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日本巫女史/第一篇/第七章/第六節
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[[日本巫女史]] [[日本巫女史/第一篇|第一篇 固有呪法時代]] [[日本巫女史/第一篇/第七章|第七章 精神文化に於ける巫女の職務]] ==第六節 民俗芸術者としての巫女== 茲に民俗芸術とは、第一に舞踊、第二に木偶遣い、第三に文身の、三つを意味しているものと承知せられたい。私は此の三つと巫女との関係に就いて記述する。 '''一、舞踊者としての巫女''' 天鈿女命が、磐戸の斎庭において<ruby><rb>俳優</rb><rp>(</rp><rt>ワザオギ</rt><rp>)</rp></ruby>したことが、我国における舞踊の所見であるが、此の一事は少くとも三つの大きな暗示を投じているのである。 その一。俳優とは、言うまでもなく、支那の熟語をそのまま用いたものであるが、此の内容は如何なるものであったかという点である。「釈日本紀」巻七に『俳優万態不可殫記』と載せているが、これも大体を形容したまでで俳優の本質に触れたものではない。而して私見を簡単に言えば、ワザオギは<ruby><rb>態</rb><rp>(</rp><rt>ワザ</rt><rp>)</rp></ruby>を以て<ruby><rb>招</rb><rp>(</rp><rt>オ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎまつるの意で、「日本書紀」の一書に、思兼命は日ノ象——即ち鏡を作らせて<ruby><rb>招</rb><rp>(</rp><rt>オ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎまつり、天児屋命は<ruby><rb>神祝</rb><rp>(</rp><rt>カムホ</rt><rp>)</rp></ruby>きに祝きて、<ruby><rb>招</rb><rp>(</rp><rt>オ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎまつらんとしたのに対するものと見るべきである。換言すれば、磐戸に隠れた天照神を招ぎ(茲には復活の意味が多分に活いている)まつる為に、天児屋命は呪文を以てし、思兼命は鏡を以てしたのに対して、鈿女命は<ruby><rb>態招</rb><rp>(</rp><rt>ワザオ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎしたのである。而して此の態招ぎたる、必ずやシャーマンが行う様に猛烈なる跳躍を試みたのではないかと想われる点もある。「古語拾遺」の鈿女の名を解して『其神強悍猛固故以為名』とあるのは、蓋しその動作に由来するものと見るべきである。 その二。我国の舞踊は、性行為の誇張的模倣に、出発しているのではないかと云う点である。鈿女命が胸乳を掻出し、裳緒を番登に押垂れたとあるのは、その事の実際を考えさせるものがあると同時に、更に想像を逞うすれば、かかる所作が我が古代舞踊の条件ではなかったかとも思われるのである。我国の舞踊の目的は、男子の腕力に対する女子の嬌態であって〔一〕、古く踊手は女子に限られていて、男子はこれに与らなかったのである。我国の祭式舞踊のうちに、女子が秘処を露わす動作の多い事は、私が改めて言うまでもなく、現時においてすら耳にする所である〔二〕。殊に巫女は、性器を利用して呪術を行うことを敢てする勇者である。鈿女命の此の所業は、性器の呪力によって、葬宴の際に襲い来る精霊の退散に備えたことも知らなければならぬが、これと併せて我国の舞踊が、性行為の模倣に起原を有していることも考えねばならぬのである。 その三。