日本巫女史/第二篇/第六章/第三節

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日本巫女史

第二篇 習合呪法時代

第六章 巫女の社会的地位と其の生活

第三節 巫女の流せる弊害と其の禁断[編集]

巫女教であった原始神道が、時勢に促されて神社神道となり、更に政治的の意味が加って、国体神道とまで発達するようになれば、従来は正信と認識されていた巫女の言行は、漸くにして悉く迷信と解釈せられるのは、蓋し止むを得ぬ世相の成り行きであった。加之、支那の蠱術を受け入れ、仏教の吒吉尼の邪法を附会するようになれば、巫女の言行は全く有害無益のものと化し去ってしまったのである。而して此の流毒は、既に古代から存していて、治者の間には、厄介なる問題として、取扱われて来たのである。「皇極紀」三年の条に、

秋七月、東国不尽川辺人、大生部多、勤祭虫於村里之人曰、此者常世神也、祭此神者、致富与寿、巫覡等遂詐託於神語曰、祭常世神者、貧人致富老人還少、由是加勧捨民家財宝、陳酒陣菜六畜於路側、而使呼曰、新富入来、都鄙之人、取常世虫、置於清座、歌舞求福、棄捨珍財、都無所益、損費極甚、於是葛野泰造河勝、悪民所惑、打大生部多、其巫覡等、恐休其勧祭云々(国史大系本)。

こうした迷信騒ぎが、常に巫覡の手によって醸され、その弊害は各地に存したことと思うが、就中、それを助長したのは、奈良朝の聖武・称徳の両朝が、事に猖獗を極めたようである。聖武帝は崇仏の余り、正信の境を越えて、迷信に玉歩を入れさせられたように拝さるる点もあり、称徳帝は女性であらせられた上に、前には恵美押勝を、後には僧道鏡を召されるなど、此の両朝には、巫覡の徒が跳梁すべき間隙が相当に多く存していた様であるから、自然とかくの如き結果を招致したものと考えられる。「続日本紀」天平勝宝四年八月の条に『捉京師巫覡十七人、配伊豆隠岐土佐等遠国云々』と見えたるを始めとし、同じ天平勝宝六年十一月の条には、左の如き記事が載せてある。

薬師寺僧行信、与八幡神宮主神多麻呂等、同意厭魅、下所司推勘、罪合遠流、於是遣中納言多治比真人広足、就薬師寺宣詔、以行信配下野薬師寺、丁亥従四位下大神朝臣杜女、外従五位下大神朝臣多麻呂、並除名従本姓、杜女配於日向国、多麻呂於多褹島、因更択他人補神宮禰宜祝云々。(続日本紀巻十九)。

此の杜女は屢記の如く、孝謙朝に東大寺の大仏が建立せらるる際に、遠く九州より宇佐八幡神を奉じて入京し、神仏一如の実を示したので、御感に入り、従四位に叙せられ、封戸を賜った巫女であるが、忽ち或種の事件に触れて、遠流に処せられたのであるが、その理由が蠱術にあることは言うまでもない。而して此の事は、前にも一言したが、奈良朝から次期の平安朝へかけて、頻りと蠱術に由る疑獄が起っているが、これは一面において、当時こうした事実の猖んに行われていたことを明かにするものであると同時に、一面においては、是等を利用する政治家の在ったことを注意せねばならぬのである。当時、巫覡の徒が、如何に識者の嫌厭を買っていたかを証示するものとして、吉備真備の「私教類聚」のうちから、左の一節を引用することが出来る。

     莫用詐巫事
右詐巫之徒、里人所用耳也、真之巫覡、官之所知、神験分明、不敢所謂者也、但子孫汝等、好用詐巫、具聞巫言、何費若此、又生死病死、理之所然、天下含生、何物不死、詐巫邪道、豈得更生、何者巫之子孫、何為夭折、巫之家道、何至貧窮、未得我身、何与他願、宜知此意莫信詐巫、又常経他家、詐説怪異、教以解潔、即脱衣裳、損失過多、絶而无益、凡偽巫覡、莫入私家、巫覡毎来、詐行不絶(史籍集覧本「政事要略」巻七十所載)。

此の「私教類聚」なるものが、果して真備の遺誡であるか否かは、学問的に見れば、多少の疑いなきを得ぬのであるが、その詮索は姑らく措くとしても、兎に角に「政事要略」が編纂された平安朝においては、そう信じられていたことだけは、事実と見て差支ないようである。而して此の文意を解釈すると、真備は、(一)巫女を二大別して詐巫と真巫とに分ちしこと、(二)詐巫は里人の用うるもの、即ち後世の口寄系に属し、真巫は官用のもので、即ち後世の神和系に属するものとしたこと、(三)詐巫は主として邪道を行いしこと、(四)詐巫の説くところは延命と招福とにあったこと、(五)そして彼等を信ずると多大の失費を要した事などが知られるのである。若しこれにして誤りなくば、千年余を経た江戸期の市子と殆んど択むなき言行と云うべきである。

巫覡の弊害は、年と共に甚大を加えて来たようで、遂に光仁朝の宝亀年間には、左の如き禁断の勅令が発布さるるに至った。即ち「類聚三代格」巻十二に載せてあるものが、それである。

