日本巫女史/第三篇/第二章/第三節

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日本巫女史

第三篇 退化呪法時代

第二章 当代に於ける巫女と其の呪法

第三節 我国随一の巫女村の起伏[編集]

信濃国小県郡禰津村が、江戸期三百年を通じて、我国で随一の巫女村みこむらであることを、私は上田中学の角田千里氏から教えられたので、早速、同地へ出張して調査しようと企てたが、角田氏の居所は、同村へ近いというので、私の旅行嫌いをよく知っている同氏は、劇務の時間を割いて、昭和四年弐月一七日に態々同村を踏査され、土地の故老に就いて訊く所があり、更に遺物に就いて調べる所があり、前後三回に亘って、詳細なる(一回の通信便箋にて三四十葉のもの)高示を寄せられた。而して私はこれに由って、禰津村の概略を知ることを得た。

ただ、更に一歩をすすめて、何故に禰津村に市子が土着し、然も斯うした大規模の巫女村を構成するに至ったか、それが判然せぬので、多少苦しんでいたところ、学友樋畑雪湖氏が此の事を聴かれ、同氏の親友である、上田市の先輩で、且つ江戸軟文学の研究家として令名ある飯嶋花月氏に、此の間の事情を文通せられたので、飯嶋氏から返信を得たとて私に示された。私はこれに由って、禰津村の由緒と、此処に市子の土着した事情が判然し、更に同氏の高示により、「本道楽」にて、禰津村の巫女の鼻祖となった千代女のことも釈然して、日本一の巫女村の消長をやや明確にするを得たのである。

然るに、更に今度は「長野新聞」で明治四十一年一月廿日から同廿五日まで、此の村の巫女(に載せた記事に引続いているが、標題は異っている)を書いた記事の謄写を、同社記者伊勢豊氏から恵贈を受けたので、ここに充分なる資料を得て、此の稿を起すことが出来たのである。執筆に際し、此の事を明記して、私のために配慮された各位に感謝の意を表する次第である。猶お此の記事は文体を統一する必要と、資料を按排する関係から、私が随意に書き改めたものであるが、その出典は記事の終りに註として附記した。

一、名族滋野氏の末路と巫女頭

滋野氏は信濃源氏の名族であって、鎌倉期の初葉において、已に二十三家に分れ、信濃国の佐久・小県二郡の大半を領地としていた。木曾義仲が信濃で旗挙げした時は、此の一門が中堅であって、南北朝期には、望月・海野・禰津の三家を始めとして、多くは南朝に属し、諏訪の神家一族と共に、隣国上野の新田氏と呼応し、長く東国の官軍の間に重きをなしていた。而して室町期の末葉に、武田信玄が甲斐に起り、越後の上杉謙信と矛を交うるや、永禄四年に信玄の甥なる望月盛時(入道して印月齊と称す)が、川中嶋の戦に討死したので、信玄はその後室千代女に対し、甲信二国の巫女頭たるべき朱印状(この本文は既載した)を与え、千代女は旧縁を頼って禰津村に土着し、ここに禰津村が我国随一の巫女村となるべき基礎が置かれたのである。

勿論、千代女が、当時の社会感情から見て、余り尊敬を払われなかった巫女頭になったに就いては、又併せ考えなければならぬ事情が存していたのである。それは外でもなく、同じ滋野氏の一族であった滋田氏が、望月町の月輪山郷東寺と称する当山派の修験者であって、佐久郡の触頭を勤めていた関係から、叔父に当る信玄に請うて巫女頭となり、その収入によって、安気に世に処し、兼ねては亡夫の後世を弔う意味の含まれたものと解すべきである〔一〕。

二、禰津村の由来とノノウ小路

禰津村は、江戸期には、禰津東町、禰津西町の両部落に分れ、旗本久松氏の領地であったが、明治二十二年に町村制が施行された折に、姫子沢外一二の村落を併合して、今の禰津村となった。而してその西町と俚称する所が、市子の根拠地であって、俗にこれをノノウ小路と呼び、又た古御館ふるみたち(中山曰。巫女頭千代女の遺跡?)とも呼んでいる。明治の初年までは、此の両側に数十戸(又は四十戸とも云う)のノノウ宿やどがあって、夫は重に農業に従事し、妻は専ら呪術に従い、毎年或る期間を定めて、各地へ出稼ぎに往くときは、老人と若い男子が留守居をなし、夫は「荷持にもち」と称して、市子一行の荷物を持ちながら、妻やその他の者が呪術を行うときには「問口といくち」の役を勤め、傍ら一行の監督をしたものである。禰津村は、滋野氏と関係が深かっただけに、昔は種々なる遺跡もあったが、今は大半まで亡びてしまって、纔に禅宗拈華派の本山定津院と、俗にお姫尊と称する領主久松氏の庿がある位のものである〔二〕。

