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日本巫女史/第二篇/第五章/第一節
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[[日本巫女史]] [[日本巫女史/第二篇|第二篇 習合呪法時代]] [[日本巫女史/第二篇/第五章|第五章 呪術方面に現われた巫道の新義]] ==第一節 巫蠱から学んだ憑き物の考察== 我国における蠱術は、巫女よりは修験道の山伏が、深い関係を有していた。巫女がこれに交渉を持つようになったのは、恐らく山伏と性的共同生活を送るようになってから、これに教えられたものと思われる。此の見地に立てば、憑き物の考察は、巫女よりも山伏が対象となるのであるが、教えられたにせよ、巫女が此の事に多少とも関係を有していたことも事実であるから、今は巫女を中心として、簡単に記述することとした。既に憑き物に就いては、諸先輩の研究が発表されているので〔一〕、詳細はそれに就いて知る便宜があるからである。 而して茲に、憑き物とは、上下両野のオサキ狐、信濃のクダ狐、三河のオトラ狐、飛騨のゴホウ種、近畿のスイカズラ、四国の犬神、出雲のジン<ruby><rb>狐</rb><rp>(</rp><rt>コ</rt><rp>)</rp></ruby>、中国のトウビョウ等を重なるものとして、此外に、猫神、猿神、飯綱、蟇つき、狸つきなどの名で呼ばれ、更に<ruby><rb>白神筋</rb><rp>(</rp><rt>シラカミスジ</rt><rp>)</rp></ruby>、ナマダコ、ゲトウ、院内等の「物持筋」となり、一般に社会から嫌厭される家筋まで含めての意である。従ってここに言う憑き物とは、悪霊、死霊、生霊等の人間の霊魂が、人間に憑くという意味よりは、動物の霊が人間に憑くという方に重きを置くことになっているのである。而して是等の憑き物に共通している大体の俗信は、 : 一、是等の憑き物は、年々のように繁殖して、常に飼っている家でも困却しているということ。 : 二、その家の子女が、他家へ聟または嫁に往くとき、憑き物がついてその家に入るということ。 : 三、憑き物筋の者は、他人の健康や作物を害さんと思うと、その憑き物が活いて、健康を害し、作物を損じ、更に現金まで持って来るということ。 : 四、この憑き物を持っていると勝負運が強いということ。 : 五、物持筋が憑き物を放そうと思うても、どうしても放れぬということ。 この五点である。而して巫女は、随意に此の憑き物を使役する者として恐れられた。それでは是等の憑き物という俗信は、何によって発生したか、先ずそれから考えて見るとする。猶お此の問題は、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]においても記述すべきであるが、多少の変遷ありとするも、同じ問題を二度書くことは気がさすので、茲には明治期まで押しくるめて記すとした。敢て賢諒を乞う。 '''一 オサキ狐クダ狐など''' 狐や蛇がヴントの所謂霊的動物として崇拝されたことは既述した。それと同時に、我国の神の<ruby><rb>使令</rb><rp>(</rp><rt>ツカワシメ</rt><rp>)</rp></ruby>(又は眷属ともいう)と称する幾多の動物——例えば、稲荷神の狐、熊野神の鳥、日吉神の猿、春日神の鹿、貴船神の百足、三峯神の狼と云うが如きものは、古くはそれが原祀神ではなかったかと云うことも、併せて既記を経た。それ故に是等の動物が、恰もアイヌ民族に見る如く、<ruby><rb>[[:画像:アイヌの憑き神.gif|憑き神]]</rb><rp>(</rp><rt>トレンカムイ</rt><rp>)</rp></ruby>から<ruby><rb>守り神</rb><rp>(</rp><rt>シラツキカムイ</rt><rp>)</rp></ruby>にすすんで往く過程も考えられるし、更に是等の動物の霊が人間に憑くという、俗信の発生も考えられぬでもないが、此の俗信を強く、然も深く、我国に植え込んだのは、前にあっては、支那の巫蠱の呪術で、後にあっては、仏法の吒吉尼の邪法だと信じている。 而して蠱術に就いては略記したので、今は吒吉尼に関して云うが、此の邪法も古くから行われていたのである。伴信友翁の「験の杉」に引用された「拾葉抄」に、 : 東寺ノ夜刄神ノ事云々。中聖天、左吒吉尼、右弁財天也、天長御記云、東寺有守護天、稲荷明神使者也、名大菩提心使者神也。 とある天長御記は、淳和帝の御記と思われるので、僧空海の在世中に、早くも吒吉尼信仰の行われた事が知れる。勿論、稲荷信仰に伴う狐の崇拝は、吒吉尼の乗っている動物と類似している所から、両者の関係を密接ならしめ、その結果として、僧空海と稲荷神と面談したなどと云う俗説まで生れたが、兎に角、両者の歩み寄りが、狐を一段の霊物とし、稲荷神を吒吉尼化したことは、やや明白に看取されるのである〔二〕。「文徳実録」仁寿二年二月の条なる藤原高房の伝に、 : 天長四年春拝美濃介(中略)。