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日本巫女史/第一篇/第四章/第四節
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[[日本巫女史]] [[日本巫女史/第一篇|第一篇 固有呪法時代]] [[日本巫女史/第一篇/第四章|第四章 巫女の呪術に用いし材料]] ==第四節 呪術用の有機物と無機物== 呪術に用いた植物、動物、及び土石等に就いて、一々節を設けて記述しようと思っていたが、それでは余りに本章が長文になるので、今は是等を一節の下に押しくるめて言うこととした。従って、論じて尽さず、説いて詳しからぬ点があるかも知れぬが、欠けたところはその機会のある毎に補うとして筆をすすめる。 '''一 笹葉''' 天照神が磐戸隠れの折に、天鈿女命が『天香山の天の<ruby><rb>蘿</rb><rp>(</rp><rt>ヒカゲ</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>手次</rb><rp>(</rp><rt>タスキ</rt><rp>)</rp></ruby>に繫けて、天の<ruby><rb>真拆</rb><rp>(</rp><rt>マサキ</rt><rp>)</rp></ruby>を鬘として、天香山の小竹葉を手草に結ひて』神憑りしたとある蘿の襷も、真拆の鬘も、笹ノ葉も共に一種の呪具であって〔一〕、然も此の笹ノ葉(襷と鬘に就いては後に言う)を持っている間だけは、巫女に神が憑かっていることを象徴したものである。「神楽歌」の採物に、榊、幣、杖、<ruby><rb>篠</rb><rp>(</rp><rt>ササ</rt><rp>)</rp></ruby>、弓、剣、鉾、杓、葛の九種を挙げているが、此の採物は九種共に、所詮は呪具であることは言うまでもないが、就中、榊、幣、篠の三種は、後世までも呪具として用いられて来たのである。神楽歌に『瑞垣の神の御代より、さゝの葉を、手草にとりて、遊びけらしも』とあるのも、鈿女命の故事を詠んだもので〔二〕、神遊び——即ち神を降ろして、託宣させるには、手に笹ノ葉を持つことが必要とされていたのである。「万葉集」に、<ruby><rb>小波</rb><rp>(</rp><rt>ササナミ</rt><rp>)</rp></ruby>と云う語に<ruby><rb>神楽声浪</rb><rp>(</rp><rt>ササナミ</rt><rp>)</rp></ruby>の字を当てたところから見るも〔三〕、神楽に笹ノ葉は附きものであった事が知られるのである。 「皇極紀」二年春正月の条に蘇我蝦夷の通行を目がけて、 : 国内巫覡等、折取枝葉、懸桂木綿、伺候大臣渡橋時、争陳神語入微之説、其巫甚多、不可悉聴。 とある枝葉に就いては、後世の柴であると云う説もあるが〔四〕、併しこれを笹ノ葉と見ることも決して許されぬことではないようである。更に後世の記事ではあるが、「和漢三才図会」巻七(人倫類)巫の条に、 : 按、上古人心淳朴而、神託亦分明(中略)、今巫女所業者、奏神楽以慰神慮、或束竹葉探極熱湯、敷注浴於身、既心体共労倦忙々然、時神明託干彼、以告休咎、謂之湯立{○由/太天}、其巫曰伊智、今人疑多、巫女媚不少、而神託何分明耶。 とある如く、神憑りと、笹ノ葉とは、離すことの出来ぬ約束に置かれていたのである。 それでは、何が故に、笹ノ葉が斯うした呪力を有していたかと言うに、本居宣長翁はこれを解して、次の如く論じている〔五〕。 : 此の故事(中山曰。鈿女命の所作)に因て、神楽には小竹葉を用い、<ruby><rb>其</rb><rp>(</rp><rt>ソ</rt><rp>)</rp></ruby>を打振る音の、<ruby><rb>佐<small>阿</small>佐<small>阿</small></rb><rp>(</rp><rt>サアサア</rt><rp>)</rp></ruby>と鳴るに就て、人等の同じく<ruby><rb>音</rb><rp>(</rp><rt>コエ</rt><rp>)</rp></ruby>を和せて、佐<small>阿</small>佐<small>阿</small>と云ける故なるべし。 此の説は本居翁としては変った観方であるが、私には<ruby><rb>合点</rb><rp>(</rp><rt>うなず</rt><rp>)</rp></ruby>けるところがある。 由来、我国の<ruby><rb>尸坐</rb><rp>(</rp><rt>ヨリマシ</rt><rp>)</rp></ruby>(ここには非職業的の意味の者を云う)が、神憑りの状態に入るには、(一)尸坐の身近くで火を焚くこと、(二)集った者が一斉に或る種の呪文を唱和することの二つが、大切なる要件とせられていた。鈿女命の場合に見るも「日本書紀」には明白に『火処焼』と載せている〔六〕。然るに、此の斎庭に集った神々が、何等の唱和をしなかったのは、鈿女命が神憑りに熟練していたために、かかる手数を要さなかったのであるかも知れぬが、それにしても少しく物足らぬ思いのせらるるのが、本居翁の解釈に従えば、これが救われることとなるのである。且つ笹ノ葉をたたく音が、神を招きて身に憑ける合図としたことは、卓見とすべきである。 襷をかけること及び鬘をすることは、共に神に仕える者の当然の装身法であった。祝詞に『忌部の弱肩に太襷とり掛けて』と屡記されているのがそれであって、更に「古今集」の採物歌に『巻向の穴師の山の山人と、人も見るがに山鬘せよ』とあるが如く、鬘の有無を以て山人と神人との区別をしたのである。而して此の襷は、後世の神道家なる者に重要視せられた<ruby><rb>木綿襁</rb><rp>(</rp><rt>ユウタスキ</rt><rp>)</rp></ruby>となり、鬘は民俗としては鉢巻となったのである〔七〕。琉球のノロが現今でも三味線蔓の葉を以て鬘とするのは、蓋し鈿女命の遺風を残したものであろう。 '''二 賢木''' <ruby><rb>賢木</rb><rp>(</rp><rt>サカキ</rt><rp>)</rp></ruby>は神事の総てを通じて用いられたもので、特に巫女に限られたものでないゆえ、茲には簡略に記述することとした。 全体我国でも木篇に春夏秋冬の作りを添えた木は、悉く呪力ある霊木として相当の信仰を<ruby><rb>維</rb><rp>(</rp><rt>つな</rt><rp>)</rp></ruby>いでいたのである。