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日本巫女史/第三篇/第二章/第二節
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[[日本巫女史]] [[日本巫女史/第三篇|第三篇 退化呪法時代]] [[日本巫女史/第三篇/第二章|第二章 当代に於ける巫女と其の呪法]] ==第二節 報告で知り得たる各地の巫女と其の呪法== 予め問題を設けて之れが報告を求め、若しくは学友を訪ねて談話を承り、それに由って考説を試みることは、大に警戒を要すると共に、学徒としては寧ろ回避しなければならぬことである。私は深く此点に留意しているので、巫女史を起稿するに際しても、資料を厳撰し、出典の確実でないものは採用せぬよう心懸けることを忘れなかった。然るに、江戸期から明治期へかけては、巫女の社会的地位が余りに低下しているのと、その職程が余りに退化している為めに、文字に親しむ者は、之を伝うることを疎んじ、実際を知った者も、これを語ることを厭うと云う有様で、文献だけでは、如何にするも、その呪法なり、生活なりの委曲を知ることが出来ぬので、そこで回避すべき事とは知りながらも、未見曾識の学友に対して設問し、敢て報告を仰いだ次第なのである。 而して、その結果は、各位の芳志により、私の予期した以上の功果を収めることが出来たのは、非常なる仕合せであると考えているが、学術上の資料としては、その方法において、欠くところがあると信ずるので、ここに此の事を明記して、取捨は読者の高批に任せるとする。ただ、呉々も言って置きたいことは、私は報告を採用するに当り、全く私心を放れ、これを要約する場合にも、決して毫末の作為も加えぬという点である。勿論、当然のことではあるが、学徒としての私の面目をかけて、此の事を明記する次第である。 '''一、奥州のイタコと神附の作法''' 中道等氏の談話を左に掲げる。 : イタコは悉く盲女である。盲女が此の事を専ら営むようになったに就いて、聴くも哀れな伝説が残っている。奥州では気候が寒冷のため、年穀の稔りが充分でないところから、大昔は盲人が出来ると、官憲がそれを一つ処に集め、五年に一遍、十年に一度という工合に、悉く殺害したものであった。それは恰も、琉球の与那国島で、食糧の自給自足を計るために、一定の人口以上は殺害し、今に「人はかり田」の哀話を残しているのと、同じような惨事が行われていた。然るに、或る年に盲人を殺すこととなったとき、領主が盲人にても何かの役に立つ者もあろうとして、一名の盲女を召し、庭前に何があるか言うて見よと命ずると、その盲女はイタコとしての修養があったものか、松の木の下に燈籠があると言い当てたので、爾来、盲女はイタコとして、生命を助くべしと定まり、これからイタコが公許されるようになったと云われている。 : 奥州のイタコが<ruby><rb>何時</rb><rp>(</rp><rt>いつ</rt><rp>)</rp></ruby>ごろから在ったものか、それを正確に証示する記録はないが、江戸期に書かれた「遠野古事記」や「平山日記」などに見える所から推すと、相当に古い年代からと思われる。当時、音楽は普及されず、導引は工夫されず、盲女としては、積極的に生くる道が他に無かったのと、消極的には、神憑りするには、却って眼の見えぬ方が雑念を去る便利があったので、相率いて此の道に入った様である。そしてイタコは各々師匠をとって弟子入りをし、三年なり五年なりの年季が終り、愈々独立のイタコになるとき「神附」の式が挙げられる。この神附とは、そのイタコ一代の守り神となって、即ち呪力の源となるのであるから、イタコとして最も大切な事なのである。その式は、神附するイタコ米俵に馬乗りのように跨り、両足の先に神に供えるのと同じ種々の御馳走を盛った膳(膳には壱厘銭三十三個を置く)を踏まえ〔一〕、師匠始め大勢のイタコがそれを囲って呪文を唱え、終ると「何神が附いた」と囃し立てる。すると大抵は十三仏中の普賢が附いたとか、不動が附いたとか云って、それが一代の守り神と定る。そうすると、今度はその守り神と結婚する式を行うのであるが、最近では単に歯を染めるだけで済している。併し之は深い考察を要すべき点であって、古く我国の巫女が神と結婚した遺風を残しているものと信じられる。十三仏中では、弥陀と阿閦だけは余り附かぬようだが、他の仏はいづれも能くイタコに附く。之も又遠い昔にあっては、仏でなくして我が固有の神——若しくは先祖の霊が神として附いた事を考えなければならぬ。それは此の行事を「神附」と云っている点からも知る事が出来る。 : 私の知っている八戸町の石橋さだ子(中山曰。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|小寺氏の記事]]にあるオシラ神を遊ばせたイタコと同人である)は同地方きっての高名なイタコであるが、十六の時に完全に神が附いたほどの天分を有していた。同地方では此の神附に際し、七日の行を厳しく修めてから、三十三夜は生魚を食せず、熱心に先輩のイタコ共が集って祈るのであるが、中々憑り給わぬが普通であるのに、流石に聡明な少女であったと見え、僅に一日一夜にして託宣を得てしまった。守本尊は普賢菩薩である。此のさだ子の師匠のイタコも偉い女であって、その又先の師匠は八戸の領主の御殿へ上り、正月のオシラ遊びを始め、盆中の口寄から万般のことを占ったので、その名が遠近に聞え重きをなし、今のイタコに伝わる総ての秘法は、多く此の先々代が持っていたものだという。此のイタコの若い頃に、自分の前へ八分目ほど砂を入れた赤塗の鉢を置き、口寄せを始め、頼んだ先祖の仏を祈り下すと、いつの間にやら無数の小穴がポツポツと砂の上に現われた。これは仏の足跡だとあって、イタコよりも眼明きの方が吃驚したという話も残っている云々〔二〕。 '''二、磐城に残る笹ハタキの呪文''' [[画像: 笹ハタキ.gif|thumb|磐城の笹ハタキ(佐坂通孝氏の写生)]] [[画像: 免許.gif|thumb|left|巫女が示した免許状(半紙半分の原紙)<p>此巫女は鳴弦式の免許状なれど神座も仏座も両方をやる</p><p>惟神教会とあれど何処に在るが全く知らず従って教会の主神も判然せず</p>]] 磐城国石城郡上遠野村の佐坂通孝氏より受けた報告は、学術的に頗る価値多く、従って種々なる暗示に富んだ貴重なるものであった。左にその報告の全文を原文のまま掲載し、更に多少の私見を加えるとする。 : 一、神子の名称には、<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>みこ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ふじょ</rt><rp>)</rp></ruby>、ワカ、モリッコ、<ruby><rb>子守</rb><rp>(</rp><rt>こもり</rt><rp>)</rp></ruby>、アガタ語り、笹ハタキ、其他色々ある由なれども、当地方にてはワカとのみ云う(中山曰。佐坂氏のスケッチにより見ると、呪術の作法は、明かに笹ハタキと思わるるを以て、私は姑らく斯く呼ぶこととした。殊に此の呪法は、私としては僅に一例しか知らぬ珍重すべきものと考えたからである)。 : 二、ワカの呪術を行う形式に二方法あり。一は、鳴弦式=仏座、一は神降し式=神座と云う。 : 鳴弦式、青竹にて弓を作り、弦は麻を撚りて之に充て、一尺五寸ばかりの竹の鞭にて、弦を打ち鳴らしつつ祈言(中山曰。呪文なり)をなしつつ、自己暗示によりて催眠す。催眠状態に入れるを普通、乗った(神仏が)と云う。神仏は弦に乗って来て、巫女に乗り移ると云っている。 : 降神式、珠数(中山曰。佐坂氏のスケッチを挿絵としたが、これを見ると、他の巫女が用いるのと同じ切り珠数のようである)を押し揉んで、祈言による自己暗示にて催眠に入る。 : 三、服装は、普通の着物の上に、赤色の<ruby><rb>法衣様</rb><rp>(</rp><rt>ころもよう</rt><rp>)</rp></ruby>の外被を為す。 : 四、机を前に置き、水を上げ、乗り移って来た時、竹ノ笹束を顔にあてて語り出す(中山曰。挿絵参照、これ即ち笹ハタキの作法である)。乗り移って来て笹を握るとやたらに震い出す(但し語る時は震えない)。 : 五、最初、乗り移るまでには、相当の時間を要す。祈言、唱え言、般若心経、神降し、仏降し等を、混合して繰返し繰返し約四十分ばかりにて乗り移って来て、笹を手に取り震い出して語り始めたり。私の語らせたものは四十五六の女なり。 : 第一回が済んで第二回、第二回を終るときには五分か十分。仏一人分を語り終ると眼が覚めるなり。そして第二回をする時には同様の祈言をなす。 : <small>一、左の祈言は、巫女に言わせて漢字を其音にあてはめたものなれば、漢字は全く当にならず。</small> : <small>一、無学文盲の者なれば、語る処誤謬多くして、少しも意味をなさぬ所多し。少しも訂正を加えず、全く其ままなり。</small> : <small>一、巫女の言う通りを書きつけたれば、清音も濁音に、濁音も清音になりて、意味の反対に思わるる箇所もあり。</small> : <small>一、語句も文法も少しも当にならず、何が何やら全くチンプンカンプンなり。只大意を捉うるより外なし。</small> : <small>一、此は神下しをする前に、静に言わせて書きたるものなり。数回反復させても同じことなれば、文句には間違なし。</small> : 六根清浄の祓 : <ruby><rb>無上信心</rb><rp>(</rp><rt>むじょうしんじん</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>無明法益</rb><rp>(</rp><rt>むみょうほうやく</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>千万劫</rb><rp>(</rp><rt>せんまんごう</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>南窓劫</rb><rp>(</rp><rt>なんそうごう</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>禍根元</rb><rp>(</rp><rt>かこんげん</rt><rp>)</rp></ruby>、かんげに如来、<ruby><rb>真実儀</rb><rp>(</rp><rt>しんじつぎ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>天孫降臨</rb><rp>(</rp><rt>てんそんこうりん</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>供奉</rb><rp>(</rp><rt>ぐぶ</rt><rp>)</rp></ruby>三十二神、天清浄、地清浄、<ruby><rb>内外</rb><rp>(</rp><rt>ないぎ</rt><rp>)</rp></ruby>清浄、六根清浄、天清浄とは、天の二十八宿を清め、地清浄とは、地の三十六神を清め、清めて<ruby><rb>汚</rb><rp>(</rp><rt>きたな</rt><rp>)</rp></ruby>きもたまりなければ、<ruby><rb>濁</rb><rp>(</rp><rt>にご</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>穢</rb><rp>(</rp><rt>けが</rt><rp>)</rp></ruby>れあらじとの玉垣、清く清しと申す。六根清浄の祓い、<ruby><rb>天照皇大神</rb><rp>(</rp><rt>あまてらすすめおおかみ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>曰</rb><rp>(</rp><rt>のたまわ</rt><rp>)</rp></ruby>く、人は(心はとも云えり)即ち神と神とのあるじ、我がたましいたまし、もろことなかれ、<ruby><rb>故</rb><rp>(</rp><rt>かるがゆえ</rt><rp>)</rp></ruby>に、目に<ruby><rb>諸々</rb><rp>(</rp><rt>もろもろ</rt><rp>)</rp></ruby>の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず(思わずとも云えり)、口に諸々の不浄を言わず、鼻に諸々の不浄をかいで、身に諸々の不浄を触れで、<ruby><rb>中間</rb><rp>(</rp><rt>なかま</rt><rp>)</rp></ruby>に諸々の不浄を思わず、此の時に清く<ruby><rb>潔</rb><rp>(</rp><rt>いさぎよ</rt><rp>)</rp></ruby>ければ、神にも穢れる事なし、事を取らばハンベかりし(又はんべかりき)皆花よりなる、此の身となる、我身は即ち六根清浄なり〔三〕。 : : 神を降す時の祈り言 : (荒神様や其他の神を降すに用うと云う) : 南無や<ruby><rb>般若</rb><rp>(</rp><rt>はんにゃ</rt><rp>)</rp></ruby>の十六善神、三昧剣はそびらにのせる、<ruby><rb>弓手</rb><rp>(</rp><rt>ゆんで</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>馬手</rb><rp>(</rp><rt>めて</rt><rp>)</rp></ruby>の矢壺をそれいる、般若の弓は引きたおめる、引いてはなせば悪魔を払う、観音の正座の、病者も<ruby><rb>速</rb><rp>(</rp><rt>すみや</rt><rp>)</rp></ruby>か平癒を、タラトカンマン(中山曰。こは不動真言の<ruby><rb>怛羅吒晗𤚥</rb><rp>(</rp><rt>たらたかんまん</rt><rp>)</rp></ruby>の転訛と信ず)。 : : 仏を降す祈り言 : 奥の院には、駒もありそろ、駒もあれど花も咲きそろ、花ももりそろう、一丈五尺の駒だの、<ruby><rb>其上</rb><rp>(</rp><rt>そのうえ</rt><rp>)</rp></ruby>、りんりんとうこう、かざはなざらば、音はりんりん、<ruby><rb>調</rb><rp>(</rp><rt>ちょう</rt><rp>)</rp></ruby>からからと、三世の諸仏も天降る、白き御幣は三十三本、赤き御幣は三十三本、青き御幣は三十と三本、合せて九十九本の御幣ははぎ奉れば、病者も<ruby><rb>速</rb><rp>(</rp><rt>すみや</rt><rp>)</rp></ruby>か平癒をタラトカンマン、南無や観音大菩薩〔四〕。 : : 生霊を出す祈り言 : 一より二けんの三<ruby><rb>勝</rb><rp>(</rp><rt>かつ</rt><rp>)</rp></ruby>しはらい、五たんの巻物、六七ソワカ、八万(中山曰。難?)即滅、<ruby><rb>九</rb><rp>(</rp><rt>く</rt><rp>)</rp></ruby>もつをととのい、十分<ruby><rb>祀</rb><rp>(</rp><rt>まつ</rt><rp>)</rp></ruby>れば、それにたたりは恐れをなし<ruby><rb>候</rb><rp>(</rp><rt>そろ</rt><rp>)</rp></ruby>、病者も平癒をタラトカンマン〔五〕。 : : <ruby><rb>翼</rb><rp>(</rp><rt>つばさ</rt><rp>)</rp></ruby>ぞろい : 雀と申す鳥は、<ruby><rb>聡聴</rb><rp>(</rp><rt>そうちょう</rt><rp>)</rp></ruby>な鳥で、親の<ruby><rb>最後</rb><rp>(</rp><rt>さいご</rt><rp>)</rp></ruby>と申す時に、つけた<ruby><rb>鉄漿</rb><rp>(</rp><rt>かね</rt><rp>)</rp></ruby>もうちこぼし、柿のかたびら肩にかけ、参りたれば親の最後に逢うたとて、日本の六十余州のつくりの初穂、神にも参らぬ其の先に、餌食と与えられ。 : 燕と申す鳥は、聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、<ruby><rb>紅</rb><rp>(</rp><rt>べに</rt><rp>)</rp></ruby>つけ、<ruby><rb>鉄漿</rb><rp>(</rp><rt>かね</rt><rp>)</rp></ruby>つけ、引きかンざりて、参りたれば、親の最後に逢わぬとて、日本の六十余州の土を、日に三度の餌食と与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。 : けらつつき申す鳥は、聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、天竺さ、はやのンぼりて、親の最後に逢わぬとて、一ツの虫は日に三度の餌食と与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。 : 水ほし鳥と申す鳥は聡聴な鳥で、親の最後と申す時に、天竺さはやのンぼりて、親の最後に遇わぬとて、水ほしや、水欲しやと、よばわる声も恐ろしや、さらばこそ親に不孝な鳥なれど。 : 鶏と申す鳥は聡聴な鳥など、親の最後と申す時に、<ruby><rb>干</rb><rp>(</rp><rt>ほ</rt><rp>)</rp></ruby>したる物をかきこぼし、干したるものを打ちこぼし、日に三度の餌食には、かき集めたるものを与えられ、さらばこそ親に不孝な鳥なれど(大正十五年八月十七日採集)。 以上の報告は、その一つ一つが巫女史の資料として価値の多いものであるが、就中、関心すべきものは最後の「翼ぞろい」と題する一章である。此の呪文の内容は、現今においては童話となり、然も全国的に語られているものであるが、その古い相が巫女の呪文であったことは、全く佐坂氏の報告に接するまでは、想いも及ばなかったのである。 而して此の一事から当然考えられることは、第一は、此の「翼ぞろい」なる呪文は、私の知っている限りでは、最も古いものであって、前に載せた「千だん栗毛」などよりも更に一段と古いものであると思われる点である。第二は、これを証拠として、まだ他に沢山の呪文から出た童話がありはせぬかという想像である。第三は、斯うした童話の種を国々へ撒き歩いたのは巫女であって、大昔の巫女は小さき文化の運搬者であったことが判然した点である。第四は、更にこれから類推されることは、巫女の用いた呪文と歌謡との関係である〔六〕。 此の事象に就いては屢記を経たが、最近に金田一京助氏を訪ねた折にも此の事を語り合い、巫女が口寄せの折に、神降しの文句から他の言葉に移るときの<ruby><rb>境目</rb><rp>(</rp><rt>さかいめ</rt><rp>)</rp></ruby>は『声はすれども姿は見えぬ』という一句であるが、これへ下の句の『君は野に鳴くきりぎりす』と附けて、一首の歌謡としたのは、古い作者が呪文から思いついたものだろうと話したことがある。即ち巫女の呪文は、一方には童話となって国々に行われ、一方には歌謡となって広まったことが、此の「翼ぞろい」から考えられるのである。第五は、此の「翼ぞろい」は、何処で生れたかという点である。南方熊楠氏ならぬ私には、これと類似または同根の説話が、どんな工合に分布されているか知ることは出来ぬが、恐らくは日本のみに限ったものではなく、印度か支那が母国ではないかと思うのである。そして此の文句が呪文となって、巫女の手に渡るようになったのは、都会から地方へ及ぼしたものであろうと考えている。勿論、それ等を具体的に説明することは、私の学問では企て及ばぬ所であるが、兎に角に斯うした手掛りだけでも与えて下さった佐坂氏の御配慮に対し、深く感謝の意を表する次第である。 '''三、信州禰津の市子の口寄せ文句''' 信濃国小県郡根津村は、我国随一の巫女村であった(此の事は[[日本巫女史/第三篇/第二章/第三節|後]]に詳しく述べる)。その根津の最後の巫女であった<ruby><rb>初音</rb><rp>(</rp><rt>はつね</rt><rp>)</rp></ruby>ノノウというが、長野市において口寄せをした事実が、明治四十一年一月十四日から同十九日まで六回に亘り、同市発行の「長野新聞」に連載されたということを、上田中学に教鞭を執って居られる角田千里氏から通知を受けたので、私は直ちに此の記事の謄写を同社に依頼したところ、劇務に従われている同新聞記者伊勢豊氏が、私の閑事に深く厚意を有たれ『学問上の資料となるのであるから、一字一句も誤らぬよう写した』とて、左の如き記事を恵与してくれた。此の口寄せの文句は、私にとっては実に唯一のものであると同時に、こうして、死口、生口、荒神占(神口ともいう)三種を克明に記したものは、他に多く存していようとも思われぬので、少しく長文の嫌いはあるが、その全文を転載し、終りに二三の私見を添えることとした。 : <ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>みこ</rt><rp>)</rp></ruby>俗に口寄せと云うものは、死口、生口、荒神の、三ツに分ってあって、死口は死人を呼出し、生口は現在の人を呼出して其思惑を聞き、荒神は一年の吉凶を占うものである。今は禁止されてあるが、偶々或る機会から其三口を聞くを得たから掲ぐる事とする。 : 或芸者が死んだ母親を呼出した死口から始めよう。 : 巫女の前には盆があって、盆の上に茶碗、茶碗の中には水が盛ってある。芸者は巫女の前に進み、枯れた木の葉を茶碗の水に入れ、右へ三度廻して亡母の行年を告げる。巫女は行くところとして必ず携帯する丈五寸横八寸程の黒い風呂敷を掛けた箱を前に、そこに右の手を頬杖に突き、左の手は肱から手を箱の上に横たえ、瞑目する事二分時、眼を閉じたまま静かに、和讃ともつかず、<u>くどき</u>ともつかぬ可笑な節をつけて語り出した。 : : 第一、死口 (亡母、行年五十四歳。本人某妓) : 『千々に思は増す鏡、家を便り座を力、一度は聞いて見ばやとて、能うこそ呼んで呉れたぞえ、来るとは云うも夢の間に、夢ではうつつ<u>あずさ</u>では、声聞くばかりで残り多い、姿<ruby><rb>隠</rb><rp>(</rp><rt>かく</rt><rp>)</rp></ruby>して残念だ、身も世が世でありたなら、何か便りにもなろうけれど、力になるもなれないし、便りになるもならずして、最後をしたが残り多い、往生したが残念だ、身さえ丈夫で居さえすりゃ、誰に負けなく劣らなく、両手を振って暮らすけれど、惜しい所でお<ruby><rb>終</rb><rp>(</rp><rt>しま</rt><rp>)</rp></ruby>いし、心残りに思うぞよ、定めし其方もくよくよと、俺に死なれて此方へは、<ruby><rb>嘸</rb><rp>(</rp><rt>さぞ</rt><rp>)</rp></ruby>張合いが悪かろう、嘸力が落ちたろう、身は片腕をもがれたように思うだろう、惜しい所で終いして、後の所も乱脈だ、誠に後の張合も、俺があったる其時とは、はらからながらの所でも、何処か拍子の欠けたよう、何処か振合も違うよう、心残りだ後々の二人は二所、三人は謂わば三所と云うように、身も散々の振り合で、心残りに思うぞや、身も残念に思うけど、ツイ因縁が悪ければ、真実後さえも其儘に、何が何やら少しでも、物の極りと云うもなく、何うか後をばアアカリて、あれも纏めうと死ぬまでも、丹精に丹精苦労して、纏めもしたる身なれども、どれが纏めた<ruby><rb>廉目</rb><rp>(</rp><rt>かどめ</rt><rp>)</rp></ruby>やら、どれが<u>かなでた</u>廉目やら、纏めきらぬで最後をし、かなで切らぬで往生した、後へ歎きを掛け放し、運勢の悪い俺だから、死んだ此身は何うらなむ、何うも残した後々に、マダ苦になる事もあり、案ずることもマダあるぞ、どうか苦になる後々を、どうぞ纏めて、成るたけ世間の人様に、お世話にならぬようにして、ならぬ中にも精出して、出来ぬ中にも丹精して、何うか互に睦まじく、何うか依るべき血の中を、大事に掛けて暮されよ、何と云うても云われても、血は血でなければならぬから、身は身でなければならぬから、何か依るべき血の中や、遺した中だからとても、義理に切られぬ中だぞよ、何うぞ互に往復も、仏がなけりゃアアじゃないか、今の様はと陰からも、世間の口端に上らないで、何卒たっしゃで暮して呉れるように、思えば思う其度に、心残りに思うけど、これも前世の約束や…………。』 : 巫女の声は憐れにしめって来た。アノ世から悲しげに囁く声とも思わるる、陰にこもった声である。始めからハンカチで眼を抑えていた芸者は、ここに至って堪えがたくなったのであろう。慈愛ある母の面影さえ忍ばれたのであろう、身を慄わしてヨヨと啼きくずれたのである。 : 芸妓は人目も恥もかまわずに、其場へヨヨと泣きくずれたまま顔を上げ得ない。居合わせた者も憐れを誘われ<ruby><rb>鼻</rb><rp>(</rp><rt>はな</rt><rp>)</rp></ruby>をつまらせて眼をうるませる。一座はシンとして咳の音さえもない。 : 「去るものは日々に疎し」悲しい死別れに、身も世もあらぬ胸の悲しみも日を経て漸く薄らぎ行きしを、今日の口よせに依って、亡母が悲しい事の数々や、心残りを語られては、今更当時の有様を再びする心地して、正体もなく泣き沈んだのは無理もない。巫女は妙に人を引付ける抑揚のある哀調を以て尚も続ける。 : 『言い置く事もありたれど、身の死際の敢なさに、ツイ云う事も云わないで、語る事も語らなく、此方の事も間に合わず、目を閉ず時だからとても、末期の水も貰い外し、身の因縁が悪ければ、仕方もないが後々が、マダ血の中もあるだから、先祖の<ruby><rb>蔓</rb><rp>(</rp><rt>つる</rt><rp>)</rp></ruby>の切れぬように、後の纏めをして呉れろ、西を向いても他人様、東を向いても他人様、他人の中の身の住居、長い月日の間には、善い事ばかりはなにあらん、詰らぬ事もあるだろうが、必らず悪い了簡や、そでない胸を出さないで、どうぞ彼の世の仏にも、又は身内の人々の、顔をよごさぬようにして、身の安心の出来るよに、喜ばしやれと云うように、暮して呉れろ頼むぞよ、只残念はあの時に、云い度い事の一言や、遺す言葉がありたるに、ツイ言わないで終いをし、後の所も其儘で、別れて来たるそれのみが、誠に誠に残念だ、他人様にも身内にも、皆心配を掛けた儘、ツイ一礼も告げないで、世話になったり放し、苦労掛けたら掛け棄て、終いをしたが残り多い、之も運勢が悪いので、仕方がないと諦めて、居たら居たらと思わずに、身の納まりを大切に、仏に安心させてくれ、今日の一座はようくれた、久しぶりでの物語り、語りて云おうとした心、話して胸が晴れたぞや、言えば語れば限りもなし、一日言うたからとても、話し切れない事もあり、語り切れない事あれど、何と口説いたからとても、旧の姿にゃならぬから、之で忘れて諦めて、名残惜しくも暇乞い、遙か来世へ立帰る…………』 : 終りを消えて行く——死んだ人が仮りに此世へ現われて、又冥途に帰って行く、それに丁度相応わしい——様に語り終った巫女は、静かに瞑目して居った眼を開いた。泣沈んだ芸妓は、漸く涙を歇め顔をあげて、其泣きはらして赤くなった瞼に、淋しい笑を浮べて一座を見渡す。雨後の名月、一段の美添えて却って痛々しい。 : 巫女は依頼者の悲しさも喜ばしさも関する所でない。自己の職務を為す上に於て、人の哀楽は対岸の火事である。語り了った彼女は、徐に頬杖を突いた手を解き身を起し、平然として次を待って居る。 : 代って他の芸妓が出る。前の死口の陰気なのに引替えて、是は亦生口の、情人?を呼出して、其意中を聴くと云う<u>イキ</u>な派手やかなもの、一座の手前を<ruby><rb>憚</rb><rp>(</rp><rt>はばか</rt><rp>)</rp></ruby>って、やろうか遣るまいかと躊躇の体、幾度か笑を浮べて一座を見廻し人の気を読んだ上、思い切って巫女の前に進む。 : 巫女は前同様箱に肱をして頬杖を突き、静かに眼を閉じる。芸妓は巫女の前に進んで、茶碗の水を紙の小捻に三度息を吐きかけ、右へ三遍廻し、口の中で極めて小声に男の年を告げた。誰れかが「イヨー」と声を掛ける。芸者はサッと耳元を赤くして一膝身をすさった。男の年を聞くを得なかったのは残念であった。 : : 第二、生口 (女より男の意中を聞く) : 『心の程も知れないと、案じて一座呉れたのか、苦労になるも無理はない、女心の一筋に、思い過ぎしが身に余り、どう云う積もりであろうかと、今日の一座も思うだろうが、身を疑ぐりて呉れるなよ、俺が心は了簡も知れない事もない筈だ。又身の上だからとても、自由になるもならないも、予て承知でありながら、身を疑ぐりて呉れるなよ、<ruby><rb>当</rb><rp>(</rp><rt>あて</rt><rp>)</rp></ruby>にならない事もなし、力にならぬ事はない、今斯うやりて身の上も、思う自由にもならぬから、其処のところからは推量して、必らず何うか俺が事、届かぬものだよくよくな、そでないものと身の上を、<u>さげすま</u>ないで居てくれろ、今の住居をしてみれば、目上目下の中に立ち、身分も好きに往かないし、身体も自由にならぬから、其処の所は推量せよ、又往く始終や後々は、ならぬ中にも精出して、何うか力も添えようと、心に掛けて居るだから、アァは云うたが嘘らしい、斯うは云えども何うだろう、末の力になるまいか、後の便りになるまいかと、身を疑らず居て呉れよ、俺は人のように兎や斯うと、言葉の艶も嫌いだし、上手云うのも嫌いだが、腹に悪気のないだから、又往く始終や、後々はどうか此身も側にいる、人に云われた意地もあり、側で堰かれた意地もあり、又分別もする積り、身の了簡もあるだから、悪く思うて呉れるなよ、能うこそ今日の一座を、何う云う積りで居るやらと、思い過して呉れたろうか、知れない事もあるだろうが、今お互いに寄合って、是ぎり会わぬ訳じゃない、身も対面の其上は、身の善悪も知れること、何うかと疑う事はない、心に別な事もなし、身分に変る事もなし、是で聞分してくれろ、此上長座はならぬから、右で<ruby><rb>体</rb><rp>(</rp><rt>からだ</rt><rp>)</rp></ruby>は立帰る……』 : 右にて終る。一座の者は「お奢りお奢り」と芸者に迫る。芸者は嬉し気にニッコリ、座は急に陽気になる。 : : 代って一人、厳めしい洋服の紳士が出る。先生、先にやりたさは遣りたし、一寸変な工合だしと躊躇して居たのが、既に芸者と云う瀬踏みがあったから、猶予なくそれへ進む。紙を細く切ってそれに息を吐きかけ、撚って例の如く茶碗の水を右へ三遍、「先方は女二十六」キッパリ言った。「最早年寄ですネ」等冷かす者ある。紳士は、この場合聊か極りが悪い。笑を浮べた眼に一座を顧み、「出ように依っては奢るよ」と、お茶をにごして身を退ける。 : 老巫女は一座の動揺めくに関せず瞑目して、同一の口調を以って語り出す。 : : 第三、生口 (男三十三歳、女二十六歳、男より女の意中を聞く) : 『確と様子が知れぬから、何う云う心で居るだやら、どの了簡のものだかと、案じて寄せて呉れただろが、案じられるも無理はない、苦労になるも無理はない、身は一所にいてさえも、知れない事があるだもの、殊に斯うしてお互に、間離れて暮して居りや、どう云う様子で居るだかと、嘸ぞ心配に思うだろ、定めし苦労になろけれど、どの了簡で居られるか、何う云う運びであろうかと、案じて居ない事はない、苦労に思わぬ事はない、後の所や末始終、力になりて呉れるやら、便りになるかならないか、明くる其日も暮れる夜も、胸に思わぬ事はない、心に出ない事はない、安心させて呉れるのが、始終力になるのやら、但しは頼りにならないが、一つはお前の了簡だ、心一つのものだから、身の了簡を取極め、心定めて往後は、何うか末々お互に、力になりて頼むぞえ、便りになりて暮そうぞえ、何う云う運びに致すのも、一つはお前の胸次第、心一つのものだから、よく了簡を取極わめ、心定めてどちらになりと、力になるかならないか、何う云う運びに致すのか、どちらになりと一道の、身の挨拶をしてくれな……』。 : 座中の眼は紳士の一身に集まる。紳士は天井を仰ぎ、胸の時計の鎖を弄びながら得意満面? : 『心懸りに思うから、何卒了簡を定めて、暮らして呉れるようにしな、身の対面の其上で、互の胸も話すべし、此上幾ら云うたとて、此処で埒がつくでなし、道理のつかぬ事だから、別けても亦物事は、余り座中も多ければ、話の出来ぬ訳もあり、身の対面をした上に、委細様子を話すから、その対面を待ちるぞえ、くどく云うまい語るまい……』。 : 巫女は約八分時にして語り終る。座に教員あり、官吏あり、商人あり、芸妓あり、皆一斉に紳士に向って、種々の矢を放つ。四面楚歌の裡にある紳士は、天井を仰ぎ、一唇胸を突出し、右手に鎖をチャラチャラ鳴らし、大口開いて呵々と笑う。 : 巫女はけげん相に順序よく一々端から皆の顔を見る。 : 「今度は君がやって見給え」先の紳士が一人の青年を顧る。「僕ですか——まァ止しましょう」と笑う。「やり給え、面白いぞ」「でも僕には呼び出す身内も故人も知らないし、又貴方の様に意中を聞くべき者、ハハハハ女ですね、そう云う者はありませんから」「何うだか疑問だが……じゃ一年の吉凶を見る荒神と云うのをやったらいいだろう」「そうですね、敢て御幣をかつぐ訳でもありませんが、今年丁度厄年に当りますから、一ツそれをやって見ましょう」。青年は巫女の前に進み、茶碗の水に青木の葉を入れ、型の如く右へ三遍廻す。 : : 第四、荒神 (男子二十五歳) : 『天が庭には風騒ぐ、天清浄と座を祓い、地清浄と座を清め、身体を祓い身を清め、一代守る御神の吉凶大事を告げるから、心静かに聴き給え、生れに取れば随分に、心も大に平らかに、生れて来たる身であるが、身の運勢の振合いから、十と一とも云う時に、後ろ楯にもなる中に、力貰いが薄いのか、身の定まる縁談や、人の身定めて人の身の、心配をして出たが、五七年とは申すれど、中取分けて二三年、何うも好まぬ所あって、自分の常に思うよう、丁度に行くや行かないのは、身の心配もあるだろう、目上の人の言う事が、何うも自分の気に入らず、我身で思う其事が、目上の人の気に入らず、兎角心が前後して、合う辻つまが合いかねて、別けても去年一昨年の身の心配もして居たし、既に斯うかと云うような、気を揉む凶事もありたれど、マダ運勢が強かりし、目上の人の精分や、其方の自力が強いさに、後へ後へと去りながら、凌いで来たが逃れたが、見つ当年の春からも、大事の坂がありたるぞ、今年やお前の厄年だ、<ruby><rb>大刀</rb><rp>(</rp><rt>かたな</rt><rp>)</rp></ruby>なら目貫、扇なら要と云う所だから、モウ了簡を穏かに、心静かに企てろ、大事な所だ今其方も、一つ思案を違えると、目上の人の気も損ね、側の用いも薄くなり、第一運も乱れるし、今大切の身の上だ、随分其方の胸次第、了簡次第末始終の、身の安心や運勢もないのでないが、マダ何うも、身の了簡に定まらぬ、落つきかねる処あり、今身の上も色々に、どの了簡がよかろうか、どの手にしたが増しだかと、身の心配も多くあり、心も迷い気も狂い、何にかに苦労があるけれど、先ず物事も急がずに、心静かに企てろ、身の心づけ二三月、身の心配を求むるか、大事な月に当るぞよ、首尾よくそれを凌げれば、四月五月に宜けれども、六七月の表から、僅な事のいきさつで、身の心配を求むるか、云い聞けられて気を揉むか、之も宜くない大切な、月に当るが気を付けて、それを無難で逃れたら、先ず其方も八月九月に穏かで、十月よいが十一月へ掛けては、其方の大切な月に当るぞ気を付けろ……』。 : 紳士は青年の肩を叩く。「どうだ。君、気を付けたまえ」「イヤ一ツ的中しそうに思われる処があります」と言葉を切り、一寸首をかしげて「成程、そうかな」と独言する。 : : 「まてまて僕が一ツやる」座の一隅から、大声を上げて巫女の前に出たのは一人の書生、黒木綿の五ツ紋に、ヒダもくずれた袴を着けた、満身元気に満ち満ちた面魂。巫女の前に座ると「僕の先生に対する感想を聞きたい、頼むぞ」と例の茶碗の水を紙捻で廻す。 : : 第五、生口 (男より男の意中を聞く) : 『言って聞かせる此身より、其方の胸が分らない、その了簡が知れかねる、何ういう胸で居るだやら、何ういう積りのものだやら、其方の胸が知れかねる、今斯うやって見て居れば、定めし陰じゃ色々に、アァは言いそもない筈だ、斯うはしそうもないものだ、義理も人情もなきものと、必ず思うて身の上を、さげすまないで居て呉れナ、悪く思うて呉れるなよ、義理ある中を義理悪くする了簡もないし、又理を非に曲げて意気悪く、否やを云うた訳じゃなし、兎や斯う云おうと思わない、一ツは其方の胸次第、藤にもなれば柳にも、ならない事もないだから、必ず必ず身の上を、思い過ごして色々と、身をさげすんで呉れるなよ。少しの物のいきさつで、拠ろない訳からで、ツイ其方にも悪くなる、届かぬ所もありたれど、今の運びであるけれど、身は斯うやりて居ながらも、どの成行がよかろうか、何う云う手段がましだかと、色々胸じゃ気を揉むし、考え見ない事もなし、心配しない事はない、ヨモヤ斯う云う訳がらで、余計な気込みを致そうも、身の心配をしようとは、微塵が程も思わねど、これも余儀ない訳がらだ、又身の上も、七重の膝も八重に折り、事の法立も致そうけれど、真個余儀ない訳がらで、届かぬ処もあっただし、悪かな所もあったれど、其処の処は不承して、必ず悪く思うなよ、篤と合点の往くように、何うか其方へ知れるように、陰の噂や陰からの、人の陰言云わないで、内事に掛けて居てくれナ、今斯う此処の座で、言い訳らしく愚痴らしく、兎や角う云うたからとても、身の言訳をするばかり、只だ愚痴らしく此処の座で、所埒の付かぬ事だから、一座は之で聞きわけて、推量ありて頼むぞえ、能うこそ今日の一座をも、何う云う積りで居るやらと、身の親切があればこそ、今日の一座も呉れたろが、身の対面の其上で、委細様子も知らそから、今日の一座はこれ迄に、聞きわけあって頼むぞえ、気も取込みて居て見れば、思う長座もならぬから、右の体に立かえる……』。 : 書生君「馬鹿ッ」と一喝、「僕の先生が、そんな愚痴のような弱い事を云うものか」と肩を怒らして、大いに威張る(完)。 是等の口寄せの文句を通読して、直ちに感ずることは、第一は、その文句が極めて通俗であり、粗野であり、如何にも無学の市子が、口から耳へ聞き覚えそうなものという事である。併し、強いて言えば、全国を旅から旅へかけて渉り歩き、あらゆる人々(殊に女子)を相手にするのであるから、斯うした俚言俗語をつらねたものが、必要とされていたのであろう。 第二は、文句が始めから終りまで、何等捕捉するところがなく、下世話にいう鰻に荷鞍の譬えのように、のらりくらりとしたものであって、依頼者の考え方一つで、右にも左にも、又良くも悪くも、解釈の出来るように、不得要領のうちに、何となく要領を得ていることである。勿論、これは敢て、此の文句に始まったことではなく、古い「歌占」にせよ、更に寡見には入らぬが、昔の口寄せの文句も、必ずや斯うしたように、解釈は聞く人の心まかせに融通が出来たことと思われる。 第三は、この文句は禰津の市子に限られたものか、それとも全国とまで往かずとも、関東だけでも共通していたものかどうかの問題であるが、これは他に比較すべき材料を有たぬ私には、何れとも言うことが出来ぬけれども、兎に角に、禰津と同じ流派に属していた市子だけは用いたものと見ても、間違はあるまい。 第四は、此の文句の中で、同じような事を繰返して『最後をしたが残り多い、往生したが残念だ』とか、又は『明くる其日も暮れる夜も、胸に思わぬ事はない、心に出ない事はない』とか云うのが眼につくが、これは聴く者の胸を打ち、納得させる必要から来た一種の修辞であろう。これも大昔から『<ruby><rb>旛</rb><rp>(</rp><rt>はた</rt><rp>)</rp></ruby>すすき穂に<ruby><rb>出</rb><rp>(</rp><rt>で</rt><rp>)</rp></ruby>し神』とか『天の事代、地の事代』とか繰返して云ったのと同じ意味で、ただそれが典雅であり、卑俗であるとの差別であって、古くから伝統的に残っていたものと考えられる。