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日本巫女史/第一篇/第四章/第二節
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==第二節 呪術のために発達した器具== 呪術のために発生したものと、これに反して、発生の理由は他にあるも、呪術に用いられたために一段の発達をしたものとあるが、茲には是等を押しくるめて記すとする。ただ恐れるのは、本節における私の考覈が、従来の研究と異るところがあるので、異説を立てるに急なる者のように誤解されはせぬかと云う点である。併し私としては決してさる野心の毫も有せぬことを言明する次第である。 '''一 玉''' 我国に古く重玉の思想の在った事は言うまでもない。否々、思想と云うよりは、信仰と云う方が適当に想われるまでに、玉を重んじていた。而してその玉は概して<ruby><rb>勾玉</rb><rp>(</rp><rt>マガタマ</rt><rp>)</rp></ruby>の名を以て呼ばれていたのである。神代における饒速日命の伝えた十種の神宝は、悉く呪具であることは改めて説くを要せぬが、此のうち、生玉、足玉、死反玉、道反玉と、四つまで玉が占めていたことは、重玉の信仰の容易ならぬことを証明しているものである。「垂仁紀」八十七年春二月の条に、 : 昔丹波国桑田村有人、名曰<ruby><rb>甕襲</rb><rp>(</rp><rt>ミカソ</rt><rp>)</rp></ruby>、則甕襲家有犬、名曰<ruby><rb>足往</rb><rp>(</rp><rt>アユキ</rt><rp>)</rp></ruby>、是犬咋山獣名<ruby><rb>牟士那</rb><rp>(</rp><rt>ムジナ</rt><rp>)</rp></ruby>、而殺之、則獣腹有八尺瓊勾玉、因以献之、是玉今在石上神宮。 とあるのは、山獣の腹に勾玉の在ったということが、当時の民族心理からは、一つの神恠として見られたのであるが、併しその勾玉が石上神宮に納められたのは、玉を重く信仰した結果に外ならぬのである。 全体、我国の勾玉に就いては、考古学的にも民俗学的にも研究されるべき余地が少からず残されているのである。就中、私の興味を唆るものは、勾玉の形状は何を<ruby><rb>象徴</rb><rp>(</rp><rt>シンボライズ</rt><rp>)</rp></ruby>しているのであるかと云う事である。従来の学者の説くところによると、勾玉の形状は、遠い祖先達が狩猟を営んでいた際に、猛獣または食獣を獲た場合に、一はそれを記念するために、一はその歯牙に呪力あるものと信じて、胸に懸けたのに始まると言われていて、此の説は殆んど学界の定説となっているのである〔一〕。 併しながら、私に言わせると、此の考察は余り常識的であって、我国の古い民俗に適応せぬものがあるように想われる。私は茲に勾玉を研究するのが目的でないから、結論だけを簡単に記すとするが、私の信ずるところでは、勾玉は腎臓の<ruby><rb>象徴</rb><rp>(</rp><rt>シンボル</rt><rp>)</rp></ruby>であると断定するものである。 [[画像:呪具.gif|thumb|朝鮮の巫女が用いる諸種の呪具]] 由来、我国では心の枕辞に村肝の二字を冠していて、此の村肝とは『肝は七葉<ruby><rb>群</rb><rp>(</rp><rt>ムラガ</rt><rp>)</rp></ruby>りてあれば、群肝と云ひ、さて、肝向、心乎痛ともよみたるが如く、心と肝とは相はなれぬ物なれば、しかつづけたりとすべし』と、賀茂真淵翁は説かれているが〔二〕、併しこれとても、私に言わせると「むら」の字義に捉われた説で腑に落ちぬものがある。私は固く信じている。