<ruby><rb>椿</rb><rp>(</rp><rt>ツバキ</rt><rp>)</rp></ruby>の枝を持つ女は、我国では巫女であって〔八〕、此の木で作った槌を用いることは、景行帝の<ruby><rb>海石榴</rb><rp>(</rp><rt>ツバキ</rt><rp>)</rp></ruby>の槌を以て土蜘蛛を鏖殺された故事からして、昭和の現代でも忌まれている〔九〕。<ruby><rb>榎</rb><rp>(</rp><rt>ヱノキ</rt><rp>)</rp></ruby>の信仰にあっては、「崇峻紀」に物部守屋が衣摺の榎を利用して、聖徳太子の軍兵を三度まで撃退したのを始めとして、それこそ僕を代えるも数えきれぬほど夥しく存している〔一〇〕。<ruby><rb>楸</rb><rp>(</rp><rt>キササキ</rt><rp>)</rp></ruby>にあっては、支那の梓と同じであるとも、異なるとも云われているが、兎に角に楸の実が今に呪力あるものとして用いられていることは事実である〔一一〕。柊に至っては敢て説明するまでもなく、「景行紀」に倭尊が比々羅木の八尋矛を賜りしを初見とし、京都の賀茂神社の地主神なる柊神社の故事〔一二〕、及び節分の追儺に柊の枝に鰯の頭を刺して戸口に挿すことまで挙げると、これも寧ろ多きに苦しむほどである。 而して是等の呪木と信ぜられたものは多く常磐木であった。現時でこそ、<ruby><rb>賢木</rb><rp>(</rp><rt>サカキ</rt><rp>)</rp></ruby>といえば、榊に限られたもののように考えているが、太古にあっては、常磐木は悉く賢木であって、賢木が<ruby><rb>栄木</rb><rp>(</rp><rt>サカキ</rt><rp>)</rp></ruby>であることは、これからも説明が出来るのである。後世の口寄巫女が生霊を寄せるときに、常緑樹の葉を用いることに就いては、その条に詳述する考えであるが、これが栄木信仰に縁を曳いていることだけは過りなさそうである。而して是等の常磐木に神が憑けば、即ち<ruby><rb>魂木</rb><rp>(</rp><rt>タマキ</rt><rp>)</rp></ruby>(後には玉木と書く)となり〔一三〕、<ruby><rb>祟</rb><rp>(</rp><rt>タタ</rt><rp>)</rp></ruby>り木となり〔一四〕、勧請ノ木となり、遂に此の信仰が発達して、神木の思想となったのである〔一五〕。 猶お此の機会に、巫覡の徒が神意を問うために、種々なる樹木を地に挿して、その栄枯によって占うた「挿木伝説」及び此の信仰から導かれた「杖立伝説」を併せ説くべきであるが〔一六〕、是等は必ずしも本書の範疇に属するものとも思われぬので、必要があったら、その条に説くとして今は除筆する。 '''三 樺木''' 太占を行う際に亀甲を灼く燃料の、波々迦ノ木に就いては異説があるが〔一七〕、私は本居翁の、 : 和名抄に朱櫻、波々迦、一云邇波佐久良、また木具部に、樺ハ木皮ノ名、可以為炬者也、和名<ruby><rb>加波</rb><rp>(</rp><rt>カバ</rt><rp>)</rp></ruby>、又云加仁波、今櫻皮有之とみえ、万葉集に<ruby><rb> 櫻皮 </rb><rp>(</rp><rt>カニバ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>纒作流</rb><rp>(</rp><rt>マキツクレル</rt><rp>)</rp></ruby>舟とよみ、古今集物名に迦爾婆櫻あり(中略)。これを合せて思ふに、此木の本名は波々迦にて、加爾婆は皮名なり、加婆は迦爾婆の約りたるなり。 とある樺木説に左袒する者である〔一八〕。延喜の「民部式」下に、信濃国樺ノ皮四囲、上野国樺ノ皮四囲とあるのは、鵜飼の燃料に用いたとの説もあるが〔一九〕、私はこれも太占用として考えたいのである。巫女が樺ノ木を用いたことは、私の寡見には入らぬけれども、東北地方——殊に陸中国の上下閉伊二郡にては旧家名族の別称として<ruby><rb>樺皮</rb><rp>(</rp><rt>カバカワ</rt><rp>)</rp></ruby>の家と云うているそうだが、これは樺の皮に画ける仏像または名号を所有しているためであって〔二〇〕、それを所持することが家格の高いことを意味しているのだと云うことである。而して此の仏像なり名号なりを古く巫女が伝えたことは、同地方における巫女の勢力を知るときは、自然と解決される問題である。 これと同時に、考えなければならぬ問題は、盂蘭盆会の聖霊迎えに樺の火を焚く習俗の各地に存することである。我国の聖霊は、その子孫の者が焚いて呉れる火の光りを目途にして、遠い幽界から降り(或はその火の煙に乗って来るとも云うている)て来るのであると信じられていて、必ず墓地で迎え火を焚くこととなっていた〔二一〕。都会人が墓参もせず、己の門口で炮烙の上で麻殻を焚き、それで迎え火だなどと済しているのは、都会生活の屈托から儀式を簡略化したに過ぎぬものであって、聖霊に戸惑いさせる虞れがないとも限らぬ。前に挙げた陸中の上下両閉伊郡では、今も盆の迎え火は樺を墓前で焚くことになっている〔二二〕。陸奥国東津軽郡の各村々でも、盆の迎え火には樺を焚くが、殊に平内村(西中東の三村を押しくるめて)では、十三日から二十日まで毎夜戸外でこれを焚き、且つ舞踏をつづけるそうである〔二三〕。信濃国の伊那郡北部を中心とした地方でも、同じく盆には墓前で樺を焚くことと、ドンブヤを振ることの二つが、迎え火となっているのである〔二四〕。 こうした習俗は、克明に各地に亘り詮索したら、此の外にも存していることと思うが、兎に角に年に一度子孫を訪れる聖霊を迎えるのに、樺の火を焚くと云うことは太占の思想に負うところを考えさせると共に、此の木に呪力のあることを信じたもので、然も此の信仰を民間に植えつけたのは、記録にも口碑にも忘られるほど古い時代に、田舎わたらいした巫女の所業であったと想われるのである。 '''四 葦''' これも必ずしも巫女に限って用いた物ではないが、葦が呪力あるものとして、神意を占う際に重要な役割りを勤めたことは珍らしくないので、書き添えて置く。「新撰姓氏録」皇別の条に、 : 和泉国、葦占臣、大春日同祖、天足彦国押人命之後也。 と載せてある。記事が余りに簡単なので、此の葦占臣の呪術的方法の如何なるものであったかを知ることは出来ぬけれども、その姓の示す如く、葦を以て神意を占うことを職としていたので、此の姓を負うたものであることだけは明確である。 更に葦を呪力あるものとした信仰に至っては、これも取捨に苦しむほど多く存しているが、各地の神社で追儺の式に桑ノ弓と葦ノ矢を用いることは、支那の桃弓蓬矢の影響を受けたものとも思われるが、併し豊葦原ノ国と云われただけに、我国独特の葦の神事も少くはない。