日本巫女史/第三篇/第三章/第二節

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日本巫女史

第三篇 退化呪法時代

第三章 巫女の社会的地位と其の生活

第二節 日陰者としての巫女の生活[編集]

儒教の七去三従が、婦人道徳の基調となれば、巫女の身の上にも動揺を来たさぬ理由は無い筈である。神社に附属していた神子みこにあっても、神々に仕える者は女子に限られた制度は、疾くの昔に泯びてしまって、男子の神職の下に、有るか無きかの日陰者とならざるを得なかった。

更に、神社を離れて町村に土着した口寄せ市子にあっては、賤民として、帳外者として、社会の落伍者として、軽視されたものである。当時の神子の地位や収入が、如何に貧弱なものであったかを証明すべき記録は、諸書に散見しているが、ここには煩を避け、一臠以て全鼎を推すとして、大和国大神おおみわ神社に関するものから抄出する「三輪社諸事記帳」の一節に、左の如きものがある。

    神楽銭之儀ニ付出入之覚
一、宝永二年酉ノ五月十五日ニ、戎重織田内匠殿より拾弐貫文之神楽御願被成候所ニ、神楽銭之配当ニ付、八乙女方よりとやかく申ニ付、出入(中山曰。訴訟の意)ニ罷成、南都御番所妻木彦右衛門様御奉行之時対決御座候、彦右衛門様被仰候は、壱貫弐百迄は右之通八乙女方へ遣し、夫より以上ハ壱銭ママニ而社中不残配分致申候様ニ被出仰候而、同極月二十三日相済候、其済高ママ宮ニ有之候、但シ此出入は十八年跡之通ニ被仰付候。十八年以前之対決も此度の対決も同事ニ相済申候、尤此儀神主了簡ニ而壱貫弐百文より以上ハ弐つ割ニ致シ半分は惣社中へ配分、半分は八乙女へ配分也(三輪叢書本。以下同じ)。

これに由れば、大神々社にて奏する神楽料は壱百二百文を定めとし、此の分配方に就いて、神主側と神子側との間に紛議を生じ、遂に奈良奉行の採決を受けることとなり、定めの壱貫二百文までは、全部神子側の収入とし、それ以上の神楽料を得た場合に限り、その過剰の分は折半して、神主と神子とに分配することとなって、落着を告げたのであるが、然も此の記録に徴すれば、宝永二年に先立つ一八年前——即ち元禄元年にも、此の種の訴訟を見たことがあるというから、神楽銭の配当問題は、長い宿題となっていたことが推察されるのである。大神々社は大和の大社であるから、信徒の奉納する神楽も尠くなかったことと思われるが、壱貫二百文の料金は、他の物価に比して軽いものであったと共に、これが八乙女(必ずしも八人ではなかった。その人員が六人であったことは、次の記録でも知れる)の収入の総てであったとすれば、決して多いとは云えぬのである。されば此の少き収入を更に神主側に引き去られたのであるから、生活を維持する点から、対決騒ぎをしたのも道理である。更に正徳三年七月十八日付の「御朱印替ノ覚」の一節に、

泉州踞尾村北村六右衛門方より、神酒五升一樽、並かます少々、神楽料銀十二匁被申上候、右之神楽料八乙女方へ渡し申候、又神酒壱升斗八乙女へ遣し申候、是は此方了簡ニ而遣し申候、重而例ニは無之候

と高宮神主越宮内昌綱の名で記してあるのを見ると、常に神子が神主に経済的にも圧迫されていた事が判然する。換言すれば、神子は神主の手盛に対して、異議を唱えるだけの権限すら与えられていなかったのである。而して更に左記の記録に徴するとき、神子の収入如何に些少であったかが知られると同時に、社領の分米に就いても、如何に神主に重くして、神子に軽かったかが併せ窺えるのである。