我が古代の遠い祖先達は、狩猟に出て、鹿や猪などを獲たときには、是等の食獣を与えてくれた山ノ神に対して、獣を支解し、その心臓を供物として捧げた習礼のあったことから推して〔三〕、獣類の解剖には(巫女が人間の死体を截断する職務を有していたことは[[日本巫女史/第一篇/第七章/第二節|後章]]に詳述する)相当熟練していたことと、且つ遠い祖先達が神秘なもの不思議なものとして、多大の興味を<ruby><rb>維</rb><rp>(</rp><rt>つな</rt><rp>)</rp></ruby>いでいた性器の<ruby><rb>活</rb><rp>(</rp><rt>はたら</rt><rp>)</rp></ruby>きの根元を知ろうとしたことである。此の結果として、性器の活きの根源が腎臓にあることは、夙に知られていた筈である。 [[画像:鏡鈴.gif|thumb|鏡鈴鉾麻布刀など(孫泰晉氏撮影)]] 然るに、此の腎臓の色は紫であって、それが<ruby><rb>干</rb><rp>(</rp><rt>かわ</rt><rp>)</rp></ruby>き<ruby><rb>固</rb><rp>(</rp><rt>かた</rt><rp>)</rp></ruby>まると、恰も勾玉の如き形状となる。赤き心に対して紫の<ruby><rb>腎</rb><rp>(</rp><rt>きも</rt><rp>)</rp></ruby>、これは支那で発達した陰陽五行の説を医術に採用し、心、腎、肺、脾、肝の五臓に、赤、青、黄、白、黒の五色を箝当した医書を見ぬ以前において、確かに、此の赤心紫腎だけの事実は、遠い先祖達の知っていた所である。私は此の干し固めた腎臓を胸に懸けたのが勾玉の古い<ruby><rb>相</rb><rp>(</rp><rt>すがた</rt><rp>)</rp></ruby>であって、然もむら肝の枕辞をなした所以だと考えている〔四〕。而して斯く腎臓を胸に懸けたのは、(一)山ノ神に捧げた心臓に対して、自分等がこれを所持することは、神の加護を受けるものとして、(二)性器崇拝の結果はこれに呪力の存在するものとして、(三)原始時代の勇者の徴章又は装身具として用いたものと信ずるのである。 猶お此の機会において併せ考うべき事は、古代人は勾玉を霊魂の宿るもの〔五〕、若しくは霊魂の形と思っていたと云う点である。これも理由を述べると長くなるので結論だけ言うが、我国で、魂と玉を、同じ<ruby><rb>語</rb><rp>(</rp><rt>ことば</rt><rp>)</rp></ruby>の「タマ」で呼んでいたのは、此のことを裏付けるものと見て差支ないようである。玉を呪術に用いたことは周知のことである上に、勾玉の解説が余りに長くなったので他は省略する。 '''二 鏡''' 鏡の起りは「鑑」であって、其の用途は、陽燧にあったと云われているが、我国に渡来するようになってからは、専ら呪術の具として用いられていた。「景行紀」十二年秋九月の条に、神夏礒媛(巫女にして魁帥を兼ねたもの)が参向する際に、 : 則抜磯津山賢木、以上枝挂八握剣、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊、亦<ruby><rb>素</rb><rp>(</rp><rt>シラ</rt><rp>)</rp></ruby>幡樹于船舳。 とあるのは、当時、呪具として最高位の鏡、剣、玉を用いたものであって、これと全く同一なる記事が「仲哀紀」にも載せてある所を見ると〔六〕、かなり広く行われていたことが知られるのである。而して鏡が照魔の具として用いられたこと、及び巫女に限って鏡を所持した事などは、共に鏡が呪具として重きをなしていたことが想像される。「万葉集」巻十四の『山鳥のをろの<ruby><rb>秀津尾</rb><rp>(</rp><rt>ハツヲ</rt><rp>)</rp></ruby>に鏡懸け、唱ふべみこそ<ruby><rb>汝</rb><rp>(</rp><rt>ナ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>寄</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>そりけめ』とあるのは、蒙古に行われるハタツク(此事は[[日本巫女史/第一篇/第七章/第三節|次章]]に云う)と共通の物のように想われるが、兎に角に山鳥は古くから霊鳥として信仰され、且つ十三の<ruby><rb>斑</rb><rp>(</rp><rt>フ</rt><rp>)</rp></ruby>を有する尾は呪物として崇拝されたものであって〔七〕、然もその山鳥の<ruby><rb> 秀尾 </rb><rp>(</rp><rt>ハツヲ</rt><rp>)</rp></ruby>へ鏡を懸けるとは、言う迄もなく、立派な呪具であったのである。