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日本巫女史/第一篇/第七章/第三節
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==第三節 霊媒者としての巫女== 我が古代人が、高天原に在す神々を地上に<ruby><rb>招</rb><rp>(</rp><rt>オ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎ<ruby><rb>降</rb><rp>(</rp><rt>オロ</rt><rp>)</rp></ruby>すに就いて、如何なる方法が最も原始的かというに、私の考えたところでは、神の<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>代</rb><rp>(</rp><rt>シロ</rt><rp>)</rp></ruby>として樹てたる御柱(故愛山氏が韓国の神桿と似たものと論じたものである)の周囲を<ruby><rb>匝</rb><rp>(</rp><rt>メグ</rt><rp>)</rp></ruby>ることであったと信じている〔一〕、諾冊二尊が天ノ御柱を行き廻られたのは即ちそれであって、今に信仰に篤き者が神社に詣でた折に社殿を匝るのは、此の面影を伝えているものと考えるのである。併しながら、是れは単に高きに在す神を地上に降すだけであって、その<ruby><rb>降</rb><rp>(</rp><rt>オロ</rt><rp>)</rp></ruby>した神を身に<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>らしめ、然も神の意を人に告げる所謂「霊媒者」又は「託宣者」となるには、如何なる方法が用いられたであろうか。而して私は是れに就いては、二つの方法が存したと考えている。即ち第一は、既述した鈿女命の場合に見えし如く、空槽伏せて踏み轟かし、跳躍して<ruby><rb>顕神明之憑談</rb><rp>(</rp><rt>カムガカリ</rt><rp>)</rp></ruby>の状態に入るのと、第二は畏くも神功皇后が行わせられた方法である。「日本書紀」巻九神功皇后九年の条に、左の如き記事が載せてある。 : 三月壬申朔、皇后選吉日入斎宮、親為神主、則命武内宿禰令撫琴、喚中臣烏賊津使主、為<ruby><rb>審神者</rb><rp>(</rp><rt>サニハ</rt><rp>)</rp></ruby>、因以千繒高繒置琴頭尾、而請曰、先日教天皇(中山曰。仲哀天皇)者誰神也、願欲知其名、逮于七日七夜、乃答曰、神風伊勢国之、百伝度逢県之、拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木厳之御魂天疎向津姫命焉。亦問之、除是神有神乎、答曰、幡荻穂出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也、問亦有耶、答曰、於天事代、於虚事代、玉籤入彦厳之事代主神有之也。問亦有耶、答曰、有無之不知焉。於是審神者曰、今不答而更後有言乎、則対曰、於日向国橘小門之水底所居而、水葉稚之出居神、名表筒男、中筒男、底筒男神之有也。問亦有耶、答曰、有無之不知焉。遂不言且神矣。時得神語、随教而祭云々。(国史大系本) 神功皇后の征韓の大事業は、我が国家の発展上に一時代を劃した偉勲であった。従って、これを遂行せらるるに就いては、当時の習礼となっていた神々の加護を仰ぐため、神意に聴くこととなっていたので、皇后の尊き御身でありながら、此の神事を行わせられたのである。それ故に、その儀式において荘重を極め、その精神において原始神道の古義を遵び、我が三千年の歴史を通じて、寔に一例しか見ることの出来ぬ聖範を貽されているのである。「日本書紀」によれば、皇后は、一年の間に三度までも神に<ruby><rb>託</rb><rp>(</rp><rt>ツカ</rt><rp>)</rp></ruby>れていて、全く神人としての生活を送られていたのである。