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日本巫女史/第一篇/第一章/第一節
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浦木裕
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[[日本巫女史]] [[日本巫女史/第一篇|第一篇 固有呪法時代]] [[日本巫女史/第一篇/第一章|第一章 原始神道に於ける巫女の位置]] ==第一節 我国に於ける神の発生と巫女== 我々日本人の遠い祖先達が、始めて発見した神の<ruby><rb>相</rb><rp>(</rp><rt>すがた</rt><rp>)</rp></ruby>(超自然的の力と云おうか、非人格的の力と云おうか、神と云うには相当の距離のあるもの)は、それは疑いもなく<ruby><rb>魔</rb><rp>(</rp><rt>デーモン</rt><rp>)</rp></ruby>であった。而してその第一は病魔であった。「古事記」に冊尊が火之迦具土神を産んだ為めに『<ruby><rb>美蕃登炙</rb><rp>(</rp><rt>ミホトヤカ</rt><rp>)</rp></ruby>えて<ruby><rb>病臥</rb><rp>(</rp><rt>ヤミコヤ</rt><rp>)</rp></ruby>せり』とあるのがそれであって〔一〕、「日本書紀」の一書に同じ事象を記して『伊弉冉神、軻遇突智を生ましむとしたまふ時に、<ruby><rb>悶熱懊悩</rb><rp>(</rp><rt>アツカヒナヤム</rt><rp>)</rp></ruby>、因て<ruby><rb>吐</rb><rp>(</rp><rt>クグリ</rt><rp>)</rp></ruby>したまふ、此れ神と<ruby><rb>化為</rb><rp>(</rp><rt>ナ</rt><rp>)</rp></ruby>りましつ、名を金山彦といふ。次に<ruby><rb>小便</rb><rp>(</rp><rt>ユマリ</rt><rp>)</rp></ruby>したまふ、神と<ruby><rb>化為</rb><rp>(</rp><rt>ナ</rt><rp>)</rp></ruby>りましつ、名を<ruby><rb>罔象女</rb><rp>(</rp><rt>ミヅハノメ</rt><rp>)</rp></ruby>といふ。次に<ruby><rb>大便</rb><rp>(</rp><rt>クソ</rt><rp>)</rp></ruby>まりたまふ、神と化為りましつ、名を植山姫といふ』とあり〔二〕、是等の神々は、冊尊が病魔に悩された為めに成りました<ruby><rb>魔</rb><rp>(</rp><rt>デーモン</rt><rp>)</rp></ruby>であった〔三〕。 而して其の第二は、死魔であった。「古事記」に、諾尊が冊尊の後を追うて<ruby><rb>黄泉</rb><rp>(</rp><rt>よみ</rt><rp>)</rp></ruby>に往き、冊尊の神避りし屍体を見ると、『<ruby><rb>蛆集</rb><rp>(</rp><rt>ウジタカ</rt><rp>)</rp></ruby>れ<ruby><rb>蘯</rb><rp>(</rp><rt>トロロ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎて、御頭には大雷居り、御胸には火雷居り、御腹には黒雷居り、御陰には拆雷居り、左の御手には若雷居り、右の御手には土雷居り、左の御足には鳴雷居り、右の御足には伏雷居り、併せて八の雷神成り居りき』とある。而してここに雷とあるのは蛇の意であって〔四〕、即ち蛇の如き形した汚き蛆の居るを言うたのである。而して此の死魔に驚いて諾尊が逃げ還える折に、冊尊が追わしめた<ruby><rb>黄泉醜女</rb><rp>(</rp><rt>ヨモツシコメ</rt><rp>)</rp></ruby>が<ruby><rb>魔</rb><rp>(</rp><rt>デーモン</rt><rp>)</rp></ruby>であることは言うまでもない。 魔を発見した古代人は、直ちにこれを払うべき呪術を併せて発見した。即ち冊尊を死に導いた火ノ神を払うべく、水ノ神と土ノ神を生み〔五〕、更に諾尊が黄泉醜女——即ち<ruby><rb>魔</rb><rp>(</rp><rt>デーモン</rt><rp>)</rp></ruby>に追われる途上に於ける状態を「古事記」は記して、 : <ruby><rb>爾</rb><rp>(</rp><rt>カレ</rt><rp>)</rp></ruby>、伊邪那岐命、黒御鬘を取て投棄てたまひしかば、乃ち<ruby><rb>蒲子生</rb><rp>(</rp><rt>エビカツラノミナ</rt><rp>)</rp></ruby>りき。