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日本巫女史/総論/第二章
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[[日本巫女史]] [[日本巫女史/総論|総論]] ==第二章 巫女史の研究方法== 巫女の研究には、如何なる方法を執るべきかという問題は、相当に考慮を要すべき事であることは言うまでもないが、これには先ず、巫女史を組織すべき資料の蒐集、及び史料の批判、竝に史料の整理と、正しき解釈、及び史論の構成、及び表現等に就いて、注意を払うことが大切である。而してここに、是等に関する私の態度を明白にして置きたいと思う。 '''一 史料は出来るだけ多く蒐集''' 歴史学は、経験の学であって、理論の学ではない。巫女史が歴史の一文科である以上は、当然この支配を受くべきものであるから、史料の多寡が直ちに研究の価値に影響を有することは勿論である。従って、巫女史を研究するには、巫女史の史料となるべきものを、出来るだけ多く蒐集すべき必要がある。証拠の収集の充分でない裁判が、往々にして誤判に陥り易いように、史料の収集の不十分な史論は、如何にするも誤謬に陥らざるを得ないのである。而して、多くの史料の蒐集を行うには、先ず雑然として玉石同架している種々なる素材のうちから、特に巫女史の史料となるべきものを、克明に拾収するだけの、用意と、眼識とを備えなければならぬ。換言すれば、巫女史料を巫女史料として認識するだけの、経験と学力とを具備しなければならぬ。それには、何が国民の信仰現象であるか、何が巫女の生活現象であるかを、明確に把握しなければならぬ。併しながら、史料は出来るだけ多く蒐集するが宜いと云ったところで、史料の排列は直ちに歴史ではない。その史料を論理的に按排して、その関連に注意し、正確を保つところに、学問が存するのである。それ故に、何人にでも史料は蒐集が出来るというものではなくして、巫女の呪術なり、生活なりに、相当の理解と、見識とを有する者でなければ、能わぬことである。而して史料を蒐めるのに、戸内的には、出来るだけ多く諸書を渉猟し、戸外的には、出来るだけ各地を旅行し、かくて眼と耳から蒐集すべきことは言うまでもない。 更に一言すべき事は、特に巫女史に限られた問題であるが、これが史料の蒐集は、他の歴史的研究に比較する時、一段と蒐集に困難する点である。即ち巫女の行う呪術なるものは、絶対的に秘密を主として、且つ文字に記さず、多くは口より耳へと相伝したものだけに、これを知ることが容易でないのである。従って、巫女の生活なるものも、その境遇が特殊の環境に置かれてあったために、これもその史料を蒐めることが至難である。加之、巫女なるものは、遠き昔より今に至るまで、常に官憲のために嫌われて、殆ど禁止されていたのであるから、旁々以て史料が多く伝っていぬのである。然るに、これ等の困難を突破して、史料を、より多く蒐めようというのであるから、そこに多大の忍耐と努力とを要する次第である。私は巫女史を書こうと企ててから約二十年になる。此の間に、蓄積した史料なるものは、決して多くはない。私としては、出来るだけの方法と、手段とを講じたのであるが、前記の理由は私の所期の十分の一にも達しなかったのである。それ故に私は、後学のために、蒐めた史料は、出来るだけ、よし、それが断簡零墨のような——史料としては、左迄の価値なきものと思うものまでも、採録することとした。多きを誇るのではなくして、泯びるのを惜しむのである。幸に、衒学の徒と誤解なきよう、特に附記する次第である。 '''二 史料は厳重に批判して採択''' 蒐集された史料は、厳重にこれを批判して、その真偽を判定しなければならぬ。否、史料は最初から出来るだけ厳重に批判して、その真実なるものだけを、蒐集しなければならぬのである。而して、此の史料の批判は、第一は形式上から始めて、次で第二の内容上に及ぶことは勿論である。第一の批判は、それが記録であるなれば、錯簡、攙入、誤脱等の有無を精細に調べ、金石文であれば、金石の質、彫刻、書体等を検し、更に古文書であれば、紙質、書風、墨色等を観て、共に仔細に検討しなければならぬ。第二の批判は、これ等の記載が学術的であるか否かを考察し、次で他の文献なり、又は史実なりと衝突し、或は矛盾した話が有るか無いかを精細に調査し、ここに始めて史料の批判が終るのである。 かくて蒐集した資料が、真実の物であって、虚偽の物でないという見極めがつけば、今度は更に記載してある物それ自体が、史料として幾何の価値を有するかに就いて、稽査しなければならぬ。勿論、これに関しては、その一々に就いて言わなければならぬが、併し概括的に言えば、古文書または金石文の類は、一般に、その当時より幾分かの年代を経た後に作られた書籍よりは価値が多く、又同じ記録でも、編纂されたもの、或は述作されたものよりは、直接その事に当った者の手控又は備忘録というものが価値が多い。従って、史料の批判を行うには、その作られた時代、場所、及び動機、竝びにこれを作った人物の性格、境遇、及び社会的位置等を精細に検査すべき必要がある。昔も今も、平気で偽文書を拵えたり、書物を偽作する人は、決して尠くないからである。 史料の批判に就いて、第一の形式上に関しては、古文書学、考古学、民俗学等の補助学科の力を藉りることが必要であると同時に、第二の内容上に関しても、是等の学科の力に俟つべきは言うまでもないが、更に史学の原則に従うべきは勿論である。而して、筆者として、絶えず注意すべきことは、自己の欲する史料、若しくは自己の導かんとする結論に、好都合なる史料に対しては、格別の批判を加うべき点である。これは、ややもすると、史料に支配される結果に陥ることがあるからである。 