本居翁が『此の大后にかく神の<ruby><rb>託</rb><rp>(</rp><rt>ヨラ</rt><rp>)</rp></ruby>し賜へりしは、尋常の細事には非ず、永く財宝国を言向定め賜へる起本にしあれば、甚も重き事ぞかし』と説かれし如く〔二〕、国運を賭しての出征を神慮に聴くのであるから、皇后の御心尽し拝察するだに畏きことである。而して此の大事を決定すべき神意が、如何にして伝えられたか、それを前掲の「日本書紀」の記事に徴すると、 : 一、吉日を選んで斎宮に入られたこと : 二、皇后親らが神主となられたこと : 三、武内宿禰に琴を弾かせ、然もその琴の頭尾に千繒高繒を置かれたこと : 四、<ruby><rb>烏賊津使主</rb><rp>(</rp><rt>イカツノオミ</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>サニワ</rt><rp>)</rp></ruby>となし、問答体を以て託宣せられたこと : 五、七日七夜に逮んで祈念せられたこと : 六、託宣は韻文的の律語を以てなされたこと が知られるのである。私は此の記事こそ、古代の巫女の作法を考覈する上に全く唯一無二の重要なるものと信ずるので、これに関する先覚の研究を参酌し、私見を併せ加えて、やや詳細に記述したいと思うのである。 第一は、皇后が吉日を選んで斎宮に入られた事であるが、当時、我国には<ruby><rb>日奉部</rb><rp>(</rp><rt>ヒマツリベ</rt><rp>)</rp></ruby>と称して、日の吉凶を判定する部曲があった〔三〕。これが後に<ruby><rb>日置部</rb><rp>(</rp><rt>ヘキベ</rt><rp>)</rp></ruby>となり、国々に土着して、専ら天文道の暦日の事を掌っていたのである。祝詞などにも『八十日<small>波</small>在<small>止毛</small>今日<small>能</small>生日<small>能</small>足日<small>爾</small>』と見えているから、古くから日の吉凶を定める信仰と、方法とが存していたに違いない。斎宮は、皇后が此の神事を行わせたまうに就き、新に設けられたもので、今にその故址が筑前国糟屋郡山田村大字猪野に在るということである〔四〕。かく吉日を選んで斎宮に入り、神事を行われたのは、此の神事の目的が、前に述べたように国家の運命にも関するほどの重大事であったので、かく荘厳を極めたものと考える。「神武紀」などにも、戦前または戦争中に、神慮を問わせられたこともあるが、これ程に重く取り扱わなかったのは、その事件の軽重によられたことと思われる。 第二に、皇后が専ら神主となられたことであるが、これには先ず神主という語義から考えて見る必要がある。我国で神主の語の初見は、「古事記」崇神朝に、 : 以意富多々泥古命為神主、而於御諸山拝祭意富美和之大神云々。 とあるのが、それである。而して此の語義に就いて、本居翁は『神主は神に奉仕る<ruby><rb>主人</rb><rp>(</rp><rt>ヌシ</rt><rp>)</rp></ruby>たる人を云ふ称なり』と先ず定義を下し、更に、 : 思フに、神主と云ふ称は、もと此ノ段(中山曰。神功紀)の如く、神の命を請奉る時に、其神の託て命のりあるべき人を、初メより定め設くる其人を云ふ称にぞありけむ、かくてまた神に奉仕る人を云ふ称と為れるも、<ruby><rb>神託</rb><rp>(</rp><rt>カムガカリ</rt><rp>)</rp></ruby>のために設くる人よりうつれるなるべし。 と説明している〔五〕。これに従うと、神主とは、神の託宣を人に<ruby><rb>中言</rb><rp>(</rp><rt>ナカコト</rt><rp>)</rp></ruby>する者という狭義のものとなってしまうのである。飯田武郷翁は本居説を認めながらも、猶お : 神主は、神に奉仕る<ruby><rb>主人</rb><rp>(</rp><rt>ヌシ</rt><rp>)</rp></ruby>たるを云ふ称なることは元よりなれど、此にかく皇后の親ら神主と為玉へるを以思ふに、なべて神に奉仕する称とはかはりて、いと重かるべし(中略)。