神事に交渉の深い祭式舞踊の発明者である巫女は、更に狩猟に関係して、動物の所作を学んで、<ruby><rb>鹿舞</rb><rp>(</rp><rt>シシマイ</rt><rp>)</rp></ruby>、鷺舞等を発明し、又は農業に関係して、旱天には雩踊を、秋収には豊作踊を発明し、或は戦争に従うて士気を鼓舞すべき剣ノ舞を発明するなど、その結果は、祭式舞踊を人間の上に引き下げて、享楽舞踊とまで進化させたのである。 「梁塵秘抄」の四句神歌の一節に『神もあはれと思しめせ、神も昔は人ぞかし』と云うのがある。確に我国の神の多くは、其昔は人であった。而して神それ自身であった巫女の位置が一段と低下して、それが生ける神——即ち神とならぬ以前の人に仕えるようになってからの職務は抑々何であったか。それは決して想像に難いものではないのである。信仰の対象として、霊界に在るべき筈の神々が、盛んに若宮を儲けられたという事象は、果して何事を意味しているのか。然もその答案は極めて簡単である。神となるべき人——即ち神主と巫女との間に挙げられた<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>が若宮なのである。神道が固定して、神と人との距離が遠くなったために、若宮の解釈は、弥が上にも合理的になり、八幡宮の若宮といえば、菟道稚郎子と限られるようになってしまったが、それでは春日社の若宮の由来や、「延喜式」神名帳に載せてある多くの<ruby><rb>若神子</rb><rp>(</rp><rt>ワカミコ</rt><rp>)</rp></ruby>の由来は、説明されぬのである。 巫女は人間を夫とせずして、神と結婚するという思想は、現代にも存しているが、その源流に溯れば、神とは即ち人であった。ただ神であった人と云う意に外ならぬのである。又しても同じことを繰り返すようではあるが、神に対する観念が固定してから、神主とは、神と人との間に介在する<ruby><rb>仲言者</rb><rp>(</rp><rt>ナカコトシャ</rt><rp>)</rp></ruby>のようにのみ合点されているが、<ruby><rb>神主</rb><rp>(</rp><rt>カムヌシ</rt><rp>)</rp></ruby>とは<ruby><rb>神主</rb><rp>(</rp><rt>カムザネ</rt><rp>)</rp></ruby>であって、神その者であったのである。これと結婚することを余儀なくされていた巫女の職務の第一義は、敢て記述するまでもなく、明白である。而して此の職務のうちに、神を<ruby><rb>和</rb><rp>(</rp><rt>なご</rt><rp>)</rp></ruby>め遊ばせる必要から、巫女は歌謡者であらねばならぬし、又同時に、舞踊者でなければならなかった。巫女が民俗芸術の一角である舞踊を受け持っていたのは、これで釈然する。然も此の遺風は、巫女が憑き神を象徴した木偶に対してまで遊ばせ舞わせることを忘れなかったのも、又これが為めである。 '''二、木偶遣いとしての巫女''' 現在行われている人形劇なるものは、支那のそれを夥しきまで受け容れているが、我国には古く固有の木偶の遣い方が在った筈である。「肥前国風土記」基肄郡姫社郷の条に、 : 珂是古知神之在家、其夜夢見臥機{謂久都/毗枳}絡垜{謂多/多利}儛遊出来、壓驚珂是古、於是亦織女神即立社祭之云々。 とあるのは、久都毗枳という名が、後世の久具都(傀儡)と無関係にもせよ、当時、神が木偶の如く儛い遊ぶという思想のあったことを、考えさせる手掛りだけにはなるのである。私は最近に「巫女の持てる人形」と題して、大略左の如き管見を発表した。元より粗笨なものではあるが、此の問題に触れるところがあるので摘記し、併せてその後に考え得たことを増補するとする。 :人間が神を発見したとき、その神の姿を自分達に似せて作ったのが人形(木偶の意、以下同じ)の始めである。祓柱というてもそれが生きた人間であり、蒭霊と言うても、同じくそれが<ruby><rb>人形</rb><rp>(</rp><rt>ヒトガタ</rt><rp>)</rp></ruby>であるのも、此の理由から出発しているのである。 : 関八州を中心として、更にこれに隣接せる国々、及び遠く近畿地方まで活躍した巫女は、信濃国小県郡禰津村大字禰津東町を根拠とした所謂「<ruby><rb>信濃巫女</rb><rp>(</rp><rt>シナノミコ</rt><rp>)</rp></ruby>」なるものであった。同村には明治維新頃までは、四十八軒の巫女の親方宿があり、一軒で少きも三四人、多きは三十人も巫女を養成して置いて、年々諸方へ<ruby><rb>旅稼</rb><rp>(</rp><rt>たびかせ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎに出したものである。(猶これが詳細は[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に記述する)。而して此の信濃巫女は、「<ruby><rb>外法箱</rb><rp>(</rp><rt>ゲホウバコ</rt><rp>)</rp></ruby>」と称する高さ一尺ほど、長さ八寸ほど、巾五寸ほどの小箱を、紺染めの風呂敷を舟形に縫い合せたものの中に入れて、背負うているのを常とし、呪術を行う際には、片手または両手を箱へ載せ、頬杖ついて行うのが習いであった。そして此の箱の中には、一個(又は二個)の人形を入れて置くのが普通で、然も此の人形が呪力の源泉とせられていたのである。 : 然るに此の人形がどんなものであったかに就いては、報告が区々であって判然しないが、(一)は普通の雛だというし、(二)は藁人形だというし、(三)は久延毘古神を形代とした案山子のようだというし、(四)は歓喜天に似た男女の和合神だというし、(五)は犬または猫の頭蓋骨だというし、(六)更に奇抜なのになると、外法頭と称する天窓の所有者であった人間の髑髏というのもある。 : 而して、こうした憶説は、巫女が外法箱の中の物を秘し隠しに隠した為めに生じたもので、私が郷里にいたころ目撃したものは、第三の案山子ようの人形であった。併しこれは、その一例だけであって、これを以て他の総てがそうであるとは決して言われぬのである。何となれば、同じ禰津村の巫女であっても、四十八軒も親方宿がある以上は、それが悉く同じ流儀で、同じ師承のものとは考えられぬからである。現に、信州の北部では、巫女をノノーと云っているに反し、南部ではイチイと云っている。然もこのイチイは、武蔵の秩父地方にも行われているのを見ると、信濃巫女の間にも幾つかの異流があったと考うべきである。 : 巫女の所持する人形が、如何なる手続きで、然も如何なる姿に作られるものであるか、これに就いての古代の見聞は、全く私には無いのであって、僅に極めて近世のものしか——それも漸く二三しか承知していぬのである。併しながら此の二三の例証とても、厳格なる意義から言えば、後世に支那の巫蠱の影響を受けた作法であって、決して我国固有の呪法では無いと考えられるのである。それ故に是等の詳細は、[[日本巫女史/第二篇|第二篇]]または[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]において記述することとし、茲には比較的我国の古俗に近いと信じたものだけを挙げるとした。今は故人となったが、上銘三郎平氏(国学院大学生)が郷里の伝説とて語ったところによると、越中国城端町附近の巫女は、昔は七ヶ所の墓地の土を採り集め、その土を捏ね合せて、丈け三四寸位の人形を拵え、これを千人の人に踏ませると呪力が発生するとて、大概は橋の袂か四つ辻に埋めて置き、千人の足にかかったと思う時分に掘出して箱に収め用いたそうである。そして此の人形を同地方ではヘンナと言っていたが、ヘンナはヒイナ——即ち雛の転訛であるそうだ〔三〕。此の話は、私が前に記述した壱岐国の巫女が、ヤボサと称する墓地にいる祖先の精霊を憑き神とし、併せて呪術の源泉と信じたものと一脈相通ずるものがあるように考えられて、私には特に興味深く感じられた次第なのである。 : 奥州のイタコが持っているオシラ神も、それが人形であることは疑いないようである。