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日本巫女史/第一篇/第七章/第一節
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==第一節 神その者としての巫女== 巫女の発生を「をなり神」の信仰にあると考えた私は、更に神その者としての巫女の位置を説かねばならぬのであるが、我が古代の文献に現われたところでは、既記の如く、巫女の社会的位置は一段と引き下げられて、漸く神の代理者、又は神と人との間に介在する<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>座</rb><rp>(</rp><rt>マシ</rt><rp>)</rp></ruby>としてのみ伝えられ、神託を宣べる時だけ神として崇拝されたのみで、更に民俗に見るも、伝説に徴するも、巫女を神その者として信仰した事象を捉えることが困難なのである。勿論、天照神である<ruby><rb>大日霊貴</rb><rp>(</rp><rt>オオヒルムチ</rt><rp>)</rp></ruby>を巫女として考覈することが無条件に允さるるならば〔一〕、或る程度までは、此の事が明確に知り得らるるのであるが、併しながら、現在の学界の趨勢と、社会感情とは、此の至高神の民俗学的研究は或る程度まで差控えねばならぬ状態に置かれてあるので、これは到底企てられぬことである。そこで洵に窮余の一策ではあるが、他に相当の事例を見出して、間接的にもこれが記述を運ばねばならぬのであるが、それには先ず内地の古俗を克明に保存した琉球の巫女信仰を知る必要があると信ずるので、左に折口信夫氏の所見を挙げ、然る後に内地の巫女に関する私見を述べるとする。 : 生き神とか、<ruby><rb>顕</rb><rp>(</rp><rt>アキ</rt><rp>)</rp></ruby>つ神とかいう語は、琉球の巫女の上で、始めていうことが出来る様に見える。神と人との堺が明らかでない(中略)。神を拝むか、人を拝むか、判然しない場合すらある。<u>のろ</u>(中山曰。巫女)<ruby><rb>殿内</rb><rp>(</rp><rt>ドンチ</rt><rp>)</rp></ruby>に祀るのは、表面は火の<ruby><rb>神</rb><rp>(</rp><rt>カン</rt><rp>)</rp></ruby>であるが、是は単に<ruby><rb>宅</rb><rp>(</rp><rt>ヤカ</rt><rp>)</rp></ruby>つ神としてに過ぎない(中略)。<u>のろ</u>自身は、由来記(中山曰。「琉球国諸事由来記」のこと)などに記したほど、火の神を大切にはしていない。<u>のろ</u>の祀る神は別にあるのである。 : 正月には、村中のものが<u>のろ</u>殿内を拝みに行く。最古風な久高島を例にとると、それは確かに久高、<ruby><rb>外間</rb><rp>(</rp><rt>ホカマ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。地名)両<u>のろ</u>の火の神を拝むのではない。拝まれる神は、<u>のろ</u>自身であって、天井に張った<ruby><rb>涼傘</rb><rp>(</rp><rt>リャンサン</rt><rp>)</rp></ruby>という天蓋の下に坐って、村人の拝をうける。涼傘は神あふりの折に、御嶽に神と共に降ると考えていたのであるから、とりも直さず、<u>のろ</u>自身が神であって、神の代理或は、神の象徴などとは考えられない。併し、神に扮しているのは事実であって、それが火の神ではなく、<ruby><rb>太陽神</rb><rp>(</rp><rt>チダガナシ</rt><rp>)</rp></ruby>若しくは<u>にれえ</u>神(中山曰。常世から来る神)と考えられている様である。外間の<u>のろ</u>殿内には、火の神さえ見当らなかった位である。外間の<u>のろ</u>或は、津堅島の<ruby><rb>大祝女</rb><rp>(</rp><rt>ウフヌル</rt><rp>)</rp></ruby>の如きは、其拝をうける座で床をとり、蚊帳を釣って寝ている。津堅の方は、そこで夫と共寝をする位である。<u>のろ</u>自身が同時に神であると云う考がなければ、こうした事はない筈である云々(以上「山原の土俗」(炉辺叢書本)に載せた「続琉球神道記」に拠る)。 此の折口氏の記事を基調として、更に前に引用した「魏志」の倭人伝の卑弥呼の条を考え直して見たいと思う。 : 卑弥呼、事鬼道能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治国、自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食伝辞、出入居処云々。 魏志の倭人に関する記事は、恐らく帯方にいた支那人が、自分の見聞と、他人の見聞とを搗きまぜて、書いたものと思うが、此の鬼神に事え、衆を惑すの一句は、支那人の知識から書いたもので、その実際は、卑弥呼は直ちに神であると信仰されていたものと考えられる。