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日本巫女史/第二篇/第一章/第二節
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[[日本巫女史]] [[日本巫女史/第二篇|第二篇 習合呪法時代]] [[日本巫女史/第二篇/第一章|第一章 神道に習合せる道仏二教]] ==第二節 巫道に影響した仏法の教相と事相== 欽明朝に仏教が公けに渡来し〔一〕、奈良朝に夙くも端を発した本地垂跡説は、平安朝において漸く完成し、神仏一如の教えは弘く通じ、和光同塵の実は普く行われるようになった。而して此の間にあって仏法の教相と事相とは、我が巫道に甚大なる影響を与え、遂に「<ruby><rb>法師巫</rb><rp>(</rp><rt>ホウシミコ</rt><rp>)</rp></ruby>」と称する、巫仏一体の実行者さえ出すに至った〔二〕。 元来、我国に仏教が輸入された当時は、専ら宮廷または貴族の信仰に限られていて、殆んど一般民衆とは没交渉の状態に置かれてあった。従って此の仏教が、広く民間信仰の対象となるまでには、長い年月を経過してからであることは言うを俟たぬ。そして少数の貴族の手から多数の民衆の手に移る間には、時勢の暢達と、人文の発展とに促されて、同じ仏教でありながら、幾度か信仰の対象も変遷し、教理や儀軌の消長も伴うたのである。奈良朝の小乗仏教期には、薬師と観音であって、主として加持祈祷が行われ、平安期の大乗仏教期には、大日と弥勒であって、儀軌は前期を承けた上に、更に複雑せる加持や祈禱が続けられていた。鎌倉期になると、阿弥陀と妙見、室町期には地蔵尊が崇敬されていた。勿論、此の区別は、単にその時代における信仰の中心となったものを、概括的に挙げただけであって、起伏こそあれ各仏ともに相当の信仰を維いでいたことは言うまでもない。本地垂跡説が民心を支配するようになってから、我国の神祇の本地仏なるものにも、此の推移が窺われるのである。山本信哉氏の研究によると、伊勢皇大神の本地仏なども、大日、観音、弥陀の三変遷を経たということである〔三〕。而して此の本地仏の推移が、民間信仰の反映であることは見やすい帰結である。 此等の仏教にあって、就中、我が巫道に深長の交渉を有しているものは、僧最澄によって唱えられた天台宗と、僧空海によって創められた真言宗との二宗であって、これに次いでは、少しく時勢は降るが、僧日蓮が弘めた法華宗の、殊に加持方面を伝えた中山流(この流儀は元修験道から出たものである)の祈禱である。而して此等の仏教と、巫道の関係は、かなり複雑したものが存するので、左に項目を分けて、管見を記述することとした。ただ懼るることは、私は仏教に就いては、全くの無智であるために、説くに正鵠を失い、論ずるに軌道を脱し、飛んでもない見当違いや、藪睨みに陥ることがありはせぬかと思う点である。幸いに是正を仰ぐことが出来れば、独り私の仕合せばかりではないのである。 '''一、仏教の促成せる巫女の二潮流''' 原始神道は、祭神の墳墓より発生したことを如実に立証しているのであるが、平安朝頃から、仏教が専ら屍体の埋葬を掌り、墳墓の監理をするようになったので、神道は是等の行き掛りから、従来とは反対に、屍体に近づき、墳墓を扱うことを穢れとして、極端に忌み嫌うようになってしまった。これには神道対仏教を中心とした、政治上の争いなども含まれていて、常に両者の間には柄鑿相容れぬものがあるように導かれて往った。而して此の結果は、仏教が弘通されればさるるほど、両者の距離が遠くなり、神道は生を尚ぶもの、仏教は死を迎えるもの、神社は清きもの、寺院は穢れたものという、対蹠的の地位に置かれるようになったのである。併しそれと同時に、一方においては、神仏一如であるという、本地垂跡説が発達していたのであるから、当時の思想界は複雑でもあり、且つ混沌としていたのである。 斯うした信仰と世相とは、巫女の態度を、神仏いづれにか決定しなければならぬ機運となって来た。勿論、巫女はその出自から云うも、その職務から見るも、当然、神社に附属しているのであるから、今更に態度を定むべき必要などのあるべき筈はないのであるが、本地垂跡の信仰が一般に考えられるように来ては、そうばかりも言っては居られず、これに加うるに、古くは、禰宜でも、祝でも、女性が主となっていたのが、時勢につれて、男性が割り込んで来て、当時は却って女性が従となってしまった関係などもあり、神社における男女の職掌の競争は、漸次、男性に有利であって、女性に不利の事のみ多かったのである。「八幡愚童訓」は後出(室町期)の書籍である上に、日本一の託宣好きの八幡宮の事を記したものだけに、そのまま無条件で信用することは出来ぬけれども、僧道教の事件に就き、和気清麿が神託を受けし光景を叙するうちに、 : 爰清丸、宇佐の勅使に参じたりしとき、女禰宜が託宣を信ぜざりしかば、御宝殿動事一時計にして、忽ちに御殿の上に紫雲そびき、中より満月輪の如して出まします(中略)。