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日本巫女史/第二篇/第三章/第五節
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日本巫女史
第二篇 習合呪法時代
第三章 巫女の信仰的生活と性的生活
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[[日本巫女史]] [[日本巫女史/第二篇|第二篇 習合呪法時代]] [[日本巫女史/第二篇/第三章|第三章 巫女の信仰的生活と性的生活]] ==第五節 神妻より巫娼への過程== 「万葉集」巻十六に『吾が門に千鳥しばなく起きよ起きよ、吾が一夜妻人に知らゆな』という短歌が載せてある。而して此の短歌は、平安期に刪定を経て『庭鳥はかけろと鳴きぬ起きよ起きよ、吾が一夜妻人に見られな』として、神楽歌に採用されている。然るに、従来の物識りと称せられた好事家は、此の「一夜妻」を以て、後世のそれの如く解釈して、直ちに性的職業婦人と同視しているが、これは言うまでもなく、驚くべき速断である。即ち、私はこの「一夜妻」を以て、巫女——同集に散見する遊行女婦よりは時代において古く、実質においては純なる一時的巫女——即ち一夜だけ神に仕える家族的巫女であると考えている。換言すれば、或る定められた一夜(神楽の夜)だけ神に占められる役目(古代にあっては此の役目は義務ではなくして、却って名誉として悦ばれていた)を有っていた女性を、かく呼び習わしたものだと信じている〔一〕。 更に換言すれば、古代の女性はその悉くが殆んど巫女的生活を送っていたことは既述した。それと同時に、我国の巫女の起原が、此の家族的巫女にあることも、是れ又た既載した。而して後世の伝説ではあるが、神の使の<ruby><rb>標</rb><rp>(</rp><rt>シルシ</rt><rp>)</rp></ruby>である白羽の矢が家の棟に立ち、その家の女子が、人身御供にあがるという思想の最初の相が、此の一夜妻であったのである。伝説の通俗化は、我国の「<ruby><rb>生</rb><rp>(</rp><rt>イ</rt><rp>)</rp></ruby>け<ruby><rb>贄</rb><rp>(</rp><rt>ニエ</rt><rp>)</rp></ruby>」と、支那の「犠牲」とを混同させ〔二〕、人身御供といえば、邪神か悪神のために、忽ち餌食として、取り殺されるように盲信させてしまったが、古き人身御供のうちには、単なる神寵であって一時的の神妻であり、神ノ<ruby><rb>采女</rb><rp>(</rp><rt>ウネメ</rt><rp>)</rp></ruby>に過ぎなかったものの在ることを知らねばならぬ。これが一夜妻の正しい解釈であって、然もこれを勤めたのが、私の謂うところの家族的巫女なのである。 そして私の此の解釈が、我が古代の実状であったことを裏書きする証左として想い起されるものは、各地の神社の祭儀に、一時女臈(一夜官女とも云う)と称する女性が参加することと、併せて一夜妻となり得べき——即ち神寵を受ける資格を定むる儀式の存していたことである。茲には、例の如く、僅に一二を挙げるにとどめて置くが、摂津国西成郡歌嶋村大字野里の氏神祭には、毎年、宮座二十四軒のうちから〔三〕、六名の少女を選み出し、これを一夜官女と名づけ、<ruby><rb>夏越桶</rb><rp>(</rp><rt>ゲコシオケ</rt><rp>)</rp></ruby>と称する飯櫃様(既述した洛西七条のオヤセの頂くユリと同じようなもの)の物を供の者に持たせ、夜中に参拝するのを古式とした〔四〕。前掲の摂津国兵庫郡鳴尾村の岡神社は、俚俗「おかしの宮」と云うが、同社の例祭には、祭主となる村男が、その年に村内へ嫁した新婦の衣裳を着て、一時女臈というを勤める。その折に氏子が大勢集って手を叩きながら『一時女臈、アヽおかし』と囃し立てるので、此の名があると云う〔五〕。常陸国西茨城郡笹間町の氏神祭には、新婦が鍋を被って参列するが、その鍋の数は、恰も近江筑摩社の鍋被り祭の如く、初婚なれば一枚、再婚なれば二枚と、結婚した数だけ被るのである〔六〕。摂津国豊能郡中豊島村大字長興寺の氏神祭にも、その年に此の村へ嫁した新婦は、鍋を頭に頂いて参列する役目を負わされていた〔七〕。而してこれ等の記事を親切に読まれた方ならば、私が改めて説明するまでもなく、これ等の祭儀に参加した女臈や、新婦の最古の務めが、神に占められる一夜妻であったことを既に気付かれたことと思う。それと同時に、男子が花嫁の衣装を着けて代って勤めることが、此の最古の信仰が崩れて後に工夫された新儀であって、且つ飯櫃様の物が後に鍋に代ったことも、併せて気付かれたに相違ない。然らば、その神寵を受くべき女性の資格は、如何なる方法を以て決するか、今度はそれに就いて説明すべき順序となった。 琉球の久高嶋では、十二年目毎にイザイホウと称して、島中の処女をカミアシャゲ(神事を行う斎場)に集め、その庭に、高さ二尺ほど、長さ二間許り、幅一尺五寸位の、小さく低い橋のようなものを作り、処女をしてそれを一人一人と渡らせる儀式を行う。然るに、同嶋古来の信仰として、一度でも異性に許したことのある女子は、此の橋を無事に渡り得ず、必ず途中で墜落して死ぬと伝えられているので、身に暗いところを有っている女子は、その以前に姿を隠くしてしまう(これは女子としては最上の不名誉であって、此の者は島内では結婚する資格の無いものとされている)か、又はその暗いところを押しかくして出場しても、神の祟りを恐れて、僅に二尺ほどの橋から(然も下は平地である)落ちて、気死する者さえあるということである〔八〕。