是を<ruby><rb>摭</rb><rp>(</rp><rt>ヒリ</rt><rp>)</rp></ruby>ひ食む間に逃行でますを、猶追ひしかば、亦其の右の<ruby><rb>御角髪</rb><rp>(</rp><rt>ミミヅラ</rt><rp>)</rp></ruby>に刺せる湯津々間櫛を<ruby><rb>引闕</rb><rp>(</rp><rt>ヒキカ</rt><rp>)</rp></ruby>きて、投棄てたまひしかば、乃ち<ruby><rb>筍生</rb><rp>(</rp><rt>タカムナ</rt><rp>)</rp></ruby>りき。是を抜き食む間に逃行でましき。且後には、其の八の雷神に、千五百の黄泉軍を副へて、追はしめき。<ruby><rb>爾</rb><rp>(</rp><rt>カレ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>御佩</rb><rp>(</rp><rt>ミハカ</rt><rp>)</rp></ruby>せる<ruby><rb>十拳剣</rb><rp>(</rp><rt>トツカノツルギ</rt><rp>)</rp></ruby>を抜きて、<ruby><rb>後手</rb><rp>(</rp><rt>シリヘデ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>揮</rb><rp>(</rp><rt>フ</rt><rp>)</rp></ruby>きつつ逃げ来ませるを、猶追ひて、黄泉比良坂の坂本に到る時に、其の坂本なる<ruby><rb>桃子</rb><rp>(</rp><rt>モモノミ</rt><rp>)</rp></ruby>三個取りて、御撃ちたまひしかば、悉に逃げ返りき(中略)。最後に其の妹伊邪那美命、身自ら追来ましき。<ruby><rb>爾</rb><rp>(</rp><rt>スナハ</rt><rp>)</rp></ruby>ち、千引石を其の黄泉比良坂に引塞へて、其の石を中に置きて、各対立して、事戸を度す(中略)。其の黄泉坂に<ruby><rb>塞</rb><rp>(</rp><rt>サヤ</rt><rp>)</rp></ruby>れり石は、道反大神とも号し、塞坐黄泉戸大神とも<ruby><rb>謂</rb><rp>(</rp><rt>マヲ</rt><rp>)</rp></ruby>す。 とある如く、<ruby><rb>魔</rb><rp>(</rp><rt>デーモン</rt><rp>)</rp></ruby>を払う呪術として、鬘、櫛、剣、桃、石の五つが、それに当てられたのである。 而して此の記事は、種々な暗示を投じているが、その第一は、我国における原始的神聖観念(まだ宗教とか神道とかいう段階に達せぬ)とも見るべきものであって、魔に対する呪術の発生を説くものとして注意すべきである〔六〕。 第二、此の記事に現われた諾尊の位置は、宗教学的又は民族心理学的に言えば、全くの呪術師としての仕事をなされた結果となっているのである。 第三は、その呪術師の投げ棄てた物のうちで、鬘より蒲子、櫛より筍、及び桃と、三つまで人類の食料となるべきものが含まれていることである。これは我国の原始時代が未だ農耕期に入らずして、野に山に食料を蒐めた奪略生存時代であることを知ると同時に、呪術師の第一の仕事が食料を齎らすことにあったことが知られるのである。 第四、是等の食料に対して、一種の霊のあることを認めていたのは、当時の<ruby><rb>万物有霊</rb><rp>(</rp><rt>アニミズム</rt><rp>)</rp></ruby>の思想を表わしているのである。是等は元より神話のことであるから、直ちにこれを以て人類生活の状態と見ることは出来ぬけれども、由来、神話なるものは、その習慣なり、民俗なりが存していたので構成されるものであって、神話の機構から習慣や民俗が生れぬことを知るとき、此の神話中に太古の人類生活の状態が濃厚に反映していることが認められるのである。 こうした最初の発見の<ruby><rb>魔</rb><rp>(</rp><rt>デーモン</rt><rp>)</rp></ruby>は、一面社会的であると同時に、一面個人的のものであった。而して前者の社会的魔は山や河に潜む魔になり、更に森や野に、又は時として空中に迷い、地下に潜む魔となった。そして後者の個人的魔は死体より出ずる魔、病気を起す魔となったのである。けれども、魔は個性を有せず、類型的であるために、後には雑糅されて、魔から幽霊へ、更に幽霊から霊魂へと過程して、遂に精霊なるものとなって信仰されるようになった。即ちこれが<ruby><rb>古有霊</rb><rp>(</rp><rt>プレアニミズム</rt><rp>)</rp></ruby>から<ruby><rb>精霊</rb><rp>(</rp><rt>スピリット</rt><rp>)</rp></ruby>への発見の過程である。 