清丸汝託宣を不信、女禰宜が奉仕する元由を知らずや否、女禰宜は受職灌頂にかなふ者を撰仕ぞ、かの位とは妙覚朗然の位に相叶ふ、弥陀仏の変化の御身也(中略)。女禰宜までも軽しむべからず可恐々々(群書類従本)。 とあるのは、極端にまで神仏が雑糅されているけれども、女禰宜が軽視されたことだけは、斯うした事も在ったろうと合点されるのである。而して更に「類聚三代格」巻一に載せた左の太政官符は、女性の禰宜や祝が、男性のそれ等のために圧迫されていたことを証明するものである。 : 太政官符 : 去天長二年十二月二十六日符偁、承前之例、諸国小社、或置祝無禰宜、或禰宜祝並置、旧例紛謬、准拠無定、加以或国独置女祝、永主其祭、左大臣宣旨、自今今後禰宜祝並置社者、以女為禰宜、但先置者令終其身者云々(下略)。 : 貞観十年六月二十八日(国史大系本)。 職務の圧迫は直ちに給分の減少を意味しているので、巫女は従来の如く、神社に属して、高く浄く——併し生活の不安に襲われながらも世に処して往くか、これに反して、家の歴史を棄て、神社に離れて、低く汚く——併し生活には、多少の余裕を有して世渡りするかの岐路に立たされたのである。而して此の結果は、神社に属する「<ruby><rb>神和</rb><rp>(</rp><rt>カンナギ</rt><rp>)</rp></ruby>系の<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>」と、神社を離れた「<ruby><rb>口寄</rb><rp>(</rp><rt>クチヨセ</rt><rp>)</rp></ruby>系の<ruby><rb>市子</rb><rp>(</rp><rt>イチコ</rt><rp>)</rp></ruby>」との二つに分れるような趨勢となり、かくて此の区別は、千余年の歴史を通じて、現代にまで及んだのである。 '''二、霊魂観の進歩と口寄せ呪術の発達''' 仏教の渡来は、我国の霊魂観及び来世観に、一段の飛躍的進歩をなさしめた。神は人の死して祀られたもの、人は死ねば夜見の国に往くものと単純に考え、魂は荒魂と和魂とを体とし、奇魂と幸魂とを用とするものと漠然と信じていたところへ、仏教の高遠なる教理によって、分霊の思想を知り〔四〕、来世における地獄と極楽の生活を教えられたのは、全く一種の驚異として迎えたことと思う。而して此の霊魂観は、巫女をして、冥界に居る霊魂を、何時でも呼び出し、又は遠隔の地に生ける人の魂を招ぎ寄せて、これと自由に談話を交えることが出来るという思想を懐かせ、更にこれを呪術として発達させるまでに至ったのである。 勿論、此の呪術は古代の文献にこそ見えていぬが、霊魂の不滅を信じ、併せて幽界との交通を信じていた我が民族の間にも存していて、巫女が此の種の呪術を好んで行い来たことと想われるし、殊に道教の影響を受けて、次第に此の種の呪術も巧妙になったことと考えられぬでもないが、併しながら我国の巫女は屡述の如く神その者であり、又は神の代理者でもあって、霊媒者としても極めて狭義の活動に制限され、他界に居る死者の魂を自在に呼び出したり、遠方に在る生者の魂を随時に招ぎ寄せたりして、これと交話するというが如き広義の活動は為し得なかったのである。更に換言して、詳しく述べれば、我国の巫女は道教によって弦寄せ(即ち弓弦をたたいて神を寄せること)の呪術を知ったが、これ以外の口寄せの呪術は余り深くは知らなかったのである。それを仏教の霊魂観や来世観や、更に天台真言の両宗が行った加持祈祷の事相を学んで(是れには猶お修験道と巫女との関係を知らねばならぬが、それに就いては後に述べる)漸く口寄せの呪術を知るに至ったのである。 由来、我国の文献で、口寄せという<ruby><rb>術語</rb><rp>(</rp><rt>テクニカル・ターム</rt><rp>)</rp></ruby>の用いられたのは、管見の及ぶ限りでは、平安朝の「栄華物語」が最初である。即ち同書「後悔大将」巻に、『神のまことそらことをも聞むとて、左近のめのと御<u>くちよせ</u>にいでたつ(中略)。この<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>カウナギ</rt><rp>)</rp></ruby>たゞ泣きに泣きて』云々とあるのがそれであって、これに次いでは、同期の藤原明衡の「新猿楽記」に『四ノ御許者、<ruby><rb>覡女</rb><rp>(</rp><rt>カムナギ</rt><rp>)</rp></ruby>也、卜占、神遊、<ruby><rb>寄絃</rb><rp>(</rp><rt>ヨリツル</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>口寄</rb><rp>(</rp><rt>クチヨセ</rt><rp>)</rp></ruby>之上手也』と見え、後世になると、梓ミコと、口寄せとが、彼等を呼ぶ有力なる二代名詞とまでなったのである。 