それ故に下の句の『唱ふべみこそ汝に寄そりけめ』とは、即ち魂を引き寄せるだけの力があるものと考えられていたのである。猶お、鏡に就いては、[[日本巫女史/第一篇/第五章/第四節|第五章第四節]]「憑るべの水」の条にも記すので、それを参照せられんことを希望して、茲には概略にとどめるとする。 '''三 剣''' 諾尊が黄泉醜女に追われた折に『<ruby><rb>御佩</rb><rp>(</rp><rt>ミハカ</rt><rp>)</rp></ruby>せる<ruby><rb>十拳剣</rb><rp>(</rp><rt>トツカノツルギ</rt><rp>)</rp></ruby>を抜きて、後手に<ruby><rb>揮</rb><rp>(</rp><rt>フ</rt><rp>)</rp></ruby>きつつ逃げ来ませる』とあるのは、剣に呪力のあったことを物語る最古の記事である。「神武記」に帝が紀州熊野村に到りしとき荒振神に逢い、 : 神倭伊波礼毘古命(神武帝)倏忽に<u>をえ</u>(中山曰、毒気に中ること)まし、及御軍皆<u>をえ</u>て伏しき。此の時に、熊野の高倉下、<ruby><rb>一横刀</rb><rp>(</rp><rt>タチ</rt><rp>)</rp></ruby>を齎ちて、天神の御子の伏せる地に到りて献る時に、天神の御子、即ち<ruby><rb>寝起</rb><rp>(</rp><rt>サメ</rt><rp>)</rp></ruby>まして、長寝しつるかも、と<ruby><rb>詔</rb><rp>(</rp><rt>ノ</rt><rp>)</rp></ruby>りたまひき。故その横刀を受取たまふ時に、その熊野山に荒ぶる神、<ruby><rb>自</rb><rp>(</rp><rt>オノヅカ</rt><rp>)</rp></ruby>ら皆切仆さえて、其の<u>をえ</u>伏せる御軍、悉に寝起たりき云々。 と記せるも、亦た剣に呪力のあった事を証明しているものである。而して斯くの如き記事は、我国の一名を『<ruby><rb>細戈千足国</rb><rp>(</rp><rt>クワシホコチタルノクニ</rt><rp>)</rp></ruby>』と云うただけあって、僂指に堪えぬほど夥しく残されている後世の巫覡の徒が悪霊退治の呪術を行うとき、剣を揮って空中を斬るのは、此の信仰に由来するものであって、更に「剣の舞」なるものが彼等の手に残されていたのも、又たこれに基因しているのである。 '''四 比礼''' 大己貴命が素尊の許に往き、蛇室に寝るとき須勢理媛より蛇ノ比礼を与えられ、且つ『その蛇<ruby><rb>昨</rb><rp>(</rp><rt>ク</rt><rp>)</rp></ruby>はむとせば、此の比礼を三度<ruby><rb>挙</rb><rp>(</rp><rt>フ</rt><rp>)</rp></ruby>りて<ruby><rb>打揆</rb><rp>(</rp><rt>ウチハラ</rt><rp>)</rp></ruby>ひたまへ』と教えられ、次で<ruby><rb>蜈蚣</rb><rp>(</rp><rt>ムカデ</rt><rp>)</rp></ruby>ノ比礼、蜂ノ比礼を与えられて難を逭れたことは有名な神話である〔八〕。また天神より授けられた十種の神宝のうちにも、蛇比礼、蜂比礼及び<ruby><rb>品物比礼</rb><rp>(</rp><rt>クサクサノヒレ</rt><rp>)</rp></ruby>の三種が挙げてある。更に「応神記」に新羅から投化した天日矛の将来した宝物の中にも、振浪比礼と切浪比礼との二つがあったと載せている。而して是等の比礼が、呪術用の物であることだけは、明白に知られているのであるが、それではその比礼なる物は何かというと、これに就いては、古くから異説が多いのである。 