そして私の見たオシラ神は、オヒナ——即ち雛の訛語(東北地方ではヒナをヒラと発音し、オヒラと云うている所がある)であって、古くは同じく他の巫女が持っていた人形と異るものでないと信じている。オシラ神は昔は竹で作られ、今では東方から出た紫の桑の枝で作り、然も桑で拵えるのは、此の木の皮を剝いだ匂いが牝口のそれに似ているからだという伝説もあるが、その理由は何れにせよ、人形であったことだけは否まれぬ。それと同時に、オシラ神は古作ほど、人の顔でなくして馬の首であるから、人形ではあるまいと云う説も私には受け容れられぬ。これは巫女の神であったオシラ神が蚕の神となり、更に蚕が馬と結びつけられたのであることを知れば、馬の首の問題は容易に解決される筈である。 : こうして巫女は、生ける神の形代である——否、巫女にとっては生ける神も全く同じと信じていた人形を遊ばせるに、第一に発明したものが呪文から導かれた歌謡であって、第二に工夫したものが人形の舞わし方である。然も此の舞わし方は、曾て巫女が生ける神を遊ばせる折に遣った所作から出ているものであって、我国の舞踊の起原を、性行為の誇張と模倣から見ることの出来る一理由である。かくて神寵が衰えた巫女や、神戒に反いた巫女たちが、巫娼とまで成り下がっても、常に人形を放たず、これが更に<ruby><rb>傀儡</rb><rp>(</rp><rt>クグツ</rt><rp>)</rp></ruby>の手に渡り、遂に職業的の人形遣いを出すまでになったのである(以上「民俗芸術」第二巻第四号所載)。 斯うは言うものの、古代の巫女の持っていた人形の姿は、今から確然と知ることは不可能である。考古学者の「土磐」と称するものは、或はこれが原型であるかも知れぬが、判然せぬ。前に引用した「肥前国風土記」の珂是古が夢に見たという久都毗枳なるものも、正体は分明せぬ。宇佐の八幡神社の系統に属する各地の八幡社に古く伝えた「<ruby><rb>細男</rb><rp>(</rp><rt>セイノオ</rt><rp>)</rp></ruby>」なるものも、伝説によると、磯良神の故態を学んだものだと云われているけれども〔四〕、併しこれが古代から存したものか否かに就いては、伝説以外に証明すべき手掛りさえ残っていないのである。人形は在ったに相違なく、従って人形の舞わし方も存したに相違ないが、現在の学問では、これ以上に溯ることが出来ぬのである。敢て後考を俟つ次第である。 '''三、文身の施術者としての巫女''' 支那から我国へ呼びかけた異称は合計七つほどあるが、その中に「黥面国」というのがある〔五〕。更に「魏志」の倭人伝によると、『男子無大小、皆黥面文身(中略)。諸国文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差』と詳しく記してある。然るに、かく倭人伝には詳記してあるが、翻って我国の古文献にこれを徴すると、誠に明確を欠いているのである。勿論、「神武紀」にある大久米命の割ける<ruby><rb>利目</rb><rp>(</rp><rt>トメ</rt><rp>)</rp></ruby>の故事や、「播磨風土記」の餝磨郡<ruby><rb>麻跡里</rb><rp>(</rp><rt>マサキ</rt><rp>)</rp></ruby>の条にある<ruby><rb>目割</rb><rp>(</rp><rt>マサキ</rt><rp>)</rp></ruby>の伝説や、更に「履中紀」にある淡路ノ大神が、馬飼の黥面の臭いを厭うた記事など散見しているのであるが、文身の大小左右を以て尊卑の標識としたというが如き記録は曾て存在していぬのである。ただ記録に見えぬばかりでなく、人類学的にも、考古学的にも、これを説明すべき出土品すらも、今に発見されぬ有様なのである。茲においてか「魏志」の記事は、その筆者の見聞の及んだ一部の国々に行われたものであって、決して全国に行われたものではなく、且つ行われた年代が余りに悠遠であるために、その後において泯びてしまったのであろうと言われている。