    享保八年四月十三日太神楽次第事
一、新銀三百目  神楽料
  此銭二十三貫七十二文云々(中略)。
   〆銀七匁四分、此銭五百八十二文、七十六文かへ、三貫五百六十文、二口〆四貫百四十六文
引残テ社八乙女一人ニ付七百四十九文ヅツ、其外配分頭割ニテ済云々
    享保中大神社覚書
  六十石(中山曰。全社領百七十五石)
    八乙女
   高一斗六升  惣ノ一
   同断     左ノ一
   同      右ノ一
   同      豊ノ一
   同      富ノ一
   同      梅ノ一
  三石六斗 社家 越 内膳

越氏は大神社の首席神主であったとは云え、神子の約二十三人分の配当を受けている事になる。分米において、既に斯くの如くであるから、神楽料は宝永の裁許により、規定の額だけは神子に渡したのであろうが、その他の参拝者の賽銭とか、信徒の奉納金とかいうものは、これ等の神主以下の者に壟断され、神子の収入とはならなかったのであろう。従って神子の生活たるや、実に惨憺たるものであって、漸く下級の神人を夫とし、或は農民を入聟として迎え、纔に内職として神社に奉仕するの余儀なき事情に置かれたのである。享保六年中に書き上げた「系譜」中に、左の如き記録が載せてある。

    八乙女
○田中氏云々
やど  神前勤候 出生不知    夫 甚五郎
名不知 不勤   大福村出生   夫 八兵衛
同断  同断   当村八右衛門娘 夫 長五郎
おさわ (中略)         夫 清五郎
 同高宮氏被官○北村氏ニ改
名不知 当村出世         夫 仁兵衛
おかめ 神前勤候云々       夫 弥八郎
女郎  おかめ婿源八娘也云々   夫 弥八郎次男
辰くつた 女郎妹也
 同 ○森氏ニ改
名不知              夫 次郎兵衛
右ノ一 おさつ 神前勤申候    夫 久右兵衛
    前夫善九郎ハ粟殿より入聟、此久右兵衛門黒崎村之出生
 同 ○森本氏ニ改
名不知 馬場村出世        夫 清介
同断  山城之出生        夫 五郎兵衛
おかち 薬師堂生神前ヲ勤     夫 半十郎五郎兵衛弟也
    妻ハおかち娘       夫 宇兵衛
宮一ひさ おかち孫也       夫 又兵衛茅原村より養子也
 同 高宮氏被官也 ○藤本氏ニ改
名不知 穴師村出生        夫 与右兵衛
惣ノ一 小まん 神前ヲ勤初瀬出世 夫 清兵衛
右近  おかね 小まん孫也    夫 与平次
 同 ○倉橋氏ニ改
名不知 慈恩寺村出世       夫 助右兵衛
おたま 神前ヲ勤申候蔵橋村生   夫 次右兵衛
権ノ一 おみや (中略)     夫 勘三郎
 同 ○松村氏ニ改
おなで 神前を勤当村生      夫 又三郎同所入聟
おつま              夫 与八郎同断
右ノ一おつや 神前ヲ勤云々    夫 清八郎同断与八郎甥也

延喜式内における名神大社の大神々社にあってすら、神子の位置は以上の如く哀れにも気の毒な境遇に甘んじなければならなかったのである〔一〕。されば、朱印地を有さぬほどの小社に属した神子にあっては、近江国栗太郡大宝村大字霊仙寺の神子が、十四五ヶ村の村々へ傭れて往ったとあるように〔二〕、それは恰も現在の村社や、無格社に仕えている神職が、十社も十五社も兼帯せねば衣食に窮するのと同じようであったに相違ない〔三〕。これでは神子が神の目を偸んで不倫を働くのも、又た是非もない成り行きであった。

それでは、町村に土着した口寄せ市子の社会的地位、及びその生活はどうであったか。これこそ、神子に比較する時、更に一段と劣等視され、全く賤民として取扱われて来たのである。三馬の「浮世床」や一九の「東海道膝栗毛」に描かれた市子は、共に作者のために興味本位に書きゆがめられ、且つ甚だしく誇張されてはいるが、それでも社会の落伍者として、日陰者として、一般からは通婚まで忌まれ、殆んど乞胸、物吉、願人、鉦打、茶筅、事触、夷舞などの帳外者と少しも択むなき生活を営んでいたのである。

