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春来る鬼——秋田にのこる奇習——
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: 十五日……夕くれふかう灯火とりて炉のもとに円居してけるおりしも角高く丹塗りの仮面に、海管と言うものを黒く染めなして、髪ふり乱し、肩蓑と言うものを着て、何の入りたらんかからからと鳴る箱ひとつをおい、手に小刀を持てあといいて、ゆくりなう入り来るをすはや生身剝よとて、童は声もたてず人にすがり、ものの陰ににげかくろう。これに餅とらせてあなおかな泣くななとおとしぬ。 秋田の雪に埋れた夜の生活を続けて居た菅江真澄は、此数年以来急に世の中に現れて来た。これで注意深い農村の観察者が一人加わったわけである。啻に観察者と言うばかりでなく、菅江真澄の記録は話にある体系のある学問から、それの資料になる一つ一つの事実を断片化して示すように殆ど、意味もあるまいように見える農村の断片的な行事、或は細やかな人心の動きを見て取って記述している。 私が秋田の物語りをするのは、誠に其当らぬことではあるが、元の太平山三吉神社の社司田村氏、又故人平福百穂大人の面影を眼に浮べて話を進めることによって、多少纏ったものを作ることが出来るかも知れぬという儚い物語りに過ぎない。真に「春来る鬼」の物語りと言うべきである。真澄の此記述が世の中に知られるようになる以前に、既にこうした事実の、断片ながら彼方此方の地方に行われて居ることは聞いて居た。即ち東北地方の小正月なり、或は十四日年越しの夜に行われる行事が、かなりの程度まで一致して広く行われて居たことである。これを初めて知ったのは、大正八・九年頃の東京朝日の新年風俗に関する広告を募った時のことであった。 其後屢、所謂「目のよる処に珠」の譬えの通り、書物から口頭から類似の事実の多いことを知った。近年出た日本地理体系に、男鹿の何の村かの生身剝の勢揃いした写真が出ている。なんでもない小さなすけっちに過ぎないが、遉に尚古い精神の伝承がそれに漲っていた。今後もこれ以上の生きた姿を取ることは出来ないと思う。船川の町に宿ったのは、あれは盆の幾日であったか知らぬ月の円かに白い晩であった。この町が畏友故沢木梢さんの生家のある処とも知らずに逍遥していた私は、夜の更くるまで町の広場で踊り興じている人の様々の姿の上に、ふと小正月の夜の男鹿の生身剝の面影を見た。東京に帰って秋田人であるということも、沢木さんにその話をして初めて船川の人であることを知った程、この県に対する知識は迂遠なものであった。竿灯其他の誘惑を感じさせる物語りをしてくれた某沢木さんも亡くなって、もう年を経た。この縁の少い秋田について憶い出されるのは、続々として故人の姿である。実は生身剝其ものが昔の村々にとって故人だったのである。言い換えればその農村漁村の測り知れない過去の祖先の霊鬼が、時あって帰って来たことを見せている。徒然草のような手狭い古典を御覧になったらすぐ心付く、あの四季の移り変りを叙した文書にも、東国の大晦日の晩に亡き霊の来ることを記して居る。そうして其夜家々の門の戸をけたたましく叩いて通ることが書いてある。記述が頗る簡単で、そうして如何にも物の哀れの外核に感傷しているに過ぎないものだから、細やかな姿を思い浮べることも出来ないが、今は東北一帯に面影を止めるに過ぎないものが、当時は恐らく関東地方にも行われていたことを示すものではあるまいか。 男鹿の村々でも、処によって生身剝の姿に多少の違いがあるように聞いている。真澄以後変化したのもあろうし、真澄の見聞の及んでいないものもあるに違いない。あれほど男鹿の春夏秋冬の海風に当って吟嘯した詩人ですらも知らない、村の寂しいひそやかな生活が、其後幾数十年残り伝えて来たのである。鬼は、我々の国の古代においては決して今人の考えるような、角がない。虎の皮の褌という、あの定型を持ったものでなかった。単に巨人を意味するものに過ぎなかったのである。その鬼が多くは常に姿を現さず、時あって霊の集中することによって巨大な姿を現すものと見られていた。その多くの鬼の中、最も原始的なものに近く、又傍ら懐しい心で眺められていたものは、村々の祖先の霊であった。日本の村の発達は海岸地方を最初と見なければならぬので、祖先の霊の集中する地として海のあなたに空想の霊地・常世の島を考えていた。その地から、春毎に来り臨む巨人があったのである。或は一人二人、時には数人数十人という形に、処によって段々と変化して来たものと思われるが、今昔を辿って行けば、南の端の琉球諸島から来た旧日本の山村海落に至るまで、これを見ることが出来る。 人々はすぐさま考えるであろう処の盂蘭盆に来臨する祖先の聖霊も、単に仏法から与えられた知識によって生じたものではない。春来る霊が一年の大きな折目になって、中元にも訪れてくるように考え至ったものである。だからこそ、兼好法師の見聞にも言うたわけである。農村の正月は暦の上でこそ元日を以てするが、実際生活の上には小正月が最適切でもあり、同時に古くからのしきたりも残っていた。だから農村自身の古い面影を存しているものは、この日に総べてが集って表現されると考えることが出来る。それで殆ど言い合したように、十四日或は十五日の晩に春来る鬼が現れることになっているわけで、男鹿から八郎潟を隔てて東へ進めば、益その影は微かであって、而もその信仰は色濃くなっている。あなた方はどうお感じかも知れないが、たとえば近代都市において盛んに行われた、所謂厄払いは、何れも実は春来る鬼の一つで、この鬼の要素としては人に顔を見せないことに加え、体をも示さないという考えから蓑で体を蔽っていた。尤、最近の厄払いの如きはそうした約束的な姿を厳守する筈がないが、何を最、大切な厄払いの条件としているかというと、あの厄払い文句である。 これについては東京の河竹繁敏さんの説では、歌舞伎芝居の厄払いと称するものは、ごく簡単な理由から名付けられたに過ぎぬということであるが、私はそうも軽く考えていない。御存じの切られ与三郎の台詞とか、弁天小僧の文句とか、世の声色好きの好む部分の厄払いと称している。普通厄払いの職人が唱えるふし廻しを取ったところからの名称だと言うているけれども、私はそれにも承服しかねる。つまり歌舞伎役者の古い隠れた仕事の一部に、必ずしも今の厄払いとは言えないまでも、ああした職業が存していた。その台詞廻しが多少の芸術化を加えられ、舞台の上に残って来たものと想像している。こう申して来ると、季節としてはまだ早い節分の噂をするようだし、この筆記を作っている時からして既にまだ暮の中だし、真に春の鬼の笑いを予期することが出来るが、実のところ古代日本人とはいわず、近代においても、地方農業の人々の暦に対する考えは非常に自由で、春冬の更替する時期を切実に感ぜさせる日を同一視する傾きがある。大昔より元旦、節分と立春、十四日年越しと小正月の、文字を書く人々こそ、明らかに区別して考えているけれども、一般の人々はなお、未だこの三つを実際生活に関係の深い交代時期を同一視しているのである。男鹿の寒風の音を雪除けの外に聞きながら、今年の春の読み初めに、菅江真澄集をもう一度繰り返して読んで頂きたい。東北地方の真の復興は、そうした処から出直さなければならぬと思う。 (折口信夫『春来る鬼——秋田にのこる奇習——』) [[Category:折口信夫]]
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