更に、此の機会に、一言附記すべきことは、私が本史において蒐集使用した史料中に、雑誌の記事または学友からの報告が、多量に存している一事である。私としては出来るだけ斯かる史料に信頼せぬように心懸けていたのであるが、巫女史にあっては、前述の如く、殆んどその全部が秘密として社会から遠ざけられていた為に、これに関する記録や、遺物も、極めて尠く、明治以前にあっては、纏ったものとては、全く、眼にも、耳にも、入らぬ有様である。然るに、明治となって、巫女の呪術が禁止され、且つ巫女は概して<ruby><rb>下</rb><rp>(</rp><rt>さが</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>職</rb><rp>(</rp><rt>しょく</rt><rp>)</rp></ruby>として、社会から排斥されていたので、禁止と同時に、相率いて帰農するか、商売となるか、又は死亡するかして、漸くその事跡が堙滅に瀕するようになったのである。それが明治の終る頃から、恩師柳田国男先生の首唱で民俗学なるものが起り、従来、社会から疎却されていた賤業卑職の徒の消長に就いて好んで記録するようになり、此の学風は、大正に入って一段と隆盛を極め、専門の雑誌も三四を以て数うるようになり、且つ一般の国民を刺激して、此の種の事に留意させるようになったのである。かかる次第とて、私の企てた本史の史料が、雑誌に俟つことが多く、且つ此の種の事象に興味を持たるる学友(その多数が専門雑誌の寄稿者であって、然も郷土史の研究者として令名あり信用ある方々である)を煩わすこととなったのである。私は斯うしてまでも、今のうちに泯滅の途を急ぎつつある巫女の史料を記録に残すことが、我が民俗学にとっては、意義あるものと深く信じている。而して、斯くして蒐集した史料でも、その一々に就いて、厳重なる批判を加え、採るべきものは採り、棄つべきは棄てるに吝ならざりしことは勿論である。 '''三 史料の整理とその解釈''' 蒐集し批判された史料は、更にこれを史論の構成に便利のように整理されなければならぬ。史料の整理方法に就いては、各自とも、その性格と、趣味と、境遇等によって別にしているが、私は柳田先生の流儀に倣って、史料を一々カードに書き留めて整理する方法を採っている。実際、私のような経済的に恵まれぬ一学究として、旧板新刊の書籍(それも私の専攻している民俗学関係の物に限る)を読破しようとするには、読んではカードに記し、記しては売り、買っては読むというようにしなければ、到底、雨後の筍の如く続出する書籍を読み盡すことは出来ぬ。勿論、その間において、少閑を偸んで、各所の図書館へも往き、学友の蔵書も借りるという有様で、その苦心と、努力とは、万巻の書籍を愛蔵している者の、夢にも見られぬところである。私は斯うして書き留めたカードを約二万枚ほど所持していて、巫女史に関するものだけでも更に幾つか細別し、分類して、整理してある。併しながら、これは私の遣り方であって、これを決して理想的のものとして大方にお奨めするのではない。貧しき者の詮方なしの一策にしか過ぎぬのである。 それでは、此の外に、史料整理の方法があるかといえば、「大日本史料」の如く、年代によって排列する仕方もあれば、更に「古事類苑」の如く、事柄によって分類する方法もあり、又「大日本古文書」の家わけ文書の如く、史料の所在、伝来等によって網羅する遣方もある。従って、如何なる整理の方法が最も優れているかは、一概に言われぬ事であると同時に、その人々の嗜好に応じて、適当なる方法を選ぶべきである。 整理された資料は、更に適当に解釈されねばならぬのは当然の事であるが、此の解釈こそ、或は史料を活かし、或は史料を殺すこととなるので、最も注意を払わねばならぬ点である。而して歴史家の解釈力は、如何なるところより生ずるかと言えば、それはその史家の有する史学全般の知識を基調とし、これに補助学科なる考古学、人類学、古文書学、言語学、及び民俗学等に就いて有する該博なる知識より生ずるのである。歴史家は、史料に関して、透徹せる観察によって、史論の骨子を作り、更に史料に就いて、正確なる解釈を下して、運筆すべきである。 歴史が、経験の学であって、理論の学でない以上は、史料を解釈するに注意すべきは、常に客観的態度を採らなければならぬことである。若しこれに反して、主観的態度に出ると往々にして解釈を誤る虞れがあるからである。 '''四 史論の構成とその表現法''' 史論の構成は、演繹的よりは帰納的にする方が安全である。想像と推理は、史論を試みる上には禁物であって、その一々が悉く史料の上に立脚していなければならぬ。併しながら、史料を総合する事によって、関聨を把握し、或る程度の飛躍を試みることは必要である。ただその飛躍が、史料を閑却して、徒に想像に流るることは慎しむべきである。而して、史料を縦横に駆使して、史料の有てる価値を充分に発揮させるのは、全く歴史家たる者の全人格の力に依存しているのである。 史家の認識は、純然たる科学であるが、その表現——即ち史論の記述は、明かに一種の芸術である。ここに於いて歴史家は創作家と同じ程度の技術を有する者でなければならぬ。併しながら、歴史の記述には制限がある。即ち認識の正確を目的とする範疇で許された創作であるから、此の埒外に出ることは注意しなければならぬ。殊に、文体に思いを凝らし、措辞に心を苦しめて、史料を損ずるが如きは邪道である。達意にして、明晰であれば、それで充分である。好んで耳遠き古語を用い、又は生硬なる熟語を陳ねて得たりとするが如きは、史論の表現法としては、与することの出来ぬ点である。 [[Category:中山太郎]]
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