのたつか弓かな』と記し、別に弓弦に短冊八枚を付け、これに下の如き歌一首づつ書きつけてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 増鏡そこなる影に向ひゐて、しらぬ翁にあふここちする（中山曰。拾遺集の歌なり）。&lt;br /&gt;
: 年を経て花のかがみとなる水は、ちりかかるをや曇るといふらむ（同上。古今集）。&lt;br /&gt;
: 末の露もとのしつくや世の中の、おくれさきたつためしなるらむ（同上。新古今集）。&lt;br /&gt;
: ものの名も所によりてかはりけり、なにはの芦は伊勢のははまをき（同上。蒐玖波集）。&lt;br /&gt;
: 鶯のかひこの中のほととぎす、しゃが父に似てしゃが父に似ず（同上。万葉集長歌の一節）。&lt;br /&gt;
: 千早振るよろづの神も聞しめせ、五十鈴の川の清き水音（同上。出所不明）。&lt;br /&gt;
: 北は黄に南は青くひがし白、にしくれなゐにそめ色の山（同上。同上）。&lt;br /&gt;
: ぬれて乾す山路の菊の露の間に、散そめながら千代にも経にけり（同上。古今集）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯うした短冊の一枚を依頼者にとらせ、その歌の文句によって判断するのであって、後世の御籤というものと、全く同じ方法に過ぎぬのである〔六〕。謡曲の「歌占」には、父を尋ねる子方が、鶯のかいこの中の時鳥という短冊をひき、さては親を尋ねるのだなと占うている所を見ると、その方法も、解説も、極めて浅薄なものであると同時に、如何にも室町期の中頃に行われそうなものであったことが知られるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　複雑せる巫女と傀儡女との交渉&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巫女の工夫した神体としての木偶を、巫女の手から奪って、木偶を舞わせることを独立的に発達させ、傍ら売笑を兼ねた者が、即ち&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;傀儡女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クグツメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;である。従って古代に遡り、源流を究むるほど、巫女と傀儡女との境界は朦朧として、一身か異体か、全く区別する事の出来ぬほどの親密さを有しているのである。前述の東北地方の一部で、今に巫女を傀儡と称しているのは、よく古俗を残したものであって、又その親密さを、よく明らめているのである。藤原明衡の「新猿楽記」の左の一節の如きは、明白に此の間の消息を伝えているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 四ノ御許者覡女也。卜占、神遊、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;寄弦&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨリツル&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;口寄&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クチヨセ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;之上手也。舞袖瓢トテ颻如仙人ノ遊。歌声和雅ニテ如頻鳥ノ鳴。非調子ノ琴ノ音。而天神地祇垂影向。無拍子ノ皷ノ声。而&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;□□&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;紙魚不明&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;野干必傾耳。仍天下ノ男女継テ踵来。遠近ノ貴賤為市挙ル。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;熊米&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クマシネ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;積テ無所納。幣紙集不遑数。尋レハ其夫則右馬寮史生。七条已南ノ保長也。姓ハ&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;金集&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カナツメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;。名百成。鍛冶鋳物師〔七〕。并銀金ノ細工也云々。（以上。群書類従本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同書は、人も知る如く、藤明衡が、当時（平安期の中葉）西京の猿楽師右衛門尉一家の、三妻、十六女、九男に託して、世相の一端を記したものであるから、直ちにその悉くが事実なりとは断ぜられぬけれども、内容は明衡が耳聞目堵したしたものと思われるので、大体において信用することが出来るようである。而して此の記事に由れば、卜占、神遊、寄弦、口寄等の呪術を行うに際し、舞袖は仙人の遊びの如く、歌声は頻鳥の鳴くに似て、琴の音は神祇を影向させ、皷の声は野干の耳を傾けさせるとは、かなり形容が誇張に過ぎているようではあるが、殆んど巫女か、舞伎か、更に傀儡女であるか、寔にその識別に苦しむほどのものが存するのである。試みに、下に大江匡房の「傀儡子記」の一節を抄録して、如何に両者の内的生活が近似していたかを証示する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 傀儡子者、無定居、無当家、穹廬氈帳、逐水草以移住（中略）。女則為愁眉啼、粧折腰歩齲歯咲、施朱伝粉、唱歌滛楽、以求妖媚（中略）。夜則祭百神、鼓舞喧嘩以祈福助（中略）。動韓峨之塵、余音繞梁周者、霑襟{人偏{{⺕⺕}下女}}不能自休、今様、古川様、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;足柄片下&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アシガラカタオロシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（中山曰。是に関しては後に述べる）、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満周、風俗、呪師、別法士之類、不可勝計、即是天下之一物也云々（以上。群書類従本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼と之とを比較するとき、巫女は神事を表面の職業とし、傀儡女は唱歌滛楽を世渡りの職業としただけの区別はあるが、その内的生活に至っては、殆ど相択むものなきまでの交渉を有している。殊に、傀儡女が得意とした今様、足柄片下、催馬楽、田歌、辻歌等の総ての歌謡は、悉く元は巫女の得意とし、且つ歌い出したものであるのを、後に傀儡女がこれを以て独立した職業に移したまでなのである。それ故に、巫娼史の観点より言うときは、巫女と傀儡女とは同根の者であったのが、巫女は神に仕える古き信仰を言い立てて糊口の料とし、傀儡女は神を離れ（併し全く離れきれぬ事は百神を祭る点からも察せられる）、信仰を棄てて、倡歌と売笑とを、渡世の業とした区別にしか過ぎぬのである。「和訓栞」に『まひまい虫（中山曰。東京辺の水すまし虫）を備前美作にミコマヒ、東四国にてイタコ虫と云ふ』とあり、更に備前邑久郡にては、巫女の事をコンガラサマと云うのは、同じく水すまし虫のことを、コンガラと称するより出でし方言で〔八〕、共に、巫女が此の虫の如く跳ねたり、踊ったりするので、その動作より形容したものである。併し此の一事は、巫女の古き呪法にシャマニズムの跳躍方面を多分に存していたことを想わせると同時に、後には此の方面と、是れに伴うた歌謡とを傀儡女に持ち去られ、纔に仏法や修験道に寄生して、残喘を保つようになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　巫女と遊女と傀儡女と&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我国には、古く神々が、定期または臨時に、人里に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アモ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りして、氏子の間に神意を啓示する民俗があった。琉球では近年まで此の事が克明に行われていた。曲亭馬琴の「椿説弓張月」に引用した「琉球事略」に載せてある所謂キミテスリの祭は、必ず十月であって、七年に一回の荒神、又は十二年に一回の荒神があり、遠国島々一時に出現す。その年八九月の頃から、前兆として山々の峯にアヲリ（&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アモ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りの意？）という雲気が現われ、十月に神が出現すれば、託女王臣各々鼓を打ち、歌うたいて神を迎う。王宮の庭を以て神の至る処となし、大なる傘二十余を立つとある。更に「徳之島小史」には、此の光景を一段と精細に記述して、祭典にはカンギヤナシ（内地の巫女と同じ）が各々珍絹を頭に被り、筒袖の白衣を著し、珠玉（内地の曲玉と同じ）を纏い、恰も天神の天降りに擬す。これに随属せる少女をアラホレ（見習巫女とも云うべき者）と称して、十二歳乃至十六歳の無垢神聖の者を以て充つ。アラホレも亦、振袖の白衣を着し、袴を穿ち、頭には鴛鴦の思い羽、或は鷺の寸羽を翳し、日陰蔓を以て鉢巻きなし、大小五色に編みなせる曲玉粒玉の襷をかけ、手には或は軍配団扇の如き物（檳榔葉製）を持ち、或は長刀を携えて舞をなす。此の時一種異様の鈴の響き（琉球本島では鉦）が微かに聞ゆるかと思えば、これぞ神の出現する時だと云っている。而して此の民俗に共通した神事の、我が古代に在ったことは、誠に微弱ながらも、推知し得べき資料が存しているのである〔九〕。これ即ち「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;賓神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マロウドカミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」であって、人里に大事が起る前とか、又は祭典の折などには、天降りますのが常であった。殊に、歳旦とか、田植とか、刈上げとかいう節々（我国の節供の起原はこれである）には、氏子を祝福し、作物を豊穣にするために「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;寿詞&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨゴト&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」を下すのを習いとした。而して此の寿詞を伝誦していて、或る場合には、神々の代理者（古代はこれを神その者と考えていた）として述べるのが、巫女の聖職の一つであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の信仰と神事とは、国初期から奈良朝までは厳存していたのであるが、奈良朝の中頃からは、神々の正体が知られて来ると同時に、漸く衰え始めて〔一〇〕、此の寿詞の言い立てをする一種の営業者ともいうべきものが生れるようになった。これが「万葉集」に見えている「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;乞食者&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ホカイビト&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」であって、彼等は年の始めの吉慶に、家屋の新築の棟祝いに、更に旅行の無事を祈る餞別、或は災危を払う呪願などを、当時の美辞麗句で綴りあげて、それを&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;旋律的&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;リズミカル&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の調子で歌い歩いて、世過ぎの料とした〔一一〕。後世の、千秋万歳、ものよし、大黒舞などは、悉く此の賓神と祝言人との系統に属しているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古く我国の巫女が、好んで鼓を携えていたのは、此の寿詞を唱える折に必要であったためである。鈴も、琴も、鼓も、その古き用法の意味は、神の御声としての象徴であった。曾て鳥居龍蔵氏から承った所によると、我国のツヅミという語は、ウラルアルタイの語系に属し、蒙古、満洲、朝鮮、我国とも、同語原であるとの事である〔一二〕。そうすれば、鼓はシャマニズムと共に北方から輸入されたものであって、巫女の神を降ろすに欠くことの出来ぬ楽器であったとも考えられる。「梁塵秘抄」には、巫女と鼓との関係を詠じたものが尠からず載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;金峰山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カネノミタケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にある&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の打つ鼓。打ち上げ打ち下げ面白や。我等も参らばや。ていとんとうとも響き鳴れ。如何に打てばか此の音の。絶えせざるらん。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:職人歌合.gif|thumb|東北院職人歌合所載の巫女]]&lt;br /&gt;
殊に、ここに挙げたものなどは、両者の交渉をよく説明しているものである。更に「東北院職人歌合」の巫女の条に、嫗の双手に鼓を持てる絵に対して『君とわが口を寄せても寝まほしき、鼓も腹も打たたきつつ』とあるのもその一例であって、巫女と鼓とは離るることの出来ぬ間柄であった。然るに、此の巫女と深甚なる関係を有している——即ち巫娼一体の境地に在った遊女が、やがて、此の鼓を巫女の手から奪って自分の物としてしまい、同じく「梁塵秘抄」にある如く、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;遊&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アソビ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;女の好むも雑芸（中山曰。後世の今様）鼓、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;小端船&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コハシブネ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、大傘かざし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;艫取女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トモトリメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、男の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;愛祈&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アイノ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;る百太夫。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
となるのである。かくて巫女は、歌謡を傀儡女に持ち去られ、鼓（楽器としての）を遊女に委ねばならぬようになったのである。古い信仰が世の降ると共に影が薄くなり、曾て存したものが様々に分化して、世に推し移って行く有様が偲ばれるのである。巫女が社会の落伍者として、生存の競争場裡から置いてきぼりにされたのも、決して偶然ではなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
併しながら、傀儡女や遊女に、歌謡や楽器を渡す以前にあっては、音楽と歌舞との保存者は巫女であった。前掲の「傀儡子記」にある&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;足柄片下&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アシガラカタオロシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;とは、即ち足柄{○相/模国}明神の伝えた神歌なのである。「郢曲抄」によれば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 足柄は神歌にて、風俗といへども其の品替るなり（中略）。足柄明神の神歌故に、風俗といへども其の音あり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記し、更に高源光行の「海道記」には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 彼&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;山祇&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヤマズミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の昔の歌を、遊女（中山曰。巫娼の意）が口に伝へ、嶺猿の夕の啼は、行人の心を痛ましむ、昔青墓{○美/濃国}の宿の君女、この山を越えけるとき、山神翁に化して歌を教へたり、足柄といふ是なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるように、神歌を伝えたものは巫女であった。これを後に残したものが遊女なのであった〔一三〕。かく考えて来ると、巫女と、傀儡女と、遊女とは、一元から出発したもので、然も此の三角関係が意外に複雑しているのも道理であることが知られるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 神遊びの後身が直ちに神楽であるという説には、多少の疑義があることと思うが、私は屢記の如く、神楽は古く葬礼にのみ限って行われたものと考えているので、姑らく此の説を支持したいと思う。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 伴信友翁の「正卜考」後附に拠った。流布本の「平治物語」にもあるが、半井本と多少の出入があるので、今はこれに従った。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 国学院大学の郷土会で講演したことがある。誠に拙きものではあるが、神詠なるものが、平安朝になってから、急に増加したことは、我国の託宣史上、注意すべき点である。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「野守鏡」の序文に、神仏の詠まれた和歌の多くが載せてあるが、更に「新古今集」の神祇部と、釈教部とにも多く載せてある。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 拙著「日本婚姻史」に、神判成婚の一例として挙げて置いた。敢て参照を望む。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 我国の御籤なるものも相当に古いもので、「斉明紀」四年十一月の条に「短籍」とあるのがそれで、降っては「吾妻鏡」脱漏元仁二年三月卅一日の条、及び「明月記」貞永二年正月廿一日の条などに見えている。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : シャーマン教における巫女と、鍛冶職との関係に就いては、有賀右衛門氏が「民族」誌上に高見を発表されている。我国には、是等の関係を考覈すべき資料が残っていぬが、偶々「新猿楽記」に此の一事が見えている。これは遇然のことであろうが、参考までに言うとした。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : これは[[日本巫女史/総論/第一章/第一節|総論第一章第一節]]に挙げて置いたので、報告者の氏名は略すが、兎に角に、昔の巫女は甚だしく跳ねたり踊たりしたものと見える。今に見る神楽巫女の動作だけでは、かかる俚称は起ろうとも思われぬ。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 折口信夫の談によると、鈴木重胤翁の「祝詞講義」の大殿祭の条に引用した文献に、それを考えさせるものがあるとの事である。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 「山原の土俗」に神を捕える話が二つ載せてある。そして捕えた神は巫女であって、殊にその一つには、捕えた男の母が神の中に加っていたとのことである。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 此の条は折口信夫氏の研究をそのまま拝借し、且つ祖述したものである。明記して敬意を表す。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 星野輝興氏が主催されていた祭祀研究会の講演で承ったものである。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 「更級日記」に、足柄山で遊女が歌を謡ったことが載せてあるが、或はこれは神歌の面影を伝えたものではなかろうかと思われる。全文は有名なものゆえ、態と省略した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1312</id>
		<title>トーク:日本巫女史/第二篇/第六章/第一節</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://docs.miko.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1312"/>
		<updated>2010-03-06T23:56:18Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: /* メモ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.578&lt;br /&gt;
** 「歌声和雅ニ&#039;&#039;&#039;メ&#039;&#039;&#039;如頻鳥ノ鳴」→「歌声和雅ニ&#039;&#039;&#039;テ&#039;&#039;&#039;如頻鳥ノ鳴」&lt;br /&gt;
* 底本 p.579&lt;br /&gt;
** 「傀儡子記」引用中「催馬楽」直前に読点を補った。&lt;br /&gt;
**「祭る点からも&#039;&#039;&#039;し&#039;&#039;&#039;察られる」→「祭る点からも察&#039;&#039;&#039;せ&#039;&#039;&#039;られる」&lt;br /&gt;
* 底本 p.583&lt;br /&gt;
** 「更に高源光行の」直前の句点を読点に改めた。&lt;br /&gt;
* 底本 p.584&lt;br /&gt;
** 註八「これは第二篇に挙げて置いた」とあるが、コンガラサマについて触れているのは総論第一章第一節であるため、適宜修正した。&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.579&lt;br /&gt;
** 「傀儡子記」引用中に{人偏{{⺕⺕}下女}}の外字あり。&lt;br /&gt;
* 底本 p.584&lt;br /&gt;
** 註七「遇然」は「偶然」か。&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;br /&gt;
* 底本 p.577&lt;br /&gt;
** 歌占の件、謡曲歌占に「来り候ふが。小弓に短冊を付け歌占を引き候ふが。けしからず正しき由を申し候ふ程に。今日罷り出で占をひかばやと存じ候。いかに渡り候ふか。歌占の御所望にて候はゞ御供申さうずるにて候。」シテ一セイ「神心。種とこそなれ歌占の。ひくも白木の。手束弓。」サシ「それ歌は天地開けし始より。陰陽の二神天の街?にゆきあひの。さよの手枕結びさだめし。世をまなび国を治めて。今も道ある妙文たり。」とある。&lt;br /&gt;
** 鶯のかひこ: 「鴬之 生卵乃中尓 霍公鳥 獨所生而 己父尓 似而者不鳴」（[http://infws00.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/cgi-bin/MANYOU/manyou2.cgi?09/1755 万葉集 9-1755]）か？&lt;br /&gt;
** 北は黄に: 陰陽五行説では、北は黒、南は紅、東は青、西は白、中は黄となる。&lt;br /&gt;
; しゃ【汝】: 〘代〙二人称の人代名詞。相手を卑しめていう語。きさま。おまえ。「名のりて過ぎるほととぎす、—が父に似て、父に似ず」〈浄•寿の門松〉（大辞泉）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1311</id>
		<title>日本巫女史/第二篇/第六章/第一節</title>
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		<updated>2010-03-06T16:57:36Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第六章|第六章　巫女の社会的地位と其の生活]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第一節　歌舞音楽の保存者としての巫女==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神懸りにおいて舞踊を発明し、歌謡の源流である叙事詩を生んだ巫女が、更に是等を発達に導き、併せてその保存者となるべき地位に置かれるのは、寧ろ当然の帰結である。神遊び（後の神楽）は、時勢の降ると共に、漸く複雑化せるも〔一〕、猶お遊びの前後に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;阿知女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アチメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の作法を行うほどの用意を忘れず、歌謡も神楽歌より、催馬楽、今様、風俗と多くの種目を加えたけれども、その歌手は概して巫女か、それでなければ巫女から出た&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;歌女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と称するものであった。併しながら、時勢の発達は、舞踊や、歌謡を、いつ迄も巫女の手に委ねては置かず、それぞれ専門の者を出すようになったが、茲にはその過程に就いて記述する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　歌占の発達と巫女の詩人的素養&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古代における巫女の託宣が、俗談平語を離れて、律語的に、且つ叙事詩的に発せられるのを常としたが、此の傾向は、漸次に歌占と称する歌謡の形式を以て行われるようになった。[[日本巫女史/第二篇/第一章/第二節|前載]]の、恵心僧都が金峯山に巫女を訪ねたときに答えたるものが、その一例であるが、更に「平治物語」に鳥羽法皇が熊野へ参詣し、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 権現を勧請し奉らばやと思召て、まさしき巫女やあると仰せければ、山中無双の巫女を思召す、御不審の事あり、占申せと仰せありければ、権現すでにおりさせたまへりと云へるところのことを（中略）半井本には、巫、法皇に向進らせて、歌占を出したり、「手にむすぶ水に宿れる月影は、あるかなきかの世にはありけり」とありて、下文にさて云々と申たてば、巫女取あへず「夏はつる扇と秋の白露と、いづれかさきに置まさるべき」、夏の終秋の始とぞ仰せられける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのも、又それである〔二〕。更に「安居院神道集」に、「和歌抄」を引用して、左の如き記事がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 白河院御時、御両所市阿波ト云御子を召、御&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;□&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;紙魚不明&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;云事ハ何様ナル事アラント、銀ノ壺ニ乳ヲ入テ、此ヲ亦物ニ入ツ、蓋ヲシテ、帝ト后トノ二人御心ニテ、亦人ニ不知之、サテ此中ナル物ヲ占ヘト、御子ノ前ニ差出ケレバ、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;度&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シバラク&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;計跟蹡ナル歌占ニ、「シロカネノツホヲナラヘテ水ヲ入ハ、フタシテカタク見ルヘクモナシ」ト、□出、御涙ヲ流給テ□勇事哉ト思食サレタリケリ、□銀共ヲ賜ハリケリ（宮内省図書寮本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯く巫女が、託宣を歌謡の形式を以て表現するようになったのは、巫女の伝統的因襲の外に、歌謡の流行したことを併せ考えなければならぬ。私は曾て自ら揣らず「我国の神詠の考察」と題する剪劣なる管見を発表したことがあるが〔三〕、代々の勅撰歌集を読んで見て、平安朝以降において、神々の詠歌と称するものの遽かに増加した事は、注意すべき点である。熱田、賀茂、住吉、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;大神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミワ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の各神を始めとして、神託の形式を殆んど和歌に仮りているのである。而して此の流行？は、仏教方面にも取り入れられて、又た盛んにこれが利用されているのである〔四〕。勿論、私は是等の神詠なるものが、巫女によって仮作されたものであるなどとは、夢にも考えていぬ所であるが、斯うした和歌流行の世相は、巫女を駆って歌人的素養を深からしめた事だけは言い得るものと信じている。更に一口に、巫女と云っても、その中には自から階級があり、名神大社に仕える者と、叢祠藪神に仕える者との間に、出自、品性、素養の相違あることは言う迄もないから、高級者にあっては、短歌や、今様ぐらいは、平生の嗜みとしても、作り得らるるだけの用意はあったろうが、それにしても巫女をして詩人たらしめる世相の存したことは看取される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るに、此の託宣を歌謡を以てすることが、固定するようになれば、その歌謡を以て直ちに神意を占うことに利用されるに至った。換言すれば、曾て巫女によって制作された歌謡、又は神詠と称する歌謡、若しくはその他の歌謡の或る数を限り、此のうちの何れかを取り当てたもの（即ち後世の御籤に似たもの）に由って、吉凶を判ずるという信仰を生むようになった。「長秋記」長承二年七月六日の条に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 自女院被仰云、七月七日当庚申時、於乞巧奠前、不論男女、七人会同、各書旧歌百首、都合為一巻、用歌占、如指不違云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのは、即ちその一例で、然も是が民間に移されて、七夕の星祭に、歌占を以て男女の縁を結ぶ（神判成婚の意）民俗にまでなったのである〔五〕。而して更に此の信仰の最も通俗化したものが、謡曲の「歌占」と称する方法である。これに関しては、「参宮名所図会」巻下にも記載があるので、彼之を参酌要約すると、概ね左の如きものであったことが知られるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
伊勢国度会郡二見郷三津村に、度会家次（謡曲にある歌占の発明者という）の子孫なる者があって、家号を北村と称し、此の者が歌占の弓という物を持ち伝えていた。即ち長さ三尺ばかりの丸木弓の握り柄を赤絹にて纏き、上を糸で巻き、その弓の本末に短冊一枚づつ付けて、本には『神心たねとこそなれ歌占の』と書き、末には『ひくもしらきのたつか弓かな』と記し、別に弓弦に短冊八枚を付け、これに下の如き歌一首づつ書きつけてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 増鏡そこなる影に向ひゐて、しらぬ翁にあふここちする（中山曰。拾遺集の歌なり）。&lt;br /&gt;
: 年を経て花のかがみとなる水は、ちりかかるをや曇るといふらむ（同上。古今集）。&lt;br /&gt;
: 末の露もとのしつくや世の中の、おくれさきたつためしなるらむ（同上。新古今集）。&lt;br /&gt;
: ものの名も所によりてかはりけり、なにはの芦は伊勢のはあまをき（同上。蒐玖波集）。&lt;br /&gt;
: 鶯のかひこの中のほととぎす、しゃが父に似てしゃが父に似ず（同上。万葉集長歌の一節）。&lt;br /&gt;
: 千早振るよろづの神も聞しめせ、五十鈴の川の清き水音（同上。出所不明）。&lt;br /&gt;
: 北は黄に南は青くひがし白、にしくれなゐにそめ色の山（同上。同上）。&lt;br /&gt;
: ぬれて乾す山路の菊の露の間に、散そめながら千代にも経にけり（同上。古今集）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯うした短冊の一枚を依頼者にとらせ、その歌の文句によって判断するのであって、後世の御籤というものと、全く同じ方法に過ぎぬのである〔六〕。謡曲の「歌占」には、父を尋ねる子方が、鶯のかいこの中の時鳥という短冊をひき、さては親を尋ねるのだなと占うている所を見ると、その方法も、解説も、極めて浅薄なものであると同時に、如何にも室町期の中頃に行われそうなものであったことが知られるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　複雑せる巫女と傀儡女との交渉&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巫女の工夫した神体としての木偶を、巫女の手から奪って、木偶を舞わせることを独立的に発達させ、傍ら売笑を兼ねた者が、即ち&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;傀儡女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クグツメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;である。従って古代に遡り、源流を究むるほど、巫女と傀儡女との境界は朦朧として、一身か異体か、全く区別する事の出来ぬほどの親密さを有しているのである。前述の東北地方の一部で、今に巫女を傀儡と称しているのは、よく古俗を残したものであって、又その親密さを、よく明らめているのである。藤原明衡の「新猿楽記」の左の一節の如きは、明白に此の間の消息を伝えているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 四ノ御許者覡女也。卜占、神遊、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;寄弦&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨリツル&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;口寄&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クチヨセ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;之上手也。舞袖瓢トテ颻如仙人ノ遊。歌声和雅ニテ如頻鳥ノ鳴。非調子ノ琴ノ音。而天神地祇垂影向。無拍子ノ皷ノ声。而&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;□□&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;紙魚不明&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;野干必傾耳。仍天下ノ男女継テ踵来。遠近ノ貴賤為市挙ル。&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;熊米&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クマシネ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;積テ無所納。幣紙集不遑数。尋レハ其夫則右馬寮史生。七条已南ノ保長也。姓ハ&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;金集&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カナツメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;。名百成。鍛冶鋳物師〔七〕。并銀金ノ細工也云々。（以上。群書類従本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同書は、人も知る如く、藤明衡が、当時（平安期の中葉）西京の猿楽師右衛門尉一家の、三妻、十六女、九男に託して、世相の一端を記したものであるから、直ちにその悉くが事実なりとは断ぜられぬけれども、内容は明衡が耳聞目堵したしたものと思われるので、大体において信用することが出来るようである。而して此の記事に由れば、卜占、神遊、寄弦、口寄等の呪術を行うに際し、舞袖は仙人の遊びの如く、歌声は頻鳥の鳴くに似て、琴の音は神祇を影向させ、皷の声は野干の耳を傾けさせるとは、かなり形容が誇張に過ぎているようではあるが、殆んど巫女か、舞伎か、更に傀儡女であるか、寔にその識別に苦しむほどのものが存するのである。試みに、下に大江匡房の「傀儡子記」の一節を抄録して、如何に両者の内的生活が近似していたかを証示する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 傀儡子者、無定居、無当家、穹廬氈帳、逐水草以移住（中略）。女則為愁眉啼、粧折腰歩齲歯咲、施朱伝粉、唱歌滛楽、以求妖媚（中略）。夜則祭百神、鼓舞喧嘩以祈福助（中略）。動韓峨之塵、余音繞梁周者、霑襟{人偏{{⺕⺕}下女}}不能自休、今様、古川様、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;足柄片下&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アシガラカタオロシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（中山曰。是に関しては後に述べる）、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満周、風俗、呪師、別法士之類、不可勝計、即是天下之一物也云々（以上。群書類従本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼と之とを比較するとき、巫女は神事を表面の職業とし、傀儡女は唱歌滛楽を世渡りの職業としただけの区別はあるが、その内的生活に至っては、殆ど相択むものなきまでの交渉を有している。殊に、傀儡女が得意とした今様、足柄片下、催馬楽、田歌、辻歌等の総ての歌謡は、悉く元は巫女の得意とし、且つ歌い出したものであるのを、後に傀儡女がこれを以て独立した職業に移したまでなのである。それ故に、巫娼史の観点より言うときは、巫女と傀儡女とは同根の者であったのが、巫女は神に仕える古き信仰を言い立てて糊口の料とし、傀儡女は神を離れ（併し全く離れきれぬ事は百神を祭る点からも察せられる）、信仰を棄てて、倡歌と売笑とを、渡世の業とした区別にしか過ぎぬのである。「和訓栞」に『まひまい虫（中山曰。東京辺の水すまし虫）を備前美作にミコマヒ、東四国にてイタコ虫と云ふ』とあり、更に備前邑久郡にては、巫女の事をコンガラサマと云うのは、同じく水すまし虫のことを、コンガラと称するより出でし方言で〔八〕、共に、巫女が此の虫の如く跳ねたり、踊ったりするので、その動作より形容したものである。併し此の一事は、巫女の古き呪法にシャマニズムの跳躍方面を多分に存していたことを想わせると同時に、後には此の方面と、是れに伴うた歌謡とを傀儡女に持ち去られ、纔に仏法や修験道に寄生して、残喘を保つようになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　巫女と遊女と傀儡女と&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我国には、古く神々が、定期または臨時に、人里に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アモ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りして、氏子の間に神意を啓示する民俗があった。琉球では近年まで此の事が克明に行われていた。曲亭馬琴の「椿説弓張月」に引用した「琉球事略」に載せてある所謂キミテスリの祭は、必ず十月であって、七年に一回の荒神、又は十二年に一回の荒神があり、遠国島々一時に出現す。その年八九月の頃から、前兆として山々の峯にアヲリ（&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天降&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アモ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;りの意？）という雲気が現われ、十月に神が出現すれば、託女王臣各々鼓を打ち、歌うたいて神を迎う。王宮の庭を以て神の至る処となし、大なる傘二十余を立つとある。更に「徳之島小史」には、此の光景を一段と精細に記述して、祭典にはカンギヤナシ（内地の巫女と同じ）が各々珍絹を頭に被り、筒袖の白衣を著し、珠玉（内地の曲玉と同じ）を纏い、恰も天神の天降りに擬す。これに随属せる少女をアラホレ（見習巫女とも云うべき者）と称して、十二歳乃至十六歳の無垢神聖の者を以て充つ。アラホレも亦、振袖の白衣を着し、袴を穿ち、頭には鴛鴦の思い羽、或は鷺の寸羽を翳し、日陰蔓を以て鉢巻きなし、大小五色に編みなせる曲玉粒玉の襷をかけ、手には或は軍配団扇の如き物（檳榔葉製）を持ち、或は長刀を携えて舞をなす。此の時一種異様の鈴の響き（琉球本島では鉦）が微かに聞ゆるかと思えば、これぞ神の出現する時だと云っている。而して此の民俗に共通した神事の、我が古代に在ったことは、誠に微弱ながらも、推知し得べき資料が存しているのである〔九〕。これ即ち「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;賓神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;マロウドカミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」であって、人里に大事が起る前とか、又は祭典の折などには、天降りますのが常であった。殊に、歳旦とか、田植とか、刈上げとかいう節々（我国の節供の起原はこれである）には、氏子を祝福し、作物を豊穣にするために「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;寿詞&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨゴト&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」を下すのを習いとした。而して此の寿詞を伝誦していて、或る場合には、神々の代理者（古代はこれを神その者と考えていた）として述べるのが、巫女の聖職の一つであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の信仰と神事とは、国初期から奈良朝までは厳存していたのであるが、奈良朝の中頃からは、神々の正体が知られて来ると同時に、漸く衰え始めて〔一〇〕、此の寿詞の言い立てをする一種の営業者ともいうべきものが生れるようになった。これが「万葉集」に見えている「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;乞食者&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ホカイビト&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」であって、彼等は年の始めの吉慶に、家屋の新築の棟祝いに、更に旅行の無事を祈る餞別、或は災危を払う呪願などを、当時の美辞麗句で綴りあげて、それを&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;旋律的&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;リズミカル&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の調子で歌い歩いて、世過ぎの料とした〔一一〕。後世の、千秋万歳、ものよし、大黒舞などは、悉く此の賓神と祝言人との系統に属しているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古く我国の巫女が、好んで鼓を携えていたのは、此の寿詞を唱える折に必要であったためである。鈴も、琴も、鼓も、その古き用法の意味は、神の御声としての象徴であった。曾て鳥居龍蔵氏から承った所によると、我国のツヅミという語は、ウラルアルタイの語系に属し、蒙古、満洲、朝鮮、我国とも、同語原であるとの事である〔一二〕。そうすれば、鼓はシャマニズムと共に北方から輸入されたものであって、巫女の神を降ろすに欠くことの出来ぬ楽器であったとも考えられる。「梁塵秘抄」には、巫女と鼓との関係を詠じたものが尠からず載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;金峰山&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カネノミタケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にある&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の打つ鼓。打ち上げ打ち下げ面白や。我等も参らばや。ていとんとうとも響き鳴れ。如何に打てばか此の音の。絶えせざるらん。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:職人歌合.gif|thumb|東北院職人歌合所載の巫女]]&lt;br /&gt;
殊に、ここに挙げたものなどは、両者の交渉をよく説明しているものである。更に「東北院職人歌合」の巫女の条に、嫗の双手に鼓を持てる絵に対して『君とわが口を寄せても寝まほしき、鼓も腹も打たたきつつ』とあるのもその一例であって、巫女と鼓とは離るることの出来ぬ間柄であった。然るに、此の巫女と深甚なる関係を有している——即ち巫娼一体の境地に在った遊女が、やがて、此の鼓を巫女の手から奪って自分の物としてしまい、同じく「梁塵秘抄」にある如く、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: &amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;遊&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アソビ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;女の好むも雑芸（中山曰。後世の今様）鼓、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;小端船&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コハシブネ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、大傘かざし&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;艫取女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トモトリメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、男の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;愛祈&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アイノ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;る百太夫。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
となるのである。かくて巫女は、歌謡を傀儡女に持ち去られ、鼓（楽器としての）を遊女に委ねばならぬようになったのである。古い信仰が世の降ると共に影が薄くなり、曾て存したものが様々に分化して、世に推し移って行く有様が偲ばれるのである。巫女が社会の落伍者として、生存の競争場裡から置いてきぼりにされたのも、決して偶然ではなかったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
