日本巫女史/第三篇/第一章/第一節

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日本巫女史

第三篇 退化呪法時代

第一章 巫道を退化させた当代の世相

第一節 巫女の流派と是れに対する官憲の態度[編集]

従来の史家は、室町期三百年間を闇黒時代と言っている。成る程、将軍の威令が地に墜ち、社会の秩序は毀たれ、海内は群雄の一起一仆の戦乱の巷と化し、国民は塗炭の苦を続けると云うのであるから、闇黒といえば言われぬこともないが、併し国家としては、相当の発達を遂げているのである。将軍代々の僭上好きは東山美術を大成し、五山文学の振興はやがて儒教の普及となり、支那及び和蘭との交通は、海外の新知識を呼吸するなど、後代の文化を招致すべき準備が講ぜられていたのである。殊に、巫女史の立場から見て、注意すべき点は、戦乱の苦杯を満喫させられた社会と民衆は、物質的にも精神的にも、深甚なる困憊を経験したのである。而して此の結果として、民間に著しき増加を来たしたものは迷信である。江戸期から明治期の中頃まで、民間に行われた迷信の多くは、概して室町期において集成されたものである。財神信仰である七福神も、暦術の中段下段の穿鑿も、七曜九星の方術も、更に明治初年に廃止された修験道も、此の修験道と運命を共にした市子なる者も、その他の冠婚葬祭、及び日常生活に伴う細大の迷信的事象は、殆んど此の室町期に工夫されたものか、又は大成されたものである。迷信と空想とは、失望時代の産物である。巫女史の観点に起つとき、室町期は注意すべき時代たるを失わぬのである。

此の室町期に代った江戸期の三百年は、軍国政治を基調としただけに、重刑主義と威嚇主義とが幕府の総てであった。勿論、幕府は、当時の神道や、仏教が、共に形骸だけであって、民心を支配し、陶冶するに足らぬことを知っていたので、隆んに儒教を重用して、教化主義を鼓吹した。併しながら、搾取機関として存在を許されていた国民の生活は、単純でもあり、寂寥でもあり、且つ空虚でもあった。従って迷信が国民の生活に彩りを加えて、単調を救うようになったのも、当然の成り行きである。実際、江戸期の国民は、迷信を好んでいた。然もこれを勇敢に実行したものである。市子の如きは、此の時代にあっては、極端にまで堕落して、夙にも自滅すべき程の状態にありながら、猶お且つ全国の津々浦々にまで存在していたのは、国民が挙って迷信に沈湎していたためである。

本篇においては、此の室町期の末葉から江戸期を通じ、更に明治の禁断と、大正の余喘期を述べるのであるが、巫女は堕落し、呪術は胡盧を描くにとどまっているので、少しく不熟の嫌いはあるが、姑らく退化呪法時代と称した所以なのである。

市子(口寄系)の流派は、前代を承けて、これを形式から見るときは、紀州熊野系、加賀白山系、稲荷下げ、飯綱遣い、夷子おろしなどが存していたようであるが、その悉くが、殆んど雑糅してしまって、私の浅学では、それを明確に区別することが出来ぬのである。更に呪術の方法においても、梓弓(長短の二種がある)を用いるもの、珠数を用いるもの、例の外法(髑髏)神を用いるものなどが在ったようであるが、これも全く混淆してしまって、同じく私の寡聞では、仔細に判別することが出来ぬのである。換言すれば、熊野系は珠数を用いるとか、白山系は梓弓をたたくとかいう分類が出来ぬのである。