席田郡有妖婦、其霊転行暗噉心、一種滋蔓民被毒害、古来長吏皆懐恐怖、不敢入其部、高房単騎入部、追捕其類、一時酷罰、由是無復噉心之害云々。 とあるのは、「谷響集」に「真言演密抄」を引いて『荼吉尼是夜叉趣摂云々。盗取人心食之』とあるより推して、此の妖巫が吒吉尼の邪法を行うたことは、疑うべからざる事実である。而して此の信仰から導かれて、狐の神格的地位は段々と向上し、一方においては<ruby><rb>専</rb><rp>(</rp><rt>トウノ</rt><rp>)</rp></ruby>女御前となり、<ruby><rb>三狐</rb><rp>(</rp><rt>ミケツ</rt><rp>)</rp></ruby>神となり、遂には倉稲魂神と誤解されるまでになり、更に一方においては、神狐とか、霊狐とか云われて、俗信を集めるようになったのである。狐を殺した為に、配流された例は多いが〔三〕、「中右記」長元四年八月四日の条に『京洛之中、巫覡祭狐枉定大神宮、如此事、不然之事也』とあるような事態を見るに至ったのである。民間の惑溺また思うべしである。大江匡房の「狐媚記」の如きは此の産物である。 私の郷里である下野国足利郡地方の村々では、私の少年の頃までは、オサキ狐の話をよく耳にしたものである。大昔に、九尾ノ狐が帝都を追われて、那須野に隠れたのを、坂東武士のために狩り出されて、殺生石となったが、その折に尾が方々へ散って狐となり、これを尾先狐と云うのだと故老から聴かされ、又た誰々の家には、その狐が七十五匹戸棚の隅に飼ってある。毎朝、<ruby><rb>飯匙</rb><rp>(</rp><rt>シャモジ</rt><rp>)</rp></ruby>で釜の端を叩くのは、狐に餌を遣る合図だというて、私などが過って此の所作をすると、父母から厳しく叱かられたことを覚えている。かかることで、オサキ狐に憑かれた家の人ほど気の毒なものはないが、それでも私の地方などは、他国に比較すると、まだ気の毒の程度が軽いようである。通婚にも、交際にも、余り忌み嫌われていぬからである。 これに反して、信州松本平の中央山脈の麓寄りの方から、木曾の谷へかけて、薮原、宮ノ越、福島などの各駅から美濃堺まで、クダ狐の憑いている家が多い。殊に福島駅に近い新開村字大原は、四十戸ばかりの部落であるが、その中に五六戸は『あすこはクダを飼ってる』と昔から言われている家がある。此の評判が立つと、部落からは元より、やや遠い所の者からまでも特別の扱いを受け、『おれの家は腐る方だが、あすこは是れだからな』と、物を掻く手真似をして見せる。腐るとは癩病の血統で、掻くのは狐を意味している。即ち癩病よりもクダ狐を恐れる意味である。従って通婚は此の者同士に限られている。クダ狐持がこうまで嫌われるのは、これに憑かれると、すっかり狐になってしまい『某の死んだのは、おれが締め殺したのだ』或は『某の家の馬の病気は、おれがしたのだ』また『某の家の南瓜はおれが挘ったのだ』というような事を口走る。そしてクダ狐は、元は伏見の稲荷社から受けて来たものだと伝えている〔四〕。 出雲のジン狐に関する気の毒な事実は、夥しき迄に学会へ報告されている〔五〕。それは大正十一年の事であるが、出雲の某村の有力者が、息子に嫁を迎えようとしたが、世話をする者がないので、段々と調べてみると、その家はジン狐持ではないが、主人の妹が嫁した家の遠縁の者に、その疑いのあることが判然し、親族会議の結果は、妹の家と絶交することとなり、それを言い渡すときの光景は、見るも憐れなものであった。老母の顔は涙に曇り、言渡す主人の声もふるえていた。絶交された妹は、世の成行きと、自分の運命で、代々続いて来た綺麗な家の血筋を濁すことには代えられぬと、観念の眼を閉じたということである〔六〕。 而して斯うした社会の圧迫と、家庭の悲劇とは、独り信州や出雲ばかりでなく、狐憑きの俗信の行われているところには、何処にでも存しているのである。元より俗信であり、理由のない事であるから、疾くにも泯びなければならぬのに、今に此の陋習が依然と行われているとは、如何に俗信の力の偉大なるかに驚くのである。 狐持の家筋が、狐に憑かれた事に原因することは言う迄もないが、その狐を憑けたものが、巫覡であることも、勿論である。「栄花物語」巻七鳥辺野長保三年十二月の条に『かかる程に、女院(円融后東三条院詮子)ものせさせ給て、なやましう思しめしたり、との(藤原道長)御心をまどはして、おぼしめしまどはせ給(中略)、御物のけを四五人かりうつしつつ、おのおの僧どもののしりあへるに、此三条院の<u>すみ</u>の神の<u>たたり</u>と云う事さへいできて、そのけしきいみじうあやにくげなり』とある如く、物の怪を四五人にかりうつすとは、即ち<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り祈祷であって、此の<ruby><rb>憑座</rb><rp>(</rp><rt>ヨリマシ</rt><rp>)</rp></ruby>の口から、種々なる御託が発せられ、三条院の場合は、<u>すみ</u>の神の祟りという事であったが、これが狐が<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>つ</rt><rp>)</rp></ruby>いているとか、蛇が<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>つ</rt><rp>)</rp></ruby>いているとか云えば、それでその人は、狐つき、蛇つきとなってしまい、心理学上の暗示に支配されて、狐の真似したり、蛇の様子して座敷を這い廻ると云うことになれば、その家は忽ち「持物筋」となり、それが子孫へまで遺伝することになるのであるから、是等の持物筋の発生が、巫覡の憑り祈祷にあることは明白である。