而して、此のイザイホウなるものが、処女であるか否か——即ち神寵を受くべき資格があるか否かの、試験であることは言うまでもない。此の試験を無事に通過して、始めて<ruby><rb>神人</rb><rp>(</rp><rt>カミンチュ</rt><rp>)</rp></ruby>(内地の家族的巫女と同じ意である)となることを許されるのである。だから、此の橋が滞りなく渡り得られたということは、久高島の女性にとっては、社会的にも、信仰的にも、深い意義が含まれていたのである。 内地においては、私の寡聞のためか、これほど明確に女性を試験する民俗の存することを承知せぬが、併しながら、久高島のそれと共通したものの曾て在ったことを思わせる手掛りだけは残っている。即ち各地に伝えられている「裁許橋」の由来がそれである。肥後の官幣大社阿蘇神宮の奥宮に詣でるには、阿蘇山(往古は此の火山が神として崇拝された)から噴出する硫黄の臭いを嗅ぎながら、左京ヶ橋という小さな橋を渡らなければ往けぬような道順になっているが、古くからの言い伝えに、邪慳の女が此の橋を渡ると、神の祟りで結髪が自然と解けるとあるので、この橋が無事に渡れるか否かで、その女の心の曲直が判るとて、誰もが純真の心持となり、敬虔の態度で橋を渡る。古歌に『音に聞く左京ヶ橋に来て見れば、誠いはう(硫黄)の心地こそすれ』とあるのは、此の事を詠んだものである〔九〕。此の左京ヶ橋が裁許橋の転訛であることは改めて言うまでもあるまい。遠い昔にあっては、久高島のそれの如く、処女か否かを試験した神聖なる場所であったことが知られるのである。而して各地の裁許橋に就いては、夙に柳田国男先生が「西行橋」と題して高見を発表されているが〔一〇〕、是等の橋々が、女性の試験所であったことは、直ちに<ruby><rb>点頭</rb><rp>(</rp><rt>うなづ</rt><rp>)</rp></ruby>ける問題である。近江国筑摩神社の鍋被り祭は、宮廷詩人の歌枕に好んで用いられたために有名となり、江戸期の物識り連は、筑摩社の祭神が穀物神であるから、祭儀に鍋を被ったのであろうなどと、例の理窟に合わねば承知せぬという態度の詮索をして得意がっているが、これは折口信夫氏の言われた如く、鍋一枚を被る女性にして始めて神寵を受くる資格あるものとした、内地におけるイザイホウの一種であったと考うべきである。 斯うして神寵を受けた女性が、神社に常住するようになれば、家族的巫女から離れて、職業的巫女となるのであって、更に此の職業的巫女を世襲したものを神ノ采女と称したのである。然るに、神も感情に支配されることもあるし、又往々にして、気まぐれのこともなさる。それと同時に、神寵を受けている巫女にあっても、神戒に背き神社の掟を破るようなこともする。かくて神母であった者や、神妻であった者が、社を離れて身の振り方を如何にしたか、——それには古信仰の衰えたことや、世相の変遷なども手伝って、こうした女性の落ち往く先は、殆んど言い合わせたように、倫落の淵であったのである。巫女は斯くして、巫にして娼を兼ねるようになり、ここに巫娼として新しい生活の道を覓めるようになったのである。 '''一 巫娼の宗家であった猨女君''' 我国における売笑の起原を説くことは簡単には往かぬが〔一一〕、巫娼がその先駆者であったことだけは明白である。而して此の巫娼の宗家は<ruby><rb>猨女君</rb><rp>(</rp><rt>サルメノキミ</rt><rp>)</rp></ruby>であった。猨女の出自や、職掌に就いては、屡記したので再び言わぬが、猨女の名が職業上から常に戯謔を敢てしたところから、ジャレメ——即ち戯れ女から負うたことを知るとき〔一二〕、更に現時でも用いているオシャレと云うのは、遊里に縁のある語で、娼婦をオシャレ、又はオシャラクと呼んでいたところの尠くないことを併せ考えると〔一三〕、猿女君と巫娼との関係は決して浅いものではなかったのである。源順の「和名抄」に、巫覡を乞盗部に載せ、遊女と同列に見たことは、当時の性的生活の反面が窺われ、「新撰字鏡」に『{女偏茇}、{女偏犮}、魃』の三字を挙げ、共に『巧也、治也、遊也、<ruby><rb>加牟奈支</rb><rp>(</rp><rt>カムナギ</rt><rp>)</rp></ruby>』なりと記し、「倭訓栞」に『<ruby><rb>巫</rb><rp>(</rp><rt>カンナギ</rt><rp>)</rp></ruby>、神和の義なり(中略)、県巫女は娼婦を兼ねたり』とあるのや、「風来六部集」に娼女の異名を列ねたうちに『長崎にてはハイハチ』とあるのを、「賎者考」の『関西にて巫女をハイチと云う』とあるに対照すると、両語原が同一であって、然も巫娼の意であることが、容易に看取される。「中右記」元永二年九月三日の条に、神崎の遊女小最の名が見えているが、柳田国男先生によれば、これはコサイと訓み、小道祖の義であって〔一四〕、神名を用いたところから推すも、古い巫娼に縁を引いていることは疑いない。