例えば「丹後宮津府志」巻中に、同国与謝郡宮津町字中ノ町の鉾立山大乗寺の中興開山僧寛印が、下向の途すがら丹波の桂川にて一女に逢い、破戒して之を伴い、同町字波路町に居住するうち、一女を儲けた。後に寛印これを悔い枳椇ケンホナシの病気に利くと謀りて、婦人を黒崎山に赴かしめ、その身は死せりと偽り、鱇魚コノシロを焚き、火葬の態をした。婦女帰り来て、此の事を聞き悲しみて、海中に投じて死んで了った。残った娘は、成長して後に巫女となったが、これが我国の梓巫女の始めである。その子孫代々波路町に在りて、巫女を業としていたが、近世に至り、同所は断絶し、但馬国に末孫が残っているそうだ。波路町に神子ミコ屋敷、神子川などの地名が今に在るのは、此の由縁である云々。僧寛印が丹後に赴いたことは「元享釈書」にも載せてあり、その年代は、凡そ一条朝の寛弘八年頃と考えられるが、これの娘が我国の梓巫女の権輿者などとは信じられぬし、更に鱇魚を焚いて、火葬の態をすることは、下野国の室ノ八嶋の故事を附会したものと思われるので、従って、此の記事の学問上の価値は、頗る割引されるのであるが、強いて云えば、何か僧寛印から呪法を学んだ巫女のあったことを意味したもので、所謂、一派をなした巫女があったのではないかと考えられぬでもないが確証なきが如く、概念的には巫女の異流別派を認めるものの、さて具体的には、克明に詮索することが出来ぬのである。これは雑糅されてから余り多くの年代を経たのと、元々、公札の裏の営業であったために、長い間の秘密が、斯うした結果を将来したものと見るより外に致し方がないのである。

室町幕府が是等の巫女に対して、如何なる態度を以て臨んだかに就いては、是れ又た何事も寡聞に入らぬ。併し幕府としては、戦乱に慌しくして、さる些末の事には配慮する余裕もなかったろうし、或は制令を下すようなことがあったとしても、下克上を世相とした当代にあっては、励行されたとは考えられぬ。然るに国々の領主にあっては、おのがしじ適当と信ずる方法を以て、巫女に対していたようである。その一例を覓めれば、武田信玄は巫女を公許し、巫女頭と称する取締人を認め、これに左の如き免許状を与えている〔一〕。

今度自身聞附の神託無誹謗真法顕然之至令感人畢依而分国之内右職分ニテ徘徊之輩
対当家江守護長久可抽之旨依而如件
                 今福民部
丸龍朱印 永禄十二年
      巳五月 日
               甲信両国神子頭
                 千代女房へ

戦国の英雄は、概して迷信が強く、信玄の好敵手であった上杉謙信の如きも、篤く飯綱の邪法に陥り、それが為めに生涯、女色を遠ざけたとまで伝えられている〔二〕。信玄も又その一人であって、常に巫覡の言を信じ、或は利用したものと見え、此の外にも信州戸隠神社の巫女に祈願を命じた文書が残っている〔三〕。而して此の免許状を受けた千代なる巫女は、信州の名族滋野氏の末裔で、此の女が後に小県郡禰津村に土着し、日本一の巫女村ミコムラを造るようになったのであるが、それに就いては、後段に詳述する考えである。

江戸幕府は伝統政策として、特殊の職業に対しては、出来るだけ自治を許し、所謂、治めざるを以て治むる方針を執ったのである。盲人に当道派と称する団体を認めて、殺人、放火、姦通の三罪以外には、団体の名を以て刑の執行まで許し〔四〕、修験道にあっては、更に石子詰の極刑まで黙認したと伝えられている〔五〕。従って巫女の如きは「帳外者」として、一切の納税を免除すると同時に、古くはエタ頭弾左衛門の配下とし〔六〕、後には「遊民」として之を取扱った。「続地方落穂集」巻二の「人別四段認様之事」と題せる記事中に、遊民として『陰陽いち御子の類、釜祓、瞽女、虚無僧、鉦打、行人』等を挙げているのが、それである。既に帳外者であり、遊民である以上は、巫女の社会的地位は極めて低級なるものであって、全く普通民とは伍することの出来ぬ境涯に置かれ、院内、算所、願人などと同視されていたのである。されば殆んど全国に亘って巫女を賤め、甲斐のシラカミ筋、中国のミコ筋を始めとして、普通人はこれと通婚する事さえ絶対に拒否したものである。「徳川禁令考」巻四十「神社神職之者評定所着席之例」に『神子女に候得者、下椽』と定め、更に但書にて『巫女と認候ても神子ミコと読申候』としたのは、即ち神社に附属する神子であって、巫女は神子の名によって、漸く此の資格を得るという有様であった。それであるから、江戸期には神社附属の神子と、町村土着の市子との権限、及び作法を厳重に区別し、前者は悉く吉田家の管下となし、後者は関八州にあっては田村家の配下となし、その他は、国々の触頭ともいうべき者に、支配させたのである。「聞伝叢書」巻四(日本経済大典本)に載せた左の裁許状は、前者の作法を明記したものである。