併しながら、魔と云い、霊魂と云い、精霊と云うも、所詮は眼に見ることの出来ぬものに対する心の力である。此の心の力の動きは即ち宗教的感情そのものであらねばならぬ。而して古代人は、人は各一つの霊魂を有し、その霊魂は或は身体と共に存し(ヴントはこれを<ruby><rb>一般的身体魂</rb><rp>(</rp><rt>アルケツスイネ・ケルベルビール</rt><rp>)</rp></ruby>といっている)、又は一時的に身体から去り、離れた所に現れると信じられ、この思想を拡大して行って、土地や、動物や、植物まで、霊魂を有すると考え、更に死によって、霊魂と身体とが永久的に分離する所に、精霊が生ずるのであると信じた。或はこれを価値批判の立場から、精霊の崇高なるものは、土地や、山海や、河川の精霊であって、その最も簡単なるものは、人間や、動物の精霊であって、元の肉体から分離したものであると考えた。精霊は外の生物の中に入って住む事が出来るが、その肉体に属するものとして入っているのではない。実際、霊魂は体と分離し得るとしても、それは生きているうちは、睡眠中における夢の如く一時的のものか、それでなければ死んだ場合に限られるとしていた。こうした思想から導かれて、我国の古代人の世界観は、無数の霊魂と精霊——即ち体を離れた霊魂によって満たされているものと信じていたのである。 然るに我々の遠い祖先である日本人は、<ruby><rb>魔</rb><rp>(</rp><rt>デーモン</rt><rp>)</rp></ruby>を発見する以前——若しくは同時に、一種の神聖観念である神秘的の力の信念とも云うべきものを有していた。そしてこれを「いつ」(稜威、厳)という語で現わしていた。而して此の「いつ」の観念は、我国の原始時代の神聖観念の源泉であり、基調であって、神を発見する以前にあっては、専ら此の観念が活いたもので、最近の宗教学、民俗学・乃至社会学者の間において、深甚の研究と、多大の興味を維がれている彼のメラネシヤ民俗の有するマナ(mana)又はイロクオア人(アメリカ・インディアンの一部族)の有するオレンダ(Orenda)、又は支那の「精」(Tsing)(精は気(Khi)の中に示現して、生物を発生せしめる意)と同じようなものを有していた〔七〕。 而して此の「いつ」の我国の用法及び観念は、漢書の註に「神霊之威曰稜」と同じく〔八〕、語源は倭訓栞に『いつ、神代紀に稜威をよみ、皇代紀に厳をよめり、<ruby><rb>気出</rb><rp>(</rp><rt>イツ</rt><rp>)</rp></ruby>の義なるべし』とある如く、これが<ruby><rb>神秘力</rb><rp>(</rp><rt>ミスティック・パワー</rt><rp>)</rp></ruby>となって、稲の精霊を<ruby><rb>厳稲魂女</rb><rp>(</rp><rt>イツノウカノメ</rt><rp>)</rp></ruby>と云い、呪詛することを<ruby><rb>巌呪詛</rb><rp>(</rp><rt>イツノカジリ</rt><rp>)</rp></ruby>と云い、呪力を有する武器を<ruby><rb>稜威之高鞆</rb><rp>(</rp><rt>イツノタカトモ</rt><rp>)</rp></ruby>と云い、天皇の御大言を<ruby><rb>厳勅</rb><rp>(</rp><rt>イツノクシキミコトノリ</rt><rp>)</rp></ruby>と云い、国家の大典を<ruby><rb>憲法</rb><rp>(</rp><rt>イツクシキノリ</rt><rp>)</rp></ruby>と云い。更に祭具を<ruby><rb>厳瓮</rb><rp>(</rp><rt>イツベ</rt><rp>)</rp></ruby>と云い、斎主を<ruby><rb>厳媛</rb><rp>(</rp><rt>イツヒメ</rt><rp>)</rp></ruby>と云い、これより転じて斎きとなり、<ruby><rb>厳忌</rb><rp>(</rp><rt>イチハヤシ</rt><rp>)</rp></ruby>となるなど、我国古代の、神聖とか、神秘とか、霊験とか、威厳とかいうべき思想は、悉く此の「いつ」の語によって表現されているのである。従って、我国上代の生命の本質は、実に此の「いつ」の観念に存していたのである。而して此の神聖観念は、精霊観念と或は併行し、或は抱合して、遂に神なるものを発見するまでに進んだのである。 我が日本人が、始めて神を発見したときの神の力は、守護の神霊ともいうべきほどのものであって、個人的の精霊よりは一歩すすめたが、まだ社会的の神とはならなかった。謂わばその中間にある部族を守護する神霊(後の氏神)に過ぎなかったのである。「日本書紀」の一書、諾尊が冊尊と<ruby><rb>絶妻誓</rb><rp>(</rp><rt>コトドワタ</rt><rp>)</rp></ruby>しの条に、 : 盟ひて曰く、<ruby><rb>族離</rb><rp>(</rp><rt>ウカラハナ</rt><rp>)</rp></ruby>れなむ、又曰く、<ruby><rb>族負</rb><rp>(</rp><rt>ウカラマケ</rt><rp>)</rp></ruby>じ。