「日吉神道秘密記」に『令託<ruby><rb>寄妓</rb><rp>(</rp><rt>ヨリマシ</rt><rp>)</rp></ruby>御歌』と端書して『こゝに来てこゝにありとは思へども、目に見ぬほどぞ恋しかりける』とあるのも、前に載せた「将門記」の巫倡と同じく、倡や妓の字に曰くがありそうに思われるし、陸中国稗貫郡地方では、巫女をクグツ(傀儡女が娼婦であったことは明確である)と称したこと〔一五〕、及び近年まで箱根その他の修験派の道場においては、山伏の女房は凡て比丘尼と称して即ち巫女であり、然もその巫女の最下級者は倡を兼ねていたことを想い合せると〔一六〕、巫女が娼妓となったことも古いことで、且つそれが広く行われていたことが知られるのである。而して江戸期における巫女の大半までは、表芸の呪術よりは、裏芸の売笑で繁昌したのも、又遠い夤縁から来ているのである。 '''二 浮世の果は皆小町の采女達''' 神母の末路と共に、併せ考えなければならぬのは、采女といわれた女性の身の行末である。采女の制度が神妻に起り、後に蕃客を待遇する貸妻に遷ったことは、曾て私見を発表したことがあるので省略する〔一七〕。而して宮中の采女は、地方郡領の子女を召す事になっていたが、その人員は今から明瞭に知ることは出来ぬ。それを新井白蛾翁は、何によって計算したか、平安朝の小町の局にいた采女だけでも六十名あるから、小町を一人の名と特定するのは無理だと云っている〔一八〕。勿論、私も世に謂う小野ノ小町が一人でなかったという説には異議はないが、併し此の計算だけは、甚だ覚束ないものとして、賛成しかねるのである。私は古代に遡るほど采女の数は多く、恐らく六十名などよりは遙に夥しくいたことと思っている。郡県の制は、大化期に完成されたのであるが、国郡の区劃は、遠く成務朝に行われ、その数は相当多数に達していたと思われるので、当時宮中及び各神社(神社の采女は百姓から召募した。それは後で述べる)に召された采女の数は、意外の多数であったと信じたい。 果して然らば、是等多数の采女達が、その任期を無事に終えてからの残生涯を、何処の地で如何なる方法で送ったであろうか。勿論、采女は神母とは違い、由緒もあり地位もある郡領の子女であるか、そうでなければ、相当に生活していた百姓(当時の百姓とは必ずしも農民ではなく、種姓のやや低き者を斯く称したのである)の子女である。任期の尽きた後は、都の手振り神の宮仕えに馴れた身を故郷の者に羨れつつ、幸福なる生活に恵まれた者も多かったろうが、此の中には「雄略紀」九年二月の条にあるような、重臣のために傷けられた采女も、尠くなかったであろうし〔一九〕、更に奈良猿沢池の衣掛柳の故事として伝えられたような采女も多く存していたであろう〔二〇〕。否々、私の想像するところでは、多年宮中の生活を送り、久しく社内の起居を習うた采女は、恰も現代の女学生が、一度都会生活に親しむと、土臭い田舎を嫌うのと同じように、草深い故郷に帰る事を好まず、次手を求めて京洛の地に留るか、それでなければ、神社の付近に居を占めたのではなかろうかと考える。都会が常に地方の人口を集めることは、昔も今も渝りはない。然も当時の神社が、或は国府に近く、又は景勝の地に鎮座して、文化の中心となっていたことは言うまでもない。是等の事情は、采女の残生を送るに気安くもあり、都合も宜かったので、多くの采女は好んで所縁の地に土着したことと思われる。我国に古く、佐用姫、小野小町、和泉式部、菖蒲前というが如き、名媛才女と同名の巫女の徒が、夥しきまでに各地に住み、又は各地を漂泊したことは既述したが、是等のうちには、采女の土着したもの、若しくは漂泊したもののあることを考えなければならぬ。而して是等采女の子孫が巫女となったのは、彼等が此の事に多少とも由縁を有していたからである。後世の俳諧の附句に『様々に品かはりたる恋もして、浮世の果は皆小町なり』とあるような、気の毒な境涯に終った采女も少くなかったのである。 '''三 処女は悉く娼婦たりし民俗''' 我国古代の「<ruby><rb>処女</rb><rp>(</rp><rt>オトメ</rt><rp>)</rp></ruby>」の意義は、現今のそれとは大に内容を異にしている。即ち人妻であろうが、娼婦であろうが、或る定められた物忌み(但し此の物忌は頗る厳重なものであった)だに完全に仕終うせれば、幾度でも処女となり得るものと確信していた。反言すれば、性の復活を信じていたのである。我国に古くから「腹は借りもの」という思想のあったのも、更に「操は売っても身は汚さぬ」という性を二元的に見た思想の存したのも、所詮は性の復活に由来しているのである。従って古代の「<ruby><rb>処女</rb><rp>(</rp><rt>オトメ</rt><rp>)</rp></ruby>」という語は、人妻で無いという事だけは意味しているが、決して童貞を意味していたものではない。万葉集には未通女を「をとめ」と訓ませて、此の「をとめ」に童貞の意を含ませているが、これは奈良朝になってからの事で、その以前には全く見当らぬことである。否、それどころではなく、奈良朝にあっても、「をとめ」の名で、売笑を職業とした婦人さえあった〔二一〕。神に仕える女性は、処女たることを原則としていたが、人妻であっても、娼婦であっても、物忌だに済せば、再び元の処女として、神に仕える事を許されたのである。而して此の思想は、巫女と娼婦の境界線を撤廃するに、大きな力となって、社会的に動いていたのである。 私はここに、我国の定期婚や、試験婚や、更に労働婚などの婚制の根底に、微弱ながらも売笑的意識のあったことを説こうとは思わぬ。又、純粋なる共同婚は、売笑と択むなき事情を論じようとも考えていないが〔二二〕、古代の処女は、一面において、巫女性を帯びていた(此の事は屡述した)と同時に、他の一面においては、娼婦性を有していたことを言うにとどめるが、此の世相はモルガンの所謂<ruby><rb>娼婦制</rb><rp>(</rp><rt>ヘテリズム</rt><rp>)</rp></ruby>に相当するものである。而してその遺物とも見るべきものは、古く羽後国鶴岡町の小岩川に近き厚見辺の村里では、富める者も、町人も、総て娘を持てる限り、遊び<u>くぐつ</u>に遣るを習いとした。これを「浜のおば」と呼んでいた〔二三〕。伊豆の下田港でも、明治以前は、良家の娘でも、好んで旅客の枕席に侍したものであるが、こうせねば一人前の女になれぬと云われていた〔二四〕。肥前国の平戸町に遠からぬ田助浦は漁村であるが、此の地の娘は、悉く娼妓の鑑札を受けていて、客が招けば貸座敷に出かける。平生は宅にいて家事をとっているが、他国には見られぬ慣習である〔二五〕。志摩国の的矢港は、昔は大阪江戸間の寄港地であり、避難所でもあったので、船が入ると女の名のつく者は、悉く船客船員の需めに応じた。古い俚謡に『的矢港や女郎ヶ島、チョロ(艀のこと)は冥土の渡し船、<u>し</u>に行く人を乗せて漕ぐ』とあるように〔二六〕、殆んど全港の女子が娼婦であった。更に「信州叡山藩盆踊薩摩歌」にある『嫁に往くなら越後今町いやでそろ、昼は三味ひく、夜さりはお客の褄をひく』とある俚謡も、又た此の意味に解釈されるのである。私などが覚えてまでも、伊勢や越後などでは、娘を娼妓に売ることを、行儀見習に遣る位に手軽に考えて居り、肥前あたりでは娼妓あがりの女子を却って悦んだというのも、古い民俗の残片と思われるのである。これでは愛の標の白羽の矢が立ったとき、その召に応ずることは名誉であったに違いないのである。 猶おこれには、我国における旅人に貸妻する各地の民俗を述べぬと徹底せぬのであるが〔二七〕、今はそれにも及ぶまいと考えたので割愛した。 '''四 琉球に残存せる巫娼の伝説と事実''' 我が内地の古俗を化石させ、それを親切に然も克明に保存した、琉球の売笑発達史において、巫娼の成立と存在とを、更に有力に暗示する伝説と、証示する事実とが残っていた。同地出身の伊波普猷氏は、これに就いて大体左の如く記述している。 : 琉球には<ruby><rb>尾類</rb><rp>(</rp><rt>ズリ</rt><rp>)</rp></ruby>と称する一種特別の売笑婦がいるが、その由って来たるところが判らない。彼女等自身が自分等の鼻祖は、<ruby><rb>御姉妹</rb><rp>(</rp><rt>オミナンベ</rt><rp>)</rp></ruby>(王女)であると云っていることや、一種の神(原註略)を祭り、兼ねて遊郭内の一切の世話を焼く長老が、<ruby><rb>牡前</rb><rp>(</rp><rt>オイメー</rt><rp>)</rp></ruby>と云われていることや、老妓が<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ノロ</rt><rp>)</rp></ruby>同様に世間の人から、一種の尊敬を払われているところなどを見ると、<ruby><rb>尾類</rb><rp>(</rp><rt>ズリ</rt><rp>)</rp></ruby>の鼻祖は、やはり他の民族の歴史において見るように、神に仕える巫女にして売笑を兼ねたもので、その歴史も亦た琉球の歴史と、同じ古さを有っているものと思われる云々(以上「新小説」第三十一巻第九号)。 更に伊波氏は、琉球にも内地の采女の制度に類似したものがあり、然も此の女性達が售春したことに関して、大要次の如く記述している。 : 琉球の<ruby><rb>城人</rb><rp>(</rp><rt>クスクンチネー</rt><rp>)</rp></ruby>という者が、此の采女の類では無かったかと思われる。混効験集(AD一七一一年編纂)という古代琉球語の辞書に、天妃のことを「みきよちやの<ruby><rb>美御前加那志</rb><rp>(</rp><rt>ミオマエカナシ</rt><rp>)</rp></ruby>」と書いてあるが、これは御息所や御台所などと同じ義があろう。第二尚氏のことを書いた「王代記」という本を繙くと、代々の国王には、王妃の外に一両人の婦人と幾人かの妻のあったことが判る(中略)。記録には見えていないが、国王には此の外に大勢の<ruby><rb>城人</rb><rp>(</rp><rt>クスクンチネー</rt><rp>)</rp></ruby>という女があったということである。思うに、古くは寵愛を失った<ruby><rb>城人</rb><rp>(</rp><rt>クスクンチネー</rt><rp>)</rp></ruby>が、農村に帰らないで、首里その他の都会を徘徊して、春を売ったことがあったであろう云々(同上)。 而して那覇の辻遊郭の開祖は、尚真王の世子浦添王子尚維衡の妃であって、併せて此の王妃が<ruby><rb>尾類</rb><rp>(</rp><rt>ズリ</rt><rp>)</rp></ruby>の鼻祖であると伝えられている〔二八〕。王妃が遊郭を開くとか、娼婦の初めと仰がれるとか云うことは、現在の社会感情から見れば実に在り得べからざる事であると共に、又た許すべからざる不祥の事であるが、併しながら、同国の古俗が、既述した如く、王妹は巫娼に縁故深き<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ノロ</rt><rp>)</rp></ruby>の最上官である<ruby><rb>聞得大君</rb><rp>(</rp><rt>キコエオオギミ</rt><rp>)</rp></ruby>として、国中の<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ノロ</rt><rp>)</rp></ruby>を支配した国情に置かれたことを知れば、この伝説は必ずしも無稽だとばかりは云えぬのである。