これに就いて、本居内遠翁は「賤者考」において、左の如く述べている。 : 犬神狐<ruby><rb>役</rb><rp>(</rp><rt>ツカヒ</rt><rp>)</rp></ruby>などいふは、<ruby><rb>唐土</rb><rp>(</rp><rt>モロコシ</rt><rp>)</rp></ruby>の蠱毒の類にて、かの土には金蚕蝦蟇蜈蚣などの毒種と見ゆれど皇国にはきかず、犬神といふ術四国にありときけど(中略)、出雲の狐持といふ家も是と等し、先年領主より命ありて、此種を絶んとて多く刑にも行ひ、追放もせられしかど、猶その余残あるうへに(中略)。又そのさま怪しげに偶々聞ゆる事などあれば、狐つかひならむと云ひはすめれど、それも又別術なるか、事発覚に及ばざれば又弁知しがたき物なり。おのが是まで聞及べるは、神仏に託して奇に人の上を言ひあてて祈などに金銭を貪り(中略)。昔名高かりし真言僧などの行法に奇特とてありし事、又修験加持などして、<u>よりまし</u>とて生霊死霊を人にうつして憤恨を云はせたり。<u>しりゃう</u>の事、前に云ふ打臥しの巫(中山曰。此の巫女の事は既述した)の類、皆此狐役の術なるべし。今も日蓮宗の僧徒の中に、疾病の祈をなし、<u>よりまし</u>を立てて言はする類まま聞ゆ。仏法の行力なくば、その宗の徒はすべてなすべきを、たまさかなるは狐使の別術なる故なり云々(本居全集本)。 狐憑きの発生が、憑り祈祷にある事は、これから見るも明かであって、憑座に対して<ruby><rb>問</rb><rp>(</rp><rt>ト</rt><rp>)</rp></ruby>い<ruby><rb>口</rb><rp>(</rp><rt>クチ</rt><rp>)</rp></ruby>(大昔の<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>サニワ</rt><rp>)</rp></ruby>の役)をする者が、仕向けるままに放言する<ruby><rb>与多</rb><rp>(</rp><rt>ヨタ</rt><rp>)</rp></ruby>が〔七〕、遂に厭うべく悲しむべき結果を生むようになったのである。 飯綱信仰は、信州の飯綱山に起り〔八〕、室町期に猖んに行われたものであって、殊に武田信玄と上杉謙信は、これが篤信者であったと伝えられている。併しながら、その行法は吒吉尼を学んだもので、他の巫覡と同じように狐を遣い、飯綱遣いとは狐遣いの別名の如く民間からは考えられていた。飯綱に関する資料も相当に存しているが、今は深く言うことを避けるとする。 '''二 蛇神託とトウビョウ''' 蛇が狐にも増して人に憑くものと考えられるのは、あの醜悪なる形態と、これに伴う幾多の説話からも知ることが出来る。今に全国的に行われているものに、蛇は執念深いものゆえ、半殺しにしておくと、人に祟るということである。而して此の蛇が、人に祟りをしたという伝説は、狐に比して更に多くのものが存しているが、これは直接ここに関係がないので省略する。古く蛇が託宣したことが見えている。「明月記」建久七年四月一七日の条に、 : 刑部卿参入、中世間雑談等、新日吉近日有蛇、男一人随其蛇、吐種々狂言、称蛇託宣、又云後白河院後身也云々、此事不便、書奏状進之云々。 とあるのが、それである。然るに、私の寡聞なる、此の種の類例を他に全く知らぬので、比較して考察を試みる事もならず、それに此の記事だけでは、蛇が如何なる方法を以て託宣したのか、解釈に苦しむほどゆえ、ただ鎌倉期の初葉には斯うした俗信もあったと紹介して置くにとどめる。而して此の蛇が民間の憑き物となったトウビョウなるものにあっては、中国を中心として各地方に存していた。柳田国男先生は、これに就いて、左の如き有益なる研究を発表されている。 : 蛇の神はトウビョウと云うのが、元の名であるらしい。「大和本草」に、中国の小<u>くちなは</u>とて安芸に蛇神あり、又タウベウと云ふ。人家によりて蛇神を使ふ者あり。其家に小蛇多く集りゐて、他人に憑きて災をなすこと四国の犬神、備前児島の狐の如し云々とある(中略)。石見などでもトウビョウと云うのは蛇持又は蛇附きのことで、此を芸州から入って来たと云っている(日本周遊奇談)。安芸の豊田郡宮原村の海上に当廟島という小さな島があるのは、恐らく此神がまだ公に祀られていた時の由緒地であろう。