「祠曹雑識」巻七十二に載せた左の記録は、市子が独立の生活を維持することが困難なるために、同気相求むると云うか、同病相憐むと云うか、兎に角に類似した境遇から修験の妻となり、然も恵まれぬ日常を説明するものがあると考えるので、本間に必要ある点だけを抄出する。

一、明和五子年八月、寺社御奉行土井大炊頭殿役人小宮久右衛門殿
   神子之儀支配之訳相尋ニ付、今八月十日書上、左之通
   当山派修験添合ニ而巫女勤来候訳、並相改候趣
一、当山派修験之内ニ而、添合之神子古来ヨリ家ニ附連綿仕相勤候者、並注連弟子等外江嫁娵、当山派修験神子ヨリ注連ヲ請神子勤候者、縦社家之妻或者百姓之妻ニテモ、都而当山派ヨリ前々相改候、並社家ヨリ注連請候神子ニ而茂、当山派之添合ニ御座候得者、一同当山派ヨリ相改申候
右相改候趣者、延宝二年之頃、当山派修験年寄共有之、寺社御奉行所江改之儀申上置、其後元禄拾弐卯年三月、拙寺先々住、未タ鳳閣寺住職不破仰付前ニ而、吉蔵院卜号候節、寺社御奉行井上大和守殿江伺書差上、当山派修験添合神子注連弟子多ク有之、不法之儀モ相聞候ニ付、吟味之上不届仕候者ハ神職停止、当山添合分之者一派切ニ相改、国々ニ而不埒無之様可申付旨申上、相改候用脚トシテ、当山派修験添合神子並注連下之神子共ヨリ、青銅拾匹宛差出可為申哉之段、相伺候処、同四月十一日、松平志摩守殿ヨリ、於御内寄合井上大和守殿、伺之通被仰渡候以来、今以連綿仕、当山派ヨリ相改申候
右之趣ヲ以国々当山派触頭共江申付置、相改サセ申候儀ニ御座候以上〔四〕。
  八月                 鳳閣寺

これに由れば、(一)当山派の修験の妻で市子を営んだ者が相当に多かったこと、(二)是等の市子は注連下と称する弟子巫女を有していたこと、(三)修験の添合である市子、及びその弟子は、江戸浅草の当山派触頭鳳閣寺の支配を受けたこと、(四)改め料——即ち役銭として青銅十匹づつを鳳閣寺に納めたことが判然する。

此の結果として前掲の神事舞太夫頭の取締を受ける市子は舞太夫の妻と娘と、外に修験に属せざる特種の市子だけに限られたことが釈然とした。但し当山派以外の本山派の修験の妻にも市子があったか、若しあったとすれば、何者がそれを支配したかは、此の記録では何事も知られぬのである。而して此の乏しき資料から推すも、江戸期における市子の所属や管轄は、かなり複雑したものであることが察しられるのである。

釜払いと称する女祝(江戸風俗往来所載)

釜払と称する下級の女子神職が、山伏(修験)と同棲し、日陰者として生活しているところへ、仰向笠(笠の置き方で売笑を営む事を暗示したもので、その由来は次節に述べる)と称する市子が来て大喧嘩をなし、互いに身の上の秘密と非行とを摘発し合うた事件が、宝暦四年に出版された一応亭染子著の「教訓不弁舌」巻一に、「巫女イチコ釜払身の上諍」の条に、極めて露骨に描かれている。勿論、著者の誇張が加わり、事実そのままとは考えられぬけれども、克明に両者の社会的地位と生活の内容と、併せて当時の社会が如何なる態度で、これ等の者を待遇したかが窺われるので、長文の中からこれを証示するものだけを抄録する。