大后に神の<ruby><rb>託</rb><rp>(</rp><rt>ヨリ</rt><rp>)</rp></ruby>て坐ける事も、神主と為て神の<ruby><rb>依坐</rb><rp>(</rp><rt>ヨリマシ</rt><rp>)</rp></ruby>と定まり賜へるが故なり。 と論じているが、少しく徹底せぬ嫌いがある〔六〕。更に鈴木重胤翁は : 神主とは、神に仕奉る人の中の長者を云ふ、神代紀に斎主神斎之大人と有る意ばへを察むべし。 と簡単に説いているが、頗る物足らぬものがある〔七〕。而して是等の諸説にくらべると、荻生徂徠が、 : 神主といふは、昔はその神の子孫を神主としたるなり、喪主などの心なり。 と云ったのは〔八〕、兎に角に一見識を有していたものと思わざるを得ぬ。 併しながら、私をして露骨に、且つ放胆に言わせると、是等の先覚の諸説は、悉く字義に拉われて、我が古代の民俗を忘れたものにしか過ぎぬのである。換言すれば、神主なるものが、神祇官流の神道に固定した後の解釈であると同時に、文献の上からばかり立論して、神主の発生と発達の過程を疎却した謬見である。私の考えを極めて率直に言えば、神主は即ち<ruby><rb>神主</rb><rp>(</rp><rt>カムザネ</rt><rp>)</rp></ruby>であって、神その者であると信じている。それでなければ、信州の諏訪神が『吾れに神体なし、<ruby><rb>大祝</rb><rp>(</rp><rt>オホハウリ</rt><rp>)</rp></ruby>を以て神体となす』と託宣したことや〔九〕、併せて此大祝が<ruby><rb>現神</rb><rp>(</rp><rt>アキツカミ</rt><rp>)</rp></ruby>として民衆に臨んだ理由が判然せぬ。更に出雲国造が、同じく現神として多年の間を通じて、深き崇拝を民衆から受けていたことや〔一〇〕、更に伊予三島社の大祝が、半神半人として大なる信仰を<ruby><rb>維</rb><rp>(</rp><rt>ツナ</rt><rp>)</rp></ruby>いでいたことが、解釈されぬのである〔一一〕。而して此の神その者であった神主が、時勢の推移によって、信仰に動揺を来たし、神の内容にも変化を生じた結果は、遂に祭られる神と仕える人との隔離となり、後には祭神と神主とが全く別物のように理解され、認識されるようになったのである。併し神主が神その者であるという原始的の信仰は、神道の固定するまでは、永く民心を支配していて、これを証明すべき民俗学的の事実は相当に多く存在しているのである。殊に<ruby><rb>御子神</rb><rp>(</rp><rt>ミコガミ</rt><rp>)</rp></ruby>の発生は、此の信仰と民俗とに負うところが深甚であるが、これに就いては、後段に述べる機会があると信ずるので、茲には注意までに言うとして、姑らく預るとする。私は此の立場から、皇后が親ら神主となられたと云う意味は、古くは神その者となったと伝えていたのが、日本書紀が文字に記される時分には、夙くも此の信仰が薄らいでいたのと、神主といえば神社に仕える者という合理的の解釈が行われていたので、かかる記事となって残されたものと考えるのである。 第三の神を祭る折に琴を弾くことであるが、此の事は関係するところが頗る広く、且つ巫女の降神術にも交渉を有しているので、精しく述べて見たいと思う。元来、我が古代人は、琴の音と、鈴の響きとは、神の<ruby><rb>声を象徴</rb><rp>(</rp><rt>シンボライズ</rt><rp>)</rp></ruby>したものだと固く信じていたのである〔一二〕。現今でも神社へ参詣した者が、社殿に架けてある鈴を鳴らすのは、神の声を聴こうとした<ruby><rb>虔</rb><rp>(</rp><rt>つつ</rt><rp>)</rp></ruby>ましき態度の名残りである。神に仕える者のうちで、殊に神に寵せられた巫女が、鈴を手にしたのも、これが為めである。