当時の支那人の知識から云えば、人が神であることは信ぜられなかったであろうし、且つ同じように神といっても、我国と支那とは、神に対する観念が異っているので、支那流の巫覡の思想で、斯くは鬼道に事える者と記したに相違ない。卑弥呼が、巫女——然も最高位の巫女であることは、私とても異存はないが、併しその実状にあっては、神その者として民衆に臨んでいたに違いない。それは王となってから、見る者も少く、且つ千人の侍婢あるにもかかわらず、ただ男子一人あって、飲食を給し、辞を伝うとあるのからも、知ることが出来る。 而して此の男弟があって、治国を佐けたとある一事は、当時の倭の国家の成立と、社会の組織とを考える上に、極めて重要なる史料とすべきものがある。即ちその頃の倭国にあっては、神——特に女性に限られたものが主権者として君臨していたことを伝えているのであるが、これは国家の成立が神の意によって行われ、社会の組織が神の掟によって定められていたことを証拠立てているものである。換言すれば、神の意を行うことが政治であり、神の事を行うのが祭祀であった祭政一致時代の倭国においては、卑弥呼の意は、直ちに神の意であり、神の事は即ち卑弥呼の事であった。ただこれを執行することを男弟が佐けたに過ぎぬのである〔二〕。而してこれが一時代降ると、神その者であった女性の主権者は、こんどは己れが祀る神から託宣を受けて神意を述べるようになり、此の女性の兄、または弟がこれを承けて政治を行う事となるのであるが、ここまで時代が降ると、我が古代にも、その痕跡のあったことが、やや明白に知られるような気がするのである。 我国の祭政は、崇神朝において分離されたのであるが、それでも斎宮の初めとなられた豊鍬入姫命は垂仁帝の皇姉であり、次の倭姫命は景行帝の皇妹であり、代々の斎宮が概して天皇の姉妹であらせられたことは、その古代の政治組織を残したものであって、然も倭国の卑弥呼のそれと共通したものがあったのでは無かろうか。 更に、徴証としては、少しく不充分の嫌いはあるが、「常陸国風土記」行方郡当麻郷芸都里の条に、 : 古有国栖曰<ruby><rb>寸津毗古</rb><rp>(</rp><rt>キツビコ</rt><rp>)</rp></ruby>、寸津毗売二人、其寸津毗古、当天皇{○倭/武尊}之幸、違命背化、甚无肅敬、爰抽御剣登時斬滅、於是寸津毗売、懼悚心愁、表挙白幡、迎道奉拝、天皇矜降恩旨、放免其房、云々〔三〕。 とあるのや、「播磨国風土記」印南郡含芸里の条に、 : 志我高穴穂宮御宇天皇{○成/務帝}御世、遣丸部臣等始祖比古汝弟、合定国堺、爾時、吉備比古、吉備比売二人参迎、於是比古汝弟娶吉備比売、生児印南別嬢云々。 とあるのや、更に「肥前国風土記」彼杵郡の条に、 : 昔者、纏向日代宮御宇天皇{○景/行帝}誅滅球磨噌唹凱旋之時(中略)。於茲有人名曰速来津姫、此婦女申云、妾弟名曰健津三間、住健村之里、此人有美玉、名曰石上神之<ruby><rb>木連子玉</rb><rp>(</rp><rt>ヒタビダマ</rt><rp>)</rp></ruby>、愛而固蔵不肯示他、神代直尋覓之越山逃走落石岑{○原/註略}即逐及捕獲云々。 とあるのや、まだ此の外に、「垂仁記」にある沙本毘古王とその妹沙本毘売や、「賀茂縁起」にある玉依日子と、その妹玉依日売などを重なるものとして、兄妹または姉弟の一対を物語の中心としたものが多く伝えられているのは、或は卑弥呼と男弟との関係の如き事実の在ったことを意味しているのではないかと想われる。我が古代における家族相婚は、兄妹また姉弟の間に行われるのが普通であった〔四〕。古く妻を<ruby><rb>吾妹</rb><rp>(</rp><rt>ワギモ</rt><rp>)</rp></ruby>と称したのは、此の遺風であると考えられるのである。 ; 〔註一〕 : 折口信夫氏は雑誌「民族」第四巻第二号「常世及びまれびと」の記事中で、明確に天照神は最初の最高巫女なりと言われている。 ; 〔註二〕 : 卑弥呼が支配した倭国の所在地に就いては、今に学界に定説がないほどの難問題であるが、明治になって九州説を主張する者は、白鳥庫吉氏、内藤虎次郎氏、橋本増吉氏を始め沢山あり、畿内説を主張する者は、三宅米吉氏、山田孝雄氏等の外に沢山ある。私は民俗学的に見て、畿内説に加担する一人で、私見は曩に「考古学雑誌」に掲載した。 ; 〔註三〕 : 寸津毗古、寸津毗売とあるのから推して、これを兄妹と見ずして夫妻と見るのは、古代の民俗に必ずしも適当したものではない。現に、「常陸風土記」那賀郡茨城里の条に「古老曰、有兄妹二人、兄名努賀毗古、妹名努賀毗咩」とあるように、これは同胞と解するのが妥当である。そして弟(オト)が妹であり、女性である用法も古代には往々ある。 ; 〔註四〕 : 家族相婚は問題が風紀に関するものが多いので、余り深く立入って言うことは避けなければならぬが、それでもその大体は拙著「日本婚姻史」において触れて置いた。参照を望む次第である。 [[Category:中山太郎]]
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