仏徒である僧尼が、巫女の領域に立ち入って、猖んに呪術を敢てしたことは、古代からの陋習であった。「続日本紀」巻七養老元年夏四月に詔して、 : 方今、僧尼輙向病人、令家詐禱幻怪之情、戻執巫術逆占吉凶、恐脅耄穉云々。 と宸戒を加え、次いで「養老令」においても、固くこれを禁断し、僧尼令に左の如く規定してある。茲には便宜のため「令集解」から摘録する。 : 凡僧尼卜相吉凶{謂、灼亀曰、卜視地曰/相、占筮亦同(中略)。}及小道{謂、厭符之類也(中略)穴云、/小道、謂、符造左道是也云々}巫術{謂、巫者之方術、既是遙邪多端、不可具/言(中略)朱云、巫術、謂祭神而療病耳/云/々}療治者皆還俗、其依仏法持呪救疾、不在禁限{古記云、持呪謂経之呪也、道術符/禁、謂道士法也、今辛国連行是云々} これに徹するも、僧尼の輩が巫女的呪術を行った事が知られると共に、仏教と巫道とが如何に密接に習合されていたかが窺われるのである。而して更に注意すべきは、前掲の最後の脚註に、『古記云、持呪謂経之呪也、道術符禁、謂道士法也、今辛国連行是』とある一節である。此の辛国連とは、有名な役行者(修験道の開祖と云われている)を讒して伊豆へ流したと伝えられている辛国連広足の一族と思われるので、此の頃において既に、仏教と巫道と修験道との三つが、相当に習合され混糅されていた事を証示する記事として、関心すべきものがある。「枕草子」に、見苦しきもの、法師陰陽師の<ruby><rb>紙冠</rb><rp>(</rp><rt>カミカウフリ</rt><rp>)</rp></ruby>して祓したると記し、「紫式部集」に、弥生の朔日河原に出でたるに、側の車に法師の紙を冠にして、<u>はかせ</u>だちたるを悪みと載せ、「宇治拾遺物語」巻十二に、爰に法師陰陽師、紙冠を被て祓するを見つけて云々とあり、更に「古今著聞集」に、藤原基俊が郊外の道に小堂の在るを見て、六歳ばかりの小童にその名を問いしに「やしろ堂」と答えたので、基俊口吟に「此の堂は神か仏かおぼつかな」と云うと、小童とりあえず「ほうしみこ(法師巫)にぞ問ふべかりける」と下句を答えたとあるように、此の三者は殆んど区別することの出来ぬまでに、民間信仰としては融合渾成されたのである。 かく仏教に導かれ、道教に誘われて、巫女の有していた固有の呪術は、漸を追うて失われ、形式も、内容も、道教化し、仏教化する余義なき道程を辿ったのである。「古事記」第三に、恵心僧都が大和の金峰山に正しき巫女ありと聞いて、ただ一人にて京都より同地へ赴き、心中の祈願を占えと頼みしに、その巫女の<ruby><rb>歌占</rb><rp>(</rp><rt>ウタウラ</rt><rp>)</rp></ruby>に『十億万土の国々は、海山隔て遠けれど、心の道だに直ければ、つとめて到るとぞきけ』と占うたので、随喜の涙を流して帰洛したとあるが、京まで盛名を馳せた正しき巫女にあっても、その言うところは全く仏臭き文句であった。他の正しからざる巫女の仏教化せる、又た以て知るべきである。 '''三、巫女の守護神から帰依仏への過程''' 祖先信仰を基調とした巫女の守護神は、記述の如く、始めは祖先を葬った墓地を人格化し、後にはその土塊を以て造った<ruby><rb>人形</rb><rp>(</rp><rt>ヒトガタ</rt><rp>)</rp></ruby>であって、これが呪力の源泉であると同時に、巫女の験者たる事を保証してくれたのである。然るに、仏教が巫道に習合されるようになってからは、此の守護神にまで変動を来たし、後には帰依仏がこれの代用となってしまった。迥かに後世の記録に見えた「<ruby><rb>後</rb><rp>(</rp><rt>ウシ</rt><rp>)</rp></ruby>ろ<ruby><rb>仏</rb><rp>(</rp><rt>ホトケ</rt><rp>)</rp></ruby>」なるものは、巫覡の徒が共通して用いた呪源であったように思われるが〔五〕、それが大昔から存したものか否かは判然しない。「三河雀」巻三に、 : 信州善光寺に通夜せる僧の談に、某は羽黒山の者なるが渡世の業に後ろ仏と申す外法を使ひ侍りしが、金銀は心の儘にしてたぐる、富貴なる者には後ろ仏に申して、即座に悩し奇異なる術を使ひ、身の栄華を極るは第一の重宝にて侍れど、常に我身に後ろ仏えみつき、棹投る間も放れず、此苦み堪え難く(中略)後ろ仏を笈に入れ犀河に投入れ、善光寺に来り二六時中念仏す云々(国書刊行会本)。 とある。これによれば、「後ろ仏」は、修験と、仏法と、巫道の三者に関係を有っていたようである。