三州豊橋市横田の牛頭天王社では、毎年六月晦日に、茅ノ輪の神事を行うのは他社と変りはないが、此の社の神事は拝殿に<ruby><rb>薄</rb><rp>(</rp><rt>ススキ</rt><rp>)</rp></ruby>を長さ二尺四五寸に切り、根の所を葦にて包み、此の葦に青黄白の幣と紙の<ruby><rb>人形</rb><rp>(</rp><rt>ヒトガタ</rt><rp>)</rp></ruby>を附ける。輪くぐりが終ると夜の一二時過ぎに、茅ノ輪と葦とを、豊川に流し棄てる。然るに、此の葦の流れ着いた村では、その葦を産土神の地内へ仮宮を建てて安置し、その翌日の一日か又は三日のうちに、日待と同じく村民は悉く水垢離をなし、男女とも業を休んで参詣して祭り、以来七十五日間は毎夜献灯することになっている〔二五〕。紀州熊野の新宮十二所権現の旧九月六日の祭礼には、一ツ物とて馬に編笠着せた人形を乗せるが、古くは若い人を用いたものである。人形は衆徒永田氏から出すのだが、「寛文記」によると、一ツ物は、金襴の狩衣を着て、葦十二本に牛王十二枚挟みしを腰に挿し、飾り馬に乗り、神輿の先に立ったものである。そして此の葦は、大島から献上したものを、一山の衆徒等が七日間神殿に籠り祈祷して出すものだと云う〔二六〕。陸中国平泉町の白山権現の旧四月の祭礼にも、七歳の男児を潔斎させ、腰に葦の葉を挿させ、飾り馬に乗せ、社前に牽くを、お一ツ馬と云うている〔二七〕。東京市に近い王子町の王子神社の八月十三日の例祭にも、神人の行列中に唯一人、箙に青い葦を一本挿している者がある〔二八〕。 かかる類例は際限がないから他は省筆するが、是等から見るも、葦を持っていることが、神の憑かったことを証明しているのであって、葦に呪力を認めた信仰に出発していることは言うまでもない。 猶お此の外に、樒、柳などが存しているが、これは必要の機会に譲るとする。 <br /> 呪術に用いた動物も決して少くないが、ここには狭義に解するとして、巫女が用いたもののみに就いて、記述することとした。 '''一 しゝ''' 古く我国では、鹿も猪も、共にししと称し、これを区別するときには、<ruby><rb>鹿</rb><rp>(</rp><rt>カ</rt><rp>)</rp></ruby>ノしし、<ruby><rb>猪</rb><rp>(</rp><rt>イ</rt><rp>)</rp></ruby>ノししと呼んだ。而して此のししには、<ruby><rb>宍</rb><rp>(</rp><rt>シシ</rt><rp>)</rp></ruby>即ち食し得る肉というほどの意味がある。巫女が呪術に行うに際して、鹿(太占の場合は今は全く省く)および猪を用いたと思われることは、古く<ruby><rb>黄泉</rb><rp>(</rp><rt>ヨミ</rt><rp>)</rp></ruby>の枕辞に「<ruby><rb>宍串呂</rb><rp>(</rp><rt>シヾグシロ</rt><rp>)</rp></ruby>」の語を用いたことから察せられるのである。宍串呂の解釈にあっては、賀茂真淵翁は<ruby><rb>繁釧</rb><rp>(</rp><rt>シヾクシロ</rt><rp>)</rp></ruby>の意なるべしと云うているが〔二九〕、これは僧仙覚の、串にさして炙たる肉はうまき物なれば味のよしとつづくと云う説こそ〔三〇〕、蓋し上代の民俗に適うたものと考えられるのである。 宍串の民俗学的例証は、私の集めただけでも相当に存しているが、その代表的の物は「出雲風土記」意宇郡安来郷に載せた語臣猪麻呂の記事である。天武朝に猪麻呂が娘を鰐のために喰い殺されたのを怒り〔三一〕、天神地祇に祈ったところ、百余の鰐が一頭の鰐を囲み率いて来たので娘の仇を復したが、その時に猪麻呂は『<ruby><rb>和爾</rb><rp>(</rp><rt>ワニ</rt><rp>)</rp></ruby>者殺割而<ruby><rb>挂</rb><rp>(</rp><rt>カケ</rt><rp>)</rp></ruby>串立路之垂也』とあるのがそれであって、現代にその面影を残しているものは、大隅国姶良郡東襲山村大字重久の<ruby><rb>止上</rb><rp>(</rp><rt>トカミ</rt><rp>)</rp></ruby>神社の贄祭である。社伝に、此の祭は、景行帝が熊襲を退治せられたところ、その梟師の悪霊が祟りをなし人民を苦しめるので、毎年旧正月十四日に、氏子が初猟をなし、獲物の肉を三十三本の串に貫き、地に挿し立てて牲となし、熊襲の霊を祀るに始まると言い、今にその祭礼の次第が存している〔三二〕。 併し乍ら、此の肉串も原始期に溯ると、独り鹿や猪の肉ばかりでなく、人肉を用いたことも在りはせぬかと思われる点である。即ち前に挙げた枕詞の本歌は「万葉集」巻九菟原処女の墓を見て詠める長歌の一節で、即ち『<ruby><rb>宍串呂</rb><rp>(</rp><rt>シヾクシロ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>黃泉</rb><rp>(</rp><rt>ヨミ</rt><rp>)</rp></ruby>に待たむと<ruby><rb>隠沼</rb><rp>(</rp><rt>コモリヌ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>下懸想</rb><rp>(</rp><rt>シタハ</rt><rp>)</rp></ruby>へ置きて、打嘆き妹が<ruby><rb>去</rb><rp>(</rp><rt>ユ</rt><rp>)</rp></ruby>ければ』云々とあるように、死の国である黄泉にかけた冠辞なのである。巫女が屍体を支解する職程を有していたために<ruby><rb>祝</rb><rp>(</rp><rt>ハフリ</rt><rp>)</rp></ruby>と称したことの詳細は後章に説くが、宍串が人肉であったことも、此の結論から、当然考えられることである。而して是等の宍串を作る役目は、言うまでもなく巫女であったに相違ないのである。 '''二 鵐''' 「古語拾遺」に『片巫{志止/止鳥}』とあることは既記を経たが、さて此の<ruby><rb>志止々鳥</rb><rp>(</rp><rt>シトトトリ</rt><rp>)</rp></ruby>の解釈に就いては、昔から学者の間に異説の多い難問なのである。第一に伴信友翁の説を挙げんに、「正卜考」巻三、片巫、肱巫の条に、 : 強ひて思ふに、片は肩にて肱に対する言の如く聞こゆるをもて思へば(中略)、漢国にて股肱ノ臣などいふ心ばへに似て(中略)、然称へるにはあらざるか、猶ほ考ふべし(中略)。