    禁断京中街路祭祀事
勅、比来無知百姓、構合巫覡、妄崇滛祀、芻狗之設、符書之類、百方作怪、填溢街路、託事求福、還渉厭魅、非唯不畏朝憲、誠亦長養妖妄、自今以後、宜厳禁断、如有違犯者、五位已上録名奏聞、六位已下所司科決、但有患祷祀者、宜於京外祓除、(国史大系本)。
  宝亀十一年十二月十四日

此の禁令の内容によれば、当時、巫覡の詐術に迷うたものは、決して無智の百姓ばかりでなく、五位六位の有識階級にも少くなかったことが窺われ、且つ巫覡が専ら延寿招福を説き、種々なる呪術を敢てし、殆んど後世の医師の如き真似までしたことが想われるのである。而してかかる巫覡の出没は、恰も野火焼いて尽きず、春風吹いて又生ずる雑草の如く、官憲の力を以てしても、根絶することは出来なかったと見え、歴聖ともに、これが禁断の法令を下している。同じ「類聚三代格」巻十二に、大同年中の禁令が見えている。

     応禁断両京巫覡事
右被右大臣宣、称、奉勅、巫覡之徒好託禍福、庶民之愚仰信妖言、滛祀斯繁、厭呪亦多、積習成俗、虧損淳風、宜自今以後、一切禁断、若深祟此術、猶不懲革、事覚之日、移配遠国、所司知之不糺、隣保匿而相容、並准法科罪、
  大同二年九月二十八日

此の禁令で、特に注意すべき点は、巫術を行う者は勿論のこと、それを信仰する者、並びに情を知って不問に附せる所司、及び是等を隠匿せる隣保の者まで、連座して罪科に処すと規定したことである。察するに、尋常の刑罰を以てしたのでは、到底、この習を積み、俗を成した害毒を掃蕩することが出来ぬので、遂に遠流というが如き重刑を科した上に、隣保を以て互に相警戒させる方法に出たものと考えるのである。併しながら、飯の上の蝿の如き彼等は、追えば散ずるも、追わねば直ちに集り来て、以前にも幾倍した跋扈をつづけて止まぬのであった。勿論、当代において、かく巫覡の徒が民心を支配していたのは、その時勢が要求したことを考えなければならぬ。貴族政治はややもすると、国民を一種の搾取機関として軽視する傾きが生じ易く、民権は常に圧迫されて伸長する機会は与えられず、此の反対に、悪疫は絶えず生命を脅し、群盗の出没や、飢饉の襲来は生活を不安ならしめるなど、民心は弥が上にも、迷信に奔らざるを得なかったのである。従って、官憲において、巫覡禁断の法令を雨下したところが、その根患が救済されぬ以上は、中々に払拭さるべき筈がないのである。されば代々の朝廷が、これが剿滅に努めたるにもかかわらず、神託は依然として濫出し、巫術は以前にも増して猖行されていたのである。左に掲ぐる太政官符の如きは、神託の濫出を官憲が持て余した内情が窺われるのである。即ち「類聚三代格」巻一に曰く、

    応検察神託事
右被大納言正三位藤原朝臣園人、宜、称、奉勅怪異之事、聖人不語、妖言之罪、法制非軽、而諸国民信狂言、申上寔繁、或言及国家、或妄陳禍福、敗法乱紀莫甚於斯、宜仰諸国令加検察、自今以後若有百姓輙称託宣者、不論男女随事科決、但有神宣灼然其験尤著者、国司検察定実言上(同上)。
  弘仁三年九月二十六日

こうした禁令も、仔細に詮索したら、まだ此の外に存することと思うが、今は大体を尽すにとどめて、本節の結論に急ぐとする。而して私の寡聞かは知らぬが、此の種の禁令も平安前期を境として、それ以来は余り厳重なる取締法の発布に接していぬのである。それでは、巫覡の出没と、余弊とは、全く跡を絶ったかと云うに、事実はこれを裏切って、益々その数と量とを加えているのである。此の事象を見て、私の考えたことは、古代から平安前期までは、官憲の力を以てすれば、これを掃蕩することが出来ぬまでも、幾分なり制御し、矯正し得られたのであるが、平安後期以降にあっては、社会の紐帯も弛み、上下とも迷信に惑溺した為に、これを取締る力が全く失せてしまった許りでなく、却って之れを増長せしめるような態度さえ見える位である。而して斯うした世相は、時に消長あるも、鎌倉・室町の両期を通じて大なる渝りもなく、更に江戸期に入っては、巫女の堕落が、自己の地位を低め、殆んど問題とされぬまでになったので、厳重なる禁令もない代りに、漸く余喘を保つという有様を持続したのであるが、かくて明治期に入り、遂に禁絶さるるに至ったのである。

本篇を終るに際して、一言附記すべき事がある。それは外でもなく、総論において述べた「巫女化石」の伝承によって、当代の巫女に対する俗信を記述しようと思い、その材料を集めて置いたのであるが、これに就いては、既記の如く、柳田国男先生が「郷土研究」に連載した「老女化石譚」に尽しているので、私の浅学を以てしては、これ以上に言うべきことは少しも無いと信じたので、今は総てを省略し、篤学のお方は同誌に就いて御覧を願うとした事である。偏に読者の寛容を乞う次第である。