日本巫女史/第三篇/第三章/第四節

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日本巫女史

第三篇 退化呪法時代

第三章 巫女の社会的地位と其の生活

第四節 明治の巫女禁断と爾後の消息[編集]

明治維新の完成が、復古神道の思想を基礎としていただけに、神道及び仏教に関する施設に就いては、頗る峻烈なる態度を以て臨んでいたようである。殊に明治四年に発布された神仏分離の法例は、これを実行するに余りに勇敢であったために、遂に常識の軌道を脱して、廃仏毀釈の埒内にまで立ち入ってしまった。勿論、これは千年余を通じて、仏教と僧侶の為に圧迫されていた神道及び社人の、反抗的空気が磅礴したものである事は言う迄もないが、兎に角にその猛烈なる運動と、果敢なる実行とには、国内の上下を挙げて張耳飛目せざるを得なかったものである〔一〕。斯うして神道方面の改革に注意した明治政府は、当然、口寄せ神子の上にも及んで来て、明治六年に教部省の名によって、左の如き巫女禁断の法令が発せられたのである。

    達第二号       府 県
従来梓巫市子並憑祈禱狐下ケ杯ト相唱玉占口寄等ノ所業ヲ以テ人民ヲ眩惑セシメ候儀自今一切禁止候条於各地官此旨相心得取締厳重可相立候事
   明治六年一月一五日  教部省

当時、教部省の幹部をなしたものは、殆んど悉くが平田篤胤系の神道学者であったので、鈴振り神道を嫌うこと蛇蜴の如かりしため、市子が禁断されるのは自明のことであって、且つ市子自身が社会的に存在の意義を失っていたのであるから、此の禁令は当然の措置と言わなければならぬ。併しながら、国初以来、国民迷信の対象となっていた神子の呪術は、相当深刻に国民の皮肉に喰い込んでいたので、明治政府の威力を以てしても、中々一回の禁令では剿絶されなかったものと見え、翌明治七年六月七日には、再び『禁厭祈祷を以て医業等差止め、政治の妨害と相成候様の所業』を堅く取締るべき法令の発布を見た。かくて市子の名は永久に消え、その実も永久に断たれた訳であるが、事実はこれを明確に裏切っていて、禁令の発布を見た明治六年から、約六十年を経過した現時においても、猶お依然として、各地にその弊害を流しているのである。

市子は、名こそ変ったが、今に各地方に歴然と残っている。呪術も、方法こそ変ったが、今猶お顕然として存している。彼等は、明治の禁断以来は、宗派神道の教会に属して、肩書を教師と改め、神降しの呪文の代りに、御禊祓とか、中臣祓とかを唱えているが、その実際の所業は、昔の市子のそのままを伝えているのである。彼等は、素性の知れぬ依頼者に対しては、官憲の禁止を楯にして、古き呪術は一切行わぬが、顔馴染の者には公然と、是れが依頼に応ずるのである。

殊に民間における彼等の勢力には、実に驚くべきものがあって、私が昭和四年六月に常陸の潮来島に遊びしとき、近村に有名なる巫女の在ることを聞知して訪ねたところ、同人は旧正月に家を出たまま、篤信者にそれからそれへと招かれて、今に帰宅せぬとのことであった〔二〕。更に同年七月陸前の松嶋に遊び、同じく附近の高城町に知名の巫女が居ると聞き、人を派して在否を確かめさせたところが、これも三ヶ月前から村から村へ稼ぎ歩いているとのことであった。而して私は此の二回の失敗に就いて、これは巫女の方で特に辞を設けて遁げるのではないかと疑って見たが、これは私の僻見であって、実際に斯うして例は各地に存していることを耳にした。

是等の事実を目睹した私は、窃に斯う考えている。市子というが如き迷信は、恐らく人類の存する限り、時に消長あるも、永久に存するものではなかろうかと、市子の力も亦た偉なりと言うべきである。

〔註一〕 
明治初期の神仏分離、及び廃仏毀釈の運動に就いては、記すべき多くの事件もあり、これと同時に、是等の機運が巫女に波及した事実も若干知っているが、今は大体にとどめて省略した。神仏分離に関しては、辻善之助氏等の編纂した大部の書籍がある。
〔註二〕 
「旅と伝説」第二年第六号所載の拙稿に詳記して置いた。