    神子之事
信濃国小県郡古町諏訪大明神新町諏訪大明神両社之神子志摩着赤色早舞衣任先例神事神楽等可勤仕者
 神道裁許状如件
  宝暦七年四月十六日
          氏刂阝月
神祇管領長上従二位神権大卜臣兼雄
          示畐礻𠦝
四組木綿手繦之事許宮神子志摩起、向後可掛用之状如件
  宝暦七年四月十六日
     神祇管領
右之外中臣祓三種祓六根清浄大祓相渡也
右は吉田家より長久保町神子志摩へ之許状写也、且神子官位之儀者、師匠神主祠官等之取次にて相添由志摩申聞候、且国名を不附朝日春日抔と申名之神子は無官にて、瓔珞金入之千早等者不相成神子祠子山伏等を師として七釜条抔と申法を請、鶴亀模様等之白絹千早着神楽等勤候段、右志摩申聞候事。

即ち此の裁許状の証示するところに由れば、(一)神子は、志摩とか、山城とか、国名を附けることが出来たが、市子は、それが出来ぬので、朝日とか、春日とか称したのである。(二)神子は、瓔珞金入りの千早を着ることが出来たが、市子は鶴亀模様の白絹の千早より着ることが出来なかった。猶お後出の文書によると、(三)神子は、湯立の神事を行うことを許されていたが、市子は行うことを禁じられていたようである。而して後者の所属(関八州の市子の事は次節に述べる)に就いては、「民族と歴史」第四巻第四号所載の「須富田村(中山曰。土佐国香美郡?)疋田七五三太夫文書」に下の如き下知状が見えている。

追而申遣候、物部川より東甲浦限、両郡中所々算所取前神子くし之事、前々のごとく此主馬太夫に申付候間、先代□□万事可申付候、並、役義等之事無油断可仕候也
 二月六日  (山内)一豊(花押)
     かかの郡
     あき郡
      所々庄屋中

此の文書によれば、土佐国にては、市子は算所の配下に属し、然も算所に対して、多少の役銭(取前神子くしとは此の意なるべし)を納めたようにも思われるのである。市子の社会的地位は、全くドン底であったとも云えるのである。猶お、吉田家管下の神子と、修験派支配の市子との間に起った、権限作法等に関する訴訟に就いては、後段に記すので彼之を参照せられたい。

〔註一〕 
此の古文書は、東京市外杉並町馬橋百四十番地町田良一氏の発見保管せるものにて、同氏の好意で、茲に掲ぐることが出来たのである。謹んで謝意を表する次第である。
〔註二〕 
「関八州古戦録」で見たと記憶している。
〔註三〕 
「徴古文書」の乙集に載録してあるが、本書には関係が少いので、省略した。
〔註四〕 
「当道大記録」、「瞽幻書」、「当道式目」等参照せられたい。
〔註五〕 
「郷土研究」第四巻第六号所載の拙稿「石子詰の刑に就いて」を参照されたい。
〔註六〕 
弾左衛門の家に伝えた治承年間源頼朝の下し文のうちに、賤業卑職二十八種を挙げて、支配すべしとあるうちに、巫女がある。勿論、此の文書は、疑いないまでの偽書であるが、然も此の偽書であることを知っていながら、幕府が弾左衛門に支配させたところに、治めざるを以て治むるとした政策が窺われるのである。