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日本巫女史/第三篇/第二章/第一節
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浦木裕
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[[日本巫女史]] [[日本巫女史/第三篇|第三篇 退化呪法時代]] [[日本巫女史/第三篇/第二章|第二章 当代に於ける巫女と其の呪法]] ==第一節 文献に現われたる各地の巫女と其の呪法== 巫女は堕落し、呪法は形式化した当代のこととて、文献に現われたものは、異流を雑糅し、異法を混淆してあって、それを体系づけて、一々整然と書き分けることは、殆んど不可能と云っても差支ないほどである。それ故に、私は大体同じような記録を一まとめに記述する程度にとどめて置くとする。元より資料の整理が行届かなかったという高叱は、此の場合甘んじて受ける所存である。 '''一、巫女の持った人形の二種''' 「謡曲拾葉集」に、[[日本巫女史/第二篇/第二章/第二節|前]]に載せた葵ノ上の『<ruby><rb>寄</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>人</rb><rp>(</rp><rt>マシ</rt><rp>)</rp></ruby>は今ぞ寄り来る長浜や、芦毛の駒に手綱ゆりかけ』の呪歌を解読して、 : 寄人は寄神とも降童とも云ふ、或は生霊死霊を祈る時、彼の霊の代りに童子をそなへ置て祈つけ、降参さする事なり、或は霊を人形に作り藁にて馬など拵へかの人形を乗せて祷り、終りて後に川へ流す事もあり、この歌も是等の事を詠めると見えたり。 とあるのは、遂に巫道に通ぜぬ千慮の一失であった。解説の前半は、その通りであるが、後半の霊を人形に作り、藁の馬に乗せて川に流すとは、全く贖物の思想であると同時に、芦毛の駒云々の字句から想像した無稽の事である。此の呪歌の意義に就いては、私の学問の力では釈然せぬことは既述の如くであるが、拾葉抄の著者が考証したような事実を、此の呪歌から検出することは無理であるし、且つかかる呪法の存したことを曾て見聞せぬのである。何か巫女の持っている人形などから、想いついた説のようにしか信じられぬ。併しながら、当代の巫女が、怪しげなる物を呪力の源泉として、所持していたことは考えられる。而して是れには、(A)外法頭を持ったものと、(B)単なる人形を持ったものとの二つの系統が存していた。 '''A、外法頭を持った巫女''' 「嬉遊笑覧」巻八に、「龍宮船」という草子を引用して、左の如き記事が載せてある。 : 予が隣家に、毎年相州より巫女来りけるが、往来の事を語るに当らずといふ事なし。或時、袱紗包を忘れ置たり。開きて見るに二寸許の厨子に、一寸五分程の仏像ありて、何仏とも見分がたく、外に猫の頭とも云べき干かたまりし物一ツあり。程なくかの巫女大汗になりて走り来り、袱紗包を尋ねける故即ち取出し遣し、扨是は何作なるぞとたづねければ、是は我家の法術秘密の事なれども、今日の報恩にあらあら語り申べし。是は今時の如く太平の代には致しがたき事なり、此尊像も我まで六代持来れり、此法を行はんと思ふ人々幾人にても言ひ合せ、此法に用ゐる異相の人を常々見立置き、生涯の時より約束をいたし、其人終らんとする前に首を切り落し、往来しげき土中に埋み置く事十二月にて取出し、髑髏に付たる土を取り、言ひ合せたる人数ほど此像を拵へ、骨はよくよく弔ひ申事なり。此像はかの異相の神霊にて、是を懐中すれば如何やうの事にても知れずといふ事なしといふ。今一ツの獣の頭のことも尋ねけるが、是は語りにくき訳あるにや大切の事なりとばかり言ひける由、これなん世上にいふ外法つかひと云ふ者なるべきか(近藤活版所本)。 是れ殆んど符節を合わすが如き狐の髑髏を持つ事実のあったことが、奥州の見聞を書いた「黒甜瑣語」に載せてあるが、これは[[日本巫女史/第二篇/第五章/第一節|既述]]したので、ここには省略する。 '''B、人形を持った巫女''' 奥州のイタコが公然と持っているオシラ神と称する人形とは異り、外法箱の中に、秘密に収めた人形を持った巫女は、諸書に散見しているが、やや詳しく記してあるのは、根岸鎮衛の「耳袋」巻三に、「矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事」と題せるものと思うので、左に転載することとした。 : 宝暦の始めには、三州矢作橋、御普請にて、江戸表より、大勢役人職人等、彼地へ至りしに、或日人足頭の者、川縁に立ちしに、板の上に人形やうのものを乗せて流れ来れり(中略)、面白きものと、取て帰り、旅宿にさし置けるに、夢にもなく、今日かかりし事ありしが、明日かくかくの事あるべし、誰は明日煩ひ、誰は明日いづ方へ行べしなど、夜中申けるにぞ、面白き物也、これはかの巫女などの用る外法とやらにもあるやと、懐中なしけるに、翌日もいろいろの事をいひけるにぞ、始めの程は面白かりしが、大きにうるさく、いとひ思ひしかども、捨てん事も又怖ろしさに、所のものに語りければ、彼者大に驚き、由なきものを拾ひ給ひけるなり(中略)、其品捨給はでは禍を受る事なりと言ひし故、せん方なく、十方にくれて如何し可然哉と、愁ひ歎きければ、老人の申けるは、其品を拾ひし時の通り、板に乗せて川上に至り(中略)、彼人形を慰める心にて、其身うしろに向いて、いつ放すとなく、右船を流し放して、跡を見ず立帰りぬれば、其祟りなしといひ伝ふ由、語りけるにぞ、大きに悦び、其通りなして放し捨しと也(日本芸林叢書本)。 此の拾った人形が、単なる木像であったか、それとも前掲の如き、外法頭系のものか判然せぬが、私は木像であったと考えたい。それは、記事中に『其人形のやう、小児の翫びとも思はれず』とあるが、神仏いずれとも見定め難きほどの物と思われるので、ここには単なる木像と見るのが穏当であろう。而してそれとこれとは、趣きを異にしているが、斯うした呪物が、水を恐れる話は、他にも聴いている。南方熊楠氏の談に、紀州の某が、大阪で、猫神を所持していると、米相場で金儲けが出来るとて、それを所持していたところ、金は儲かるが、夜となく、昼となく種々なことを告げ知らせるので、うるさくもあり、怖ろしくもなり、遂に淀川の水中に身を没し、天窓まで水をかぶっていて、漸く猫神を離したとのことであった。 '''二、口寄せの種類とその作法''' 市子の呪術も、当代に入るとその範囲も狭められて来て、専ら民間の——それも少数の愚夫愚婦を相手にするようになり、国家の大事とか、戦争の進退とかいう、注意すべき問題に全く与ることは出来なくなってしまい、漸く、 : 一、口寄せと称する、死霊を冥界より喚び出して、市子の身に<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>かか</rt><rp>)</rp></ruby>らせて物語りをする(俗にこれを「<ruby><rb>死口</rb><rp>(</rp><rt>シニクチ</rt><rp>)</rp></ruby>」という)か、これに反して、遠隔の地にある者の生霊を喚び寄せて物語りする(俗にこれを「<ruby><rb>生口</rb><rp>(</rp><rt>イキクチ</rt><rp>)</rp></ruby>」という)こと : 二、依頼者の一年間(又は一代)の吉凶を判断する(俗にこれを「<ruby><rb>神口</rb><rp>(</rp><rt>カミクチ</rt><rp>)</rp></ruby>」とも「<ruby><rb>荒神占</rb><rp>(</rp><rt>コウジンウラナイ</rt><rp>)</rp></ruby>」ともいう)こと : 三、病気その他の悪事災難を治癒させ、又は祓除すること : 四、病気に適応する薬剤の名を神に問うて知らせること : 五、紛失物、その他走り人などのあったとき、方角または出る出ないの予言をすること この位のものになってしまった。