併しながら、傀儡女や遊女に、歌謡や楽器を渡す以前にあっては、音楽と歌舞との保存者は巫女であった。前掲の「傀儡子記」にある&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;足柄片下&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アシガラカタオロシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;とは、即ち足柄{○相/模国}明神の伝えた神歌なのである。「郢曲抄」によれば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 足柄は神歌にて、風俗といへども其の品替るなり（中略）。足柄明神の神歌故に、風俗といへども其の音あり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と記し、更に高源光行の「海道記」には、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 彼&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;山祇&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヤマズミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の昔の歌を、遊女（中山曰。巫娼の意）が口に伝へ、嶺猿の夕の啼は、行人の心を痛ましむ、昔青墓{○美/濃国}の宿の君女、この山を越えけるとき、山神翁に化して歌を教へたり、足柄といふ是なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるように、神歌を伝えたものは巫女であった。これを後に残したものが遊女なのであった〔一三〕。かく考えて来ると、巫女と、傀儡女と、遊女とは、一元から出発したもので、然も此の三角関係が意外に複雑しているのも道理であることが知られるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 神遊びの後身が直ちに神楽であるという説には、多少の疑義があることと思うが、私は屢記の如く、神楽は古く葬礼にのみ限って行われたものと考えているので、姑らく此の説を支持したいと思う。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 伴信友翁の「正卜考」後附に拠った。流布本の「平治物語」にもあるが、半井本と多少の出入があるので、今はこれに従った。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 国学院大学の郷土会で講演したことがある。誠に拙きものではあるが、神詠なるものが、平安朝になってから、急に増加したことは、我国の託宣史上、注意すべき点である。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「野守鏡」の序文に、神仏の詠まれた和歌の多くが載せてあるが、更に「新古今集」の神祇部と、釈教部とにも多く載せてある。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 拙著「日本婚姻史」に、神判成婚の一例として挙げて置いた。敢て参照を望む。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 我国の御籤なるものも相当に古いもので、「斉明紀」四年十一月の条に「短籍」とあるのがそれで、降っては「吾妻鏡」脱漏元仁二年三月卅一日の条、及び「明月記」貞永二年正月廿一日の条などに見えている。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : シャーマン教における巫女と、鍛冶職との関係に就いては、有賀右衛門氏が「民族」誌上に高見を発表されている。我国には、是等の関係を考覈すべき資料が残っていぬが、偶々「新猿楽記」に此の一事が見えている。これは遇然のことであろうが、参考までに言うとした。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : これは[[日本巫女史/総論/第一章/第一節|総論第一章第一節]]に挙げて置いたので、報告者の氏名は略すが、兎に角に、昔の巫女は甚だしく跳ねたり踊たりしたものと見える。今に見る神楽巫女の動作だけでは、かかる俚称は起ろうとも思われぬ。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 折口信夫の談によると、鈴木重胤翁の「祝詞講義」の大殿祭の条に引用した文献に、それを考えさせるものがあるとの事である。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 「山原の土俗」に神を捕える話が二つ載せてある。そして捕えた神は巫女であって、殊にその一つには、捕えた男の母が神の中に加っていたとのことである。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 此の条は折口信夫氏の研究をそのまま拝借し、且つ祖述したものである。明記して敬意を表す。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 星野輝興氏が主催されていた祭祀研究会の講演で承ったものである。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 「更級日記」に、足柄山で遊女が歌を謡ったことが載せてあるが、或はこれは神歌の面影を伝えたものではなかろうかと思われる。全文は有名なものゆえ、態と省略した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80&amp;diff=1310</id>
		<title>日本巫女史/第二篇/第五章/第三節</title>
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		<updated>2010-03-06T04:52:22Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第五章|第五章　呪術方面に現われた巫道の新義]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第三節　性器利用の呪術と巫女の異相==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男女の性器に呪力ありとした民間信仰は、古代から存したことは既記の如くであるが、更に巫女が娼婦化し、巫道が堕落するようになってから、此の信仰が、一段と助長したことは、明白に看取される。ここには、その代表的事実として、毛髪信仰に由来する巫女の七難の揃毛に就いて記述を試みんとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　原始的な毛髪信仰&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
毛髪を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;生命の指標&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ライフ・インデックス&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;とした信仰は、古くから我国にも存していた。「神代紀」に、素尊が種々の罪を犯して、高天ヶ原を逐われるときに、八束の鬚を断られたとあるのは、即ち此の信仰の在ったことを裏付けるものと見て差支ないようである。降って「孝徳紀」に『或為亡人断髪刺股而誅』を制禁したのも、又た髪に生命の宿ることを意識していた民俗に出発しているのである。現にアイヌ民族では、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツス&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の呪力は鬢髪の間に深く蔵されていて、髪を剃れば巫術は行われぬものと信じている〔一〕。こうした信仰から導かれて、毛髪には或る種の呪力の存するものとして、崇拝された民俗は、今に様々なる形式で残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、田畑に立てる&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;案山子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カカシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の語源には異説もあるが、これは毛髪を焼いた匂いを鳥獣が嫌う為に、これを木に吊し、竹に挟んで立てた即ち&amp;lt;u&amp;gt;かがせ&amp;lt;/u&amp;gt;（嗅せ）の転訛と見るのが穏当である〔二〕。節分の夜に、虫の口を焼くとて、鰯の頭を毛髪で巻き、柊の枝に刺し、豆殻を焚きながら唄える種々なる呪文も〔三〕、咸な臭気を以て、農作に損害を与える動物を払うためで、それが毛髪を焼いたことに源流を発していることは明白である。既載した琉球の「をなり神」の信仰は、男子が旅行する際に、姉なり妹なり（姉妹なき者は従姉妹）の毛髪二三本を所持していれば、息災であるというているが、これに似た信仰は、内地にも広く古くから行われていたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここに二三の類例を挙げれば、妊婦の横生逆産を安産せしめるには、良人の陰毛十四本を焼研し、猪膏に和して、大豆大に丸めて呑ませると宜い〔四〕。人が若し、蛇に咬まれた時は、その人の口中に男子の陰毛二十本を含ませ、汁を嚥めば、毒の腹に入ることはない〔五〕。私の生れた南下野地方では、男子が性病にかかったときは、三人の女子の陰毛をもらい集め、これを黒焼にして服すと、奇功があると云うている。これなどは、広く尋ねて見たら、更に他地方にも行われていることと思う。それから、芝居の興行師や、茶屋女などが、来客が少くって困るときは、陰毛三本をぬき、一文膏へ貼り、人に知れぬよう他の繁昌する店頭へ貼って来ると、必ずその店の客を引くことが出来ると信じていた〔六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して以上は、専ら男女の陰毛に関したものであるが、これ以外の毛髪に就いても、又た深甚なる俗信が伴っていたのである。播州飾磨郡地方では、悪疫流行の際に、袂の底に毛髪を二三本入れて置くと、悪疫にかからぬと云っている〔七〕。山城国葛野郡小倉山の二尊院の門前に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;長&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;明神というがある。社伝によると、檀林皇后の落ち髪を祀ったものだと云うている〔八〕。記述した称徳女帝の御髪を盗んで、犬養姉女等が呪詛したとあるのも、髪に生命の宿ることを信じていたからである。京都市外の双ヶ岡の長泉寺には、吉田の兼好法師の木像があり、外に辞世の『契りをく花と双びの岡の辺に、あはれ幾代の春をへぬらむ』の歌を、兼行が剃髪の毛で文字を綴って作った掛幅がある〔九〕。同じ京都市外の栂梶の西明寺には、中将姫の髪の毛で、祢陀三尊の種子を作った掛幅がある〔一〇〕。これと似たものが、上野国邑楽郡六郷大字新宿の遍照寺にもある。これも中将姫の毛で、弥陀三尊の梵字を一字づつ織り出しているが、俗に頭髪の曼荼羅と称している〔一一〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから、甲州御嶽の蔵王権現の宝物中に、北条時頼剃髪の毛というがある。その毛は、綰ねて捲子の中に納め、その外に『最明寺殿御髪毛、愛宕山へ納め候を、当将軍様{○家/光？}御申下し、愚僧方へ参り候を、当山へ奉納候、寛永一六年正月吉日、納主不明』と記してあるそうだ〔一二〕。更に、雲州出雲郡神立村の立虫神社は、社家の伝に素尊の毛髪を納めたところだと云っている〔一三〕。そして薩摩国日置郡羽島村の髢大明神は、天智帝の妃大宮媛が、頴娃に下向のとき、同村を過ぎ髢を遺されたのを祀ったものと伝えられている〔一四〕。こうした毛髪信仰はまだ各地に存しているが、煩を避けて他は割愛した。昭和の現代でも、嬰児の&amp;lt;u&amp;gt;うぶ&amp;lt;/u&amp;gt;毛を保存して置くのは、此の古い信仰の名残りであると言うことが出来るのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは、斯かる信仰は、何に由来しているかと云うに、その総てを尽すことは、アニミズム時代から説かねばならぬので、それは茲には省略するより外に致し方はないが、兎に角に、（一）毛髪が自然と伸長すること、（二）黒い毛が年齢により白くなること、（三）死体は腐ってしまっても、毛だけは永く残るという事などが、古代の人々をして毛髪にも一種の霊魂が宿るものと考えさせたに起因するのである。而して古代人は、異常は必ず神秘を伴うか〔一五〕、又は神秘の力を多分に有しているものと併せ信じていた。ここに頭髪なり、鬚髯なり——殊に陰毛なりが、異常に長いことを、一段と不思議とも考え、神秘力の多いものとも考えるようになった。巫女の七難の揃毛は、此の信仰から発生し、これに仏法の仁王信仰が加って完成されたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　各地に存した七難の揃毛&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
七難の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;揃毛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ソソゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の文献に現われたのは、「扶桑略記」巻二十八が初見のようである。即ち治安三年七月十七日（此月十三日に万寿と改元）に、入道前大相国{○藤原/道長}が、紀州高野山の金剛峯寺へ参詣した帰路に、奈良七大官寺の一なりし元興寺に立寄り『開宝倉令覧、中有此和子陰毛{宛如蔓不/知其尺寸}云々』とあるのが、それである。勿論、これには七難の揃毛とは明記してないが、此の和子の陰毛が宛も蔓の如く、その尺寸の知れぬほど長いものであったということは、他の多くの類例から推して、明確に知り得られるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して私は、茲にこれが類例を挙げるとするが、先ず東京市の近くから筆を起すと、北千住町の少し先きの、武蔵国北足立郡谷塚村大字新里に、毛長明神というがあった。昔は長い毛を箱に納めて神体としていたが、いつ頃の別当か、不浄の毛を神体とするは非礼だといって、出水の折に、毛長沼に流してしまった。此の毛長明神の鳥居と相対せる、南足立郡舎人村大字舎人には、玄根を祀った社があったが、今では取払われて無くなってしまった〔一六〕。下総国豊田郡石下村の東弘寺の什物に、七難の揃毛というがある。色は五彩（五色の陰毛とは注意すべきことで、後出の記事を参照されたい）長さ四丈有余、何者の毛か判然しない。伝に、往古七難と称する異婦があって、この者の陰毛だと云っている〔一七〕。これに就いては、「甲子夜話」巻三十に僧無住の「雑談集」を引用して、『俗に往昔の霊婦の陰毛なり』と載せている。今、私の手許に雑談集が無いので、参照することが出来ぬが、若し此の記事に誤りがないとすれば、僧無住は、梶原景時の末裔で、嘉禄年中の出生であるから、此の揃毛は鎌倉期にはあったものとして差支ないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから、伊豆の箱根権現の什物中にも、悉難ヶ揃毛というものがあった。「尤草子」に長き物の品々にも、七なんがそそげとあるのを見ると、長い物であったことが想われる〔十八〕。上野国多野郡上野村大字新羽に神流川というがある。慶長頃に洪水があり、その時に、此の川の橋杭に怪しい長い毛が流れかかり、村民が大勢して拾いあげて見ると、長さ三十三尋余りあり、その色黒くして艶うつくしく、何の毛か分らぬので、村民も驚いたが、そのまま打ち棄てて置くことも出来ぬので、巫女を招んで占わせたところが、此の毛は同村野栗権現の流した陰毛だというので、直ちに同社へ送り返した。同社では毎年旧六月十五日の祭礼の節には、神輿の後へ此の陰毛を筥に入れて、恭しく捧げ持ち、今に陰毛の宝物とて名が高い〔一九〕。然るに、此の毛髪は現存していると見え、近刊の「多野郡誌」によると、新羽村の新羽神社の神宝にて、橘姫の毛髪長さ七尺五寸と記してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、同様の例を挙げれば、信州の戸隠神社にも、古く七難の揃毛というものがあったが、現今では山中院と称する宿坊の物となり、平維茂に退治された鬼女紅葉の毛と伝え、色は赤黒く縮れていて、長さ五六尺ばかり、丸く輪になって壺の中に納めてあるという事である〔二〇〕。それから、天野信景翁の記すところによると、尾張の熱田神宮にも、昔は此の種の長い毛があったと云うことである〔二一〕。そして、飛騨国大野郡宮村の水無瀬神社の神宝は六種あるが、その一に七難の頭髪というがある。社家の説に、昔この地に鬼神がいて、名を七難と称した。神威を以て誅伐されたが、その毛髪だと云っている〔二二〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尚、近江国の琵琶湖中にある竹生島の弁才天祠にも、七難の揃毛があった〔二三〕。同国石山の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;阿痛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アライタ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;薬師堂には、龍女の髪の毛というのがある。琵琶湖に栖んでいた龍女が得脱して納めたものだと伝えているが、その髪は長くして、地に垂れるほどのものである〔二四〕。これには、戸隠のそれと同じく、別段に七難の揃毛とは明記してないが、併し鬼女といい、龍女というも、結局は揃毛の呪術が忘れられた後に附会した説明であるから、元は揃毛であったことは、他の類例からも知ることが出来るのである。大和国の官幣大社——巫覡に縁故の深い物部氏の氏神である石上神宮にも、また七難の揃毛というのが現存している。最近に発行された絵端書で見ると〔二五〕、今に婦人が用いる「ミノ」と称する&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;髢&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かもじ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;のようなもので、余り長いものだとは思われぬ感じがした。同国吉野の&amp;lt;u&amp;gt;どろ&amp;lt;/u&amp;gt;川という所の奥の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;テン&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ノ川の弁天堂に、七難のすす毛とて、長さ五丈ばかりのものがある。俗に白拍子静御前の髪の毛だとも云い、また縁起を聞くと、甚だ尾籠なものだと云う事である〔二六〕。備後国奴可郡入江村の熊野神社の末社に、跡厨殿というのがあるが、祭神は判然せぬ。神体は男女とも毛が長く、一に毛長神とも云っている〔二七〕。越前国大野郡平泉寺村から白山禅定の故地に往く道に、七難の岩屋というが残っている〔二八〕。此の二つは、やや明瞭を欠く所もあるが、毛長といい、七難とといっているので、姑らくここにかけて記すとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　陰毛の長い水主明神&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巫女と七難の揃毛を記す以前に、猶お予備として、陰毛の長い神の在ったことを述べて置く必要がある。讃岐国大川郡誉水村の水主神社の祭神が、陰毛が長いために、親神から棄られた縁起は[[日本巫女史/第一篇/第五章/第五節|既載]]した。但し、親神が何が故に、陰毛の長いのを恥じたのか、理由が判然せぬが、恐らく磯良神が変面を恥じたという伝説と共に、異相であったことを心憂く思ったものと考えられる。而して讃岐の隣国なる、阿波三好郡加茂村字猪乃内谷の弥都波能売神社にも、神毛にまつわる信仰が伝えられている。此の神社は、僅かに一筋の長い毛であるが、常には麻桶に入れて、神殿の奥深く安置してある。神慮の穏かならざるときは、その毛が二岐に分れて大いに延び、桶を押し上げて外へ余るようになる。これに反して、神意の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;和&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;むときは、本の如くなると、里人は語っている〔二九〕。これには陰毛だとは明記してないが、同書の附載として『大和国布留社（記述の石上神宮のこと）にも大なる髪毛あり、ソソゲといふ由』とあるのから推すと、筆者が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;態&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;わざ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と此の点の明記を&lt;br /&gt;
避けたものと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日向国児湯郡西米良村大字小川字中水流の米良神社は、祭神は磐長媛命と伝えられているが確証はない。此の社にも、昔は一筋の毛髪があって、これを極秘の神宝としていた。俚伝によると、祭神が世を憤りたまい、此の地の池に投身された折の神毛だというている。元禄十六年の洪水で、此の神毛は流失してしまったが、これの在った間は、神威殊に著しく、不浄は勿論のこと、外人殊に下日向の人を憎んで、一歩も境内に入れなかったと云う事である〔三〇〕。俚謡に『お竹さん、×××の毛が長い、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;唐土&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（又は江戸）までとどく』とあるのは、いつの世に、誰が何の理由があって、言い出したものか知る由もないが、七難の揃毛を背景として考えるときは、常人にすぐれた長い陰毛を持っているということは、或る種の呪力有している人と見られていたのであろう〔三一〕。そして此の信仰は、巫女が性器を利用した呪術に発し、これに仁王信仰が附会して、巫女が好んで陰毛の長大を誇り、併せてこれに種々なる装飾を加えるまでに至ったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　仁王信仰と七難即滅の思想&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在では、仁王尊といえば、寺院の門番と思われるまでに冷遇されているが、古く奈良朝から平安朝へかけては、仁王信仰は上下の間に深く行われたものである。而して仁王尊の功徳に就いては、仁王経に載せてあるが、これに関して南方熊楠氏の言われるには、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 七難のこと、仁王経にあり（中略）。是等七難を避くるために、五大力菩薩（五人の菩薩名は略す）の形像を立て、これに供養すべしとなり。朝家に行われし仁王会の事なり。然るに、それは一寸大仕事ゆえ、七難即滅のために一種の巫女が七難の舞をやらかせしにて、それより色々と変り、猥褻なる事にもなり、陰を出し（中山曰。所載の貴船社の巫女と和泉式部の件参照）通しては面白からぬゆえ、秘儀を神密にせんとて、殊更に長き陰毛を纏いしなるべし。凡て仏法に隠れたる所にある長毛を神霊とせるは「比丘尼伝」の外に「大唐西域記」巻十中天竺伊爛孥伐多国、室縷多頻没底抅胝（聞二百億）の伝にも見えたり（中略）。此人（釈迦の弟子）は、一足の裏に長き金色の毛あり、甚だ寄なりとて、国王が召して見たことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある〔三二〕。以上の説明によって、七難の揃毛の由来と、巫女が好んで陰毛の長きを利用した事情が、全く釈然したであろうと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に下総の東弘寺に伝った陰毛が、五彩であったという事であるが、これに就いても、南方熊楠氏は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 姚秦三龍仏陀耶舎共笠法念訳、四分律蔵二十九巻に、爾時薄伽婆（仏の事）在舎衛国給孤独園、時六群比丘尼、蓄婦女、装厳身具、手脚釧及猥所荘厳具（印度は裸で熱い所故に、衣服を飾りても久しく保たず、汗に汚れる故に、髪腕足の輪環又陰毛を染め、甚だしきは陰部に玉を嵌める等の飾りあり）諸居士皆見識嫌云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
との例を挙げ〔三三〕、我国のもこれを真似たものだろうと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の俗信を頭脳に置いて、古い七難の揃毛のことを再考すると、それは前にも述べた如く、仏説を土台とした巫女等が、猖んに長いほど呪力の加わるものとして利用した結果が、三丈五丈のものを残すようになったのである。巫女の堕落と、異相も、ここに至って極まれりと言うべきである。猶お本節を終るに際し、南方熊楠氏の示教に負うことの多きを記して、敬意を表する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 金田一京助氏の談。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 川口孫次郎氏が「飛騨史談」において、詳しい考証を発表されたことがある。私の記事は、これに拠ったものである。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 「水戸歳時記」によれば、同地方では「隣りの嫁さんの××の臭さよ、ふふん」と唱え、更に「吉居雑話」によれば、駿河の吉原町辺では「ながながも候、やッかがしも候、隣りの婆さん屁をたれた、やれ臭いそれ臭い」と云う由。共に臭気を以て、鳥獣を逐うた名残をとどめたもので、更に此の問題は、悪臭のする草木を呪符の代用した俗信にも触れているのである。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「千金方」。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 時珍の「本草綱目」。そして以上の二書は、支那のものであるが、これ等の呪術が我国に行われていたので、敢て挙げるとした。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 「東京人類学雑誌」第二十九巻第十一号。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 「飾磨郡風俗調査」。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 「山州名跡志」巻九（史籍集覧本）。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 「甲子夜話」巻五十二（国書刊行会本）。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 同上。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 「群馬県邑楽郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 「甲斐国志」巻六十四。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 「出雲国式社考」巻下（神祇全集本）。&lt;br /&gt;
; 〔註一四〕 : 「三国名勝図絵」巻十。&lt;br /&gt;
; 〔註一五〕 : 俗に白ツ子という者や、低能者などを、異常者として、一種の崇敬した例さえある。&lt;br /&gt;
; 〔註一六〕 : 元禄年中に、古川常辰の書いた「四神地名録」に拠る。&lt;br /&gt;
; 〔註一七〕 : 「和漢三才図会」巻六。&lt;br /&gt;
; 〔註一八〕 : 加藤雀庵の「さえずり草」。&lt;br /&gt;
; 〔註一九〕 : 「閑窓瑣談」巻四（日本随筆大成本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二〇〕 : 「日本伝説叢書」信濃巻。&lt;br /&gt;
; 〔註二一〕 : 「塩尻」巻二（帝国書院百巻本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二二〕 : 「斐太後風土記」巻四（日本地誌大系本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二三〕 : 「和漢三才図会」同条。&lt;br /&gt;
; 〔註二四〕 : 「近江輿地誌略」巻三十六（日本地誌大系本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二五〕 : 東京の温故会と称する好事家の集りで秘密に出版したものに拠る。&lt;br /&gt;
; 〔註二六〕 : 「塵塚物語」巻四（史籍集覧本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二七〕 : 「芸藩通志」巻四。&lt;br /&gt;
; 〔註二八〕 : 「大野郡誌」下編。&lt;br /&gt;
; 〔註二九〕 : 「日本伝説叢書」阿波巻。及び「阿州奇事雑話」に拠る。&lt;br /&gt;
; 〔註三〇〕 : 「郷土研究」第四巻第十二号。&lt;br /&gt;
; 〔註三一〕 : 福島県石城郡草野村大字北神谷の高木誠一氏の談に、同地方では「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;百舌鳥&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;モンズ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;モンモの毛、太夫（巫女）さんの×××毛三本つなげば江戸までとどく」と言うそうだ。&lt;br /&gt;
; 〔註三二〕 : 「南方来書」明治四十四年九月十三日の条。&lt;br /&gt;
; 〔註三三〕 : 同上。明治四十四年十月十日の条。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1309</id>
		<title>日本巫女史/第二篇/第五章/第二節</title>
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		<updated>2010-02-27T16:33:49Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第五章|第五章　呪術方面に現われた巫道の新義]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　奥州に残存せるオシラ神の考察==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸中国を中心として、陸前と陸奥と羽後の各一部にかけ、イタコと称する巫女の持っているオシラ神なるものは、我が民俗学会における久しい宿題であって、今に定説を見るに至らぬほどの難問なのである。私の菲才にして寡聞なる、到底この難問を解決することは不可能であるが、ここに所信を記述して、江湖の叱正を仰ぐとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　オシラ神に関する伝説&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オシラ神を学会に提出したのは「遠野物語」であると信ずるが、その由来に就いては、概略左の如く記してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 昔ある処に貧しき百姓あり、妻はなくして美しき娘あり、又一匹の馬を養う。娘此馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、遂に馬と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘に知らせず、馬を桑の木に吊下げて殺したり。其夜娘は馬の居らぬより、父に尋ねて此事を知り、驚き悲て桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父は之を悪みて斧を以て、後より馬の首を切り落せしに、忽ち娘は其首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作る。其像三つありき、本にて作りしは山口の大同にあり、之を姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎という人の家にあり（中略）。末にて作りし妹神の像は、今&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;付馬牛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツクモウシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;村にありと云えり云々〔一〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此のオシラ神由来記とも云うべきものが、支那の「捜神記」の蚕神の伝説の影響を、多分に受け容れていることは言うまでもない〔二〕。而して此の記事に就いては、更に注意すべき三つの点がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一は、此の神を、民家で祭っていたということである。併し、これは初めからの習慣では無くして、巫女の家の後か、又は巫女の手を離れた神を、篤志の者が祭ったと見るべきであろう。現に磐城国石城郡上遠野村附近では、オシラ神のことをシンメイ（神明）様と称え、在家では之を祭らず、修験行者（ワカと称する巫女）の徒が祈祷の折に持参し来って拝ませるとあるのでも〔三〕、その古い時代のことが想われるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二は、神体を桑の木で作るということであるが、これも古い時代にあっては、必ずしも此の木に限られたものではなくして、多くは竹で作っていたようである。菅江真澄翁の「月の出羽路」巻廿一に、羽後国仙北郡地方の事として、次の如く出してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 谷を隔てて生立る桑ノ樹の枝を採り、東の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;朶&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;エダ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を雄神、西方を雌神とし、八寸余りの&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;束&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツカ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の末に人の頭を作り、陰陽二柱の御神に準う。絹綿を以て包み秘め隠し、巫女それを左右の手に取りて、祭文祝詞を唱え祈り加持して祭る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の記事から推すと〔四〕、桑で作ることも、決して新しいものでは無いが、更に遠き昔においては、竹で間に合せたよううである。恐らく、オシラ神が「捜神記」などの影響で、蚕の神となってから、桑で作るようになったものと考えて差支ないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三は、馬の首を斬ったという事であるが、これは阿波国に残っている首斬り馬の伝説と同じもので、何か両者の間に共通したものがあるのではないかと思われるのである。而して姉崎正治氏は、曾て「中奥の民間信仰」と題せる記事中にて、オシラ神に関し下の如く述べたことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 盛岡付近にては、不動の変形を「オシラサン」と称して崇拝し、其神体は桑樹の四枝を出だせる枝四体にして、常に此四体を離せば罰を受くと信ぜり。此神は婦女小児の心願を成就せしむとて、彼等は布を以て之が頭を蔽うを以て、之が崇拝の方法となし、多くは小児の守護神として、時には小児等之を街上に引廻す事あり。此神霊は又時に桑梢の四岐せる所に宿れるを以て、此の如き桑樹は霊樹として切るべからず、之を切る者は明を失し、其他重病に罹ると。此神に附属せる古き神札を見れば、明かに阿遮羅尊の名を記し、其二童子の名を附記せり。故に「オシラサン」とは阿遮羅尊（Acala）即不動なるも、「オシラサン」として祀れる者は不動と同一なるを知らざるなり。何れにしても之を威力の神として、特に疾病に関係ある神として祭れるに至りては一なり云々〔五〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
姉崎氏の記事は、明治三十年頃の古いもので、且つ盛岡地方に限られた採訪であるから、これに対して批評がましい事を言うのは差控えねばならぬのであるが、其中の一つだけを云えば、オシラ神と不動尊とが一体であるといわれたのは如何かと考えられるのである。前にも記した如く、東北の巫女は神と結婚する古俗を忠実に守っていて、愈々一人前の巫女となるとき、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;神附&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カミツ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;けと称して十三仏中の一仏と結婚し、これを一代の呪神——即ち守り本尊として（是等に就いては[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に詳述する）崇拝するのである。されば姉崎氏が見られた神札に不動及び二童子の名があったというのは、偶々不動尊を守護仏とした巫女の出したものではないかと思われるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　オシラ神の神体と装束&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此神に関する諸種の報告を参酌すると、オシラ神の神体は陰陽二体を原則とし、古いものほど竹で作り、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;長&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たけ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;は八九寸どまり、頭は&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;鶏頭&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トリガシラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、姫頭、馬頭などあり、これも古いものほど動物で、新しくなると人間になっている。装束（方言でセンタクと云う）としては、方一尺ほどの布の中央に穴を開け、それへ頭を通して被せるもので、俗に貫頭衣という形式そのままである。そして此の装束は、年に一度正月十六日に新調して被せるのであるが、その折にも古いものをそのままとして、上へ上へと幾重にも被せるので、古い神体になると、十枚も二十枚も重ねているのがある。而してこれを祭るときには、顔面へ白粉を塗り、巫女が神体を左右の手に持ち、祭文を唱えながら、踊らせるように動かすのである。此の装束の被せ方は、他地方における雛人形のそれと全く同じもので、オシラ神が人形であったことを自ら証拠立てる一つである。更に祭りの日に、顔へ白粉を塗ることも、我国には種々形式で残っている民俗であって〔六〕、これも別段にオシラ神に限ったものでは無いのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　オシラの語原と其の分布&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:古相オシラ.gif|thumb|古き相を伝えたオシラ神（人類学雑誌所載）]]&lt;br /&gt;
此の神を何故にオシラと言うかに就いては、相当学界に異説もあるが、ここにその大略を摘記すれば、第一説は、前掲の折口信夫氏の云われたように、元はオヒラと称して、ヒナ（雛）を意味していたのが、斯く転訛したのであると云うのである。第二説は、加賀の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白山神社&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シラヤマジンジャ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に仕えた巫女が、古く此の神体を呪術に用いたのが、東北の巫女に伝り、その名を負うてオシラ神となったのであろうと云うのである。第三説は、此の神は元々アイヌ民族の持っていたもので、同民族では守り本尊とも云うべき神のことを、シラツキカムイと称しているので、その転訛であろうというのである。第四説は、此の神は蚕の神であって、蚕のオシラ（白彊蚕）を舎利と称して尊敬した俗信があったので、それに由来するのだろうというのである。第五説は、オシラ神はお知らせ神の転訛であるというのである。第六説は、ネフスキー氏の主張するシベリヤからの輸入説（この事は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|後段]]に述べる）などが存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はオシラ神の語原に対する態度を明かにする以前に、更に此の神が我国の如何なる地方に分布しているかに就いて述べるとする。此の神が、東北一帯——殊に陸前、陸中、陸奥、羽後にかけて分布していることは、既に述べた如くであるが、此の反対に、他地方には、全く見ることの出来ぬ神のように解されていた。換言すれば、オシラ神は、東北地方の特殊神であって、此の以外には、存在せぬものである如く見られていたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
併し、私の寡聞を以てするも、此の解釈は全く誤りであって、かなり広く分布していたことが知られるのである。最近の報告によると、武蔵国西多摩郡の各村落にては、此の神（但し神体は異っていて、此の地方のは仏像である）を祭り、今にオシラ講というのが各村に在ることが証明された〔七〕。柳田国男先生の記事によって知った、越後長岡辺では昔は蚕の事を四郎神と云い、正月、二月、六月の午の日に、小豆飯を以てこれを祭ったのや〔八〕、上野国勢多郡宮田村などでも、正月十四日の夜をオシラマチと呼び、神酒と麺類とで蚕影山の神を祭ったとあるのも〔九〕、共にオシラ神の分布されたものと見ることが出来るようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に「延喜式」の神名帳に載っている武蔵国播野郡の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白髪&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シラカミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;神社も、後には祭神清寧天皇と伝えられたが〔一〇〕、これなども清寧帝が偶々白髪であったという故事から、白髪に附会した&amp;lt;u&amp;gt;さかしら&amp;lt;/u&amp;gt;で、古くはシラカミと訓んだものと解する方が穏当であって、然もオシラカミに関係があったのかも知れぬ。美作国苫田郡高野村大字押入に白神神社というがあり、社記を刻した長文の石碑が建ててあるが、それに由ると、即ちシラカミと訓むことが明白である〔一一〕。出雲国大原郡佐世村大字下佐世に白神明神があり、俚俗に祭神は素尊と稲田姫との二柱で、素尊の髪が白いので、斯く称すのだというている〔一二〕。猶お同村には白神八幡という神社もある。此の俚伝も、前の清寧帝のそれの如く、シラカミに後世から附会したものであることは言うまでもない。紀伊国有田郡田栖川村に白神磯という地名がある。これは「万葉集」に『由良の崎汐干にけらし白神の、礒の浦みを敢て漕ぎなむ』とあるのがそれである〔一三〕。安芸の広島市の国泰寺の附近にも白神神社というがある。以前は竹竿に白紙を挟んで、海中瀬のある所に立てたものを神に祭った〔一四〕。此の二つは共にオシラ神であることは言うまでもないが、海辺に祭られた理由に就いては、私には判然せぬ。而して是に関して、想い起されることは、下総銚子町の歯櫛神社の由来である。「利根川図誌」などによると、歯櫛の二字から構想して、長者の娘が失恋して入水し、歯と櫛が漂着したので、神と祀ったのであるなどと、とんでもない怪談を伝えているが、これは古くシラカミに白紙の文字を当てたのを、更にハクシと訓み過って、歯櫛の伝説となったことが知られるのであって、何か海辺に此の神が由縁を有していたこと、前記の紀州や安芸のそれや、及び渡島の白神岬などと共に考うべき点である。阿波国美馬郡口山村宮内の白人神社や〔一五〕、「筑後国神名帳」に載せた上妻郡の白神神社も、これまたシラ神であって、阿波のは白神を白人と訓み習わしたのを、後にかかる文字を当てたものと見るべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上は手許にあるカードから抽出したのに過ぎぬのであるが、克明に全国に渉って詮索したら、まだ幾つかのシラ神を発見することが出来ようと思う。而して此の貧弱なる類例から推すも、古く此の神が殆んど全国的に分布されていて、決して東北地方に限られた特殊神で無いことが釈然したと信ずるのである。従って此の立場から言えば、オシラ神の語源に、第一説のヒナ（雛）の転訛と見るのが、尤も妥当であると考えるのである。そして此の神を東北に持ち運んだのは、熊野比丘尼の徒であると思うのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　オシラ神のアイヌ説&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の神はアイヌ民族の持っていたものであるという説も、かなり古くから伝えられている。例えば「蝦夷風俗彙纂」に引用した「松前記」の一節に『蝦夷にはオホシラ神といふ物あり、何の神という其由来を知る者なし、桑の木の尺余なるに、おぼろげに全体を彫る、男女の二神なり（中略）。其神、巫女に懸りて吉凶をいふ（中略）。中国にある所の犬神といふものにひとしきか』と載せ、更に明治になってから出版された「あいぬ風俗略志」にも、これと同じような記事が見えている。併しながら、是れは柳田国男先生が言われたように『信仰は普通に単なる二種族の接触のみに由って、一が他を感化し得るものとは想像し難く、殊に敗退者たる本土アイヌとして、其神を故地に留めて今日の盛況の原因をなしたということは、決して推断し易い事柄では無いと思う』とある如く〔一六〕、此の神をアイヌの遺物とすることは無理だと考える。殊にアイヌ民族の研究者として当代の権威である金田一京助氏にお尋ねしても、オシラ神を持っていた伝説も聴かず、又これを崇拝している痕跡も見えず、殊に「松前記」にかかる記事は載っていぬとて、近刊の「民俗学」第一号で発表されているから、これは内地の神と見るのが穏当である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;五　オシラ神は呪神で無い&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯う考えて来ると、オシラ神は、その始めは巫女が行う所の呪力を授ける神ではなくして、恰も&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;傀儡女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クグツメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の持てる木偶、遊女の信仰した百太夫の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;形代&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カタシロ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の如きものであったと見るべきである。殊に現在でも、此の神を持っている&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;イタコ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が呪術を行う時とは、昔の守袋に似た円筒形の筒と、イラタカの珠数とを大切に取扱い、オシラ神はただ舞わせるだけだと云う事からも、その間の事情を察知し得るのである。折口信夫氏は、[[日本巫女史/第二篇/第四章/第一節|既記]]の如く、オシラ神は熊野明神の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;使令&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツカワシメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;だと云われているが、私の信ずる所では、我国の用例として、動物以外に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;使令&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツカワシメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の意義を有たせたもののある事を発見せぬので、これを直ちに使令と見る説に賛成しかねるのである。折口氏は、抽象的の仮定で推論する天才であるが、動物以外の使令の類例を示してくれぬ以上は、氏の説は困難だと信ずるのである。猶おオシラ神の舞わせ方、その折に唱える祭文の如きは、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に述べる考えであるから、これとそれと参照されん事を希望する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 「遠野物語」は、柳田国男先生が、遠野町に近き陸中国上閉伊郡土淵村大字山口生れの佐々木吉善（当時は繁と云った）の話を記されたもので、我国の民俗学上には意義の深い著述である。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 「捜神記」の記事は余りに有名で、誰でも知っていることゆえ、わざと省略した。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 「郷土研究」第三巻第二号。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 同上第一巻第五号&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 姉崎氏の記事は「哲学雑誌」に載ったものだというが、今は八濱督郎氏編纂の「比較宗教迷信の日本」に拠った。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 神や仏を祭るときに、その像へ、白粉や、獣魚の鮮血や、更にベニガラ、泥などを塗る民俗は各地にある。殊に、面白いのになると、小豆飯の汁だの、饀などを、塗りつけるものさえある。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 八王子市出身の学友村上清文氏の談。因に、同地方のオシラサマの仏像は「民俗芸術」の人形芝居号に、写真版になって挿入してある。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 「郷土研究」第一号第五号所引の「北越月令」。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 同上所引の「宮田村沿革史」。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 「神名帳考証」に拠る。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 「東作誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 「雲陽誌」巻下。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 「有田郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註一四〕 : 「芸備国郡志」。&lt;br /&gt;
; 〔註一五〕 : 「美馬郡郷土誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註一六〕 : 「民俗芸術」第二巻第四号。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1308</id>
		<title>トーク:日本巫女史/第二篇/第五章/第二節</title>
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		<updated>2010-02-27T16:15:07Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.558&lt;br /&gt;
** 「訓み習はた」→「訓み習はした」&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.558&lt;br /&gt;
** 「播野郡」は「播羅郡」の間違いではないか。&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;br /&gt;
* 底本 p.558&lt;br /&gt;
** 「湯羅乃前 塩乾尓祁良志 白神之 礒浦箕乎 敢而滂動」（[http://infws00.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/cgi-bin/MANYOU/manyou2.cgi?09/1671 万葉集 9-1671]）&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<title>日本巫女史/第二篇/第五章/第一節</title>
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		<updated>2010-01-23T07:46:35Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第五章|第五章　呪術方面に現われた巫道の新義]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第一節　巫蠱から学んだ憑き物の考察==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我国における蠱術は、巫女よりは修験道の山伏が、深い関係を有していた。巫女がこれに交渉を持つようになったのは、恐らく山伏と性的共同生活を送るようになってから、これに教えられたものと思われる。此の見地に立てば、憑き物の考察は、巫女よりも山伏が対象となるのであるが、教えられたにせよ、巫女が此の事に多少とも関係を有していたことも事実であるから、今は巫女を中心として、簡単に記述することとした。既に憑き物に就いては、諸先輩の研究が発表されているので〔一〕、詳細はそれに就いて知る便宜があるからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して茲に、憑き物とは、上下両野のオサキ狐、信濃のクダ狐、三河のオトラ狐、飛騨のゴホウ種、近畿のスイカズラ、四国の犬神、出雲のジン&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;狐&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、中国のトウビョウ等を重なるものとして、此外に、猫神、猿神、飯綱、蟇つき、狸つきなどの名で呼ばれ、更に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白神筋&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シラカミスジ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、ナマダコ、ゲトウ、院内等の「物持筋」となり、一般に社会から嫌厭される家筋まで含めての意である。従ってここに言う憑き物とは、悪霊、死霊、生霊等の人間の霊魂が、人間に憑くという意味よりは、動物の霊が人間に憑くという方に重きを置くことになっているのである。而して是等の憑き物に共通している大体の俗信は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、是等の憑き物は、年々のように繁殖して、常に飼っている家でも困却しているということ。&lt;br /&gt;