語尾に「ぞえ」を添えるのも、又それであろう。 第五は、此の文句の作者と、その時代であるが、作者はいずれの修験の徒か、又は市子の亭主であろうと思うが、どちらにしろ余りに物を知っている者で無いことは疑いなく、時代はその時々に適応するよう改作されたようにも考えられるが、江戸期の中葉であると見れば、さしたる誤りはないようである。 '''四、外人の見た巫女の作法とオシラ神''' 大正四年の春に、我国に留学されたニコライ・ネフスキー氏は、巫女の事に興味を有していて、我々日本人が思い及ばぬほどの深い研究を試みていた。殊に、オシラ神と、これを所持しているイタコとの考証には、同氏独特の意見を有っていた。私は、同氏が留学された年の秋から交際を始め、昭和四年九月に、前後十五年の長い星霜を経て、本国ロシヤに帰えらるるまで、厚誼を重ねていたが、此の長い間に、同氏から書状や、口頭で教えられた、巫女の呪術や、作法や、更にオシラ神の由来などに関したものが、少からず存している。 例えば、常陸国のワカと称する巫女の呪文中に「三十三」の数が好んで用いられているのは、仏教の三十三天の思想に負うものであるとか、陸中国で巫女をオカミンと云うのは、内儀の意では無くして、神様の心であるとも云うが如き、まだ此の外にも多くの高示を受けている。就中、オシラ神の由来にあっては、北方民族よりの輸入説を固く主張していたが、その要旨を言うと、 : 東北地方に現存しているオシラ神は、太古の時代に、北方民族の持っていたものが、輸入(或は民族の移住と共に将来されたか)されたものと信じて誤りがないようである。それは、ポーランドのチャブリツカ女史の書かれたアボリジナル・オブ・サイベリヤに拠ると、蒙古のブリヤート族は、モリニ・ホルボ(モリは馬、ホルボは棒)という神を持っている。そして其の棒の長さは二尺位で、頭は馬、下は蹄になっていて、これに五色の布や、小さい鈴などを付けている。 : 日本のオシラ神に、馬の頭のある事は言うまでもないが、陸前国気仙郡の鳥羽氏から受けた報告によれば、同地には、頭は馬で、足が蹄のオシラ神が、立派に存在しているとの事である。五色の布はオシラ神のセンタク(着衣の俚称)と同じものである所から見るも、これは決して偶然の一致ではなくして、両者の間に交渉があるものと考えるのが至当である。 : 更に、もう少し微細な点を述べれば、オシラ神のセンタクの着せ方は、北方民族の古俗とも見るべき、貫頭衣(一枚の布の中央に穴をあけ、そこから首を出すもの)であって、即ち、北地寒国において工夫された、胡服系の形式である。 : 而して加賀の<ruby><rb>白山</rb><rp>(</rp><rt>しらやま</rt><rp>)</rp></ruby>の主神である菊理姫命と、オシラ神との関係に就いては、深く考慮したことがないので、有無ともに断言することは出来ぬけれども、此の神の出自が、日本の神典ではやや明白を欠いているが、若し日本海方面に多くの例を示している「渉り神」の一つであるということが証明されるようになったら、両者の関意すべきであろう云々。 とのことであった。ここに聴いたままを記して後考に資するとする。 '''五、三州刈谷地方の市子と其作法''' 三河国碧海郡刈谷町の加藤巌氏よりの高示によれば、 : 一、市子の名称は、よせみこ、くちよせと云っているが、蔭では悪称して、狐遣い、クダ遣いと云っている。 : 二、市子は悉く精眼者であって、盲人は無い。 : 三、市子に口寄せを頼む場合は、死人を呼び出すとき、行衛不明の人の、所在、方角、生死等を尋ぬること(実験者の談によれば、死人を呼び出すと、市子の声が死人の声になり、生前の事も知りよく当るが、生きた人の事は当らぬが多いという)。 : 四、口寄せの作法は、他と同じく、外法箱を前に置き、手向の水を、死人は枯葉で、生者は生葉で掻き廻し、その雫を外法箱に振りかけさせ、市子は箱に両臂をつき、呪文(これは判然せぬ)を唱え、催眠状態に入るのであるが、その折に、片手を挙げて、自分の顔を数度軽く撫で廻す(中山曰。前の笹ハタキと云い、此の市子と云い、何か顔へ触れることが、催眠に入る条件のように思われるが、判然せぬ)。それから種々と口奔るようになるのである。 : 五、口寄せに対する世人の信用は、全く有るか無きかの状態である。「死んだ妻の三十五日だから、一度逢って来よう」という程度の気休めに、それも極めて下級の者が頼む位のものである。中には、市子の言を信じて、亡者の供養をするとか、百万遍の念仏を行うとか、八十八ヶ所廻りをするとか、新しく仏壇を買い入れるとか、その人々に相談した事をやる。市子の弊害はここに存し、いずれかと云うと、死人に託して祈祷を続いて行わせ、祈祷料を貪るのが目的のようにも考えられる。 : 殊に馬鹿気ているのは、或る人が亡妻の霊を寄せたところが、その死霊の云うには「私は迷っているが、その迷いの元は、××さんに衣物一重ね差上げたのを、今になって娘にやれば宜かったと思いつき、それで迷っています。あの衣物を取り戻し、娘に遣って浮ばせてください」とのことに、その亭主は仔細を語り、衣物を貰い返したという話もある云々〔七〕。 '''六、美濃太田町附近の市子と其の生活''' 美濃国加茂郡太田町の林魁一氏よりの高示を次に掲載する。 : 明治維新前には太田町には二人の市子あり、一人は信州の親方に縁付き、一人は死亡して、現今は全く影だになし。隣村の同郡坂祝村大字取組には、現在一人の市子居住し、本年八十歳の老婦(精眼者)にて、幼少の時に信州にて修行せるものと云っている。全体、美濃国に常住し、又は漂泊し来る市子は、多く信州上田在(中山曰。既記の禰津村なり)から来るのである。ここには四十八軒の親方あり、親方は男子にて、二三人以上数人の巫女を養い置き、市子が各地を旅かせぎする折は、親方も同行した。市子は免許状を貰って独立して、幾分の税金の如きものを親方へ送ったものだと云う。 : 市子を頼むのは、他地方も同じと思うが、死人の行処及び死人の心を知りたきとき、並びに遠方に在る生ける人の心を知るとき、又は生死不明の事を知りたきを第一とし、その他には、縁談、病気、失せ物、悪事災難の多い折などであるが、現今では市子の信用が無くなったので、依頼する者は極めて稀である。 : 此の地方の市子は、常に紺風呂敷に包みたる蜜柑箱ほどの箱(取組の巫女の箱は桐製である)を出し、その上に長方形の肱蒲団の如きものを置き、右手に念珠を持ち(以上、取組にて見し所なり、以前は念珠を持たぬと云う人もあり)、箱の上に両手の肱をつけ、箱の前には之れも他地方と同じく茶碗に水を入れて、それへ南天の葉を載せて置き、依頼者は南天の葉に水をつけ、三度その箱に注ぎかけるのである。死者の際は枯葉を用いると云う。然る後に、市子は神降し(此の文句は秘密とて教えぬ)と称して、日本諸国の神々の名を称え、それが終れば、目的の依頼を受けたることを、神降しと同じような口調で述べる。依頼者はこれを聞いて事の善悪その他を知るのである。市子が称え終ってから後は、問い返しても答えぬのを習いとしている。 : 市子の口上の一礼を、縁談に求めれば「北より東は宜いと云う、心に緩みのないよう、大事のことじゃ、ここが<u>かなめ</u>で、南か西はおく(止めるの意)ように、二月か三月往かざれば、八月は身のため」云々と云うようなものである。即ち「方角は北東を吉とし、二月三月に嫁せざれば八月が宜い」と知るのである。茶碗の水と、南天の葉は、終ってから依頼者が捨てることになっている。 : 現今の市子の生活状態は、普通の民家に住み、農業か舟乗業を兼ぬる家族であって、一回の口寄せは二三十分間を要し、料金は二三十銭を貰う由にて、生活は言うまでもなく中流以下である。明治維新以前には、信州から二三人づつ組をなした市子が太田町に来たり、紺風呂敷に箱を包みこれを赤紐で結び背負い歩き、地方の人達はそれを呼び込んで依頼したものである云々〔八〕。 '''七、近畿地方の市子と性的生活''' 京都府立第二中学校の井上頼寿氏から、前後四回まで高示に接しているが、その多き部分は、伊勢神宮の御子良及び母良に関するもので、然もその内容は、発表を憚からねばならぬ事もあるし、発表しても差支ないものは、私の言う口寄せ市子に交渉するところが少く、所謂、帯に短し襷に長しというものである。それで茲には、前後四回の報告を、私が勝手に按排して、専ら近畿地方の巫女と、性的生活の方面を記すとした。此の点に就いては、深く井上氏の寛容を冀う次第である。 山城国相楽郡地方では、神楽巫女のことを、東部では「そのいち」と称し、年齢は三十歳位を普通とし、西部にては「いちんど」と呼び、妙齢の者を普通としている。明治維新頃までは、祭礼の度に、神社の拝殿で神楽を舞う「そのいち」の家も残っていたが、現今では極めて少くなり、殊に西部では、妙齢の女子が、此の事を遣るのを厭うようになり、随って湯立の神事なども、十四五年前から廃止してしまった有様である。而して東部の「そのいち」は、巫女となると、神主との間に性に関する或種の儀式(中山曰。奥州のイタコと守り神との結婚の如きものか)が、行われたようだとの事である。同郡の<u>かわらや</u>と云う土地では、以前「そのいち」を頼んで舞って貰う度に、お礼として米や銭を出す外に、人参や大根で男子の生殖器を作って添えたものだが、近年では警察署からの注意で、廃止することとなったと聴いた云々。 : 井上氏の同僚河野氏の談に『二三日前に大津市太郎坊のみこ(婆)の所へ、叔父の神経痛の薬を聞きに往きしに、年齢を問い、自己催眠の如き状になり、一種の節にて、急に<u>ぞんざい</u>なる言葉にて物を言い始め、その中に薬を云うのであった。薬は悉く草根木皮の漢薬であるが、大てい本草綱目等に書いてあるもので、猶お、大和国宇陀郡地方の<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>みこ</rt><rp>)</rp></ruby>も、かくの如き薬名を神託によせて教えるとのことであった』云々〔九〕。 '''八、阿波国美馬郡の市子と作法''' 阿波国美馬郡出身の後藤捷一氏の高示によれば、同郡地方の市子は、土着の精眼者で、社会的の地位は低く、生活も余り豊ではない。民家で市子を頼む場合は、原則としては喪家に限り、普通の家では特別の事情に由る外は、頼む事はない。横死するとか、夭亡するとかの場合に、その者が死んで仏となったか否か、それとも迷っているかと懸念して市子を煩わすのであるが、俚俗この事を「<ruby><rb>弓打</rb><rp>(</rp><rt>ゆみうち</rt><rp>)</rp></ruby>かける」と云っている。そして弓打かけに往く時は、必ず死者の位牌を持参し、市子は此の位牌に向って、何か呪文を唱え(中山曰。讃岐香川郡の市子は此の時に、白布で包んだ例の外法箱へ片手を載せ、その掌に飯を盛った茶碗を持つと聞いている)ているうちに、市子は何時しか位牌の主の死者となり、依頼者と談話を交換するのであるが、併しその文句は概して定まっていて、よく来てくれたとか、誰々が来ていぬとか、石碑を建ててくれぬので仏になれずに迷っているとか、或は死者が幼年である場合は、冥土で祖父さんに抱かれているとか、お父さんが来ていぬが、どうしたのかなどと云い、更に妻を残して死んだ男なれば、子供の事を呉々も頼むとか、殆んど版に起したような事を言うが、往々冥土にいる筈の祖父が健在したり、子供が無いのに頼むなどの失敗を繰り返すこともある。依頼者は、言うまでもなく、迷信の深い婦人達であって、稀には三里も五里もある遠い市子の許まで、頼みに出かける者もある。但し、同地の市子は、此の外の祈祷、縁談の吉凶、家相の善悪などの事は一切関係せぬ。喪家以外の民家で依頼する場合は、その家に不幸が続くので、何か古い時代に悪い死に方(横死憤死など)をした者の祟りではないかと思うとき、巫女を煩わして死者の望みを聞き、それを果してやる時である云々〔一〇〕。 '''九、土佐高知市の市子と其の呪法''' 高知市の寺石正路氏の高示によれば、同市潮江町に<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>みこ</rt><rp>)</rp></ruby>が居り、岸本竹子と称し、五十七八歳の老人にて夫あり、夫も祈祷師を営んでいる。世上この婦人に頼み、先祖の霊など呼び出す故、俗に『呼び出しをしてもらう』と云っている。巫女の家には、東方の棚に八百万の神々を祭り、西方の棚に諸仏を祀る。依頼者の望みにまかせ、神霊でも、仏霊でも、直ちに呼び出す。但し正月三ヶ日、或は神祭日には、神の霊は来るが、仏の霊は来らず、又た仏の霊の来たる日は、神の霊は出ず、同じ日に神と仏と憑りうつることは無いと云う。 呪法は昔の面影はなく、ただ神棚なり仏壇なりに向い、暫らく合掌祈念しているうちに、依頼者の指定した男なり女なりの霊が移り、依頼者と問答するのであって、祭り方はどうせよとか、墓の石が傾いたから直せと云うようなことを言い、更に依頼者から質問があれば、それに答弁する、巫女の声は、<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>かか</rt><rp>)</rp></ruby>った男女、老若の声となるのが、不思議だと云われている。そして長いのになると、二三時間もかかり、それを一日に幾度も繰返すと、非常に骨が折れるものと見え、汗を流すと云う。猶この巫女は流行していて、今に毎日数人の依頼者がある。以上は、高知銀行員木股茂里馬氏及び潮江町の宮地昌次氏の実験談を聞いたものである〔一一〕。 '''一〇、筑前国直方附近の市子と其の呪法''' 筑前国鞍手郡直方町の青山大麓氏からは、前後三回の高示に接しているが、ここには同氏の寛容に愬えて、私が勝手に要約することとした。但し事実においては、些末の相違なきことは改めて言うまでもない。左に掲載するものがそれである。 : 宗像郡上西郷村大字内殿に居る「みこじょう」は、久保田直子とて、本年六十歳ほどの老婆、私(青山氏)が訪ねた時は、籾摺りをしていた。此の家は神理教の教会になっているが、元は農家であって、現に農業を営み、教会は内職という有様である。私は附近の農家で教えてもらった通りに「仏様の御到来を聴きに参りました」と云ったところ、籾摺りの手をとどめ、直ちに私を仏間へ招じ、私の住居と死者の死亡年月日と行年及び姓名を問い仏前に蝋燭一本を点じ、線香四本(私の妻が死んで四年目だというので線香を四本立てたのか聞き漏らした)を立て、先ず初め十三仏の御詠歌とて、左の如き普通に行われている詠歌とは全く異るものを中音で唱えた。 :: 一、不動さま 神となり仏となりて水の中、雷火の中に立つは世のため :: 二、釈迦如来さま <ruby><rb>大小</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>の年も習わぬ教文を、瑠璃を唱えしこれぞ教文 :: 三、文殊菩薩さま 普陀洛や居ながらとなう善根を、皆成仏の導きとなる :: 四、普賢菩薩さま としさそう只一人も百合の花、つぎざにのぼる慈悲な善根 :: 五、地蔵菩薩さま 善悪もつくりし罪は一心に、ねがえ助くる地蔵誓願 :: 六、弥勒菩薩さま 世の中はうそいつわりを納めおく、来たる未来は偽りはなし :: 七、薬師如来さま 唱えれば薬の利益かいきある、時節を待てど養生はなし :: 八、観世音菩薩さま 神ほとけよくめも願いある深き、心をひとつ誠となえよ :: 九、勢至菩薩さま 生れ来てそよしる事と知りながら、後生を願う人は少し :: 十、阿弥陀如来さま 父母のそだてし恩も忘れなば、救う阿弥陀の網にとまらぬ :: 十一、阿閦如来さま 願うなら仏と思う父母に、後生の元は親に孝行 :: 十二、大日如来さま 幼な子よはてしこの子は契りなし、育てし親にあたえとの事 :: 十三、虚空蔵菩薩さま 風さそう哀れつれなし灯火の、消えし我が名は面影はなし :: 打ち返し 面影は無いと云えども願うべし、先の苦楽はあからかにゆく : 殆んど意味の通ぜぬものがある迄に唱え崩された詠歌が終ると、両手を揉んで、狐憑きのように頻りに震っていたが、今度は西国三十三番(これは流布のと同じ)の御詠歌を巡礼の口調で唱え、その終りに四五回<ruby><rb>欠呻</rb><rp>(</rp><rt>あくび</rt><rp>)</rp></ruby>をして仏を招じた。