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日本巫女史/第二篇/第六章/第二節
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[[日本巫女史]] [[日本巫女史/第二篇|第二篇 習合呪法時代]] [[日本巫女史/第二篇/第六章|第六章 巫女の社会的地位と其の生活]] ==第二節 巫女の給分と其の風俗== 巫女の給分及びその収入等に就いては、神社に附属せる<ruby><rb>神和</rb><rp>(</rp><rt>カンナギ</rt><rp>)</rp></ruby>系の神子と、町村に土着せる<ruby><rb>口寄</rb><rp>(</rp><rt>クチヨセ</rt><rp>)</rp></ruby>系の市子とに区別して記述するのが正当であるが、私の寡聞のため、前者に関しては多少の資料を有するも、後者に関しては全く知見するところが無いのである。そこで止むなく、茲には前者に就いてのみ記し、後者に就いては仮定を述べて、後人の大成に俟つこととする。 伊勢の斎宮、賀茂の斎院は、普通の巫女と申上げることは出来ぬので今は省くが、先ず宮中における御巫、巫等に就いては、(一)一定の給分と、(二)臨時の給分とがあった。而して一定の給分に就いては「延喜式」巻三に『新任<sub>ノ</sub>御巫<sub>ニハ</sub>皆給<sub>へ</sub>屋一宇<sub>ヲ</sub>{長二丈。庇二/面長各二丈}』とあって、現今なれば、官舎ともいうべきものを給り、外に『凡諸<sub>ノ</sub>御巫者。各給夏<sub>ノ</sub>時服絁一疋。冬<sub>ハ</sub>不給。其<sub>ノ</sub>食<sub>ハ</sub>人別<sub>ニ</sub>人<sub>ニ</sub>白米一升五合。塩一勺五撮』とある。併し、これ等の給分は、誠に寡少のものであって、金額に見積れば、実にお話にならぬほどであるが、要するに、宮中における御巫や、巫等は、神々に仕える聖職であり、且つ無上なる名誉でもあったので、余り物質上のことなどは苦にせぬ人々であったに相違ない。殊に、宮中のことは、九重雲深くして詳細に漏れ承ることは出来ぬが、これ等の御巫や巫等は、世襲的に奉仕したものと察せられるので、旁々、その給分の如きは、問題とされていなかったであろう。然るに、これに反して、臨時的の給分にあっては、その祭儀により、元より一様ではないが、相当の収入となったようである。「延喜式」に散見するところを要約して、左に記載することとした。 : '''春日<sub>ノ</sub>神四座<sub>ノ</sub>祭''' : 斎服料 : 物忌一人<sub>ガ</sub>料。<ruby><rb>夾纈</rb><rp>(</rp><rt>カフケチ</rt><rp>)</rp></ruby><sub>ノ</sub>帛三丈五尺。羅<sub>ノ</sub>帯一条。紫<sub>ノ</sub>絲四両。錦鞋一両。{已上/封物}錦二条。{一条長三尺五寸。一/条長六尺。並広四寸}絁三疋二丈九尺。縁<sub>ノ</sub>絁一疋。紗七尺。韓櫛二枚。紅花一斤二両。東絁三尺五寸。綿三屯半。支子五升(中略)。右祭<sub>ノ</sub>料依前<sub>ノ</sub>件。春<sub>ハ</sub>二月。冬<sub>ハ</sub>十一月<sub>ノ</sub>上申日祭之(中略)。其物忌一人食。日<sub>ニ</sub>白米一升二合。塩一勺二撮云々(以上。巻一、四時祭上)。 : '''大原野<sub>ノ</sub>神四座<sub>ノ</sub>祭''' : 斎服料 : 物忌二人<sub>ニ</sub>。別<sub>ニ</sub>夾纈<sub>ノ</sub>帛。浅緑<sub>ノ</sub>帛各三丈。絁一疋二丈五尺。帛一疋五丈六尺五寸。