三、ノノウの養成法と抱主との関係

同地のノノウは、各戸の親方が抱主かかえぬしとなって、或は年限を定め、又は養女として抱えるのであって、抱主は自家のノノウに就いては、監督権を有していたことは言うまでもなく、古くは更に立ち入った権利をも有していたようである。従って抱主と、ノノウとの間柄は、師弟関係というよりは、寧ろ主従関係と見るべきものであった。抱主は、少きは三四人、多きは三十人位まで抱えていて、此の総数は時に消長あるも、常に二三百人を降らぬ大勢の巫女が、此の小路に居たのである。

ノノウになる女子は、抱主が巡歴先から連れてくるもののみで、その多くは美濃・飛騨の両国からだと云われているが、実際はそんな狭い範囲ではなく、広く往く先々さきざきから連れて来たらしい(中山曰。信州巫女の足跡は東は関八州から西は紀州辺まで及んでいた)。土地の者は『容姿の綺麗の女の子の、八九歳から一五六歳までの者を、貰ったり買ったりしたものだ』と語ったというが、之は実際の事で、抱主が毎年のように出かけて往く土地へ頼んで置いて、安い金で貰ったり買ったりして連れて来たのであろう。容姿の美しいことが条件となっていたのは、此の種の市子が内職として営んだ収入に大なる関係を有していたためである。

而して新しく連れて来たノノウの候補者を仕込むには、毎年、寒中でも水を浴せて仕込んだものだということである〔三〕。禰津最後の初音はつねノノウが、長野新聞記者に語ったところに由ると、彼等の修業は少女時代であって、これを教える者とて別に専門のものはなく、ただ先輩に就いて教えられるのであるが、その時は斎戒沐浴して、身体を清め先輩のノノウと対座して、生口、死口の文句の口授を受けるのであるが、一通り覚えるには、その者の天分によって遅速があるも、普通三年から永くて五年かかる。文句を覚えると、今度は各自の修業によって、所謂、上手な巫女ともなり、また下手な巫女にもなるのである。一寸聞くと、彼等の言う文句は、殆ど千遍一律で、版に刷ったようで多くの相違はなく、従って文句を覚えるだけに三年も五年もかかるとは信ぜられぬが、生口と云い、死口と云うも、年齢や、境遇や、男女の別などで、十人が十人まで事情を異にしているのであるから、どんな口寄せの種類を頼まれても、間誤つかぬように手際よく遣ってのけるには、どうしても是れ位の年月を要すると云う。更に上手下手とは、同じ事を言うにも巧みに応用の出来るもの、又は対手の顔を見て、芝居を仕組むことの妙を得た者と、これに反して絶句したり、思い違いしたり、芝居の拙い者とあり、その者の天分で致し方の無いものだとの事である。そして修業中は、その者により相違はあるが、塩気を断つとか、甘味を断つとか、何か一種断物をする。修業期を過ぎると、断物と毎日の水垢離だけは許されるが、併しノノウをしているうちは、寒垢離と獣肉を喰わぬことだけは守らねばならぬ掟となっていた。

四、巡業中の収入と生活の一班

禰津のノノウは、毎年旧正月から同四月までに、己がしじ得意を持っている地方々々へ巡業に出かける。それは各戸一定して一時に出発するのではなく、各戸の都合で随時随時に出かけるのであるが、愈々出発するには、吉日を択ぶのは商売上いうまでもなく、一戸毎に一団となり、多きは二三十人、少きは四五人で列をなして往く。かくて出先きで、又幾団かに区分され、先輩に率いられて、西に東に袂を分ちて稼ぐのである。ノノウが出かける時は、村の人達にも一々叮嚀に挨拶して、後を頼んで往くが、これは旅から旅を、若い女の身の上で半年以上も漂泊するのであるから病気その他の事でどうなるかも知れぬという哀愁の心から来ていたのである。毎戸とも少しばかりの留守居を残して出払うのが習いで、幼者と老人が毎に残されるのである。

ノノウが出発する時の荷物は、大懸りのものであって、夏冬の衣類から一寸した手廻りの道具まで持って往ったものである。土地の伝説によると、ノノウは鑓一筋(千石取りの旗本)の格式を与えられていて、荷物は宿場々々の問屋場に公然と運搬方を依頼する事が出来て、関所も手形なしで(中山曰。巫女にも手形を要したことは既述した)通れると言われていたほどで、往く先々には、毎年の定宿があった。抱主が是等と同行し、指揮し、監督することは、前に記した如くである。而して彼等は毎日のように定宿を出でては、附近の村々に入り込み、依頼を受けて呪術をなし、雨の降る日や、夜などは、定宿を訪ねる依頼者を迎えて、呪術をしたのである。かくて半歳余を渡り鳥のように送り暮して、十一月の末か十二月の初めまでは、各戸とも殆んど言い合せたように故郷の禰津村へ帰って来る。途中で事故があっても、必ず大晦日までには帰村するように習慣づけられていた。

昔はノノウ連中が帰ると、急に村が裕福になり、金廻りが良くなったものだと、今に語られている。彼等は半年余を到る処で稼ぎ溜め、それぞれ大金を持って帰村し、或る者は村の資産家に預金する者さえあった。帰村の折には、村中の懇意の家々には土産物を贈り、又家に招いて留守中世話になった礼心に馳走するなど、毎年ノノウが帰った当座は、八ヶ嶽の山々は雪を被って寝ているのに、村は春のように陽気になったそうである。そしてノノウ達は、帰村してからは、毎日家にいて神々を祭り、偶には近村へ出かけ、又は来宅する者に呪術を施したが、此の収入も決して尠くはなかったと云われている。

