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日本巫女史/第一篇/第五章/第五節
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第一篇 固有呪法時代 第五章 巫女の作法と呪術の種類 ==第五節 性器を利用した呪術== 我国の性器崇拝(Phalicism)は遠く神代から存していた。天鈿女命が磐戸の斎庭で神懸りせる折に『胸乳掻出し、裳紐を番登に押垂れ』たのは、性器に呪力があるものと信じたからの所作である事は既述した。「古語拾遺」に、御歳神が怒って、大地主神の営田を損ぜしとき、大地主神が片巫・肱巫に占わせて、田の溝口に「男茎形」を作って立てたことが記してある。これも性器の呪力を信じた結果であることは言うまでもない。古墳から発掘された男子の土偶埴輪のうち、性器を露出したもののあるのも又これが為めで、殊に元正陵の倍家から出たという伝えのある怪奇なる石人は〔一〕、此の種の信仰を現わした、代表的のものとして人口に膾炙されている。 私は茲に、我国における性器崇拝の起原とか、発達とか云う問題に触れることは、努めて回避したいと思う。何となればそれは余りに周知されている問題であると同時に、また余りに本書の柵外に出るからである〔二〕。従って私は巫女史の立場から、巫女が呪術を行うに際して、如何に性器を利用したかに就いて既述するにとどめるとする。 記・紀の神代巻を読んで、誰でも驚くことは、我国の神々なるものが、性道徳の方面において、全く洗練を欠いていたと云う点である。換言すれば、神代巻に現われた神々の性的生活なるものは、必ずしも道徳的に完全なるものではなかった。更に露骨に言えば、神々は性的方面において道徳的に完全なるものであらねばならぬと云う思想は、まだ是等の神話を構成した、古代人の間には存していなかったのである。従って神代巻に記された巫女が、性器を利用する呪術に大胆であったことも、当然の帰結として考えられるのである。 平田篤胤翁の「宮比神御伝記」に、天鈿女命の磐戸の所作に就きて『女神の恥じて得すまじき胸乳を掻き出し、内股さえに顕わし給い、裳の紐を陰の邊までおし垂れ、わざと可笑しく物狂わしく舞おどり給いけり』とある註に『今の世に縫物すとて針を失いたるときに、その女ひそかに信仰の神を念じて、前の毛を三返かき上げ、三返たたけば、失せたる針必ず出ずるを、出たるときに前の毛を三返かき下すと云う厭勝も、此のわざの残れるなり』と記している。而して此の厭勝なるものが、果して平田翁の説の如く天鈿女の所作の残れるものか否かに就いては、多少の疑いなきを得ぬのであるが、兎に角に此の種の呪術が古くから在ったことだけは承認しても差支あるまいと思う〔三〕。 而して更に一段と注意すべき事は、天孫降臨の際に於ける鈿女命の所作である。「日本書紀」に此の光景を記して、 : 且降之間、先驅者還白、有一神、居天八達之衢(中略)。卽遣従神往問、時有八十萬神、皆不得目勝相問、故特勅天鈿女曰、汝是目勝於人者、宜往問之、天鈿女乃露其胸乳、抑垂裳帯於臍下、而笑噱向立、云々。 とあるが、此の衢の神が猿田彦命であることは言うまでもない。然も、此の記事のうちには、巫女として天鈿女命が行うた三つの重要なる呪術の存していることが発見されるのである。 その一は目勝と云うことである。目勝は即ち邪視(Evil eye)であって〔四〕、眼光に呪力あることを意味した語である。猿田彦の眼光が『如八咫鏡、而{赤偏駞旁}然似赤酸醬也』と照り輝くので〔五〕、八十萬の従神は、咸な此の視害のために神名を問うことすらも出来なかったのを、独り鈿女命だけが、更に此の猿田彦に目勝したとあるのは、取りも直さず、両神の間に邪視の呪術が闘わされた結果、鈿女命の呪術が猿田彦のそれに打ち勝ったことを、意味しているのである。 その二は天鈿女が、例の胸乳を露わし、裳帯を臍下に抑し垂れたことであるが、かく鈿女が、呪術を行う毎に、一度ならず二度までも、性器を利用した点から見ると、此の所作は太古の巫女の常に執ったところの、呪術的作法とも考えられるのである。 その三は少しく私の想像が加わるのであるが、此の際に猿田彦と天鈿女との間に呪術としての媾合が行われたのではないかと信ぜられることである。