此の説は誠に徹底せぬ常識論ではあるけれども、現状にあってはこれ以上に説明をすすめることが出来ぬのである。尤も江戸期の中葉以降に猖んに行われた文身は、自から別問題であることは言うまでもない。 然るに、我国の両極端をなしている北方アイヌ族と、南方琉球民族との間には、古くから近くまで黥面文身の民俗が、女性に限ってのみ行われていた。併しながら、アイヌは我が民族とは種族を異にしているし、琉球民族には我が民俗以外の南方系の民俗が豊富に移入されているので、それとこれとを一律の下に説くことは出来ぬけれども、更に想像を押し広げると、アイヌや琉球の黥面文身の習慣は、古く我が内地の民俗を学んだものが、後には女子の装身法(又は成女の標識)として残ったものではないかと思われぬでもない。併し私は茲に文身の研究をするのが目的でないから大概にして措くが、兎に角に我国にも古くから黥面(文身の記録は見当らぬが、伝説には種々なるものがある)の行われていたことは事実であるが、此の施術者は巫女が職務として行ったのではないかと考えるのである。アイヌでも、琉球でも、女子は通経を境として、前者は口辺に、後者は手甲に入墨をするのであったが、その施術者は共に母親であったと云われている。私は内地にも、此の種の民俗が曾て存在したことを信じている者であるが(併しそれを言うと余りに長くなるので省略する)、此の母親が行うようになったのは、黥面文身のことが、世間から軽視されるようになってからのことで、その以前においては、巫女が神の名によって施術したものと信じたい。それは恰も男子の割礼、又は少女の処女膜を破る民俗が〔七〕、神の名によって、行われたのと同じようであったに相違ないと思うのである。 ; 〔註一〕 : 学友ニコライ・ネフスキー氏の談に、日本のオドリの語原は、男子が腕力を以て女子を掠奪したことをメトル(娶る)というたに対して、女子が舞踊を以て男子の注意を惹いたオトリ(男取り)の意であると言われたのは卓見だと思う。躍(オトリ)と男取り(ヲトリ)とは、仮名遣いが違うと云うかも知れぬが、囮がオトリであるのを知れば、これは問題にならぬと思う。 ; 〔註二〕 : 我国における女性の祭式裸体踊は、明治初年頃まで、各地に行われていた。それを一々挙げることは省略するが、琉球の各嶋々には、現にその風習を偲ぶべき舞踊が残っていて、伊波普猷氏は曾てこれを論じ、その著「琉球古今記」に収めてある。 ; 〔註三〕 : 上銘氏の談による。人形の拵え方で、殊に注意すべき点は、千人の人に踏ませるということである。これは既述した辻占の呪力の源泉となった屍体の埋め方と共通した信仰から出たものと思う。因みに、上銘氏は民俗学に深い興味を有していた青年学徒であったが、急病のために永眠されたことは遺憾であった。 ; 〔註四〕 : 「八幡愚童訓」を始め、その他の書物に磯良神のことが載せてあり、此の神の所作が、細男(斎男、精農、声納など書く)の最初のように記してあるが、これは猶お研究の余地があるようである。山城の離宮八幡社にある細男は、平板を人物態に截ったもので、両手は別にとり付け、動くようになっていて、頗る後世の人形じみたもので、古代の細男の形かどうか明確でない。更に、細男は、八幡神系以外の賀茂社や、春日社にも伝えられているので、これ等の社と八幡社との関係も調べて見なければならぬ。折口信夫氏は「民俗芸術」第二巻第四号で「才の男は人形であるのが本体である」と、例の天才振りを発揮されているが、私の不敏なる、氏の説明だけでは、まだ納得されぬ点がある。猶お研究して見たいと思っている。 ; 〔註五〕 : 扶桑国、黒歯国などそれであるが、一条兼良は「日本紀纂疏」において、我国の黥面国なることを肯定している。而して我国に「魏志」に載せたほどの黥面文身の民俗があったかどうか判然しない。各地から発掘された土偶にも、それを証拠立てるものが今に見出されぬのである。これも今後の研究に俟つべきものである。 [[Category:中山太郎]]
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