ノノウの収入は、決して少いものではなかった。旅に出て、一回どの位の礼金を取ったものか、それは正確に知ることは出来ぬけれど、彼女たちの一年間の生活を、優に支えて往けるだけの費用を得たことだけは事実である。従って、彼女達は、村人の生活としては、驚くほど贅沢であって、食う物も、着る物も、山家には見られぬほどのもので、冬中は毎日遊び暮していた。これは旅に出る身とて、旅籠飯はたごめしに馴れて口が驕り、衣服も華美を好むようになったためであろう。

併し、服装は華美でこそあれ、普通の女性と異ることなく、結髪も特種の習俗はなかった。巡業中は旅姿であるから、例の外法箱を紺の風呂敷で背負い(風呂敷は舟形に縫うを定めとす)、白い脚袢を穿き、下襦袢だけ下げて(中山曰。紀州田辺町地方では信濃巫女は、白湯文字を出して歩くので、俚称を白湯文字と云ったことは既述した)、上衣は裾高く括りあげて歩いた。呪術する時には、その裾を下すのを作法としたが、そのままで遣ることも、珍らしくはなかった。

ノノウは修業年限を終ると、毎月幾らと抱主に支払うべき金額(食料とか借金の返済分とかを含めて)が定まっていて、それ以外はノノウ個人の収入であった。又ノノウが独立して、抱主の家を離れようとするときには、一定の礼金を納めたようであるが、正確のことは判然しない。明治になってから呪術料は依頼者の心まかせで、一回五六銭から五十銭まで、外に白米五合から一升まであった〔四〕。

五、ノノウの性的生活と旅女郎

ノノウは夫を持たぬというのが、表面上の立前であった。併し事実はこれを立派に裏切っていて、抱主の妻は悉くノノウであった。又抱えられているノノウでも、旅へ出ると必ず男を拵えた。反言すれば、男を拵えることは、彼女等の内職の総てであった。併し、これに対する抱主の態度の割合に寛容であったのは、要するに抱主は、ノノウが男を拵えようがどうしようが、金を沢山に儲ける者が大切であったからである。「長野新聞」の記事の一節に『ノノウの事を一に旅女郎とも云った』と載せ、倫落する過程を詳しく説明しているが、これは第二篇に屢述した経路と全く同じ道筋を歩んだものであるから、重複を避けて省略した。元来が信仰に根ざした聖職でなくして、貰われたり、抱えられたりした営業である以上は、ノノウが斯うした浮名を到る所で流したのは、当然のことである。但し、禰津村に居る時だけは、厳格に独身生活を持していた〔五〕。

六、ノノウの階級とその遺物

禰津のノノウには、その全体を統率しているような棟梁はなく、各自の家々が独立して遣っていた。又今日の組合というほどの機関もなく、ただ古い習慣のままであった。此の点から察すると、此の巫女村は一人の鼻祖から分れて数十戸をなしたのではなく、類を以て集った人々の寄り合いにしか過ぎぬことが会得される。各戸内でも、別段に姉弟子と妹弟子という階級も無かったと云われているが、これは自然と先後輩位の階級はあったと見る方が穏かであろう。金を取ることの上手であったノノウは、金を遣うことも荒く、抱主なども又それであって恒産を持っている者などは殆んどなく、一年の収入は、一年に支出するという風で、旅稼ぎに出かけるのに、路用がなくて借金する者も少く無かった。併し此の金は、如何なることがあっても返金したそうである。

明治維新の改革は、此の禰津村をして一人のノノウも存せぬまでに変化させてしまった。ノノウ小路の名も、古御館の跡も、老人ならでは知らぬようになってしまった。従って今日では、土地の者さえ、禰津村が日本第一の巫女村であったなどとは知らぬ有様であって、遺物としては、漸く墓碑に彫った法名が普通人と相違している位のものに過ぎなくなってしまった。而してその法名は「観林良音社士」とあるのは抱主で、「無相妙瑞社女」とあるのはノノウである。斯うした神女、または社尼と刻んだ石碑は、訪ねる者も無いと見え、墓畔の孤松が時に無韻の歌を奏して、これら薄倖なりし人々の魂を弔う如き感じがした〔六〕。因に、島崎藤村の「破戒」は、禰津村に起った事件を描いたものだと言われている。

〔註一〕
静岡県で発行された「本道楽」第六巻第六号所載の町田良一氏の記事に拠り、これに多少の敷衍を加えた。
〔註二〕
此の一項は、専ら飯島花月氏の高示に拠り、他に角田千里氏の高示を参酌した。
〔註三〕
此の項は角田千里氏の高示に拠った。角田氏は磐城棚倉町のお方と聞いているが、私は氏が国学院大学に在学中から御懇意を頂いていて、今度は殊の外の御骨折をかけたことを鳴謝する。
〔註四〕
角田氏の高示に拠る。
〔註五、六〕
同上。