而して是等のうちで、尤も依頼者も多く、市子としても収入の多かったものは、死口、生口、神口の三つで、当代の市子といえば、直ちに口寄せを意味し、口寄せといえば、又この三つを意味するものと思われるまでになっていたのである。就中、民間の信仰をつないでいたものは死口であって、亡き両親や、同胞の死霊、又は亡き恋人や、友人の死霊が、市子の誘うままに幽界から出て来て、明界にいる子孫なり、関係者なりと、談話を交えるというのであるから、不思議にも思われ、<ruby><rb>神事</rb><rp>(</rp><rt>カミゴト</rt><rp>)</rp></ruby>と信じられたのも無理のないことで『<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>が語る声まで、死んだ母親そっくりだ』などとは、幾度となく聴かされたことで、且つ三歳か五歳で夭折した子供の死霊が現われて、地獄の苦しみを物語る哀れな<ruby><rb>声音</rb><rp>(</rp><rt>こわね</rt><rp>)</rp></ruby>を耳にしては、その親たるものは、涙を絞り袖を濡らし、信ぜざらんとしても、迷わざるを得ぬのである。最近に金田一京助氏が記された実見談によると、 : 姉の家で、口寄せした時には(中略)、例の珠数を押し揉み押し揉み、口に唱えごとを繰返しているうちに、それが一種の歌に聞きとられる様になって来た。その歌詞は、姉などは聞き覚えに<ruby><rb>暗</rb><rp>(</rp><rt>そら</rt><rp>)</rp></ruby>んじている程、いつもきっと出て来るきまりの文句らしく、『……声はすれど、姿は見えの(ぬの訛りらしい)、影ばっかりに……』すると、髣髴として、亡き魂がそこに降りでもするような気分が座に満ちて来て、笑ったものも笑顔を収め、動いていたものも<ruby><rb>鳴</rb><rp>(</rp><rt>なり</rt><rp>)</rp></ruby>を鎮めてじっとする其の時、呪女の口からは、『五十九で亡くなった仏様を』とだけ頼んで、にじり出た姉へ向って云うような口調で『お前には苦労を掛けた……』と聞かれるような歌になった。と亡父の生前死後、羸弱な身を以て私に代って一家の世話を見つつ、浮世の辛酸を、滓の滓まで飲み尽した姉は、わっと泣きくずれて、『お父様、もう其の御一言で沢山です』と咽び入る云々。 とあるように〔一〕、気丈なものでも——馬鹿々々しいとは思っていながらも、引き入れられるのが常である。巫女が科学を万能とする現代においても猶お、残喘を保って、各地に存しているのは、全く此の呪法を行うことに由るのである。而して此の呪法を行うには、又左の如き種々なる作法があったのである。 '''A、手向の水ということ''' [[画像:死口市子一.gif|thumb|死口を寄せている市子(外法箱膝のは梓弓前のは手向の水)]] [[画像: 死口市子二.gif|thumb|left|死口を聞いている人々(川柳本所載)]] 市子は口寄せの折には、その対象が、死霊と生霊と神口との別なく、必ず依頼者に、茶碗その他の器物に水を盛らせ、それを巫女の膝の前(又は机の上)に置かせて、死霊の場合には、枯葉(又は樒の葉)で左廻わしに三度水を掻かせ、生霊の場合には、青い木葉(種類は何でもよい)で右廻わしに三度掻かせ、神口の場合には、紙撚り(併しこれも流派によって一定せぬが、大体は先ずこうである)で水を三度掻き廻させる。此の水を手向けることは、巫女が呪術を行うに大切なものとされていて、出て来る霊魂が『よくこそ水を手向けてくれた』と云うほど、重い儀軌?になっているのであるが、さて此の理由に就いては定説を聞かぬ。「松屋筆記」巻八七に、 : 塩尻(中山曰。天野信景翁の著書)一ノ巻に或人云、凡そ亡者の霊に水を手向るは仏法に効へるなりと、予按に是我国上古の習俗歟、「日本紀」十六に鮪臣が死せし時、影媛哀傷の倭歌を詠じて「<ruby><rb>玉笥</rb><rp>(</rp><rt>タマケ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>飯盛</rb><rp>(</rp><rt>イヒモリ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>玉椀</rb><rp>(</rp><rt>タマモヒ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>水盛</rb><rp>(</rp><rt>ミヅモリ</rt><rp>)</rp></ruby>」などいひ、其葬の時「<ruby><rb>水喰</rb><rp>(</rp><rt>ミヅクヒ</rt><rp>)</rp></ruby>ごもりみな<ruby><rb>酒</rb><rp>(</rp><rt>ソソ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎ」の詞あり、これ我国仏教来らざる以前の事也、仏氏といへども餓鬼の他、仏菩薩等に水手向る事なし(中略)「空華談叢」巻一に亡霊薦水六則あり、可考合。 と載せてある。之に由れば、巫女がその霊に水を手向けることは、我が古俗のようにも考えられるのであるが、単に是だけの資料で決定するのは危険である。殊に仏法にも亡霊薦水の法があるというし、且つ故前田太郎氏の研究によると、死者の霊に水を手向ける土俗は、殆んど世界的に遍在していたというから〔二〕、これは我が古俗にも存し、仏法にも在ったもので、巫女のそれは、古俗に仏法を加えたものと見るのが、微温的ではあるが、穏当だと考える。樒ノ葉を用いるに至っては、仏法の影響と見るも〔三〕、蓋し何人も異議のない事と思う。故長塚節氏の力作「土」には、茨城県下の農村における巫女の所作が克明に委曲に描かれているが、生口を寄せる一節に、巫女が『白紙<ruby><rb>手頼</rb><rp>(</rp><rt>タヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り水手頼り、<ruby><rb>紙捻</rb><rp>(</rp><rt>コヨリ</rt><rp>)</rp></ruby>手頼りにい……』と唱えたと記している。此の水の手向けは古くから広く行われていたようである。而して此の手向の水ということが、後には市子に祈祷してもらえと云う意味に転用されるようになり、呼び出される死霊が『水が足らぬ』とか『<ruby><rb>水向</rb><rp>(</rp><rt>ミズムケ</rt><rp>)</rp></ruby>を頼む』と云うのは、即ち市子が死霊の言に託して、自分の収入を謀った狡猾なる手段なのである。 '''B、巫女の唱えた神降しの呪詞''' [[画像: 山伏.gif|thumb|山伏と地しゃ(七十一番職人歌合所載)]] [[画像: 笹ハタ.gif|thumb|笹ハタキと称する市子(川柳語彙所載)]] 当代に入ると、巫女の用いた<ruby><rb>神降</rb><rp>(</rp><rt>カミオロ</rt><rp>)</rp></ruby>しの呪詞も、修験道の影響を濃厚に受け容れて、殆んど古き相は<ruby><rb>摘</rb><rp>(</rp><rt>つま</rt><rp>)</rp></ruby>むほどしか残っていぬという有様になってしまい、然もその文句たるや、余程無学者が作ったものと見え、神仏の混雑は、当時の信仰から推して、先ず恕すべきとするも、措辞が野卑である上に、文理が滅裂で、全く体裁をなしていぬ。それを無智な巫女達が、矢鱈に唱い崩し、言い訛ったものと見えて、中には何事を意味しているのか解釈に苦しむものさえある。而して是等の呪詞は、京伝の「昔話稲妻表紙」を始めとし、三馬の「浮世床」や、一九の「東海道膝栗毛」等に載せてあるが、何れも多少の出入こそあれ大同小異で、僅に巫女が呪法を行う土地の一ノ宮または<ruby><rb>産土神</rb><rp>(</rp><rt>ウブスナガミ</rt><rp>)</rp></ruby>の名を変える位で、その他は取り立てて言うほどの事もないし、それに是等の書物は、流布本の多いものゆえ、ここにはその中でも、やや古いと思う「稲妻表紙」から抄出するとして、他は省略した。