本居宣長翁は『比礼とは(中略)、何にもまれ打振る物を云ふ、されば魚の<ruby><rb>鰭</rb><rp>(</rp><rt>ヒレ</rt><rp>)</rp></ruby>も水中を行とて振物、服の<ruby><rb>領巾</rb><rp>(</rp><rt>ヒレ</rt><rp>)</rp></ruby>も本は振らむ料にて(原註略)皆本は一つ意にて名けたるものぞ。然れば蛇の比礼とは、蛇を撥ふとて振物の名なり』と判ったようで判らぬことを言うている〔九〕。谷川士清翁は、記・紀万葉集などから多くの例を挙げた後に『比礼は、もと衣服の事なるべし』と軽く説明している〔一〇〕。鈴木重胤翁は賀茂真淵翁の「冠辞考」に万葉集巻三の、<ruby><rb>栲領巾</rb><rp>(</rp><rt>タクヒレ</rt><rp>)</rp></ruby>の懸け巻くほしき妹が名を云々とあるを引用して、然る後に曰く『栲は白き物なれば、実に栲領巾は白き領巾なりしなり。今も京辺りの下様の女など、表立たる礼式に額帽子とて、生𥿻を以て製たる物を夏冬共に必ず<ruby><rb>帽</rb><rp>(</rp><rt>カム</rt><rp>)</rp></ruby>るは、領巾の遺制なるべし。予今年下野国足利郡の方へ物せしに、其宿れる家に入来る女、何れも新しき手拭を頂に巻くこと京の額帽子の如し(中略)。こは上古の領巾の遺意の<ruby><rb>存</rb><rp>(</rp><rt>ノコ</rt><rp>)</rp></ruby>れるなり。』と〔一一〕、飛んでもない薮睨みをしている。更に飯田武郷翁は、大神宮儀式帳、外宮儀式帳、和名抄等の事例を比較した後に『比礼は古き女の服具にて、白き帛類をもて、<ruby><rb>頂上</rb><rp>(</rp><rt>ウナジ</rt><rp>)</rp></ruby>より肩へかけて、左右の前へ垂せるものと聞えたり』と考証している〔一二〕。 私は茲に服飾史の上から比礼の研究を試みることは措くが、是等の諸説のうち、飯田翁の考証に左袒するものである。而して此の服具を、或は蛇比礼と云い、或は蜂比礼と云うたのは、呪具としての用途によって名づけたものと考えている。巫女の比礼に対して、覡男の<ruby><rb>手繦</rb><rp>(</rp><rt>タスキ</rt><rp>)</rp></ruby>も又一種の呪具であるが、これに就いては省略する。 '''五 櫛''' 素尊が八岐大蛇を退治して、奇稲田媛を救うことを「古事記」には『速須佐之男命、乃ち其の童女を湯津爪櫛に取成して,<ruby><rb>御角</rb><rp>(</rp><rt>ヅラ</rt><rp>)</rp></ruby>髪に<ruby><rb>刺</rb><rp>(</rp><rt>ミ</rt><rp>)</rp></ruby>し』と載せ、「日本書紀」には『素戔嗚尊立化奇稲田姫、為湯津爪櫛、而挿於御髻』と記している。而して此の両記事にあっては、素尊が稲田姫を櫛となして御髻に挿したように解せられるので、昔の神道学者──殊に法華神道の似非学者たちは、種々なる神恠を説いているのであるが、民俗学の立場から言えば、女子が櫛を挿す事は男子に占められたこと──即ち良人を有ったという標識に過ぎぬのである〔一三〕。これは後章に詳しく言う考えであるが、伊勢斎宮になられた皇女が、野ノ宮を出て愈々皇太神宮へ群行せらるる折に参内すると、天皇が躬から「別れの櫛」を斎宮の<ruby><rb>御髪</rb><rp>(</rp><rt>ミグシ</rt><rp>)</rp></ruby>に挿されるのは、斎宮は神に占められることを意味しているのである。 然るに、<ruby><rb>櫛</rb><rp>(</rp><rt>クシ</rt><rp>)</rp></ruby>は<ruby><rb>奇</rb><rp>(</rp><rt>クシ</rt><rp>)</rp></ruby>と通じ、更に<ruby><rb>串</rb><rp>(</rp><rt>クシ</rt><rp>)</rp></ruby>とも通ずるので、古く斎串を斎櫛の意に用い、櫛に一種の呪力ありとする信仰を養うに至った。