備中にも川上郡手ノ荘村大字<ruby><rb>臘数</rb><rp>(</rp><rt>シワス</rt><rp>)</rp></ruby>に小字トウ病神がある。今日の如く此神に仕えることを恥辱と考えて隠す世の中なら、到底こんな地名は出来ぬ筈である。備中には海岸部落は犬神の勢力範囲であるが、山奥の田舎から出雲へかけてトウビョウ持と云われる家筋が多い。此辺でもトウビョウは蛇だと云うが、その形状及び生活状態というものが余り蛇らしくない。先ず其形は鰹魚節と同じく、<ruby><rb>長</rb><rp>(</rp><rt>タケ</rt><rp>)</rp></ruby>短くして中程が甚だ太い。それを小さな瓶の類に入れ、土中に埋め其上に<ruby><rb>禿倉</rb><rp>(</rp><rt>ホクラ</rt><rp>)</rp></ruby>を立て、内々これを祭っている。此神を祈れば金持になるとのことで、其家筋の者は皆富んでいる(中略)。此神の甚だ好む物は酒であるから、折々瓶の蓋を開いて酒を澆いでやらねばならぬ。祟りの烈しい神である(藤田知治氏談)。 : 密閉した酒瓶の中に生息する蛇というものが、動物学上果して存し得るものか、大なる疑問である。四国は昔から犬神の本場であるが、讃岐の西部には之とよく似たトンボ神の俗信があることを、近頃荻田元広氏の親切に由って知ることが出来た。かの地方ではトンボ神と口で言って文字は<ruby><rb>土瓶神</rb><rp>(</rp><rt>ドヘイジン</rt><rp>)</rp></ruby>と書くそうである。之を思い合す時はトウビョウも亦土瓶の音で、即ち蠱という漢字の会意と同じく、本来虫を盛る器物から出た名目であった。讃岐のトンボ神は、往々にして蠱家の屋敷内に放牧してある事もあるが、又土甕の中に入れ台所の近く、人目に掛らぬ床下などに置き、或は人間と同じ食物を遣るとも、又酒を澆いでやるとも伝えられている(荻田氏報告以下同)。唯虫の形状に於ては頗る備中のものと異り、小は竹楊枝位から大は杉箸迄で、身の内は淡黒色、腹部ばかりは薄黄色、頸部に黄色の輪があって、之を金の輪と云う。身を隠すことも敏捷だとある。土瓶神持は縁組に由って新に出来る。相手の知る知らぬを問わず、娵又は聟(?)が来るときには、神も亦分封して附いて来る。連れて来るのか独りで附いて来るのかは未だ詳ならず。トンボ神持は如何なる場合にも、世評を否認するにも拘らず、金談其他で人と争でもすれば、兎角その威力を利用したがる風がある。世間の噂では、或者に怨みを抱くとなれば、<ruby><rb>土瓶神</rb><rp>(</rp><rt>トンボガミ</rt><rp>)</rp></ruby>に向って斯う言う。お前を年頃養ったのは、こんな時の為めである。何の某に我恨みを報い玉わずば、今後は養い申すまじ云々(中略)。気の利いたトンボ神は此相談を聞く迄もなく、家主の心の動くままに、直に往って其希望を遂げさせるとのことである。此の蟲が来て憑くと身内の節々が段々に烈しく痛む、医者に言わせると急性神経痛とでも言いそうな病状である。之を防ぎ又は退ける方法は、一つには祈祷で、之を役とするヲガムシと云う巫女を依頼する。第二の方法は、至って穢い物を家の周囲などに澆き散らす(中略)。 : 一旦土瓶神持となれば、永劫其約束を絶つことがならぬ。唯偶然に知らぬ人の手によって、根を<ruby><rb>絶</rb><rp>(</rp><rt>たや</rt><rp>)</rp></ruby>すことが出来れば、家にも其人にも、何等の祟りが無いと云うことで、窃にそんな折を待っている云々(以上「郷土研究」第一巻第七号)。 瀬戸内海に面した備前、備中、安芸、及び讃岐のトウビョウは、以上の記事によって詳細を知ることが出来たが、それでは日本海に面したものは如何に伝えられているかと云うに、これに就いては、「雪窓夜話抄」巻七に「伯州のタウベウ狐の事」と題して、下の如き記事が載せてある。 : 或人曰く、伯州には村々にタウベウを持たる者あり。殊に倉吉あたりに多くありと云へり。国の御法度強く其所の人もタウベウを持つといへば嫌ふ故に、他人に深く隠して云ざるなり。是はタウベウ<small>キツネ</small>と云て、常のキツネとは変りて、別に一種のキツネなり。形はキツネにて常の者よりも、甚だ小さく大さ鼬鼠程あり。是を見たる者は多くあり。其狐に主有て先祖より子孫に伝はりて其家を離れず(中略)。犬神に少も違はず、他の家に往て心の中にほしきと思ふ時には、本人の知らざるに向の人に附て、其物ほしきと口走りて、本人は口外に出さぬ事を他人に披露して却て其人を恥かしむ。或は瞋恨ある人には、本人は心中にて思ふ計りなるに、其人に付って讐をなす事あり(中略)。先年も倉吉に牛疫はやりて多く死せしに、此れを頼みてマジナイせしむれば即座に治す。是に依て大分の米銀をもうけたり。タウベウ持の方より附たる疫病なること、忽ち露顕して追放せられたり。少も犬神と変る事なし。狐の一名を<ruby><rb>専女</rb><rp>(</rp><rt>タウメ</rt><rp>)</rp></ruby>と云と古き書にも記せり、専女と云べきを誤てタウベウと云へるにやと云たる人もあり、さもありぬべき事ならんか。