更に「平家物語」巻一赦しの文の条に、 : こはき<ruby><rb>御物</rb><rp>(</rp><rt>オンモノ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>気</rb><rp>(</rp><rt>ケ</rt><rp>)</rp></ruby>どもあまたとり入奉る、<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ヨリマサ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。巫女)明王(中山曰。不動明王)の<ruby><rb>縛</rb><rp>(</rp><rt>バク</rt><rp>)</rp></ruby>にかけられて、あらはれたり。 云々とあるのは、間接ながらもこれを示唆しているものである。而して後世の巫女は、十三仏と称するものの一仏を帰依仏とし、これを一代の守り本尊として、呪力の根源と為し、或は此の仏と結婚(この詳細は[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に述べる)する巫女さえあって、十三仏が巫女の帰依仏となっていたのであるが、され此の十三仏なるものが、民俗学的には、誠に面倒な問題であって、我国において、<ruby><rb>何時頃</rb><rp>(</rp><rt>いつごろ</rt><rp>)</rp></ruby>に、誰が、何の理由があって、十三仏を定めたかさえ判然せぬのである。「寂照堂谷響集」巻六によれば、 : 十三仏十王逆修次第云々。不知誰定、按本朝文粋及性霊集等達噺願文、上古無定法、想中古人効道明蔵川遺意定之矣(大日本仏教全書本)。 と断じ、南方熊楠氏は『仏説大阿弥陀経上巻に、弥陀仏の十三の名ある外、日本に謂う十三仏は無い』と語られ、富田斅純師の「秘密百話」には、十三仏は立川流の大成者たる文観僧正の作ったもので、十三の数は胎蔵界十三大院に<ruby><rb>象</rb><rp>(</rp><rt>かたど</rt><rp>)</rp></ruby>ったのであると言われている。是等の諸説によると、十三仏は和製ではあるが、割合に新しいものであって、奈良朝や平安朝の巫女が帰依仏としたという証拠にはならぬのである。 併しながら、十三仏と押しくるめて言うことは、古くないにせよ、その仏の一々は、仏教の渡来と共に存していたのであるから、その後に巫女が、その一々の仏を捧持し、これを守り本尊としたであろうという仮説は成り立つ訳である。「塩尻」巻三七に、 : 今、巫覡の祈禱とてするは、多くは密家の行法と習合の事なり(中略)。神家は祓修業と称して神人を多く集め、同音に祓の祝詞を唱え、一度毎に手ならしなんどして、千度万度の祓なんといへるいと心得ず(中略)。今社家の祓は僧の千部万部の経を読誦するやうに心得ぬるは、誠に過らずや。 とあるは、極めて微温的ではあるが、巫仏の習合に触れているので、敢て抽出した。仏教に門外漢である私は、これ以上に突っ込んで言うべき材料を持ち合わせていぬので差控えるが、兎に角に、古く巫女が、守護神から帰依仏へ乗り代えたことだけは、事実と見て大過はないようである。 斯うして仏教の影響を受けたとすれば、巫女の呪法も従って変化せざるを得なかったと見え、古代には存せぬような所作が、極めて断片的ではあるが散見している。而してその重なるものは、(A)巫女ノ縛ということ、(B)巫女が仏の供養を営んだこと、(C)巫女の呪具に現われた仏教的要素などがそれである。 '''A、巫女ノ縛と不動のから縛''' 前に引用した「平家物語」巻一に、巫女ノ縛のことが見えているが、これに就いて、山岡浚明翁の「類聚名物考」には、 : 巫女縛、これは巫女の呪術に<ruby><rb>憑座</rb><rp>(</rp><rt>ヨリマシ</rt><rp>)</rp></ruby>を立て、その霊をあらはし縛束して責め伏するを云ふ。不動尊の修法にても<ruby><rb>縛</rb><rp>(</rp><rt>バク</rt><rp>)</rp></ruby>の索とて、物を縛りて動かさぬことあるに似たり。俗に不動の<u>から</u>縛りと云ふ。 と解説している。此の記事に従うと、巫女ノ縛は不動尊修法の<u>から</u>縛りと関係があるようで、私の此の場合の例証として誠に都合が好いのであるが、茲に併せ考えて見なければならぬ一問題が存している。それは他事でもない。鳥居龍蔵氏が朝鮮の<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ムーダン</rt><rp>)</rp></ruby>に関して調査したところによると、<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ムーダン</rt><rp>)</rp></ruby>は、被術者の病気が甚だ重く、容易に荒魂(中山曰。