同書巻四「仇家の恩人」の一節に、 : 扨ある年の春、藤波が祥月祥日にあたれる日、妻小枝妹阿龍等がすすめにより、県巫女をやとひ、藤波が口をよせて、冥途のおとづれをききぬ。さて降巫上座に居なほりて、目うへの人にや目下にや(中山曰。今では此の事は聞かず、、ただ黙って頼めば、巫女の方で言いあてる)、生口か死口かとたづぬれば、小枝すすみ出で、目下の者にて死口なりと答へつつ、樒の葉にて水むけすれば、巫はささやかなる弓をとりいだし、弦を打ならして<ruby><rb>旦</rb><rp>(</rp><rt>まづ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>神保</rb><rp>(</rp><rt>カミオロシ</rt><rp>)</rp></ruby>をぞ唱へける。 : <ruby><rb>夫</rb><rp>(</rp><rt>それ</rt><rp>)</rp></ruby>つつしみ敬てまうし奉る。上は梵天帝釈四大天王。下は閻魔明王。五道の冥官。天の神。地の神。家の内には井の神。竃の神。伊勢の国には。天照皇太神宮。外宮には四十末社。内宮には八十末社。雨の宮。風の宮。<ruby><rb>月読日読</rb><rp>(</rp><rt>ツキヨミヒヨミ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>御神</rb><rp>(</rp><rt>おんかみ</rt><rp>)</rp></ruby>。当国(中山曰。近江)の霊社には。坂本山王大権現。伊吹の神社。多賀明神。竹生島弁財天。筑摩明神。田村の社。日本六十余州すべての神の<ruby><rb>政所</rb><rp>(</rp><rt>まんどころ</rt><rp>)</rp></ruby>。出雲の国<ruby><rb>大社</rb><rp>(</rp><rt>おほやしろ</rt><rp>)</rp></ruby>。神の数は九万八千七社の御神。仏の数は一万三千四個の霊場。冥道をおどろかし<ruby><rb>此</rb><rp>(</rp><rt>ここ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>降</rb><rp>(</rp><rt>くだ</rt><rp>)</rp></ruby>し奉る。おそれありや。この時によろづの事を残りなく。おしへてたべや梓の神。うからやからの諸精霊。弓と箭のつがひの親。一郎どのより三郎どの。人もかはれ水もかはれ。かはらぬものは五尺の弓。<ruby><rb>一打</rb><rp>(</rp><rt>ひとうち</rt><rp>)</rp></ruby>うてば寺々の。仏壇にひびくめり。 : 梓の弓にひかれひかれて、藤波が亡き魂ここまでまうで来つるぞや。懐しやよく水手向て玉はりしぞ、主君とは申しながら、畏れ多くも心には、<u>枕ぞひ</u>(中山曰。圏点を打ちし句は巫女の隠語、[[日本巫女史/第二篇/第五章/第四節|既載]]のものを参照あれ)とも思ひしから、<u>烏帽子宝</u>を産みはべりて、<u>唐の鏡</u>とかしつがれ、おん身等にも安堵させ、楽しき暮しをさせ申さんと思ひし事も左り縄、云ひがひもなき妾が身の上、露ばかりも罪なくて、邪見の刃に身をほふられ、尽きぬ恨みの悪念が、此身を焦す炎となり、晴れぬ思ひの冥道に、今に迷ふて居り候云々(以上。帝国文庫本)。 此の<ruby><rb>神降</rb><rp>(</rp><rt>カミオロ</rt><rp>)</rp></ruby>しの呪詞は、別段に解釈を要せぬまでに明白であるし、又た解釈を要するほどの『一郎殿より三郎殿、人もかはれば水もかはる』云々の如きは、これを唱えていた巫女にも解らず、従って他の者には、皆目見当もつかぬものである〔四〕。殊に、神の数が九万八千とか、仏の数が一万三千とかいうのは、全くの出たら目で、何等の根拠もなければ、理由もなく、ただ巫女が<ruby><rb>旋律的</rb><rp>(</rp><rt>リズミカル</rt><rp>)</rp></ruby>に唱える上に、舌に唾のたまらぬよう、語呂の点から択んだ文句に外ならぬのであって、それが古く歌謡の系統に属していた名残りをとどめているのであるが、夙に歌謡は、巫女の手から離れて、独立した芸術として発達しているのに反し、巫女は堕落して、糊口の料に神降しを唱え、それも旧態を保つに懸命であって、生面を拓くことが出来なかったので、益々世相と遠ざかるようになってしまったのである。 巫女は別名を「大弓」とも「小弓」とも、更に<ruby><rb>梓巫女</rb><rp>(</rp><rt>アヅサミコ</rt><rp>)</rp></ruby>とも言われているほどとて、呪術を行う場合に、弓弦を細き竹の棒にてたたくことは既述したが、この作法は、必ずしも総ての巫女に通じて行われたものではない。私の知っている限りでは、(一)都会に定住していた者と、(二)漂泊をつづけた歩き巫女と。(三)奥州のイタコと称する者は、概して弓を用いず、これに反して、町や村に土着した巫女は、弓を用いたようである。折口信夫氏のノートに拠ると、壱岐のイチジョウと称する巫女は、長さ八尺もある黒塗の木ノ弓(二ツ折になって袋に入れて、持ち歩くに便にしてある)に、麻の弦をかけ、南天の葉を<u>ひい</u>て油をとりしものを弦に塗り、<ruby><rb>盒</rb><rp>(</rp><rt>ゆり</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。<ruby><rb>曲物</rb><rp>(</rp><rt>まげもの</rt><rp>)</rp></ruby>にて楕円形をなし、高さ四五寸、大きさ一尺二三寸なり)を伏せて、麻縄で二ヶ所<u>くび</u>った上に、弓を持たせかけ、釣り竿のように反った一尺五寸ほどの竹の棒二本で、弦をたたきながら、初めは「神寄せ」の文句(中山曰。此の文句は判然せぬ)を唱え、次に「<ruby><rb>御籤</rb><rp>(</rp><rt>ミクジ</rt><rp>)</rp></ruby>あげ」をなし、それから「百合若説教」を宜いほどに唱える(中山曰。百合若説教のこと注意されたし)そうである。 然るに、常陸辺では、既述の如く、二三尺位の粗製の竹の弓を用いるとあり、私が同じ常陸の潮来町で聴いたところでは、巫女は弓を持参せず、往く先々で青竹を切って、二尺ほどの弓を拵えてもらい、それを用いるとのことであった。而して此の弓の弦をたたく音は、弦が<u>ゆる</u>く張ってあるためか、ベンベンと如何にも眠気を誘うような響きがするものであって、巫女がこの響きにつれて神降しの呪詞を唱えすすむうちに、催眠状態(その実際は後世の巫女は催眠を仮装するだけで覚醒している)にでも入りそうな心もちのするものである。因みに「笹ハタキ」とは、その文字の如く、始めは笹の葉を両手に持ち、それで自分の顔を軽くたたきながら催眠状態に入ったので負うた名である。これも後には雑糅されてしまって、小さい弓を用いる巫女まで、此の名で呼ぶようになったのである。猶お巫女の修業、神つけの方法、各地の神降し等に就いては、文献には見えぬので、次節の報告の条に詳述する。 '''三、イタコのオシラ神の遊ばせ方''' [[画像: 新オシラ.gif|thumb|新しきオシラ神(故伊能嘉矩氏所蔵)]] 奥州のイタコ(これは殆んど悉く盲女であって、精眼者あるを今に聞かぬ)と称する巫女が、オシラ神を持っていることは屢記したが、さて此のオシラ神は、如何なる場合に用いるか、併せてその用法は如何にと云うに、イタコは依頼者の意を受けて、生霊なり、死霊なりの口寄せをするときは、金田一氏の記事にある如く、イラタカの珠数を両手で押し揉み(秋田地方では揉まずに珠を繰る方法もある)ながら、神降しを済ませ、<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>人</rb><rp>(</rp><rt>マシ</rt><rp>)</rp></ruby>となって種々なる呪法を行うことは、昔の普通の巫女と別段に変りはないが、呪法が終ってから、依頼者の希望により、その家(奥州では草分け百姓とか、又は旧家とか云われる家には、各相伝のオシラ神がある)のオシラ神を遊ばせる(春秋二期のオシラ神祭りの日は云うまでもない)ことがある。