: 二、その家の子女が、他家へ聟または嫁に往くとき、憑き物がついてその家に入るということ。&lt;br /&gt;
: 三、憑き物筋の者は、他人の健康や作物を害さんと思うと、その憑き物が活いて、健康を害し、作物を損じ、更に現金まで持って来るということ。&lt;br /&gt;
: 四、この憑き物を持っていると勝負運が強いということ。&lt;br /&gt;
: 五、物持筋が憑き物を放そうと思うても、どうしても放れぬということ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この五点である。而して巫女は、随意に此の憑き物を使役する者として恐れられた。それでは是等の憑き物という俗信は、何によって発生したか、先ずそれから考えて見るとする。猶お此の問題は、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]においても記述すべきであるが、多少の変遷ありとするも、同じ問題を二度書くことは気がさすので、茲には明治期まで押しくるめて記すとした。敢て賢諒を乞う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　オサキ狐クダ狐など&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狐や蛇がヴントの所謂霊的動物として崇拝されたことは既述した。それと同時に、我国の神の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;使令&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツカワシメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（又は眷属ともいう）と称する幾多の動物——例えば、稲荷神の狐、熊野神の鳥、日吉神の猿、春日神の鹿、貴船神の百足、三峯神の狼と云うが如きものは、古くはそれが原祀神ではなかったかと云うことも、併せて既記を経た。それ故に是等の動物が、恰もアイヌ民族に見る如く、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;[[:画像:アイヌの憑き神.gif|憑き神]]&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トレンカムイ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;から&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;守り神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シラツキカムイ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にすすんで往く過程も考えられるし、更に是等の動物の霊が人間に憑くという、俗信の発生も考えられぬでもないが、此の俗信を強く、然も深く、我国に植え込んだのは、前にあっては、支那の巫蠱の呪術で、後にあっては、仏法の吒吉尼の邪法だと信じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して蠱術に就いては略記したので、今は吒吉尼に関して云うが、此の邪法も古くから行われていたのである。伴信友翁の「験の杉」に引用された「拾葉抄」に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東寺ノ夜刄神ノ事云々。中聖天、左吒吉尼、右弁財天也、天長御記云、東寺有守護天、稲荷明神使者也、名大菩提心使者神也。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある天長御記は、淳和帝の御記と思われるので、僧空海の在世中に、早くも吒吉尼信仰の行われた事が知れる。勿論、稲荷信仰に伴う狐の崇拝は、吒吉尼の乗っている動物と類似している所から、両者の関係を密接ならしめ、その結果として、僧空海と稲荷神と面談したなどと云う俗説まで生れたが、兎に角、両者の歩み寄りが、狐を一段の霊物とし、稲荷神を吒吉尼化したことは、やや明白に看取されるのである〔二〕。「文徳実録」仁寿二年二月の条なる藤原高房の伝に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 天長四年春拝美濃介（中略）。席田郡有妖婦、其霊転行暗噉心、一種滋蔓民被毒害、古来長吏皆懐恐怖、不敢入其部、高房単騎入部、追捕其類、一時酷罰、由是無復噉心之害云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのは、「谷響集」に「真言演密抄」を引いて『荼吉尼是夜叉趣摂云々。盗取人心食之』とあるより推して、此の妖巫が吒吉尼の邪法を行うたことは、疑うべからざる事実である。而して此の信仰から導かれて、狐の神格的地位は段々と向上し、一方においては&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;専&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウノ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;女御前となり、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;三狐&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミケツ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;神となり、遂には倉稲魂神と誤解されるまでになり、更に一方においては、神狐とか、霊狐とか云われて、俗信を集めるようになったのである。狐を殺した為に、配流された例は多いが〔三〕、「中右記」長元四年八月四日の条に『京洛之中、巫覡祭狐枉定大神宮、如此事、不然之事也』とあるような事態を見るに至ったのである。民間の惑溺また思うべしである。大江匡房の「狐媚記」の如きは此の産物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の郷里である下野国足利郡地方の村々では、私の少年の頃までは、オサキ狐の話をよく耳にしたものである。大昔に、九尾ノ狐が帝都を追われて、那須野に隠れたのを、坂東武士のために狩り出されて、殺生石となったが、その折に尾が方々へ散って狐となり、これを尾先狐と云うのだと故老から聴かされ、又た誰々の家には、その狐が七十五匹戸棚の隅に飼ってある。毎朝、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;飯匙&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シャモジ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;で釜の端を叩くのは、狐に餌を遣る合図だというて、私などが過って此の所作をすると、父母から厳しく叱かられたことを覚えている。かかることで、オサキ狐に憑かれた家の人ほど気の毒なものはないが、それでも私の地方などは、他国に比較すると、まだ気の毒の程度が軽いようである。通婚にも、交際にも、余り忌み嫌われていぬからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに反して、信州松本平の中央山脈の麓寄りの方から、木曾の谷へかけて、薮原、宮ノ越、福島などの各駅から美濃堺まで、クダ狐の憑いている家が多い。殊に福島駅に近い新開村字大原は、四十戸ばかりの部落であるが、その中に五六戸は『あすこはクダを飼ってる』と昔から言われている家がある。此の評判が立つと、部落からは元より、やや遠い所の者からまでも特別の扱いを受け、『おれの家は腐る方だが、あすこは是れだからな』と、物を掻く手真似をして見せる。腐るとは癩病の血統で、掻くのは狐を意味している。即ち癩病よりもクダ狐を恐れる意味である。従って通婚は此の者同士に限られている。クダ狐持がこうまで嫌われるのは、これに憑かれると、すっかり狐になってしまい『某の死んだのは、おれが締め殺したのだ』或は『某の家の馬の病気は、おれがしたのだ』また『某の家の南瓜はおれが挘ったのだ』というような事を口走る。そしてクダ狐は、元は伏見の稲荷社から受けて来たものだと伝えている〔四〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出雲のジン狐に関する気の毒な事実は、夥しき迄に学会へ報告されている〔五〕。それは大正十一年の事であるが、出雲の某村の有力者が、息子に嫁を迎えようとしたが、世話をする者がないので、段々と調べてみると、その家はジン狐持ではないが、主人の妹が嫁した家の遠縁の者に、その疑いのあることが判然し、親族会議の結果は、妹の家と絶交することとなり、それを言い渡すときの光景は、見るも憐れなものであった。老母の顔は涙に曇り、言渡す主人の声もふるえていた。絶交された妹は、世の成行きと、自分の運命で、代々続いて来た綺麗な家の血筋を濁すことには代えられぬと、観念の眼を閉じたということである〔六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して斯うした社会の圧迫と、家庭の悲劇とは、独り信州や出雲ばかりでなく、狐憑きの俗信の行われているところには、何処にでも存しているのである。元より俗信であり、理由のない事であるから、疾くにも泯びなければならぬのに、今に此の陋習が依然と行われているとは、如何に俗信の力の偉大なるかに驚くのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狐持の家筋が、狐に憑かれた事に原因することは言う迄もないが、その狐を憑けたものが、巫覡であることも、勿論である。「栄花物語」巻七鳥辺野長保三年十二月の条に『かかる程に、女院（円融后東三条院詮子）ものせさせ給て、なやましう思しめしたり、との（藤原道長）御心をまどはして、おぼしめしまどはせ給（中略）、御物のけを四五人かりうつしつつ、おのおの僧どもののしりあへるに、此三条院の&amp;lt;u&amp;gt;すみ&amp;lt;/u&amp;gt;の神の&amp;lt;u&amp;gt;たたり&amp;lt;/u&amp;gt;と云う事さへいできて、そのけしきいみじうあやにくげなり』とある如く、物の怪を四五人にかりうつすとは、即ち&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り祈祷であって、此の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑座&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨリマシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の口から、種々なる御託が発せられ、三条院の場合は、&amp;lt;u&amp;gt;すみ&amp;lt;/u&amp;gt;の神の祟りという事であったが、これが狐が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いているとか、蛇が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いているとか云えば、それでその人は、狐つき、蛇つきとなってしまい、心理学上の暗示に支配されて、狐の真似したり、蛇の様子して座敷を這い廻ると云うことになれば、その家は忽ち「持物筋」となり、それが子孫へまで遺伝することになるのであるから、是等の持物筋の発生が、巫覡の憑り祈祷にあることは明白である。これに就いて、本居内遠翁は「賤者考」において、左の如く述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 犬神狐&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;役&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツカヒ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;などいふは、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;唐土&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;モロコシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の蠱毒の類にて、かの土には金蚕蝦蟇蜈蚣などの毒種と見ゆれど皇国にはきかず、犬神といふ術四国にありときけど（中略）、出雲の狐持といふ家も是と等し、先年領主より命ありて、此種を絶んとて多く刑にも行ひ、追放もせられしかど、猶その余残あるうへに（中略）。又そのさま怪しげに偶々聞ゆる事などあれば、狐つかひならむと云ひはすめれど、それも又別術なるか、事発覚に及ばざれば又弁知しがたき物なり。おのが是まで聞及べるは、神仏に託して奇に人の上を言ひあてて祈などに金銭を貪り（中略）。昔名高かりし真言僧などの行法に奇特とてありし事、又修験加持などして、&amp;lt;u&amp;gt;よりまし&amp;lt;/u&amp;gt;とて生霊死霊を人にうつして憤恨を云はせたり。&amp;lt;u&amp;gt;しりゃう&amp;lt;/u&amp;gt;の事、前に云ふ打臥しの巫（中山曰。此の巫女の事は既述した）の類、皆此狐役の術なるべし。今も日蓮宗の僧徒の中に、疾病の祈をなし、&amp;lt;u&amp;gt;よりまし&amp;lt;/u&amp;gt;を立てて言はする類まま聞ゆ。仏法の行力なくば、その宗の徒はすべてなすべきを、たまさかなるは狐使の別術なる故なり云々（本居全集本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狐憑きの発生が、憑り祈祷にある事は、これから見るも明かであって、憑座に対して&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;問&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ト&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;い&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（大昔の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;審神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;サニワ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の役）をする者が、仕向けるままに放言する&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;与多&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨタ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が〔七〕、遂に厭うべく悲しむべき結果を生むようになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飯綱信仰は、信州の飯綱山に起り〔八〕、室町期に猖んに行われたものであって、殊に武田信玄と上杉謙信は、これが篤信者であったと伝えられている。併しながら、その行法は吒吉尼を学んだもので、他の巫覡と同じように狐を遣い、飯綱遣いとは狐遣いの別名の如く民間からは考えられていた。飯綱に関する資料も相当に存しているが、今は深く言うことを避けるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　蛇神託とトウビョウ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
蛇が狐にも増して人に憑くものと考えられるのは、あの醜悪なる形態と、これに伴う幾多の説話からも知ることが出来る。今に全国的に行われているものに、蛇は執念深いものゆえ、半殺しにしておくと、人に祟るということである。而して此の蛇が、人に祟りをしたという伝説は、狐に比して更に多くのものが存しているが、これは直接ここに関係がないので省略する。古く蛇が託宣したことが見えている。「明月記」建久七年四月一七日の条に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 刑部卿参入、中世間雑談等、新日吉近日有蛇、男一人随其蛇、吐種々狂言、称蛇託宣、又云後白河院後身也云々、此事不便、書奏状進之云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのが、それである。然るに、私の寡聞なる、此の種の類例を他に全く知らぬので、比較して考察を試みる事もならず、それに此の記事だけでは、蛇が如何なる方法を以て託宣したのか、解釈に苦しむほどゆえ、ただ鎌倉期の初葉には斯うした俗信もあったと紹介して置くにとどめる。而して此の蛇が民間の憑き物となったトウビョウなるものにあっては、中国を中心として各地方に存していた。柳田国男先生は、これに就いて、左の如き有益なる研究を発表されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 蛇の神はトウビョウと云うのが、元の名であるらしい。「大和本草」に、中国の小&amp;lt;u&amp;gt;くちなは&amp;lt;/u&amp;gt;とて安芸に蛇神あり、又タウベウと云ふ。人家によりて蛇神を使ふ者あり。其家に小蛇多く集りゐて、他人に憑きて災をなすこと四国の犬神、備前児島の狐の如し云々とある（中略）。石見などでもトウビョウと云うのは蛇持又は蛇附きのことで、此を芸州から入って来たと云っている（日本周遊奇談）。安芸の豊田郡宮原村の海上に当廟島という小さな島があるのは、恐らく此神がまだ公に祀られていた時の由緒地であろう。備中にも川上郡手ノ荘村大字&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;臘数&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シワス&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に小字トウ病神がある。今日の如く此神に仕えることを恥辱と考えて隠す世の中なら、到底こんな地名は出来ぬ筈である。備中には海岸部落は犬神の勢力範囲であるが、山奥の田舎から出雲へかけてトウビョウ持と云われる家筋が多い。此辺でもトウビョウは蛇だと云うが、その形状及び生活状態というものが余り蛇らしくない。先ず其形は鰹魚節と同じく、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;長&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ケタ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;短くして中程が甚だ太い。それを小さな瓶の類に入れ、土中に埋め其上に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;禿倉&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ホクラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を立て、内々これを祭っている。此神を祈れば金持になるとのことで、其家筋の者は皆富んでいる（中略）。此神の甚だ好む物は酒であるから、折々瓶の蓋を開いて酒を澆いでやらねばならぬ。祟りの烈しい神である（藤田知治氏談）。&lt;br /&gt;
: 密閉した酒瓶の中に生息する蛇というものが、動物学上果して存し得るものか、大なる疑問である。四国は昔から犬神の本場であるが、讃岐の西部には之とよく似たトンボ神の俗信があることを、近頃荻田元広氏の親切に由って知ることが出来た。かの地方ではトンボ神と口で言って文字は&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;土瓶神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ドヘイジン&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と書くそうである。之を思い合す時はトウビョウも亦土瓶の音で、即ち蠱という漢字の会意と同じく、本来虫を盛る器物から出た名目であった。讃岐のトンボ神は、往々にして蠱家の屋敷内に放牧してある事もあるが、又土甕の中に入れ台所の近く、人目に掛らぬ床下などに置き、或は人間と同じ食物を遣るとも、又酒を澆いでやるとも伝えられている（荻田氏報告以下同）。唯虫の形状に於ては頗る備中のものと異り、小は竹楊枝位から大は杉箸迄で、身の内は淡黒色、腹部ばかりは薄黄色、頸部に黄色の輪があって、之を金の輪と云う。身を隠すことも敏捷だとある。土瓶神持は縁組に由って新に出来る。相手の知る知らぬを問わず、娵又は聟（？）が来るときには、神も亦分封して附いて来る。連れて来るのか独りで附いて来るのかは未だ詳ならず。トンボ神持は如何なる場合にも、世評を否認するにも拘らず、金談其他で人と争でもすれば、兎角その威力を利用したがる風がある。世間の噂では、或者に怨みを抱くとなれば、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;土瓶神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トンボガミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に向って斯う言う。お前を年頃養ったのは、こんな時の為めである。何の某に我恨みを報い玉わずば、今後は養い申すまじ云々（中略）。気の利いたトンボ神は此相談を聞く迄もなく、家主の心の動くままに、直に往って其希望を遂げさせるとのことである。此の蟲が来て憑くと身内の節々が段々に烈しく痛む、医者に言わせると急性神経痛とでも言いそうな病状である。之を防ぎ又は退ける方法は、一つには祈祷で、之を役とするヲガムシと云う巫女を依頼する。第二の方法は、至って穢い物を家の周囲などに澆き散らす（中略）。&lt;br /&gt;
: 一旦土瓶神持となれば、永劫其約束を絶つことがならぬ。唯偶然に知らぬ人の手によって、根を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;絶&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;すことが出来れば、家にも其人にも、何等の祟りが無いと云うことで、窃にそんな折を待っている云々（以上「郷土研究」第一巻第七号）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
瀬戸内海に面した備前、備中、安芸、及び讃岐のトウビョウは、以上の記事によって詳細を知ることが出来たが、それでは日本海に面したものは如何に伝えられているかと云うに、これに就いては、「雪窓夜話抄」巻七に「伯州のタウベウ狐の事」と題して、下の如き記事が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 或人曰く、伯州には村々にタウベウを持たる者あり。殊に倉吉あたりに多くありと云へり。国の御法度強く其所の人もタウベウを持つといへば嫌ふ故に、他人に深く隠して云ざるなり。是はタウベウ&amp;lt;small&amp;gt;キツネ&amp;lt;/small&amp;gt;と云て、常のキツネとは変りて、別に一種のキツネなり。形はキツネにて常の者よりも、甚だ小さく大さ鼬鼠程あり。是を見たる者は多くあり。其狐に主有て先祖より子孫に伝はりて其家を離れず（中略）。犬神に少も違はず、他の家に往て心の中にほしきと思ふ時には、本人の知らざるに向の人に附て、其物ほしきと口走りて、本人は口外に出さぬ事を他人に披露して却て其人を恥かしむ。或は瞋恨ある人には、本人は心中にて思ふ計りなるに、其人に付って讐をなす事あり（中略）。先年も倉吉に牛疫はやりて多く死せしに、此れを頼みてマジナイせしむれば即座に治す。是に依て大分の米銀をもうけたり。タウベウ持の方より附たる疫病なること、忽ち露顕して追放せられたり。少も犬神と変る事なし。狐の一名を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;専女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タウメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と云と古き書にも記せり、専女と云べきを誤てタウベウと云へるにやと云たる人もあり、さもありぬべき事ならんか。是も犬神と同じく、其人に飼れては末代まで家を離るる事なし云々（以上「因伯叢書」本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の記事は、恐らく享保前後に書かれたものと思うが〔九〕、伯耆にあっては、トウビョウは狐であって、然も此の名称は、狐を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;専女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と云える訛語であろうと説いている。そして伯耆は言うまでもなく、因幡、美作、石見等のトウビョウは、今でも概して狐だと云われているが、事に東伯地方では、七十五匹が一群団であって、世間の噂にトウビョウ持の家に往くと、縁側とか板ノ間とかなどで、間々これの足跡を見受けることがあるそうで、こうした家で拭き掃除を怠らぬのは、即ちその足跡を人目に触れさせぬ用心だと言われている〔一〇〕。トウビョウが、蛇であろうが、狐であろうが、所詮は巫覡が糊口の為めに言い出した俗信上の動物であって、大昔から誰あって定かに見極めたという者がないのであるから、私は此の詮索には余り深入りせぬ考えである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　犬神と猫神と狸神&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
四国は昔から狐が居らぬと言われているだけに、狐憑きは無いが、その代りに、犬神と称する憑き物が跋扈している。犬神の起源に就いては、「土州淵岳志」巻六に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 讃州東ムギといふ所に何某あり、讐を報ずべき仔細あれども時至らず、日夜これを嘆く。或時、手飼の犬を生ながら地に掘埋め首許り出し、平生好む所の肉食を調へて、犬に言って曰く、やよ汝が魂を吾に与へよ、今この肉を食はすべしとて、件の肉を喰はせ刀を抜いて犬の首を討落し、それより犬の魂を彼が胸中に入れ、彼れ仇を為したる人を咬み殺し、年来の素懐を遂げぬ。それより彼が家に伝りて犬神と云ふものになり、婚を為せば其家に伝り、さて土佐国へは境目の者、かの国より婚姻しけるにより、入り来たると云ふ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と載せてある。これに由れば、犬神の本家は讃岐という事になるが、讃州にとっては、此の上もない迷惑千万のことと言わなければならぬ。全体、こうした憑き物などは、どこが本家で、どこが分家だなどと云われべきものではなく、土地によって、多少の前後と、粗密こそあれ、そう明確に知れる筈がないのである。併しながら、同じ四国でも此の犬神なるものが、阿波国が殊に猖獗を極めていただけは、事実のようである。「阿波志料飯尾氏考」に収めてある緒方氏所蔵文書に左の如きものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　犬神下知状&lt;br /&gt;
: 阿波国中使犬神輩在之云々。早尋捜之可致罪科之旨。相触三郡（中山曰。麻殖、美馬、三好の三郡）諸領主堅可被加下知候由也。仍執達如件。&lt;br /&gt;
: 　　文明四（年）八月十三日　　常連（花押）&lt;br /&gt;
: 　　　三好式部少輔殿&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして領主が公文書まで発して、犬神の剿絶に配慮しているところから推すと、阿波の国民は、相当に此の問題で苦しめられて居たことが知れる。勿論、領主が斯かる手段を採ったことは、独り阿波だけではなく、柳田国男先生によれば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 土佐の犬神は「土佐海続編」に最も詳しく、其形は山中に栖むクシヒキネズミに似て尾に節あり、毛は鼠に似たり、乾して持つ者往々にしてありとある。長宗我部氏の治世に犬神を吟味して、死刑に行い家を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;絶&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;したが、其子孫稀に存し、昔は之を賤んで参会言語する者が無かった。其家では&amp;lt;u&amp;gt;口寄&amp;lt;/u&amp;gt;などと同じく、狗の首を神に祀っているともあれば、犬神の名称は使う神の形からでは無いのかも知れぬ。又こんな事も書いてある。犬神は伝教大師に伴い帰り、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;弦売僧&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツルメソ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に附属する神なり、サイトウ、オオサキ、クダとも謂う。土州にて捕えたるはサイトウと云う者なり云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのを見ると〔一一〕、土佐の犬神の跳梁も、又頗る猛烈であったようである。更に前掲の「土州淵岳志」の続きの記事に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 土州の地に蠱を畜うる者多し、別て幡多郡に多し。「御伽奉公」という草子に土佐幡多郡狗神の事とある之也。能く人を魅す、然も大人正明の人に入ること無し。一度此蠱に逢えば、病形痛風にて骨節犬の咬むが如く、熱盛んにして譫言妄語す。蠱を畜うる家其祖先に、此鬼を祭りて財を利し富を致す者あり、遂に其家に托りて去らざるなり。民間義を知る人は、蠱を悪む事癩脈の如く婚嫁をなさず、婢僕を召抱えるにも之を詮議する事也。蠱家は之を包み隠せども、其鬼を避くるの術無し。愚婦庸夫に付くに針灸祈祷するに、偶々去る事あり。或は筋骨を咬みて遂に殺すことあり（中山曰。茲に其一例を挙げてあるが省略す）。按ずるに讃州予州に猫蠱と云うものあり土州に無し。「北山医話」に本邦四国之地、不知蠱狐、其気何自相反也、俗に言う狐魅の人四国に来れば、其魅自ら去ると。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お此の外に、周防長門両国の犬神、肥後阿蘇谷のインガメ、琉球のインガマなど書くべきことも相当に残っているが、大体を尽すにとどめて、今は省略に従うこととした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猫神に就いては『伊予国宇摩郡では、猫を殺すと取りつくと称して、決して猫に害を加へぬ。先年、上山の弥八といふ豪農の主人が誤って猫を殺し、遂に発狂して「猫がとりついた」と独言を云ひつつ乞食になった』と伝えられている〔一二〕。併しながら、是れはまだ個人的の問題であって、巫覡を介しての社会的問題にまでは発展していぬが、更に紀州辺の猫神のことを聞くと、ここでは純然たる巫女の憑き神になっている。而して南方熊楠氏の報告を集めた「南方来書」巻十には、左の如く載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 田辺町と山一つ隔てし岡（中山曰。紀伊国西牟婁郡岩田村の大字）という村落の小学校長の談に、此の岡には今も代々の巫子数家あり（中略）。此の者の言うには、蠱神は三毛猫を縛り置きて、鰹魚節を示しながら食わせず、七日経るうちに猫の慾念はその両眼に集る。その時その首を刎ね、其頭を箱に入れて事を問うとの事なり。熊楠思うに、かかる事は毎度聞くところにて、安南にても犬をかくする事あり、吾国の犬神に同じ。又国により人の胎児を用うることあり。「輟耕録」に見えたる小児を生剥して、事を問う術なども大抵似たことなり。此の岡の巫子は隠亡の妻なりと聞く。猿、犬、猫などは仮話にて、実は人間の頭を用うるならずやとも存ず云々（大正元年十二月二十八日附）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の猫神の作り方は、誰でも知っている大昔に本願寺の毛坊主が、好んで信徒に与えたと伝えられてる「お&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白薬&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シロクスリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」なるものと、全く同一の製法であって、ただ原料が猫と犬との相違だけである。少しく蛇足の嫌いはあるが、こうした怪事が行われたという往昔の民間信仰を知る旁証として、要点だけを下に摘録する事とした。「松屋筆記」巻三十九に「抜莠撮要」と題する上州高崎善念寺の僧秀覚筆記の復写本を引用して曰く、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 紀州法然寺円成上人ハ、十八歳ニシテ出家ス、則一向宗ノ人也（中略）。其母語云我宗ニ&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ト云事アリ、何ヲ以テ作ル事ヲ知ラズ、或云白犬ヲ養ヒ、其犬ヲ全ク地中ニ埋ミ、首ノミヲ出シテ種々ノ珍味ヲツラネ其首ノ前ニ置ク、白犬此ヲ喰ント食物ヲ念ジテ、気単ニ逼ルニ及ビテ犬ノ首ヲ切テ、是ヲ焼灰トナス、此灰ヲ人ニ与ル時、其人大信ヲ起シテ単ニ身命ヲ顧ズ、財宝ヲナゲウツト云（中略）。両本願寺東都参向ノ時分、道俗均ク御杯頂戴ト云フ有リ、御杯頂戴ノ事ニアラズ御灰頂戴ノヨシ、各土器一枚ヲ得テ歓喜ス、此灰ハ親鸞聖人ノ遺灰ニシテ、此灰ヲ服スル時此身則親鸞聖人ナリト伝授ス、一説ニ此事ヲ&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ト云ト（中略）。&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ノ事西国中国辺ノ人ハ時々云出ス事アレド、関東ニテハアマリ沙汰セヌ事也、秀覚{上野高崎/善念寺僧}知己ニ深川某寺ノ上人モト一向宗也、児ノ時&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ノ事ヲ聞知リ、&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ハ白犬ノ灰也ト云テ、母ニ叱ラレシト語キ、此上人モ中国産也云々（以上「国書刊行会」本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かかる事が果して行われたものか否か、今から思うと腑に落ちぬことであるが、それにしても斯うした悪説を宣伝された本願寺にとっては、此の上もない迷惑のことであったに相違ない。併しその詮議は、姑らく措くとするが、兎に角に、大昔にあっては、斯うして、猫なり、犬なりの首を、一種の呪力あるものとして信じていたことだけは事実である。讃岐の犬神の作り方に就いても、これと全く同じ方法が伝えられている所から見ると〔一三〕、古くは蠱術家が一般に遣ったことと思われるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狸神は寡見の及ぶ限りでは、殆んど阿波一国に限られているようである。由来、阿波には動物に関する不思議の伝説が多く、事に首切り馬の如きは、今に正解を見ぬほどの難問題である。而して同国の狸神に就いて、未見の学友後藤捷一氏の記す所によると、狸が人に憑いたり、又は悪戯をするので、これを神に祀った祠は、枚挙に遑なしというほど夥しく存しているが、就中、徳島市寺町妙長寺の「お六さん」というのは、狸合戦（有名な八百八狸の物語である）に関係した女狸で、相場師、漁夫、芸妓などの俗信を集めている。同市佐古町大谷臨江寺の「お松さん」も、同様に、狸合戦に出た女狸であるが、これは縁結びの神として崇拝されている。同市住吉島町に「おふなたさん」と称する神社があるが、此の神体は子供を十二匹連れた狸で、子供の無い人が祈願する。そして何処の家でも、狸が憑くと、先ず陰陽師か修験者を頼んで、祈祷して貰うのが常であるが、これを落すのに、唐辛で燻べ殺したということも耳にしている。併し大抵は、神々の護符を戴かせて、退散させるのである。此の時には必ず、狸が憑いた動機や名前を語り、最後に祠を立てて祀ってくれなどと註文を出すそうである〔一四〕。併しこれに由ると、狸神は、狸その者が無邪気であるだけに、犬神や蛇神などにくらべると、極めて罪が浅いようである。猶此の外に、備後のゲトウ、伊予のジャグマ、陸中のオクナイサマなど記すべきものもあるが、大体において共通したものと信ずるので、一臠を以て全鼎を推すとして省略する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　牛蒡種と吸い葛&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「牛蒡種」は、飛騨国の一部に行われている憑き物であるが、これに関しては、曩に私見を発表した事があるので〔一五〕、これを要約して載せるとする。即ち牛蒡種とは、その憑き工合が、恰も牛蒡の種のそれの如く、一度ついたら容易に離れぬと云う意味に解されているが、これは全く護法実（この事は[[日本巫女史/第二篇/第二章/第一節|既述]]した）の転訛にしか過ぎぬのである。而して此の俗信の行われている地域、及びその状態に就いては、「郷土研究」第四巻第八号に左の如く掲げてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 牛蒡種という家筋は、飛騨の大野、吉城の二郡と、益田郡及び美濃国恵那郡の一部とに散在し、更に信濃の西部にも少しあると云う。此の家筋の男女は、一種不思議の力を有すると云われていて、家筋以外の者に対し、憎いとか嫌だとか思って睨むと、その相手は、立ちどころに発熱し頭痛し、苦悶し悒悩して、精神に異状を来たし、果は一種の瘋癩病者の如くになり、病床に呻吟するに至る。幸に軽い者は数十日で恢復するが、重い者になるとそれが原因で死ぬこともあるという。そして此の力は家筋同士の間には効験がなく、また他の者に対して斯くの如き力を用いつつある間も、自分には何等の異状を起さぬそうである。吉城郡上宝村大字双六という部落などは全戸この家筋から成立ってるように噂されていて、他村の者は甚だしく之を怖れ憚っている。また美濃国恵那郡坂下村大字袖川という所にも、此の家筋の者が居住し、或はその家から女を妻に貰った男などは、妻に対して如何ともする事が出来ず、一朝、妻の怒りに触れると、夫は忽ち病人になるという有様で、此の種の女を妻とした男は、是非なく洗濯もすれば、針仕事もするというような訳で、全く奴隷同様の境遇に落ちるという話である。但し牛蒡種の威力も、いくら部外の人でも、郡長、警察署長、村長とかいう目上の者に対しては、効果を発揮することが出来ぬ云々（中山曰。此の点は土佐の犬神と同じで、これが俗信であることを証明する上に注意すべき点である）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の憑き物の正体は極めて簡単であって、[[日本巫女史/第二篇/第二章/第一節|既述]]した&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;護法実&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゴホウダネ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と称する巫覡の徒が、此の地に土着し、それの子孫が一般の民衆から忌み嫌われたために（此の例は殆んど全国に存している）生じたものにしか過ぎぬのである。従ってこれが、下層の民衆の間にのみ行われ、知識階級に対して少しも呪力が無かったというのも、又この結果に外ならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
吸い葛の行われている範囲に就いては、寡聞のためよく判然せぬが、「雍州府志」巻二によれば、洛北の貴船神社の末社に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;吸葛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;スイカズラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;社の在ることが見えているので、古く近畿に此の俗信の行われたことが推察される。更に「嬉遊笑覧」巻八に「屠龍工随筆」を引用して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: いづことも限らず、&amp;lt;u&amp;gt;すいかづら&amp;lt;/u&amp;gt;といふも有となむ、その祀りやう人の知らざる密なる所に穴を掘て、蛇をあまた入置き神に崇めて遣ふ法、大かた犬神にひとし。&amp;lt;u&amp;gt;すいかづら&amp;lt;/u&amp;gt;付られたる人は、熱甚だしく心身悩乱するを、病家それと知りぬれば、宝を送り遣せば病癒ると聞けり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と載せてある。之に由れば、蛇神の一種で、トウビョウの地方化とも思われる。猶お此の外に、オトラ狐、ナマダコ、白神筋など云う憑き物も存しているが、別に取り立てて言うほどの特種のものではなく、且つナマダコや、白神筋に就いては、後段でこれに触れる機会もあろうと考えるので割愛し、最後に是等に対する結論ともいうべきものを附記して、本節を終るとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の憑き物が、我国の固有のものでなくして、殆んどその悉くが、支那思想の影響であることは、疑うべからざる事実である。されば、此の事に就いては、古くから識者の間には説があり、「榊巷談苑」の著者の如きは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 四国に犬神といふ&amp;lt;u&amp;gt;まじもの&amp;lt;/u&amp;gt;あり、唐国にては犬蠱と云ふ（中略）。又陶瓶をば蛇蠱と云ふ、共に干宝の捜神記に見えたり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と言うている。山岡浚明翁も又その著「類聚名物考」において、全くこれと同じ意見を述べ、然も猫鬼の事にまで論及している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は彼之の共通——と云うよりは、更に一歩を進めて、我国が支那の巫蠱に学んだことを証示する為に、茲に「捜神記」より、その原拠となっている文献を検出するとするが、犬神に就ては、同書巻十二に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 鄱陽趙寿有犬蠱、時陳岑詣寿、忽有大黄犬六七、群出吠岑、後余相伯婦、与寿婦食、吐血幾死、乃屑桔梗以飲之而愈、蠱有怪物若鬼、其妖形変化雑類殊種、或為狗豕、或為蟲蛇、其人不自知其形状、行之於百姓、所中皆死。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのがそれである。勿論、支那のものがそのまま我国に行われているとは云えぬが、併しその蠱術の根本が、共通したものであることは、肯定されるのである。次にトウビョウと称する蛇神に関しては、同書同巻に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 滎陽県有一家、姓廖、累世為蠱、以此致富、後取新婦、不以此語之、遇家人咸出、唯此婦守舎、忽見屋中有大缸、婦試発之、見有大虵、婦乃作湯灌殺之云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあり、彼之全く一致していることが推知される。殊に柳田国男先生の記された所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 旧幕時代に、或人が国普請の夫役に当って、讃岐中部の某村に往き、ある家に宿を借りて日々普請場に通っていた。一日家へ帰って見ると家の者は皆留守で、台所の鑵子に湯がぐらぐら煮えている。一杯飲もうと不斗床の下を見ると蓋をした甕がある。茶甕かと思って開けて見れば、例の神（中山曰。トンボ神）がうようよと丸で泥鰌の籠のようであった。乃ち熱湯を一杯ざっぷと掛けて蓋をして置いた（中略）。其家では大喜びで、普請で知らぬ人を宿したお蔭に、永年の厄介物を片付けることが出来たと云っていた云々（以上「郷土研究」第一巻第七号）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのは、「捜神記」に、何も知らぬ新婦が、熱湯を以て蛇蠱を灌殺したとあるのと、全く同巧異曲の物語と云えるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に狐蠱にあっては、一段の類似性を有している事が発見される。例えば寛政頃に奥州の事を書いた「黒甜瑣語」第四編に載せた、羽後の秋田で、梓巫女に宿を貸した男が、巫女に酒を強いて酔潰れて、臥た間に、巫女の用いる髑髏と、墓地で拾って来た只の曝頭と入れ換えて置くと、翌朝一旦帰った巫女、面色土の如くなって戻り来り、悪戯も事にこそよれ、早く本物の髑髏を返せと云うので、その理由を語れと云いしに、この髑髏は、千歳の狐、形を人に変ぜんとする修行に、頭に戴いて北斗を拝するとき用いたもので、稀には野外でこれを見つけることがあるも、その徴には必ず枯木で作って杓子のような物が添えてある、これをボッケイと云うとあるのは、時珍の「本草綱目」に『狐至百歳礼北斗、変為男婦』とあるのから派生したもので、私などが子供の折によく見た大雑書には、狐が髑髏を頭に載せて北斗を拝んでいる挿絵があったものである。猫神も狸神も、その原拠を支那に求めることは決して難事なく、従って是等の蠱術が挙げて支那のを学んだものであることが判然するのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
由来、我国の巫女の行いし呪術は、その原義においては、北方民族の間に発達したシャマニズムの系統に属しているものであるが、その発生地であるシャーマンに是等の蠱術の存在せず、且つ我国で工夫されたものと、積極的に説明すべき証左の無い点から見るも、これが支那の影響である事は、多言を要する迄もないと信じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 我国の憑き物の就いては、前に柳田国男先生が「巫女考」のうちに連載され、後に「民族と歴史」では「憑物研究号」の特別号を出されている。詳細は是等によって知ってもらいたい。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 稲荷神と、吒吉尼天との習合に関しては、伴信友翁の「験の杉」に委曲を尽している。三州の豊川稲荷は、その代表的のものであって、古くは稲荷というも、実際は荼吉尼天であったと聞いている。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 狐を専女と称し、これを殺したために配流された例は、「古事談」その他に散見しているが、今は煩を避けてわざと載せぬこととした。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「郷土研究」第一巻第七号。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 「民族と歴史」の「憑物研究号」参照。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 同上。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : ヨタと云う言葉は、現時では、出鱈目とか、戯談とかいう意味に用いられているが、その起源は、神託に関係ある言語であるらしい。近江の官幣大社多賀神社を初めて祀った者を与多麿と称し、紀州の官幣大社日前国県神宮に与多と称する神職があり、更に下総の官幣大社香取神宮に近きところを与多浦というなどは、此の考えを裏付けるものと思うている。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 飯綱信仰に就いては、記述すべき多くの資料を有しているが、余りに長文になるのを恐れて省略した。そして此の信仰を言い立てた行者は、山伏と殆んど択むなき呪術を行ったもので、信仰の対象にこそ多少の相違はあれ、実質は両者ともに同じようなものである。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 「雪窓夜話」の筆者である上野忠親は、宝暦七年に七十二歳で死んでいる。更に同書巻七に「備前の&amp;lt;u&amp;gt;たふべう&amp;lt;/u&amp;gt;の事」と題せる記事が載せてあるが、此の方のトウビョウは蛇だとあるから、古くから此の物の正体が不明であったことが知られる。私は是等の動物（オサキ狐、クダ狐、ジン狐、トウビョウなど）は、所謂、妄想上の動物であると信じているから、正体を見た者がなく、従って正体不明が却って正当だと考えている。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 前掲の「憑物研究号」。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 「郷土研究」第一巻第七号「犬神蛇神の類」参照。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 同じく「憑物研究号」。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 「憑物研究号」に讃岐の犬神の話とて、白犬を首だけ出して地中に埋め、飯を見せびらかした後に首を切ると云うのが載せてある。&lt;br /&gt;
; 〔註一四〕 : これも「憑物研究号」に拠った。&lt;br /&gt;
; 〔註一五〕 : 私が、牛蒡種は護法実なりとの考証を「医学及び医政」の誌上へ発表連載したのは、大正九年頃と記憶している。其の折に喜田貞吉氏から、拙稿を見て自分もそう考えていたとの書信に接した。そして喜田氏が「憑物研究号」に牛蒡は護法実なりともいうべき論説を掲載されたのは、大正十一年のことである。喜田氏は有名のお方であるのに反して私は無名の者、学説を剽窃したなどと思われるも折角だから、誤解を避くるため敢て附記する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1302</id>
		<title>日本巫女史/第二篇/第五章/第一節</title>
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		<updated>2010-01-17T00:36:50Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第五章|第五章　呪術方面に現われた巫道の新義]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第一節　巫蠱から学んだ憑き物の考察==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我国における蠱術は、巫女よりは修験道の山伏が、深い関係を有していた。巫女がこれに交渉を持つようになったのは、恐らく山伏と性的共同生活を送るようになってから、これに教えられたものと思われる。此の見地に立てば、憑き物の考察は、巫女よりも山伏が対象となるのであるが、教えられたにせよ、巫女が此の事に多少とも関係を有していたことも事実であるから、今は巫女を中心として、簡単に記述することとした。既に憑き物に就いては、諸先輩の研究が発表されているので〔一〕、詳細はそれに就いて知る便宜があるからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して茲に、憑き物とは、上下両野のオサキ狐、信濃のクダ狐、三河のオトラ狐、飛騨のゴホウ種、近畿のスイカズラ、四国の犬神、出雲のジン&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;狐&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、中国のトウビョウ等を重なるものとして、此外に、猫神、猿神、飯綱、蟇つき、狸つきなどの名で呼ばれ、更に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白神筋&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シラカミスジ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、ナマダコ、ゲトウ、院内等の「物持筋」となり、一般に社会から嫌厭される家筋まで含めての意である。従ってここに言う憑き物とは、悪霊、死霊、生霊等の人間の霊魂が、人間に憑くという意味よりは、動物の霊が人間に憑くという方に重きを置くことになっているのである。而して是等の憑き物に共通している大体の俗信は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、是等の憑き物は、年々のように繁殖して、常に飼っている家でも困却しているということ。&lt;br /&gt;
