日本巫女史/第三篇/第一章/第三節

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日本巫女史

第三篇 退化呪法時代

第一章 巫道を退化させた当代の世相

第三節 当山派の修験巫女と吉田家との訴訟[編集]

江戸期における口寄系の市子には、私の知っているだけでも、(一)田村八太夫系の巫女、(二)当山修験の妻の巫女、(三)信州禰津村系の巫女、(四)奥州のイタコ系の巫女、(五)此の外に所属不明の巫女等の、五大系統のあったようである。而して此の所属の相違は、多少とも呪術の方法にも相違があったと思うが、その点は余り明確に知ることが出来ぬ。併しながら、所属の相違は、管轄の相違であるから、ここに其の管轄する者の、流儀なり、新古なり、又は勢力の多寡等によって、その間に利害を異にし、事情を別にすることの生ずるのは当然である。殊に江戸期における俗神道——平田翁の所謂「鈴振り神道」の宗家は、吉田家であるにもかかわらず、各地の巫女が吉田家を外に見て、口寄系の市子より更に一歩をすすめて、神前で神いさめまでして、神和カンナギ系の神子の領分を浸される様になったのでは、吉田家としては由々しき問題であるために、これを防止せんとして訴訟を惹き起すに至ったのも、当時としては又余儀ない結果と言わざるを得ぬのである。

これに関して、柳田国男先生は、左の如く記述されている。

守子のモリは元来、神に奉仕するという語であろうから、この名称は弘く一切の巫女に付与すべきものであるのに、後世に及んでは、田村八太夫の一類など、わざと避けて之を用いず、特に山伏の女房の口寄をする者ばかりを、守子と呼ぶようになっていたらしい。京都の神祇官領家の如きは、殊に此名を嫌って居た。相州秦野町の曾屋神社に、文化頃の吉田家の神子免許状がある。中にも、神子たる者は決して守子の作法をまねてはならぬとある。併も実はこの二種の巫女の業体は、田舎では頗る紛わしかったのである。その事実を例証するために、文政年中佐渡に起った当山派(中山曰。密宗三宝院派)の修験神子ミコと吉田家との訴訟の始末を、少し長いが記述して見たいと思う。
吉田家の側の主張に依れば、昔寛文年中に奥州岩城において一度本山派(中山曰。台宗聖護院派)の修験神子と社人との間に出入があった。其折の判決は神道の方の勝利で、本山神子は湯立神楽を勤めてはならぬ。千早舞衣を着用してはならぬ。並びに神子と称する称号も相成らず。必ず守子と唱え申すべしとの沙汰であったから、吉田家の雑掌は茲に本山派山伏の惣支配たる聖護院御門跡の坊官等と相談の上、社家と修験とへ双方より法度書を触れ出して事落着した。其例を以て当山派の修験神子も同様に相心得、既に享和二年中吉田家の役人某々等諸国を巡廻し、右の寛文の御条目及び天明二年の御触れなど読み聞せ、吉田家より許状を受けて神事祭礼神楽託宣等相勤め候儀は格別、無官の神子は必ず守子と唱え、修験寄附の幣を持ち、数珠錫杖箱を持ちて檀廻致し候は差支なきも、鈴を持ち神事神楽等相勤め候儀は相成らぬ。以後左様の勤方致し候わば最寄の下社家共へ申付け置き見つけ次第装束等剥ぎ取らせ候間、其旨相心得守子共へ漏れなく申聞け、心得違い後悔無之ようにと申渡した。併し此節神子の官致し度き者は貧窮に候わば当分少々の官金を指出し、跡金の儀八年賦に貸し附けても宜しいと申聞け、彼等に請印をさせようとしたものである。
之に対する当山派の攻撃理由は極めて簡単なものであった。本山派と当山派は同じ山伏でも全然別派である。天台山伏が承服したからとて三宝院の配下は之に従うわけには行かぬ。当山の修験神子は往古より立来りたるものであれば、吉田家の配下に附かねば神子の作法が出来ぬ理由が無いという主張で、此訴訟は山伏の方が勝った。即ち真言山伏の妻たる神子も神主の女房と同じように託宣営業が出来たのである。併し是等の判決は、果して私領の隅々までも其まま行われ、神仏二類の区別が明白となったか否かは、大いに疑わしい云々(以上。「郷土研究」第一巻第十号)。

田村八太夫などが、特に関東武官一派神道などと奇妙な名を付けて独立したのも、所詮は吉田家の支配から離れると同時に、部下の舞太夫なり、梓巫女なりから、一定の役料を納めさせる必要から来ているのである。これでは吉田家も存立が怪しくなって来たので、斯うした訴訟まで見るに至ったのであろう〔一〕。

〔註一〕 
私は此の訴訟記事の出所に就き、柳田先生の許に往き、お尋ねした所「此の本にあるよ」と仰せられて「祠曹雑識」抄録本二冊を貸与された。それを帰宅後調べると見当らぬので、「郷土研究」を転載することとした。