而してその遊ばせ方に就いては「民俗芸術」第二巻第4号に、小寺融吉氏の詳細なる記事があり、更にこれを遊ばせる祭文は、「民族」第三巻第三号に、中道等氏の寄稿があるので、幸い私は両氏の厚誼を辱しているので、甚だ勝手ながら、左にこれを自由に取り交ぜて、抄録することとした。 : 東北地方に名高いオシラ様の祭を私{○小/寺氏}は、偶然にも昨年{○昭和/三年}東京で見ることが出来た。それは柳田国男先生のお宅に、以前から届いてあった此の神様を、本式に祭るため、はるばる奥州から盲目の巫女が、三月一八日の祭日を期して上京したのに列席したのであった云々。 : 祭壇を前に石橋<ruby><rb>貞</rb><rp>(</rp><rt>さだ</rt><rp>)</rp></ruby>子という老いた盲目のイタコ(巫女)が静かに座った。常の<ruby><rb>髪形</rb><rp>(</rp><rt>かみかたち</rt><rp>)</rp></ruby>、常の服装のままで、黒い袈裟を左肩から掛け、次に長い数珠を首に掛けた。数珠の玉は黒くて大きい。そして円筒形の筒(中山曰。呪力の源泉である神を入れたもの)を押し頂いて、右肩から左脇へ掛けた。この筒は神秘不可思議で、中に何があるか分らない。 : さて祭壇と云っても、ただの机だが、その上にイタコから見て、正面に一対のオシラ神、右が女神左が男神(原註略)。右の奥に茶碗に水、その前に蝋燭、左の奥に菓子、その前に蝋燭、そして中央の前に、右には塩、左には米が在る。 : 抑々オシラ様の御神体は、八寸ほどの長さの桑の木(中略)、毎年の祭に着物(東北でセンタクと云う)を上に一枚づつ重ね参らせる。着物と云っても一枚の<ruby><rb>布</rb><rp>(</rp><rt>きれ</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>冠</rb><rp>(</rp><rt>かぶ</rt><rp>)</rp></ruby>せるだけで、首の上からスッポリ冠せるのと、布の中央に穴を明けて、穴から首を出すのと二通りある(中略)。今日の御神体は首を露出せぬ方だが、首を包んだ布のまわりに、小さい鈴を女神は四個、男神は三個結んで区別している云々。 : イタコは先ず塩を取って振りまいた。次に我昔所造諸悪行……一切我今皆懺悔の四句の懺悔文を誦し、次に般若心経に移った(中略)。そして般若心経の時に、途中で息を切って一寸休む折りは合ノ手のように、しきりに数珠を揉んだ。これは左掌を下にし、右掌を上にして揉むので、胸の前で合掌するのとは違う。次に普門品の偈だけを読んだようで、念被観音力、還著於本人なぞの文句が聞き取れた。これを終って柏手を打ち、いよいよオシラ祭文に移った。 :: :: 千だん栗毛物語(オシラ遊びの経文) :: :: しら神の御本尊 :: くはしく尋ね奉れば :: 我が京にては白神の御本尊と申也 :: 朝日の長者ようひ長者と申して :: 数の宝を相添ひて :: おがひ申して :: おがひに長じて身を清め :: よき金三百両 :: こがねのにはちで納め置く :: 鰐口ちょうと打ならし :: 南無や大慈大悲の親世音さま :: 願はくば赤子一人授けてたまはれと :: 願はくばおどうかうによう申すべし :: そげんの破風に瑪瑙の垂木 :: やんくゎぎぼうに至るまで :: 金銀の入ればに :: 表しろかね中こがね :: 厚さ三寸五分なり :: 錦のとうざう七流れ :: 我も子のことかなしみて :: とりかへかきかへ申すべし :: 大千世界めぐりて :: 鳥類畜類めぐれども :: 汝らに授くる宝も無し :: 今度この度しらの種申し下す :: 此子は六つ七つに至りては :: 命に恐れあるべし :: 東方父にて西方母 :: 兄は御いきと申すなり :: 左りの袂より右りの袂へ :: すらりと入れると覚えて :: 夢さめて長者夫婦の人々は :: 斯うまで有難き御利生を :: 七度の礼物なされけり :: :: 我が家に帰りついたる時 :: 懐胎となって :: 当る十月と申して :: 御産の紐を開せとくがや :: 玉や御前と名をつけて :: 二つになるから三つ四つと心を用いて :: 六つになる年右の御手に筆とらせ :: 七重の愛馬に飼立てられたる千だん栗毛 :: 立つに千段すはるに千だん :: 三千四だん五だんの形をもたせ玉ふ :: めん馬に乗じて馬の頭を :: おしなでかきなでたまひて :: この屋形のうちに入らせたまふ :: 一才になるから二才三才やうなる :: 御育ておいた徳を以て :: 前足のつき相を見れば :: てむく茶碗をすゑたる如く :: 後足のつき相を見れば :: ごばんちょうこすゑたる如く :: 目鼻尾のつきあひ :: 毛はだまでもやうなる様に :: 御育て置いた徳を以て :: 今日も見物人ひとは百人 :: またも二百人三百人の :: 見物人の無い日とてはあるまい :: おれも見物に出でて見ようと云うて :: 十二ひとへを重ね :: 十二人のつまとりを附け :: つまどりには褄を取らせ :: 七重のまや迄見物に出でたるれば :: 上のまやには赤きめん馬百三十三匹 :: 下の厩には青きめん馬百三十三匹 :: 中の厩には白きめん馬百三十二匹 :: 後ろ残りし一疋のせんだん栗毛 :: 見るまも無く玉や御前のほめるには :: 前足のつき相を見れば :: てむく茶わんをすゑたる如く :: 後足のつきあひを見れば :: 朝顔の咲いたる如く :: 目の色はからかね目 :: 目鼻耳のつきあひ :: 毛肌までもふしのつけやうは無い :: これが人間のからだなれば :: どうぞ夫婦になりそめたいものと :: 三度までも馬のからだを撫でたまふ :: :: 声は千だん栗毛の耳にとまりまして :: 恋のわづらひとなりました :: 糠草も食することは無く :: 粕や米糠くぢょやすすき草 :: どの様に食わせても食することは無く :: 如何致したわけである :: この家の亭主に伺ひ見るべしと :: 伺ひ見たならば :: はくらくでも取りよせ見たならば :: せんだん栗毛の相分るべしというて :: 西東北南四うぢ隅より :: 伯楽の三十七人までも取寄せたけれども :: どの伯楽も千だん栗毛の病気 :: 名をつけるはくらくはあるまい :: 天が下に無いほどの西の方には :: よい占い師があることだ :: そんなら取りよせ見るべしと :: 取りよせ見たなれば :: 憚りながら此家の千だん栗毛の病気は :: 外なる病気ではない :: 二階ひとり姫玉や御前 :: 恋がけの病気と判じたれば :: 金満長者の夫も腹を立てて :: さて憎い畜生だ :: 畜類は人間に恋をするといふこと :: 此世には無いことだ :: 早く千だん栗毛を :: 投げ棄てて来いとのいひつけをさるる :: :: さてせんだん栗毛せんだん栗毛 :: 今までは七重の馬 :: あいの馬に飼育てられたる千だん栗毛 :: 今更姫に恋して投棄てらるるぞよと :: どのやう意見そひしんされても :: 頭をふり上ることは無い :: これは二階の一人姫 :: 玉や御前を見舞させたなら :: せんだん栗毛の病気は相分ると謂うて :: 二階一人姫玉や御前さまに :: 見まひを致しくれといひば :: 二階一人姫玉や御前も人目を忍んで :: 夫婦のちぎりある故に :: ゑ顔あげて十二ひとへ引重ね :: 十二人の褄どりをつけ :: つまどりには褄を取らせ :: 右の手には萩を持ち :: 左の手にはすすきを持ち :: 二階はしごを下りまゐり :: 七重のまやまでとり運ぶ :: :: さて千段栗毛せんだん栗毛 :: おれの為に病気になって :: 居るさうだと謂うて声かけたるれば :: すぐ頭をふりあげて :: 萩やすすきを一本ままではむこと :: 以前と異ならず :: 玉や御前と千だん栗毛と別るる時は :: 生木の枝を割かるる如く :: 血の涙で別れおいて :: とうとう二階一人姫も病気になりました :: :: これは来る三月一六日に :: 御神明のみかぐらでも企てたならば :: 姫の病気は快気になるかと :: いうて企てたなれば :: おれも見物に出でて見ようと云うて :: 十二ひとへひき重ね :: 十二人のつまどりをつけ :: つまどりには褄を取らせ :: 七十人の供をつれ :: 一沢越え二沢越え三沢目の :: 大きな桂の大木の根に腰をかけ :: うつの宮より褄取りとも人皆ほろき落して :: ただ御神楽よそに見て :: 千相桑の林に一飛び運び参り :: 真砂の珠数御手につまぐり :: それそれははかせを喚んで :: 博士は八十三のこよみ :: さて千だん栗毛千だん栗毛 :: 玉や御前がこの処に運んだについて :: しんが有るなら一声出せと :: 大声あげて歌をよみあげる :: :: すぐなまぐさき風は吹き :: 五色の雲をたなびきて :: 八間四方の皮をならされた :: 御姫さまをぐるりと巻取って :: 天に昇り天竺の方に参ったり :: 褄取り供人は皆つらづらになりまして :: 家に帰りしなれば :: 我々の命は一ときも堪らんものか云ふて :: 早く伺ひ見るべしと :: 一飛びに運ぶ :: :: さて金満長者の旦那さま :: うちのいたはしき二階一人姫 :: 玉や御前さんは千だん栗毛の為に :: 盗みとられました :: おらの命ばかりは御助けなされてくだされと :: それは手まへだちのかかはりたる事では無い :: 姫はさうあなたはいの因縁づくと云うて :: 涙にくれて居るところへ :: 虫は二十四疋ふりくだる :: :: 白き虫の顔見れば :: おら処の玉や御前に似たる顔 :: 黒き虫の顔見れば :: 千だん栗毛に似たる顔 :: 米はませても米はまず :: 粟はませても粟はまず :: 麦はませても麦はまず :: 豆はませても豆はまず :: 百人二百人三百人の :: 見物人は参りしなれど :: 何はむ虫と判ずる人はあるまい :: 七十あまりのぢいさまは :: 桑の杖をついて見物に出たなれば :: 残らず其の杖につたはりました :: :: これは何の木、これは桑の木 :: これは何虫、桑の木のもえを食ふ虫 :: ととこ虫とあらはれて :: 三十七人の桑とりをまはす :: しろがねのまな板こがねの庖丁で :: きり刻みて与えしなれば :: 残らずさりこんではむこと :: 一をり板しけば二をりの板 :: 二をり板しけば三をり板 :: 三をり板しけば四をり板 :: 四をり板しけば五をり板 :: 五をり板しけば六をり板 :: 六をり板しけば七をり板 :: 七をり板しけば八をり板 :: 十二をり板 :: きんこ糸を取る時なれば :: 一さをかければ二さを :: 二さをかければ三さを :: 三さをかければ四さを :: 四さをかければ五さを :: 五さをかければ六さを :: 六さをかければ七さを :: 七さをかければ八さを :: 十二さを :: 金満長者のおんしょう返すが為に :: つぼの松に下り :: 馬とともに十六ぜんの :: 大しらのしら神にあらはれ :: 尾張の国金満長者は :: 日本一の真綿屋と名をつけられて :: 銭かねに不自由なく暮すさうや :: 父がそひてあつかひば父になづく :: 母がそひてあつかひば母になづく :: 庭にそひてあつかひば庭になづく :: 竹にそひてあつかひば竹ごともなづく :: 舟にそひてあつかひば舟子ともなづく :: あれ乱風大風火難盗難 :: あきなひその他作る田畠も護らせたまふ :: 家内安全商売繁昌の御祈祷と :: 敬ってまをす〔五〕 :: ○中山曰。小野寺氏の記事には、祭文の文句は記して無いのを、私が勝手に中道氏の寄稿から、此の文句ならんと考えて掲げたのである。 :: : オシラ祭文は、オシラ神の由緒を物語る長い叙事詩を歌うので、長者の厩に飼われたせんだん栗毛という名馬が長者の姫に恋をして、結局二人が蚕の神様になるという歌で、イタコは歌いながら、両手に持つ二つの御神体を動かすので、「如何に動かすか」が私の興味なのである。そこでイタコは机に並んだ位置をそのままに、右手で女神左手で男神を持った。センタクの下へ手を入れ、柄(つまり人形の胴体)を持つ、この人形は手足はなく、首と胴と着物のみである。 : 男は右、女は左の法則なのに、何故か此のイタコは右に女神を、左に男神を持った。然しこれは神がイタコに乗り<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>うつ</rt><rp>)</rp></ruby>るのでなくて、イタコはあくまでもイタコとして、神を舞わすのであるという意味かも知れぬ。そこでイタコは<ruby><rb>俯</rb><rp>(</rp><rt>うつむ</rt><rp>)</rp></ruby>いて、自分の顔を御神体に触れて、何事か云った。それから胸の前に出して、半分倒すようにして持つ、自分の膝に対して垂直には持たない。これが基本の形である(中略)。 : 長い恋物語のオシラ様由来記が終ると、イタコは一休みした。それから一年十二ヶ月の年中行事に関する謡いものに移り、やはり左掌を下に、右掌を上にして小指を組合せ、何か印を結ぶような事をし、次に<ruby><rb>拍手</rb><rp>(</rp><rt>かしわで</rt><rp>)</rp></ruby>を打ち、再び人形を取り上げた。前の祭文が荘重厳粛であるとすれば、これは打ちくつろいだもので、人形の動かしかたも変って来た(中略)。 : 次に一休みして、「えびすまい」。次に「地獄さがし」。これは鼻歌でお経を読むと思えば、見ない人も、ほぼ想像がつく。珠数を拍手とりつつつまぐり、それに合せて歌うので、人形とは関係はない。少し可笑味のものである。最後に「神送り」と云い、神を山林山野に送る歌を、<ruby><rb>祝詞</rb><rp>(</rp><rt>のりと</rt><rp>)</rp></ruby>式口調で歌った。イタコも大分疲れたので、これだけで全部を終り、あとは二三の人を占いをして散会した(中略)。 : オシラ神の鈴は、人形自身の声である(中略)。イタコの歌は、人形の鈴の音の意味を、人間の言葉に翻訳しているとも見ることが出来る云々〔六〕。 此の記事によっても知らるる如く、イタコの持っているオシラ神は呪神では無く、呪神は何物か納めてある円筒形の筒の中にあるので、オシラ神は此の筒の中の神を<ruby><rb>和</rb><rp>(</rp><rt>なご</rt><rp>)</rp></ruby>め<u>いさめ</u>るために舞わし遊ばせるのに過ぎぬのである。従ってオシラの元は神ではなくして、人形その物であったと信ずべきである。 '''四、各地方の市子と其の作法''' 市子に幾多の流派のあったことは看取されるが、その独特の作法を比較して、異流を検出することは雑糅された後に残された文献を基調としたのでは、その労のみ多くして功がなく、結局は何が何やら判然せぬものになってしまう虞れなしとせぬので、此処には寡見に入った各地方の市子と、その作法とを列挙して、読者に異同を研究する資料を提供するにとどめるとする。猶お文献以外の報告によるものは、[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|後節]]に記述する。同じような事を二度に分けて書くことは、少しく煩しい嫌いもあるが、資料の整理上から、斯うすることが学問的であると考えたからである。 '''A、羽後国仙北郡地方の座頭嚊''' 同郡長信田村の出身で、今東京市外田端町に居る鈴木久治氏の談に次の如くある。 : 私の国では「いちこ」を<ruby><rb>座頭嚊</rb><rp>(</rp><rt>ザトカカ</rt><rp>)</rp></ruby>と云う。