従って櫛を神体として祭った神社さえ尠くないのである。諾尊が櫛を投じて醜女を攘うた故事から、櫛を拾うと他人となるという俗信は、現在においても行われている。「万葉集」巻十九に『櫛も見じ<ruby><rb>家内</rb><rp>(</rp><rt>ヤヌチ</rt><rp>)</rp></ruby>も掃かじ草枕、旅行く君を斎ふと思ひて』とあるのは、良人の留守に、櫛で髪けずり、箒を用いることは、羈旅にある良人に禍を負わせるものと考えたためである。後世の巫女が櫛占をしたのも、又た此の信仰から導かれているのである。 猶お此の種に属する呪具のうちに、幡、幟、幣などを数える事が出来るのであるが、是等は後に記述する機会もあろうと思うので、今は触れぬこととした。 ; 〔註一〕 : 故坪井正五郎氏を始め、多くの人類学者や、考古学者は、皆この獣牙説を採っていて、幾多の著書や雑誌に、此の事が載せてある。従って天下周知の事と思うので、書名や、誌名は、煩を避けて省略した。猶お勾玉に就いては、谷川士清翁の「勾玉考」が、よく史料を集めて、古代の重玉信仰を説いている。参照せられたい。 ; 〔註二〕 : 「冠辞考」巻下。その条。 ; 〔註三〕 : 柳田国男先生の著「後の狩詞記」及び「民族」第三巻第一号所載の早川孝太郎氏の「参遠山村手記」及び同氏著「猪・鹿・狸」(第二叢書本)を参照せられたい。<br/>因みに言うが、柳田先生の「後の狩詞記」は稀覯の書であるので、茲にその一節を摘録すると「コウザキ。猪の心臓を云う。解剖し了りたるときは、紙に猪の血液を塗りて之を旗とし、コウザキの尖端を切り共に山神に献ず」とある。 ; 〔註四〕 : 先年雑誌「太陽」へ拙稿「枕辞の新研究」と題して掲載したことがある。誌上には匿名になっている。号数は失念したが、大正六七年ごろの発行である。 ; 〔註五〕 : 瓢が魂の入れ物であるという古代人の信仰に就いては、柳田国男先生が「土俗と伝説」の第二号から連載された「杓子と俗信」の中に述べられているし、更に近刊の「民俗芸術」第二巻第四号所載の「人形とオシラ神」のうちにも記してある。而して、我国の古代において、墳墓を瓢型に築いたのも、亦此の信仰に由来しているのである。人魂の形は、杓子に似ているとは、今も言うところであるが、古代人は、勾玉の形を人魂の形に連想していたことも、考慮のうちに加うべきである。 ; 〔註六〕 : 「仲哀紀」八年春正月の条に『筑紫伊覩県主祖五十迹手、聞天皇之行、抜取五百枝賢木、立于船之舳艫、上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握剣、参迎于穴門引嶋而献之』と載せてある。 ; 〔註七〕 : 山鳥の尾の呪力に就いては、曾て「土俗と伝説」第三号に「一つ物」と題して拙稿を載せたことがある。 ; 〔註八〕 : 「古事記」神代巻。 ; 〔註九〕 : 「古事記伝」巻十(本居宣長全集本)。 ; 〔註一〇〕 : 「増補語林倭訓栞」その条。 ; 〔註一一〕 : 「延喜式祝詞講義」巻九の細註。下野国足利郡は、私の故郷である。従って、此の地方の民俗には、失礼ながら鈴木翁よりは通じていると云っても差支ないと信ずるが、私の知っている限りでは、此の地方で、婦女が手拭を冠って他人の前へ出るのは、髪の乱れを隠すためであって、領巾の遺風などとは考えられぬ。これは鈴木翁の思い過ごしであらねばならぬ。それに、領巾は、冠る物ではなくして、垂れるものである。 ; 〔註一二〕 : 「日本書紀通釈」巻二十六。 ; 〔註一三〕 : 女子の有夫の標識には、種々なる民俗がある。眉を払うのも、歯を染めるのも、更に櫛を挿すのも皆それである。詳細は拙著「日本婚姻史」に諸国の例を集めて載せて置いた。宮城県の磐瀬郡では、昔は未婚者と既婚者の区別は、櫛を挿すと挿さぬとにあったが、近年では、誰も彼も櫛を挿すので区別に苦しむと、同郡誌に記してある。 [[Category:中山太郎]]
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