乃ち<ruby><rb>唾</rb><rp>(</rp><rt>ツバ</rt><rp>)</rp></ruby>く時に<ruby><rb>化為</rb><rp>(</rp><rt>ナ</rt><rp>)</rp></ruby>る神の<ruby><rb>号</rb><rp>(</rp><rt>ミナ</rt><rp>)</rp></ruby>を速玉之男神と曰ふ。次に掃ふ時に<ruby><rb>化出</rb><rp>(</rp><rt>ナ</rt><rp>)</rp></ruby>る神の号を泉津事解之男神と云ふ(中略)。其の妹(中山曰。冊尊なり)と泉津平坂に相鬪ふに及びて、伊弉諾尊曰く、始め<ruby><rb>族</rb><rp>(</rp><rt>ウカラ</rt><rp>)</rp></ruby>が為めに悲しみ、<ruby><rb>思哀</rb><rp>(</rp><rt>シノ</rt><rp>)</rp></ruby>びけることは、是れ吾が<ruby><rb>怯</rb><rp>(</rp><rt>ツタナキ</rt><rp>)</rp></ruby>なり。時に泉津守道といふもの白して曰く、言あり(中山曰。冊尊の意を取次ぐもの)曰く、吾れ汝と已に国を生みにき、奈何ぞ更に生まむことを求めんや、吾れ則ちまさに此の国に留まりて、共に去るべからずといふ。是の時に菊理媛神(中山曰、此の神は巫女である。後にやや詳述する)亦白す事あり、伊弉諾尊聞しめして<ruby><rb>善</rb><rp>(</rp><rt>ホ</rt><rp>)</rp></ruby>めたまひて、乃ち<ruby><rb>散去</rb><rp>(</rp><rt>アラケ</rt><rp>)</rp></ruby>ましぬ。 とある「族離れ」「族負けじ」及び「族の為めに悲しむ」の意は、従来の所謂国学者に解釈させたら、種々なる異説もあることと思うが、神の進化の過程から言えば、それは諾尊が冊尊と絶妻したために部族を離れることであって、冊尊が『吾れまさに此の国に留まりて』とあるのは、即ち冊尊が黄泉の神となられたことを示しているのである。而して此の解釈から、当然導き出されることは、当時の我国の社会組織は、一種の「呪術集団」を以て単位としていたという点である。当時、まだ神という観念が固定せぬので、単なる神聖観念を基調として、専ら同じ呪術を信ずる部族が相集って社会をなし、これが紐帯は同じ祭儀を営み、同じ墳墓を有し、同じ言語と、同じ習慣を有する者のみで組織されていたのである。而して此の精霊から部族の神へ、更に部族の神から社会の神へと聖化し、発展したに就いては、此の神徳を称え広めた巫覡の運動が与って力があったのである。 ; 〔註一〕 : 「古事記」の国訳は岩波文庫本に拠った。訓み方に多少の疑いもあるが、今は姑らくこれに従う。以下総てこれに同じである。 ; 〔註二〕 : 「日本書紀」の国訳も、同じく岩波文庫本に拠った。ただ私が本書を執筆した際には、「神代巻」だけしか発行されなかったので、それ以下は国史大系本の原文に拠るとした。記事の統一を欠く憾みがあるも致し方がない。 ; 〔註三〕 : 本居翁の「古事記伝」の該条に、詳しく病魔の事が載せてある。<br/>猶、この機会に言うて置くが、「古事記」に、諾冊二尊が蛭子を儲けた折に、「天神の命を請い」云々とあるより推して、病魔や死魔以前に、既に神の存したことを説く学者が多いのであるが、私は、此の神は、神話が永く伝承される間に構成されたものだと考えている。 ; 〔註四〕 : 我が古代では蛇と雷は一体であると信じていた。詳細は「郷土趣味」特別号の雷神研究号の拙稿に尽した考えである。 ; 〔註五〕 : 我国では、火の神より、水の神に対する信仰の方が、古くから在ったように思う。火の無い時代は考えられるが、水の無い時代は想像されぬ。これに就いても「郊外」誌上に拙稿を載せたことがある。 ; 〔註六〕 : こう云うと、如何にも我国には宗教に先って呪術が在った——所謂呪術先行説のように解せられるのであるが、私の知る限りでは、我国に呪術先行を積極的に証示すべき手掛りは、無いように思われる。勿論、私はかかる問題に対しては門外漢であるが、思いついたままを記すとする。 ; 〔註七〕 : 赤松智城氏の「輓近宗教学説の研究」所収下編の「神聖観念論」「宗教と呪法」「マナの観念」等の各篇に拠った。 ; 〔註八〕 : 同上。猶この機会に一言するが、我が古代の霊魂観には、身分の高き者は、その身分に相応した高き霊魂を有しているものと考えていた。即ち稜威(いつ)の活きある者は、その霊魂まで稜威を有していると信じていたのである。 [[Category:中山太郎]]
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