さて志止々鳥は、天武紀に、摂津国貢白巫鳥、自注に巫鳥此云<ruby><rb>芝苔々</rb><rp>(</rp><rt>シトヾ</rt><rp>)</rp></ruby>(中略)。和名抄に、鵐鳥唐韻云鳥名也、音巫、漢語抄云、巫鳥、之止々、新撰字鏡に鵐字をよめり、また名義抄に、{神冠鳥}をカウナイシトヽと訓り、この{神冠鳥}字、漢の字書どもに見あたらず、斯方にて制り(中山曰。国字の意)たる字なるべし、其訓カウナイは、<ruby><rb>巫</rb><rp>(</rp><rt>カウナギ</rt><rp>)</rp></ruby>の音便にて、巫しとゞと云ふ義なれば、片巫の志止々鳥の占に由あり聞こえ、漢字に鵐と作き、又巫鳥とも云へりと聞こゆるも、おのづから片巫の占に相似て聞ゆ。また枕冊子の、鳥はと云条に、<u>みこどり</u>といへるも、巫鳥と聞こゆ。また秘蔵抄と云ふ書に「かうなぎのかやゝこ鳥にことゝはむ、我思ふ人にいつかあふべき」(中略)。歌林撲樕拾遺に此歌を載て(中略)かやゝこ鳥は、巫鵐を云ふといへり、これもいの占の事と聞こえたり、されど如何にして卜ふるにか知る由なし云々。 第二に、橘守部翁の説を載せんに、「鐘のひびき」巻一において『磨(中山曰。守部自身を指す)もえ心得ず、只年頃いぶかしむのみなり(中略)、かたなりなる試みをも申べし』とて、先ずこれに就いては自信なきことを告白し、さて曰く、 : 片巫{志止/止鳥}とあるは、鵐字を分ちて書けるか(中略)。和名抄に、巫{和名加/牟奈岐}祝女也と見えし如く、覡を男祝と云ふに対て、<ruby><rb>傍</rb><rp>(</rp><rt>ツクリ</rt><rp>)</rp></ruby>なければ片巫とは云ふ歟。それを鵐鳥にとりなせしなるべし。枕冊子に、みことりといへるを、ふるく鵐の事也といへるなどもよしあり(原註。又按に、只字の上のみならず、此鳥にも、神社に由緣あるかと思ふことあれと(中略)。是はよく考て又も云べし。太刀に鵐目と云は、彼が目の貌に似たるを以て云なれど、鳥も多かるに此鳥の目にしも象るは、いかなるよしか、若は其刀を重みして、巫祝の神を斎くに准らへたるにや(中略)是もよく考へて又も云べし)云々。 とある。猶お此の外にも国学者と称する先覚の間に異説もあるが〔三三〕、それを一々引用することは長文になるので省略し、更にこれに対する私の管見を述べるとする。 私は第一の片巫の解釈に就いては、伴翁の説をそのまま承認する者であって、片は肩にて、肱に対して言うた語と考えている。琉球の<ruby><rb>祝女</rb><rp>(</rp><rt>ノロ</rt><rp>)</rp></ruby>の間に行われている肱折り指折りと云う祭祀の作法は、内地の<ruby><rb>鹿自</rb><rp>(</rp><rt>シシジ</rt><rp>)</rp></ruby>物膝折伏せ、鵜自物<ruby><rb>頸根</rb><rp>(</rp><rt>ウナネ</rt><rp>)</rp></ruby>衝抜てある形容よりは、肩巫肱巫の作法に類似するところがあるように想われる。第二の志止々鳥は、古く頬白(画眉鳥)の事を云うたのではないかと思っている。私が此の志止々鳥に就き二三の学友に尋ねたところ、肥後国宇土郡地方では頬白のことを斯く言い〔三四〕、奥州秋田地方でも同じく頬白のことを斯く称しているとのことであった〔三五〕。而して和訓栞の頬白の条を見ると『頬白はしとゝの類なり』と載せている。これに就いて想い起こされることは、「神武記」に、伊須気余理媛が大久米命の<ruby><rb>黥</rb><rp>(</rp><rt>サケ</rt><rp>)</rp></ruby>る<ruby><rb>利目</rb><rp>(</rp><rt>トメ</rt><rp>)</rp></ruby>を見て詠める『<ruby><rb>胡鸞鶺鴒</rb><rp>(</rp><rt>アメツヽ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>千鳥真鵐</rb><rp>(</rp><rt>チトリマシトヽ</rt><rp>)</rp></ruby>』何裂る利目の歌である。此の真鵐は、言うまでもなく、志止々鳥の真なる意味で、真鴨とか真鯉とか云う用例と見て差支ないようである。此の歌も昔から難解に属するものではあるが〔三六〕。私は矢張り簡単に大久米命の目が、鶺鴒や、真鵐のように、円く<ruby><rb>黥</rb><rp>(</rp><rt>さけ</rt><rp>)</rp></ruby>てあったと形容したものと見ているのである。従って片巫が呪術に用いた志止々鳥は殊に目の円いものであったと思われるので、それには頬白が最も<ruby><rb>応</rb><rp>(</rp><rt>ふさわ</rt><rp>)</rp></ruby>しくないかと考えたのである。而して此の鳥を如何にして呪術に用いたかは、「津島紀事」巻一に「亀兆伝」を引用して『鹿は天の事は知れども地の事は却て知らず、此の故に亀に代ゆと(中略)。又鵐の骨を以て卜しこと古語拾遺に見えたり』とあるのを手懸りとして、鹿卜や亀卜と同じように此の鳥の骨を灼いて占う方法が在ったものと信じている〔三七〕。 然るに私の此の頬白説を打消すに足るほどの資料も存しているのである。第一は、能登国鹿島郡鳥屋村大字<ruby><rb>一青</rb><rp>(</rp><rt>シトト</rt><rp>)</rp></ruby>の地名の由来である。「鹿島郡誌」巻上に「三州志」を引用して『一青をシトヽと旁訓せり(中略)。小野蘭山シトヽ種類多し云々。豈この物に取るか、凡そ地名は土宜獣に取れる者多し』と載せたことである。これに由れば、一青というのであるから、志止々鳥は青い鳥でなければならぬのに、私の言う頬白には青いものは見当らぬようである。 第二は伴信友翁が『正卜考』志止々鳥の条に細註に『シトヽは青みがちなる毛色にて、俗にアヲジとも云ふ、黒焼にして、金瘡などの血をよく止め治る薬なり』の一節である。アヲジが民間薬として用いられたことは私は他の治方も承知しているが〔三八〕、頬白に此のことを聞かぬとすれば、呪術に用いられたゞけに、私の説には弱いところがあるような気もする。 第三は陸中国の「東磐井郡誌」に『<ruby><rb>巫鳥</rb><rp>(</rp><rt>シトヽリ</rt><rp>)</rp></ruby>、田野に棲む、冬季食用とすべし』との記事である。これも頬白は食用にならぬから、志止々鳥と頬白とは全く別なものと考えなければならぬこととなる。 