嚊と云っても、東京辺の賤民の妻を呼ぶような下賤の言葉の意味では無く女房を一体に「かか」と呼んでいる。その座頭嚊は、女子の盲目な者がなるのであって、其亭主は普通の百姓をしている。さて人が死んで、葬式を済ませた後、この座頭嚊を招んで仏を寄せて語って貰う。其時には近所の人に知らせてやると、近所の人達は重箱へ食物を詰めたのを持って集って来る。神仏の有った家では仏壇の前へ家内の者や村人が大勢集まる。この場合は先ず神仏を呼んで貰う(中山曰。鈴木氏はこの事を「<ruby><rb>座下</rb><rp>(</rp><rt>クラオロ</rt><rp>)</rp></ruby>し」と云うと語り補うた)のが例である。そうで無く死霊を招んで貰う時もあるが、呼んで貰う霊を心に念じて仏前の水に樒の葉を浸すと、呼び出される霊は必ず奇妙に当る。そこで座頭嚊は神寄せの呪文を<ruby><rb>誦</rb><rp>(</rp><rt>とな</rt><rp>)</rp></ruby>える。何でもよくは知らないが、日本国中の一ノ宮の神々を寄せるらしい(原註。神寄せの呪文と<ruby><rb>門語</rb><rp>(</rp><rt>カドカタ</rt><rp>)</rp></ruby>りの呪文とがある云々)。この口寄せがすむと、次は他の人で呼んで貰いたい霊があれば、又仏壇の水に樒の葉を浸すのである。座頭嚊の持物には箱も弓もない(中山曰。此の事は注意すべき点である)。只長い<ruby><rb>木欒子</rb><rp>(</rp><rt>もくれんじ</rt><rp>)</rp></ruby>の珠数を爪繰っている(中略)。私の国では女児や男児が生れても、<u>ひ</u>弱くて早死する様な憂のある児は、座頭嚊の「<ruby><rb>取子</rb><rp>(</rp><rt>トリコ</rt><rp>)</rp></ruby>」にして貰う。取子というのは、胎内にある時から座頭嚊に頼んで、生れた子の丈夫に育つ様に祈祷をして貰うのである。其時は珠数の木欒子の珠を一つお守として頂いて、巾着なんどへ大事に入れて置く。そんな事で珠数の数は「取子」の為に分けてやるから、多い人と少い人とある訳だ云々〔七〕。 '''B、陸中国東山地方のオカミン''' 「郷土研究」第三巻第四号に次の如き記事がある。 : 陸中国東磐井郡門崎村近傍では、巫女をオカミサマと云う。盲目の女子の仕事である。巫女になるには、七箇年の年季で弟子入りし、其期間は師匠の食料までも自弁する定めである。さて一定の修業が終ると「<ruby><rb> 神附 </rb><rp>(</rp><rt>カミツケ</rt><rp>)</rp></ruby>」と云う式を行う。是れがオカミン様の卒業式である。至って荘厳な式で、若しも不浄な者が式場に入れば、神が附かぬと云っている。式の<ruby><rb>荒増</rb><rp>(</rp><rt>あらまし</rt><rp>)</rp></ruby>を言えば、先ず舞台を設けて注連縄を張り、真中に神附せらるべき女子その近親に擁せられ、<ruby><rb>眼</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>を手拭で鉢巻して坐る。その周囲を多数の巫女が取巻いて坐り祈祷するのである。然る後「何神附いた何神附いた」と問うと、真中に坐った女子「八幡様附いた」とか「愛宕様附いた」とか言う。斯うなれば、一人前の巫女となったものとして大なる祝宴をする。時にはには神の附かぬことがある。その時は列座の巫女たち御迎と称して坐を立つ。然る後は、大抵「何神附いた」と言うものである。巫女の業務は「<ruby><rb>口寄</rb><rp>(</rp><rt>クチヨセ</rt><rp>)</rp></ruby>」をすることである。これは死人あったときの一七日、お<ruby><rb>盆</rb><rp>(</rp><rt>ぼん</rt><rp>)</rp></ruby>又は秋の彼岸に、各戸殆どこれを行わぬ者は無い。 : 口寄を行うには、巫女は神降しと称して暫時祈祷をした後、希望せらるる死人となって、希望した人に対して言葉哀れに語り出す。婦女子等は大抵泣いて之を聴く。その聴いているうちに<ruby><rb>問口</rb><rp>(</rp><rt>トイクチ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。古代の<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>さにわ</rt><rp>)</rp></ruby>である)と云うことをする。即ち聞手の方から口寄につれて色々の事を問うので、巫女はこの問口が無いと語り苦しいものだと云っている。又口寄の言うことの中に「<ruby><rb>日忌</rb><rp>(</rp><rt>ヒイミ</rt><rp>)</rp></ruby>」と云うのがある。例えば何月何日何方へ往けば損をするとか、不治の病に罹るとか云う類である。地方では之を信ずること甚だしく、その日は必ず在宅して謹慎する風がある。この迷信の結果、自分等(寄稿者島畑隆治氏)幼少の時までは、学校さえも欠席したものである。今は日忌の風は次第に薄らいで行くが、巫女に口寄させる風に至っては、まだ減退せぬようである云々。 '''C、越後国三面村の変態的巫術''' 越後と羽前の国境なる三面村(越後国岩船郡に属す)は、肥後の五箇ノ庄、飛騨の白川村などと共に、山浅く谷幽なるだけに異った生活を営んでいる村落として有名であるが、明治二十九年八月に同地の土俗調査のため旅行された宮嶋幹之助氏の記事の一節に、下の如くある。 : 此村の一年間の楽しみは、正月と、盆と、旧十月の山神祭礼なり(中略)。旧十月十二日には、山神の祭とて(中略)。山伏を招き、一週間位は全村業を休み置酒す。而して祭には<ruby><rb>神下</rb><rp>(</rp><rt>カミオロシ</rt><rp>)</rp></ruby>と云うをなす。其法、村人皆神前に集まりて、村中にて最も実直にて、少しく<u>ぼんやり</u>せる男を撰び<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>とし、「ボンデン」を携え坐せしむ。衆人は之を囲み、手に藁を縄にて巻きたるを持ち地を打ち、一斉に大なる声にて「ホーイ、ホーイ」と唱う。繰返すこと暫時にして、神子は一度眠れるが如くなり、次で携うる「ボンデン」を勢いよく振り舞わす。此期を外さず村民は、傍より歳の豊凶を問い、禍福を尋ぬれば、言に応じて答う。問を止むれば、神子は倒れ、昏睡して、不覚となる。後に至り、醒むれば、自身が何を言いしや覚えずと。度々神子となりたる者は、少しく雑沓の場にて衆人の喧しきに逢えば、恰も神下しの時の如き現象を呈すと云う。案内者の言に依れば、舟渡村(中山曰。同郡なれど三面村と六里を隔つ)其他の村にて、神下しの時に衆人の唱言は異って、 :: トラウハ、シマンテ、キリカミテンノウ、ハヤウデカノウハ、ソーワタダイテン : と是を幾遍も繰返すなり。又一種異れる神下あり。「<ruby><rb>邪権付</rb><rp>(</rp><rt>ジャケンツキ</rt><rp>)</rp></ruby>」と云う。其唱に曰く、 :: 一ヨリ二ヨリ、三ヨリ四ハラヘ、五ダンノマキモノ、六七サイホウ、八ポウカタメテ、イーノルナラバ、イカナルジャケンモ、ツイニハツカンデ、カンノーマイヨ : と是を繰りかえせば、衆人が呼出さんとする人の霊、神子に付きて、種々の事を口奔ると云う。此神下の唱えは米沢地方の山神祭に言う所と同じ云々〔八〕。 此の三面村の巫術の方法が、屢記した護法附と、全く軌を一にしていることは言う迄もないが、更に一段と古いところに遡れば、神子が巫女であったことが推知されるのである。それは「邪権附」に唱える呪文なるものが、私の接した報告によれば、磐城国の「笹ハタキ」と称する巫女が用いているのと同じであるからである。