それを斉藤彦麿翁が『神拝の時に鈴を振るは故実なるか』と設問して『古へはさる事なし』云々と、事もなげに答えているのは〔一三〕、本居翁の学風を承けた、私の所謂文献神道の欠陥を暴露したものである。更に平田篤胤翁が古神道の面影を忠実に伝えている巫覡を目して、猖んに「鈴振り神道」と罵倒しているのは、これも私の所謂ブルジョア神道の管見であって、採るに足らぬ。是等に比較すると荻生徂徠が『神道といふは、巫覡が神につかふる道なり』と喝破したのは〔一四〕、学問的には傾聴すべきものがある。琴と鈴とは原始神道においては神の声として尊ばれていたのであって、大己貴命が素尊の許から須勢理比売命と携えて奔る折に、生弓矢生太刀と共に、天詔琴を忘れなかったのは〔一五〕、此の信仰の古くから在ったことを証するものである。更に歴聖が即位の大礼として大嘗祭を行わせられ、天皇が親しく新穀を天神に供える折に、御鈴の神事があるのは、蓋し此の意味に外ならぬと拝察するのである。 原始神道における神々と、琴及び鈴(その他の笛、鼓などの楽器)との関係を説くのは、余りに埒外に出るので省略するが、かく初めは神の声として信じられていた琴や鈴は、後には使用の目的が変って来て、琴は神を<ruby><rb>招</rb><rp>(</rp><rt>ヲ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎ<ruby><rb>降</rb><rp>(</rp><rt>ヲロ</rt><rp>)</rp></ruby>す折の楽器として、鈴は神を愉悦させる楽器として用いられるようになった。併しながら、二つとも神聖なるものとして、神を降すに琴、神を慰めるに鈴を、欠くことの出来ぬものとした点は、古今ともに渝ることがなかった。前にも引用した延暦の「皇大神宮儀式帳」九月神嘗祭条に、 : 以十五日(中略)。以同日夜亥刻時、御巫内人乎、第二御門爾令侍弖、御琴給弖、請天照座大神乃神教弖、即所教雑罪事乎、候禰宜舘始、内人物忌四人、館別解除清畢云々。 とあるのは、その徴証である。それから、「万葉集」巻九に『神南備の<ruby><rb>神依板</rb><rp>(</rp><rt>カミヨリイタ</rt><rp>)</rp></ruby>にする杉の、思ひも過ぎず恋の繁きに』とある神依板は、即ち琴の意であって、出雲大社でも、此の種の神依板を近年まで用いていたということである〔一六〕。更に、神功皇后が神を祭る際に、武内宿禰に琴を弾かせたのも、又、神依板としての呪具と考えられるのである。そして「武烈紀」に『<ruby><rb>琴頭</rb><rp>(</rp><rt>コトガミ</rt><rp>)</rp></ruby>に来居る影媛珠ならば、吾が欲る珠の鰒白珠』とあるように、神は琴の音に引かれて天降られるものと信じていたのである。 然るに、後世の巫女(私の所謂口寄系の市子)が降神の際に、大弓小弓をたたき、此の弓の起原は、古代天鈿女命が琴の代りに六張の弓を並べて弦を叩きしに由るなどと言うているのは、これは何事にも無理勿体をつけたがる陋劣なる心理から出たもので、我が古代の正しい記録には、かかる事は全く見えず、且つ神を降すに弓を用いることは、我が固有の呪術では無いと考えているので、此の事は巫女の徒が弓を用い始めた支那の呪術の輸入された習合時代に詳述することとする。 更に<ruby><rb>神降</rb><rp>(</rp><rt>カミオロ</rt><rp>)</rp></ruby>しする琴の頭尾に、千<ruby><rb>繒</rb><rp>(</rp><rt>ハタ</rt><rp>)</rp></ruby>高<ruby><rb>繒</rb><rp>(</rp><rt>ハタ</rt><rp>)</rp></ruby>を置いたと云う事に就いては、古くから学者の間に異説があって、今に定説を聞かぬのであるが、私の専攻している民俗神道学の方面から見ると、繒は即ち旛の意であって、細長い小旛を幾本か立てたのを、かく千繒高繒と形容したものと考えている。