(上略)にや渡世とて、相模三河の辺より女の身にて、お江戸見ながらとの、思い付かは知らねども、すこし亀の甲なりの笠をかぶり、姿りりしく腰帯しゃんとしめて、木綿装束にて、何の商売ともしれず、ただぶらぶらと表を歩く者あり、此名を巫女イチコと呼べり。また神いさめと名付、宮祠の{女偏巫}ミコをまね、大麻ぬさ鶴亀の模様の付たる白染衣を着、鈴扇を持て、人の門々を塩からき声、又はさもいつくしき声にて、時々の祝ひ詞にふしを付て言ふもの、是を釜払といふ(中略)。
ある時、一ツの家に巫女を呼入、なにか知らぬが箸を持、茶碗に水を入れて、梓弓とやらむ、豆右衛門が二百石の時、用ひたると見てし弓を前に置、箸に水を付けてなめ、何やらんたわいなき事をいへば(中略)、今まで功者に口をきいた婆々が(中山曰。市子を呼入た婆さんなり)、俄に涙を流してくり返しくり返し涙をはらひながら、水をむけ、仕廻しまいには銭十二銅米などを(中山曰。これが普通一回の口寄せ料であろう)泣きながら出せば、なにが長屋中の婆々嚊、聞き伝へ、寄あつまって、皆々水をいちにかけて銭出して泣て帰る(中略)。
さてもそれ程に泣たいものかと、隣に住みし、かの釜払の女房が、亭主の山伏と咄しする所を、いちこ聞付(中山曰。釜払が商売敵の市子の毒口をいうのを市子が聞き、押かけて大口論となり、その結果、先ず釜払が市子を罵って)、そち達が行ゥがあるといふが何の行ゥがあるぞ、大かただましよい所は、十二銅を取って、だましてあるき、若い衆の居る所で呼べば、笠を仰向あおむけにして這入、百銭程づつも取ってあるくであらう(中山曰。今度は市子が釜払を賎めて)、さう云ふ、そちたちが、世間を歩行あるいて、若衆が呼んで、鈴はなりますかと問へば、アイといふて、小宿へ這入り、銭をとり馴染をかさねては、櫛笄あるひは鈴扇まで買ふて貰ふたであらう(中山曰。両方の口論が嵩じて、その果ては、先ず市子が釜払の前身を占いて)、我は是、元釜払なれども、鈴なりの土手組なり〔五〕。(中山曰。更に次には、市子自身の前身を神がかりの体にて)、我も元は仰向笠の同類なり云々(中山曰。すっかり己の不倫を自白してしまい、此の騒ぎを見聞した長屋の人々は、怒って市子を追い、釜払も亭主に前身を知られて離別されることになるのである)。

此の記事を勿論そのままに信用することは危険であるが、当時この種の巫女や釜払が多く市井を徘徊し、こうした醜態を演ずることも決して稀有ではなかったであろう。巫女の末路も又哀れにも涙多きものであった。

〔註一〕 
此の「系譜」を見て注意を惹くのは、入聟の多いことである。これに由ると、神子は後世に至るも、古い女系相続の面影を残していたようである。
猶、此の系譜に載せた巫女の職名に「惣ノ一」又は「梅ノ一」などある一は、イチコの意なるべく、更に又別に「右近」とあるのは、古き小町や式部のことが想い出される。而して最近に、福島県石城郡草野村大字北神谷の高木誠一氏を訪うた所、同氏所蔵の「元禄九年子二月朔日禰宜神子書上」と題せる古文書の北神谷村の条に「神子市兵衛後家竹女、市兵衛娘とら女、大蔵後家北ノ宮、彦左衛門後家三ノ宮、彦十郎女房まん女」の名が見えている。片田舎のモリコの身で、北ノ宮の、三ノ宮のと、宮号を用いるなどは、怪しからぬことであるが、巫女が神ノ子であるという、古い俗信の一片と見るとき、その価値の多いことが知られるのである。
〔註二〕 
「栗太志」。
〔註三〕 
先年、栃木県神職会足利支部の講演会に出席した際、来会の神職から、同県には一人で十八社を兼務している神職があると聞いた。こうせねば、生活が出来ぬとは気の毒であると、痛感したものである。
〔註四〕 
「祠曹雑識」は柳田国男先生の所蔵本に拠る。
〔註五〕 
土手組のことは、私にはよく判然せぬが、売笑を内職とした釜払の徒が集っていた所を、斯う謂うたものと考えて大過ないと思っている。