病魔の意)が体内から去らぬ場合には、麻布の長いものを<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ムーダン</rt><rp>)</rp></ruby>の身体に巻きつけ、これに荒魂をおわせて退散せしめるそうである〔六〕。而して我国と朝鮮との巫縛を比較すると、前者は<ruby><rb>憑座</rb><rp>(</rp><rt>ヨリマシ</rt><rp>)</rp></ruby>として縛され、この苦しみによって禍を人に加えた物の気を払うのであって、後者は鳥居氏の説かれた如く、麻布に病魔を付ける——我国で云えば<ruby><rb>贖物</rb><rp>(</rp><rt>アガモノ</rt><rp>)</rp></ruby>の思想であって、その間に相違のあることは言うまでもなく、且つ我国のは仏臭く、朝鮮のはシャーマン臭く考えられるのである。 斯う詮議してから、更に元へ立ち戻って、前の「平家物語」の記事を見直すと、既に山岡翁が云われたように、不動の修法に類似したものと信じられるのである。「保元物語」に、久寿二年、鳥羽法皇が熊野へ参詣した折の光景を記して、 : 山中無双の<ruby><rb>巫</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>を召し出し、朝より権現を降ろし参らするに、午の時まで振りませ給はねば、古老の山伏八十余人、般若妙典を読誦して祈誓やや久し、巫も五体を地に投げ肝胆を砕く云々。 とあるのは、シャーマンの呪法に似通ったところがあるようだが、これも修験道の護法附けの呪法を参照すると、寧ろ此の方の影響を受けていることが合点されるのである。 '''B、仏の供養を巫女が営む''' 巫女が亡者に親しみを有していることは、既述の如く、古くその屍体を扱い、又た黄泉国への道しるべまでした関係から見て、少しも不思議ではないのであるが、これが仏教と習合されてからは、愈々その親しみの度を加えたようである。而して私の不詮索から、此の種の文献は、古いものから発見することは出来なかったが、併し斯うした民俗は、突如として起るものではなく、必ずやその起源は、遠い昔に属することと信ずるので、その資料を地誌類から覓めるとした。 「出羽国風土略記」巻四に、出羽国の三崎山は、飽海・由利の両郡堺に跨っているが、山頂に三崎神社(祭神は素尊)が祭ってある。俊頼の<ruby><rb>夫木集</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>に宿世山とあるのは、此の山だと云うている。然るに、此の地方の民俗として、横死者あるときは、塩越(由利郡)の巫女神職を頼み、亡者の菩提を祈る。神壇を構え、幣帛湯釜を飾り、幣の垂紙に島の形を剪る。巫女幣笹を執って、熱湯に浴し、横死の時の苦しみ、悪趣に堕ちて責を受くるなどと語ると、死者の妻子を始め、その座に並居る者は、これぞ亡者の霊魂が、巫女に乗り移りて託するなりとて哭泣する。神職は、巫女の詞に応じて、今日行うところの功徳を以て、必ず菩提に至るべしと申す。事終れば、神職より死者の霊号を送る。願主これを受けて悦ぶが、世に此の事を「三崎はなし」と云う。後に仏徒から苦情が出て、此の事は稀れになった(以上摘要)。 而して此の記事は、前に挙げた土佐のタテクラヒの民俗と共通している点もあるが、これは横死者に限って行うというところに、非常なる相違がある。横死者が、屍体の始末または埋葬の方法に就いて、惨酷なる取扱いを受けたことは、既述[[日本巫女史/第一篇/第二章/第一節|辻占の発生の条]]に述べたので、再びそれを繰り返すことは見合せるが、更に此の記事中には三つの暗示が潜んでいることに注意せねばならぬ。即ち第一は、横死者に限って此の事を行うのは何故か、第二は、何故に此の事を「三崎はなし」というか、第三は、此の事は巫女が持ち伝えた古俗そのままか、それとも仏教の儀式を学んだものかと云う点である。 併しながら、それを言い出すと、説明が他岐に渉るので茲には省略し〔七〕、更に此の種の民俗を書きつづけるとする。陸中国江刺郡の各村落では、死者の葬儀が終り、大概五日目に法要を行い、会葬者に馳走をする。その夜は講中の者が集り、神式にては奏楽、仏式にては念仏をなし、又巫女を迎えて口寄せを聴くのが慣習となっている〔八〕。この行事こそ、琉球の<ruby><rb>魂</rb><rp>(</rp><rt>マブイ</rt><rp>)</rp></ruby>アカシと全く同じ信仰であって、古く巫女が死者に親しみを有していた徴証である〔九〕。羽後国仙北郡の村々では、死者の葬礼の終った夜に巫女を招き、口寄せさせて死人の語る体をなさしめ、遺族や親戚も額を鳩め涙を流して聴聞する〔一〇〕。秋田市では、春の彼岸になると、各家々で巫女を頼み、口寄せして亡者の便りを聴くことになっている。