琉球では今に娼妓をズリの名で呼び、此のズリが守護神の祭日——即ち尚王妃の命日である毎年正月二十日に行う「ズリ馬」と称する祭礼は、全く娼婦が中心となっている。然もこの祭礼を度々目撃した同地出身の友人金城朝永氏の談によると、<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ノロ</rt><rp>)</rp></ruby>が祭典に列するために着用する神聖なる式服と、この「ズリ馬」に出る娼婦の盛装とが、悉く同一の形式であるということは、彼之の間に深甚なる関係のあったことを考えさせるのである。更に辻ノ遊郭に、男子の楼主が一人も無いことも、古俗を偲ぶ上に関心すべきことで、内地も大昔にあっては、楼主は女性に限られていたもので、その起原は遠く巫娼時代の部曲に縁を引いているのである。而して是等辻ノ遊郭の楼主中から、力量あり人望ある者が推されて、<ruby><rb>牡前</rb><rp>(</rp><rt>オイメェ</rt><rp>)</rp></ruby>(この語には神前に奉仕する人の義がある)と称する司祭長で、兼ねて遊郭の事務を総轄する者を選定する。由来、同遊郭は、<ruby><rb>前村渠</rb><rp>(</rp><rt>アンダカリ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>上村渠</rb><rp>(</rp><rt>サンダカリ</rt><rp>)</rp></ruby>という二部落に分れて互に競争しているので、従って二名の<ruby><rb>牡前</rb><rp>(</rp><rt>オイメェ</rt><rp>)</rp></ruby>がある訳であるが、この二名の牡前は、前者は<ruby><rb>白堂</rb><rp>(</rp><rt>シラドウ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>拝</rb><rp>(</rp><rt>オガン</rt><rp>)</rp></ruby>所(内地の神社とも云うべき霊地)に仕える尸婦で、後者はクバツカサに仕える尸婦である〔二九〕。是等の事情を総合して考えると、琉球の娼婦は初め<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ノロ</rt><rp>)</rp></ruby>から出て、<ruby><rb>拝</rb><rp>(</rp><rt>オガン</rt><rp>)</rp></ruby>所を中心に生活したことが明確に知られるのであって、我が内地の古俗も又これと共通していたことが想像されるのである。 '''五 神社中心に発達したる各地の遊郭''' 神社は国家の宗祀であって、然も国民崇敬の対象であるという、現在の神社観から云えば、不浄であり、不倫である遊郭が、神社を中心として発達したとは、誠に以て言語道断の事であるが、併し、民俗神道学の立場から見れば、既に神社に仕えた巫女——若しくは神社を放れた巫女が、娼婦の先駆者となっているのであるから、各地の遊郭が神社を目安として発達し繁昌したのは、寧ろ当然の結果とも云えるのである。 伊勢の古市の娼婦の発生を説くに、御子良の堕落せるものが相集りしに初まると云う者があるも、私は此の説に容易に賛成することが出来ぬ。寡見の及ぶかぎりでは、斯かる事を考えさせる記録に接しぬからである。併しながら、古市が参宮道者の攀花折柳に、都合よく設備されていたのは大昔からのことで、全国に亘り『夫婦連れで参宮したのでは御利益が薄い』という俚諺が行われていた裏面には、道者は必ず古市で剪紅摘緑の遊びをしなければならぬように仕向けられていたのである。私の生れた南下野地方では、昔は伊勢参宮を殊の外手重いものとし、参宮するとその者の生涯の運が極まると称して、五十歳以上にならなければ参宮せぬ習いとなっていた。現に私の父も五十三歳で参宮したが、私なども此の潜在意識が活いて今に参宮した事がない。その癖、伊勢へは幾度となく旅行して、宇治山田へも往ったこともあるが、態々参宮だけは差控えている有様である〔三〇〕。而して此の五十を越してからの参宮という事情は、古市の梅毒を非常に恐れたからであって、参宮して発病した梅毒は、伊勢の水で治療しなければ全治せぬという迷信が伴い、それが為めに思慮の定まった知命以上を条件としたものと思う。古い俚謡に『伊勢の古市女郎衆の名所、戻らしゃんせよ迷はずに』とあるのも、更に昔の川柳点に『伊勢まゐり太神宮へも寄って来る』とあるのも、共に此の間の消息を伝えたものである。 古市遊郭が既にかくの如くであるから、上を見倣う下々にあっては、少しく誇張して云えば、名が聞え徳の高いもので、附近に遊郭を有していぬ神社は無いというも、決して過言ではないのである。ここに四五の例を挙げると、京都に近い伏見市の泥町と、深草の撞木町とは、稲荷と藤ノ森の両者のために発達し、「くらはんか船」で有名な牧方及び橋本の両地と男山八幡宮、奈良の木辻と春日社、摂津住吉社と乳守、広田社と神崎、下ノ関の赤間宮と稲荷町、筑前の筥崎宮と博多柳町、讃州金毘羅社と新町、日吉神社と大津の柴屋町、出雲の美保神社と同地の遊里、越後の弥彦神社と寺泊、越前敦賀の気比神宮と六軒町、熱田神宮と宮ノ宿、静岡市の浅間神社と弥勒町、伊豆の三嶋神社と三嶋女郎衆、常陸の鹿島社と潮来の遊郭、武蔵府中の国魂神社と同所の遊女町、信州の諏訪社と高嶋遊郭、陸前の塩釜神社と門前の遊郭などを重なるものとして、殆んど枚挙に遑あらずという多数である。