是も犬神と同じく、其人に飼れては末代まで家を離るる事なし云々(以上「因伯叢書」本)。 此の記事は、恐らく享保前後に書かれたものと思うが〔九〕、伯耆にあっては、トウビョウは狐であって、然も此の名称は、狐を<ruby><rb>専女</rb><rp>(</rp><rt>トウメ</rt><rp>)</rp></ruby>と云える訛語であろうと説いている。そして伯耆は言うまでもなく、因幡、美作、石見等のトウビョウは、今でも概して狐だと云われているが、事に東伯地方では、七十五匹が一群団であって、世間の噂にトウビョウ持の家に往くと、縁側とか板ノ間とかなどで、間々これの足跡を見受けることがあるそうで、こうした家で拭き掃除を怠らぬのは、即ちその足跡を人目に触れさせぬ用心だと言われている〔一〇〕。トウビョウが、蛇であろうが、狐であろうが、所詮は巫覡が糊口の為めに言い出した俗信上の動物であって、大昔から誰あって定かに見極めたという者がないのであるから、私は此の詮索には余り深入りせぬ考えである。 '''三 犬神と猫神と狸神''' 四国は昔から狐が居らぬと言われているだけに、狐憑きは無いが、その代りに、犬神と称する憑き物が跋扈している。犬神の起源に就いては、「土州淵岳志」巻六に、 : 讃州東ムギといふ所に何某あり、讐を報ずべき仔細あれども時至らず、日夜これを嘆く。或時、手飼の犬を生ながら地に掘埋め首許り出し、平生好む所の肉食を調へて、犬に言って曰く、やよ汝が魂を吾に与へよ、今この肉を食はすべしとて、件の肉を喰はせ刀を抜いて犬の首を討落し、それより犬の魂を彼が胸中に入れ、彼れ仇を為したる人を咬み殺し、年来の素懐を遂げぬ。それより彼が家に伝りて犬神と云ふものになり、婚を為せば其家に伝り、さて土佐国へは境目の者、かの国より婚姻しけるにより、入り来たると云ふ。 と載せてある。これに由れば、犬神の本家は讃岐という事になるが、讃州にとっては、此の上もない迷惑千万のことと言わなければならぬ。全体、こうした憑き物などは、どこが本家で、どこが分家だなどと云われべきものではなく、土地によって、多少の前後と、粗密こそあれ、そう明確に知れる筈がないのである。併しながら、同じ四国でも此の犬神なるものが、阿波国が殊に猖獗を極めていただけは、事実のようである。「阿波志料飯尾氏考」に収めてある緒方氏所蔵文書に左の如きものがある。 : 犬神下知状 : 阿波国中使犬神輩在之云々。早尋捜之可致罪科之旨。相触三郡(中山曰。麻殖、美馬、三好の三郡)諸領主堅可被加下知候由也。仍執達如件。 : 文明四(年)八月十三日 常連(花押) : 三好式部少輔殿 こうして領主が公文書まで発して、犬神の剿絶に配慮しているところから推すと、阿波の国民は、相当に此の問題で苦しめられて居たことが知れる。勿論、領主が斯かる手段を採ったことは、独り阿波だけではなく、柳田国男先生によれば、 : 土佐の犬神は「土佐海続編」に最も詳しく、其形は山中に栖むクシヒキネズミに似て尾に節あり、毛は鼠に似たり、乾して持つ者往々にしてありとある。長宗我部氏の治世に犬神を吟味して、死刑に行い家を<ruby><rb>絶</rb><rp>(</rp><rt>たや</rt><rp>)</rp></ruby>したが、其子孫稀に存し、昔は之を賤んで参会言語する者が無かった。其家では<u>口寄</u>などと同じく、狗の首を神に祀っているともあれば、犬神の名称は使う神の形からでは無いのかも知れぬ。又こんな事も書いてある。犬神は伝教大師に伴い帰り、<ruby><rb>弦売僧</rb><rp>(</rp><rt>ツルメソ</rt><rp>)</rp></ruby>に附属する神なり、サイトウ、オオサキ、クダとも謂う。土州にて捕えたるはサイトウと云う者なり云々。 とあるのを見ると〔一一〕、土佐の犬神の跳梁も、又頗る猛烈であったようである。更に前掲の「土州淵岳志」の続きの記事に、 : 土州の地に蠱を畜うる者多し、別て幡多郡に多し。「御伽奉公」という草子に土佐幡多郡狗神の事とある之也。能く人を魅す、然も大人正明の人に入ること無し。一度此蠱に逢えば、病形痛風にて骨節犬の咬むが如く、熱盛んにして譫言妄語す。蠱を畜うる家其祖先に、此鬼を祭りて財を利し富を致す者あり、遂に其家に托りて去らざるなり。民間義を知る人は、蠱を悪む事癩脈の如く婚嫁をなさず、婢僕を召抱えるにも之を詮議する事也。蠱家は之を包み隠せども、其鬼を避くるの術無し。愚婦庸夫に付くに針灸祈祷するに、偶々去る事あり。或は筋骨を咬みて遂に殺すことあり(中山曰。茲に其一例を挙げてあるが省略す)。按ずるに讃州予州に猫蠱と云うものあり土州に無し。「北山医話」に本邦四国之地、不知蠱狐、其気何自相反也、俗に言う狐魅の人四国に来れば、其魅自ら去ると。 猶お此の外に、周防長門両国の犬神、肥後阿蘇谷のインガメ、琉球のインガマなど書くべきことも相当に残っているが、大体を尽すにとどめて、今は省略に従うこととした。 猫神に就いては『伊予国宇摩郡では、猫を殺すと取りつくと称して、決して猫に害を加へぬ。