田植頃になると、農家は繁忙のために此の事を行わぬが、若しそれでも行うときは、柳に<ruby><rb>幣</rb><rp>(</rp><rt>シデ</rt><rp>)</rp></ruby>を切りかけて門に高くかかげ、此の事を遣っている目標とする〔一一〕。岩代国河沼郡冬木沢村(会津若松の市街)の八葉寺は、九品念仏の一脈で、空也上人が開基した古刹と云うている。俚俗この地を会津の高野と称え、毎年旧七月朔日より同十一日までの遠近の男女相集り、死者のために遺歯を堂中に納め、奥ノ院に香花茶湯を奠し、盂蘭盆会を営む。この時諸村より多くの巫女集り来たり、亡者の口を寄せて過去将来の事を語る。又それを聴かんとて参詣する者が夥しく多い〔一一〕。 而して是に類した民俗は、まだ各地に存しているが、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]にても述べる機会があるので、今は概略にとどめるも、斯うした民間信仰は、巫道が仏教に征服されたことを意味したものとして見るとき、そこに限りなき興味が湧くのである。全体、奈良朝から平安朝へかけての本地垂跡説の発達した事情に就いては、必ずしも平田篤胤翁が「俗神道大意」や、その他の著述で論じたように、仏徒がその教理を弘通するために、神道を利用したばかりではなく、この反対に、神道の方から仏教の方へ歩み寄った事情さえ存していた。当時、仏法を重んじ、神道を軽んずる為政者の宗教政策は、仏教を興隆に導くのに急であったために、神道はかなり危険の地位に置かれていたのである。奈良朝の初め頃から、宇佐八幡神が頻りに託宣して神仏の掛け合を慫慂し、遂に東大寺大仏の開眼式に、遙々と九州から出かけて来て、今に手向山に八幡宮を残したなどは、よく此の間の消息を伝えている。聖武天皇が、 : 天下の勢ひを有する者は朕なり、天下の富を有する者も亦朕なり、此の勢ひと此の富とを以て大仏を建立せむ。 と詔し、畏くも躬ら土運びまでせられた大勢から言えば、神道は仏法の前に兜を脱がざる破目に立たせられていたのである。然も此の大勢は、かなり永い歳月を通じて保たれていたのであるから、巫道が仏法に降参して、巫女が尼僧に似たような所作を演ずるなどは、寧ろ当然の帰結と言うべきである。宇佐八幡神を日本一の託宣好きとなし、その分霊が僧行教によって石清水に祀られ、これの身体が僧形であったことや、此の他の名神大社の殆んど悉くが神前に読経したことや、神宮寺が建立せられたことや、神が仏の頤指のままに三十番神にまで利用されたことなども、決して偶然ではなかったのである。 '''C、巫女の呪具に現われた仏教的要素''' 後世の巫女の中で、或る流派に属する者は、イラタカの珠数と称する物を所持していて、他の巫女が弓弦をたたき、又は笹の葉で顔をたたきながら、呪文を唱えて神降ろしをするように、その数珠の<ruby><rb>珠</rb><rp>(</rp><rt>タマ</rt><rp>)</rp></ruby>を手で一つ一つ繰りながら神懸りの状態に入る方法を執っている。私の寡聞では、現在イラタカの珠数を用いる巫女は、秋田県を中心としている「座頭嬶」と称する巫女及び宮城・岩手両県のイタコの外には余り多くを耳にせぬが、併し関東を中心とした巫女も、彼等の仲間で「切り珠数」と称して、普通の珠数を中央から切り放した様な物を用い、然もこれで占う事を俗に「珠数占」と言っている所を見ると、古くは奥州のそれの如く、イラタカの珠数を用いていたのではないかと考えさせられるのである。 而してイラタカの珠数に就いては、昔から学者の間に異説があり、イラタカとは珠数の<ruby><rb>梵語</rb><rp>(</rp><rt>サンスクリット</rt><rp>)</rp></ruby>だなどいう考証があるが〔一二〕、これは修験者が用いた<ruby><rb>最角念珠</rb><rp>(</rp><rt>イラタカノネンジュ</rt><rp>)</rp></ruby>と同じ語原で(但し修験が先きで巫女が後か、或は此の反対に巫女が先で修験が後かは後に述べる)あろうと思う。そして此の珠数は挿入の写真で示したように、私の見たものは、長さ八尺、<ruby><rb>無患子</rb><rp>(</rp><rt>ムクロジ</rt><rp>)</rp></ruby>の珠の数は三百を本義とし(写真のは5つほど失われている)、別に「装束」と称して双方の<ruby><rb>房</rb><rp>(</rp><rt>フサ</rt><rp>)</rp></ruby>の所に、羚羊の上顎骨、狐の上顎骨(下顎骨を用いぬのは見た眼が悪いからだという)、羚羊の角、熊の牙、鷲の爪、及び鷹の爪、貝が二つ、これに変り銭(絵銭及び文字の異った変り銭)と、秋田藩で発行した鍔銭とが着けてあった〔一三〕。