それは、昭和四年二月に、豊前国京都郡城井村大字城井馬場の八幡宮に伝わりし神代神楽というのが、国学院大学の郷土会で開催されたが、私は此の古雅なる神楽を参観し、その「天孫降臨」と云う一齣において、猿田彦に扮せる者と、天鈿女に扮せる者とが、顕然として媾合の所作を演じたのに驚異の眼を以て見守らざるを得なかったのである〔六〕。 私は原始的の形式とを伝えている神楽——若しくは祭式舞踊において、此の種の所作が、拝観者の面前にて無遠慮に演じられる幾多の資料に接しているのである。例えば、原始的の匂いと彩りとをそのままに保存している琉球各地のムツクジャと称するものは、全く露骨なる交接祭である〔七〕。内地にあっても、此の種のものは殆んど枚挙に堪えぬほどある〔八〕。殊に信濃国下伊那郡且開村字島田に、毎年正月十五夜夜に行われる田遊びの神事には、昭和の現代にも尉と姥に扮した者が、神楽殿において見物の見る眼も憚らず、その所作を演ずると聞いては〔九〕、民俗の永遠性を考えさせられると同時に、その起原の呪術に出発していることを想わせられるのである。時代は下るが、平安朝に書かれた「新猿楽記」に、 : 野干坂伊賀専之男祭、叩蚫苦本舞、稲荷山阿小町之愛法、{鼻偏亢}{魚偏笠}破前喜云々。 とあるのや、同じ頃に記された「雲州消息」巻上の一節に、 : 今日稲荷祭云々。又有散樂之態、假成夫婦之體、學衰翁爲夫、模{女偏它}女爲婦、始發艶言後及交接、都人士女之見者、莫不解頥斷腸云々。 とあるなど〔一〇〕、実に際限ないほど在って存している。 而してかかる予備知識から導かれていた私は、窃かに、天鈿女と猿田彦との邂逅の場合に、呪術として此の種の事が行われていたのではないかと疑うていたところへ、此の露骨なる神楽の所作を見せつけられて、多年の疑いが解けたと共に、性器を利用する呪術の真相が釈然したのである〔一一〕。我国の現在の学問は種々なる方面から多大の束縛を受けている。就中、性的神事の詳細を記こすとは、稍もすると宜ろしからざる事とされているので、茲にこれ以上を明白に記す事を欲せぬけれども、巫女の性器利用は常人が後世から考えるより以上に、深刻であり、且つ露骨であったことを注意しなければならぬのである。 性器崇拝の当然の派生として、異相の性器を有する巫女ほど、その呪力の増加するものであると考える信仰が伴っていたことも、此の場合に逸することの出来ぬ問題である。而して此の信仰は「七難の揃毛」という名で呼ばれているので、私も此の通称に従うこととした。勿論、七難とは、奈良朝から平安朝へかけて民間信仰となった仏説仁王経の七難即滅七福即生の経文から出た語であるから、これを以て仏教渡来以前の古代の信仰に冠することは元より妥当を欠いているが、茲にはその七難の揃毛の古い相——即ち我国固有の信仰を記すにとどめ、詳細は仁王信仰の隆盛を極めた平安朝において記述する。誤解を防ぐために敢て附言する次第である。 讃岐国大内郡誉水村大字水主の水主神社の祭神は比売神であるが、俚俗の伝えに、此の神は御陰の毛が甚だ長いので、親神が恥じ給い、独木船に乗せて海に放ち流してしまった。それで比売神は、何処ともなく流れ漂うた末に、同郡(?)馬篠の浜に着いた所、同地の土人が比売神の上陸を拒み、船を突いて沖へ流したので、それより東方に漂い、同郡安戸ノ浦へ着き、そこより上陸して鎮座すべき浄地を其処彼処と覓め給うて、遂に水主村に留り、後に水主神社と祭られたのであると云うている〔一二〕。此の俚伝に残った比売神の正体が、地方わたらいの巫女であることは、多くの説明を俟たずして、直ちに会得されるものがある。殊に陰毛が甚だ長かったということは、即ち異相の性器の持主で、然も呪力の効験なる(後章の七難の揃毛を参照せられたい)ものと信じられていた為めである。 全体、私が改めて言うまでもなく、我国にも、毛髪が一種の呪力を有していたものと考えた思想は、古代からあった。神代に素尊が罪を贖うために、八束の髯を斬ったのは、ただにその威厳を損じて、懲罰に換えるというだけの意味ではなくして、素尊にとっては、髯は一種の生命の指標であるとも云えるのである。大己貴命が素尊の女なる須勢理媛命と奔るとき、素尊の髯を室戸に繋いだとあるのは、私にそう考えさせる暗示を与えているのである。