: 二、その家の子女が、他家へ聟または嫁に往くとき、憑き物がついてその家に入るということ。&lt;br /&gt;
: 三、憑き物筋の者は、他人の健康や作物を害さんと思うと、その憑き物が活いて、健康を害し、作物を損じ、更に現金まで持って来るということ。&lt;br /&gt;
: 四、この憑き物を持っていると勝負運が強いということ。&lt;br /&gt;
: 五、物持筋が憑き物を放そうと思うても、どうしても放れぬということ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この五点である。而して巫女は、随意に此の憑き物を使役する者として恐れられた。それでは是等の憑き物という俗信は、何によって発生したか、先ずそれから考えて見るとする。猶お此の問題は、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]においても記述すべきであるが、多少の変遷ありとするも、同じ問題を二度書くことは気がさすので、茲には明治期まで押しくるめて記すとした。敢て賢諒を乞う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　オサキ狐クダ狐など&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狐や蛇がヴントの所謂霊的動物として崇拝されたことは既述した。それと同時に、我国の神の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;使令&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツカワシメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（又は眷属ともいう）と称する幾多の動物——例えば、稲荷神の狐、熊野神の鳥、日吉神の猿、春日神の鹿、貴船神の百足、三峯神の狼と云うが如きものは、古くはそれが原祀神ではなかったかと云うことも、併せて既記を経た。それ故に是等の動物が、恰もアイヌ民族に見る如く、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;[[:画像:アイヌの憑き神.gif|憑き神]]&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トレンカムイ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;から&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;守り神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シラツキカムイ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にすすんで往く過程も考えられるし、更に是等の動物の霊が人間に憑くという、俗信の発生も考えられぬでもないが、此の俗信を強く、然も深く、我国に植え込んだのは、前にあっては、支那の巫蠱の呪術で、後にあっては、仏法の吒吉尼の邪法だと信じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して蠱術に就いては略記したので、今は吒吉尼に関して云うが、此の邪法も古くから行われていたのである。伴信友翁の「験の杉」に引用された「拾葉抄」に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東寺ノ夜刄神ノ事云々。中聖天、左吒吉尼、右弁財天也、天長御記云、東寺有守護天、稲荷明神使者也、名大菩提心使者神也。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある天長御記は、淳和帝の御記と思われるので、僧空海の在世中に、早くも吒吉尼信仰の行われた事が知れる。勿論、稲荷信仰に伴う狐の崇拝は、吒吉尼の乗っている動物と類似している所から、両者の関係を密接ならしめ、その結果として、僧空海と稲荷神と面談したなどと云う俗説まで生れたが、兎に角、両者の歩み寄りが、狐を一段の霊物とし、稲荷神を吒吉尼化したことは、やや明白に看取されるのである〔二〕。「文徳実録」仁寿二年二月の条なる藤原高房の伝に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 天長四年春拝美濃介（中略）。席田郡有妖婦、其霊転行暗噉心、一種滋蔓民被毒害、古来長吏皆懐恐怖、不敢入其部、高房単騎入部、追捕其類、一時酷罰、由是無復噉心之害云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのは、「谷響集」に「真言演密抄」を引いて『荼吉尼是夜叉趣摂云々。盗取人心食之』とあるより推して、此の妖巫が吒吉尼の邪法を行うたことは、疑うべからざる事実である。而して此の信仰から導かれて、狐の神格的地位は段々と向上し、一方においては&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;専&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウノ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;女御前となり、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;三狐&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミケツ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;神となり、遂には倉稲魂神と誤解されるまでになり、更に一方においては、神狐とか、霊狐とか云われて、俗信を集めるようになったのである。狐を殺した為に、配流された例は多いが〔三〕、「中右記」長元四年八月四日の条に『京洛之中、巫覡祭狐枉定大神宮、如此事、不然之事也』とあるような事態を見るに至ったのである。民間の惑溺また思うべしである。大江匡房の「狐媚記」の如きは此の産物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の郷里である下野国足利郡地方の村々では、私の少年の頃までは、オサキ狐の話をよく耳にしたものである。大昔に、九尾ノ狐が帝都を追われて、那須野に隠れたのを、坂東武士のために狩り出されて、殺生石となったが、その折に尾が方々へ散って狐となり、これを尾先狐と云うのだと故老から聴かされ、又た誰々の家には、その狐が七十五匹戸棚の隅に飼ってある。毎朝、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;飯匙&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シャモジ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;で釜の端を叩くのは、狐に餌を遣る合図だというて、私などが過って此の所作をすると、父母から厳しく叱かられたことを覚えている。かかることで、オサキ狐に憑かれた家の人ほど気の毒なものはないが、それでも私の地方などは、他国に比較すると、まだ気の毒の程度が軽いようである。通婚にも、交際にも、余り忌み嫌われていぬからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに反して、信州松本平の中央山脈の麓寄りの方から、木曾の谷へかけて、薮原、宮ノ越、福島などの各駅から美濃堺まで、クダ狐の憑いている家が多い。殊に福島駅に近い新開村字大原は、四十戸ばかりの部落であるが、その中に五六戸は『あすこはクダを飼ってる』と昔から言われている家がある。此の評判が立つと、部落からは元より、やや遠い所の者からまでも特別の扱いを受け、『おれの家は腐る方だが、あすこは是れだからな』と、物を掻く手真似をして見せる。腐るとは癩病の血統で、掻くのは狐を意味している。即ち癩病よりもクダ狐を恐れる意味である。従って通婚は此の者同士に限られている。クダ狐持がこうまで嫌われるのは、これに憑かれると、すっかり狐になってしまい『某の死んだのは、おれが締め殺したのだ』或は『某の家の馬の病気は、おれがしたのだ』また『某の家の南瓜はおれが挘ったのだ』というような事を口走る。そしてクダ狐は、元は伏見の稲荷社から受けて来たものだと伝えている〔四〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出雲のジン狐に関する気の毒な事実は、夥しき迄に学会へ報告されている〔五〕。それは大正十一年の事であるが、出雲の某村の有力者が、息子に嫁を迎えようとしたが、世話をする者がないので、段々と調べてみると、その家はジン狐持ではないが、主人の妹が嫁した家の遠縁の者に、その疑いのあることが判然し、親族会議の結果は、妹の家と絶交することとなり、それを言い渡すときの光景は、見るも憐れなものであった。老母の顔は涙に曇り、言渡す主人の声もふるえていた。絶交された妹は、世の成行きと、自分の運命で、代々続いて来た綺麗な家の血筋を濁すことには代えられぬと、観念の眼を閉じたということである〔六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して斯うした社会の圧迫と、家庭の悲劇とは、独り信州や出雲ばかりでなく、狐憑きの俗信の行われているところには、何処にでも存しているのである。元より俗信であり、理由のない事であるから、疾くにも泯びなければならぬのに、今に此の陋習が依然と行われているとは、如何に俗信の力の偉大なるかに驚くのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狐持の家筋が、狐に憑かれた事に原因することは言う迄もないが、その狐を憑けたものが、巫覡であることも、勿論である。「栄花物語」巻七鳥辺野長保三年十二月の条に『かかる程に、女院（円融后東三条院詮子）ものせさせ給て、なやましう思しめしたり、との（藤原道長）御心をまどはして、おぼしめしまどはせ給（中略）、御物のけを四五人かりうつしつつ、おのおの僧どもののしりあへるに、此三条院の&amp;lt;u&amp;gt;すみ&amp;lt;/u&amp;gt;の神の&amp;lt;u&amp;gt;たたり&amp;lt;/u&amp;gt;と云う事さへいできて、そのけしきいみじうあやにくげなり』とある如く、物の怪を四五人にかりうつすとは、即ち&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り祈祷であって、此の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑座&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨリマシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の口から、種々なる御託が発せられ、三条院の場合は、&amp;lt;u&amp;gt;すみ&amp;lt;/u&amp;gt;の神の祟りという事であったが、これが狐が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いているとか、蛇が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いているとか云えば、それでその人は、狐つき、蛇つきとなってしまい、心理学上の暗示に支配されて、狐の真似したり、蛇の様子して座敷を這い廻ると云うことになれば、その家は忽ち「持物筋」となり、それが子孫へまで遺伝することになるのであるから、是等の持物筋の発生が、巫覡の憑り祈祷にあることは明白である。これに就いて、本居内遠翁は「賤者考」において、左の如く述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 犬神狐&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;役&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツカヒ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;などいふは、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;唐土&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;モロコシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の蠱毒の類にて、かの土には金蚕蝦蟇蜈蚣などの毒種と見ゆれど皇国にはきかず、犬神といふ術四国にありときけど（中略）、出雲の狐持といふ家も是と等し、先年領主より命ありて、此種を絶んとて多く刑にも行ひ、追放もせられしかど、猶その余残あるうへに（中略）。又そのさま怪しげに偶々聞ゆる事などあれば、狐つかひならむと云ひはすめれど、それも又別術なるか、事発覚に及ばざれば又弁知しがたき物なり。おのが是まで聞及べるは、神仏に託して奇に人の上を言ひあてて祈などに金銭を貪り（中略）。昔名高かりし真言僧などの行法に奇特とてありし事、又修験加持などして、&amp;lt;u&amp;gt;よりまし&amp;lt;/u&amp;gt;とて生霊死霊を人にうつして憤恨を云はせたり。&amp;lt;u&amp;gt;しりゃう&amp;lt;/u&amp;gt;の事、前に云ふ打臥しの巫（中山曰。此の巫女の事は既述した）の類、皆此狐役の術なるべし。今も日蓮宗の僧徒の中に、疾病の祈をなし、&amp;lt;u&amp;gt;よりまし&amp;lt;/u&amp;gt;を立てて言はする類まま聞ゆ。仏法の行力なくば、その宗の徒はすべてなすべきを、たまさかなるは狐使の別術なる故なり云々（本居全集本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狐憑きの発生が、憑り祈祷にある事は、これから見るも明かであって、憑座に対して&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;問&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ト&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;い&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（大昔の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;審神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;サニワ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の役）をする者が、仕向けるままに放言する&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;与多&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨタ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が〔七〕、遂に厭うべく悲しむべき結果を生むようになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飯綱信仰は、信州の飯綱山に起り〔八〕、室町期に猖んに行われたものであって、殊に武田信玄と上杉謙信は、これが篤信者であったと伝えられている。併しながら、その行法は吒吉尼を学んだもので、他の巫覡と同じように狐を遣い、飯綱遣いとは狐遣いの別名の如く民間からは考えられていた。飯綱に関する資料も相当に存しているが、今は深く言うことを避けるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　蛇神託とトウビョウ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
蛇が狐にも増して人に憑くものと考えられるのは、あの醜悪なる形態と、これに伴う幾多の説話からも知ることが出来る。今に全国的に行われているものに、蛇は執念深いものゆえ、半殺しにしておくと、人に祟るということである。而して此の蛇が、人に祟りをしたという伝説は、狐に比して更に多くのものが存しているが、これは直接ここに関係がないので省略する。古く蛇が託宣したことが見えている。「明月記」建久七年四月一七日の条に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 刑部卿参入、中世間雑談等、新日吉近日有蛇、男一人随其蛇、吐種々狂言、称蛇託宣、又云後白河院後身也云々、此事不便、書奏状進之云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのが、それである。然るに、私の寡聞なる、此の種の類例を他に全く知らぬので、比較して考察を試みる事もならず、それに此の記事だけでは、蛇が如何なる方法を以て託宣したのか、解釈に苦しむほどゆえ、ただ鎌倉期の初葉には斯うした俗信もあったと紹介して置くにとどめる。而して此の蛇が民間の憑き物となったトウビョウなるものにあっては、中国を中心として各地方に存していた。柳田国男先生は、これに就いて、左の如き有益なる研究を発表されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 蛇の神はトウビョウと云うのが、元の名であるらしい。「大和本草」に、中国の小&amp;lt;u&amp;gt;くちなは&amp;lt;/u&amp;gt;とて安芸に蛇神あり、又タウベウと云ふ。人家によりて蛇神を使ふ者あり。其家に小蛇多く集りゐて、他人に憑きて災をなすこと四国の犬神、備前児島の狐の如し云々とある（中略）。石見などでもトウビョウと云うのは蛇持又は蛇附きのことで、此を芸州から入って来たと云っている（日本周遊奇談）。安芸の豊田郡宮原村の海上に当廟島という小さな島があるのは、恐らく此神がまだ公に祀られていた時の由緒地であろう。備中にも川上郡手ノ荘村大字&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;臘数&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シワス&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に小字トウ病神がある。今日の如く此神に仕えることを恥辱と考えて隠す世の中なら、到底こんな地名は出来ぬ筈である。備中には海岸部落は犬神の勢力範囲であるが、山奥の田舎から出雲へかけてトウビョウ持と云われる家筋が多い。此辺でもトウビョウは蛇だと云うが、その形状及び生活状態というものが余り蛇らしくない。先ず其形は鰹魚節と同じく、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;長&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ケタ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;短くして中程が甚だ太い。それを小さな瓶の類に入れ、土中に埋め其上に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;禿倉&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ホクラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を立て、内々これを祭っている。此神を祈れば金持になるとのことで、其家筋の者は皆富んでいる（中略）。此神の甚だ好む物は酒であるから、折々瓶の蓋を開いて酒を澆いでやらねばならぬ。祟りの烈しい神である（藤田知治氏談）。&lt;br /&gt;
: 密閉した酒瓶の中に生息する蛇というものが、動物学上果して存し得るものか、大なる疑問である。四国は昔から犬神の本場であるが、讃岐の西部には之とよく似たトンボ神の俗信があることを、近頃荻田元広氏の親切に由って知ることが出来た。かの地方ではトンボ神と口で言って文字は&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;土瓶神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ドヘイジン&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と書くそうである。之を思い合す時はトウビョウも亦土瓶の音で、即ち蠱という漢字の会意と同じく、本来虫を盛る器物から出た名目であった。讃岐のトンボ神は、往々にして蠱家の屋敷内に放牧してある事もあるが、又土甕の中に入れ台所の近く、人目に掛らぬ床下などに置き、或は人間と同じ食物を遣るとも、又酒を澆いでやるとも伝えられている（荻田氏報告以下同）。唯虫の形状に於ては頗る備中のものと異り、小は竹楊枝位から大は杉箸迄で、身の内は淡黒色、腹部ばかりは薄黄色、頸部に黄色の輪があって、之を金の輪と云う。身を隠すことも敏捷だとある。土瓶神持は縁組に由って新に出来る。相手の知る知らぬを問わず、娵又は聟（？）が来るときには、神も亦分封して附いて来る。連れて来るのか独りで附いて来るのかは未だ詳ならず。トンボ神持は如何なる場合にも、世評を否認するにも拘らず、金談其他で人と争でもすれば、兎角その威力を利用したがる風がある。世間の噂では、或者に怨みを抱くとなれば、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;土瓶神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トンボガミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に向って斯う言う。お前を年頃養ったのは、こんな時の為めである。何の某に我恨みを報い玉わずば、今後は養い申すまじ云々（中略）。気の利いたトンボ神は此相談を聞く迄もなく、家主の心の動くままに、直に往って其希望を遂げさせるとのことである。此の蟲が来て憑くと身内の節々が段々に烈しく痛む、医者に言わせると急性神経痛とでも言いそうな病状である。之を防ぎ又は退ける方法は、一つには祈祷で、之を役とするヲガムシと云う巫女を依頼する。第二の方法は、至って穢い物を家の周囲などに澆き散らす（中略）。&lt;br /&gt;
: 一旦土瓶神持となれば、永劫其約束を絶つことがならぬ。唯偶然に知らぬ人の手によって、根を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;絶&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;すことが出来れば、家にも其人にも、何等の祟りが無いと云うことで、窃にそんな折を待っている云々（以上「郷土研究」第一巻第七号）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
瀬戸内海に面した備前、備中、安芸、及び讃岐のトウビョウは、以上の記事によって詳細を知ることが出来たが、それでは日本海に面したものは如何に伝えられているかと云うに、これに就いては、「雪窓夜話抄」巻七に「伯州のタウベウ狐の事」と題して、下の如き記事が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 或人曰く、伯州には村々にタウベウを持たる者あり。殊に倉吉あたりに多くありと云へり。国の御法度強く其所の人もタウベウを持つといへば嫌ふ故に、他人に深く隠して云ざるなり。是はタウベウ&amp;lt;small&amp;gt;キツネ&amp;lt;/small&amp;gt;と云て、常のキツネとは変りて、別に一種のキツネなり。形はキツネにて常の者よりも、甚だ小さく大さ鼬鼠程あり。是を見たる者は多くあり。其狐に主有て先祖より子孫に伝はりて其家を離れず（中略）。犬神に少も違はず、他の家に往て心の中にほしきと思ふ時には、本人の知らざるに向の人に附て、其物ほしきと口走りて、本人は口外に出さぬ事を他人に披露して其人を恥かしむ。或は瞋恨ある人には、本人は心中にて思ふ計りなるに、其人に付って讐をなす事あり（中略）。先年も倉吉に牛疫はやりて多く死せしに、此れを頼みてマジナイせしむれば即座に治す。是に依て大分の米銀をもうけたり。タウベウ持の方より附たる疫病なること、忽ち露顕して追放せられたり。少も犬神と変る事なし。狐の一名を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;専女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タウメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と云と古き書にも記せり、専女と云べきを誤てタウベウと云へるにやと云たる人もあり、さもありぬべき事ならんか。是も犬神と同じく、其人に飼れては末代まで家を離るる事なし云々（以上「因伯叢書」本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の記事は、恐らく享保前後に書かれたものと思うが〔九〕、伯耆にあっては、トウビョウは狐であって、然も此の名称は、狐を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;専女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と云える訛語であろうと説いている。そして伯耆は言うまでもなく、因幡、美作、石見等のトウビョウは、今でも概して狐だと云われているが、事に東伯地方では、七十五匹が一群団であって、世間の噂にトウビョウ持の家に往くと、縁側とか板ノ間とかなどで、間々これの足跡を見受けることがあるそうで、こうした家で拭き掃除を怠らぬのは、即ちその足跡を人目に触れさせぬ用心だと言われている〔一〇〕。トウビョウが、蛇であろうが、狐であろうが、所詮は巫覡が糊口の為めに言い出した俗信上の動物であって、大昔から誰あって定かに見極めたという者がないのであるから、私は此の詮索には余り深入りせぬ考えである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　犬神と猫神と狸神&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
四国は昔から狐が居らぬと言われているだけに、狐憑きは無いが、その代りに、犬神と称する憑き物が跋扈している。犬神の起源に就いては、「土州淵岳志」巻六に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 讃州東ムギといふ所に何某あり、讐を報ずべき仔細あれども時至らず、日夜これを嘆く。或時、手飼の犬を生ながら地に掘埋め首許り出し、平生好む所の肉食を調へて、犬に言って曰く、やよ汝が魂を吾に与へよ、今この肉を食はすべしとて、件の肉を喰はせ刀を抜いて犬の首を討落し、それより犬の魂を彼が胸中に入れ、彼れ仇を為したる人を咬み殺し、年来の素懐を遂げぬ。それより彼が家に伝りて犬神と云ふものになり、婚を為せば其家に伝り、さて土佐国へは境目の者、かの国より婚姻しけるにより、入り来たると云ふ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と載せてある。これに由れば、犬神の本家は讃岐という事になるが、讃州にとっては、此の上もない迷惑千万のことと言わなければならぬ。全体、こうした憑き物などは、どこが本家で、どこが分家だなどと云われべきものではなく、土地によって、多少の前後と、粗密こそあれ、そう明確に知れる筈がないのである。併しながら、同じ四国でも此の犬神なるものが、阿波国が殊に猖獗を極めていただけは、事実のようである。「阿波志料飯尾氏考」に収めてある緒方氏所蔵文書に左の如きものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　犬神下知状&lt;br /&gt;
: 阿波国中使犬神輩在之云々。早尋捜之可致罪科之旨。相触三郡（中山曰。麻殖、美馬、三好の三郡）諸領主堅可被加下知候由也。仍執達如件。&lt;br /&gt;
: 　　文明四（年）八月十三日　　常連（花押）&lt;br /&gt;
: 　　　三好式部少輔殿&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして領主が公文書まで発して、犬神の剿絶に配慮しているところから推すと、阿波の国民は、相当に此の問題で苦しめられて居たことが知れる。勿論、領主が斯かる手段を採ったことは、独り阿波だけではなく、柳田国男先生によれば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 土佐の犬神は「土佐海続編」に最も詳しく、其形は山中に栖むクシヒキネズミに似て尾に節あり、毛は鼠に似たり、乾して持つ者往々にしてありとある。長宗我部氏の治世に犬神を吟味して、死刑に行い家を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;絶&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;したが、其子孫稀に存し、昔は之を賤んで参会言語する者が無かった。其家では&amp;lt;u&amp;gt;口寄&amp;lt;/u&amp;gt;などと同じく、狗の首を神に祀っているともあれば、犬神の名称は使う神の形からでは無いのかも知れぬ。又こんな事も書いてある。犬神は伝教大師に伴い帰り、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;弦売僧&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツルメソ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に附属する神なり、サイトウ、オオサキ、クダとも謂う。土州にて捕えたるはサイトウと云う者なり云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのを見ると〔一一〕、土佐の犬神の跳梁も、又頗る猛烈であったようである。更に前掲の「土州淵岳志」の続きの記事に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 土州の地に蠱を畜うる者多し、別て幡多郡に多し。「御伽奉公」という草子に土佐幡多郡狗神の事とある之也。能く人を魅す、然も大人正明の人に入ること無し。一度此蠱に逢えば、病形痛風にて骨節犬の咬むが如く、熱盛んにして譫言妄語す。蠱を畜うる家其祖先に、此鬼を祭りて財を利し富を致す者あり、遂に其家に托りて去らざるなり。民間義を知る人は、蠱を悪む事癩脈の如く婚嫁をなさず、婢僕を召抱えるにも之を詮議する事也。蠱家は之を包み隠せども、其鬼を避くるの術無し。愚婦庸夫に付くに針灸祈祷するに、偶々去る事あり。或は筋骨を咬みて遂に殺すことあり（中山曰。茲に其一例を挙げてあるが省略す）。按ずるに讃州予州に猫蠱と云うものあり土州に無し。「北山医話」に本邦四国之地、不知蠱狐、其気何自相反也、俗に言う狐魅の人四国に来れば、其魅自ら去ると。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お此の外に、周防長門両国の犬神、肥後阿蘇谷のインガメ、琉球のインガマなど書くべきことも相当に残っているが、大体を尽すにとどめて、今は省略に従うこととした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猫神に就いては『伊予国宇摩郡では、猫を殺すと取りつくと称して、決して猫に害を加へぬ。先年、上山の弥八といふ豪農の主人が誤って猫を殺し、遂に発狂して「猫がとりついた」と独言を云ひつつ乞食になった』と伝えられている〔一二〕。併しながら、是れはまだ個人的の問題であって、巫覡を介しての社会的問題にまでは発展していぬが、更に紀州辺の猫神のことを聞くと、ここでは純然たる巫女の憑き神になっている。而して南方熊楠氏の報告を集めた「南方来書」巻十には、左の如く載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 田辺町と山一つ隔てし岡（中山曰。紀伊国西牟婁郡岩田村の大字）という村落の小学校長の談に、此の岡には今も代々の巫子数家あり（中略）。此の者の言うには、蠱神は三毛猫を縛り置きて、鰹魚節を示しながら食わせず、七日経るうちに猫の慾念はその両眼に集る。その時その首を刎ね、其頭を箱に入れて事を問うとの事なり。熊楠思うに、かかる事は毎度聞くところにて、安南にても犬をかくする事あり、吾国の犬神に同じ。又国により人の胎児を用うることあり。「輟耕録」に見えたる小児を生剥して、事を問う術なども大抵似たことなり。此の岡の巫子は隠亡の妻なりと聞く。猿、犬、猫などは仮話にて、実は人間の頭を用うるならずやとも存ず云々（大正元年十二月二十八日附）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の猫神の作り方は、誰でも知っている大昔に本願寺の毛坊主が、好んで信徒に与えたと伝えられてる「お&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白薬&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シロクスリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」なるものと、全く同一の製法であって、ただ原料が猫と犬との相違だけである。少しく蛇足の嫌いはあるが、こうした怪事が行われたという往昔の民間信仰を知る旁証として、要点だけを下に摘録する事とした。「松屋筆記」巻三十九に「抜莠撮要」と題する上州高崎善念寺の僧秀覚筆記の復写本を引用して曰く、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 紀州法然寺円成上人ハ、十八歳ニシテ出家ス、則一向宗ノ人也（中略）。其母語云我宗ニ&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ト云事アリ、何ヲ以テ作ル事ヲ知ラズ、或云白犬ヲ養ヒ、其犬ヲ全ク地中ニ埋ミ、首ノミヲ出シテ種々ノ珍味ヲツラネ其首ノ前ニ置ク、白犬此ヲ喰ント食物ヲ念ジテ、気単ニ逼ルニ及ビテ犬ノ首ヲ切テ、是ヲ焼灰トナス、此灰ヲ人ニ与ル時、其人大信ヲ起シテ単ニ身命ヲ顧ズ、財宝ヲナゲウツト云（中略）。両本願寺東都参向ノ時分、道俗均ク御杯頂戴ト云フ有リ、御杯頂戴ノ事ニアラズ御灰頂戴ノヨシ、各土器一枚ヲ得テ歓喜ス、此灰ハ親鸞聖人ノ遺灰ニシテ、此灰ヲ服スル時此身則親鸞聖人ナリト伝授ス、一説ニ此事ヲ&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ト云ト（中略）。&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ノ事西国中国辺ノ人ハ時々云出ス事アレド、関東ニテハアマリ沙汰セヌ事也、秀覚{上野高崎/善念寺僧}知己ニ深川某寺ノ上人モト一向宗也、児ノ時&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ノ事ヲ聞知リ、&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ハ白犬ノ灰也ト云テ、母ニ叱ラレシト語キ、此上人モ中国産也云々（以上「国書刊行会」本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かかる事が果して行われたものか否か、今から思うと腑に落ちぬことであるが、それにしても斯うした悪説を宣伝された本願寺にとっては、此の上もない迷惑のことであったに相違ない。併しその詮議は、姑らく措くとするが、兎に角に、大昔にあっては、斯うして、猫なり、犬なりの首を、一種の呪力あるものとして信じていたことだけは事実である。讃岐の犬神の作り方に就いても、これと全く同じ方法が伝えられている所から見ると〔一三〕、古くは蠱術家が一般に遣ったことと思われるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狸神は寡見の及ぶ限りでは、殆んど阿波一国に限られているようである。由来、阿波には動物に関する不思議の伝説が多く、事に首切り馬の如きは、今に正解を見ぬほどの難問題である。而して同国の狸神に就いて、未見の学友後藤捷一氏の記す所によると、狸が人に憑いたり、又は悪戯をするので、これを神に祀った祠は、枚挙に遑なしというほど夥しく存しているが、就中、徳島市寺町妙長寺の「お六さん」というのは、狸合戦（有名な八百八狸の物語である）に関係した女狸で、相場師、漁夫、芸妓などの俗信を集めている。同市佐古町大谷臨江寺の「お松さん」も、同様に、狸合戦に出た女狸であるが、これは縁結びの神として崇拝されている。同市住吉島町に「おふなたさん」と称する神社があるが、此の神体は子供を十二匹連れた狸で、子供の無い人が祈願する。そして何処の家でも、狸が憑くと、先ず陰陽師か修験者を頼んで、祈祷して貰うのが常であるが、これを落すのに、唐辛で燻べ殺したということも耳にしている。併し大抵は、神々の護符を戴かせて、退散させるのである。此の時には必ず、狸が憑いた動機や名前を語り、最後に祠を立てて祀ってくれなどと註文を出すそうである〔一四〕。併しこれに由ると、狸神は、狸その者が無邪気であるだけに、犬神や蛇神などにくらべると、極めて罪が浅いようである。猶此の外に、備後のゲトウ、伊予のジャグマ、陸中のオクナイサマなど記すべきものもあるが、大体において共通したものと信ずるので、一臠を以て全鼎を推すとして省略する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　牛蒡種と吸い葛&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「牛蒡種」は、飛騨国の一部に行われている憑き物であるが、これに関しては、曩に私見を発表した事があるので〔一五〕、これを要約して載せるとする。即ち牛蒡種とは、その憑き工合が、恰も牛蒡の種のそれの如く、一度ついたら容易に離れぬと云う意味に解されているが、これは全く護法実（この事は[[日本巫女史/第二篇/第二章/第一節|既述]]した）の転訛にしか過ぎぬのである。而して此の俗信の行われている地域、及びその状態に就いては、「郷土研究」第四巻第八号に左の如く掲げてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 牛蒡種という家筋は、飛騨の大野、吉城の二郡と、益田郡及び美濃国恵那郡の一部とに散在し、更に信濃の西部にも少しあると云う。此の家筋の男女は、一種不思議の力を有すると云われていて、家筋以外の者に対し、憎いとか嫌だとか思って睨むと、その相手は、立ちどころに発熱し頭痛し、苦悶し悒悩して、精神に異状を来たし、果は一種の瘋癩病者の如くになり、病床に呻吟するに至る。幸に軽い者は数十日で恢復するが、重い者になるとそれが原因で死ぬこともあるという。そして此の力は家筋同士の間には効験がなく、また他の者に対して斯くの如き力を用いつつある間も、自分には何等の異状を起さぬそうである。吉城郡上宝村大字双六という部落などは全戸この家筋から成立ってるように噂されていて、他村の者は甚だしく之を怖れ憚っている。また美濃国恵那郡坂下村大字袖川という所にも、此の家筋の者が居住し、或はその家から女を妻に貰った男などは、妻に対して如何ともする事が出来ず、一朝、妻の怒りに触れると、夫は忽ち病人になるという有様で、此の種の女を妻とした男は、是非なく洗濯もすれば、針仕事もするというような訳で、全く奴隷同様の境遇に落ちるという話である。但し牛蒡種の威力も、いくら部外の人でも、郡長、警察署長、村長とかいう目上の者に対しては、効果を発揮することが出来ぬ云々（中山曰。此の点は土佐の犬神と同じで、これが俗信であることを証明する上に注意すべき点である）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の憑き物の正体は極めて簡単であって、[[日本巫女史/第二篇/第二章/第一節|既述]]した&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;護法実&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゴホウダネ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と称する巫覡の徒が、此の地に土着し、それの子孫が一般の民衆から忌み嫌われたために（此の例は殆んど全国に存している）生じたものにしか過ぎぬのである。従ってこれが、下層の民衆の間にのみ行われ、知識階級に対して少しも呪力が無かったというのも、又この結果に外ならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
吸い葛の行われている範囲に就いては、寡聞のためよく判然せぬが、「雍州府志」巻二によれば、洛北の貴船神社の末社に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;吸葛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;スイカズラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;社の在ることが見えているので、古く近畿に此の俗信の行われたことが推察される。更に「嬉遊笑覧」巻八に「屠龍工随筆」を引用して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: いづことも限らず、&amp;lt;u&amp;gt;すいかづら&amp;lt;/u&amp;gt;といふも有となむ、その祀りやう人の知らざる密なる所に穴を掘て、蛇をあまた入置き神に崇めて遣ふ法、大かた犬神にひとし。&amp;lt;u&amp;gt;すいかづら&amp;lt;/u&amp;gt;付られたる人は、熱甚だしく心身悩乱するを、病家それと知りぬれば、宝を送り遣せば病癒ると聞けり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と載せてある。之に由れば、蛇神の一種で、トウビョウの地方化とも思われる。猶お此の外に、オトラ狐、ナマダコ、白神筋など云う憑き物も存しているが、別に取り立てて言うほどの特種のものではなく、且つナマダコや、白神筋に就いては、後段でこれに触れる機会もあろうと考えるので割愛し、最後に是等に対する結論ともいうべきものを附記して、本節を終るとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の憑き物が、我国の固有のものでなくして、殆んどその悉くが、支那思想の影響であることは、疑うべからざる事実である。されば、此の事に就いては、古くから識者の間には説があり、「榊巷談苑」の著者の如きは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 四国に犬神といふ&amp;lt;u&amp;gt;まじもの&amp;lt;/u&amp;gt;あり、唐国にては犬蠱と云ふ（中略）。又陶瓶をば蛇蠱と云ふ、共に干宝の捜神記に見えたり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と言うている。山岡浚明翁も又その著「類聚名物考」において、全くこれと同じ意見を述べ、然も猫鬼の事にまで論及している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は彼之の共通——と云うよりは、更に一歩を進めて、我国が支那の巫蠱に学んだことを証示する為に、茲に「捜神記」より、その原拠となっている文献を検出するとするが、犬神に就ては、同書巻十二に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 鄱陽趙寿有犬蠱、時陳岑詣寿、忽有大黄犬六七、群出吠岑、後余相伯婦、与寿婦食、吐血幾死、乃屑桔梗以飲之而愈、蠱有怪物若鬼、其妖形変化雑類殊種、或為狗豕、或為蟲蛇、其人不自知其形状、行之於百姓、所中皆死。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのがそれである。勿論、支那のものがそのまま我国に行われているとは云えぬが、併しその蠱術の根本が、共通したものであることは、肯定されるのである。次にトウビョウと称する蛇神に関しては、同書同巻に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 滎陽県有一家、姓廖、累世為蠱、以此致富、後取新婦、不以此語之、遇家人咸出、唯此婦守舎、忽見屋中有大缸、婦試発之、見有大虵、婦乃作湯灌殺之云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあり、彼之全く一致していることが推知される。殊に柳田国男先生の記された所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 旧幕時代に、或人が国普請の夫役に当って、讃岐中部の某村に往き、ある家に宿を借りて日々普請場に通っていた。一日家へ帰って見ると家の者は皆留守で、台所の鑵子に湯がぐらぐら煮えている。一杯飲もうと不斗床の下を見ると蓋をした甕がある。茶甕かと思って開けて見れば、例の神（中山曰。トンボ神）がうようよと丸で泥鰌の籠のようであった。乃ち熱湯を一杯ざっぷと掛けて蓋をして置いた（中略）。其家では大喜びで、普請で知らぬ人を宿したお蔭に、永年の厄介物を片付けることが出来たと云っていた云々（以上「郷土研究」第一巻第七号）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのは、「捜神記」に、何も知らぬ新婦が、熱湯を以て蛇蠱を灌殺したとあるのと、全く同巧異曲の物語と云えるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に狐蠱にあっては、一段の類似性を有している事が発見される。例えば寛政頃に奥州の事を書いた「黒甜瑣語」第四編に載せた、羽後の秋田で、梓巫女に宿を貸した男が、巫女に酒を強いて酔潰れて、臥た間に、巫女の用いる髑髏と、墓地で拾って来た只の曝頭と入れ換えて置くと、翌朝一旦帰った巫女、面色土の如くなって戻り来り、悪戯も事にこそよれ、早く本物の髑髏を返せと云うので、その理由を語れと云いしに、この髑髏は、千歳の狐、形を人に変ぜんとする修行に、頭に戴いて北斗を拝するとき用いたもので、稀には野外でこれを見つけることがあるも、その徴には必ず枯木で作って杓子のような物が添えてある、これをボッケイと云うとあるのは、時珍の「本草綱目」に『狐至百歳礼北斗、変為男婦』とあるのから派生したもので、私などが子供の折によく見た大雑書には、狐が髑髏を頭に載せて北斗を拝んでいる挿絵があったものである。猫神も狸神も、その原拠を支那に求めることは決して難事なく、従って是等の蠱術が挙げて支那のを学んだものであることが判然するのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
由来、我国の巫女の行いし呪術は、その原義においては、北方民族の間に発達したシャマニズムの系統に属しているものであるが、その発生地であるシャーマンに是等の蠱術の存在せず、且つ我国で工夫されたものと、積極的に説明すべき証左の無い点から見るも、これが支那の影響である事は、多言を要する迄もないと信じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 我国の憑き物の就いては、前に柳田国男先生が「巫女考」のうちに連載され、後に「民族と歴史」では「憑物研究号」の特別号を出されている。詳細は是等によって知ってもらいたい。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 稲荷神と、吒吉尼天との習合に関しては、伴信友翁の「験の杉」に委曲を尽している。三州の豊川稲荷は、その代表的のものであって、古くは稲荷というも、実際は荼吉尼天であったと聞いている。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 狐を専女と称し、これを殺したために配流された例は、「古事談」その他に散見しているが、今は煩を避けてわざと載せぬこととした。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「郷土研究」第一巻第七号。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 「民族と歴史」の「憑物研究号」参照。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 同上。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : ヨタと云う言葉は、現時では、出鱈目とか、戯談とかいう意味に用いられているが、その起源は、神託に関係ある言語であるらしい。近江の官幣大社多賀神社を初めて祀った者を与多麿と称し、紀州の官幣大社日前国県神宮に与多と称する神職があり、更に下総の官幣大社香取神宮に近きところを与多浦というなどは、此の考えを裏付けるものと思うている。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 飯綱信仰に就いては、記述すべき多くの資料を有しているが、余りに長文になるのを恐れて省略した。そして此の信仰を言い立てた行者は、山伏と殆んど択むなき呪術を行ったもので、信仰の対象にこそ多少の相違はあれ、実質は両者ともに同じようなものである。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 「雪窓夜話」の筆者である上野忠親は、宝暦七年に七十二歳で死んでいる。更に同書巻七に「備前の&amp;lt;u&amp;gt;たふべう&amp;lt;/u&amp;gt;の事」と題せる記事が載せてあるが、此の方のトウビョウは蛇だとあるから、古くから此の物の正体が不明であったことが知られる。私は是等の動物（オサキ狐、クダ狐、ジン狐、トウビョウなど）は、所謂、妄想上の動物であると信じているから、正体を見た者がなく、従って正体不明が却って正当だと考えている。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 前掲の「憑物研究号」。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 「郷土研究」第一巻第七号「犬神蛇神の類」参照。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 同じく「憑物研究号」。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 「憑物研究号」に讃岐の犬神の話とて、白犬を首だけ出して地中に埋め、飯を見せびらかした後に首を切ると云うのが載せてある。&lt;br /&gt;
; 〔註一四〕 : これも「憑物研究号」に拠った。&lt;br /&gt;
; 〔註一五〕 : 私が、牛蒡種は護法実なりとの考証を「医学及び医政」の誌上へ発表連載したのは、大正九年頃と記憶している。其の折に喜田貞吉氏から、拙稿を見て自分もそう考えていたとの書信に接した。そして喜田氏が「憑物研究号」に牛蒡は護法実なりともいうべき論説を掲載されたのは、大正十一年のことである。喜田氏は有名のお方であるのに反して私は無名の者、学説を剽窃したなどと思われるも折角だから、誤解を避くるため敢て附記する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1299</id>
		<title>日本巫女史/第二篇/第五章/第一節</title>
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		<updated>2009-12-12T13:53:00Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第五章|第五章　呪術方面に現われた巫道の新義]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第一節　巫蠱から学んだ憑き物の考察==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我国における蠱術は、巫女よりは修験道の山伏が、深い関係を有していた。巫女がこれに交渉を持つようになったのは、恐らく山伏と性的共同生活を送るようになってから、これに教えられたものと思われる。此の見地に立てば、憑き物の考察は、巫女よりも山伏が対象となるのであるが、教えられたにせよ、巫女が此の事に多少とも関係を有していたことも事実であるから、今は巫女を中心として、簡単に記述することとした。既に憑き物に就いては、諸先輩の研究が発表されているので〔一〕、詳細はそれに就いて知る便宜があるからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して茲に、憑き物とは、上下両野のオサキ狐、信濃のクダ狐、三河のオトラ狐、飛騨のゴホウ種、近畿のスイカズラ、四国の犬神、出雲のジン&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;狐&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;コ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、中国のトウビョウ等を重なるものとして、此外に、猫神、猿神、飯綱、蟇つき、狸つきなどの名で呼ばれ、更に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白神筋&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シラカミスジ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;、ナマダコ、ゲトウ、院内等の「物持筋」となり、一般に社会から嫌厭される家筋まで含めての意である。従ってここに言う憑き物とは、悪霊、死霊、生霊等の人間の霊魂が、人間に憑くという意味よりは、動物の霊が人間に憑くという方に重きを置くことになっているのである。而して是等の憑き物に共通している大体の俗信は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 一、是等の憑き物は、年々のように繁殖して、常に飼っている家でも困却しているということ。&lt;br /&gt;