併しながら、私に強弁することを許されるならば、蘭山の云う如くシトトは種類が多く、「神武記」の真シトトは青く且つ食用にも足るものであるが、巫女が呪術に用いたものは、青くない食用にもならぬ頬白であったのではないかと言いたいのである。敢て後考を俟つとする。猶お此の志止々鳥が後世になると時鳥と同じもののように解釈されて種々なる俗信を生むようになったが、それ等に就いては後章に述べるとする。 '''三 鵜''' 全体、我が古代の民族は、人は死ぬと鳥の形となって天に昇るものだと信じていた。我国の「鳥船信仰」なるものの基調はここに存しているのであって、「古事記」神代巻に天稚日子の葬儀を営むとき『河鴈を<ruby><rb>岐佐理</rb><rp>(</rp><rt>キサリ</rt><rp>)</rp></ruby>持とし、鷺を掃持とし、<ruby><rb>翠鳥</rb><rp>(</rp><rt>ソニ</rt><rp>)</rp></ruby>を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とし』た習俗が行われたのである。倭尊が薨後に白鳥となって飛んだと云う伝説も、更に現代でも琉球を始めとして内地の各所で、葬礼の際に紙で造った鳥の形の物を飛揚するのも、<ruby><rb>咸</rb><rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby>な此の鳥船信仰に由来しているのである。従って鳥を神と人との間の使と見たのもこれが為めである。而して茲に言う鵜は、必ずしも此の信仰を如実に現わしているものではないけれども、その呪術として用いられた根底においては、一脈相通ずるものがあると考えたので、敢て記載することとした。 鵜を呪術に用いた徴証は、櫛八玉神が鵜と化したという「古事記」の記事であるが、これに就いては、次項に土のことを言う折に併せ述べる方が便宜が多いと信ずるので今は省き、ここには鵜の羽を呪術に用いた一例だけを記すとする。而して此の徴証は「古事記」の天孫彦火々出見尊の妃豊玉媛が皇子を生みまつる条である。 : こゝに海神の御女豊玉毘売命、自ら参出て白したまはく、妾已くより妊身るを、今御子産むべき時になりぬ(中略)。爾即ち其の海辺の<ruby><rb>波浪</rb><rp>(</rp><rt>ナギサ</rt><rp>)</rp></ruby>に、鵜の羽を葺草にして、産殿を造りき。こゝに其の産殿、未だ葺合へぬに、御腹忍へがたくなりたまひければ、産殿に入坐しき(中略)。こゝを以て其の産せる御子の御名を、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と謂す。 而して此の鵜の羽を以て産殿を葺いたという事に関しては、古くから異説がある。「釈日本紀」巻八には『鵜口喉広飲入魚又吐出之容易之鳥也、是以象産生平安令葺此羽於産屋者歟』と安産の呪方として鵜の羽を用いしことを述べ、一条兼良も、此の説を承けて、「日本紀纂疏」に『祝其易産之儀』と記している。然るに、新井白石はこれに反して、神話を歴史として解釈せんと試みただけあって、今の荻は昔の<u>うみがや</u>である。日向国ではこれを<u>うがや</u>と云う。産殿を葺けるは此の<u>うがや</u>なるべしと論じている〔三九〕。 私はこれに対する管見を記す以前に、更に鵜に関する民間の俗信を述べて置く必要があると信ずるので、茲にその一つだけを載せたいと思う。能登の官幣大社気多神社では毎年鵜祭というを行うが、「能登名跡志」の記すところによると、祭儀が備うと一羽の鵜を社前に放ち、これが階段を昇るのを合図として祭礼が始まる。かく鵜を社前に供えるのは、鵜の肉は人肉と味を同じくし、古く此の神社は人身を供御としたが、後に此の鳥に代えたのであると伝えている。私は鵜肉と人肉とを食い分けて見たことがないので、此の伝説をそのまま鵜呑みにする訳には往かぬが、それにしても、斯うした民間信仰が在ったことだけは、認めても差支ないと考えている。而して是等のことから、古く我国には産屋(古代は分娩は常住の家宅では行わず、必ず別に一屋を設けてそこで挙げたものである。然も此の民俗は明治の初期までは各地に存していた。産所村の起原の一面はこれである)で分娩するときには、悪霊を防ぐ呪術として鵜の羽を屋上に挿した信仰があったのではないかと考えるのである。我国の祭礼に「一ツ物」と称する尸童が、必ず山鳥の羽を身に附けたのも、琉球の<ruby><rb>祝女</rb><rp>(</rp><rt>ノロ</rt><rp>)</rp></ruby>が鴛鴦の羽を頭に挿すのも〔四〇〕、共にそれ等の羽に呪力を信じたからであって、鵜が魚を呑吐するように、産も易かれとの類比呪術の思想から、鵜の羽を産屋に挿したのを、鵜の羽を以て葺くと云うたのではあるまいか。而して此の呪術が、巫女によって行われたことは、古くより出産に参与する者は女子に限られていたのを見るも知られるのである。 '''四 蟹''' 蟹は現代でも呪力あるものとして用いられている。東京市中でよく見かけるが、蟹甲を水引で軒頭に結びつけて置くのがそれである。今日では蟹甲を下げるのは、小児の驚風の厭勝だなどと云われているが、併し此の俗信の由来は遠き神代に発生したものである。蟹を呪術とした文献は「古語拾遺」に、 : 天祖彦火尊娉海神之女豊玉姫命生彦瀲尊、誕育之日海浜立室、于時掃守連遠祖天忍人命供奉陪従、作箒掃蟹仍掌敷設、遂以為職曰蟹守{今俗謂之借守/者彼詞之転也}。 とあるのがそれである。然るに、此の蟹守の故事は、独り「古語拾遺」に載せてあるばかりで、他の記・紀・風土記などには、全く記してない。ただに是等の書籍に載録を欠くばかりでなく「新選姓氏録」和泉国神別の条には、此の記事と相反するが如きものが記してある。即ち、 : 掃守首、振魂命四世孫天忍人命之後也、雄略天皇御代、監掃除事、賜姓掃守連、 とあって、掃守は神代の蟹に関することではなくして、雄略朝の箒掃のことに始まると云うのである。併し私は茲に此の両記事の是非を説くことは姑らく措き、ただ分娩に際して蟹を呪術に用いたという点に就いてのみ短見を述べるとする〔四一〕。 私は曾て「蟹守土俗考」と題して、これが考証を発表したことがあるので、茲にはその記事を要約し、更にその後に獲た新たなる資料を加えて載せるとするが、蟹が蝦や蛇と同じように、霊的の動物として、我が古代の民族に崇拝されたのは、(一)蟹の脱殻作用という不思議な生態と、(二)蟹と月の盈虧の関係と、(三)蟹の形状から来たものと思うている。 古代の我々の祖先達は、 蟹や蛇や蝦の脱殻作用を見て、これを不思議なるものと考えずには居られなかったのである。