猶おその呪文等に就いては[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|次節]]に述べる。 '''D、常陸国土浦地方のモリコ''' 「民族と歴史」第八巻第一号に、常陸国土浦町地方の巫女を記せる一節に、次の如く出ている。 : 他にモリコと云うのがあります。それは大抵盲目の婦人です。病気などへ招かれて室内を暗くし、僅か一本の灯心に火を点じ、弦を鳴らして八百万神を呼び集め、それから自身が仏になって、我は死んだ祖父であるとか、伯母であるとか、又は大先祖なりと名乗りつつ、物凄く家族の人々を叱ったり宥めたり、既往将来の事を物語り、此の病人は何々の祟りだ。何神を信仰せよ、何々の薬を服用せよ。何れの方角から医者を頼めよと仏に代って種々の告げをするのであるが、是は「大弓モリコ」と称し、今でも病家などで、稀に行う事があります云々〔九〕。 '''E、信州における二三の市子と其作法''' 信州は古くから巫女の名産地で、諏訪郡からも出ているが、殊に多かったのは、小県郡根津村であった(此の事は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第二節|次節]]に詳述する)。「郷土研究」第二巻第六号に『信州では口寄巫を一般にノノウと呼び、その夫をボッポクと云う。神社に属して、神楽を奏する巫を鈴振ノノウと云う』とある。而して「民族」第三巻第一号には、同じ信州における巫女に関して、次の如く載せてある。 : 川中島では竃祓いをノノサンと云った。松本の近在から来るという事であったが、出所は明かでない。矢張り婆さん(中山曰。精眼者である)が多かった。千早を着て、髪は御守殿風に結び、提げて来る風呂敷包は、松本のと似ていた。「ごめんなさい」と云って入って来た(原註略)。鈴を振りながら経を誦んだ。口寄せの如く神口をきいた。お神楽を上げるときには、右手に鈴を振り、左手に布紗に包んだ経本の如きものを持ち、経を誦みながら、両手を頭上高く挙げ、やがて、ぴたりと鈴を止め、「我が一代の、守り神であるぞよ……」から初めて、神口をきいた(中略)。 : 北小谷(中山曰。北安曇郡)の竃祓いは、あの辺ではモリと云った。盲目の巫女が多かった。根知(小谷下流の越後分)から多く来た。四隅をしばった風呂敷包に鈴を持って居り、家の者に挨拶してから祓にかかった。御洗米といって米一升にい銭若干が礼であった。モリは神口もきいた。若い女が多かった(中略)。 : 川中島地方では、別に梓巫をクチヨセと呼んで、竃祓のノノサンと区別していた。「お神楽を上げれば一段上り口寄を寄せると二段下へ下がる」といったから、竃祓の方を位良しとしていたのであろう。針箱位の風呂敷包を背負って、それに傘一本いつけて来た。その箱の中には人形が入っているということであったが、どうしても見せなかった。風呂敷包の箱に<ruby><rb>靠</rb><rp>(</rp><rt>もた</rt><rp>)</rp></ruby>れて、神口、生口、死口をきいて、口寄せをした。神口のときには「神の初めは伊勢明神、越後ぢゃ弥彦の明神よ、信州ぢゃ一は諏訪さんよ……」と節調をつけて、神々を招ぎ降す。死口をきくときには、よく「某(嗣子の名等を呼び)は馬鹿だし、俺も行くところへ行かれぬ、それに水が呑み不足で一足出れば三足戻る……水向けしろや、お線香を立ててくれろや、さうすりゃ俺も助かる」などというので、身内の者などは涙を流して聴き入ったものだという(中略)。 : 小谷では之をイチコと云った。イチコの箱の中には外法仏が入っている。何か練って拵えたものだという事であったが、誰も見たものは無かった。ところが明治十年頃の事だったろうか(と話手の老人は云った)、イチコの泊っている家に集まって一杯やっていた博労共が、段々酔って来る中に、イチコがぶらりと遊びに出て行ったのを見てとり、その不在に主人の制止するのもきかず、箱の中から外法仏を出して見た。中には土で拵えたキボコ(人形)が入っていた。聖天様の様に男女のキボコが口を吸い合ってからまって居た。後でイチコが帰って来て「俺を勿体ない、いびりものにした」と腹立ち、箱に靠れて外法仏に聞いて、「誰と誰が云い出し、誰が風呂敷を解き誰々が箱を開いて、誰々で見た」と云った。皆の者弁解に窮し、それに薄気味悪くなって、繋銭(中山曰。各自銭を出し合うこと)をして包金であやまった事があったと云う云々。 '''F、大阪市天王寺村の黒格子''' 江戸期には、江戸郊外の亀井戸村(天満宮の裏門脇)、京都郊外の等持院村〔一〇〕、大阪郊外の天王寺村に、小規模ながら市子の集団的部落があった。明治四十四年に、私が在阪中の余暇を偸み、天王寺の<ruby><rb>巫女町</rb><rp>(</rp><rt>みこまち</rt><rp>)</rp></ruby>を訪れた時は、まだ三軒ほど黒格子独特の暖簾を下げた家があったので、呪術を頼んで見たが、禁制だと称して口寄せはしてくれなかった。東京の亀井戸も、大正六年に私がネフスキー氏と尋ねた折には、家の表へ注連縄を引き回した家が二軒あって、昔の<ruby><rb>巫女町</rb><rp>(</rp><rt>みこまち</rt><rp>)</rp></ruby>の面影を微かにとどめていたが、ここでも官憲の命令だといって、口寄せに応じてくれなかった。而して天王寺に就いては、「浪花百事談」巻九に、 : 梓<u>みこ</u>数軒住ける地なり、其家みな格子造りにて、表の入口の外には、長三尺計りの三巾暖簾を木綿にて製し、それに大なる紋を染ぬき、仮字にて<u>くろがしら</u>何々、<u>やぶのはた</u>何々など、巫の名をも染ぬき、入口の上には注連縄を張る、黒格子といへるは、格子を墨にて塗り、家の内の表の間には、何か祀りて薄暗くせり云々。 とある。格子を黒く塗り、家を薄暗くするのは、神がかりする為の便利から来ているのであろうが、遂にそれが黒格子と云えば、<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>と思われるまでの俚称となったのである。大近松が宝永三年に執筆した「緋縮緬卯月の紅葉」二十二社めぐりの段に、お亀が情人の与兵衛の身の上を案じて、黒格子の巫女に生口を寄せてもらう光景が、巣林子の麗筆を以て叙述されている。而して此の一節は、単に大阪の古い巫女の存在を知るばかりでなく、その神降しの呪文にも、隠語にも、他のそれと異ったものが記してあるので、少しく重複に渉る嫌いはあるが、必要と思うところだけを左に抄録する。 : 幼き時より気に入りて、幾春秋をふりと云ふ、年季の下女を身になして、隠す事をも語りしは、黒格子の辻とかや、上手と聞きし<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>の門、ああ申し、ちと口寄を頼みませうとぞ案内ける。弟子の小女郎心得て、お通りなされと戸をあくれば、お亀は<ruby><rb>一間</rb><rp>(</rp><rt>ひとま</rt><rp>)</rp></ruby>に入りにけり。暫くあって立出づる、神子もよっぽど見えるもの、アァようお出でなされました、大阪のお衆で御座りますか(中略)。 : して先づ御用の事ありとは、生口か死口かと云へば、いやさればとよ、頼みたきとは生口なるが、海山隔てし<ruby><rb>方</rb><rp>(</rp><rt>かた</rt><rp>)</rp></ruby>でもなし、只二三里の道を越え、五日六日の<ruby><rb>便</rb><rp>(</rp><rt>たよ</rt><rp>)</rp></ruby>りもなし、どうがなかうがな、くよくよと、案じわびたる御身の程、寄せたべとぞ仰せる。神子は合掌目をふさぎ、珠数をくりひく梓弓、神下して寄せにける。 :: 天清浄地清浄、内外清浄六根清浄、天の神地の外、家の内には井の神、庭の神、竃の神、神の御数は八百万、過去の仏、未来の仏、弥陀薬師弥勒阿閦、観音勢至普賢菩薩、知恵文殊、三国伝来仏法流布、聖徳太子の御本地は霊山浄土三界の、救主世尊の御事なり、此の御教への梓弓、釈迦の子<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>が弦音に、引かれ誘はれ寄り来り、逢ひたさ見たさに寄り来たよ。 : なう<ruby><rb>懐</rb><rp>(</rp><rt>なつ</rt><rp>)</rp></ruby>かしの<u>合の枕</u>(圏点を附せるは[[日本巫女史/第二篇/第五章/第四節|隠語]])や、我懐かしとはおぼつかなみの、寄り来る人は誰ぞいの、誰とて二人思ふ身が、一つねふしの二股竹与兵衛を、夫と思へばこそ問ふてたもって嬉しやの、問はれて今の恥かしや(中略)。とは云ひながら扇の影の立烏帽子、舅といひてもとは伯父(中略)。<ruby><rb>額</rb><rp>(</rp><rt>ひたへ</rt><rp>)</rp></ruby>に角も入れたもの、丁稚小者を云ふ如く、内の手代や<u>庭宝</u>の侮り者になし果てて(中略)。語るに尽きぬ生口も今は是まで梓弓、引いては帰る習ひなり云々(帝国文庫本)。 大近松の慣用手段とて、情景併叙の筆を運び、殆んど天衣無縫の如き感あるも、それでもお亀が<ruby><rb>問口</rb><rp>(</rp><rt>トイクチ</rt><rp>)</rp></ruby>をなし、市子がそれに答える遣り取りの工合が、巧妙に描かれている。それにしても、此の神降しの呪文は、神を言うよりは、仏を称えることが多いのは、兎に角に注意すべき点だと思う。 '''G、紀州地方の算所と巫女の関係''' 本居春庭翁の「賤者考」の一節にこうある。 : サンジョと唱ふる所ありて、大抵忌む所<ruby><rb>夙</rb><rp>(</rp><rt>しく</rt><rp>)</rp></ruby>に同じ、伊都郡(紀伊)相賀荘野村今陰陽師あり、同郡官省符荘浄土寺村{今巫村なり日高/郡茨木村のうち}などをいひて他村より婚せず、サンジョは産所の意にて、昔産婦はここに出て産し、穢中を過して本村に帰りしなりなどいへれば、夙の所にいへる意に同じ、是も後には陰陽師巫女など移り住みしなるべし、夙よりはいささか勝れる如く他村にていへども、同火を禁ぜざるのみにて婚を忌めば同じ事なり(中略)。陰陽師、巫女、神楽舞やうの者も、人の同歯せざる事あり(中略)。巫女は前にいふ伊都郡浄土寺村、在田郡藤並荘熊井村などなり、、其他一二戸づつなるもあり云々。 猶お同国田辺町の巫女に就いては、[[日本巫女史/総論/第四章/第一節|既載]]したので省略する。而して「賤者考」の記事にもある如く、江戸期に入っては、巫女の堕落はその極に達し、漸く賤民として、落伍者として、社会の一隅に噞喁したまでであって、その社会的地位の如きは、殆んど問題とされず、修験の徒や、陰陽師の妻女となって、大昔の勢威などは夢にも見ることが出来なかった生活であった。 '''H、出雲地方の刀自ばなし''' 「郷土研究」第二巻第四号に、出雲国の一部に就いて、次の如く記載してある。 : 死者の精霊を呼んで、生前の物語を聞くことを「とじばなし」と云う。小庵の尼寺に至り、「とじばなし」を乞うと、尼は萩の弓(中山曰。此の萩の弓は他国には見えぬ)を射て、戒名と命日を唱えて精霊を呼び出して、物語をはじめる。昔死んだ子を呼んでもらって、茶の袷と杖を信州の善光寺まで届けてくれと頼まれて、長の旅路に財産を無くした母親もあった。「とじばなし」は精霊を呼ぶのは易いが、返すのは容易でない。若し誤ると亡霊は勿論のこと、遺族にも不幸が来る云々〔一一〕。 以上は寡見に入った文献に現われた巫女の作法であるが、更にこれが詳細のもの、及びここに漏れたもので、報告に接している分は後出する。さて此の乏しき資料を比較して巫女の異流を考うると、 : 一、奥州のイタコの如く盲女に限るものと、これに反して、常陸のモリコや、大阪の黒格子の如く、精眼者のあったこと : 二、梓弓を用いる者と用いぬ者 : 三、珠数を用いる者と用いぬ者 : 四、神降しの呪文にあっても、神道七分に仏法三分というのと、此の反対に仏法七分に神道三分のもののあったこと : 五、稀には萩の弓を用いる者のあったこと 等が知られるのである。併し、斯かる異流が何故に生じたか、更に異流双互間の関係等に就いては、遂に何事も知る事が出来ぬのである。猶お本節中に収むべき記事も相当に残っているが、余りに長文になり、且つ大体を尽したと信ずるので、他は別に節を設けて記述することとした。 ; 〔註一〕 : 金田一氏の故郷である盛岡市の令姉の御宅で行われたこと、詳細は「民俗芸術」第二巻第三号に就いて御覧を乞う。 ; 〔註二〕 : 前田太郎氏著の「世界風俗大観」参照。前田氏は言語学を専攻された方と聞くが、民俗学にも興味を有していられたと見え、此の種の研究や、考察が「東京人類学雑誌」その外に多く載せてある。宿痾のために、壮年で易簀されたのは惜しいことであった。 ; 〔註三〕 : 我国の榊(栄樹)とは、古くは常緑樹の総てであったから、樒もそれであるなどと云う学者もあるが、覚束ない。私は我国には、樒の野生はなく、支那あたりから輸入されたものと考えている。従って、樒が常緑樹だからとて、榊としては取扱はないことだと思う。尤も、私も正月の門松の代りに樒を用いる村が、日本で一ヶ所あることだけは承知している。併し、此の一例だけでは、榊説は成り立つまい。 ; 〔註四〕 : 「一郎殿より三郎殿」の私案は、前に述べたが、その後考え直すと、此の呪文がエビスオロシと称する者によって工夫されたという証明が出来ぬ以上は、甚だ覚束ないと自分でも思っている。敢て後賢を俟つとする。 ; 〔註五〕 : 柳田国男先生の御説によると、此の千だん栗毛の祭文に比較すると、同じ「民族」第一巻第六号に載った「まんのう長者」の方が、一段と古いものだとのことである。成る程、そう言われて両者を比べると、新古が明確に判然し、且つ「千だん栗毛」の方は、詞章をそのまま伝えたものでなく、意味だけ伝えて、文句は後人が勝手に言い改めたものであることが知られる。それに、此の祭文の中心思想である、姫と馬の交りから蚕が生れるという筋は、支那の「捜神記」そのままである。そして之れが奥州に残り、イタコに伝ったのは同地が名馬の産地であるのと、養蚕にも関係が深かったためであろう。 ; 〔註六〕 : 小寺氏の記事は、詳細委曲を尽した長文のものであるゆえ、猶お詳しくは、本文に就いて、御覧を願いたい。更に此の機会に於て、私の運墨の都合から、小寺中道両氏の記事を、勝手に取り交ぜて引用した失礼を、深くお詫びする次第である。 ; 〔註七〕 : 「郷土研究」第四巻第四号。因に、私は鈴木氏と親交ある香取秀真氏の御紹介を得て、鈴木氏を市外田端の御宅へ両度まで参上し、有益なるお話を承った上に、氏の秘蔵せるイラタカの珠数の撮影まで許された。ここに感謝の意を表する。 ; 〔註八〕 : 「東京人類学雑誌」第一二六号。 ; 〔註九〕 : 常陸で巫女を「大弓」又は「モリコ」と云ったことは、「新編常陸国誌」にあること[[日本巫女史/総論/第一章/第一節|既述]]した。これを重ねて呼ぶことは如何かと思うが、今は本文に従うとする。 ; 〔註一〇〕 : 京都市外等持院村が巫女村であったことは、京都の地誌類に見えているが、詳細が知れぬので、在京都の友人に、詳細を尽せる書名なりとも知らせてくれと頼んだが、遂に返書にすら接しなかったのは、遺憾千万であった。それで茲に、新井白蛾翁の「闇の曙」巻下(日本随筆大成本)に拠ると、同地方では巫女を俗にヒンヒンと呼んだようである。これは弓弦の擬声から来ていることは言うまでもない。ただ同書には巫女の無学と、弊害とが力説されていて、その呪法や生活に触れていぬのは物足らなかった。 ; 〔註一一〕 : 猶お此の外に、アイヌ民族の間に行われた巫女(ツス)の呪法や、琉球の各島々に在る巫女(ユタ)の作法などに就いて、記述すべき幾多の資料を蒐めて置いたが、今は長文になるのを恐れて、内地だけにとどめるとする。 [[Category:中山太郎]]
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