: 二、その家の子女が、他家へ聟または嫁に往くとき、憑き物がついてその家に入るということ。&lt;br /&gt;
: 三、憑き物筋の者は、他人の健康や作物を害さんと思うと、その憑き物が活いて、健康を害し、作物を損じ、更に現金まで持って来るということ。&lt;br /&gt;
: 四、この憑き物を持っていると勝負運が強いということ。&lt;br /&gt;
: 五、物持筋が憑き物を放そうと思うても、どうしても放れぬということ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この五点である。而して巫女は、随意に此の憑き物を使役する者として恐れられた。それでは是等の憑き物という俗信は、何によって発生したか、先ずそれから考えて見るとする。猶お此の問題は、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]においても記述すべきであるが、多少の変遷ありとするも、同じ問題を二度書くことは気がさすので、茲には明治期まで押しくるめて記すとした。敢て賢諒を乞う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　オサキ狐クダ狐など&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狐や蛇がヴントの所謂霊的動物として崇拝されたことは既述した。それと同時に、我国の神の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;使令&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツカワシメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（又は眷属ともいう）と称する幾多の動物——例えば、稲荷神の狐、熊野神の鳥、日吉神の猿、春日神の鹿、貴船神の百足、三峯神の狼と云うが如きものは、古くはそれが原祀神ではなかったかと云うことも、併せて既記を経た。それ故に是等の動物が、恰もアイヌ民族に見る如く、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;[[:画像:アイヌの憑き神.gif|憑き神]]&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トレンカムイ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;から&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;守り神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シラツキカムイ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;にすすんで往く過程も考えられるし、更に是等の動物の霊が人間に憑くという、俗信の発生も考えられぬでもないが、此の俗信を強く、然も深く、我国に植え込んだのは、前にあっては、支那の巫蠱の呪術で、後にあっては、仏法の吒吉尼の邪法だと信じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して蠱術に就いては略記したので、今は吒吉尼に関して云うが、此の邪法も古くから行われていたのである。伴信友翁の「験の杉」に引用された「拾葉抄」に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 東寺ノ夜刄神ノ事云々。中聖天、左吒吉尼、右弁財天也、天長御記云、東寺有守護天、稲荷明神使者也、名大菩提心使者神也。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある天長御記は、淳和帝の御記と思われるので、僧空海の在世中に、早くも吒吉尼信仰の行われた事が知れる。勿論、稲荷信仰に伴う狐の崇拝は、吒吉尼の乗っている動物と類似している所から、両者の関係を密接ならしめ、その結果として、僧空海と稲荷神と面談したなどと云う俗説まで生れたが、兎に角、両者の歩み寄りが、狐を一段の霊物とし、稲荷神を吒吉尼化したことは、やや明白に看取されるのである〔二〕。「文徳実録」仁寿二年二月の条なる藤原高房の伝に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 天長四年春拝美濃介（中略）。席田郡有妖婦、其霊転行暗噉心、一種滋蔓民被毒害、古来長吏皆懐恐怖、不敢入其部、高房単騎入部、追捕其類、一時酷罰、由是無復噉心之害云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのは、「谷響集」に「真言演密抄」を引いて『荼吉尼是夜叉趣摂云々。盗取人心食之』とあるより推して、此の妖巫が吒吉尼の邪法を行うたことは、疑うべからざる事実である。而して此の信仰から導かれて、狐の神格的地位は段々と向上し、一方においては&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;専&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウノ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;女御前となり、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;三狐&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ミケツ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;神となり、遂には倉稲魂神と誤解されるまでになり、更に一方においては、神狐とか、霊狐とか云われて、俗信を集めるようになったのである。狐を殺した為に、配流された例は多いが〔三〕、「中右記」長元四年八月四日の条に『京洛之中、巫覡祭狐枉定大神宮、如此事、不然之事也』とあるような事態を見るに至ったのである。民間の惑溺また思うべしである。大江匡房の「狐媚記」の如きは此の産物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の郷里である下野国足利郡地方の村々では、私の少年の頃までは、オサキ狐の話をよく耳にしたものである。大昔に、九尾ノ狐が帝都を追われて、那須野に隠れたのを、坂東武士のために狩り出されて、殺生石となったが、その折に尾が方々へ散って狐となり、これを尾先狐と云うのだと故老から聴かされ、又た誰々の家には、その狐が七十五匹戸棚の隅に飼ってある。毎朝、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;飯匙&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シャモジ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;で釜の端を叩くのは、狐に餌を遣る合図だというて、私などが過って此の所作をすると、父母から厳しく叱かられたことを覚えている。かかることで、オサキ狐に憑かれた家の人ほど気の毒なものはないが、それでも私の地方などは、他国に比較すると、まだ気の毒の程度が軽いようである。通婚にも、交際にも、余り忌み嫌われていぬからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに反して、信州松本平の中央山脈の麓寄りの方から、木曾の谷へかけて、薮原、宮ノ越、福島などの各駅から美濃堺まで、クダ狐の憑いている家が多い。殊に福島駅に近い新開村字大原は、四十戸ばかりの部落であるが、その中に五六戸は『あすこはクダを飼ってる』と昔から言われている家がある。此の評判が立つと、部落からは元より、やや遠い所の者からまでも特別の扱いを受け、『おれの家は腐る方だが、あすこは是れだからな』と、物を掻く手真似をして見せる。腐るとは癩病の血統で、掻くのは狐を意味している。即ち癩病よりもクダ狐を恐れる意味である。従って通婚は此の者同士に限られている。クダ狐持がこうまで嫌われるのは、これに憑かれると、すっかり狐になってしまい『某の死んだのは、おれが締め殺したのだ』或は『某の家の馬の病気は、おれがしたのだ』また『某の家の南瓜はおれが挘ったのだ』というような事を口走る。そしてクダ狐は、元は伏見の稲荷社から受けて来たものだと伝えている〔四〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出雲のジン狐に関する気の毒な事実は、夥しき迄に学会へ報告されている〔五〕。それは大正十一年の事であるが、出雲の某村の有力者が、息子に嫁を迎えようとしたが、世話をする者がないので、段々と調べてみると、その家はジン狐持ではないが、主人の妹が嫁した家の遠縁の者に、その疑いのあることが判然し、親族会議の結果は、妹の家と絶交することとなり、それを言い渡すときの光景は、見るも憐れなものであった。老母の顔は涙に曇り、言渡す主人の声もふるえていた。絶交された妹は、世の成行きと、自分の運命で、代々続いて来た綺麗な家の血筋を濁すことには代えられぬと、観念の眼を閉じたということである〔六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して斯うした社会の圧迫と、家庭の悲劇とは、独り信州や出雲ばかりでなく、狐憑きの俗信の行われているところには、何処にでも存しているのである。元より俗信であり、理由のない事であるから、疾くにも泯びなければならぬのに、今に此の陋習が依然と行われているとは、如何に俗信の力の偉大なるかに驚くのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狐持の家筋が、狐に憑かれた事に原因することは言う迄もないが、その狐を憑けたものが、巫覡であることも、勿論である。「栄花物語」巻七鳥辺野長保三年十二月の条に『かかる程に、女院（円融后東三条院詮子）ものせさせ給て、なやましう思しめしたり、との（藤原道長）御心をまどはして、おぼしめしまどはせ給（中略）、御物のけを四五人かりうつしつつ、おのおの僧どもののしりあへるに、此三条院の&amp;lt;u&amp;gt;すみ&amp;lt;/u&amp;gt;の神の&amp;lt;u&amp;gt;たたり&amp;lt;/u&amp;gt;と云う事さへいできて、そのけしきいみじうあやにくげなり』とある如く、物の怪を四五人にかりうつすとは、即ち&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;り祈祷であって、此の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑座&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨリマシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の口から、種々なる御託が発せられ、三条院の場合は、&amp;lt;u&amp;gt;すみ&amp;lt;/u&amp;gt;の神の祟りという事であったが、これが狐が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いているとか、蛇が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;憑&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;つ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;いているとか云えば、それでその人は、狐つき、蛇つきとなってしまい、心理学上の暗示に支配されて、狐の真似したり、蛇の様子して座敷を這い廻ると云うことになれば、その家は忽ち「持物筋」となり、それが子孫へまで遺伝することになるのであるから、是等の持物筋の発生が、巫覡の憑り祈祷にあることは明白である。これに就いて、本居内遠翁は「賤者考」において、左の如く述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 犬神狐&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;役&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツカヒ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;などいふは、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;唐土&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;モロコシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の蠱毒の類にて、かの土には金蚕蝦蟇蜈蚣などの毒種と見ゆれど皇国にはきかず、犬神といふ術四国にありときけど（中略）、出雲の狐持といふ家も是と等し、先年領主より命ありて、此種を絶んとて多く刑にも行ひ、追放もせられしかど、猶その余残あるうへに（中略）。又そのさま怪しげに偶々聞ゆる事などあれば、狐つかひならむと云ひはすめれど、それも又別術なるか、事発覚に及ばざれば又弁知しがたき物なり。おのが是まで聞及べるは、神仏に託して奇に人の上を言ひあてて祈などに金銭を貪り（中略）。昔名高かりし真言僧などの行法に奇特とてありし事、又修験加持などして、&amp;lt;u&amp;gt;よりまし&amp;lt;/u&amp;gt;とて生霊死霊を人にうつして憤恨を云はせたり。&amp;lt;u&amp;gt;しりゃう&amp;lt;/u&amp;gt;の事、前に云ふ打臥しの巫（中山曰。此の巫女の事は既述した）の類、皆此狐役の術なるべし。今も日蓮宗の僧徒の中に、疾病の祈をなし、&amp;lt;u&amp;gt;よりまし&amp;lt;/u&amp;gt;を立てて言はする類まま聞ゆ。仏法の行力なくば、その宗の徒はすべてなすべきを、たまさかなるは狐使の別術なる故なり云々（本居全集本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狐憑きの発生が、憑り祈祷にある事は、これから見るも明かであって、憑座に対して&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;問&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ト&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;い&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;口&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クチ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（大昔の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;審神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;サニワ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の役）をする者が、仕向けるままに放言する&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;与多&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヨタ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が〔七〕、遂に厭うべく悲しむべき結果を生むようになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飯綱信仰は、信州の飯綱山に起り〔八〕、室町期に猖んに行われたものであって、殊に武田信玄と上杉謙信は、これが篤信者であったと伝えられている。併しながら、その行法は吒吉尼を学んだもので、他の巫覡と同じように狐を遣い、飯綱遣いとは狐遣いの別名の如く民間からは考えられていた。飯綱に関する資料も相当に存しているが、今は深く言うことを避けるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　蛇神託とトウビョウ&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
蛇が狐にも増して人に憑くものと考えられるのは、あの醜悪なる形態と、これに伴う幾多の説話からも知ることが出来る。今に全国的に行われているものに、蛇は執念深いものゆえ、半殺しにしておくと、人に祟るということである。而して此の蛇が、人に祟りをしたという伝説は、狐に比して更に多くのものが存しているが、これは直接ここに関係がないので省略する。古く蛇が託宣したことが見えている。「明月記」建久七年四月一七日の条に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 刑部卿参入、中世間雑談等、新日吉近日有蛇、男一人随其蛇、吐種々狂言、称蛇託宣、又云後白河院後身也云々、此事不便、書奏状進之云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのが、それである。然るに、私の寡聞なる、此の種の類例を他に全く知らぬので、比較して考察を試みる事もならず、それに此の記事だけでは、蛇が如何なる方法を以て託宣したのか、解釈に苦しむほどゆえ、ただ鎌倉期の初葉には斯うした俗信もあったと紹介して置くにとどめる。而して此の蛇が民間の憑き物となったトウビョウなるものにあっては、中国を中心として各地方に存していた。柳田国男先生は、これに就いて、左の如き有益なる研究を発表されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 蛇の神はトウビョウと云うのが、元の名であるらしい。「大和本草」に、中国の小&amp;lt;u&amp;gt;くちなは&amp;lt;/u&amp;gt;とて安芸に蛇神あり、又タウベウと云ふ。人家によりて蛇神を使ふ者あり。其家に小蛇多く集りゐて、他人に憑きて災をなすこと四国の犬神、備前児島の狐の如し云々とある（中略）。石見などでもトウビョウと云うのは蛇持又は蛇附きのことで、此を芸州から入って来たと云っている（日本周遊奇談）。安芸の豊田郡宮原村の海上に当廟島という小さな島があるのは、恐らく此神がまだ公に祀られていた時の由緒地であろう。備中にも川上郡手ノ荘村大字&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;臘数&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シワス&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に小字トウ病神がある。今日の如く此神に仕えることを恥辱と考えて隠す世の中なら、到底こんな地名は出来ぬ筈である。備中には海岸部落は犬神の勢力範囲であるが、山奥の田舎から出雲へかけてトウビョウ持と云われる家筋が多い。此辺でもトウビョウは蛇だと云うが、その形状及び生活状態というものが余り蛇らしくない。先ず其形は鰹魚節と同じく、長短くして中程が甚だ太い。それを小さな瓶の類に入れ、土中に埋め其上に&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;禿倉&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ホクラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を立て、内々これを祭っている。此神を祈れば金持になるとのことで、其家筋の者は皆富んでいる（中略）。此神の甚だ好む物は酒であるから、折々瓶の蓋を開いて酒を澆いでやらねばならぬ。祟りの烈しい神である（藤田知治氏談）。&lt;br /&gt;
: 密閉した酒瓶の中に生息する蛇というものが、動物学上果して存し得るものか、大なる疑問である。四国は昔から犬神の本場であるが、讃岐の西部には之とよく似たトンボ神の俗信があることを、近頃荻田元広氏の親切に由って知ることが出来た。かの地方ではトンボ神と口で言って文字は&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;土瓶神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ドヘイジン&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と書くそうである。之を思い合す時はトウビョウも亦土瓶の音で、即ち蠱という漢字の会意と同じく、本来虫を盛る器物から出た名目であった。讃岐のトンボ神は、往々にして蠱家の屋敷内に放牧してある事もあるが、又土甕の中に入れ台所の近く、人目に掛らぬ床下などに置き、或は人間と同じ食物を遣るとも、又酒を澆いでやるとも伝えられている（荻田氏報告以下同）。唯虫の形状に於ては頗る備中のものと異り、小は竹楊枝位から大は杉箸迄で、身の内は淡黒色、腹部ばかりは薄黄色、頸部に黄色の輪があって、之を金の輪と云う。身を隠すことも敏捷だとある。土瓶神持は縁組に由って新に出来る。相手の知る知らぬを問わず、娵又は聟（？）が来るときには、神も亦分封して附いて来る。連れて来るのか独りで附いて来るのかは未だ詳ならず。トンボ神持は如何なる場合にも、世評を否認するにも拘らず、金談其他で人と争でもすれば、兎角その威力を利用したがる風がある。世間の噂では、或者に怨みを抱くとなれば、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;土瓶神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トンボガミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に向って斯う言う。お前を年頃養ったのは、こんな時の為めである。何の某に我恨みを報い玉わずば、今後は養い申すまじ云々（中略）。気の利いたトンボ神は此相談を聞く迄もなく、家主の心の動くままに、直に往って其希望を遂げさせるとのことである。此の蟲が来て憑くと身内の節々が段々に烈しく痛む、医者に言わせると急性神経痛とでも言いそうな病状である。之を防ぎ又は退ける方法は、一つには祈祷で、之を役とするヲガムシと云う巫女を依頼する。第二の方法は、至って穢い物を家の周囲などに澆き散らす（中略）。&lt;br /&gt;
: 一旦土瓶神持となれば、永劫其約束を絶つことがならぬ。唯偶然に知らぬ人の手によって、根を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;絶&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;すことが出来れば、家にも其人にも、何等の祟りが無いと云うことで、窃にそんな折を待っている云々（以上「郷土研究」第一巻第七号）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
瀬戸内海に面した備前、備中、安芸、及び讃岐のトウビョウは、以上の記事によって詳細を知ることが出来たが、それでは日本海に面したものは如何に伝えられているかと云うに、これに就いては、「雪窓夜話抄」巻七に「伯州のタウベウ狐の事」と題して、下の如き記事が載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 或人曰く、伯州には村々にタウベウを持たる者あり。殊に倉吉あたりに多くありと云へり。国の御法度強く其所の人もタウベウを持つといへば嫌ふ故に、他人に深く隠して云ざるなり。是はタウベウ&amp;lt;small&amp;gt;キツネ&amp;lt;/small&amp;gt;と云て、常のキツネとは変りて、別に一種のキツネなり。形はキツネにて常の者よりも、甚だ小さく大さ鼬鼠程あり。是を見たる者は多くあり。其狐に主有て先祖より子孫に伝はりて其家を離れず（中略）。犬神に少も違はず、他の家に往て心の中にほしきと思ふ時には、本人の知らざるに向の人に附て、其物ほしきと口走りて、本人は口外に出さぬ事を他人に披露して其人を恥かしむ。或は瞋恨ある人には、本人は心中にて思ふ計りなるに、其人に付って讐をなす事あり（中略）。先年も倉吉に牛疫はやりて多く死せしに、此れを頼みてマジナイせしむれば即座に治す。是に依て大分の米銀をもうけたり。タウベウ持の方より附たる疫病なること、忽ち露顕して追放せられたり。少も犬神と変る事なし。狐の一名を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;専女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タウメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と云と古き書にも記せり、専女と云べきを誤てタウベウと云へるにやと云たる人もあり、さもありぬべき事ならんか。是も犬神と同じく、其人に飼れては末代まで家を離るる事なし云々（以上「因伯叢書」本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の記事は、恐らく享保前後に書かれたものと思うが〔九〕、伯耆にあっては、トウビョウは狐であって、然も此の名称は、狐を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;専女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;トウメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と云える訛語であろうと説いている。そして伯耆は言うまでもなく、因幡、美作、石見等のトウビョウは、今でも概して狐だと云われているが、事に東伯地方では、七十五匹が一群団であって、世間の噂にトウビョウ持の家に往くと、縁側とか板ノ間とかなどで、間々これの足跡を見受けることがあるそうで、こうした家で拭き掃除を怠らぬのは、即ちその足跡を人目に触れさせぬ用心だと言われている〔一〇〕。トウビョウが、蛇であろうが、狐であろうが、所詮は巫覡が糊口の為めに言い出した俗信上の動物であって、大昔から誰あって定かに見極めたという者がないのであるから、私は此の詮索には余り深入りせぬ考えである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　犬神と猫神と狸神&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
四国は昔から狐が居らぬと言われているだけに、狐憑きは無いが、その代りに、犬神と称する憑き物が跋扈している。犬神の起源に就いては、「土州淵岳志」巻六に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 讃州東ムギといふ所に何某あり、讐を報ずべき仔細あれども時至らず、日夜これを嘆く。或時、手飼の犬を生ながら地に掘埋め首許り出し、平生好む所の肉食を調へて、犬に言って曰く、やよ汝が魂を吾に与へよ、今この肉を食はすべしとて、件の肉を喰はせ刀を抜いて犬の首を討落し、それより犬の魂を彼が胸中に入れ、彼れ仇を為したる人を咬み殺し、年来の素懐を遂げぬ。それより彼が家に伝りて犬神と云ふものになり、婚を為せば其家に伝り、さて土佐国へは境目の者、かの国より婚姻しけるにより、入り来たると云ふ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と載せてある。これに由れば、犬神の本家は讃岐という事になるが、讃州にとっては、此の上もない迷惑千万のことと言わなければならぬ。全体、こうした憑き物などは、どこが本家で、どこが分家だなどと云われべきものではなく、土地によって、多少の前後と、粗密こそあれ、そう明確に知れる筈がないのである。併しながら、同じ四国でも此の犬神なるものが、阿波国が殊に猖獗を極めていただけは、事実のようである。「阿波志料飯尾氏考」に収めてある緒方氏所蔵文書に左の如きものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　　犬神下知状&lt;br /&gt;
: 阿波国中使犬神輩在之云々。早尋捜之可致罪科之旨。相触三郡（中山曰。麻殖、美馬、三好の三郡）諸領主堅可被加下知候由也。仍執達如件。&lt;br /&gt;
: 　　文明四（年）八月十三日　　常連（花押）&lt;br /&gt;
: 　　　三好式部少輔殿&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして領主が公文書まで発して、犬神の剿絶に配慮しているところから推すと、阿波の国民は、相当に此の問題で苦しめられて居たことが知れる。勿論、領主が斯かる手段を採ったことは、独り阿波だけではなく、柳田国男先生によれば、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 土佐の犬神は「土佐海続編」に最も詳しく、其形は山中に栖むクシヒキネズミに似て尾に節あり、毛は鼠に似たり、乾して持つ者往々にしてありとある。長宗我部氏の治世に犬神を吟味して、死刑に行い家を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;絶&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;たや&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;したが、其子孫稀に存し、昔は之を賤んで参会言語する者が無かった。其家では&amp;lt;u&amp;gt;口寄&amp;lt;/u&amp;gt;などと同じく、狗の首を神に祀っているともあれば、犬神の名称は使う神の形からでは無いのかも知れぬ。又こんな事も書いてある。犬神は伝教大師に伴い帰り、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;弦売僧&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツルメソ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;に附属する神なり、サイトウ、オオサキ、クダとも謂う。土州にて捕えたるはサイトウと云う者なり云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのを見ると〔一一〕、土佐の犬神の跳梁も、又頗る猛烈であったようである。更に前掲の「土州淵岳志」の続きの記事に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 土州の地に蠱を畜うる者多し、別て幡多郡に多し。「御伽奉公」という草子に土佐幡多郡狗神の事とある之也。能く人を魅す、然も大人正明の人に入ること無し。一度此蠱に逢えば、病形痛風にて骨節犬の咬むが如く、熱盛んにして譫言妄語す。蠱を畜うる家其祖先に、此鬼を祭りて財を利し富を致す者あり、遂に其家に托りて去らざるなり。民間義を知る人は、蠱を悪む事癩脈の如く婚嫁をなさず、婢僕を召抱えるにも之を詮議する事也。蠱家は之を包み隠せども、其鬼を避くるの術無し。愚婦庸夫に付くに針灸祈祷するに、偶々去る事あり。或は筋骨を咬みて遂に殺すことあり（中山曰。茲に其一例を挙げてあるが省略す）。按ずるに讃州予州に猫蠱と云うものあり土州に無し。「北山医話」に本邦四国之地、不知蠱狐、其気何自相反也、俗に言う狐魅の人四国に来れば、其魅自ら去ると。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猶お此の外に、周防長門両国の犬神、肥後阿蘇谷のインガメ、琉球のインガマなど書くべきことも相当に残っているが、大体を尽すにとどめて、今は省略に従うこととした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
猫神に就いては『伊予国宇摩郡では、猫を殺すと取りつくと称して、決して猫に害を加へぬ。先年、上山の弥八といふ豪農の主人が誤って猫を殺し、遂に発狂して「猫がとりついた」と独言を云ひつつ乞食になった』と伝えられている〔一二〕。併しながら、是れはまだ個人的の問題であって、巫覡を介しての社会的問題にまでは発展していぬが、更に紀州辺の猫神のことを聞くと、ここでは純然たる巫女の憑き神になっている。而して南方熊楠氏の報告を集めた「南方来書」巻十には、左の如く載せてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 田辺町と山一つ隔てし岡（中山曰。紀伊国西牟婁郡岩田村の大字）という村落の小学校長の談に、此の岡には今も代々の巫子数家あり（中略）。此の者の言うには、蠱神は三毛猫を縛り置きて、鰹魚節を示しながら食わせず、七日経るうちに猫の慾念はその両眼に集る。その時その首を刎ね、其頭を箱に入れて事を問うとの事なり。熊楠思うに、かかる事は毎度聞くところにて、安南にても犬をかくする事あり、吾国の犬神に同じ。又国により人の胎児を用うることあり。「輟耕録」に見えたる小児を生剥して、事を問う術なども大抵似たことなり。此の岡の巫子は隠亡の妻なりと聞く。猿、犬、猫などは仮話にて、実は人間の頭を用うるならずやとも存ず云々（大正元年十二月二十八日附）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の猫神の作り方は、誰でも知っている大昔に本願寺の毛坊主が、好んで信徒に与えたと伝えられてる「お&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白薬&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シロクスリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;」なるものと、全く同一の製法であって、ただ原料が猫と犬との相違だけである。少しく蛇足の嫌いはあるが、こうした怪事が行われたという往昔の民間信仰を知る旁証として、要点だけを下に摘録する事とした。「松屋筆記」巻三十九に「抜莠撮要」と題する上州高崎善念寺の僧秀覚筆記の復写本を引用して曰く、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 紀州法然寺円成上人ハ、十八歳ニシテ出家ス、則一向宗ノ人也（中略）。其母語云我宗ニ&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ト云事アリ、何ヲ以テ作ル事ヲ知ラズ、或云白犬ヲ養ヒ、其犬ヲ全ク地中ニ埋ミ、首ノミヲ出シテ種々ノ珍味ヲツラネ其首ノ前ニ置ク、白犬此ヲ喰ント食物ヲ念ジテ、気単ニ逼ルニ及ビテ犬ノ首ヲ切テ、是ヲ焼灰トナス、此灰ヲ人ニ与ル時、其人大信ヲ起シテ単ニ身命ヲ顧ズ、財宝ヲナゲウツト云（中略）。両本願寺東都参向ノ時分、道俗均ク御杯頂戴ト云フ有リ、御杯頂戴ノ事ニアラズ御灰頂戴ノヨシ、各土器一枚ヲ得テ歓喜ス、此灰ハ親鸞聖人ノ遺灰ニシテ、此灰ヲ服スル時此身則親鸞聖人ナリト伝授ス、一説ニ此事ヲ&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ト云ト（中略）。&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ノ事西国中国辺ノ人ハ時々云出ス事アレド、関東ニテハアマリ沙汰セヌ事也、秀覚{上野高崎/善念寺僧}知己ニ深川某寺ノ上人モト一向宗也、児ノ時&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ノ事ヲ聞知リ、&amp;lt;u&amp;gt;御白&amp;lt;/u&amp;gt;ハ白犬ノ灰也ト云テ、母ニ叱ラレシト語キ、此上人モ中国産也云々（以上「国書刊行会」本）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かかる事が果して行われたものか否か、今から思うと腑に落ちぬことであるが、それにしても斯うした悪説を宣伝された本願寺にとっては、此の上もない迷惑のことであったに相違ない。併しその詮議は、姑らく措くとするが、兎に角に、大昔にあっては、斯うして、猫なり、犬なりの首を、一種の呪力あるものとして信じていたことだけは事実である。讃岐の犬神の作り方に就いても、これと全く同じ方法が伝えられている所から見ると〔一三〕、古くは蠱術家が一般に遣ったことと思われるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狸神は寡見の及ぶ限りでは、殆んど阿波一国に限られているようである。由来、阿波には動物に関する不思議の伝説が多く、事に首切り馬の如きは、今に正解を見ぬほどの難問題である。而して同国の狸神に就いて、未見の学友後藤捷一氏の記す所によると、狸が人に憑いたり、又は悪戯をするので、これを神に祀った祠は、枚挙に遑なしというほど夥しく存しているが、就中、徳島市寺町妙長寺の「お六さん」というのは、狸合戦（有名な八百八狸の物語である）に関係した女狸で、相場師、漁夫、芸妓などの俗信を集めている。同市佐古町大谷臨江寺の「お松さん」も、同様に、狸合戦に出た女狸であるが、これは縁結びの神として崇拝されている。同市住吉島町に「おふなたさん」と称する神社があるが、此の神体は子供を十二匹連れた狸で、子供の無い人が祈願する。そして何処の家でも、狸が憑くと、先ず陰陽師か修験者を頼んで、祈祷して貰うのが常であるが、これを落すのに、唐辛で燻べ殺したということも耳にしている。併し大抵は、神々の護符を戴かせて、退散させるのである。此の時には必ず、狸が憑いた動機や名前を語り、最後に祠を立てて祀ってくれなどと註文を出すそうである〔一四〕。併しこれに由ると、狸神は、狸その者が無邪気であるだけに、犬神や蛇神などにくらべると、極めて罪が浅いようである。猶此の外に、備後のゲトウ、伊予のジャグマ、陸中のオクナイサマなど記すべきものもあるが、大体において共通したものと信ずるので、一臠を以て全鼎を推すとして省略する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　牛蒡種と吸い葛&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「牛蒡種」は、飛騨国の一部に行われている憑き物であるが、これに関しては、曩に私見を発表した事があるので〔一五〕、これを要約して載せるとする。即ち牛蒡種とは、その憑き工合が、恰も牛蒡の種のそれの如く、一度ついたら容易に離れぬと云う意味に解されているが、これは全く護法実（この事は[[日本巫女史/第二篇/第二章/第一節|既述]]した）の転訛にしか過ぎぬのである。而して此の俗信の行われている地域、及びその状態に就いては、「郷土研究」第四巻第八号に左の如く掲げてある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 牛蒡種という家筋は、飛騨の大野、吉城の二郡と、益田郡及び美濃国恵那郡の一部とに散在し、更に信濃の西部にも少しあると云う。此の家筋の男女は、一種不思議の力を有すると云われていて、家筋以外の者に対し、憎いとか嫌だとか思って睨むと、その相手は、立ちどころに発熱し頭痛し、苦悶し悒悩して、精神に異状を来たし、果は一種の瘋癩病者の如くになり、病床に呻吟するに至る。幸に軽い者は数十日で恢復するが、重い者になるとそれが原因で死ぬこともあるという。そして此の力は家筋同士の間には効験がなく、また他の者に対して斯くの如き力を用いつつある間も、自分には何等の異状を起さぬそうである。吉城郡上宝村大字双六という部落などは全戸この家筋から成立ってるように噂されていて、他村の者は甚だしく之を怖れ憚っている。また美濃国恵那郡坂下村大字袖川という所にも、此の家筋の者が居住し、或はその家から女を妻に貰った男などは、妻に対して如何ともする事が出来ず、一朝、妻の怒りに触れると、夫は忽ち病人になるという有様で、此の種の女を妻とした男は、是非なく洗濯もすれば、針仕事もするというような訳で、全く奴隷同様の境遇に落ちるという話である。但し牛蒡種の威力も、いくら部外の人でも、郡長、警察署長、村長とかいう目上の者に対しては、効果を発揮することが出来ぬ云々（中山曰。此の点は土佐の犬神と同じで、これが俗信であることを証明する上に注意すべき点である）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此の憑き物の正体は極めて簡単であって、[[日本巫女史/第二篇/第二章/第一節|既述]]した&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;護法実&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ゴホウダネ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と称する巫覡の徒が、此の地に土着し、それの子孫が一般の民衆から忌み嫌われたために（此の例は殆んど全国に存している）生じたものにしか過ぎぬのである。従ってこれが、下層の民衆の間にのみ行われ、知識階級に対して少しも呪力が無かったというのも、又この結果に外ならぬのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
吸い葛の行われている範囲に就いては、寡聞のためよく判然せぬが、「雍州府志」巻二によれば、洛北の貴船神社の末社に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;吸葛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;スイカズラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;社の在ることが見えているので、古く近畿に此の俗信の行われたことが推察される。更に「嬉遊笑覧」巻八に「屠龍工随筆」を引用して、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: いづことも限らず、&amp;lt;u&amp;gt;すいかづら&amp;lt;/u&amp;gt;といふも有となむ、その祀りやう人の知らざる密なる所に穴を掘て、蛇をあまた入置き神に崇めて遣ふ法、大かた犬神にひとし。&amp;lt;u&amp;gt;すいかづら&amp;lt;/u&amp;gt;付られたる人は、熱甚だしく心身悩乱するを、病家それと知りぬれば、宝を送り遣せば病癒ると聞けり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と載せてある。之に由れば、蛇神の一種で、トウビョウの地方化とも思われる。猶お此の外に、オトラ狐、ナマダコ、白神筋など云う憑き物も存しているが、別に取り立てて言うほどの特種のものではなく、且つナマダコや、白神筋に就いては、後段でこれに触れる機会もあろうと考えるので割愛し、最後に是等に対する結論ともいうべきものを附記して、本節を終るとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
是等の憑き物が、我国の固有のものでなくして、殆んどその悉くが、支那思想の影響であることは、疑うべからざる事実である。されば、此の事に就いては、古くから識者の間には説があり、「榊巷談苑」の著者の如きは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 四国に犬神といふ&amp;lt;u&amp;gt;まじもの&amp;lt;/u&amp;gt;あり、唐国にては犬蠱と云ふ（中略）。又陶瓶をば蛇蠱と云ふ、共に干宝の捜神記に見えたり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と言うている。山岡浚明翁も又その著「類聚名物考」において、全くこれと同じ意見を述べ、然も猫鬼の事にまで論及している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は彼之の共通——と云うよりは、更に一歩を進めて、我国が支那の巫蠱に学んだことを証示する為に、茲に「捜神記」より、その原拠となっている文献を検出するとするが、犬神に就ては、同書巻十二に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 鄱陽趙寿有犬蠱、時陳岑詣寿、忽有大黄犬六七、群出吠岑、後余相伯婦、与寿婦食、吐血幾死、乃屑桔梗以飲之而愈、蠱有怪物若鬼、其妖形変化雑類殊種、或為狗豕、或為蟲蛇、其人不自知其形状、行之於百姓、所中皆死。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのがそれである。勿論、支那のものがそのまま我国に行われているとは云えぬが、併しその蠱術の根本が、共通したものであることは、肯定されるのである。次にトウビョウと称する蛇神に関しては、同書同巻に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 滎陽県有一家、姓廖、累世為蠱、以此致富、後取新婦、不以此語之、遇家人咸出、唯此婦守舎、忽見屋中有大缸、婦試発之、見有大虵、婦乃作湯灌殺之云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあり、彼之全く一致していることが推知される。殊に柳田国男先生の記された所によると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 旧幕時代に、或人が国普請の夫役に当って、讃岐中部の某村に往き、ある家に宿を借りて日々普請場に通っていた。一日家へ帰って見ると家の者は皆留守で、台所の鑵子に湯がぐらぐら煮えている。一杯飲もうと不斗床の下を見ると蓋をした甕がある。茶甕かと思って開けて見れば、例の神（中山曰。トンボ神）がうようよと丸で泥鰌の籠のようであった。乃ち熱湯を一杯ざっぷと掛けて蓋をして置いた（中略）。其家では大喜びで、普請で知らぬ人を宿したお蔭に、永年の厄介物を片付けることが出来たと云っていた云々（以上「郷土研究」第一巻第七号）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのは、「捜神記」に、何も知らぬ新婦が、熱湯を以て蛇蠱を灌殺したとあるのと、全く同巧異曲の物語と云えるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に狐蠱にあっては、一段の類似性を有している事が発見される。例えば寛政頃に奥州の事を書いた「黒甜瑣語」第四編に載せた、羽後の秋田で、梓巫女に宿を貸した男が、巫女に酒を強いて酔潰れて、臥た間に、巫女の用いる髑髏と、墓地で拾って来た只の曝頭と入れ換えて置くと、翌朝一旦帰った巫女、面色土の如くなって戻り来り、悪戯も事にこそよれ、早く本物の髑髏を返せと云うので、その理由を語れと云いしに、この髑髏は、千歳の狐、形を人に変ぜんとする修行に、頭に戴いて北斗を拝するとき用いたもので、稀には野外でこれを見つけることがあるも、その徴には必ず枯木で作って杓子のような物が添えてある、これをボッケイと云うとあるのは、時珍の「本草綱目」に『狐至百歳礼北斗、変為男婦』とあるのから派生したもので、私などが子供の折によく見た大雑書には、狐が髑髏を頭に載せて北斗を拝んでいる挿絵があったものである。猫神も狸神も、その原拠を支那に求めることは決して難事なく、従って是等の蠱術が挙げて支那のを学んだものであることが判然するのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
由来、我国の巫女の行いし呪術は、その原義においては、北方民族の間に発達したシャマニズムの系統に属しているものであるが、その発生地であるシャーマンに是等の蠱術の存在せず、且つ我国で工夫されたものと、積極的に説明すべき証左の無い点から見るも、これが支那の影響である事は、多言を要する迄もないと信じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 我国の憑き物の就いては、前に柳田国男先生が「巫女考」のうちに連載され、後に「民族と歴史」では「憑物研究号」の特別号を出されている。詳細は是等によって知ってもらいたい。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 稲荷神と、吒吉尼天との習合に関しては、伴信友翁の「験の杉」に委曲を尽している。三州の豊川稲荷は、その代表的のものであって、古くは稲荷というも、実際は荼吉尼天であったと聞いている。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 狐を専女と称し、これを殺したために配流された例は、「古事談」その他に散見しているが、今は煩を避けてわざと載せぬこととした。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「郷土研究」第一巻第七号。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 「民族と歴史」の「憑物研究号」参照。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 同上。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : ヨタと云う言葉は、現時では、出鱈目とか、戯談とかいう意味に用いられているが、その起源は、神託に関係ある言語であるらしい。近江の官幣大社多賀神社を初めて祀った者を与多麿と称し、紀州の官幣大社日前国県神宮に与多と称する神職があり、更に下総の官幣大社香取神宮に近きところを与多浦というなどは、此の考えを裏付けるものと思うている。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 飯綱信仰に就いては、記述すべき多くの資料を有しているが、余りに長文になるのを恐れて省略した。そして此の信仰を言い立てた行者は、山伏と殆んど択むなき呪術を行ったもので、信仰の対象にこそ多少の相違はあれ、実質は両者ともに同じようなものである。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 「雪窓夜話」の筆者である上野忠親は、宝暦七年に七十二歳で死んでいる。更に同書巻七に「備前の&amp;lt;u&amp;gt;たふべう&amp;lt;/u&amp;gt;の事」と題せる記事が載せてあるが、此の方のトウビョウは蛇だとあるから、古くから此の物の正体が不明であったことが知られる。私は是等の動物（オサキ狐、クダ狐、ジン狐、トウビョウなど）は、所謂、妄想上の動物であると信じているから、正体を見た者がなく、従って正体不明が却って正当だと考えている。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 前掲の「憑物研究号」。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 「郷土研究」第一巻第七号「犬神蛇神の類」参照。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 同じく「憑物研究号」。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 「憑物研究号」に讃岐の犬神の話とて、白犬を首だけ出して地中に埋め、飯を見せびらかした後に首を切ると云うのが載せてある。&lt;br /&gt;
; 〔註一四〕 : これも「憑物研究号」に拠った。&lt;br /&gt;
; 〔註一五〕 : 私が、牛蒡種は護法実なりとの考証を「医学及び医政」の誌上へ発表連載したのは、大正九年頃と記憶している。其の折に喜田貞吉氏から、拙稿を見て自分もそう考えていたとの書信に接した。そして喜田氏が「憑物研究号」に牛蒡は護法実なりともいうべき論説を掲載されたのは、大正十一年のことである。喜田氏は有名のお方であるのに反して私は無名の者、学説を剽窃したなどと思われるも折角だから、誤解を避くるため敢て附記する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80&amp;diff=1293</id>
		<title>日本巫女史/第二篇/第五章/第三節</title>
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		<updated>2009-10-05T03:59:42Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第五章|第五章　呪術方面に現われた巫道の新義]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第三節　性器利用の呪術と巫女の異相==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男女の性器に呪力ありとした民間信仰は、古代から存したことは既記の如くであるが、更に巫女が娼婦化し、巫道が堕落するようになってから、此の信仰が、一段と助長したことは、明白に看取される。ここには、その代表的事実として、毛髪信仰に由来する巫女の七難の揃毛に就いて記述を試みんとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;一　原始的な毛髪信仰&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
毛髪を&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;生命の指標&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ライフ・インデックス&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;とした信仰は、古くから我国にも存していた。「神代紀」に、素尊が種々の罪を犯して、高天ヶ原を逐われるときに、八束の鬚を断られたとあるのは、即ち此の信仰の在ったことを裏付けるものと見て差支ないようである。降って「孝徳紀」に『或為亡人断髪刺股而誅』を制禁したのも、又た髪に生命の宿ることを意識していた民俗に出発しているのである。現にアイヌ民族では、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツス&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の呪力は鬢髪の間に深く蔵されていて、髪を剃れば巫術は行われぬものと信じている〔一〕。こうした信仰から導かれて、毛髪には或る種の呪力の存するものとして、崇拝された民俗は、今に様々なる形式で残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、田畑に立てる&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;案山子&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カカシ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の語源には異説もあるが、これは毛髪を焼いた匂いを鳥獣が嫌う為に、これを木に吊し、竹に挟んで立てた即ち&amp;lt;u&amp;gt;かがせ&amp;lt;/u&amp;gt;（嗅せ）の転訛と見るのが穏当である〔二〕。節分の夜に、虫の口を焼くとて、鰯の頭を毛髪で巻き、柊の枝に刺し、豆殻を焚きながら唄える種々なる呪文も〔三〕、咸な臭気を以て、農作に損害を与える動物を払うためで、それが毛髪を焼いたことに源流を発していることは明白である。既載した琉球の「をなり神」の信仰は、男子が旅行する際に、姉なり妹なり（姉妹なき者は従姉妹）の毛髪二三本を所持していれば、息災であるというているが、これに似た信仰は、内地にも広く古くから行われていたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここに二三の類例を挙げれば、妊婦の横生逆産を安産せしめるには、良人の陰毛十四本を焼研し、猪膏に和して、大豆大に丸めて呑ませると宜い〔四〕。人が若し、蛇に咬まれた時は、その人の口中に男子の陰毛二十本を含ませ、汁を嚥めば、毒の腹に入ることはない〔五〕。私の生れた南下野地方では、男子が性病にかかったときは、三人の女子の陰毛をもらい集め、これを黒焼にして服すと、奇功があると云うている。これなどは、広く尋ねて見たら、更に他地方にも行われていることと思う。それから、芝居の興行師や、茶屋女などが、来客が少くって困るときは、陰毛三本をぬき、一文膏へ貼り、人に知れぬよう他の繁昌する店頭へ貼って来ると、必ずその店の客を引くことが出来ると信じていた〔六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して以上は、専ら男女の陰毛に関したものであるが、これ以外の毛髪に就いても、又た深甚なる俗信が伴っていたのである。播州飾磨郡地方では、悪疫流行の際に、袂の底に毛髪を二三本入れて置くと、悪疫にかからぬと云っている〔七〕。山城国葛野郡小倉山の二尊院の門前に、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;長&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;タケ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;明神というがある。社伝によると、檀林皇后の落ち髪を祀ったものだと云うている〔八〕。記述した称徳女帝の御髪を盗んで、犬養姉女等が呪詛したとあるのも、髪に生命の宿ることを信じていたからである。京都市外の双ヶ岡の長泉寺には、吉田の兼好法師の木像があり、外に辞世の『契りをく花と双びの岡の辺に、あはれ幾代の春をへぬらむ』の歌を、兼行が剃髪の毛で文字を綴って作った掛幅がある〔九〕。同じ京都市外の栂梶の西明寺には、中将姫の髪の毛で、祢陀三尊の種子を作った掛幅がある〔一〇〕。これと似たものが、上野国邑楽郡六郷大字新宿の遍照寺にもある。これも中将姫の毛で、弥陀三尊の梵字を一字づつ織り出しているが、俗に頭髪の曼荼羅と称している〔一一〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから、甲州御嶽の蔵王権現の宝物中に、北条時頼剃髪の毛というがある。その毛は、綰ねて捲子の中に納め、その外に『最明寺殿御髪毛、愛宕山へ納め候を、当将軍様{○家/光？}御申下し、愚僧方へ参り候を、当山へ奉納候、寛永一六年正月吉日、納主不明』と記してあるそうだ〔一二〕。更に、雲州出雲郡神立村の立虫神社は、社家の伝に素尊の毛髪を納めたところだと云っている〔一三〕。そして薩摩国日置郡羽島村の髢大明神は、天智帝の妃大宮媛が、頴娃に下向のとき、同村を過ぎ髢を遺されたのを祀ったものと伝えられている〔一四〕。こうした毛髪信仰はまだ各地に存しているが、煩を避けて他は割愛した。昭和の現代でも、嬰児の&amp;lt;u&amp;gt;うぶ&amp;lt;/u&amp;gt;毛を保存して置くのは、此の古い信仰の名残りであると言うことが出来るのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでは、斯かる信仰は、何に由来しているかと云うに、その総てを尽すことは、アニミズム時代から説かねばならぬので、それは茲には省略するより外に致し方はないが、兎に角に、（一）毛髪が自然と伸長すること、（二）黒い毛が年齢により白くなること、（三）死体は腐ってしまっても、毛だけは永く残るという事などが、古代の人々をして毛髪にも一種の霊魂が宿るものと考えさせたに起因するのである。而して古代人は、異常は必ず神秘を伴うか〔一五〕、又は神秘の力を多分に有しているものと併せ信じていた。ここに頭髪なり、鬚髯なり——殊に陰毛なりが、異常に長いことを、一段と不思議とも考え、神秘力の多いものとも考えるようになった。巫女の七難の揃毛は、此の信仰から発生し、これに仏法の仁王信仰が加って完成されたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;二　各地に存した七難の揃毛&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
七難の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;揃毛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ソソゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の文献に現われたのは、「扶桑略記」巻二十八が初見のようである。即ち治安三年七月十七日（此月十三日に万寿と改元）に、入道前大相国{○藤原/道長}が、紀州高野山の金剛峯寺へ参詣した帰路に、奈良七大官寺の一なりし元興寺に立寄り『開宝倉令覧、中有此和子陰毛{宛如蔓不/知其尺寸}云々』とあるのが、それである。勿論、これには七難の揃毛とは明記してないが、此の和子の陰毛が宛も蔓の如く、その尺寸の知れぬほど長いものであったということは、他の多くの類例から推して、明確に知り得られるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して私は、茲にこれが類例を挙げるとするが、先ず東京市の近くから筆を起すと、北千住町の少し先きの、武蔵国北足立郡谷塚村大字新里に、毛長明神というがあった。昔は長い毛を箱に納めて神体としていたが、いつ頃の別当か、不浄の毛を神体とするは非礼だといって、出水の折に、毛長沼に流してしまった。此の毛長明神の鳥居と相対せる、南足立郡舎人村大字舎人には、玄根を祀った社があったが、今では取払われて無くなってしまった〔一六〕。下総国豊田郡石下村の東弘寺の什物に、七難の揃毛というがある。色は五彩（五色の陰毛とは注意すべきことで、後出の記事を参照されたい）長さ四丈有余、何者の毛か判然しない。伝に、往古七難と称する異婦があって、この者の陰毛だと云っている〔一七〕。これに就いては、「甲子夜話」巻三十に僧無住の「雑談集」を引用して、『俗に往昔の霊婦の陰毛なり』と載せている。今、私の手許に雑談集が無いので、参照することが出来ぬが、若し此の記事に誤りがないとすれば、僧無住は、梶原景時の末裔で、嘉禄年中の出生であるから、此の揃毛は鎌倉期にはあったものとして差支ないようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから、伊豆の箱根権現の什物中にも、悉難ヶ揃毛というものがあった。「尤草子」に長き物の品々にも、七なんがそそげとあるのを見ると、長い物であったことが想われる〔十八〕。上野国多野郡上野村大字新羽に神流川というがある。慶長頃に洪水があり、その時に、此の川の橋杭に怪しい長い毛が流れかかり、村民が大勢して拾いあげて見ると、長さ三十三尋余りあり、その色黒くして艶うつくしく、何の毛か分らぬので、村民も驚いたが、そのまま打ち棄てて置くことも出来ぬので、巫女を招んで占わせたところが、此の毛は同村野栗権現の流した陰毛だというので、直ちに同社へ送り返した。同社では毎年旧六月十五日の祭礼の節には、神輿の後へ此の陰毛を筥に入れて、恭しく捧げ持ち、今に陰毛の宝物とて名が高い〔一九〕。然るに、此の毛髪は現存していると見え、近刊の「多野郡誌」によると、新羽村の新羽神社の神宝にて、橘姫の毛髪長さ七尺五寸と記してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、同様の例を挙げれば、信州の戸隠神社にも、古く七難の揃毛というものがあったが、現今では山中院と称する宿坊の物となり、平維茂に退治された鬼女紅葉の毛と伝え、色は赤黒く縮れていて、長さ五六尺ばかり、丸く輪になって壺の中に納めてあるという事である〔二〇〕。それから、天野信景翁の記すところによると、尾張の熱田神宮にも、昔は此の種の長い毛があったと云うことである〔二一〕。そして、飛騨国大野郡宮村の水無瀬神社の神宝は六種あるが、その一に七難の頭髪というがある。社家の説に、昔この地に鬼神がいて、名を七難と称した。神威を以て誅伐されたが、その毛髪だと云っている〔二二〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尚、近江国の琵琶湖中にある竹生島の弁才天祠にも、七難の揃毛があった〔二三〕。同国石山の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;阿痛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;アライタ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;薬師堂には、龍女の髪の毛というのがある。琵琶湖に栖んでいた龍女が得脱して納めたものだと伝えているが、その髪は長くして、地に垂れるほどのものである〔二四〕。これには、戸隠のそれと同じく、別段に七難の揃毛とは明記してないが、併し鬼女といい、龍女というも、結局は揃毛の呪術が忘れられた後に附会した説明であるから、元は揃毛であったことは、他の類例からも知ることが出来るのである。大和国の官幣大社——巫覡に縁故の深い物部氏の氏神である石上神宮にも、また七難の揃毛というのが現存している。最近に発行された絵端書で見ると〔二五〕、今に婦人が用いる「ミノ」と称する&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;髢&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;かもじ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;のようなもので、余り長いものだとは思われぬ感じがした。同国吉野の&amp;lt;u&amp;gt;どろ&amp;lt;/u&amp;gt;川という所の奥の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;天&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;テン&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;ノ川の弁天堂に、七難のすす毛とて、長さ五丈ばかりのものがある。俗に白拍子静御前の髪の毛だとも云い、また縁起を聞くと、甚だ尾籠なものだと云う事である〔二六〕。備後国奴可郡入江村の熊野神社の末社に、跡厨殿というのがあるが、祭神は判然せぬ。神体は男女とも毛が長く、一に毛長神とも云っている〔二七〕。越前国大野郡平泉寺村から白山禅定の故地に往く道に、七難の岩屋というが残っている〔二八〕。此の二つは、やや明瞭を欠く所もあるが、毛長といい、七難とといっているので、姑らくここにかけて記すとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;三　陰毛の長い水主明神&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巫女と七難の揃毛を記す以前に、猶お予備として、陰毛の長い神の在ったことを述べて置く必要がある。讃岐国大川郡誉水村の水主神社の祭神が、陰毛が長いために、親神から棄られた縁起は[[日本巫女史/第一篇/第五章/第五節|既載]]した。但し、親神が何が故に、陰毛の長いのを恥じたのか、理由が判然せぬが、恐らく磯良神が変面を恥じたという伝説と共に、異相であったことを心憂く思ったものと考えられる。而して讃岐の隣国なる、阿波三好郡加茂村字猪乃内谷の弥都波能売神社にも、神毛にまつわる信仰が伝えられている。此の神社は、僅かに一筋の長い毛であるが、常には麻桶に入れて、神殿の奥深く安置してある。神慮の穏かならざるときは、その毛が二岐に分れて大いに延び、桶を押し上げて外へ余るようになる。これに反して、神意の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;和&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;なご&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;むときは、本の如くなると、里人は語っている〔二九〕。これには陰毛だとは明記してないが、同書の附載として『大和国布留社（記述の石上神宮のこと）にも大なる髪毛あり、ソソゲといふ由』とあるのから推すと、筆者が&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;態&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;わざ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と此の点の明記を&lt;br /&gt;
避けたものと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日向国児湯郡西米良村大字小川字中水流の米良神社は、祭神は磐長媛命と伝えられているが確証はない。此の社にも、昔は一筋の毛髪があって、これを極秘の神宝としていた。俚伝によると、祭神が世を憤りたまい、此の地の池に投身された折の神毛だというている。元禄十六年の洪水で、此の神毛は流失してしまったが、これの在った間は、神威殊に著しく、不浄は勿論のこと、外人殊に下日向の人を憎んで、一歩も境内に入れなかったと云う事である〔三〇〕。俚謡に『お竹さん、×××の毛が長い、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;唐土&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;カラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;（又は江戸）までとどく』とあるのは、いつの世に、誰が何の理由があって、言い出したものか知る由もないが、七難の揃毛を背景として考えるときは、常人にすぐれた長い陰毛を持っているということは、或る種の呪力有している人と見られていたのであろう〔三一〕。そして此の信仰は、巫女が性器を利用した呪術に発し、これに仁王信仰が附会して、巫女が好んで陰毛の長大を誇り、併せてこれに種々なる装飾を加えるまでに至ったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&#039;&#039;&#039;四　仁王信仰と七難即滅の思想&#039;&#039;&#039;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在では、仁王尊といえば、寺院の門番と思われるまでに冷遇されているが、古く奈良朝から平安朝へかけては、仁王信仰は上下の間に深く行われたものである。而して仁王尊の功徳に就いては、仁王経に載せてあるが、これに関して南方熊楠氏の言われるには、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 七難のこと、仁王経にあり（中略）。是等七難を避くるために、五大力菩薩（五人の菩薩名は略す）の形像を立て、これに供養すべしとなり。朝家に行われし仁王会の事なり。然るに、それは一寸大仕事ゆえ、七難即滅のために一種の巫女が七難の舞をやらかせしにて、それより色々と変り、猥褻なる事にもなり、陰を出し（中山曰。所載の貴船社の巫女と和泉式部の件参照）通しては面白からぬゆえ、秘儀を神密にせんとて、殊更に長き陰毛を纏いしなるべし。凡て仏法に隠れたる所にある長毛を神霊とせるは「比丘尼伝」の外に「大唐西域記」巻十中天竺伊爛孥伐多国、室縷多頻没底抅胝（聞二百億）の伝にも見えたり（中略）。此人（釈迦の弟子）は、一足の裏に長き金色の毛あり、甚だ寄なりとて、国王が召して見たことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある〔三二〕。以上の説明によって、七難の揃毛の由来と、巫女が好んで陰毛の長きを利用した事情が、全く釈然したであろうと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に下総の東弘寺に伝った陰毛が、五彩であったという事であるが、これに就いても、南方熊楠氏は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 姚秦三龍仏陀耶舎共笠法念訳、四分律蔵二十九巻に、爾時薄伽婆（仏の事）在舎衛国給孤独園、時六群比丘尼、蓄婦女、装厳身具、手脚釧及猥所荘厳具（印度は裸で熱い所故に、衣服を飾りても久しく保たず、汗に汚れる故に、髪腕足の輪環又陰毛を染め、甚だしきは陰部に玉を嵌める等の飾りあり）諸居士皆見識嫌云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
との例を挙げ〔三三〕、我国のもこれを真似たものだろうと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の俗信を頭脳に置いて、古い七難の揃毛のことを再考すると、それは前にも述べた如く、仏説を土台とした巫女等が、猖んに長いほど呪力の加わるものとして利用した結果が、三丈五丈のものを残すようになったのである。巫女の堕落と、異相も、ここに至って極まれりと言うべきである。猶お本節を終るに際し、南方熊楠氏の示教に負うことの多きを記して、敬意を表する次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 金田一京助氏の談。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 川口孫次郎氏が「飛騨史談」において、詳しい考証を発表されたことがある。私の記事は、これに拠ったものである。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 「水戸歳時記」によれば、同地方では「隣りの嫁さんの××の臭さよ、ふふん」と唱え、更に「吉居雑話」によれば、駿河の吉原町辺では「ながながも候、やッかがしも候、隣りの婆さん屁をたれた、やれ臭いそれ臭い」と云う由。共に臭気を以て、鳥獣を逐うた名残をとどめたもので、更に此の問題は、悪臭のする草木を呪符の代用した俗信にも触れているのである。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「千金方」。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 時珍の「本草綱目」。そして以上の二書は、支那のものであるが、これ等の呪術が我国に行われていたので、敢て挙げるとした。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 「東京人類学雑誌」第二十九巻第十一号。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 「飾磨郡風俗調査」。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 「山州名跡志」巻九（史籍集覧本）。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 「甲子夜話」巻五十二（国書刊行会本）。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 同上。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 「群馬県邑楽郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 「甲斐国志」巻六十四。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 「出雲国式社考」巻下（神祇全集本）。&lt;br /&gt;
; 〔註一四〕 : 「三国名勝図絵」巻十。&lt;br /&gt;
; 〔註一五〕 : 俗に白ツ子という者や、低能者などを、異常者として、一種の崇敬した例さえある。&lt;br /&gt;
; 〔註一六〕 : 元禄年中に、古川常辰の書いた「四神地名録」に拠る。&lt;br /&gt;
; 〔註一七〕 : 「和漢三才図会」巻六。&lt;br /&gt;
; 〔註一八〕 : 加藤雀庵の「さえずり草」。&lt;br /&gt;
; 〔註一九〕 : 「閑窓瑣談」巻四（日本随筆大成本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二〇〕 : 「日本伝説叢書」信濃巻。&lt;br /&gt;
; 〔註二一〕 : 「塩尻」巻二（帝国書院百巻本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二二〕 : 「斐太後風土記」巻四（日本地誌体系本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二三〕 : 「和漢三才図会」同条。&lt;br /&gt;
; 〔註二四〕 : 「近江輿地誌略」巻三十六（日本地誌大系本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二五〕 : 東京の温故会と称する好事家の集りで秘密に出版したものに拠る。&lt;br /&gt;
; 〔註二六〕 : 「塵塚物語」巻四（史籍集覧本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二七〕 : 「芸藩通志」巻四。&lt;br /&gt;
; 〔註二八〕 : 「大野郡誌」下編。&lt;br /&gt;
; 〔註二九〕 : 「日本伝説叢書」阿波巻。及び「阿州奇事雑話」に拠る。&lt;br /&gt;
; 〔註三〇〕 : 「郷土研究」第四巻第十二号。&lt;br /&gt;
; 〔註三一〕 : 福島県石城郡草野村大字北神谷の高木誠一氏の談に、同地方では「&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;百舌鳥&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;モンズ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;モンモの毛、太夫（巫女）さんの×××毛三本つなげば江戸までとどく」と言うそうだ。&lt;br /&gt;
; 〔註三二〕 : 「南方来書」明治四十四年九月十三日の条。&lt;br /&gt;
; 〔註三三〕 : 同上。明治四十四年十月十日の条。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80&amp;diff=1292</id>
		<title>日本巫女史/第二篇/第四章/第三節</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80&amp;diff=1292"/>
		<updated>2009-10-01T17:04:10Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第四章|第四章　巫女の漂泊生活と其の足跡]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第三節　漂泊巫女の代表的人物八百比丘尼==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
若狭国の八百比丘尼——苟くも我国の民間伝承に興味を有った者で、更に巫女の考察に趣味を有った者で、恐らく此の名を知らぬ者は無かろうと思われるほどの有名な人物であるが、さてその正体はと云うと、恐らく誰でも突き留めた者は無いというほどの厄介な人物なのである。これに関しては、古く山崎美成翁も記述を残し、近くは西川玉壺翁も考証を試みたが〔一〕、前者は断片的で報告にとどまり、後者は言筌に落ちて、失敗に終った。私は此の怪談に包まれた八百比丘尼こそ、漂泊巫女の代表的人物と考えているので、茲にやや詳しく短見を述べるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八百比丘尼の伝説は、室町期に大成されたものであるが、その出自が、怪奇を極めている上に、此の伝説を運搬したものが、漂泊をつづけた巫女だけに、殆んど全国に分布されている。加之、運搬の際に、幾らづつか語り&amp;lt;u&amp;gt;ゆが&amp;lt;/u&amp;gt;めたものも見え、時により、処により、話の筋に多少の出入があって、頗る複雑なものとなってしまった。さればと言うて、その伝説を一々挙げて、これが異同を究めるのは、容易なことではないし、又それ迄に広く探す必要もあるまいと信ずるので、先ず伝説の本筋とも見るべきものを示し、これを基調として、二三の異説を対照して、次に私見を述べるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
林道春の「本朝神社考」巻六都良香の条に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 余が先考嘗て語りて曰く、伝へ聞く、若狭の国に白比丘尼と号するものあり、其父一旦山に入りて異人に遇ふ、与に倶に一処に到る殆ど一天地にして、別世界なり。其の人一物を与えて曰く、是れ人魚なり、之を食するときは年を延で老いずと、父携へて家に帰る、その女子、迎へ歓んで衣帯を取る、因りて人魚を袖に得て乃ち之を食ふ{蓋し肉芝/の類か}女子寿四百余歳、所謂る白比丘尼是なり、余幼齢にして此事を聞きて忘れず云々〔二〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのが、先ず伝説の本筋である。若者道春が幼齢で此事を聞くとあるのは、室町期の末葉天正十五六年の交と思われるので、此の頃は既に立派に伝説は完成されていたのであろう。尤も八百比丘尼が京都へ来て俗信を集めたことは、信用すべき史料なる「康富紀」及び「臥雲日件録」の文安六年五月から七月までの記事に見えているので、此の比丘尼の出没は、天正頃よりは更に百五六十年も前のことであるのは疑いないが、その伝説がやや纏って物の本に記されたのは、神社考が最古のように考えたので、先ずこれを典拠として説を試みる次第なのである。而してこれに由ると、（一）若狭国の生れであって、（二）白比丘尼と称したこと、（三）人魚を食うて長寿を保ち、（四）四百歳を生存したことが知られるのであるが、然るに是等に就ては、その一々に異説があるので、それを掲げて見ようと思う。元々、巫女が持ち歩いた伝説に過ぎぬものを、力瘤を入れて詮議するのも心無いことのように考える者もあるかも知れぬが、巫女の漂泊者が、極めて小さな意味の文化ではあるが、伝説や歌謡や物語などを、足跡のとどまる所に植えつけて往ったことを知る上に、相当の意義が潜んでいると信ずるので、敢て此の態度を執るとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一の生地に就いては、若狭というのが通説となっているが、併し「若狭郡県志」にも「向若録」（同国の地誌）にも、八百比丘尼は遠敷郡の後瀬山麓の空印寺にある洞窟に隠栖したとは記してあるが、決して同国で生れたとは載せてない。「勢陽五鈴遺響」鈴鹿郡平野村八百比丘尼塚の条に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 白比丘尼俗に八百比丘尼と称す、若狭に神に祭りて八百姫神明と崇めたり、和漢三才図会引若狭国風土記云、昔此国有男女、為夫婦共長寿、人不知其年齢、容貌若如少年、後為神今一宮是也、因称若狭国云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と載せてあるが、流布本の三才図会にはかかる記載なく、且つ若狭風土記などいう書物は寡見に入らぬ。よし又、これが記載してあったとしても、単にこれだけでは、若狭生れの証拠とはならぬ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るにこれに反して、若狭以外の生地に就いては、段々と各地に資料が残されている。奥州会津地方の俗伝によれば、秦勝道なるもの、元明朝の和銅元年に岩代国耶摩郡金川村に来て、里長の娘と相馴れて、養老二年元朝に一女を儲けた。勝道予て庚申を崇信し、村の父老を集めて庚申講を営むと、或日、駒形岩の辺りなる鶴淵から龍神が出て、大衆を饗応した。その中に九穴ノ貝あり、人怪んで食わず、道に棄てたのを、勝道拾って帰宅し、女それを食して（中山曰。人魚でないことに注意されたい）長寿を保ち、八百比丘尼となった〔三〕。美濃国益田郡馬瀬村大字中切に治郎兵衛という酒屋があった。龍宮に至り「キキミミ」と称する虫鳥獣の物言うことを聴き分けるものを貰って来た所、その娘がこれを開き、中にあった人魚の肉を食い、八百年の長寿を得て、諸国を遍歴した。死ぬるときに、黄金の綱三把を埋め、杉を折って墓標とし、『漆千杯、朱千杯、朝日輝き夕日うつらふ其木の下に、黄金の綱三把あり』と記して死んだ。杉の木は枯れたが、根は今に残っている〔四〕。此の末節の謎のような歌は、墓所の地相を詠んだもので〔五〕、後から比丘尼に附会した話である。同国稲葉郡蘇原村字三柿野に、昔アサキと云う長者があり、娘一人を残して死んだ。娘は麻木の箸で食事をなし、その箸に付いた飯粒を池魚に施した功徳で、八百歳の永生きをした。後に各務村に住み、古跡今尚六字の名号の碑を存している〔六〕。此の話も箸信仰に関するものを〔七〕、後人が継ぎ合せたもので、前の話とともに、八百比丘尼の伝説としては価値の少いものである。飛騨国吉城郡阿曾布村大字麻生野字森之下で、八百比丘尼は生れたもので、本名は道春というた。同郡上宝村大字在家の桂本神社にある七本杉は、比丘尼が鎌倉から持ち来って栽えたものである。根は一本で、六尺ばかりのところで七本に分れ、根の囲り十抱えある大杉で二本ある〔八〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから越後国三嶋郡寺泊町大字野積字岩脇の漁家納屋事高津某に一女があった。妖色仙姿にして、年を経るも齢傾かず、常に十六七歳の処女に等しく、三十九度他家へ嫁し（中山曰。婚数が諸書必ずしも一致しない点に、伝説の成長という事が考えられる）、後に剃髪して諸国を巡り、若狭小浜の空印寺境内に草庵を結んで止住した。既に八百年を生存するも、処女の如かりし故に、八百比丘尼と称した。諸方の候伯に召されて、往事を語るに確然たり、世に八百比丘尼物語という書物がある。尼は天然に死ぬことが出来ぬと悟り、元文年中境内に入定し遺品がある。尼の生家は、高津金五郎と称し現存し、遺物とて越後の古絵図一枚ある〔九〕。此の伝説は、八百比丘尼が名の如く八百年生きたものと信じて書いたところに、古人の質朴さが窺われ、且つ尼の生家が残っているなどは、益々以て面白いことである。伝説と歴史との相違を判然と知らなかった著者には、無理もないことであるが、それにしても元文といえば僅に百五十年前ばかりのころであるのに、此の不思議な尼が生きていたと信ずるとは罪の無いことである。殊に尼が天然に死す能わずと悟って入定したとは、愈々以て伝説の世人を迷わす事の大なるを感じた。播州神埼郡寺前村大字比延に、八百比丘尼が投身した場所があると伝えているが〔一〇〕、これなども余り長く生きるのに呆れて飛び込んだ所かも知れぬ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
能登国には、何故か不思議に、八百比丘尼に関する遺跡や、伝説が多いので、茲にその総てを挙げることは出来ぬが、一つだけ掲げると、「能州名跡志」巻一に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 羽咋郡富来より二里の間八百比丘尼の植し椿原といふあり。按ずるに若狭の白比丘尼の旧跡は所々にあり。是は伊勢国白子の産故に、白比丘尼とも、又八百比丘尼とも云ふ。又越中黒部の庄玉椿の産とも云へり（中略）。廻国して若狭の白椿山にありしとて今に絵像あり。手に椿の枝を持てり（中山曰。椿の枝を持つことが、尼の巫女であった一証である。注意せられたい）云々。土地の伝に、昔越中黒部川港に玉椿の里とて幽なる所あり、以前は玉椿千軒とて繁昌なる土地なりしが、ここの里長友と共に上洛の途中武士と道連れとなれり。此武士は越後国妙高山の麓に住む三越左衛門といふ千年経たる狐なり。馳走すべしとて長を伴ひ往き、人魚の料理を出す、長は食はず、長の友は懐中して帰宅し、其女土産と思ひて食し八百比丘尼となる（中略）。又能登国鳳至郡縄又村の産れとも云ふ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。人魚を食わせたものを、非類の狐にするとは、伝説を合理化しようとした、昔の人の苦心するところである。佐渡国佐渡郡羽茂村大字大石字田屋に、八百比丘尼誕生の屋敷跡というがある。昔庚申待の折に、田屋の爺さんが、人魚の肉を持ち帰り、家の少女に食わせたのであると伝えている〔一一〕。因幡国岩美郡には八百比丘尼の生地を二ヶ所伝えている。前者は稲葉村大字卯垣の古城主が、河狩のとき竹ヶ淵で人魚を獲て食し歿したが、その後落城の折に男子は悉く討死し、女子一人残りて長寿を保ったと云い、後者は面影村大字正蓮寺の老婦が、人魚の馳走を持ち帰り、娘が食って八百比丘尼となったと云うている〔一二〕。父が食って娘が長生したという話も可笑しいが、更に此の事を記した著者が、『惣じて比丘尼屋敷又は比丘尼城など云ふは、国中所々にあり、皆毛無山の俗称なり』と論じているのも、比丘尼と称する者が漂泊し土着したことを閑却した説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
紀伊国那賀郡丸栖村大字丸栖の村老相伝えて、八百比丘尼は、此の村の産と云うている。今その証拠となるべきは何も無いが、此の事は若狭でも信じていると云う〔一三〕。土佐国高岡郡須崎村多之郷の鴨神社の華表の傍に、八百比丘尼の塔というがある。白鳳年間の事であるが、漁人が大坊海で人魚を獲て娘が食い、長寿を享け、諸国を遍歴し、若狭に留りしが、後に帰郷して死んだ〔一四〕。筑後国山門郡東山村字本吉の俚伝に、奈良朝頃に唐人竹本翁というが住み、その娘が同郡舞鶴城主牡丹長者に仕えた。或る時、肥後の桑原長者から稀有の螺貝の肉を贈ったのを、娘盗み食って長寿を保ち、一良人に二三十年。又は六七十年仕えしも、合計二十余人の多きに達したという〔一五〕。此の話は「仙女物語」の骨子となっているのであるが、それを言い出すと長くなるので割愛する。猶お筑前遠賀郡芦屋町庄ノ浦にも、長寿貝を食った八百比丘尼系の伝説を載せているが〔一六〕、これも埒外に出るので省略した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二の白比丘尼と称した事は、既載のうち伊勢、若狭、能登の記事にも見えているが、まだ此外にも存している。相模国足柄下郡元箱根塞ノ河原に白比丘尼の墓がある。文字数十字を鐫れど漫滅して読めぬ。武蔵国足立郡植田谷領にも白比丘尼の旧蹟が残っているそうだ〔一七〕。伊勢国鈴鹿郡関町の地蔵堂に、白比丘尼が宝蔵寺と自筆した額が什物として残っている〔一八〕。詮索したら、猶お幾らでも出て来ると思うが、此の事は八百比丘尼の一名を白比丘尼と称したという点が明確になりさえすれば、宜しいのであるから、今は詮索の手を余り延さぬ事とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三の人魚を食ったという点であるが、これは既記の如く、多数はこれに一致し、僅に九穴貝と螺貝を食ったというのが一二あるだけゆえ、これも深い詮索は差控えるとする。殊に伝説の本筋から言えば、人魚でも長寿貝でも、更に林道春の考えた如く肉芝であっても差支はなく、要するに、長命を合理化させんために、異物を食したことに仮托したまでのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四は尼の長寿の年数であるが、神社考には四百歳と云い、他は概して八百歳と云い、然も八百比丘尼の名の起りは、此の年寿に由るものだと称している。此の問題も、武内宿禰の三百六十歳や、浦嶋の年の数と同じく、四百歳というも、八百歳と云うも、伝説のことゆえどうでも宜しいのであるが、更に考えて見なければならぬ事は、八百比丘尼の名の由来が、果して年寿から負うたものか否かという点である。曾て南方熊楠氏は、これに就いて、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 八百比丘尼ということ、劉宋天竺三蔵求那跋陀羅訳「菩薩方便境界神通変化経」中巻に、世尊説是経時、八百比丘尼脱優多羅僧衣以奉上仏云々。文字麁なる時代には、こんな事を説解して、八百人を八百歳と合点し伝説出来しかとも覚ゆ。&amp;lt;u&amp;gt;しめじ&amp;lt;/u&amp;gt;が原の&amp;lt;u&amp;gt;さしもぐさ&amp;lt;/u&amp;gt;は衆生の事なるを（中山曰。此の歌は新古今集に清水観音の詠としてある）、&amp;lt;u&amp;gt;しめじ&amp;lt;/u&amp;gt;が原の艾は名産と心得、例の瀉をなみから片男波も名所となり、蜀山人の書きしものに、松年という女郎に&amp;lt;u&amp;gt;きかばや&amp;lt;/u&amp;gt;という舞妓も出来し由の類か〔一九〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南方氏一流の考察を試みられているが、私は別に稚見を有しているので、後で纏めて述べる事とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して尼の在世時代に就いては、諸説全く区々としている。遠く奈良朝の白鳳年間というのがあるかと思えば、或は近く江戸期の元文年中というのもあり、更に越後柏崎町の十字街路にある石仏には、「大同二年八百比丘尼建之」と彫刻して、今に文字鮮明なりと云っている〔二〇〕。殊に馬鹿げたものには、尼が若狭に居るとき、源義経主従が山伏姿となって、奥州へ落ちて行くのを、目撃したという話の伝えられていることであるが〔二一〕、これ等は共に、伝説が持ち運ぶ人により、移し植えられた所により、如何ようにも変化し、成長するものであるということを示唆する以外には、学問上、さして価値のある問題ではない。要するに此の伝説は、室町期において大成されたものと思えば、間違いないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私案を記す前に、猶お八百比丘尼の足跡が、如何に広汎に印されているかに就いて、極めて大略だけを（前載の地方と重複するものは省筆して）述べて置きたい。これは中古の巫女が、漂泊生活を送った旁証として、多少の参考となるものと信ずるからである。武蔵国には、此の尼の由縁の地が数十ヶ所ほどあるが、殊に有名なのは、北豊嶋郡瀧野川町大字中里に庚申ノ碑三基あるが、その中央に建てるは、尼の建てし古碑と称し、高さ四尺ほどある。又これより東北十丁余の田の中に、雑木の茂れる森があるが、俗に比丘尼山と云い、八百比丘尼の屋敷跡と伝えている〔二二〕。北足立郡新郷村大字峰の八幡宮の境内に、銀杏の老樹がある。尼の手植えと云い、更に尼は同郡貝塚村の人とも云うている〔二三〕。猶お此の外に、尼の守護仏であった寿地蔵を祀った土地もあるが省略する。下総国海上郡椎柴村大字猿田に、比丘杉とて樹齢一千年以上を経た老木がある。八百比丘尼が植えた物と伝えていたが、明治三十八年六月に伐採された〔二四〕。駿河国沼津市に八百姫明神というがある。来由未詳だが、一説には尼と関係あるとも云う〔二五〕。隠岐国には尼の手植えの杉が三本あったが、その中一本大風に吹き折られ、その木だけで一宮の本社拝殿の普請が出来たと云われている〔二六〕。まだ各地に残っているが、概略にとどめて、愈々結論に入るとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて長々と書きつづけて来た八百比丘尼の正体は、聡明なる読者は既に気付かれたことと思うが、一言にして云えば、オシラ神を呪神とした熊野比丘尼の、漂泊生活の伝説化に外ならぬのである。オシラ神の発生や、分布に就いては、後に述べるが、此の尼が古く白比丘尼と称したとあるのは、即ちシラ神を呪力の源泉として捧持したのに所以するのである。それを白の字を充て嵌めたために、伊勢の白子で生れたとか、更に白ッ子と称する女性で、何年たっても処女の如しとか云う伝説を生むようになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尼が長寿を保ったと云うのに就いては、室町期において発生した他の長寿譚を併せ考えて見る必要がある。これに関しては、既に柳田国男先生が説かれた如く、常陸坊海尊、残夢和尚、鬼三太等が、三百年五百年の長命をしたという物語が、一般民衆の間に歓迎されていたことである〔二七〕。然るに、オシラ神を持って諸国を漂泊した白比丘尼が若狭国の八百姫神社に附会されるようになった。「塩尻」巻五に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 俗間に八百比丘尼の影とて、小児の守にも入れるものあり、これ何人ぞ。曰く八百姫明神の事なり、祠若州小浜に有り、姫の歌に「若狭路や白玉椿八千代へて、またも越しなむ&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;矢田坂&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;かは」その縁起は実に妖妄の事なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある如く、これに附会されると同時に、一方長寿譚の影響を受けて、ここに八百姫から思いついた八百歳説が唱えられるようになり、更に長寿を合理的に考えさせるために人魚や九穴貝のことが〔二八〕、段々と工夫され、追加されるようになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
室町期は、暗黒時代と云われるだけに、民衆は政治的にも、経済的にも、塗炭の苦杯を続けざまに満喫させられた。それだけに迷信が猖んであって、巫覡の徒はその間隙に乗じて跋扈跳梁した。江戸期から明治期の後半まで民間に行われていた有らゆる迷信は、殆んど室町期に大成されたものであって、我国の迷信史においては、平安期と対立して重要なる位置を占め、殊に前者が貴族的であるに反して、後者が民衆的であっただけに、一段と関心すべき内容を有しているのである。斯うした世相において、巫覡の徒が、民間信仰に培われた八百比丘尼を利用し、これを言い立てて、漂泊と収入の便としたことは見易いことである。「康富紀」文安六年五月の条に『若狭白比丘尼上洛、又東国比丘尼於洛中致談議事』と記し（中山曰。目録のみ本文は欠けている）、更に「臥雲日件録」文安六年七月二十六日の条に『近時八百歳老尼、若州より洛に入る。洛中のもの争ひ観んとす。堅く居るところの門戸を閉て、人に容易く看せしめず、かかれば貴者は百銭を出し、賤者は十銭を出す、然らざれば門に入ることを許さず』とあるのは〔二九〕、全く伝説を利用した計画の図星に当ったものと云えるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して此の尼が手にした椿（又尼が植えたという椿山は既記の能登の外にも各地にある）こそ、古き熊野神が諾尊の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;唾液&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツバキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;から化生した事を象徴したものであって、然も此の椿が（我国のと支那のと同字異木である事は既述した）嘉樹瑞木としてよりは、更に我国における生命の木とまで信仰されるようになったので、これを持つことが、彼女の巫女であったことを物語っているのである。猶お、八百比丘尼と対立して考うべきものに、七難の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;揃毛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ソソゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を有した巫女の在ったことである。これは[[日本巫女史/第二篇/第五章/第三節|後段]]に述べるが、彼之を参照するとき、此の種の巫女が室町期に出現するのも、決して偶然でないことが知られるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 山崎翁の説は「海録」に、西川翁の説は「上毛及び上毛人」に連載された。西川翁には、生前二三度お目にかかったこともあるが、私の所謂ブルジョア神道の、更に化石したような説の持主であった。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 「本朝神社考」は、原本は漢文であるが、ここに「大日本風教叢書」本の訳文を引用した。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 「新編会津風土記」巻五十五。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「岐阜県益田郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 朝日夕日の歌が、墓所の地相を詠じたものであることは、故坪井正五郎氏が夙に「東京人類学会雑誌」で論じている。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 「美濃国稲葉郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 青萱の箸、竹の箸、南天の箸など、箸に関する俗信は多く存している。併し今はそれを言わぬこととする。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 「飛騨遺乗合府」。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 「温故の栞」第十八篇。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 「増補播陽俚翁説」。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 「日本伝説叢書」佐渡之巻。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 「因幡志」。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 「紀伊続風土記」巻三十五。&lt;br /&gt;
; 〔註一四〕 : 「土佐古跡巡覧録」。&lt;br /&gt;
; 〔註一五〕 : 「耶馬台探見記」。&lt;br /&gt;
; 〔註一六〕 : 「諸家随筆集」（鼠璞十種本）。&lt;br /&gt;
; 〔註一七〕 : 「新編相模風土記稿」巻二十七。&lt;br /&gt;
; 〔註一八〕 : 「参宮図絵」巻上。&lt;br /&gt;
; 〔註一九〕 : 「南方来書」巻十（明治四十五年四月十二日附）。&lt;br /&gt;
; 〔註二〇〕 : 「笈埃随筆」巻八（日本随筆大成本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二一〕 : 「提醒紀談」巻四（同上）。&lt;br /&gt;
; 〔註二二〕 : 「十方庵遊歴雑記」四編下（江戸叢書本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二三〕 : 「新編武蔵風土記稿」巻一三八。&lt;br /&gt;
; 〔註二四〕 : 「千葉県海上郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註二五〕 : 「駿河志料」巻六十二。&lt;br /&gt;
; 〔註二六〕 : 「西遊記続篇」巻一（帝国文庫本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二七〕 : 「雪国の春」の附録「東北文学の研究」に見えている。&lt;br /&gt;
; 〔註二八〕 : 九穴貝の俗信も古くからあった。「雲陽秘事記」によると、出雲大社の御神体もこれだとある。元より信用すべき限りでないが、こうした俗信のあったという証拠だけにはなる。&lt;br /&gt;
; 〔註二九〕 : 「臥雲日件録」の分は、カードを蔵いなくしたので、前載の「提醒紀談」巻八から転載した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80&amp;diff=1291</id>
		<title>日本巫女史/第二篇/第四章/第三節</title>
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		<updated>2009-10-01T14:37:45Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第四章|第四章　巫女の漂泊生活と其の足跡]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第三節　漂泊巫女の代表的人物八百比丘尼==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
若狭国の八百比丘尼——苟くも我国の民間伝承に興味を有った者で、更に巫女の考察に趣味を有った者で、恐らく此の名を知らぬ者は無かろうと思われるほどの有名な人物であるが、さてその正体はと云うと、恐らく誰でも突き留めた者は無いというほどの厄介な人物なのである。これに関しては、古く山崎美成翁も記述を残し、近くは西川玉壺翁も考証を試みたが〔一〕、前者は断片的で報告にとどまり、後者は言筌に落ちて、失敗に終った。私は此の怪談に包まれた八百比丘尼こそ、漂泊巫女の代表的人物と考えているので、茲にやや詳しく短見を述べるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八百比丘尼の伝説は、室町期に大成されたものであるが、その出自が、怪奇を極めている上に、此の伝説を運搬したものが、漂泊をつづけた巫女だけに、殆んど全国に分布されている。加之、運搬の際に、幾らづつか語り&amp;lt;u&amp;gt;ゆが&amp;lt;/u&amp;gt;めたものも見え、時により、処により、話の筋に多少の出入があって、頗る複雑なものとなってしまった。さればと言うて、その伝説を一々挙げて、これが異同を究めるのは、容易なことではないし、又それ迄に広く探す必要もあるまいと信ずるので、先ず伝説の本筋とも見るべきものを示し、これを基調として、二三の異説を対照して、次に私見を述べるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
林道春の「本朝神社考」巻六都良香の条に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 余が先考嘗て語りて曰く、伝へ聞く、若狭の国に白比丘尼と号するものあり、其父一旦山に入りて異人に遇ふ、与に倶に一処に到る殆ど一天地にして、別世界なり。其の人一物を与えて曰く、是れ人魚なり、之を食するときは年を延で老いずと、父携へて家に帰る、その女子、迎へ歓んで衣帯を取る、因りて人魚を袖に得て乃ち之を食ふ{蓋し肉芝/の類か}女子寿四百余歳、所謂る白比丘尼是なり、余幼齢にして此事を聞きて忘れず云々〔二〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのが、先ず伝説の本筋である。若者道春が幼齢で此事を聞くとあるのは、室町期の末葉天正十五六年の交と思われるので、此の頃は既に立派に伝説は完成されていたのであろう。尤も八百比丘尼が京都へ来て俗信を集めたことは、信用すべき史料なる「康富紀」及び「臥雲日件録」の文安六年五月から七月までの記事に見えているので、此の比丘尼の出没は、天正頃よりは更に百五六十年も前のことであるのは疑いないが、その伝説がやや纏って物の本に記されたのは、神社考が最古のように考えたので、先ずこれを典拠として説を試みる次第なのである。而してこれに由ると、（一）若狭国の生れであって、（二）白比丘尼と称したこと、（三）人魚を食うて長寿を保ち、（四）四百歳を生存したことが知られるのであるが、然るに是等に就ては、その一々に異説があるので、それを掲げて見ようと思う。元々、巫女が持ち歩いた伝説に過ぎぬものを、力瘤を入れて詮議するのも心無いことのように考える者もあるかも知れぬが、巫女の漂泊者が、極めて小さな意味の文化ではあるが、伝説や歌謡や物語などを、足跡のとどまる所に植えつけて往ったことを知る上に、相当の意義が潜んでいると信ずるので、敢て此の態度を執るとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一の生地に就いては、若狭というのが通説となっているが、併し「若狭郡県志」にも「向若録」（同国の地誌）にも、八百比丘尼は遠敷郡の後瀬山麓の空印寺にある洞窟に隠栖したとは記してあるが、決して同国で生れたとは載せてない。「勢陽五鈴遺響」鈴鹿郡平野村八百比丘尼塚の条に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 白比丘尼俗に八百比丘尼と称す、若狭に神に祭りて八百姫神明と崇めたり、和漢三才図会引若狭国風土記云、昔此国有男女、為夫婦共長寿、人不知其年齢、容貌若如少年、後為神今一宮是也、因称若狭国云々。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と載せてあるが、流布本の三才図会にはかかる記載なく、且つ若狭風土記などいう書物は寡見に入らぬ。よし又、これが記載してあったとしても、単にこれだけでは、若狭生れの証拠とはならぬ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
