日本巫女史/第一篇/第一章/第四節

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日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第一章 原始神道に於ける巫女の位置 

第四節 原始神道及び古代社会と巫女との関係[編集]

我国のことをやや詳しく記録した外国の最初の文献は「魏志」の倭人伝である。而してその一節に左の如き記事がある。

(上略)倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道能惑衆、年已長大無夫婿、有男弟佐治国、自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処(中略)。卑弥呼以死大作冢経百余歩、殉葬者奴婢百余人、更立男王国中不服、更相誅殺当時殺千余人、復立卑弥呼宗女壱与年十三為王国中遂定(下略)。

此の記事は有名であるだけに、我国の古代史を研究するほどの者ならば、誰でも知らぬ者は無いのであるが、然らば此の卑弥呼なる者は何であるかという事になると、誰にでも判らぬほどの難問なのである〔一八〕。私は卑弥呼の研究が目的でないから、これ以上には触れぬこととするが、更に此の記事を巫女史の立場から考覈するとき、左の如き事象を認識することが出来るのである。

第一、卑弥呼ヒミコは即ち日女子ヒメコであって男子の日子ヒコと対立して、我が古代の女性を云い現わす最高の名であること。
第二、卑弥呼が鬼神に事え、能く衆を惑すとは、即ち巫女であったことを意味していること。
第三、卑弥呼が、年已に長ずるも夫婿の無きは、巫女は夫を有たぬ(その実は夫を有していても)のを、原則にしたこと。
第四、卑弥呼に男弟があって、佐けて国を治めたとあるのは、曾て琉球に行われた、神託をきく女君が酋長であったのが、進んで姉(又は妹)なる女君の託言によって、弟(又は兄)なる酋長が政治を行うた時代を想わせるものであること。而してこれに類似した制度が、内地にも古く存したと想われること。
第五、卑弥呼の死後に宗女を王に立てたとは、巫女の相続は女系で伝えたものであること。

女王卑弥呼の治めた倭国なるものが、現在の我国の何処に該当するかに就いては、これ又学界に異説があって、今に定説を見ぬのであるが〔一九〕、その詮議は茲には姑らく措くとして、直ちに私の考えた所だけを述べると、以上に例挙した五項は、古く我国の全体に行われた巫女の作法と見て差支ないと信じている。

第一の卑弥呼が比売子——即ち日女子であることは言うまでもない。古く日女子を比美子と云う例証は、天寿国曼荼羅にも見えている。而して此の名を負うものが、古代にあっては、女性の社会的階級の高位に居る者に限って用いられたことは疑いない。後世になると、姫の名が下級の者にまで濫用されるようになったが、日女は即ち日神の裔という意であるから、古代にあっては、神聖にして濫りに用いることが出来なかった筈である。而して卑弥呼が、此の名で呼ばれているところを見ると、彼女は当時の社会階級の高位に居たことが知られると同時に、原始神道の最高神である日神の裔であると信用され、崇拝されていたことが、併せ知られるのである。

第二の、鬼神に事え、衆を惑すは、改めて言うを要せぬほど明確に、彼女が巫女であったことを語っているのであるが、ただ茲に慎重に考うべきことは、最高の巫女が最高の治者であったと云う点である。而してこの事は、一方社会学的に見れば、我国の古代には、母権社会が行われていたことを想わせる有力なる手掛りとなり、更に一方神道発達史から見ると、神に事える最高の神職は女性であって、神職の最高者なるが故に、一国の治者となり得るのであるという、所謂、祭政一致時代の最も古き相を稽えさせる重要なる傍証となるのである。寔に比倫を失うことではあるが、此の例を神代に覓めれば、即ち天照神がそれであると申すことが出来るのである。前にも記した如く、天照神が新嘗をされたということは、神に事えられたことであって、その時だけは神官としては最高に位し、併せて高天原の統治者であらせられたからである。

第三の、卑弥呼が年長ずるも夫婿が無かったということも、又た我国の古俗を示しているものである。巫女は、原則として、神と結婚すべき約束の下に置かれていた(これ等の実例は後段に詳述する)のである。国中の女性が巫女として神人生活を営んでいた時代にあっては、夫婿を定めるには、悉く神判成婚の形式に由らなければならなかったのである。而して初夜の権利は神が占めべきものとさだめられていた〔二〇〕。「万葉集」巻二に『玉かづら実ならぬ木には千早振る、神ぞ憑くちふならぬ木毎に』とあるのは、此の思想を詠じたもので、更に同集巻三に『千早振る神の社し無かりせば、春日の野辺に粟蒔かましを』とあるのも、亦此の思想を言外に寓しているのである。而して「源氏物語」の若菜巻を読むと、上代貴族の婦人は結婚せぬのを習いとしていたことが釈然する。これは何時でも神に占められることの出来るようにとの必要から来ていたのである。内地の古俗を克明に保存した琉球でも、先五代の王女は結婚しなかったとある〔二一〕。卑弥呼に夫婿が無かったのは、彼女が巫女であったからである。

第四の、曾ては、神託を聞く女君が統治者であったのが、後には、女君の兄弟が治者となり、女君の託言によって、政治を行うたとある一事は、我が古代国家の発達を知る上において、極めて重要なる意義を有していると思うのであるが、併し現在の学問の程度では、これ以上を言うことは、或は官憲の欲せざるところと思うから、態と省略に従うこととする。

第五の、卑弥呼の宗女がその後を継いだとあるのは、巫女の相続は女系を以てし、且つそれが、我が国に母権時代の在ったことの傍証となるもので、我国では後世に至るまで、此の遺風が存し、巫女は女系相続を以て規範としていたのである。

以上の考察より見るも「魏志」の記事は、我が古代の社会制度と、原始神道と、巫女との関係を、明確に記述したものであることが知られるのである。倭国の所在地が九州であったか、畿内であったかは姑らく措くも、更に卑弥呼が、倭姫命であるか、神功皇后であるかは、同じく別問題とするも、此の記事が、我国の全般の巫女に関するものであることは、疑う余地はないのである。

本居宣長翁が「駁戎慨言」巻上において、「後漢書」の卑弥呼が鬼神に事え、以妖惑衆とあるのに対して、『からびと大御国の神の道をしらざるが故に、かかるみだりごとはするなり』と評し、更に「魏志」の『自為王以来、少有見者』以下に就いて、『おのれまことには男にて、女王にあらざるが故に、かの魏の使いにたたにはえあはで、帳などたれて、物ごしにぞあへりけん』云々と言っているが、これこそ却って、本居翁が我が古代の実相を見誤った智者の一失である。

〔註一八〕 
本居翁は、卑弥呼を神功皇后に擬し、内藤虎次郎氏は倭姫命に擬せられているが、私はそれよりは更に一段と古い時代の女酋であると考えている。
〔註一九〕 
卑弥呼の治めた国に就いても、九州説と畿内説とがあるが、私は後者の説に従うものである。管見は「考古学雑誌」に発表した。
〔註二〇〕 
是等に関して拙著「日本婚姻史」に詳記した。参照をねがいたい。
〔註二一〕 
折口信夫氏の談。