案山子の語源も嗅がしであって、古く人毛を焼いた匂いを鳥獣が恐れて、作物に近づかぬ呪術的の意味が含まれていたのである〔一四〕。「孝徳紀」の大化の詔の一節に於て『爲亡人斷髮刺股』ことを禁じたのは、髪を断ることは肉に活きても霊に死ぬと云う意味を現したからの迷信を停めるためであった。従って陰毛の甚だ長かったことが、呪力の強烈であるとした考慮のうちには、此の種の毛髪に対する信仰の多分に加っていることを注意しなければならぬ。 七難の揃毛は、此の両者の歩み寄りによって、大成された信仰である。而して是等の毛髪の所有者が、古い巫女であったことは言うまでもない。猶お代々の性器利用の呪術や、是れに伴う毛髪信仰などは、各時代の下に詳述する考えである。 ; 〔註一〕 : 藤貞幹の「好古小録」及びその他の書物にも載せてある。 ; 〔註二〕 : 我が国の性器崇拝に関する書物は夥しきまでに存していて、世の所謂好事家なる者で、此の事を知らぬ者は無いほどである。併し、好事家の手にかかったために、却って学術的には幾分割引された傾きがある。是等のうちで、澤田四郎作氏のファルス・クルッス(全一五輯)。出口米吉氏の「生殖器崇拝の話」及び「原始母神論」の如きは、頗る真摯なもので、学問的にも価値の多いものである。 ; 〔註三〕 : 在朝鮮の未見の先輩である今村鞆氏の示教によると、縫針の失せたときに牝部を撫す呪術は、徳川氏の大奥にあっては、幕末まで行われていたということである。 ; 〔註四〕 : 我国で邪視のことを初めて学術的に論じたのは、実に南方熊楠氏である。氏は「南方随筆」所収の「児童と魔除」の條において、氏一流の内外古今の例を集めて論じている。敢て参照を望む。 ; 〔註五〕 : 赤酸醬(あかがち)とは鬼火の古名で、猿田彦神の眼球の赤いことを形容したものである。此の一事から推して、猿田彦神は異人種であるなどと言う人もあるが、勿論、私は賛成しかねる説である。 ; 〔註六〕 : その折に恰も先輩の金田一京助氏が隣席に居られたので、互いに顔を見合せて、一寸苦笑させられたと同時に驚かされたものである。 ; 〔註七〕 : 琉球本島のことを書いた「山原の土俗」に、二三の実例が載せてある。此の外にも、琉球の島々には、此の種の祭が尠からず存していたのである。 ; 〔註八〕 : 我国の交接祭は、農業の俗信と交渉するところが深い。これに就いては、拙著「日本民俗志」に収めた「農業祭に現われた生殖器崇拝」に多数の例を挙げて述べて置いた。参照くださると幸甚である。 ; 〔註九〕 : 此の祭礼を目撃された折口信夫氏の談に拠る。 ; 〔註一〇〕 : 「新猿楽記」も「雲州消息」も共に群書類従本に拠った。 ; 〔註一一〕 : 私の知人である川口芳彦氏が、「同人会」と称する相当知名の人の集る会合の席上において語られた所によると、東京府大森町に近き某所の祈祷所の所主は婦人であるが、常に二三名の若き男子を雇い置き、最も大切なる占いをするときは、その男子と合衾し、最高調に達した際に発する言語であって、これを託宣と称しているとて、神前及び託宣する部屋の構造まで詳説された。私は此の一事を以て、古代の巫女が行うた性器利用の呪術を推論する者ではないが、併しかかる原始的のことが、此の祈祷女の発明とも思われぬので、或は遠い昔から彼等の間に伝っていたものでは無いかと想うとき、これに類似したような呪術が、古代に存したのではなかろうかと考えても見たのである。 ; 〔註一三〕 : 讃岐国官社考証(神祇全集本)巻上。因に「全讃史」には、水主神を××天皇第一の皇女百襲媛命としてあるが、元より信用することの出来ぬ附会説である。我国の各地に、高貴の方々の流謫を説く民間伝承は、夥しきまでに存しているが、是れに就いて、柳田国男先生が「巫女考」において説かれた如く、殆んどその全部が、田舎あるきした巫女の身の上に関したものである。猶お陰毛の長かった神のことが「豫樟記」にも載せてあったと記憶しているが、座右に同書が無いので、今はこれだけ言うに留める。 ; 〔註一四〕 : 斐騨中学校長であった川口孫次郎氏が「飛騨史壇」の誌上で詳説されたことがある。 [[Category:中山太郎]]
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