人類には決して見ることの出来ぬ此の不思議は、やがて是等の動物は脱殻作用のあるために、幾度となく生命を更新して、永遠に生存するものであるという信仰に導いたのである。復言すれば、脱殻は老いたる生命を若きに返す不思議の霊能のあるもので、かくて何時までも生き永らえるものと思惟したのである。 琉球の伝説に、古代の人間は、蛇と同じように脱皮したもので、然もその脱皮毎に、心身ともに若くなったのであるが、それには正月の若水に身体を浸すことになっていた。然るに或年のこと、若水を浴びようと、井戸へ往って見ると、人間より先に蛇が浸っていたので気味悪く思い、手足の先だけ水に浸して帰ってしまった。それ以来、蛇は脱皮するも、人間は此の霊能を失い、僅に手足の爪だけが脱け変るのだと云うのがある〔四二〕。此の伝説は、内地の若水の信仰で、その基調となっているものは、前に述べた「<ruby><rb>変若水</rb><rp>(</rp><rt>ヲチミヅ</rt><rp>)</rp></ruby>」の信仰である。而して此の信仰は延いて、神々の復活ということまでも考えさせるようになった。日神の運行も、月神の盈虚も、穀神(古代人は種子その物を直ちに神と見た)が一度刈られて、また繁茂し、結実するのも、悉く復活に外ならぬと認識したのである。天照神の磐戸隠れも、大己貴命が二度死んで二度とも蘇生したのも、共に生命の更新であって、然も霊能の復活である、と信じていたのである。 蟹の肉が月の盈虚によって肥瘠を異にしたことも、また古代人をして蟹を霊的の動物と考えさせた一原因である。然も月の盈虚が海潮の去来と関係あることを知って、いやが上にも蟹を不思議の物と考える程度を加えたのである。更に蟹の形態——殊に背甲に往々人面に髣髴たる地紋があり、且つこれに中毒して死を招くことなどは、愈々蟹を崇拝せしめるのに有力なるものがあった。我々の祖先は此の種の蟹を以て人間の怨魂が化したものと考えて、今に平家蟹、長田蟹、島村蟹、武文蟹、治部少輔蟹等の伝説を残している。かくして「日本霊異記」に載せた蟹満寺の古縁起となり、近江国甲賀郡土山村の蟹坂〔四三〕、越中国西蠣波郡北蟹谷村大字五郎丸の蟹掛堂〔四四〕、駿河国庵原郡高部村大字大内の保蟹寺の蟹楽師〔四五〕、甲斐国西八代郡御代咲村大字蟹沢の長源寺の蟹仏〔四六〕、美作国久米郡久米村大字久米川南の蟹八幡〔四七〕の由来などを始めとして、江州八幡町の少年が毎年小正月の左義長に蟹に扮する土俗や〔四八〕、此の外に私のカードに数えきれぬほど記してある蟹に関する伝説なども、その悉くは蟹を霊物としたために生じた信仰の結果なのである。 此の見地から言えば、蟹を産室に這わせる習俗は、産児が蟹の如く幾度となく生命を更新して、永く健全であれとの呪術から出たものであって、単に赤児が蟹の如く這うようになれと祝福しただけではないのである。琉球の各島々では、現に出産があると、数匹の蟹を捉えて来て室内を這わせる習慣が残っているが、此の場合に若し蟹の獲られぬときは、その代りに螽斯(方言セーガ)を用いるそうである〔四九〕。蟹の代用に螽斯を以てした理由は、私にはよく判然せぬが、支那には此の事が古くから行われていたようである。「詩経」の螽斯三章は即ちそれであるが、此の祝儀は文字の上だけでは我国でも用いたものと見えて、「山槐記」治承二年十月十日の条所載、建礼門院徳子の皇子降誕の祭文中の一節に『世以歌螽斯之詩、天以授亀鶴之齢』と見えている。而して此の蟹を這わせる役目は、姓氏録に魂振命とあるのから推すと、これが巫女であったことは明白である。何となれば、魂振とは即ち鎮魂の儀であって、これの魂振の聖職を奉ずるもの([[日本巫女史/第一篇/第五章/第三節|次章鎮魂の節]]参照)は巫女に限られていたからである。 巫女が呪術に用いたと思われる動物は、まだ此の外に蛇(古事記に蛇比礼とある)があり、蜈蚣(同上、蜈蚣の比礼)があり、蜂(同上、蜂の比礼)があったようだが、記事が余りに簡単なので、其の方法すら知ることが出来ぬので、今は省略した。更に、牛、馬、犬、狐等の如き動物にあっては、記録にこそ見えぬけれども、実際にあって呪術に用いられたものと想われるが、是等は後章に説くとして、茲では触れぬこととした。 <br /> 呪術用の無機物は、前に鏡や玉を述べた折に、一と纏めにしても差支ないのであるが、是等の鏡や玉は、専ら呪術のために発達したものとも言える程であるのに反して、これから述べようとする石や土は、偶々呪術に用いられたと云うだけで、その間に相当の差違があると考えたので、かく別に記すこととしたのである。 '''一 石''' 石の呪力をやや完全に説くには、我が古代における石信仰の起伏を述べなければならぬ。例えば「成長する石」とか、「子を産む石」とか、更に進んでは、風土記その他に見えている「<ruby><rb>寄</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>神</rb><rp>(</rp><rt>ガミ</rt><rp>)</rp></ruby>」としての石信仰など、茲にその題目を挙げるだけでも容易なことではない。それに今は、是等の一般的の石信仰を論ずるのが目的でないから悉く省略し〔五〇〕、直ちに呪術に用いた石だけに就いて、然も簡明に記述したいと思う。 而して、石に呪力ありとした記事の初見は、諾尊が黄泉国から追われて帰える折に、黄泉平坂に千引石を置いたのを、「古事記」には『その黃泉坂に<ruby><rb>塞</rb><rp>(</rp><rt>サヤ</rt><rp>)</rp></ruby>れりし石は、道反神とも号し、塞坐黃泉戸大神とも謂す』と載せている。併しながら、これは単に石の呪力を認めたというだけで、まだ石を呪術に用いたという積極的には出ていないのである。然るに「豊後国風土記」直入郡蹶石野の条の : 同天皇{○景/行帝}欲伐土蜘蛛之賊、幸於柏峡大野、其野中有石、長六尺広三尺厚一尺五寸、天皇祈之曰、朕将滅此賊者、当蹶茲石、譬如柏葉而挙焉、即蹶之、騰如柏葉、因曰蹶石野。 とあるのは、明かに石占であることを示している。 由来、我国の石占には、その方法が三種ある。 : 第一、景行帝の場合の如く、神に<ruby><rb>祈</rb><rp>(</rp><rt>ウケ</rt><rp>)</rp></ruby>いて石を蹶り、又は投げて、その石が己れの思いし高さなり、又は遠さなりに達するを以て、神慮の己れを加護するものと占うもの。 : 第二、石を<ruby><rb>扛</rb><rp>(</rp><rt>ア</rt><rp>)</rp></ruby>げて、その軽重によって神意を占うもので、今にこれは俗に「<ruby><rb>軽重</rb><rp>(</rp><rt>オモカル</rt><rp>)</rp></ruby>さん」と称して行われている。 : 第三、或る石を見立てて、草なり、藁なりを、後手で石の長さ位に切り、それを石に当てて見て、その長さが合致するか否かを以て、吉凶を占う方法である。 此の三方法は、古く広く行われていて、「万葉集」巻三丹生王の詠める長歌の一節に『<ruby><rb>夕占</rb><rp>(</rp><rt>ユウケ</rt><rp>)</rp></ruby>問ひ石占以ちて』あるのは、軽重さんの方法に由ったものだと云われている〔五一〕。「新選姓氏録」蕃別に、石占忌寸の姓が載せてあるが、これは古く此の事に従うていたために負うたものである。「神功紀」に皇后が征韓の途に上りしとき『于時也適当皇后之開胎、皇后則取石挿腰、而祈之曰、事竟還日、産於茲土』云々とあるのは、畏きことながら、石の呪力を認めさせられての呪術であると拝されるのである。 '''二 土''' これも石と同じように、土に関する古代の信仰を説かねばならぬのであるが、それでは益々長文となるので茲には省き、直ちに土を呪術に用いたことに就いて述べるとする〔五二〕。而して呪術に用いられた土にあっては、凡そ二つに区別されていた。第一は或る限られた場所の土を用いることで、第二は或る種の土を用いたことである。併しながら両者ともその根本問題として、土に呪力のあることを信じていたのは勿論である。 第一の例証は「神武紀」戌午年秋九月の条に、 : 天皇(中略)。是夜自祈而寝、夢有天神訓之曰、宜取天香山社中土{○原/註略}以造天平瓮八十枚{○原/註略}幷造厳瓮而敬天神地祇{○原/註略}亦為厳呪詛、如此則虜自平伏矣(中略)。時弟猾又奏曰(中略)。宜今当取天香山埴、以造天平瓮、而祭天社国社之神、然後撃虜則易除也、天皇既以夢辞為吉兆、及聞弟猾之言、益喜於懐、乃使椎根津彦著弊衣服蓑笠、為老父貌、又使弟猾被箕為老嫗貌、而勅之曰、宜汝二人到天香山、潜取其巓土、而可来旋矣、基業成否、当以汝為占、努力愼焉。 とあるのが、それである。かくて、二人は勅命により、天香山の土を得て帰り、天皇これを以て斎器を造り、神祇を祭って、遂にその加護を受けて賊徒を平げ、天業を成したのであるが、如何に此の事に天皇が重きを置かれたかは、勅にこれを以て其業の成否を占うと仰せられたことからも、恐察せられるのである。而して茲に老嫗の貌となって赴いた弟猾は、即ち当時の巫女なのであった〔五三〕。 然るに「崇神紀」にも土を呪術に用いんとした事例が載せてある。即ち同紀十年秋九月の条に、 : 大彦命到於<ruby><rb>和珥</rb><rp>(</rp><rt>ワニ</rt><rp>)</rp></ruby>坂上、時有少女歌之曰(中略)。於是天皇姑、倭迹々日百襲姫命、聡明叡智、能識未然、乃知其歌恠、言于天皇、是武埴安彦将謀反之表者也、吾聞、武埴安彦之妻吾田媛、密来之、取倭香山土、<ruby><rb>褁</rb><rp>(</rp><rt>ツヽミ</rt><rp>)</rp></ruby>領布、祈曰是倭国之物実、乃反之。 とあるのがそれである。而して此の事が例となって、摂津の官幣大社住吉神社の埴取の神事となるのであるが、それまで言うと、少しく長文になるので割愛する。 第二の例証としては、「古事記」神代巻に、 : 櫛八玉神、鵜に化りて、海底に入りて、底の土を<ruby><rb>咋</rb><rp>(</rp><rt>クヒ</rt><rp>)</rp></ruby>出でゝ、天八十<ruby><rb>瓮</rb><rp>(</rp><rt>ヒラカ</rt><rp>)</rp></ruby>を作りて、海布の柄を<ruby><rb>鎌</rb><rp>(</rp><rt>カ</rt><rp>)</rp></ruby>りて、燧臼に作り<ruby><rb>海蓴</rb><rp>(</rp><rt>コモ</rt><rp>)</rp></ruby>の柄を燧杵に作りて、火を<ruby><rb>鑽出</rb><rp>(</rp><rt>キリイデ</rt><rp>)</rp></ruby>て云しけらく、この我が燧れる火は、高天原には、神産巣日御祖命のとだる天の新巣の<ruby><rb>凝煙</rb><rp>(</rp><rt>スヽ</rt><rp>)</rp></ruby>の、<ruby><rb>八拳</rb><rp>(</rp><rt>ヤツカ</rt><rp>)</rp></ruby>垂まで焼挙げ、地下は、底津石根に焼凝して(中略)。天の真魚咋献らむと白しき。 とあって、これは海底の土が択まれているのである。且つここに述べた八玉神の<ruby><rb>祝言</rb><rp>(</rp><rt>ホギゴト</rt><rp>)</rp></ruby>は、又一種の呪文とも見られるのである。更にこれとは趣きを異にし、赤土に限って用いた例もある。「崇神記」に活玉依媛の許に夜々通い来る壮夫を知るために『赤土を床前に散らし』て、その壮夫の美和大神であったことが判然した故事があり、猶お「播磨風土記」逸文に、 : 息長帯日女命{○神功/皇后}欲平新羅国下坐時、禱於衆神(中略)。於此出賜赤土、塗天之逆鉾、建神舟之艫舳、又染御舟裳及御軍之<ruby><rb>著衣</rb><rp>(</rp><rt>ヨロヒ</rt><rp>)</rp></ruby>云々。 とある。是等は共に赤土なる故に一段と呪力の強かったことを示しているのである。 猶お此の機会に「灰」を呪術に用いたことも見えているが、これは特種のことではあり、且つ左程に重要なこととも思われぬので省筆することとした。 ; 〔註一〕 : 巫女の持物である手草に就いては、柳田国男先生の巫女考(郷土研究第一巻連載)の第二号に詳記してある。参照を望む。 ; 〔註二〕 : 「瑞垣」の二字を崇神朝と解する学者もあるようだが、私は橘守部に従い、単なる古代の意味に考えている。 ; 〔註三〕 : 「古事記伝」巻八(本居宣長全集本) ; 〔註四〕 : 谷川士清翁の「日本書紀通証」に、枝葉は柴なりと載せてあるが、私は必ずしもそう考える必要はなく、笹の葉、または賢木と見ることも、不可能ではないと思っている。 ; 〔註五〕 : 「古事記伝」巻八(同上)。 ; 〔註六〕 : 神降しを行う際には、尸坐の身近くで、熾んに火を焚くことが、普通とされている。これは、第一は、火力によって尸坐の心身を夢の境に誘うことと、第二は、火によって荘厳の気を加えるためと、第三は、火を灯火の代用とする必要から来ていたようである。後世の職業的巫女になると、斯うした形式を採らずとも、直ちに神憑りの状態に入るだけの修業を積んでいたが、単なる信仰心で行う者、又は修験道系の者は、必ず火を焚いたものである。そして周囲の者が大声で呪文めいたものを合唱した。その例証は後章に述べる機会がある。 ; 〔註七〕 : 男女の鉢巻を単なる髪の乱れるのを防ぐためとか、又は景気をつけるための装身具とか見るのは、後世の合理的の解釈であって、その起りは神に対する場合にのみ限られたものである。換言すれば、神を祈るときに鉢巻をしたものである。狂乱の保名が、紫の鉢巻を忘れぬのも、此の名残りであるとは、既に柳田先生の説かれたところである。 ; 〔註八〕 : 我国の椿と、支那の椿とは、用字は同じだが、樹木は異っていて、支那の椿に相当するものは、我国の山茶花だという説がある。併し茲にはそんな詮索は措くとするが、兎に角に椿は霊樹として我国では崇拝されていた。八百比丘尼という有名な巫女は、常に此の樹の枝を所持していた。八百比丘尼に就いては後章に述べる。 ; 〔註九〕 : 「豊後国風土記」大野郡海石榴市の条に載せてある。それから、美作国勝田郡豊国村では、椿の木の槌を用いることを忌んでいると「民族」第四巻第三号に見えている。 ; 〔註一〇〕 : 榎の俗信に就いては「郷土研究」「民族」その他の雑誌の資料欄に、夥しきまで各地の報告が載せてある。一里塚に榎を栽えたのも、又その一つである。 ; 〔註一一〕 : 楸は梓の一種とも、又た同じとも云われているが、此の樹の実は薬剤として、今に民間に用いられているが、特に腎臓病に効験あると云われている。 ; 〔註一二〕 : 賀茂社の地主神である柊社へ、他の杉なり、松なりを栽えても、幾年かの後には柊となってしまうと云われている。これに就いては、「京阪文化史論」に載せた内藤虎次郎氏の「近畿の神社」を参照せられたい。 ; 〔註一三〕 : 出雲の熊野から、冊尊の神霊を賢木に憑けて紀伊の熊野へ遷祀する際に、その霊木を捧持した者の姓を玉木と称したとある。これに就いては、鈴木重胤翁の「日本書紀伝」に詳細なる考証がある。参照せられたい。 ; 〔註一四〕 : 現在では、タタルと云う語は、神の報復とか、懲罰とかいう意味に解釈されているが、古くタタルとは、神の出現という意味に用いられていたのである。信州諏訪神社には「七たゝへ」の木とて、松たゝへ、檜たゝへなどもあるが、これは諏訪神が、是等の樹木に憑って、出現するということなのである。 ; 〔註一五〕 : 我国の神木思想は、民俗学的には、かなり重要な問題であるが、又かなり面倒な問題なのである。私も健康が許したら、そのうちに纏ったものを書いて見たいと思うている。 ; 〔註一六〕 : 「杖立伝説」に就いては、柳田先生の「杖の成長した話」が民族(第一巻第一号)に、「挿木伝説」の一班に関しては同先生の「楊枝で泉を卜する事」が同誌(第一巻第二号)にある。共に参照を望む次第である。 ; 〔註一七〕 : 伴信友翁の「正卜考」の余説として「波々迦考」がある。それを参照されたい。 ; 〔註一八〕 : 「古事記伝」巻八(同上)。 ; 〔註一九〕 : 前掲の「正卜考」に見えている。 ; 〔註二〇〕 : 柳田国男先生著の「雪国の春」に載せた「樺皮の由来」に拠った。 ; 〔註二一〕 : 聖霊迎えのために、墓地で火を焚く信仰の起原は、墓地を暖める思想——即ち人体の冷却は死であるから、これを暖めれば復活すると考えたことにも関係がある。詳説は差控えるが、此の事は考慮のうちに入れて置くべきである。 ; 〔註二二〕 : 「上閉伊郡土淵村郷土誌」その他に拠る。 ; 〔註二三〕 : 「平内志」。 ; 〔註二四〕 : 民族(第四巻第三号)有賀喜左衛門氏の「炉辺見聞」に詳記してある。 ; 〔註二五〕 : 「三州吉田領風俗問状答」に拠る。 ; 〔註二六〕 : 「紀伊続風土記」巻八二。 ; 〔註二七〕 : 「平泉志」。 ; 〔註二八〕 : 「十方庵遊歴雑記」初編(江戸叢書本)。 ; 〔註二九〕 : 「冠辞考」(賀茂真淵全集)。 ; 〔註三〇〕 : 前掲の「冠辞考」に引用してある。 ; 〔註三一〕 : 我国の近海に鰐は居ぬ。従って古典に現われた鰐は鮫であると言われている。白鳥庫吉氏は此の説を称えるお方であって、私もそれに賛成する者である。 ; 〔註三二〕 : 明治二十九年に島津家で発行した「地理纂考」に拠った。 ; 〔註三三〕 : 片巫肱巫に就いては、片を県のカタと連想して、田を祈禱する巫女、肱巫はこれに対して畑の巫女などと云う珍説さえある。 ; 〔註三四〕 : 同地出身の学友小山勝清氏の談。 ; 〔註三五〕 : 同地出身の友人橋本実朗氏の談。 ; 〔註三六〕 : 橘守部翁は「鐘のひびき」において珍説を提出しているが、これは異説を立つるに急であって、全く原義を失うたものである。 ; 〔註三七〕 : 「津島紀事」のそれは、同地方の民俗を以て「古語拾遺」を推測したものと考えたい。猶お「津島紀事」には、異本が私が見ただけでも、三種ある。注意せられたい。 ; 〔註三八〕 : 私の友人である下野国安蘇郡舟津川村の医師武藤隆秋氏の家は、代々漢方医であったが、氏の談に、家伝の婦人用の秘薬は、此のアヲジで製したものだということである。 ; 〔註三九〕 : 「古史通」巻五(新井白石全集本) ; 〔註四〇〕 : 「一ツ物」に就いては「考古学雑誌」第十巻第一号に拙稿を載せたことがある。そのうちで、鵜の羽を産屋に挿したことに関しても述べて置いた。今その雑誌が手許に無いので、記憶のままで記した。参照をねがえると仕合せである。 ; 〔註四一〕 : 京都で発行した「郷土趣味」第二〇号に拙稿「蟹守土俗考」が載せてある。発行部数が少いので一寸手に入れにくい雑誌ではあるが、これに詳しく私見のあるところを述べて置いた。 ; 〔註四二〕 : 民族(第三巻)に連載したニコライ・ネフスキー氏の「月と不死」の論文は、この伝説の研究である。 ; 〔註四三〕 : 「淡海温故録」巻一。 ; 〔註四四〕 : 「西蠣波郡紀要」。 ; 〔註四五〕 : 「駿国雑誌」巻二四ノ上。 ; 〔註四六〕 : 「裏見寒話」巻九。 ; 〔註四七〕 : 「岡山新聞」大正七年六月分。 ; 〔註四八〕 : 「郷土趣味」第一一号の表紙絵及び記事。 ; 〔註四九〕 : 「郷土研究」第二巻第一〇号。 ; 〔註五〇〕 : 石信仰に就いては柳田先生の「石神問答」を参照されたい。 ; 〔註五一〕 : 伴翁の「正卜考」に見えている。併し、是等の石占のうちには、足で蹴る、手で投げる方法も加っていたものと見るべきである。 ; 〔註五二〕 : 我国の土信仰に就いては「郷土趣味」第一八号に「砂撒き」と題して、私見を発表したことがある。かなり複雑している問題なので、簡単に説くことは出来ぬ。 ; 〔註五三〕 : 弟猾が女性であることは、学友折口信夫氏から教えを受けた。 [[Category:中山太郎]]
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