この欠呻はほんとに冥府から来たというような陰気な長いものであったが、愈々仏が来ると「よう参って来てやんなさったナァ、こっちへ近う寄んなさい、今日は緩りお話をしましょう」と云うような事から始まって、色々の事を言ったが、初めから終りまで泣くことばかりであった。 : 仏との話が済んで、仏が帰えるとき前と同じく四五回欠呻をして、「よう参って来てやんなさった、私はほんとに嬉しい」と云って、一度泣いて仏は帰り、次で信濃の善光寺の御詠歌を唱えて終りとなった。料金は一回三十銭から五十銭だというので五十銭置いて来た。 : 内殿附近で尋ねた農婦の話では、祈祷を呼ぶ場合には、前に古い仏(祖父とか父親とかの仏になったもの)を呼んで、次に新仏を呼んでもらうものだと聞いたが、私の場合は直ぐに、四年前に死んだ妻の霊が出て来たのである。それから私の地方では、仏をそうして呼び出すと、位が下がると云うていて、軽々しく仏を呼んではならぬと戒めているようである〔一二〕。 此の外にも三四の学友から高示を受けているが、市子の呪法も、生活も、社会的地位も、殆んど既載のものと大同小異であって、別段に取り立てて記すべきものが無かったので省略した。ただその中で注意を惹いたことは、浄土真宗の隆んに行われている地方には、市子の全く存して居らぬと云う事実であった。これは宗義として雑行を禁じているためであることは言うまでもない。而して以上各地の状況を高示によって比較すると、 : 一、奥州のイタコが何として古俗を伝えていて、殊に守り本尊と結婚すると云うが如きは、山城の相楽郡のそれと同じく、遠い昔に、巫女が神々と結婚した遺風として、珍重すべき資料である。 : 二、磐城の笹ハタキの唱える呪文中にある「翼ぞろい」の一章は、種々なる意味で有益なることは既載の如くであるが、それにしても、斯うした古い事象が残っていたことは、案外であった。 : 三、九州の「いちじょう」が唱える十三仏の詠歌が、普通に流布している以外のものであったことも、又私にとっては意外であった。 単にこれだけを手懸りとして考察を試みることは早速であるが、民間に行われた十三仏の信仰は、その地方毎に内容を異にしていたものがあった事が知られると同時に、九州にても巫女がこれを護持仏とし、遠く離れた奥州のイタコがこれを守り本尊とするところを見ると、諸仏のうちから十三仏だけ引きぬいた信仰は、或は神道から放れた巫女が仏教に歩み寄った折に工夫したものではあるまいかとも思われる。極めて大胆な且つ粗笨な考え方ではあるが、記して後考を俟つとする。 猶お、此の機会において、高示を賜りし各位に対して、謹で敬意を表する次第である。 ; 〔註一〕 : 青森県八戸市廿六日町のイタコ、根越スエ子(四十六歳)が、曾て「神付」を行うた折の、、用品調べというべきものを、中道等氏から恵贈されたので、茲に載せるとした。<br />その用品の重なるものは、四斗俵二俵(一俵には米三斗三合三勺入れ、他の二俵には何にても三斗三升三合入れる)、八升俵二俵(これには米七升七合七勺を入れる)、白酒木綿四丈五尺一本、注連縄同上一本、イタコ着用の白木綿の単衣二枚(丈四尺)、腰巻二本、手拭二本(三尺三寸)、鉢巻二本(五尺五寸)、木綿一反(以上、白に限る)、白足袋二足、白扇(無地)二本、水桶(手洗鉢、盥とも三個)、膳椀(二人分)、オサゴ米、茣蓙二枚、幣束七本、礼拝用の小銭(三十三枚、五厘でも一銭でもよし)等である。<br />尚「神付」を行う間は、イタコは一日に二三度づつ、垢離の代りにして入浴し、且つ七日間の修行中は、他家にて一切飲食せぬことの定めである。 ; 〔註二〕 : 中道等氏は、青森県八戸市のお方で、曩に「青森県史」の大著があり、民俗学にも造詣が深く、大正の末頃に東京に移住されてから、度々お目にもかかり、文通もし、少からず裨益を受けている学友である。 ; 〔註三〕 : 笹ハタキの唱える六根清浄祓などは、原の文句とは似つかぬまでに唱え<u>ゆがめ</u>られていて、別段にかかるものを事々しく記載する必要はないのであるが、それを承知しながら、紙面を割いたには又相当の理由が存しているのである。それは外でもなく、先年私は九州における盲僧の徒が、堅牢地神品を琵琶に合せて誦することを中心として、盲僧派と当道派との関係を記した拙稿を「歴史地理」誌上に連載したことがある。勿論、その時は、地神品とあるから、金光最勝明王経のそれであろうと速断して記述したところ、後になって岩橋小弥太氏から「嬉遊笑覧」によると、盲僧の誦した地神品は、誠に埒ちなきものであると云うが如何と、一本参らせられたことがあるので、今度はそれを想い起し、唱え<u>ゆがめ</u>られたものでも、後世に伝えるのは、又学徒の責任だと考えたので、敢て此の態度に出た次第である。因に言うが、佐坂氏は、石城郡上遠野村小学校に教鞭を執られているお方である。 ; 〔註四〕 : 大正六年八月に学友ネフスキー氏と携えて、茨城県久慈郡天下野村大字持方へ旅行したことがある。その夜、同地の小学校長栗木三次氏が来られ、同地の巫女の唱える呪文とて、此の「白き御幣が三十と三本」云々の事を語り、且つ「その節調は軍歌の如く、勇しきものである」と話されたことがある。 ; 〔註五〕 : [[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|前]]に載せた越後国三面村の「邪権附」の呪文と同根であって、然もまだ此の方が余りに崩れていぬようである。猶おY先生のお話によると、此の呪文は他の地方にも行われているとのことである。 ; 〔註六〕 : 猶、この場合に、佐坂氏の記事の暗示から導かれて、その真相がやや明確に知ることの出来たのは、平安朝に一派をなしていたと想われる「藤太巫女」の正体と、「炭焼藤太」の伝承の分布とである。<br />而して、前者にあっては「梁塵秘抄」に『鈴はさや振る藤太みこ、眼より下にて振るときは、懈怠なりとて、神は怒らせたまふ』云々とあり、後者にあっては、柳田国男先生の「海南小記」に『炭焼小五郎が事』と題して、各地の類話を挙げ、これが詳細なる研究が試みられている。<br />これに就いて、私の考えるには、此の「炭焼藤太」の伝承は、元は藤太の一派に属していた巫女が、謡い物として、各地を持ち歩き、その結果、西は琉球から、北は奥州まで、到る所に、此の伝承が、植えつけられたのではあるまいかと云う事である。管見を記して、江湖の叱正を仰ぐとする。 ; 〔註七〕 : 加藤巌氏は「民族と歴史」の寄書家として知られていて、私もこれで知ったので、お手数を煩わしたのである。高示は昭和四年一月廿三日に接手した。 ; 〔註八〕 : 林魁一氏は斯界の先輩で、「東京人類学雑誌」「郷土研究」「民族」などで、芳名を存じあげていたのでお願いした。高示は昭和四年二月四日に接手した。 ; 〔註九〕 : 井上頼寿氏は、京都府立第二中学校に奉職されているが、雑誌「民族」で芳名を知り、御無理をお願いしたのである。同氏は明治の碩学井上頼国翁のお孫さんだと伝聞している。 ; 〔註一〇〕 : 後藤捷一氏とは「郷土趣味」以来文通をするほどの親しみを持っていたので、それに甘えて、御手数をかけたのである。高示は昭和四年二月十二日に接手した。 ; 〔註一一〕 : 寺石正路氏は、海南中学の教職に居り、著書も「食人風俗志」「南国遣事」その他多数あり、現に「土佐史壇」の牛耳を採って居らるる大先輩である。私は先年から書信を以て、常に高示に接しているので、又々その御厚誼に縋り、お願いしたのである。高示は昭和四年三月八日に接手した。 ; 〔註一二〕 : 青山大麓氏は、氏が先年国学院大学に在学中から、交際を頂いていたので、今度も少からぬ御迷惑を懸けた次第なのである。氏は現に直方町の県社日方八幡宮に奉仕されている祠官で、少壮の篤学者である。 [[Category:中山太郎]]
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