先年、上山の弥八といふ豪農の主人が誤って猫を殺し、遂に発狂して「猫がとりついた」と独言を云ひつつ乞食になった』と伝えられている〔一二〕。併しながら、是れはまだ個人的の問題であって、巫覡を介しての社会的問題にまでは発展していぬが、更に紀州辺の猫神のことを聞くと、ここでは純然たる巫女の憑き神になっている。而して南方熊楠氏の報告を集めた「南方来書」巻十には、左の如く載せてある。 : 田辺町と山一つ隔てし岡(中山曰。紀伊国西牟婁郡岩田村の大字)という村落の小学校長の談に、此の岡には今も代々の巫子数家あり(中略)。此の者の言うには、蠱神は三毛猫を縛り置きて、鰹魚節を示しながら食わせず、七日経るうちに猫の慾念はその両眼に集る。その時その首を刎ね、其頭を箱に入れて事を問うとの事なり。熊楠思うに、かかる事は毎度聞くところにて、安南にても犬をかくする事あり、吾国の犬神に同じ。又国により人の胎児を用うることあり。「輟耕録」に見えたる小児を生剥して、事を問う術なども大抵似たことなり。此の岡の巫子は隠亡の妻なりと聞く。猿、犬、猫などは仮話にて、実は人間の頭を用うるならずやとも存ず云々(大正元年十二月二十八日附)。 此の猫神の作り方は、誰でも知っている大昔に本願寺の毛坊主が、好んで信徒に与えたと伝えられてる「お<ruby><rb>白薬</rb><rp>(</rp><rt>シロクスリ</rt><rp>)</rp></ruby>」なるものと、全く同一の製法であって、ただ原料が猫と犬との相違だけである。少しく蛇足の嫌いはあるが、こうした怪事が行われたという往昔の民間信仰を知る旁証として、要点だけを下に摘録する事とした。「松屋筆記」巻三十九に「抜莠撮要」と題する上州高崎善念寺の僧秀覚筆記の復写本を引用して曰く、 : 紀州法然寺円成上人ハ、十八歳ニシテ出家ス、則一向宗ノ人也(中略)。其母語云我宗ニ<u>御白</u>ト云事アリ、何ヲ以テ作ル事ヲ知ラズ、或云白犬ヲ養ヒ、其犬ヲ全ク地中ニ埋ミ、首ノミヲ出シテ種々ノ珍味ヲツラネ其首ノ前ニ置ク、白犬此ヲ喰ント食物ヲ念ジテ、気単ニ逼ルニ及ビテ犬ノ首ヲ切テ、是ヲ焼灰トナス、此灰ヲ人ニ与ル時、其人大信ヲ起シテ単ニ身命ヲ顧ズ、財宝ヲナゲウツト云(中略)。両本願寺東都参向ノ時分、道俗均ク御杯頂戴ト云フ有リ、御杯頂戴ノ事ニアラズ御灰頂戴ノヨシ、各土器一枚ヲ得テ歓喜ス、此灰ハ親鸞聖人ノ遺灰ニシテ、此灰ヲ服スル時此身則親鸞聖人ナリト伝授ス、一説ニ此事ヲ<u>御白</u>ト云ト(中略)。<u>御白</u>ノ事西国中国辺ノ人ハ時々云出ス事アレド、関東ニテハアマリ沙汰セヌ事也、秀覚{上野高崎/善念寺僧}知己ニ深川某寺ノ上人モト一向宗也、児ノ時<u>御白</u>ノ事ヲ聞知リ、<u>御白</u>ハ白犬ノ灰也ト云テ、母ニ叱ラレシト語キ、此上人モ中国産也云々(以上「国書刊行会」本)。 かかる事が果して行われたものか否か、今から思うと腑に落ちぬことであるが、それにしても斯うした悪説を宣伝された本願寺にとっては、此の上もない迷惑のことであったに相違ない。併しその詮議は、姑らく措くとするが、兎に角に、大昔にあっては、斯うして、猫なり、犬なりの首を、一種の呪力あるものとして信じていたことだけは事実である。讃岐の犬神の作り方に就いても、これと全く同じ方法が伝えられている所から見ると〔一三〕、古くは蠱術家が一般に遣ったことと思われるのである。 狸神は寡見の及ぶ限りでは、殆んど阿波一国に限られているようである。由来、阿波には動物に関する不思議の伝説が多く、事に首切り馬の如きは、今に正解を見ぬほどの難問題である。而して同国の狸神に就いて、未見の学友後藤捷一氏の記す所によると、狸が人に憑いたり、又は悪戯をするので、これを神に祀った祠は、枚挙に遑なしというほど夥しく存しているが、就中、徳島市寺町妙長寺の「お六さん」というのは、狸合戦(有名な八百八狸の物語である)に関係した女狸で、相場師、漁夫、芸妓などの俗信を集めている。同市佐古町大谷臨江寺の「お松さん」も、同様に、狸合戦に出た女狸であるが、これは縁結びの神として崇拝されている。同市住吉島町に「おふなたさん」と称する神社があるが、此の神体は子供を十二匹連れた狸で、子供の無い人が祈願する。そして何処の家でも、狸が憑くと、先ず陰陽師か修験者を頼んで、祈祷して貰うのが常であるが、これを落すのに、唐辛で燻べ殺したということも耳にしている。併し大抵は、神々の護符を戴かせて、退散させるのである。此の時には必ず、狸が憑いた動機や名前を語り、最後に祠を立てて祀ってくれなどと註文を出すそうである〔一四〕。併しこれに由ると、狸神は、狸その者が無邪気であるだけに、犬神や蛇神などにくらべると、極めて罪が浅いようである。猶此の外に、備後のゲトウ、伊予のジャグマ、陸中のオクナイサマなど記すべきものもあるが、大体において共通したものと信ずるので、一臠を以て全鼎を推すとして省略する。 '''四 牛蒡種と吸い葛''' 「牛蒡種」は、飛騨国の一部に行われている憑き物であるが、これに関しては、曩に私見を発表した事があるので〔一五〕、これを要約して載せるとする。