然るにこれに反して、若狭以外の生地に就いては、段々と各地に資料が残されている。奥州会津地方の俗伝によれば、秦勝道なるもの、元明朝の和銅元年に岩代国耶摩郡金川村に来て、里長の娘と相馴れて、養老二年元朝に一女を儲けた。勝道予て庚申を崇信し、村の父老を集めて庚申講を営むと、或日、駒形岩の辺りなる鶴淵から龍神が出て、大衆を饗応した。その中に九穴ノ貝あり、人怪んで食わず、道に棄てたのを、勝道拾って帰宅し、女それを食して（中山曰。人魚でないことに注意されたい）長寿を保ち、八百比丘尼となった〔三〕。美濃国益田郡馬瀬村大字中切に治郎兵衛という酒屋があった。龍宮に至り「キキミミ」と称する虫鳥獣の物言うことを聴き分けるものを貰って来た所、その娘がこれを開き、中にあった人魚の肉を食い、八百年の長寿を得て、諸国を遍歴した。死ぬるときに、黄金の綱三把を埋め、杉を折って墓標とし、『漆千杯、朱千杯、朝日輝き夕日うつらふ其木の下に、黄金の綱三把あり』と記して死んだ。杉の木は枯れたが、根は今に残っている〔四〕。此の末節の謎のような歌は、墓所の地相を詠んだもので〔五〕、後から比丘尼に附会した話である。同国稲葉郡蘇原村字三柿野に、昔アサキと云う長者があり、娘一人を残して死んだ。娘は麻木の箸で食事をなし、その箸に付いた飯粒を池魚に施した功徳で、八百歳の永生きをした。後に各務村に住み、古跡今尚六字の名号の碑を存している〔六〕。此の話も箸信仰に関するものを〔七〕、後人が継ぎ合せたもので、前の話とともに、八百比丘尼の伝説としては価値の少いものである。飛騨国吉城郡阿曾布村大字麻生野字森之下で、八百比丘尼は生れたもので、本名は道春というた。同郡上宝村大字在家の桂本神社にある七本杉は、比丘尼が鎌倉から持ち来って栽えたものである。根は一本で、六尺ばかりのところで七本に分れ、根の囲り十抱えある大杉で二本ある〔八〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから越後国三嶋郡寺泊町大字野積字岩脇の漁家納屋事高津某に一女があった。妖色仙姿にして、年を経るも齢傾かず、常に十六七歳の処女に等しく、三十九度他家へ嫁し（中山曰。婚数が諸書必ずしも一致しない点に、伝説の成長という事が考えられる）、後に剃髪して諸国を巡り、若狭小浜の空印寺境内に草庵を結んで止住した。既に八百年を生存するも、処女の如かりし故に、八百比丘尼と称した。諸方の候伯に召されて、往事を語るに確然たり、世に八百比丘尼物語という書物がある。尼は天然に死ぬことが出来ぬと悟り、元文年中境内に入定し遺品がある。尼の生家は、高津金五郎と称し現存し、遺物とて越後の古絵図一枚ある〔九〕。此の伝説は、八百比丘尼が名の如く八百年生きたものと信じて書いたところに、古人の質朴さが窺われ、且つ尼の生家が残っているなどは、益々以て面白いことである。伝説と歴史との相違を判然と知らなかった著者には、無理もないことであるが、それにしても元文といえば僅に百五十年前ばかりのころであるのに、此の不思議な尼が生きていたと信ずるとは罪の無いことである。殊に尼が天然に死す能わずと悟って入定したとは、愈々以て伝説の世人を迷わす事の大なるを感じた。播州神埼郡寺前村大字比延に、八百比丘尼が投身した場所があると伝えているが〔一〇〕、これなども余り長く生きるのに呆れて飛び込んだ所かも知れぬ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
能登国には、何故か不思議に、八百比丘尼に関する遺跡や、伝説が多いので、茲にその総てを挙げることは出来ぬが、一つだけ掲げると、「能州名跡志」巻一に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 羽咋郡富来より二里の間八百比丘尼の植し椿原といふあり。按ずるに若狭の白比丘尼の旧跡は所々にあり。是は伊勢国白子の産故に、白比丘尼とも、又八百比丘尼とも云ふ。又越中黒部の庄玉椿の産とも云へり（中略）。廻国して若狭の白椿山にありしとて今に絵像あり。手に椿の枝を持てり（中山曰。椿の枝を持つことが、尼の巫女であった一証である。注意せられたい）云々。土地の称に、昔越中黒部川港に玉椿の里とて幽なる所あり、以前は玉椿千軒とて繁昌なる土地なりしが、ここの里長友と共に上洛の途中武士と道連れとなれり。此武士は越後国妙高山の麓に住む三越左衛門といふ千年経たる狐なり。馳走すべしとて長を伴ひ往き、人魚の料理を出す、長は食はず、長の友は懐中して帰宅し、其女土産と思ひて食し八百比丘尼となる（中略）。又能登国鳳至郡縄又村の産れとも云ふ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある。人魚を食わせたものを、非類の狐にするとは、伝説を合理化しようとした、昔の人の苦心するところである。佐渡国佐渡郡羽茂村大字大石字田屋に、八百比丘尼誕生の屋敷跡というがある。昔庚申待の折に、田屋の爺さんが、人魚の肉を持ち帰り、家の少女に食わせたのであると伝えている〔一一〕。因幡国岩美郡には八百比丘尼の生地を二ヶ所伝えている。前者は稲葉村大字卯垣の古城主が、河狩のとき竹ヶ淵で人魚を獲て食し歿したが、その後落城の折に男子は悉く討死し、女子一人残りて長寿を保ったと云い、後者は面影村大字正蓮寺の老婦が、人魚の馳走を持ち帰り、娘が食って八百比丘尼となったと云うている〔一二〕。父が食って娘が長生したという話も可笑しいが、更に此の事を記した著者が、『惣じて比丘尼屋敷又は比丘尼城など云ふは、国中所々にあり、皆毛無山の俗称なり』と論じているのも、比丘尼と称する者が漂泊し土着したことを閑却した説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
紀伊国那賀郡丸栖村大字丸栖の村老相伝えて、八百比丘尼は、此の村の産と云うている。今その証拠となるべきは何も無いが、此の事は若狭でも信じていると云う〔一三〕。土佐国高岡郡須崎村多之郷の鴨神社の華表の傍に、八百比丘尼の塔というがある。白鳳年間の事であるが、漁人が大坊海で人魚を獲て娘が食い、長寿を享け、諸国を遍歴し、若狭に留りしが、後に帰郷して死んだ〔一四〕。筑後国山門郡東山村字本吉の俚伝に、奈良朝頃に唐人竹本翁というが住み、その娘が同郡舞鶴城主牡丹長者に仕えた。或る時、肥後の桑原長者から稀有の螺貝の肉を贈ったのを、娘盗み食って長寿を保ち、一良人に二三十年。又は六七十年仕えしも、合計二十余人の多きに達したという〔一五〕。此の話は「仙女物語」の骨子となっているのであるが、それを言い出すと長くなるので割愛する。猶お筑前遠賀郡芦屋町庄ノ浦にも、長寿貝を食った八百比丘尼系の伝説を載せているが〔一六〕、これも埒外に出るので省略した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二の白比丘尼と称した事は、既載のうち伊勢、若狭、能登の記事にも見えているが、まだ此外にも存している。相模国足柄下郡元箱根塞ノ河原に白比丘尼の墓がある。文字数十字を鐫れど漫滅して読めぬ。武蔵国足立郡植田谷領にも白比丘尼の旧蹟が残っているそうだ〔一七〕。伊勢国鈴鹿郡関町の地蔵堂に、白比丘尼が宝蔵寺と自筆した額が什物として残っている〔一八〕。詮索したら、猶お幾らでも出て来ると思うが、此の事は八百比丘尼の一名を白比丘尼と称したという点が明確になりさえすれば、宜しいのであるから、今は詮索の手を余り延さぬ事とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三の人魚を食ったという点であるが、これは既記の如く、多数はこれに一致し、僅に九穴貝と螺貝を食ったというのが一二あるだけゆえ、これも深い詮索は差控えるとする。殊に伝説の本筋から言えば、人魚でも長寿貝でも、更に林道春の考えた如く肉芝であっても差支はなく、要するに、長命を合理化させんために、異物を食したことに仮托したまでのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四は尼の長寿の年数であるが、神社考には四百歳と云い、他は概して八百歳と云い、然も八百比丘尼の名の起りは、此の年寿に由るものだと称している。此の問題も、武内宿禰の三百六十歳や、浦嶋の年の数と同じく、四百歳というも、八百歳と云うも、伝説のことゆえどうでも宜しいのであるが、更に考えて見なければならぬ事は、八百比丘尼の名の由来が、果して年寿から負うたものか否かという点である。曾て南方熊楠氏は、これに就いて、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 八百比丘尼ということ、劉宋天竺三蔵求那跋陀羅訳「菩薩方便境界神通変化経」中巻に、世尊説是経時、八百比丘尼脱優多羅僧衣以奉上仏云々。文字麁なる時代には、こんな事を説解して、八百人を八百歳と合点し伝説出来しかとも覚ゆ。&amp;lt;u&amp;gt;しめじ&amp;lt;/u&amp;gt;が原の&amp;lt;u&amp;gt;さしもぐさ&amp;lt;/u&amp;gt;は衆生の事なるを（中山曰。此の歌は新古今集に清水観音の詠としてある）、&amp;lt;u&amp;gt;しめじ&amp;lt;/u&amp;gt;が原の艾は名産と心得、例の瀉をなみから片男波も名所となり、蜀山人の書きしものに、松年という女郎に&amp;lt;u&amp;gt;きかばや&amp;lt;/u&amp;gt;という舞妓も出来し由の類か〔一九〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南方氏一流の考察を試みられているが、私は別に稚見を有しているので、後で纏めて述べる事とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して尼の在世時代に就いては、諸説全く区々としている。遠く奈良朝の白鳳年間というのがあるかと思えば、或は近く江戸期の元文年中というのもあり、更に越後柏崎町の十字街路にある石仏には、「大同二年八百比丘尼建之」と彫刻して、今に文字鮮明なりと云っている〔二〇〕。殊に馬鹿げたものには、尼が若狭に居るとき、源義経主従が山伏姿となって、奥州へ落ちて行くのを、目撃したという話の伝えられていることであるが〔二一〕、これ等は共に、伝説が持ち運ぶ人により、移し植えられた所により、如何ようにも変化し、成長するものであるということを示唆する以外には、学問上、さして価値のある問題ではない。要するに此の伝説は、室町期において大成されたものと思えば、間違いないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私案を記す前に、猶お八百比丘尼の足跡が、如何に広汎に印されているかに就いて、極めて大略だけを（前載の地方と重複するものは省筆して）述べて置きたい。これは中古の巫女が、漂泊生活を送った旁証として、多少の参考となるものと信ずるからである。武蔵国には、此の尼の由縁の地が数十ヶ所ほどあるが、殊に有名なのは、北豊嶋郡瀧野川町大字中里に庚申ノ碑三基あるが、その中央に建てるは、尼の建てし古碑と称し、高さ四尺ほどある。又これより東北十丁余の田の中に、雑木の茂れる森があるが、俗に比丘尼山と云い、八百比丘尼の屋敷跡と伝えている〔二二〕。北足立郡新郷村大字峰の八幡宮の境内に、銀杏の老樹がある。尼の手植えと云い、更に尼は同郡貝塚村の人とも云うている〔二三〕。猶お此の外に、尼の守護仏であった寿地蔵を祀った土地もあるが省略する。下総国海上郡椎柴村大字猿田に、比丘杉とて樹齢一千年以上を経た老木がある。八百比丘尼が植えた物と伝えていたが、明治三十八年六月に伐採された〔二四〕。駿河国沼津市に八百姫明神というがある。来由未詳だが、一説には尼と関係あるとも云う〔二五〕。隠岐国には尼の手植えの杉が三本あったが、その中一本大風に吹き折られ、その木だけで一宮の本社拝殿の普請が出来たと云われている〔二六〕。まだ各地に残っているが、概略にとどめて、愈々結論に入るとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて長々と書きつづけて来た八百比丘尼の正体は、聡明なる読者は既に気付かれたことと思うが、一言にして云えば、オシラ神を呪神とした熊野比丘尼の、漂泊生活の伝説化に外ならぬのである。オシラ神の発生や、分布に就いては、後に述べるが、此の尼が古く白比丘尼と称したとあるのは、即ちシラ神を呪力の源泉として捧持したのに所以するのである。それを白の字を充て嵌めたために、伊勢の白子で生れたとか、更に白ッ子と称する女性で、何年たっても処女の如しとか云う伝説を生むようになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尼が長寿を保ったと云うのに就いては、室町期において発生した他の長寿譚を併せ考えて見る必要がある。これに関しては、既に柳田国男先生が説かれた如く、常陸坊海尊、残夢和尚、鬼三太等が、三百年五百年の長命をしたという物語が、一般民衆の間に歓迎されていたことである〔二七〕。然るに、オシラ神を持って諸国を漂泊した白比丘尼が若狭国の八百姫神社に附会されるようになった。「塩尻」巻五に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 俗間に八百比丘尼の影とて、小児の守にも入れるものあり、これ何人ぞ。曰く八百姫明神の事なり、祠若州小浜に有り、姫の歌に「若狭路や白玉椿八千代へて、またも越しなむ&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;矢田坂&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ママ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;かは」その縁起は実に妖妄の事なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある如く、これに附会されると同時に、一方長寿譚の影響を受けて、ここに八百姫から思いついた八百歳説が唱えられるようになり、更に長寿を合理的に考えさせるために人魚や九穴貝のことが〔二八〕、段々と工夫され、追加されるようになったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
室町期は、暗黒時代と云われるだけに、民衆は政治的にも、経済的にも、塗炭の苦杯を続けざまに満喫させられた。それだけに迷信が猖んであって、巫覡の徒はその間隙に乗じて跋扈跳梁した。江戸期から明治期の後半まで民間に行われていた有らゆる迷信は、殆んど室町期に大成されたものであって、我国の迷信史においては、平安期と対立して重要なる位置を占め、殊に前者が貴族的であるに反して、後者が民衆的であっただけに、一段と関心すべき内容を有しているのである。斯うした世相において、巫覡の徒が、民間信仰に培われた八百比丘尼を利用し、これを言い立てて、漂泊と収入の便としたことは見易いことである。「康富紀」文安六年五月の条に『若狭白比丘尼上洛、又東国比丘尼於洛中致談議事』と記し（中山曰。目録のみ本文は欠けている）、更に「臥雲日件録」文安六年七月二十六日の条に『近時八百歳老尼、若州より洛に入る。洛中のもの争ひ観んとす。堅く居るところの門戸を閉て、人に容易く看せしめず、かかれば貴者は百銭を出し、賤者は十銭を出す、然らざれば門に入ることを許さず』とあるのは〔二九〕、全く伝説を利用した計画の図星に当ったものと云えるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して此の尼が手にした椿（又尼が植えたという椿山は既記の能登の外にも各地にある）こそ、古き熊野神が諾尊の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;唾液&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツバキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;から化生した事を象徴したものであって、然も此の椿が（我国のと支那のと同字異木である事は既述した）嘉樹瑞木としてよりは、更に我国における生命の木とまで信仰されるようになったので、これを持つことが、彼女の巫女であったことを物語っているのである。猶お、八百比丘尼と対立して考うべきものに、七難の&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;揃毛&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ソソゲ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;を有した巫女の在ったことである。これは[[日本巫女史/第二篇/第五章/第三節|後段]]に述べるが、彼之を参照するとき、此の種の巫女が室町期に出現するのも、決して偶然でないことが知られるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 山崎翁の説は「海録」に、西川翁の説は「上毛及び上毛人」に連載された。西川翁には、生前二三度お目にかかったこともあるが、私の所謂ブルジョア神道の、更に化石したような説の持主であった。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 「本朝神社考」は、原本は漢文であるが、ここに「大日本風教叢書」本の訳文を引用した。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 「新編会津風土記」巻五十五。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「岐阜県益田郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 朝日夕日の歌が、墓所の地相を詠じたものであることは、故坪井正五郎氏が夙に「東京人類学会雑誌」で論じている。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 「美濃国稲葉郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 青萱の箸、竹の箸、南天の箸など、箸に関する俗信は多く存している。併し今はそれを言わぬこととする。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 「飛騨遺乗合府」。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 「温故の栞」第十八篇。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 「増補播陽俚翁説」。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 「日本伝説叢書」佐渡之巻。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 「因幡志」。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 「紀伊続風土記」巻三十五。&lt;br /&gt;
; 〔註一四〕 : 「土佐古跡巡覧録」。&lt;br /&gt;
; 〔註一五〕 : 「耶馬台探見記」。&lt;br /&gt;
; 〔註一六〕 : 「諸家随筆集」（鼠璞十種本）。&lt;br /&gt;
; 〔註一七〕 : 「新編相模風土記稿」巻二十七。&lt;br /&gt;
; 〔註一八〕 : 「参宮図絵」巻上。&lt;br /&gt;
; 〔註一九〕 : 「南方来書」巻十（明治四十五年四月十二日附）。&lt;br /&gt;
; 〔註二〇〕 : 「笈埃随筆」巻八（日本随筆大成本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二一〕 : 「提醒紀談」巻四（同上）。&lt;br /&gt;
; 〔註二二〕 : 「十方庵遊歴雑記」四編下（江戸叢書本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二三〕 : 「新編武蔵風土記稿」巻一三八。&lt;br /&gt;
; 〔註二四〕 : 「千葉県海上郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註二五〕 : 「駿河志料」巻六十二。&lt;br /&gt;
; 〔註二六〕 : 「西遊記続篇」巻一（帝国文庫本）。&lt;br /&gt;
; 〔註二七〕 : 「雪国の春」の附録「東北文学の研究」に見えている。&lt;br /&gt;
; 〔註二八〕 : 九穴貝の俗信も古くからあった。「雲陽秘事記」によると、出雲大社の御神体もこれだとある。元より信用すべき限りでないが、こうした俗信のあったという証拠だけにはなる。&lt;br /&gt;
; 〔註二九〕 : 「臥雲日件録」の分は、カードを蔵いなくしたので、前載の「提醒紀談」巻八から転載した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80&amp;diff=1290</id>
		<title>トーク:日本巫女史/第二篇/第四章/第三節</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="https://docs.miko.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80&amp;diff=1290"/>
		<updated>2009-09-30T15:14:27Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: /* メモ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.521&lt;br /&gt;
** 「寡見に入らね」を「寡見に入らぬ」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.524&lt;br /&gt;
** 「伝説を合理化そうとした」を「合理化しようとした」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.528&lt;br /&gt;
** 「満喫させられた」末尾に句点を補った。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
** 「記し（中山曰。目録のみ本文は欠けている）」末尾に読点を補った。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.530&lt;br /&gt;
** 註一四の末尾に句点を補った。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
** 註二五「巻」が書名に含まれているのを外に出した。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.520, 528&lt;br /&gt;
**「康富紀」は「康富記」ではないか。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.521&lt;br /&gt;
** 「耶摩郡」は「耶麻郡」ではないか。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;br /&gt;
* 底本 p.520&lt;br /&gt;
** 中山は白比丘尼の正体に関して、「八百比丘尼の正体は...オシラ神を呪神とした熊野比丘尼の、漂泊生活の伝説化に外ならぬ...此の尼が古く白比丘尼と称したとあるのは、即ちシラ神を呪力の源泉として捧持したのに所以する」（p.527）と結論づけている。&lt;br /&gt;
** 白比丘尼の伝説に関しては、オシラ神との関連（p.527）で考えるよりも、アルビノの少女が見せ物とされた際の口上に起因すると考えたほうが自然ではなかろうか。実際、アルビノと思しき白髪の少女が見せ物小屋に居たという記録は存在する。ただ、確かそちらは江戸時代の頃のもので、その口上も不老不死ではなく、親の因果が子に報いた結果だとされていたように記憶しているが。（書名等失念のため、後ほど確認する。）ちなみに男性で良ければ、白頭和尚の伝説が事例として挙げられよう。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
** 2008年10月9日、浦木氏との対談から着想。白比丘尼は「九十九比丘尼」の意と考えることもできる。（白は百の字に一画足りないところから。）白比丘尼も八百比丘尼も、共に大きな数（年齢？）を意味しているに過ぎないとなれば、「白」の字にそれ以上の特別の意味を求めようとする試み（オシラ神との関連性、アルビノ説、etc.）は無意味なことかも知れない。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]]&lt;br /&gt;
*** なお、巫女にとって三十三は聖数(?)であるらしい。ニコライ・ネフスキーは「常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものである」と考えたようだ。（→[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|第三篇/第二章/第二節]]）&lt;br /&gt;
**** メモ: 八卦における「坤」は漢数字「三三」と読めなくもない。何か関連はないか。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]]&lt;br /&gt;
** 本朝神社考の原文テキストは、[http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0000302OSH&amp;amp;C_CODE=FJ.896.3&amp;amp;IMG_NO=264&amp;amp;IMG_KIND=JPEG National Institute of Japanese Literature]を参考すべし。引用文は[http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0000302OSH&amp;amp;C_CODE=FJ.896.3&amp;amp;IMG_NO=266&amp;amp;IMG_KIND=JPEG 都良香伝]にある。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年10月1日 (木) 00:08 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.527&lt;br /&gt;
** 下総国海上郡椎柴村大字&amp;lt;b&amp;gt;猿田&amp;lt;/b&amp;gt;: 猿女氏との関連が推察される。なお、柳田国男はこれら漂泊の婦女を没落した猿女氏の末裔ではないかと考えていた節がある。（http://phpbb.miko.org/viewtopic.php?f=3&amp;amp;t=530 ）--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.528&lt;br /&gt;
** 俗間に八百比丘尼の影とて、小児の守にも入れるものあり: まるで鬼子母神のよう。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
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		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80&amp;diff=1289</id>
		<title>トーク:日本巫女史/第二篇/第四章/第三節</title>
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		<updated>2009-09-30T15:11:55Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.521&lt;br /&gt;
** 「寡見に入らね」を「寡見に入らぬ」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.524&lt;br /&gt;
** 「伝説を合理化そうとした」を「合理化しようとした」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.528&lt;br /&gt;
** 「満喫させられた」末尾に句点を補った。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
** 「記し（中山曰。目録のみ本文は欠けている）」末尾に読点を補った。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.530&lt;br /&gt;
** 註一四の末尾に句点を補った。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
** 註二五「巻」が書名に含まれているのを外に出した。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.520, 528&lt;br /&gt;
**「康富紀」は「康富記」ではないか。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.521&lt;br /&gt;
** 「耶摩郡」は「耶麻郡」ではないか。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;br /&gt;
* 底本 p.520&lt;br /&gt;
** 中山は白比丘尼の正体に関して、「八百比丘尼の正体は...オシラ神を呪神とした熊野比丘尼の、漂泊生活の伝説化に外ならぬ...此の尼が古く白比丘尼と称したとあるのは、即ちシラ神を呪力の源泉として捧持したのに所以する」（p.527）と結論づけている。&lt;br /&gt;
** 白比丘尼の伝説に関しては、オシラ神との関連（p.527）で考えるよりも、アルビノの少女が見せ物とされた際の口上に起因すると考えたほうが自然ではなかろうか。実際、アルビノと思しき白髪の少女が見せ物小屋に居たという記録は存在する。ただ、確かそちらは江戸時代の頃のもので、その口上も不老不死ではなく、親の因果が子に報いた結果だとされていたように記憶しているが。（書名等失念のため、後ほど確認する。）ちなみに男性で良ければ、白頭和尚の伝説が事例として挙げられよう。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
** 2008年10月9日、浦木氏との対談から着想。白比丘尼は「九十九比丘尼」の意と考えることもできる。（白は百の字に一画足りないところから。）白比丘尼も八百比丘尼も、共に大きな数（年齢？）を意味しているに過ぎないとなれば、「白」の字にそれ以上の特別の意味を求めようとする試み（オシラ神との関連性、アルビノ説、etc.）は無意味なことかも知れない。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]]&lt;br /&gt;
*** なお、巫女にとって三十三は聖数(?)であるらしい。ニコライ・ネフスキーは「常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものである」と考えたようだ。（→[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|第三篇/第二章/第二節]]）&lt;br /&gt;
**** メモ: 八卦における「坤」は漢数字「三三」と読めなくもない。何か関連はないか。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]]&lt;br /&gt;
** 本朝神社考の原文テキストは、[http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0000302OSH&amp;amp;C_CODE=FJ.896.3&amp;amp;IMG_NO=264&amp;amp;IMG_KIND=JPEG National Institute of Japanese Literature]を参考すべし。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年10月1日 (木) 00:08 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.527&lt;br /&gt;
** 下総国海上郡椎柴村大字&amp;lt;b&amp;gt;猿田&amp;lt;/b&amp;gt;: 猿女氏との関連が推察される。なお、柳田国男はこれら漂泊の婦女を没落した猿女氏の末裔ではないかと考えていた節がある。（http://phpbb.miko.org/viewtopic.php?f=3&amp;amp;t=530 ）--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.528&lt;br /&gt;
** 俗間に八百比丘尼の影とて、小児の守にも入れるものあり: まるで鬼子母神のよう。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
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		<updated>2009-09-30T15:08:35Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: /* メモ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.521&lt;br /&gt;
** 「寡見に入らね」を「寡見に入らぬ」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.524&lt;br /&gt;
** 「伝説を合理化そうとした」を「合理化しようとした」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.528&lt;br /&gt;
** 「満喫させられた」末尾に句点を補った。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
** 「記し（中山曰。目録のみ本文は欠けている）」末尾に読点を補った。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.530&lt;br /&gt;
** 註一四の末尾に句点を補った。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
** 註二五「巻」が書名に含まれているのを外に出した。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.520, 528&lt;br /&gt;
**「康富紀」は「康富記」ではないか。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.521&lt;br /&gt;
** 「耶摩郡」は「耶麻郡」ではないか。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;br /&gt;
* 底本 p.520&lt;br /&gt;
** 中山は白比丘尼の正体に関して、「八百比丘尼の正体は...オシラ神を呪神とした熊野比丘尼の、漂泊生活の伝説化に外ならぬ...此の尼が古く白比丘尼と称したとあるのは、即ちシラ神を呪力の源泉として捧持したのに所以する」（p.527）と結論づけている。&lt;br /&gt;
** 白比丘尼の伝説に関しては、オシラ神との関連（p.527）で考えるよりも、アルビノの少女が見せ物とされた際の口上に起因すると考えたほうが自然ではなかろうか。実際、アルビノと思しき白髪の少女が見せ物小屋に居たという記録は存在する。ただ、確かそちらは江戸時代の頃のもので、その口上も不老不死ではなく、親の因果が子に報いた結果だとされていたように記憶しているが。（書名等失念のため、後ほど確認する。）ちなみに男性で良ければ、白頭和尚の伝説が事例として挙げられよう。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
** 2008年10月9日、浦木氏との対談から着想。白比丘尼は「九十九比丘尼」の意と考えることもできる。（白は百の字に一画足りないところから。）白比丘尼も八百比丘尼も、共に大きな数（年齢？）を意味しているに過ぎないとなれば、「白」の字にそれ以上の特別の意味を求めようとする試み（オシラ神との関連性、アルビノ説、etc.）は無意味なことかも知れない。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]]&lt;br /&gt;
*** なお、巫女にとって三十三は聖数(?)であるらしい。ニコライ・ネフスキーは「常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものである」と考えたようだ。（→[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|第三篇/第二章/第二節]]）&lt;br /&gt;
**** メモ: 八卦における「坤」は漢数字「三三」と読めなくもない。何か関連はないか。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]]&lt;br /&gt;
** 本朝神社考の原文テキストは&amp;lt;a href=&amp;quot;http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0000302OSH&amp;amp;C_CODE=FJ.896.3&amp;amp;IMG_NO=264&amp;amp;IMG_KIND=JPEG&amp;quot; target=&amp;quot;_blank&amp;quot;&amp;gt;ここ&amp;lt;/a&amp;gt;を参考すべし。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年10月1日 (木) 00:08 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.527&lt;br /&gt;
** 下総国海上郡椎柴村大字&amp;lt;b&amp;gt;猿田&amp;lt;/b&amp;gt;: 猿女氏との関連が推察される。なお、柳田国男はこれら漂泊の婦女を没落した猿女氏の末裔ではないかと考えていた節がある。（http://phpbb.miko.org/viewtopic.php?f=3&amp;amp;t=530 ）--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.528&lt;br /&gt;
** 俗間に八百比丘尼の影とて、小児の守にも入れるものあり: まるで鬼子母神のよう。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月29日 (月) 10:39 (JST)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
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		<title>日本巫女史/第二篇/第四章/第二節</title>
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		<updated>2009-09-30T14:51:19Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第四章|第四章　巫女の漂泊生活と其の足跡]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　笈伝説に隠れた巫女の漂泊と土着==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我国には古くから、笈に納めて背負うて来た神体、又は仏像が遽に重量を加え、人力を以て動かすことが出来ぬままに、遂にその土地に祀ったという伝説が、各地に亘り、殆んど更僕にも堪えぬほど夥しく残っている。然も此の事たるや、明治中葉までは、その信仰が儼として生きていたのである。下総国匝瑳郡野田村大字野手には、法華宗六老僧の一なる日朗の出生地とて、朗生寺という巨刹がある。明治十五年中に、備中国後月郡高屋町の矢吹伊三郎なるもの悪疾を病み、廻国のため、佐渡身延等を経て房州に往かんとて、同寺に参詣せしに、背にせる笈急に重くなりて動かず、奈何ともする事が出来ぬので、止むを得ず、此地に足を留め、朗尊の霊に奉仕せんと決心し、日夜心身を尽して仏を念じ、病者のために祈祷を続けたとある〔一〕。此の話なども故日下部四郎太氏に聴かせたら、直ちに得意の力学を以て縦横に論じて、信仰にあらず、詐謀なりとでも言うたかも知れぬが〔二〕、兎に角に斯うした信仰が、大昔から民間に存していて、神も咎めず、仏も怒らず、又た人も怪しまなかったことだけは事実である。私はここに神体や仏像が動かぬままに、これを奉持した者が、笈と共にその地に土着し、又は奉祀したという類例を挙げ、此の笈伝説に隠れた巫女漂泊の故郷遠き旅の姿と、荒蕪の地を開拓して部落を作った経過を記述して見たいと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ前以て一言お断りして置かねばならぬことは、時勢の降るにつれて、巫女と修験者とが余りに接近し、余りに親密となったために、記録の上においても、両者が全く雑糅されていて、巫女のことを修験者として誤り伝えたと思うものや、これに反して修験者のことを巫女として民俗に残したと思うものがあり、更にその持物などにあっても、笈は修験者の背に負うもの、巫女は外法箱を肩に（中古の絵巻物など見ると笈を背負うた女子も多く存していた）するものと、記録の書かれた後世の事相から見て、古えも斯うであったと推定したものさえあり、かなり混雑していて今からはそれを明確に判別することは出来ぬのである。殊にその頃は、民間信仰の上からは、神と仏との境界線が殆んど撤せられていた所へ、修験は神仏道の三つを一つものとしていたし、巫女も此の影響を受けて、神も仏も無差別という有様なのであるから、神とあるも仏のことやら、仏とあるも神のことやら、これも極端に混淆していて、到底その一々を截然と識別することが出来ぬのである。それで止むなく、玉石同架といおうか、巫覡一体といおうか、兎に角に、私が巫女に関係あるものと考えたものを、雑然として列挙した点である。現在の私の学問の程度では、これ以上は企て及ばぬことゆえ、取捨は読者にお任せするとして、予め賢諒を乞う次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神体または仏像が重くなった為に、その場所に奉祀したという伝説は、余りに夥しく存しているので、ここにその総てを尽すことは思いもよらぬので、やや代表的のものだけを、奥羽、関東、中国、四国、九州にかけて抽出する。一は同じような事の陳列を控えるのは、読者を倦怠から救うことであるし、二はさらぬだに物識りぶると思われるのを避けるためであり、三は例証は数の多きよりも質の良いのが尊いと考えたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
羽後国河辺郡豊崎村大字戸嶋の戸嶋神社（祭神素尊）は、昔京都鞍馬山の林正坊なるもの不動尊を笈に入れ、諸国遍歴の途次この地に休息すると、俄に笈が重くなって動かず、遂に此地に留まって祠を建てて祀ったが、明治になってから神社と改めた〔三〕。岩代国耶摩郡月輪村大字中小松の郷社菅原神社は、俚伝に神良種という者が、此の像（高さ五寸七分の鋳物）を京都に得て、廻国の折に、此の地へ来たところ、急に重くなって動かぬので、鎮座したものである〔四〕。常陸国多賀郡松岡村大字赤浜の妙法寺の境内に、僧日弁（日蓮の俗弟という）の墓がある。法難のため、弟子達が日弁の棺を負い此処まで来ると、急に重くなったので、やむなくここに祭り寺を建てた〔五〕。千葉市の千葉神社は、古く妙見社と称していたが、領主千葉成胤の弟胤忠が家督を奪わんとして、神像を負い、往くこと数百歩にして、遽かに重くなって棄てたので、此処に社を建てて祀った〔六〕。武蔵国北埼玉郡下忍村大字下忍の薬師堂の本尊は、昔藤原秀衡の守護仏で、奥州信夫の郷に安置してあったのを、夢想により、相州鎌倉へ遷さんと同所まで来たりしに厨子重くなりて動かず、仏意なるべしとて一宇を建てた〔七〕。上野国邑楽郡羽附村大字野木前の楠木神社は、俚伝に延元二年七月四日楠氏の遺臣、小林、田部井、石井、半田、江守等が、正成の首級を笈に納め、此の地を過ぎり野中の大樹の下に到りしに、笈重くして負うこと能わず、由って此地に留り、首級を大樹の下に埋め、祠を建て野木明神と称し、遺臣も此処に土着し開村したとある〔八〕。此の話などは、下総国古河町に頼政神社を祀った縁起と、全く同巧異曲のものである〔九〕。併しながら、摘録するつもりでも、斯う書き列べて国尽しをするのでは、それこそ富士山の張りぬきを拵えるほど原稿紙を要するので、此の辺から筆を飛ばすこととする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
越後国北蒲原郡加治村大字金津新村（？）、蒲原神社の境内五社明神の社殿に、比丘比丘尼の二木像がある。昔秩父六郎重保夫婦が、源義経を慕うて此の国へ来て剃髪し、死後居宅を寺となし、白蓮寺と称した。後年寺は亡びたが、住僧は夫婦の木像を持って出羽に赴かんと、偶々此地に来たりしに、木像忽然として重きこと金石の如く、やむなくこれを五社の拝殿に置いたという〔一〇〕。能登国鳳至郡浦上村大字西円山の地蔵尊は、始め同郡鵠ノ巣村大字西大野に在ったが、或る年西円山の村民が此の地を通ると、路傍に声あって、「共に往く」と云うので、此の地蔵尊を担いて帰りしに、今まで軽かった像が、忽ち重くなって動かぬので、此処に安置した〔一一〕。越前国坂井郡棗村大字深坂に百姓半助というがあり、家に源頼光が大江山入りのとき用いたと称する、古き笈を所蔵している。此の笈の縁起二巻あるが、由来は、以前福井藩の仕士であった太田安房が、祖先の源三位頼政から伝えた此の笈と、獅子王の剣と伝えて来たのを同藩中の柳田所左衛門に譲った。所左衛門後に此の村に退いたが、半助はその玄孫である〔一二〕。これなどは、頼政がヨリマシの訛語であることを知れば、頼光大江山のもので無くして、憑り祈祷を遣った修験の物であることが直ちに釈然する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
土佐国香美郡徳王子村の若一王子神社も、永源上人という者が、紀州熊野から神体を得て厨子に入れ背負うて来たとある〔一三〕。周防国玖珂郡余田村字北迫に流恵美酒社がある。土地の伝えに、五六百年も前に、広嶋から流れ着いたもので、『ゑびす様は広い広嶋に縁が無くて、狭い田布施の田の中に』という俗謡がある〔一四〕。肥後国球摩郡上村の谷水薬師は日本七薬師の一と称されているが、此の本尊は、元奥州金華山にありしを、或る六部が背負うて廻国の途すがら、此処で像が重くなったので、祀堂を建てた〔一五〕。大隅国姶良郡牧園村大字巣窪田の熊野権現社は、大永三年の社記によると、昔異人があって、熊野三所神を笈に入れて負い来たり、岩上に安じて一夜を明し、翌朝に笈を挙げんとせしに重きこと磐石の如く、故に此の地に祀ったとある〔一六〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて以上書き列ねて来た此の種の笈伝説は、一面から見れば、巫覡の徒が漂泊に労れて、その土地に居着こうとする方便として利用したのかも知れぬが、斯うして神や仏を背にして、国々を遍歴した彼等の心情を察するとき、必ずしも利用とばかり見るのは酷で、或は現今でも行われている「おもかるさん」のような信仰が伴っていたものと信ずべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上は雑然と笈伝説を並べただけであって、此の中のどれだけが、巫女に限られたものであるかさえ、判然せぬほどであるが、今度はやや明確に巫女に、関したものを検出するとする。然るに、これに就いては、夙に柳田国男先生が「郷土研究」第一巻第八号で、卓見を発表せられているので、左にこれが要点を転載する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 巫女の旅行用具として、最重要なる物は其手箱である。此箱の中は極秘であって、見た人が無いから色々の臆説があるが（中略）、兎に角口寄の霊験は其力の源を、此箱から発していると見て宜しい（中略）。此箱の形が古今東西を通じて同じであるか否か、自分はまだ深く調べて見たのではないが（中略）、箱ならば其引出しや入れ底に少々の雑品を蔵って置いても、さして不体裁でもないから、結局、これ一つで天下を横行することが出来たのであろう。此点から見れば、男の修験者が背に負う所の笈も、巫女の手箱も目的は一つで、一所不在の伝道者が本尊を同行する方法としては、箱が一番好都合であったことは想像に難くない。&lt;br /&gt;
: 今一つ箱類の方が便利であったかと思う点は、行先々任意に樹の陰石の上などに安置して、自分も拝み人に信心させるのに手軽であったことである（中略）。やや大胆な仮想説ながら、諸国の雑神の名目にテバク（天白）サンバク（山白）ノバク（野白）などと云うのが多いのも、事によると&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;(&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シラカミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;)&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の思想に影響せられた、箱の神であったかも知れぬ。中山共古翁の説に、遠州中泉の西南に野筥という部落があって、白拍子千寿の本尊仏を安置したという千手堂及び千寿の墓又は朝顔の墓などという怪しい古跡もある。又野筥という地名は、昔能の面を埋めたのに基くと云っている（見附次第）。&lt;br /&gt;
: 巫女の口碑が、いつの間にか、小野小町、和泉式部、俊寬僧都の娘、さては大磯の虎などという古名媛の伝記に附会せられていることは、極めて普通の現象である。かの曾我兄弟の霊を思い掛けない土地に祀っているのも、大磯の虎を中に置いて考えぬと分らない。美作苫田郡上田邑の箱王谷では、俚民箱王の像を刻ませて之を祀って居た。「作陽志」には箱王は如何なる人か知らず、此辺に金丸烏帽子町などの地名があって、何か由来があるらしいとある。此も多分は大磯の虎の故事にこじつけられて居るだろう。「曾我物語」に五郎時致の童名を箱王とあるが、其動機は何であったか。箱根に成長したから箱王だと云ってもよいが、それも亦小説であったなら、どうして其趣向が浮んだかを尋ねたい。白王権現という祠は土佐に甚だ多い（南路志）。此神の王の字は王子の王で古人の幼名に何王何若の多いのが、何れも元は神のミコに擬して、其保護を仰いだのと同じく、神託を仲介すべき人の称号から移った名であろうと思う云々（中山曰。誌上には川村杳樹の匿名になっている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
柳田先生の研究に従うと、筑前箱崎八幡宮の箱松の由来や〔一七〕、若狭国の筥明神や、更に各地に在る箱清水の中からも、巫女関係のものを見出すことも出来るように思われるが、今はそれにも及ぶまいと考えたので省略する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
漂泊の旅をつづけた巫女の成る果は、好運の者でも、名もなき堂守りか、非運の者は並木の肥料となるのが落ちのようにも考えられるが、その中には神社を興す者もあり、稀には一村落を開拓して、永く草分け芝起しの土産神と仰がるる者もあった。筑前国早艮郡脇山村字子谷に十二社神社（即ち熊野十二所権現である）というがある。土地の口碑に、昔比丘尼某が紀州熊野神の分霊を奉じて此処に土着し、谷口、内野、原田、上ノ原、寺地の六部落を開拓したので、今に六部五十余戸の産土神となっている。此の比丘尼の墓は谷口に残っているが、貞観年中に椎原の下日ノ堰（轡堤ともいう）を築き水路を通じ、脇山地内八町歩、内野地内十六町歩の田に灌漑して農利に便じたということである〔一八〕。阿波郡美馬郡祖谷村は山深い片田舎であるが、俚伝に此村は、昔エイラミコと称す巫女が来て、耕耘機織の道を教えたので、今にそれを祀った祠堂が存している〔一九〕。讃岐国小豆郡坂手村も、大昔にセセ御前と土人がいう巫女が来て、開拓したのが村の始まりだといわれている〔二〇〕。飛騨の牛蒡種と称する憑き物の本場である双六谷の部落なども、又かかる人物が土着開拓したものと思うが、既に此の事は管見を発表したことがあるので割愛する〔二一〕。村々の開発とか産業（殊に製紙事業）の発達とかいう点と、巫女の関係を究めることも興味の多い問題ではあるが、今は此の程度にとどめるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本節を終るに際し、開村の序に一言すべきことがある。それは、大昔の農民が他村に移住し、又は居屋敷を潰して社地とする際に、信託を受ける信仰の存した事である。安芸国安芸郡倉橋嶋の農民が、享保十五年正月に鹿老渡へ移住を企て、有志三十六人相談して里正に訴え、里正吉凶を神意に問わんとて、同二月一同打揃って八幡神社に詣で、神官藤村大和は、神社の舞台において、白刃を持って舞うこと久しく（これを御託の舞と云う。猶お刃戟を持って舞うことの起源は、巫女の呪術と交渉があるのだが、それを言うと長くなるので省略する）やがて神の告げ吉なりとて衆議一決して移住した〔二二〕。越後国蒲原郡芹田村に、昔吉見御所という貴人が暫らく居住した。後に此の御所跡を神慮に任せんとて、氏神熊野神社の神主式部太夫朝日ノ御子という者に命じ、阿気淵という所にて神託を乞わしめ、その神告により、高出村に移住し、居地には若宮を祀った〔二三〕。巫女が民間信仰に深い交渉を有していたことは、此の一言を以ても容易に知られるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 「千葉盛衰記」。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 故日下部氏は、御輿荒れを力学から説いた遍痴奇論者であった。その顛末と日下部氏の謬見であったこととは「祭礼と世間」（炉辺叢書本）に詳しく載っている。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 「河辺郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「福島県耶摩郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 「多賀郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 「新撰佐倉風土記」。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 「新編武蔵風土記稿」巻二一六。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 「群馬県邑楽郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 「許我志」に載せてある。これには渡辺競が頼政の首級を負うて来たとある。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 「越後野志」巻九。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 「鳳至郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 「越前国名蹟考」巻一〇。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 「諸神社録」。&lt;br /&gt;