而して此の小旛を立てる目的は、琴の音につれて降りし神が歩んで来る道しるべに外ならぬものであって、賀茂の<ruby><rb>御阿礼</rb><rp>(</rp><rt>ミアレ</rt><rp>)</rp></ruby>の神事の折に、阿礼木に附ける<ruby><rb>阿礼旛</rb><rp>(</rp><rt>アレハタ</rt><rp>)</rp></ruby>と同じものであると信じている。更に民俗学的に言えば、蒙古のハタツクと称する、一本の箭の頭の所へ一面の鏡と、長さ二三尺ほどの色の布とを結びつけた〔一八〕その布と、同じ<ruby><rb>活</rb><rp>(</rp><rt>はた</rt><rp>)</rp></ruby>らきを持つものと考えている。更に一段と手近の例を示せば、三河国北設楽郡の山村に残っている花祭の踊りの庭に、ボテ(梵天の意か)から湯蓋(湯立釜を覆えるもの)まで、中空に曳き架ける縄と同じく〔一九〕、神の来る道のしるべと見るのが穏当であろうと考えるのである。 第四は、烏賊津使主(中山曰。「新撰姓氏録」には雷大臣に作る。宗源神事の中臣系の人で卜部である)を<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>サニワ</rt><rp>)</rp></ruby>となされたことであるが、此の審神とは「政事要略」第二十八賀茂臨時祭の条に、神后紀を引き、その分注に『審神者、言審察神明託宣之語也』云々とあり〔二〇〕、更に「釈日本紀」巻十一述義の条に『兼方案之、審神者也、分明請知所案之神之人也』とある〔二一〕。此の両説で、審神の解釈は、要を尽しているのであるが、猶これを平易に言えば、審神とは神の憑り代となれる者に問いかけ、答えを得て、その託宣の精細と諒解とを図るものである。後世の修験道の間に行われた<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り祈祷の場合には、神の憑り代となる者を中座(又は御幣持ち、ヨリキとも云う)と称し、審神の役に当る者を<ruby><rb>問口</rb><rp>(</rp><rt>トイクチ</rt><rp>)</rp></ruby>と称したものである。口寄の市子にも又た此の種の役割があって、信濃巫女では荷持と称する者が是れに当った。詳細は後章に記すので、茲では概要を述べるにとどめる。 第五の、七日七夜に<ruby><rb>逮</rb><rp>(</rp><rt>およ</rt><rp>)</rp></ruby>んで皇后が神を降すことに努めたとあるが、此の日時の間において、如何なる作法が行われたかは、記録が無いので、何事も言うことが出来ぬ。勿論、神を降す太祝詞もあったろうし、これに伴う神秘的の祭儀も伴うていたことと想うが、茲にはそれ以上に言うべき何等の手掛りさえ有していぬのである。ただ是れに就いて想い起こされるのは、古く我国で神を招ぎ降す場合に、如何なる呪文(Spell)と云おうか、祷文(Charm)と云おうか、兎に角にこれに類した祝詞のようなものが有ったか、無かったかと云う一事である。元より後世の記録ではあるが、「皇大神宮建久年中行事」に載せた左の記事は、少しでも此の事を考えさせる資料になると信ずるので、茲に要点だけを抄録する。 : 六月十五日御占神事(中略)。御巫内人{衣/冠}自外幣段<ruby><rb>鵄尾</rb><rp>(</rp><rt>トヒノヲノ</rt><rp>)</rp></ruby>御琴請(中略)。次以笏御琴掻三度、度毎有警蹕、次奉下神、其御歌。 : <ruby><rb>阿波利矢</rb><rp>(</rp><rt>アハリヤ</rt><rp>)</rp></ruby>。<ruby><rb>遊波須度万宇佐奴</rb><rp>(</rp><rt>アソビハストマウサヌ</rt><rp>)</rp></ruby>。<ruby><rb>阿佐久良爾</rb><rp>(</rp><rt>アサクラニ</rt><rp>)</rp></ruby>。<ruby><rb>天津神国津神</rb><rp>(</rp><rt>アマツカミクニツカミ</rt><rp>)</rp></ruby>。<ruby><rb>於利万志万世</rb><rp>(</rp><rt>オリマシマセ</rt><rp>)</rp></ruby>。 : <ruby><rb>阿波利也</rb><rp>(</rp><rt>アハリヤ</rt><rp>)</rp></ruby>。<ruby><rb>遊波須度万宇佐奴</rb><rp>(</rp><rt>アソビハストマウサヌ</rt><rp>)</rp></ruby>。<ruby><rb>阿佐久良仁</rb><rp>(</rp><rt>アサクラニ</rt><rp>)</rp></ruby>。<ruby><rb>奈留伊賀津千毛</rb><rp>(</rp><rt>ナルイカツチモ</rt><rp>)</rp></ruby>。<ruby><rb>於利万志万世</rb><rp>(</rp><rt>オリマシマセ</rt><rp>)</rp></ruby>。 : <ruby><rb>阿波利也</rb><rp>(</rp><rt>アハリヤ</rt><rp>)</rp></ruby>。<ruby><rb>遊波須度万宇佐奴</rb><rp>(</rp><rt>アソビハストマウサヌ</rt><rp>)</rp></ruby>。<ruby><rb>阿佐久良仁上津大江</rb><rp>(</rp><rt>アサクラニウハツオホエ</rt><rp>)</rp></ruby>。<ruby><rb>下津大江毛</rb><rp>(</rp><rt>シタツオホエモ</rt><rp>)</rp></ruby>。<ruby><rb>摩伊利太万江</rb><rp>(</rp><rt>マヰリタマエ</rt><rp>)</rp></ruby>。 : 于時大物忌父、正権神主、不浄不信疑以人別姓名、為某神主若有不浄事申(中略)。御琴掻内嘯、件嘯音鳴以清知、以不鳴不浄知也(中略)。其後又御巫内人三度御琴掻、警蹕之後奉上神、御歌如本、但所奉下神御名申、今度帰御申云々。(続群書類従本。但し御歌の訓み方は伴信友翁に従った)。 更に伴信友翁の「正卜考」の附記によると、次の如くである。 : この事を、内宮の神官に尋問たるに、この御占神事、今も<ruby><rb>御占神態</rb><rp>(</rp><rt>ミウラカワザ</rt><rp>)</rp></ruby>とて、わづかにかたばかり行うに、琴板とて、凡長二尺五寸ばかり、幅一尺余、厚一寸余なる桧板を用う、其を笏にて敲く態を為と云えり、そは後に琴を板に代え、笏もて敲くこととせるなるべし云々。 私は茲に是等の御歌の内容を一々精査することは避けるが、その措辞の古雅なる点から推し、更に儀式の簡素なる点から見て、此の御歌の決して中古の作でないことだけは信じている。それかと言って、勿論、此の御歌を神后期まで引き上げようとする者ではないが、兎に角に斯うした神降しの御歌なり祷文なりが、神后の場合にも存したことと想ったので、その参考として長々と書きつけた次第である。猶お附記して置くが、我国における神降しの呪文とも見るべきもので、私の寡見に入ったものでは、是れが最初のものである。その点から言うも、此の御歌の学問的価値は、かなり高いものと云わざるを得ぬのである。 第六の託宣が韻文的の律語——即ち古き歌謡体を以てなされていることであるが、これも我国の文学の発生を知る上に注意すべき重点である。託宣と文学の交渉に就いては、別に詳記したいと考えているので、茲には後文と衝突するのを恐れて略述するが、始め神功皇后が審神の問いまえらせしに対して、 : <ruby><rb>神風</rb><rp>(</rp><rt>カミカゼ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>伊勢</rb><rp>(</rp><rt>イセ</rt><rp>)</rp></ruby>の国、<ruby><rb>百伝</rb><rp>(</rp><rt>モモツト</rt><rp>)</rp></ruby>ふ<ruby><rb>度逢県</rb><rp>(</rp><rt>ワタラヒカタ</rt><rp>)</rp></ruby>の、<ruby><rb>折鈴</rb><rp>(</rp><rt>サククシロ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>五十鈴</rb><rp>(</rp><rt>イスズ</rt><rp>)</rp></ruby>の宮に居る神、名は<ruby><rb>撞賢木</rb><rp>(</rp><rt>ツキサカキ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>厳</rb><rp>(</rp><rt>イツ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>御魂</rb><rp>(</rp><rt>ミタマ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>天疎</rb><rp>(</rp><rt>アマサカ</rt><rp>)</rp></ruby>る<ruby><rb>向津姫命</rb><rp>(</rp><rt>ムカツヒメノミコト</rt><rp>)</rp></ruby> と答えられ、再び問われて、 : <ruby><rb>幡荻穂</rb><rp>(</rp><rt>ハタススキホ</rt><rp>)</rp></ruby>に出し<ruby><rb>吾</rb><rp>(</rp><rt>アレ</rt><rp>)</rp></ruby>や、<ruby><rb>尾田</rb><rp>(</rp><rt>ヲダ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>吾田節</rb><rp>(</rp><rt>アダフシ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>淡郡</rb><rp>(</rp><rt>アハノコボリ</rt><rp>)</rp></ruby>に居る神 と答え、三度問われて、 : <ruby><rb>天</rb><rp>(</rp><rt>アメ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>事代</rb><rp>(</rp><rt>コトシロ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>虚</rb><rp>(</rp><rt>ソラ</rt><rp>)</rp></ruby>に事代、<ruby><rb>玉籤</rb><rp>(</rp><rt>タマクシ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>入彦</rb><rp>(</rp><rt>イリヒコ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>厳</rb><rp>(</rp><rt>イツ</rt><rp>)</rp></ruby>の事代主の神 と答え、四度問われて、 : 日向の国の橘の小門の<ruby><rb>水底</rb><rp>(</rp><rt>ミナソコ</rt><rp>)</rp></ruby>にいて、水葉の<ruby><rb>稚</rb><rp>(</rp><rt>ワカヤカ</rt><rp>)</rp></ruby>に出て居る神 云々と答えられているが、かく一句を発する毎に<ruby><rb>冠辞</rb><rp>(</rp><rt>まくらことば</rt><rp>)</rp></ruby>を用い、更に語意を強め、用語を荘重にするために<ruby><rb>折句</rb><rp>(</rp><rt>おりく</rt><rp>)</rp></ruby>を用いているところは、立派な叙事詩として見るべきものがある。我国の詩は叙事詩に始まり、然もその叙事詩は必ず一人称を以て叙べられている。これは神の託宣に胚胎し、併せて<ruby><rb>神語</rb><rp>(</rp><rt>カミゴト</rt><rp>)</rp></ruby>に発生した為めである。