即ち牛蒡種とは、その憑き工合が、恰も牛蒡の種のそれの如く、一度ついたら容易に離れぬと云う意味に解されているが、これは全く護法実(この事は[[日本巫女史/第二篇/第二章/第一節|既述]]した)の転訛にしか過ぎぬのである。而して此の俗信の行われている地域、及びその状態に就いては、「郷土研究」第四巻第八号に左の如く掲げてある。 : 牛蒡種という家筋は、飛騨の大野、吉城の二郡と、益田郡及び美濃国恵那郡の一部とに散在し、更に信濃の西部にも少しあると云う。此の家筋の男女は、一種不思議の力を有すると云われていて、家筋以外の者に対し、憎いとか嫌だとか思って睨むと、その相手は、立ちどころに発熱し頭痛し、苦悶し悒悩して、精神に異状を来たし、果は一種の瘋癩病者の如くになり、病床に呻吟するに至る。幸に軽い者は数十日で恢復するが、重い者になるとそれが原因で死ぬこともあるという。そして此の力は家筋同士の間には効験がなく、また他の者に対して斯くの如き力を用いつつある間も、自分には何等の異状を起さぬそうである。吉城郡上宝村大字双六という部落などは全戸この家筋から成立ってるように噂されていて、他村の者は甚だしく之を怖れ憚っている。また美濃国恵那郡坂下村大字袖川という所にも、此の家筋の者が居住し、或はその家から女を妻に貰った男などは、妻に対して如何ともする事が出来ず、一朝、妻の怒りに触れると、夫は忽ち病人になるという有様で、此の種の女を妻とした男は、是非なく洗濯もすれば、針仕事もするというような訳で、全く奴隷同様の境遇に落ちるという話である。但し牛蒡種の威力も、いくら部外の人でも、郡長、警察署長、村長とかいう目上の者に対しては、効果を発揮することが出来ぬ云々(中山曰。此の点は土佐の犬神と同じで、これが俗信であることを証明する上に注意すべき点である)。 此の憑き物の正体は極めて簡単であって、[[日本巫女史/第二篇/第二章/第一節|既述]]した<ruby><rb>護法実</rb><rp>(</rp><rt>ゴホウダネ</rt><rp>)</rp></ruby>と称する巫覡の徒が、此の地に土着し、それの子孫が一般の民衆から忌み嫌われたために(此の例は殆んど全国に存している)生じたものにしか過ぎぬのである。従ってこれが、下層の民衆の間にのみ行われ、知識階級に対して少しも呪力が無かったというのも、又この結果に外ならぬのである。 吸い葛の行われている範囲に就いては、寡聞のためよく判然せぬが、「雍州府志」巻二によれば、洛北の貴船神社の末社に、<ruby><rb>吸葛</rb><rp>(</rp><rt>スイカズラ</rt><rp>)</rp></ruby>社の在ることが見えているので、古く近畿に此の俗信の行われたことが推察される。更に「嬉遊笑覧」巻八に「屠龍工随筆」を引用して、 : いづことも限らず、<u>すいかづら</u>といふも有となむ、その祀りやう人の知らざる密なる所に穴を掘て、蛇をあまた入置き神に崇めて遣ふ法、大かた犬神にひとし。<u>すいかづら</u>付られたる人は、熱甚だしく心身悩乱するを、病家それと知りぬれば、宝を送り遣せば病癒ると聞けり。 と載せてある。之に由れば、蛇神の一種で、トウビョウの地方化とも思われる。猶お此の外に、オトラ狐、ナマダコ、白神筋など云う憑き物も存しているが、別に取り立てて言うほどの特種のものではなく、且つナマダコや、白神筋に就いては、後段でこれに触れる機会もあろうと考えるので割愛し、最後に是等に対する結論ともいうべきものを附記して、本節を終るとする。 是等の憑き物が、我国の固有のものでなくして、殆んどその悉くが、支那思想の影響であることは、疑うべからざる事実である。されば、此の事に就いては、古くから識者の間には説があり、「榊巷談苑」の著者の如きは、 : 四国に犬神といふ<u>まじもの</u>あり、唐国にては犬蠱と云ふ(中略)。又陶瓶をば蛇蠱と云ふ、共に干宝の捜神記に見えたり。 と言うている。山岡浚明翁も又その著「類聚名物考」において、全くこれと同じ意見を述べ、然も猫鬼の事にまで論及している。 私は彼之の共通——と云うよりは、更に一歩を進めて、我国が支那の巫蠱に学んだことを証示する為に、茲に「捜神記」より、その原拠となっている文献を検出するとするが、犬神に就ては、同書巻十二に、 : 鄱陽趙寿有犬蠱、時陳岑詣寿、忽有大黄犬六七、群出吠岑、後余相伯婦、与寿婦食、吐血幾死、乃屑桔梗以飲之而愈、蠱有怪物若鬼、其妖形変化雑類殊種、或為狗豕、或為蟲蛇、其人不自知其形状、行之於百姓、所中皆死。 とあるのがそれである。勿論、支那のものがそのまま我国に行われているとは云えぬが、併しその蠱術の根本が、共通したものであることは、肯定されるのである。次にトウビョウと称する蛇神に関しては、同書同巻に、 : 滎陽県有一家、姓廖、累世為蠱、以此致富、後取新婦、不以此語之、遇家人咸出、唯此婦守舎、忽見屋中有大缸、婦試発之、見有大虵、婦乃作湯灌殺之云々。 とあり、彼之全く一致していることが推知される。殊に柳田国男先生の記された所によると、 : 旧幕時代に、或人が国普請の夫役に当って、讃岐中部の某村に往き、ある家に宿を借りて日々普請場に通っていた。