; 〔註一四〕 : 「郷土研究」第三巻第十一号。&lt;br /&gt;
; 〔註一五〕 : 「球磨郡郷土誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註一六〕 : 「三国名所図絵」巻四十。&lt;br /&gt;
; 〔註一七〕 : 「筑前続風土記」巻十八参照。&lt;br /&gt;
; 〔註一八〕 : 「早良郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註一九〕 : 「美馬郡郷土誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註二〇〕 : 「讃岐史」初篇。&lt;br /&gt;
; 〔註二一〕 : 拙著「日本民俗志」所収の「牛蒡種という憑き物の研究」参照。&lt;br /&gt;
; 〔註二二〕 : 「倉橋島志」。&lt;br /&gt;
; 〔註二三〕 : 旧会津藩領の事を書いた「新編会津風土記」巻一〇二。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80&amp;diff=1286</id>
		<title>日本巫女史/第二篇/第四章/第二節</title>
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		<updated>2009-09-30T09:34:34Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第四章|第四章　巫女の漂泊生活と其の足跡]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第二節　笈伝説に隠れた巫女の漂泊と土着==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我国には古くから、笈に納めて背負うて来た神体、又は仏像が遽に重量を加え、人力を以て動かすことが出来ぬままに、遂にその土地に祀ったという伝説が、各地に亘り、殆んど更僕にも堪えぬほど夥しく残っている。然も此の事たるや、明治中葉までは、その信仰が儼として生きていたのである。下総国匝瑳郡野田村大字野手には、法華宗六老僧の一なる日朗の出生地とて、朗生寺という巨刹がある。明治十五年中に、備中国後月郡高屋町の矢吹伊三郎なるもの悪疾を病み、廻国のため、佐渡身延等を経て房州に往かんとて、同寺に参詣せしに、背にせる笈急に重くなりて動かず、奈何ともする事が出来ぬので、止むを得ず、此地に足を留め、朗尊の霊に奉仕せんと決心し、日夜心身を尽して仏を念じ、病者のために祈祷を続けたとある〔一〕。此の話なども故日下部四郎太氏に聴かせたら、直ちに得意の力学を以て縦横に論じて、信仰にあらず、詐謀なりとでも言うたかも知れぬが〔二〕、兎に角に斯うした信仰が、大昔から民間に存していて、神も咎めず、仏も怒らず、又た人も怪しまなかったことだけは事実である。私はここに神体や仏像が動かぬままに、これを奉持した者が、笈と共にその地に土着し、又は奉祀したという類例を挙げ、此の笈伝説に隠れた巫女漂泊の故郷遠き旅の姿と、荒蕪の地を開拓して部落を作った経過を記述して見たいと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ前以て一言お断りして置かねばならぬことは、時勢の降るにつれて、巫女と修験者とが余りに接近し、余りに親密となったために、記録の上においても、両者が全く雑糅されていて、巫女のことを修験者として誤り伝えたと思うものや、これに反して修験者のことを巫女として民俗に残したと思うものがあり、更にその持物などにあっても、笈は修験者の背に負うもの、巫女は外法箱を肩に（中古の絵巻物など見ると笈を背負うた女子も多く存していた）するものと、記録の書かれた後世の事相から見て、古えも斯うであったと推定したものさえあり、かなり混雑していて今からはそれを明確に判別することは出来ぬのである。殊にその頃は、民間信仰の上からは、神と仏との境界線が殆んど撤せられていた所へ、修験は神仏道の三つを一つものとしていたし、巫女も此の影響を受けて、神も仏も無差別という有様なのであるから、神とあるも仏のことやら、仏とあるも神のことやら、これも極端に混淆していて、到底その一々を截然と識別することが出来ぬのである。それで止むなく、玉石同架といおうか、巫覡一体といおうか、兎に角に、私が巫女に関係あるものと考えたものを、雑然として列挙した点である。現在の私の学問の程度では、これ以上は企て及ばぬことゆえ、取捨は読者にお任せするとして、予め賢諒を乞う次第である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神体または仏像が重くなった為に、その場所に奉祀したという伝説は、余りに夥しく存しているので、ここにその総てを尽すことは思いもよらぬので、やや代表的のものだけを、奥羽、関東、中国、四国、九州にかけて抽出する。一は同じような事の陳列を控えるのは、読者を倦怠から救うことであるし、二はさらぬだに物識りぶると思われるのを避けるためであり、三は例証は数の多きよりも質の良いのが尊いと考えたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
羽後国河辺郡豊崎村大字戸嶋の戸嶋神社（祭神素尊）は、昔京都鞍馬山の林正坊なるもの不動尊を笈に入れ、諸国遍歴の途次この地に休息すると、俄に笈が重くなって動かず、遂に此地に留まって祠を建てて祀ったが、明治になってから神社と改めた〔三〕。岩代国耶摩郡月輪村大字中小松の郷社菅原神社は、俚伝に神良種という者が、此の像（高さ五寸七分の鋳物）を京都に得て、廻国の折に、此の地へ来たところ、急に重くなって動かぬので、鎮座したものである〔四〕。常陸国多賀郡松岡村大字赤浜の妙法寺の境内に、僧日弁（日蓮の俗弟という）の墓がある。法難のため、弟子達が日弁の棺を負い此処まで来ると、急に重くなったので、やむなくここに祭り寺を建てた〔五〕。千葉市の千葉神社は、古く妙見社と称していたが、領主千葉成胤の弟胤忠が家督を奪わんとして、神像を負い、往くこと数百歩にして、遽かに重くなって棄てたので、此処に社を建てて祀った〔六〕。武蔵国北埼玉郡下忍村大字下忍の薬師堂の本尊は、昔藤原秀衡の守護仏で、奥州信夫の郷に安置してあったのを、夢想により、相州鎌倉へ遷さんと同所まで来たりしに厨子重くなりて動かず、仏意なるべしとて一宇を建てた〔七〕。上野国邑楽郡羽附村大字野木前の楠木神社は、俚伝に延元二年七月四日楠氏の遺臣、小林、田部井、石井、半田、江守等が、正成の首級を笈に納め、此の地を過ぎり野中の大樹の下に到りしに、笈重くして負うこと能わず、由って此地に留り、首級を大樹の下に埋め、祠を建て野木明神と称し、遺臣も此処に土着し開村したとある〔八〕。此の話などは、下総国古河町に頼政神社を祀った縁起と、全く同巧異曲のものである〔九〕。併しながら、摘録するつもりでも、斯う書き列べて国尽しをするのでは、それこそ富士山の張りぬきを拵えるほど原稿紙を要するので、此の辺から筆を飛ばすこととする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
越後国北蒲原郡加治村大字金津新村（？）、蒲原神社の境内五社明神の社殿に、比丘比丘尼の二木像がある。昔秩父六郎重保夫婦が、源義経を慕うて此の国へ来て剃髪し、死後居宅を寺となし、白蓮寺と称した。後年寺は亡びたが、住僧は夫婦の木像を持って出羽に赴かんと、偶々此地に来たりしに、木像忽然として重きこと金石の如く、やむなくこれを五社の拝殿に置いたという〔一〇〕。能登国鳳至郡浦上村大字西円山の地蔵尊は、始め同郡鵠ノ巣村大字西大野に在ったが、或る年西円山の村民が此の地を通ると、路傍に声あって、「共に往く」と云うので、此の地蔵尊を担いて帰りしに、今まで軽かった像が、忽ち重くなって動かぬので、此処に安置した〔一一〕。越前国坂井郡棗村大字深坂に百姓半助というがあり、家に源頼光が大江山入りのとき用いたと称する、古き笈を所蔵している。此の笈の縁起二巻あるが、由来は、以前福井藩の仕士であった太田安房が、祖先の源三位頼政から伝えた此の笈と、獅子王の剣と伝えて来たのを同藩中の柳田所左衛門に譲った。所左衛門後に此の村に退いたが、半助はその玄孫である〔一二〕。これなどは、頼政がヨリマシの訛語であることを知れば、頼光大江山のもので無くして、憑り祈祷を遣った修験の物であることが直ちに釈然する。&lt;br /&gt;
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土佐国香美郡徳王子村の若一王子神社も、永源上人という者が、紀州熊野から神体を得て厨子に入れ背負うて来たとある〔一三〕。周防国玖珂郡余田村字北迫に流恵美酒社がある。土地の伝えに、五六百年も前に、広嶋から流れ着いたもので、『ゑびす様は広い広嶋に縁が無くて、狭い田布施の田の中に』という俗謡がある〔一四〕。肥後国球摩郡上村の谷水薬師は日本七薬師の一と称されているが、此の本尊は、元奥州金華山にありしを、或る六部が背負うて廻国の途すがら、此処で像が重くなったので、祀堂を建てた〔一五〕。大隅国姶良郡牧園村大字巣窪田の熊野権現社は、大永三年の社記によると、昔異人があって、熊野三所神を笈に入れて負い来たり、岩上に安じて一夜を明し、翌朝に笈を挙げんとせしに重きこと磐石の如く、故に此の地に祀ったとある〔一六〕。&lt;br /&gt;
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さて以上書き列ねて来た此の種の笈伝説は、一面から見れば、巫覡の徒が漂泊に労れて、その土地に居着こうとする方便として利用したのかも知れぬが、斯うして神や仏を背にして、国々を遍歴した彼等の心情を察するとき、必ずしも利用とばかり見るのは酷で、或は現今でも行われている「おもかるさん」のような信仰が伴っていたものと信ずべきである。&lt;br /&gt;
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以上は雑然と笈伝説を並べただけであって、此の中のどれだけが、巫女に限られたものであるかさえ、判然せぬほどであるが、今度はやや明確に巫女に、関したものを検出するとする。然るに、これに就いては、夙に柳田国男先生が「郷土研究」第一巻第八号で、卓見を発表せられているので、左にこれが要点を転載する。&lt;br /&gt;
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: 巫女の旅行用具として、最重要なる物は其手箱である。此箱の中は極秘であって、見た人が無いから色々の臆説があるが（中略）、兎に角口寄の霊験は其力の源を、此箱から発していると見て宜しい（中略）。此箱の形が古今東西を通じて同じであるか否か、自分はまだ深く調べて見たのではないが（中略）、箱ならば其引出しや入れ底に少々の雑品を蔵って置いても、さして不体裁でもないから、結局、これ一つで天下を横行することが出来たのであろう。此点から見れば、男の修験者が背に負う所の笈も、巫女の手箱も目的は一つで、一所不在の伝道者が本尊を同行する方法としては、箱が一番好都合であったことは想像に難くない。&lt;br /&gt;
: 今一つ箱類の方が便利であったかと思う点は、行先々任意に樹の陰石の上などに安置して、自分も拝み人に信心させるのに手軽であったことである（中略）。やや大胆な仮想説ながら、諸国の雑神の名目にテバク（天白）サンバク（山白）ノバク（野白）などと云うのが多いのも、事によると&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;白神&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;(&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;シラカミ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;)&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;の思想に影響せられた、箱の神であったかも知れぬ。中山共古翁の説に、遠州中泉の西南に野筥という部落があって、白拍子千寿の本尊仏を安置したという千手堂及び千寿の墓又は朝顔の墓などという怪しい古跡もある。又野筥という地名は、昔能の面を埋めたのに基くと云っている（見附次第）。&lt;br /&gt;
: 巫女の口碑が、いつの間にか、小野小町、和泉式部、俊寬僧都の娘、さては大磯の虎などという古名媛の伝記に附会せられていることは、極めて普通の現象である。かの曾我兄弟の霊を思い掛けない土地に祀っているのも、大磯の虎を中に置いて考えぬと分らない。美作苫田郡上田邑の箱王谷では、俚民箱王の像を刻ませて之を祀って居た。「作陽志」には箱王は如何なる人か知らず、此辺に金丸烏帽子町などの地名があって、何か由来があるらしいとある。此も多分は大磯の虎の故事にこじつけられて居るだろう。「曾我物語」に五郎時致の童名を箱王とあるが、其動機は何であったか。箱根に成長したから箱王だと云ってもよいが、それも亦小説であったなら、どうして其趣向が浮んだかを尋ねたい。白王権現という祠は土佐に甚だ多い（南路志）。此神の王の字は王子の王で古人の幼名に何王何若の多いのが、何れも元は神のミコに擬して、其保護を仰いだのと同じく、神託を仲介すべき人の称号から移った名であろうと思う云々（中山曰。誌上には川村杳樹の匿名になっている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
柳田先生の研究に従うと、筑前箱崎八幡宮の箱松の由来や〔一七〕、若狭国の筥明神や、更に各地に在る箱清水の中からも、巫女関係のものを見出すことも出来るように思われるが、今はそれにも及ぶまいと考えたので省略する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
漂泊の旅をつづけた巫女の成る果は、好運の者でも、名もなき堂守りか、非運の者は並木の肥料となるのが落ちのようにも考えられるが、その中には神社を興す者もあり、稀には一村落を開拓して、永く草分け芝起しの土産神と仰がるる者もあった。筑前国早艮郡脇山村字子谷に十二社神社（即ち熊野十二所権現である）というがある。土地の口碑に、昔比丘尼某が紀州熊野神の分霊を奉じて此処に土着し、谷口、内野、原田、上ノ原、寺地の六部落を開拓したので、今に六部五十余戸の産土神となっている。此の比丘尼の墓は谷口に残っているが、貞観年中に椎原の下日ノ堰（轡堤ともいう）を築き水路を通じ、脇山地内八町歩、内野地内十六町歩の田に灌漑して農利に便じたということである〔一八〕。阿波郡美馬郡祖谷村は山深い片田舎であるが、俚伝に此村は、昔エイラミコと称す巫女が来て、耕耘機織の道を教えたので、今にそれを祀った祠堂が存している〔一九〕。讃岐国小豆郡坂手村も、大昔にセセ御前と土人がいう巫女が来て、開拓したのが村の始まりだといわれている〔二〇〕。飛騨の牛蒡種と称する憑き物の本場である双六谷の部落なども、又かかる人物が土着開拓したものと思うが、既に此の事は管見を発表したことがあるので割愛する〔二一〕。村々の開発とか産業（殊に製紙事業）の発達とかいう点と、巫女の関係を究めることも興味の多い問題ではあるが、今は此の程度にとどめるとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本節を終るに際し、開村の序に一言すべきことがある。それは、大昔の農民が他村に移住し、又は居屋敷を潰して社地とする際に、信託を受ける信仰の存した事である。安芸国安芸郡倉橋嶋の農民が、享保十五年正月に鹿老渡へ移住を企て、有志三十六人相談して里正に訴え、里正吉凶を神意に問わんとて、同二月一同打揃って八幡神社に詣で、神官藤村大和は、神社の舞台において、白刃を持って舞うこと久しく（これを御託の舞と云う。猶お刃戟を持って舞うことの起源は、巫女の呪術と交渉があるのだが、それを言うと長くなるので省略する）やがて神の告げ吉なりとて衆議一決して移住した〔二二〕。越後国蒲原郡芹田村に、昔吉見御所という貴人が暫らく居住した。後に此の御所跡を神慮に任せんとて、氏神熊野神社の神主式部太夫朝日ノ御子という者に命じ、阿気淵という所にて神託を乞わしめ、その神告により、高出村に移住し、居地には若宮を祀った〔二三〕。巫女が民間信仰に深い交渉を有していたことは、此の一言を以ても容易に知られるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 「千葉盛衰記」。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 故日下部氏は、御輿荒れを力学から説いた遍痴奇論者であった。その顛末と日下部氏の謬見であったこととは「祭礼と世間」（炉辺叢書本）に詳しく載っている。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 「川辺郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 「福島県耶摩郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 「多賀郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 「新撰佐倉風土記」。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 「身辺武蔵風土記稿」第二一六。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 「群馬県邑楽郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : 「許我志」に載せてある。これには渡辺競が頼政の首級を負うて来たとある。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 「越後野志」巻九。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 「鳳至郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 「越前国名蹟考」巻一〇。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 「諸神社録」。&lt;br /&gt;
; 〔註一四〕 : 「郷土研究」第三巻第十一号。&lt;br /&gt;
; 〔註一五〕 : 「球磨郡郷土誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註一六〕 : 「三国名所図絵」巻四十。&lt;br /&gt;
; 〔註一七〕 : 「筑前続風土記」巻十八参照。&lt;br /&gt;
; 〔註一八〕 : 「早良郡誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註一九〕 : 「美馬郡郷土誌」。&lt;br /&gt;
; 〔註二〇〕 : 「讃岐史」初篇。&lt;br /&gt;
; 〔註二一〕 : 拙著「日本民俗志」所収の「牛蒡種という憑き物の研究」参照。&lt;br /&gt;
; 〔註二二〕 : 「倉橋島志」。&lt;br /&gt;
; 〔註二三〕 : 旧会津藩領の事を書いた「新編会津風土記」巻一〇二。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%B7%8F%E8%AB%96/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1284</id>
		<title>トーク:日本巫女史/総論/第一章/第一節</title>
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		<updated>2009-09-27T14:26:16Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: /* メモ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.7&lt;br /&gt;
** 「あれは姉子」は「あはれ姉子」の誤植と思われるので修正した。[http://tokyo.atso-net.jp/i/test/mread.cgi/s2/1235772303/40 参考]--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年8月12日 (水) 00:58 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.8&lt;br /&gt;
** 「伊勢斎宮の寮頭藤原通高の妻が、小木古曾と称して詐巫を行い」&lt;br /&gt;
*** 他の箇所では「古木古曾」の表記が使われているため、用語の統一を図った。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2009年7月13日 (月) 19:24 (JST)&lt;br /&gt;
** 「神社忌河内」は「神社忌寸河内」の誤植なので修正した。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年8月12日 (水) 00:58 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.10&lt;br /&gt;
** 本文中「娍」は、正しくは女偏盛。娍はその異字体。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年8月21日 (木) 03:49 (JST)&lt;br /&gt;
** 「本朝文集云、大宝元秦都理始建立神殿」は「本朝文集云、大宝元年、秦都理始建立神殿」の誤植と思われるので修正した。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年8月12日 (水) 00:58 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.15&lt;br /&gt;
** 「アリサマ　陸奥国の一部　津軽旧事談」は「アリマサ　陸奥国の一部　津軽旧事談」の誤植と思われるので修正した。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年8月21日 (木) 03:49 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.22&lt;br /&gt;
** 「イチツコ」: 増補版索引には「イチツコ」とあるが、「ツ」は促音（即ち「イチッコ」）と思われるので改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月10日 (水) 06:22 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.24&lt;br /&gt;
** 「ヤカミシユ」: 増補版索引には「ヤカミシユ」とあるが、「ユ」は促音（即ち「ヤカミシュ」）と思われるので改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月10日 (水) 06:22 (JST)&lt;br /&gt;
** 「飯縄」→「飯綱」へと用語の統一を図った。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2009年7月13日 (月) 19:15 (JST)&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.6&lt;br /&gt;
** キネの條に「大歌所」ではなく正しくは「神遊歌」だと思う。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年8月12日 (水) 00:58 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.8&lt;br /&gt;
** 「大化元年春二月」は「大化二年春二月」ではないかと思う。確認を頼む。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年8月12日 (水) 00:58 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.14&lt;br /&gt;
** 「新編常陸国誌」の引用文中「鄽」の偏は、底本では「麻垂に墨」である。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年8月21日 (木) 03:49 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;br /&gt;
* 底本 p.14&lt;br /&gt;
** 神社老麻呂の歌は、万葉集中 [http://infws00.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/cgi-bin/MANYOU/manyou2.cgi?06/0976 6-976], [http://infws00.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/cgi-bin/MANYOU/manyou2.cgi?06/0977 977] の二編が見える。&lt;br /&gt;
* 「鈴鹿神社の鈴ノ巫女」 : [[日本巫女史/第二篇/第三章/第五節|第二篇/第三章/第五節]] に「伊勢国鈴鹿郡片山神社の鈴ノ御子」として言及あり。&lt;br /&gt;
* 金田一京助氏が「ツス」の漢字を「巫呪」と書いたことがあるが定めでない。『蝦夷の謡ひ物に見える巫女』に、「巫呪のこと、アイヌでは男もするやうな話を聞くことが無いでもないが、私のよく聞く所では、やはり神に祝詞（のりと・カムイ=ノミ）を捧げる事は男の専門で、（女は汚れがある故出来ない。）その代わり巫呪の事の方は女の主としてやる事のやうである。尤も私の茲に云ふ巫呪とは、アイヌのツスを指す。アイヌには祝詞（カムイノミ）・巫呪（ツス）の外にも尚雑多の類似のことがあつて入込んでゐるから、実は此のツスも巫呪と訳していいんだかどうだか、むつかしい。」とある。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年9月27日 (日) 23:26 (JST)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<title>トーク:日本巫女史/第二篇/第四章/第一節</title>
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		<updated>2009-09-26T06:08:44Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.503&lt;br /&gt;
** 「知られるのであ〔一〕」を「知られるのであ&#039;&#039;&#039;る&#039;&#039;&#039;〔一〕」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.504&lt;br /&gt;
** 「他岐に渉る」を「多岐に渉る」に改めた。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年9月25日 (金) 20:58 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.505&lt;br /&gt;
**「宴曲抄」引用部末尾の「木&#039;&#039;&#039;線&#039;&#039;&#039;繦」は「木&#039;&#039;&#039;綿&#039;&#039;&#039;襷」の誤りと考えられるので改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.507&lt;br /&gt;
** 「持ち運んだのである&#039;&#039;&#039;る&#039;&#039;&#039;とて」を「持ち運んだのであるとて」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.508&lt;br /&gt;
** 「熊野神明其もの&#039;&#039;&#039;て&#039;&#039;&#039;はなく」を「熊野神明其もの&#039;&#039;&#039;で&#039;&#039;&#039;はなく」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
** 「であっと思われる」を「であっ&#039;&#039;&#039;た&#039;&#039;&#039;と思われる」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
** 「民俗芸術」直前の丸括弧と鉤括弧が入れ替わっているのを改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.506&lt;br /&gt;
** 「&#039;&#039;&#039;倫&#039;&#039;&#039;落」は「&#039;&#039;&#039;淪&#039;&#039;&#039;落」の誤用か。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.509&lt;br /&gt;
** 「凡王以下」は「凡王臣以下」の誤植か。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年9月26日 (土) 15:08 (JST)&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1282</id>
		<title>トーク:日本巫女史/第二篇/第四章/第一節</title>
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		<updated>2009-09-25T11:58:18Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.503&lt;br /&gt;
** 「知られるのであ〔一〕」を「知られるのであ&#039;&#039;&#039;る&#039;&#039;&#039;〔一〕」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.504&lt;br /&gt;
** 「他岐に渉る」を「多岐に渉る」に改めた。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年9月25日 (金) 20:58 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.505&lt;br /&gt;
**「宴曲抄」引用部末尾の「木&#039;&#039;&#039;線&#039;&#039;&#039;繦」は「木&#039;&#039;&#039;綿&#039;&#039;&#039;襷」の誤りと考えられるので改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.507&lt;br /&gt;
** 「持ち運んだのである&#039;&#039;&#039;る&#039;&#039;&#039;とて」を「持ち運んだのであるとて」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.508&lt;br /&gt;
** 「熊野神明其もの&#039;&#039;&#039;て&#039;&#039;&#039;はなく」を「熊野神明其もの&#039;&#039;&#039;で&#039;&#039;&#039;はなく」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
** 「であっと思われる」を「であっ&#039;&#039;&#039;た&#039;&#039;&#039;と思われる」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
** 「民俗芸術」直前の丸括弧と鉤括弧が入れ替わっているのを改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.506&lt;br /&gt;
** 「&#039;&#039;&#039;倫&#039;&#039;&#039;落」は「&#039;&#039;&#039;淪&#039;&#039;&#039;落」の誤用か。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月22日 (月) 22:07 (JST)&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
	<entry>
		<id>https://docs.miko.org/index.php?title=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80&amp;diff=1281</id>
		<title>日本巫女史/第二篇/第四章/第一節</title>
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		<updated>2009-09-25T11:58:09Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[日本巫女史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇|第二篇　習合呪法時代]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本巫女史/第二篇/第四章|第四章　巫女の漂泊生活と其の足跡]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==第一節　熊野信仰の隆替と巫道への影響==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
紀州の熊野神社は、古代に出雲の熊野から移住した民族が遷宮奉祀したものであるが、平安期に至り、朝野を通じて、熾烈なる信仰を集めるようになった。宇多帝より亀山帝に臻る九帝の行幸は、実に九十八回の多きに達し、皇后王妃の行啓もまた決して少くなかった。就中、鳥羽帝は二十一回、後白河帝は三十四回、後鳥羽帝は二十八回まで、共に御一代のうちに幸詣されている。上の好むところ下これより甚だしきのはなしの譬にもれず、皇室の尊崇が既にかくの如くであるから、権門勢家より農民商估に至るまで、総ての階級を通じて、殆んど神詣でといえば、熊野詣りが信仰の中心となっていた。俚諺に蟻群の集り走るを今に『熊野参り』というのは、当時、四方より雲集する熊野道者を形容したことから出たもので、更に後世の子守歌に熊野道中の悲劇を題材としたものが多いのは、又た当時の伝承であることが知られるのである〔一〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はここに熊野信仰の由来や発達を記すことは、多岐に渉るので省筆するが〔二〕、既に平安朝には本地垂跡の説が大成され、神仏一如の思想も普及され、殊に熊野の地は伊弉冊尊が、有馬の花ノ窟に葬られたという伝説から導かれて古代から同地は死に由縁の深い場所とせられていた。中古、本宮を現世の極楽浄土と観じた様子は「源平盛衰記」等にも載せ、現今でも、妙法山を近郡の死人の霊が、枕飯の出来る間に必ず一度は詣るべき所とするなど、仏法渡来以前から死霊に大関係ある地として、一般に信仰されていたのである〔三〕。加之、観音信仰の隆盛になった平安朝の中頃から、熊野浦は補陀洛渡海（生身の観音を拝むとて舟に乗り、浪のまにまに自ら水葬する方法である）の解纜地として俗信を博していた〔四〕。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
斯うした事象だけでも、熊野神は、民間信仰を集めるのに、総ての要素を具えていた上に、更に有力なる一事象を加えていたのである。それは他事でも無く、熊野神への参詣は、伊勢の内宮・外宮と同じである——否々、熊野の祭神は、伊勢皇大神の親神であるから、これへ参詣することは、伊勢へ参詣するよりも、御利益が多いと世間が考えていたことである。勿論、世間が斯う考えるに至った理由は、伊勢神宮は国家の宗廟として、皇室の祖神として、古くから「私幣禁断」の制が厳かに施かれ、貴姓臣僚といえども濫りに奉幣することは許されず〔五〕、況んや農商漁樵輩に至っては、神官に近づくことすら警められていたのである。殊に斯うした関係から、伊勢神宮の分祠は絶対に禁ぜられ、神宮に由緒ある各地の御厨でさえ、漸く神明宮の名で祭ることを、黙許されていたという有様であった。かくて伊勢神宮に対する民間信仰は、熊野神に移るようになり、後には熊野明神と称して崇拝されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊野の祭神は既記の如く、諾尊の唾液の神格化である速玉之男・事解之男の両神であって、之に冊尊を加えて所謂熊野三所権現と称した〔六〕。更に此の外に九柱の神を加えて、熊野十二所権現とも云っていた。而して熊野の主神である速玉・事解の二柱は、前にも述べたように、「占いの神」であるから、古くから巫女に親しみあるものとして、彼等の特殊の崇敬を受けていたことが推察される。殊に冊尊が併せ祭られるようになってからは〔七〕、前に言うた如く、死霊に関係深き神として、一段と巫女に信仰される密度を加えたのである。されば、物の本には見えていぬが、熊野に巫女の居ったことは、殆んど古代からであると云うも大過なきものと考えられる。それが平安期において、熊野信仰が全国的になり、本宮、新宮、那智の三山が繁昌するようになってからは、熊野は巫女の本山の如き有様を呈するに至った。「古事談」第三に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 法性寺入道殿{○藤原/忠通}発心地、少将阿闍梨房覚奉祈落之貶{○原/註略}僧伽の句云、南無熊野三所権現五体王子云々、後日件事申出之人ありければ被仰云、如然之僧伽の句は、近来の&amp;lt;u&amp;gt;御子&amp;lt;/u&amp;gt;験者とて劣る事也。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とあるのを見ると〔八〕、当時、熊野に巫女が居り、然もそれが仏教と融合していた事が知られるのである。やや後世の記事ではあるが、「宴曲抄」巻上の熊野参詣の一節に、『印南、斑鳩、切目の山、恵みもしげき梛の葉、王子王子の馴子舞〔九〕、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;巫女&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;キネ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;が鼓も打ち鳴し、頼みをかくる&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;木綿繦&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ユフタスキ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;』とあるのでも、当時の隆盛が想像される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:熊野比丘尼.gif|thumb|江戸初期の熊野絵解き比丘尼（原本神田鐳蔵氏所蔵）]]&lt;br /&gt;
然るに、鎌倉期に入るに及び、さしもに旺盛を極めた熊野信仰も漸く衰え始め、蟻の如く集った道者も、次第に影を潜めるに至り、更に同期の末葉に入ると、全く寂寥を感ずるようになってしまった。天野信景翁は此の理由を討ねて、『元弘建武之後、帝{○後/醍醐}遷南山、道路不通、此後熊野参詣絶跡』と論じている〔一〇〕。かく熊野信仰が衰滅したとなると、ここに当然湧起した問題は、如何にして三山の祠堂を経営し、併せて社僧神人等の生活を維持すべきかという事であった。然るに是より先に、同じ紀州の高野山に属する&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;非事吏&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ヒジリ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;と称する徒が〔一一〕、前述の如く護摩ノ灰なるものを頒布して諸国を勧進した故智を学び、三山の巫女達は、或は口寄せの呪術を以て、或は地獄極楽の絵解き比丘尼として、更に牛王及び酢貝を配って金銭を獲る為に、己がじし日本国中に向って漂泊の旅に出た。それは恰も後世の伊勢の御師の如く、現今の越後の毒消し売りの如く、田舎わたらいに、日を重ね月を送ったのである。而して是等の巫女又は比丘尼が女性の弱さから倫落の淵に堕ちて売色比丘尼と化したのであるが、然もその収入は極めて多かったものと見え、「倭訓栞」に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 熊野比丘尼といふは、紀州那智に住で山伏を夫とし、諸国を修業せしが、何時しか歌曲を業とし、&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;拍枕&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ビンザサラ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;をなして謡ふことを歌比丘尼と云ひ、遊女と伍をなすの徒多く出来れるを&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;統&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;す&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;べて、その歳供を受けて一山富めり、この淫を売るの比丘尼は一種にして、県神子とひとしきもおかし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とある如く、熊野は尼形売女の大本山として、是等多数（広文庫所引の「青栗園随筆」には数千人とある）の比丘尼を統括して収入を計り、為めに一山富むほどの繁昌を致したのであるが〔一二〕、然も此の色比丘尼なる者は、江戸期の中葉まで、猖んに情海に出没したものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かく多数の熊野の巫女が、全国の津々浦々まで足跡を残す様になれば（此の考察は次節に述べる）、兎に角に曾て存した熊野信仰の余勢を背景とし、それが一般の巫女の呪術、及び風俗等に影響せずして終るべき筈がないのである。果して近古における巫女とその呪術とは、これが為めに大なる衝動を受け、教育され、感化されるところが多かったようである。ただ私の寡聞なると、近古以降の巫道が極端に堕落して、何も彼も混淆雑糅したので、その中から、熊野系統の呪法なり、呪具なりを識別することが、至難になってしまったことである。然るに、これに就いて、折口信夫氏は、奥州の巫女が持つオシラ神を中心として、此の神は熊野巫女の持ち運んだのであるとて、大要左の如き考証を発表されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 　　　　おひら様と熊野神明の巫女&lt;br /&gt;
: 人形を神霊として運ぶ箱の話では、更にもう一つのものについて述べて置きたい（中略）。其は奥州の&amp;lt;u&amp;gt;おしら&amp;lt;/u&amp;gt;神である。金田一京助先生の論文で拝見すると、&amp;lt;u&amp;gt;おしら&amp;lt;/u&amp;gt;は&amp;lt;u&amp;gt;おひら&amp;lt;/u&amp;gt;と言うのが正しい。&amp;lt;u&amp;gt;おしら&amp;lt;/u&amp;gt;と言うのは、方言を其まま写したのと説かれてある。此所謂&amp;lt;u&amp;gt;おひら&amp;lt;/u&amp;gt;様は、いつ奥州へ行ったものか、此は恐らく誰れにも断言の出来る事ではないと思うが、少くとも、此だけの事は言えそうだ。元来、東国にこう言う形式のものがあったか、其とも古い時代に上方地方から旧信仰が止まったか、或は其二つが融合したものか、結局此だけに落つく様である。&lt;br /&gt;
: 私は、其考のどれにでも多少の返答を持っている。先、誰にでも這入り易いと思う事から言うて見ると、&amp;lt;u&amp;gt;おひら&amp;lt;/u&amp;gt;様と言うものは、熊野神明の巫女が持って歩いた一種の神体であったろうと思う。熊野神明と言うのは、伊勢皇大神宮でない、紀州に於ける一種の日の神である。即、宣伝者が、神明以外に他の眷属を持って歩いた（中略）。&amp;lt;u&amp;gt;おひら&amp;lt;/u&amp;gt;様なるものも、熊野神明其ものではなく、神明の一つの眷属で、神明信仰を宣伝して歩く巫女に直接関係を持った精霊——神明側から言うて——であったと思われる。神明の外に、神明の&amp;lt;u&amp;gt;つかわしめ&amp;lt;/u&amp;gt;とも言うべきものがあった、其が&amp;lt;u&amp;gt;おひら&amp;lt;/u&amp;gt;神であったのだ（中略）。&amp;lt;u&amp;gt;にこらい&amp;lt;/u&amp;gt;・&amp;lt;u&amp;gt;ねふすきい&amp;lt;/u&amp;gt;氏が磐城平で採集して来られたおひら様の祭文と称するものを見ると、此は或時代に、上方地方でやや完全な形に成立した簡単な戯曲が、人形の遊びの条件として行われていた事が察せられる。即、&amp;lt;u&amp;gt;おひら&amp;lt;/u&amp;gt;様の前世の物語で、本地物語とも言うべきものが随伴して居った訳である云々（「民俗芸術」第二巻第四号並に「古代研究」民俗学篇第二）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は折口氏とは多少所見を異にする者であって、オシラ神は神明の形代と考えているので、従ってこれに反する神明の眷属とか、又は&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;使令&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;ツカワシメ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;とか言うことには左袒せぬが（猶おオシラ神に就いては後に述べる）、その他においては、大体同氏の説を認めて差支あるまいと信じている。前掲の「源平盛衰記」に、熊野で巫女をイタと称したとあるのは、奥州で今に巫女をイタコと言うているのと、或は関係があるかも知れず、更に東北地で同じ巫女をワカと云うのは、熊野九十九王子の若宮信仰と交渉を有し、又た巫女の一名をクグツと呼んでいるのも、木偶舞しの&amp;lt;ruby&amp;gt;&amp;lt;rb&amp;gt;傀儡&amp;lt;/rb&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;（&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;rt&amp;gt;クグツ&amp;lt;/rt&amp;gt;&amp;lt;rp&amp;gt;）&amp;lt;/rp&amp;gt;&amp;lt;/ruby&amp;gt;から出たもので、それが熊野比丘尼から学んだものであるかも知れぬ。奥羽六郡の太守であった藤原秀衡が夫人を携えて熊野へ参詣し、その帰るさに夫人が分娩したので、子持桜の故事を残したとか、誰でも日高川の物語で知っている清姫の情人安珍も、又た奥州の若き修験者である。奥州と熊野との交通は案外頻繁なるものがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
而して殊に注意しなければならぬ点は、古く関東から奥州へかけて、熊野神の社領が、多く存していた事である。これに就いては、故八代国治氏から詳しい話を聴いたこともあるが、東京に近い箱根も王子も、共に熊野の社領があったので、ここに三所権現を勧請したのである。こうした例証は、奥州においても、随所に発見せらるることなのである。かく熊野社領の多かったことは、元より熾烈を極めた熊野信仰に負うところのあるのは言うまでもないが、更に一段と思いを潜めて、斯くまで関東や奥州へ熊野信仰を宣伝し移植した者は、是等多くの巫女——即ち熊野神明を持ち歩いた彼等の活動によることを考えなければならぬ。古き俚謡に『熊野道者の手に持ったも梛の葉、笠に挿したも梛の葉』とあるのは、此の木が熊野神の神木であって、伝説によれば、冊尊の神霊を出雲から紀伊へ遷すときに梛ノ木に憑け、それを奉持したのに由来するというが〔一三〕、此の俚謡が殆ど全国の人口に膾炙されたのも、熊野信仰を普及させた彼等の宣伝の力である。後世に伊豆の走湯権現を熊野に比し『こんど来るとき持てきてたもれ、伊豆のお山の梛の葉』と歌わせるまでに至ったのである。当代における熊野巫女の活動は、実に驚くべきものがあったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 〔註一〕 : 「南方随筆」の紀州俗伝に見えている。&lt;br /&gt;
; 〔註二〕 : 熊野神社研究に就いては、宮地直一氏著の「神社の研究」に収めてあるものが、詳細であり、正確であり、且つ尤も権威あるものである。敢て参照を望む。&lt;br /&gt;
; 〔註三〕 : 前掲の「南方随筆」の「牛王の名義と烏の俗信」に載せてある。&lt;br /&gt;
; 〔註四〕 : 補陀洛渡海に就いては、「台記」、「吾妻鏡」、「中外経緯伝」等に見えているが、纏ったものでは、未見の学友なる橋川正氏の「日本仏教文化史」に収めてある。これも一読をすすむ。&lt;br /&gt;
; 〔註五〕 : 「延喜式」伊勢太神宮の条に「凡王以下不得輙供太神宮幣帛、其三后皇太子若有応供者、臨時奏聞」と。かくて私幣禁断の制は永く続いていたのである。&lt;br /&gt;
; 〔註六〕 : 熊野三神に就いては、速玉、事解の二神の外に、菊理媛神を加える説が「類聚名物考」に「玉籤拾遺」を引用して載せてある。而して此の説は、古代の熊野巫女の出自と、由来とを考覈する上に、多くの暗示を与えているのであるが、それを言い出すと長文になるので省略し、今は通説に従うこととした。&lt;br /&gt;
; 〔註七〕 : 熊野三神のうちに冊尊を配した年代に就き、林道春の「本朝神社考」中の三に「古今皇代図」という書物を引用して、崇神朝の六十五年にあるように記してあるが、元より信用すべき限りでない。本当は判然せぬというのが穏当である。&lt;br /&gt;
; 〔註八〕 : 「古事談」は「史籍集覧」本に拠った。&lt;br /&gt;
; 〔註九〕 : ここに「馴子舞」とは、巫女が売笑したことを意味しているのである。&lt;br /&gt;
; 〔註一〇〕 : 「塩尻」巻四十六（帝国書院の百巻本）。&lt;br /&gt;
; 〔註一一〕 : 高野山には学侶、行人、非事吏の三者が居て、各々その勢力を争ったものである。詳細は「紀伊続風土記」の高野山部に載せてあるが、非事吏の社会的地位とか、その仕事とかに関したものでは、柳田国男先生の「郷土研究」第二巻第六号所載の「聖という部落」が卓見に富んでいる。&lt;br /&gt;
; 〔註一二〕 : 「熊野郷土読本」によると、江戸期に紀州徳川家の財政を救済するための一策として、熊野宮の祠官に資金を与え、それを他の大名旗本農商へ高利で貸付け、幕末には利殖の額十余万両に達し、明治維新の際に、紀州藩が江戸を無事に引払えたのは、此の金があったためだと載せてある。紀州の高野金は、他の座頭金、エタ金と共に、江戸期庶民の金融機関の一つであったが、熊野社人が別に斯うした事を遣ったとは、余り世に知られていぬので、敢て附記した。&lt;br /&gt;
; 〔註一三〕 : 鈴木重胤翁の「日本書紀伝」巻十二に見えている。此の神木の奉持者を玉木氏と云い、更に分れて鈴木氏、穂積氏となったという事である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:中山太郎]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
	</entry>
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		<title>トーク:日本巫女史/第二篇/第三章/第七節</title>
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		<updated>2009-09-22T01:41:55Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;浦木裕: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;==修正箇所==&lt;br /&gt;
* 底本 p.498&lt;br /&gt;
** 「古事談」引用部末尾の「と」は、引用部外の文字と考えられるので、適宜修正した。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月21日 (日) 03:47 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.500&lt;br /&gt;
** 「平安朝の&#039;&#039;&#039;未&#039;&#039;&#039;頃」を「平安朝の&#039;&#039;&#039;末&#039;&#039;&#039;頃」に改めた。--[[利用者:たちゃな|たちゃな]] 2008年9月21日 (日) 03:47 (JST)&lt;br /&gt;
* 底本 p.501&lt;br /&gt;
** 「類聚符宜抄」を「類聚符宣抄」に改めた。--[[利用者:浦木裕|浦木裕]] 2009年9月22日 (火) 10:41 (JST)&lt;br /&gt;
==未修正箇所==&lt;br /&gt;
==メモ==&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>浦木裕</name></author>
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