此の珠数は是を用いる巫女にとっては、唯一の呪具であると同時に、呪力の根元となっているのであるから、常に尊崇して、座右を放さず、師匠が死ぬ時に弟子に伝え、以て法統の霊物としたのである。これに反して、切り珠数の方は頗る簡単であって、珠は普通のと異り、丸くなくしてやや平たく、恰も十露盤珠のようで、数は日本総国を象り六十六とし、外に日神月神を象って、水晶の大きい珠を二つ加えている〔一四〕。珠数の説明はこれで大体を尽したが、さて問題となるのは、巫女が此の種の珠数を呪具として用いたのは、仏法に学んだのか、修験道に教えられたのか、それとも巫女独特の理由があったのか、三つのうちどれが正しいかと云うことである。 これに対する私見を簡単に述べれば、既述の如く我国の巫女は、遠き狩猟時代から、或る種の獣骨禽爪等が呪力を有していることを知っていて、常にそれ等を所持していたのである。詳言すれば、意外なる豊猟によって獲たる、獣骨禽爪(骨爪は禽獣の象徴である)を所持していると、幾度でも豊猟を獲させてくれる(一種の交感呪術である)という信仰を持っていたのである。而して此の獣骨禽爪等の元の意味が忘られて、装身具となれば、即ち曲玉となって(曲玉の古い物が腎臓であることは既述した)、男女の胸辺に懸けられるようになったのであるが、此の間において、独り巫女だけ、古き伝統のままに(元の意義は忘れても)獣骨禽爪等を所持していたところ、仏教の渡来によって珠数を知り、ここに獣骨禽爪等の処置に就いて、<ruby><rb>何時</rb><rp>(</rp><rt>いつ</rt><rp>)</rp></ruby>の間にか二派を生じ、一派は珠数に真似てこれを造り用い、一派はそれを「外法箱」のうちに蔵して用いるようになったものと考える。此の観点から云えば、修験の最角念珠は、却って巫女のそれを模倣したのではないかとさえ思われるが、併しこれは<ruby><rb>筆序</rb><rp>(</rp><rt>ふでついで</rt><rp>)</rp></ruby>に記すべきような簡単の事ではないから、姑らく留保する。 巫女が<ruby><rb>巫鳥</rb><rp>(</rp><rt>シトド</rt><rp>)</rp></ruby>の骨を焼いて占いを行うたこと、及び此の巫鳥が俗に頬白と云う鳥であることは既述を経たが、仏教の渡来と、密宗の事相とは、遂に此の巫鳥を時鳥としてしまった。全体、時鳥の考証は頗る厄介な問題であるが、それは本間に交渉が無いので省略するも〔一五〕、此の鳥が巫鳥に附会されるに至ったのは、別名を<ruby><rb>死出</rb><rp>(</rp><rt>シデ</rt><rp>)</rp></ruby>ノ<ruby><rb>田長</rb><rp>(</rp><rt>タオサ</rt><rp>)</rp></ruby>とも、魂迎へ鳥とも、又た無常鳥とも称したことに由来するのである。死出ノ田長に就いては「伊勢集」に『死出の山越えて来つらむほととぎす、恋しき人のうへ語らなむ』とあるのが古く〔一六〕、魂迎え鳥のことは「藻塩草」巻十に見え、無常鳥に関しては、我国で偽作された「仏説地蔵菩薩発心因縁十王経」の一節に、 : 一切衆生、臨命終時閻魔法王遣閻魔卒、一名奪魂鬼、二名奪精鬼、三名縛魄鬼、即縛三魂、至門関樹下、樹有荊棘、宛如鋒刃、二鳥栖掌、一名<u>無常鳥</u>、二名抜目鳥(中略)。化成{{{臣ケ}下皿}鳥}{縷鳥}、(中山曰。和名抄には此の字をほととぎすと訓せた)示怪語、鳴<ruby><rb>別都頓宜寿</rb><rp>(</rp><rt>ホトトギス</rt><rp>)</rp></ruby>云々。 とある〔一七〕。是だけでも、時鳥の解釈が頗る面倒であるのに、更に此の上に喚子鳥なるものが、これに附会されるに至って、益々複雑を加えて来て、私などの学問では、全く判然せぬまでに紛糾してしまったのである。 喚子鳥は、他の稲負せ鳥、紅葉鳥と共に、所謂「古今集」の三鳥と称せられる口伝の秘事であって〔一八〕、これ又時鳥にも劣らぬ難物が附会されたのであるから、問題は愈々面倒となったが、伴信友翁は「壒嚢鈔」を典拠として、喚子鳥は即ち時鳥の別名なりと埒を明けてくれた。従って元禄元年に撰集した源為憲の「口遊」に載せたる、 : 与美(黄泉)、止利(鳥)、和加々支毛止爾(我が垣もとに)、奈岐徒奈利(鳴きとなり)、比止美奈支々津(人みな聞きつ)、由久多毛安良志(往く魂もあらし)、謂之鵼鳴時歌云々。 とある鵼の正体は、喚子鳥であって、その喚子鳥は時鳥であることが知れ、延いて「徒然草」に『或る真言の書の中に、喚子鳥啼くとき招魂の法を行う次第あり、これ鵺なり』とある事まで明白になった〔一九〕。さなきだに、時鳥は、一種の霊魂動物として俗信を集めていたところへ、仏説によって更に幽怪化されたので、その結果は巫鳥の地位まで奪うようになってしまったのである。 巫道に影響した仏教の教相及び事相に就いては、まだ記すべき多くの物が残されているが、尽さざる点は第三篇において補うとして、余りに長くなるので此の節を終るとする。 ; 〔註一〕 : 仏教が我国に渡来した年代に就いては、公には欽明朝の一三年ということになっているが、実際は是れより以前に在ることは言うまでもない。仏教学者の間には、此の年代を迥かに古代まで引き上げようと試みる者も少くないが、私の信ずるところでは継体朝の頃ではないかと考えている。 ; 〔註二〕 : 法師巫の平安期の文献に見えたことは、本文中に記して置いたが、更に我国における毛坊主(清僧に対する俗僧ともいうべきもの)は、或は是等の思想から導かれたのも、一原因ではないかと考えたことがある。 ; 〔註三〕 : 山本信哉氏が曾て「歴史地理学舎」の講演で此の事を詳しく述べられた。 ; 〔註四〕 : 我国の古代における分霊の思想は、極めて稀薄なものであった。天照神が皇孫に御鏡を親授して、吾が御霊として斎き祀れとあるのが、それだと言っている学者もあるが、猶お考覈すべき余地があるやに思う。一神が百にも千にも分霊するという思想は、原始神道の上からは明確に知ることが出来ぬ。折口信夫氏は「万葉集」巻一四東歌の「あらたまの塞側(きべ)のはやしに汝を立てて、行きかつましゞ妹をさきだたね」を解釈して、「魂はやしの式を行い云々、此のはやすには分霊を殖し、分裂させる義がある」と、例の氏一流の天才を発揮しているが、私には必ずしも此の歌はそう解釈されぬ。よし又た折口氏の如く解釈するのが古俗の正しきものとしても、分霊を殖す思想は、仏教の影響であって、我が固有のものだとは信じられない。 ; 〔註五〕 : 後ろ仏のことは、前掲の外には、「慶長見聞集」巻八に一例を発見しただけで、外に在ることの耳福に接しない。誰か此の種のことに通ぜるお方の教えを仰ぎたいものである。 ; 〔註六〕 : 大正五年十二月十五日発行の「大阪毎日新聞」の記事に拠る。 ; 〔註七〕 : 我国には、ミサキと称する社名や、地名が、少からず存しているが、此の解釈は、中々に面倒である。それよりも、私として此の場合に考えて見たいことは、高貴の陵墓を、何故にミササギと称するかと云う点である。ミサキとミササギ——何か関係があるのではないかとも思われるので、附記して敢えて後考を俟つとする。 ; 〔註八〕 : 「江刺郡志」。 ; 〔註九〕 : 「日本風俗の新研究」。 ; 〔註一〇〕 : 「秋田風俗問状答」。 ; 〔註一一〕 : 「新編会津風土記」巻八一。 ; 〔註一二〕 : 山崎美成翁の「海録」巻六に「念珠の梵名アラタカと云へり、いらたかは此の転語なり」と載せたのは、好問堂としては、千慮の一失であった。織田得能師の「仏教大辞典」には、珠数の梵名は「鉢塞莫」とある。「塩尻」巻五四に「いらたかの珠数は、密家の故実もありやと、或真言師に問ひしに、是は修験者の具にして、させる故もなし、最角と書ていらたかと読むと答へし」とある。 ; 〔註一三〕 : 私は秋田県出身の鈴木久治氏の秘蔵せるイラタカの珠数を拝見し、且つ写真の撮影まで許してもらい、併せて有益なるお話を沢山聞かせてもらったことは実に感謝に堪えぬ。ここにその事を記して敬意と謝意を表す。因に柳田国男先生が見られたイラタカの珠数は、長さ一三尺、無患子の珠が三百三十、外に装束が付いて居たとあり。又た東京博物館にあるものは、獣骨禽爪等の外に菱の実が付けてあったと「郷土研究」第一巻(二五九ページ)に記してある。 ; 〔註一四〕 : 江戸期に、関八州全部と、奥州と、甲信の一部の巫女頭を代々勤めていた、田村八太夫の最後の巫女である田村常子の談。猶お同家のこと、及び田村常子のことに就いては、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に詳記する。 ; 〔註一五〕 : 伴信友翁の「比古婆衣」巻五に「喚子鳥」及び「しでのたをさ」の詳密なる考証が載せてある。 ; 〔註一六〕 : 時鳥を死出田長というのは、死出はしで(仕出)の転訛で、勧農鳥の意だという説もあるが、深い詮議は前記の「比古婆衣」に譲るとして、今は省略する。 ; 〔註一七〕 : 十王経は偽経ではあるが、我国の作ではないと、「倭訓栞」に載せてあるが、これは本居翁の「玉勝間」にある如く、我国の偽作と見る方が穏当のようである。そして此の偽経が古くから行われたことは、「袖中抄」に僧寂蓮の此の経に関する語が載っていることからも知られるのである。 ; 〔註一八〕 : 喚子鳥の正体は古今伝授の一として、大昔の歌学者にはやかましい問題であると同時に、又一種の米櫃でもあった。私は晋其角の「六つかしや猿にしてをけ喚子鳥」の方で、深いことは知らぬし、又た余り深く知ることを要さぬと思ったので概略にして置いた。 ; 〔註一九〕 : 前掲の「比古婆衣」巻五。 [[Category:中山太郎]]
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