一日家へ帰って見ると家の者は皆留守で、台所の鑵子に湯がぐらぐら煮えている。一杯飲もうと不斗床の下を見ると蓋をした甕がある。茶甕かと思って開けて見れば、例の神(中山曰。トンボ神)がうようよと丸で泥鰌の籠のようであった。乃ち熱湯を一杯ざっぷと掛けて蓋をして置いた(中略)。其家では大喜びで、普請で知らぬ人を宿したお蔭に、永年の厄介物を片付けることが出来たと云っていた云々(以上「郷土研究」第一巻第七号)。 とあるのは、「捜神記」に、何も知らぬ新婦が、熱湯を以て蛇蠱を灌殺したとあるのと、全く同巧異曲の物語と云えるのである。 更に狐蠱にあっては、一段の類似性を有している事が発見される。例えば寛政頃に奥州の事を書いた「黒甜瑣語」第四編に載せた、羽後の秋田で、梓巫女に宿を貸した男が、巫女に酒を強いて酔潰れて、臥た間に、巫女の用いる髑髏と、墓地で拾って来た只の曝頭と入れ換えて置くと、翌朝一旦帰った巫女、面色土の如くなって戻り来り、悪戯も事にこそよれ、早く本物の髑髏を返せと云うので、その理由を語れと云いしに、この髑髏は、千歳の狐、形を人に変ぜんとする修行に、頭に戴いて北斗を拝するとき用いたもので、稀には野外でこれを見つけることがあるも、その徴には必ず枯木で作って杓子のような物が添えてある、これをボッケイと云うとあるのは、時珍の「本草綱目」に『狐至百歳礼北斗、変為男婦』とあるのから派生したもので、私などが子供の折によく見た大雑書には、狐が髑髏を頭に載せて北斗を拝んでいる挿絵があったものである。猫神も狸神も、その原拠を支那に求めることは決して難事なく、従って是等の蠱術が挙げて支那のを学んだものであることが判然するのである。 由来、我国の巫女の行いし呪術は、その原義においては、北方民族の間に発達したシャマニズムの系統に属しているものであるが、その発生地であるシャーマンに是等の蠱術の存在せず、且つ我国で工夫されたものと、積極的に説明すべき証左の無い点から見るも、これが支那の影響である事は、多言を要する迄もないと信じている。 ; 〔註一〕 : 我国の憑き物の就いては、前に柳田国男先生が「巫女考」のうちに連載され、後に「民族と歴史」では「憑物研究号」の特別号を出されている。詳細は是等によって知ってもらいたい。 ; 〔註二〕 : 稲荷神と、吒吉尼天との習合に関しては、伴信友翁の「験の杉」に委曲を尽している。三州の豊川稲荷は、その代表的のものであって、古くは稲荷というも、実際は荼吉尼天であったと聞いている。 ; 〔註三〕 : 狐を専女と称し、これを殺したために配流された例は、「古事談」その他に散見しているが、今は煩を避けてわざと載せぬこととした。 ; 〔註四〕 : 「郷土研究」第一巻第七号。 ; 〔註五〕 : 「民族と歴史」の「憑物研究号」参照。 ; 〔註六〕 : 同上。 ; 〔註七〕 : ヨタと云う言葉は、現時では、出鱈目とか、戯談とかいう意味に用いられているが、その起源は、神託に関係ある言語であるらしい。近江の官幣大社多賀神社を初めて祀った者を与多麿と称し、紀州の官幣大社日前国県神宮に与多と称する神職があり、更に下総の官幣大社香取神宮に近きところを与多浦というなどは、此の考えを裏付けるものと思うている。 ; 〔註八〕 : 飯綱信仰に就いては、記述すべき多くの資料を有しているが、余りに長文になるのを恐れて省略した。そして此の信仰を言い立てた行者は、山伏と殆んど択むなき呪術を行ったもので、信仰の対象にこそ多少の相違はあれ、実質は両者ともに同じようなものである。 ; 〔註九〕 : 「雪窓夜話」の筆者である上野忠親は、宝暦七年に七十二歳で死んでいる。更に同書巻七に「備前の<u>たふべう</u>の事」と題せる記事が載せてあるが、此の方のトウビョウは蛇だとあるから、古くから此の物の正体が不明であったことが知られる。私は是等の動物(オサキ狐、クダ狐、ジン狐、トウビョウなど)は、所謂、妄想上の動物であると信じているから、正体を見た者がなく、従って正体不明が却って正当だと考えている。 ; 〔註一〇〕 : 前掲の「憑物研究号」。 ; 〔註一一〕 : 「郷土研究」第一巻第七号「犬神蛇神の類」参照。 ; 〔註一二〕 : 同じく「憑物研究号」。 ; 〔註一三〕 : 「憑物研究号」に讃岐の犬神の話とて、白犬を首だけ出して地中に埋め、飯を見せびらかした後に首を切ると云うのが載せてある。 ; 〔註一四〕 : これも「憑物研究号」に拠った。 ; 〔註一五〕 : 私が、牛蒡種は護法実なりとの考証を「医学及び医政」の誌上へ発表連載したのは、大正九年頃と記憶している。其の折に喜田貞吉氏から、拙稿を見て自分もそう考えていたとの書信に接した。そして喜田氏が「憑物研究号」に牛蒡は護法実なりともいうべき論説を掲載されたのは、大正十一年のことである。喜田氏は有名のお方であるのに反して私は無名の者、学説を剽窃したなどと思われるも折角だから、誤解を避くるため敢て附記する。 [[Category:中山太郎]]
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