就中、珍重すべきは筑波神社を祭れる筑波山の半腹と、安芸の厳島の孤嶋に遊里の営まれていることである。これ等は神社に参拝するために赴くのか、遊女を買わんがために往くのか、恐らくは信心と道楽とを兼ねていたのであろうが、蓋しその関係は、歴史的にいえば、太古から伝統的に残されていたのである。「梁塵秘抄」に、 : 住吉四所のお前には 顔よき女体ぞおはします。 : 男は誰ぞと尋ねれば 松ヶ崎なるすき男。 とある此の女体こそ、即ち神社に附属していた神ノ采女の末であって、併も「すき男」を歓び迎えた巫娼その者である。住吉社と乳守遊郭との関係は、後にも述べる機会もあるが、古く此の巫娼が乳守の発達に与っていたことだけは、見逃すことの出来ぬ点である。併しながら、是等は神社に属するか、又は神社を離れていても、まだ上位に数えられる者であるが、全く神社を棄てて各地を漂泊した巫女、又は采女の名に隠れて媚を售った「<ruby><rb>歩</rb><rp>(</rp><rt>アル</rt><rp>)</rp></ruby>き<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>」に至っては、殆んど後世の「道の者」か、或は土娼と異るなきまでに堕落していたのである。 同じ「梁塵秘抄」に、 : 吾が子は十余りになりぬらん <ruby><rb>神巫</rb><rp>(</rp><rt>カウナギ</rt><rp>)</rp></ruby>してこそ歩りくなれ。 : 田子の浦に潮踏むと 如何に海士人集ふらん。 : 問ひみ問はずみ<ruby><rb>調戯</rb><rp>(</rp><rt>ナブル</rt><rp>)</rp></ruby>らん いとをしや。 給分を失い、神社に離れ、併も衰えた古い信仰を言い立てて、情海の一角に辛うじて生活の血路を求めた多くの神采女や巫女の身の成り果ては、それは奈何にするも涙に富んだ、憐れな境遇であったに相違ない。巫女の売笑も決して新しい問題ではなかったのである。 '''六 神社の祭礼に遊女の参加する理由''' 神社の恒例祭に遊女が参加し、又は遊女が祭礼の中心となる民俗は、各地に亘り、相当の数に達している。前掲の琉球のズリ馬は、遊女が祭儀の中心となっているだけに大掛りであって、恰も在りし昔の吉原か嶋原の花魁道中の如く、廓内の名妓は、定まれる式服を纏い、派手やかな色布で鉢巻をなし、木で作った馬の首に紅白(今は模様物)等の縮緬の手綱をつけ、それを前帯に挟み、両手に手綱をとって、廓内を練り歩くのである。播州室津町の賀茂明神は遊女を具して降臨したと伝えられるだけに、祭礼には同地の遊女は、錦の袴に紫の帽子を頂き、二人づつ並んで、歌を謡い、笛太鼓を鳴らして、町中を廻ったものである〔三一〕。摂津の住吉神社では、毎年二回づつ、卯ノ葉の神事には、大阪新町の遊女が八乙女として参加し、田植祭には乳守の遊女が早乙女となって参加し、昭和の現代でもそれが懈怠なく行われている〔三二〕。下ノ関の赤間宮の先帝祭には、祭神に扈従した女性が生活に窮し遊女となったというので参拝供奉するのは有名な事である〔三三〕。長崎市の諏訪神社の大祭には、丸山・寄合両町の遊女が、毎年交代で参加する〔三四〕。京都祇園の八坂神社の神輿迎えにも、古くは白拍子、加賀女等の遊女が出て、舞を奏したものである〔三五〕。静岡市二丁目の遊女も、昔は毎年元朝に打揃うて浅間神社に参詣することになっていた〔三六〕。 而して是等は悉く当時の名神大社であって、現今でも官国幣社として国民の崇敬を集めているのであるが、此の他の名もなき叢祠藪神の祭儀にも、遊女の参加した例は決して尠くない。備中国浅口郡玉嶋町の天神祭には、芸娼妓が盛装を凝らし多くの船に乗込んで、神輿船に従い、海上を漕ぎ廻り、大騒ぎをする〔三七〕。遠江国磐田郡見付町は、明治以前には売女が二百人余りいて、毎年旧二月初午には同郡中泉町御陣屋の稲荷祭に美服を纏い、参詣するのを恒としていた〔三八〕。陸中国紫波郡見前村大字津田志町の大国神社は、同町の総鎮守であるが、祭日には鍬ヶ先から遊女が参詣に来て、振袖の色を争い同音に弾き立てる三絃の音に、信徒の心を狂わせたとある〔三九〕。更に奇抜なのは羽後国山本郡能代町で、毎年旧三月四日に遊女調べを行うが、その場所は同町の氏神住吉社の長床と定まっている。然も当日は、能代方、木山方、出入役所の三吟味、及び庄屋、町宿老等が出張し、遊女を長床にこぼれるほど集めて盛宴を張った〔四〇〕。遊女の点呼を神社で行うとは、遊女が祭礼に参加するよりは一段と珍しい事ではあるが、詮索したら、更にこれより奇態な事があるかも知れぬ。併しかかる事を書き出すと、際限がないので大抵にするが、兎に角に遊女屋を氏子に有していた神社ならば、其総てが祭礼に遊女の艶容を見たといっても差支えない程である。大嘗祭の翌年に朝廷の名で執り行う八十嶋祭にも、遊女に纏頭を与えるのが恒例となっていたのであるから〔四一〕、祭礼と遊女の関係は古くもあり、且つ親しくもあったことが知られるのである。而して斯くの如き事象が永く存したのは、遊女の発生が神社に交渉ある巫娼にあったためである。 '''七 神に祭られた巫娼と遊女''' 源流を神妻に発した巫娼——よしそれが、神母、神妾、神婢、采女として伝えられているにせよ、是等の女性が軈て神として祭らるるべき充分の可能性を有している事は既に記し、併せて神母の祭神となった類例も既に挙げた。 私は更に、巫娼又は遊女が、古くは神、新しくは仏に祀られた事実に就いて述べるとする。延喜の神名帳に載せてある伊勢国度会郡の久具津比売神社は、社伝が全く失われているが、その神名から推して巫娼に交渉あるもののように想われる。丹波国多紀郡の<ruby><rb>母上</rb><rp>(</rp><rt>ハハカミ</rt><rp>)</rp></ruby>神社は、後世には多田満仲の母を祭ったものだと伝えているが〔四二〕、これは古く神名帳の大比売社であって、母上は即ち母神の仮字であるから、神母か巫娼に関係ある神のように考えられる。江州坂本の日吉神社の末社に唐崎明神というがある。「日吉記」には琴御館妻とあり、更に「日吉秘記」には、石占井御前を祭ったとある〔四三〕。併しながら、此の社を別に女別当と呼んだ所から見ると、同じく神母か巫娼に由縁あったものとして差支ないようである。伊勢国鈴鹿郡片山神社の鈴ノ御子に関しては、後世の謡曲や、お伽草子の為に書き崩されてしまって、その正体を知ることが困難であるが、それでも此の御子を祭った鈴鹿御前社が巫娼関係のものであることだけは看取される〔四四〕。京都八坂神社の末社である美御前三座の如きも、社家の説には素尊の生める三女神とあるが、その神名を第一京上﨟、第二<ruby><rb>岐御</rb><rp>(</rp><rt>ミサキ</rt><rp>)</rp></ruby>前、第三小上﨟とあるのを聴くと〔四五〕、何となく神妻か巫娼に所縁があるように察しられる。上総国長生郡土睦村大字岩井に玉崎祖母大明神というがある。里人は<u>ばあかみさま</u>と云っている。往古、一宮神社の祭礼毎に誇って参り来るので訴訟となり、官より姥神の名を差止められて、鵜羽山大明神と改めたとある〔四六〕。記事が簡単であるために委曲を尽さぬが、想うに一宮祭神に関係あった神妻か、神妾の為に、誇って参詣したものと見るのが妥当であろう。 猶お、民間に人気のあった和泉式部、小野小町、菖蒲前と称した巫女(又は巫娼)を祀ったものは、各地に亘り夥しきまでに存している。和泉式部は、寡聞なる私でも二十余ヶ所を知り、小野小町でも十余ヶ所を、菖蒲前も数ヶ所を挙げることが出来るが、ここには煩を避けて、一人一所づつを示すにとどめるとする。紀伊国那賀郡中貴志村大字上野山に和泉式部社というがある。俚伝に式部が熊野参詣の帰途ここで病死したので、埋葬の地に社を建てて祀ったのである〔四七〕。美濃国加茂郡蜂屋村の小野寺は、小野小町の開基であって、境内の観音堂は、小町の護身仏と小町とを併せて祀ったものである〔四八〕。丹波国何鹿郡吉美村大字多田字聖塚に菖蒲前を祀った塚がある。俚伝に源頼政の妾であったと云うている〔四九〕。是等の乏しき類例から推すも、巫娼の勢力と分布とを、窺知するに足るものが在って存するのである。 更に巫娼より一段と世の降った純粋なる娼婦を神または仏に祀った例も尠くない。ここには僅に一二を挙げるとするが、近江国野洲郡祇王村大字中北は、平清盛の寵愛を受けた祇王祇女姉妹の生地で、同所と隣村の富波の両所に姉妹の祠堂があり、村民はその命日には精進する〔五〇〕。此の事象は、儒者気質の伊藤東涯には余程不思議に考えられたと見えて、その著「輶軒小録」にも載せている。駿河国富士郡鷹岡村大字厚原字中宿の玉渡神社は、曾我祐成が買い馴染んだ大磯の遊女虎御前(中山曰。虎という巫女が、式部や小町の如く各地を漂泊した事跡が多く残っている。これに就いては後で言う機会があろうと思うている)を祀ったもので〔五一〕、同国安倍郡長田村大字手越の少将神社は同じ遊女の少将を祭神としている〔五二〕。陸中国東磐井郡千厩町の千寿長根と称する山麓に千寿塚というがある。伝説に平重衡に愛せられた名妓千寿が狂乱して、ここに迷い来て死んだので祀ったのだと云っている〔五三〕。美濃の大垣市に近い結村には、小栗判官の寵妓であった照手姫を神に祀り〔五四〕、上野国多野郡新町のお菊稲荷神社は、同町の妓楼大黒屋の売女お菊を併祀したものである〔五五〕。更に近世のことではあるが、東京市の永代橋の袂には、遊女高尾を祀った高尾神社なるものが、明治初年まで存していたという。而して斯くの如く、巫娼遊女が神に祭られ仏と崇められて、一部の崇敬を受けていたのは、その大昔において是等の者が神妻として、又は神妾として、更に神母として、神に親しみ、神を生んだ信仰に系統を引いているためである。 神妻から巫娼への過程は、これでやや輪廓を尽したと思うので本節を終るが、更に此の遺風余俗は、熊野信仰の興隆につれて、絵解比丘尼より、売り比丘尼を出すに至り、江戸期においては、巫女の大半まで売笑するまでに堕落したのであるが、是れの及ばざる所は、彼に補う考えであるから、併せ読まれんことを望む次第である。 ; 〔註一〕 : 折口信夫氏は、一夜妻の対手となるものは、賓神(まれびとがみ)であって、此の信仰から旅客に貸妻する土俗が派生したのだと説いている。私はそうまでせずとも、一夜妻の対手は、考えられると思うのである。 ; 〔註二〕 : 我国の生け贄は、その言葉の如く、神の占めている山なり、池なりに、放ち飼いにしてある獣や、魚を云ったもので、必ずしも支那の犠牲と同一に見ることが出来ぬのである。詳細は長くなるので見合せるより外に致し方がない。 ; 〔註三〕 : 宮座とは、祭神に対して特種の権限を有する氏子のことで、詳細は「社会学雑誌」に載せた拙稿「宮座考」を参照せられたい。 ; 〔註四〕 : 「摂津名所図会」その他にも載せてある。 ; 〔註五〕 : 「摂陽落穂集」巻二。 ; 〔註六〕 : 「郷土研究」第一巻第七号。 ; 〔註七〕 : 「摂陽落穂集」巻四。 ; 〔註八〕 : 「女性改造」第三巻第九号。 ; 〔註九〕 : 「阿蘇郡誌」。 ; 〔註一〇〕 : 「郷土研究」第四巻第七号。 ; 〔註一一〕 : 猿女ノ君と巫娼の関係、及び我国の売笑の発生等に就いては、拙著「売笑三千年史」にやや詳しく述べて置いたので、参照を望む。 ; 〔註一二〕 : 猿女の語原は、従来、鈿女命が猿田彦の名を併せ得て、かく称したのであると言われているが、信用すべき限りでない。猿田はサダと訓むべきであって、サルダと訓むべきでない。此の事も前記「売笑三千年史」に詳しく述べて置いた。 ; 〔註一三〕 : 「物類称呼」巻一遊女の条に、信州軽井沢にて「おじゃらく」、奥州にて「おしゃらく」というと載せ、「米沢方言考」に「おしゃめ女郎」と挙げ、「異本洞房語園」巻六に、越前三国にて遊女の別名をシャラと云うとある。「鹿嶋もうで」に、旧三月九日に、鹿嶋神宮で行われる斎頭祭に用いる俚謡の一句に「おしゃらく目の毒」とある。此の辺にても古くは斯く言いしものか。 ; 〔註一四〕 : 「東京人類学雑誌」第二十八巻第二号以下に連載された、柳田国男先生の「イタカ及びサンカ」と題せる研究は、巫女と売女との関係並にその過程が詳記されている外に、先生独特の創見に富んだ記事である。私のはそれを真似たり、拝借したりしたものであることを明記し、謹んで先生に敬意を表する次第である。 ; 〔註一五〕 : 「くぐつ」の娼婦であったことは、改めて言うまでもないが、これも「売笑三千年史」に詳記して置いた。 ; 〔註一六〕 : 前掲の柳田国男先生の記事に見えている。 ; 〔註一七〕 : 我国における貸妻の発生、その他に就いては、拙著「日本婚姻史」に詳説して置いた。 ; 〔註一八〕 : 「牛馬問」(温知叢書本)。 ; 〔註一九〕 : 「雄略紀」に「遣凡河内直香賜与采女、祠胸方神、香賜与采女既至壇所、及将行事奸其采女云々」。 ; 〔註二〇〕 : 「大和物語」その他にもある有名な話である。 ; 〔註二一〕 : 「万葉集」巻九に載せた上総の末の珠名郎子がそれである。こは、本居内遠の「賎者考」に考証してある。 ; 〔註二二〕 : 是等の婚姻の種々相に就いては、前掲の「日本婚姻史」に尽して置いた。 ; 〔註二三〕 : 天明四年九月に記した菅江真澄翁の「齶田濃刈寐」に拠る。 ; 〔註二四〕 : 「新小説」第十一巻第十号。 ; 〔註二五〕 : 「週刊朝日」第九巻第廿三号。 ; 〔註二六〕 : 雑誌「性之研究」特別号「売淫研究」参照。 ; 〔註二七〕 : 貸妻及び妻女を交換する土俗に関しては「日本婚姻史」に述べた。 ; 〔註二八〕 : 前掲の「沖縄女性史」に収めた「尾類の歴史」。 ; 〔註二九〕 : 「新小説」第三十一巻第九号所載の「琉球の売笑婦」に拠る。 ; 〔註三〇〕 : 皇太神宮に対して、私幣禁断の制は、古くから国法として行われていた。従って、本来なれば、華士族でも、平民でも、幣帛を捧げ、参詣するなどとは、過分の振舞である。慎しみ畏れなければならぬ事である。 ; 〔註三一〕 : 「明治神社志料」巻上。因に、遊郭が神社中心に発達した人文上の理由も、他に相当に存しているが、ここには煩を避けて省略した。誤解なきように敢て附記する。 ; 〔註三二〕 : 「東成郡神社誌」及び「住吉名勝記」。 ; 〔註三三〕 : 「長門志料」。 ; 〔註三四〕 : 「官国幣社特殊神事調」一。 ; 〔註三五〕 : 「八坂志」乾巻 ; 〔註三六〕 : 麗沢叢書本の「晁東仙郷志」。 ; 〔註三七〕 : 文芸倶楽部増刊の「花柳風俗誌」。 ; 〔註三八〕 : 山中共古翁の手記「見付次第」。 ; 〔註三九〕 : 「紫波郡誌」。 ; 〔註四〇〕 : 「能代由緒記」。 ; 〔註四一〕 : 「江家次第」巻十五。 ; 〔註四二〕 : 大日本風教叢書本の「神社啓蒙」巻七。 ; 〔註四三〕 : 大日本地誌大系本の「近江輿地志略」巻十五。 ; 〔註四四〕 : 「勢陽雑記」巻二。 ; 〔註四五〕 : 同上の「神社啓蒙」巻三。 ; 〔註四六〕 : 「房総志料叢書」続篇巻五。 ; 〔註四七〕 : 紀州徳川家で編纂発行の「紀伊続風土記」巻三十七。 ; 〔註四八〕 : 「新選美濃志」巻二十三。因に「稿本美濃志」と間違わぬよう、注意せられたい。 ; 〔註四九〕 : 「何鹿郡案内」。因に言うが、茲に頼政とあるのは、即ちヨリマシの訛語であって、初め巫女をヨリマシと称していたのが頼政と訛り、更に頼政から菖蒲前が附会されるに至ったのである。此の過程に就いては、柳田国男先生の「郷土研究」第一巻第九号の「頼政の墓」と題せる研究に尽してある。 ; 〔註五〇〕 : 「淡海温故録」巻一。 ; 〔註五一〕 : 山中共古翁の手記「吉居雑話」。 ; 〔註五二〕 : 「駿河志料」巻二十六。 ; 〔註五三〕 : 「封内風土記」巻二十。 ; 〔註五四〕 : 「三河雀」巻四。猶お同書によると、羽前山形市の近村に、金売り吉次が、遊女亀鶴を神に祀り、社領五百石を寄せたと記してあるが、此の事は山形地方の地誌類にも見えていぬので、真偽ともに判然せぬけれども、五百石は少し多きに過ぎるので、少しく怪しいように思われる。 ; 〔註五五〕 : 「多野名勝誌」。 [[Category:中山太郎]]
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