而して此の事は、アイヌの<ruby><rb>叙事詩</rb><rp>(</rp><rt>ユカラ</rt><rp>)</rp></ruby>に徴するも、琉球の<ruby><rb>託宣</rb><rp>(</rp><rt>ミセセル</rt><rp>)</rp></ruby>に見るも、決して衍らぬことを証明しているのである。 私は本節を終るに際し、特に言明して置かねばならぬ事がある。それは外でもなく、私は決して神功皇后を以て、巫女なり霊媒者なりと申すものでは無く、ただ皇后が親ら行わせられた神事の形式、内容、及び結果が、偶々後世の巫女及び霊媒者の行うところと似通っていたに過ぎぬと云うことである。私の不文のため、意余って筆足らず、或は皇后を以て巫女または霊媒者と誤解させる点がありはせぬかと思うと畏きに堪えず、ここに此の事を附記して不文の罪を謝する次第である。 ; 〔注一〕 : 御柱を匝ることが、古代の降神法であったと云う考察に就いては、拙著「土俗私考」に収めた「物の周りを匝る土俗」のうちに述べて置いた。参照を願えると幸甚である。 ; 〔注二〕 : 古事記伝(本居宣長全集本)巻三十。 ; 〔注三〕 : 日奉部及び日置部に就いては、民族(第二巻第五号)所載の柳田国男先生の「日置部考」及び中央史壇(第一三巻第一〇号)掲載の拙稿「日置部異考」を参照せられたい。 ; 〔注四〕 : 飯田武郷翁の「日本書紀通釈」第三十四に引用した、岡吉胤著の「斎宮考」に拠る。 ; 〔注五〕 : 古事記伝巻二十三、同書巻三十に見えている。猶お詳細は原本に就いて知られたい。 ; 〔注六〕 : 前掲の「日本書紀通釈」巻三十四。 ; 〔注七〕 : 「延喜式祝詞講義」巻一、新年祭の条に拠った。 ; 〔注八〕 : 奈留別志(日本随筆大成本)。 ; 〔注九〕 : 「諏訪大明神絵詞」巻上(信濃史料叢書本) ; 〔注一〇〕 : 「出雲懐橘談」の杵築の条(続々群書類従本の地理部所収) ; 〔注一一〕 : 「三嶋大祝家譜資料」及び同書に引用せる「三嶋大祝記録」並びに「予樟記」等に載せてある。 ; 〔注一二〕 : 我国の神々と音楽との関係は、原始神道史における重要なる問題で、ここには略述する事さえ困難であるが、私見を摘要すれば、我国の神々は、その神々の系統に属する音楽を有していたようである。例えば、出雲系の神は琴鈴を、高天原系の神も琴鈴を、南方系の神は臼太鼓と称する臼を楽器としたのを、更に笛を鼓をと云ったように特殊のものが在った。「政事要略」第二十八賀茂臨時祭の条に「古老云、昔臨箕攪其背遊」とあるのは、賀茂社に限られた音楽であり、「郷土研究」一ノ四に載せた、磐城国石城郡草野村大字北神谷の白山神社の祭に、氏子の壮者が鍬と鋤とをたたいて踊るのも、此の社に限られた音楽である。而して是等の音楽は、その始めにあっては、神の声であった。それが追々と神が整理され、音楽が統一されるようになって、琴、鈴、鼓、笛が、神の声を代表するようになり、更にそれが変化して、是等の音楽を奏することは、神が出現するときの合図と云うように解釈されて来たのである。巫女が弓弦をたたき、又は鼓を打てば、神を呼び出し得るものと考えたのは、此の信仰に由来しているのである。猶お、巫女と、音楽や、楽器の関係に就いては、本文の後章に記すゆえ、参照せられたい。 ; 〔注一三〕 : 「神道問答」巻下(大日本風教叢書本第八輯) ; 〔注一四〕 : 前掲の「奈留別志」。 ; 〔注一五〕 : 「古事記」神代巻。 ; 〔注一六〕 : 「東京人類学雑誌」柴田常恵氏の「山陰紀行」の記事中に、出雲大社の神依板のことが、挿図まで加えて詳記してある。 ; 〔注一七〕 : 鳥居龍蔵氏が、先年蒙古の将来品を以て白木呉服店で展覧会を開かれたときに、ハタツクなるものを目撃した。後に同氏著の「人類学上より見たる我が上代の文化」の口絵にこれが原色版となって載せてあるのを見た。 ; 〔注一八〕 : 国学院大学教授折口信夫氏の厚意で、此の花祭を同大学で催された際に親しく見聞し、併せて同氏からその説明も承った。 ; 〔注一九〕 : 「史籍集覧」本。 ; 〔注二〇〕 : 「国史大系」本。 [[Category:中山太郎]]
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