<ruby><rb>表裙</rb><rp>(</rp><rt>ウハモ</rt><rp>)</rp></ruby>一腰。帯一条。<ruby><rb>縹</rb><rp>(</rp><rt>ハナダ</rt><rp>)</rp></ruby><sub>ノ</sub>帛二丈四尺。緋<sub>ノ</sub>帛一丈五尺。紫<sub>ノ</sub>絲二両。綿四屯。東絁三尺五寸。履一両。紅花五両。<ruby><rb>支子</rb><rp>(</rp><rt>クチナシ</rt><rp>)</rp></ruby>五升。御巫一人<sub>ガ</sub>絁一疋。浅緑帛一匹。綿二屯。表裙一腰。物忌御巫別<sub>ニ</sub>縁<sub>ノ</sub>絁一疋云々(同上)。 : '''平岡<sub>ノ</sub>神四座<sub>ノ</sub>祭''' : 斎服料 : 物忌一人<sub>ガ</sub>装束料絹四疋九尺。夾纈<sub>ノ</sub>絁三丈五尺。綿三屯六両。錦九尺五寸。紗七尺。紅花一斤三両。支子五升。錦鞋一両。紫絲四両。韓櫛二枚云々(同上)。 : '''松尾祭''' : 斎服料 : 物忌<ruby><rb>王</rb><rp>(</rp><rt>オホギミ</rt><rp>)</rp></ruby>氏夏<sub>ハ</sub>絹五疋。{冬加/一疋}綿十屯。紅花小六斤。銭一貫六百卅文。{冬料/准此}<ruby><rb>和</rb><rp>(</rp><rt>ヤマト</rt><rp>)</rp></ruby>氏。大江氏並<sub>ニ</sub>夏<sub>ハ</sub>別<sub>ニ</sub>絹二疋。{冬加/一疋}綿三屯。紅花小三斤。銭六百卅文。{冬料/准此}云々(同上)。 : '''大殿祭''' : 斎服料 : 供奉<sub>スル</sub>神今食御巫等<sub>ノ</sub>装束。{十二月/不給} : 御巫絹四疋。絁一丈一尺。綿二屯。細布六尺。紅花六斤。銭百卅文。{中宮御/巫亦同}<ruby><rb>座摩</rb><rp>(</rp><rt>ヰカスリ</rt><rp>)</rp></ruby>。御門。生島。東宮<sub>ノ</sub>巫各絹三疋。絁各九尺。綿一屯。細布六尺。紅花一斤。銭百卅文。 : 供奉神今食人等<sub>ノ</sub>禄。 : (前略)。御巫<sub>ニ</sub>絹三疋。{中宮御/巫亦同}座摩。御門。生島。東宮<sub>ノ</sub>巫各二疋(同上)。 : '''鎮魂祭''' : 官人以下<sub>ノ</sub>装束料。{中宮宮/主准此} : (前略)。御巫{中宮。東宮。/御巫准此}御門<sub>ノ</sub>巫一人。生島<sub>ノ</sub>巫一人<sub>ニ</sub>。各青摺<sub>ノ</sub>袍一領。{表裏別/帛三丈}綿二屯。<ruby><rb>下衣</rb><rp>(</rp><rt>シタカサネ</rt><rp>)</rp></ruby>一領。{表裏別/帛三丈}綿二屯。<ruby><rb>単衣</rb><rp>(</rp><rt>ヒトへ</rt><rp>)</rp></ruby>一領。{帛三/丈}表裙一腰。{表裏別帛/三丈。腰料一丈}綿二屯。下裾一腰。{同/上}袴一腰。{帛三丈/五尺}綿二屯。単袴一腰。{帛二/丈}<ruby><rb>帔</rb><rp>(</rp><rt>ウチカケ</rt><rp>)</rp></ruby>一條。{帛二/丈}<ruby><rb>褶</rb><rp>(</rp><rt>ヒラミ</rt><rp>)</rp></ruby>一條。{緋帛/四丈}紐一条。{錦三/丈}髻髪并襪料細布一丈。領布<sub>ノ</sub>紗七尺。櫛二枚。履一両。座摩巫一人<sub>ニ</sub>青摺袍一領{表裏別帛/二丈五尺}綿一屯。下衣一領{同/上}綿一屯。単衣一領。{帛二丈/五尺}表裙一腰。{表裏別帛三丈/腰料一丈}綿一屯。下裙一腰。{同/上}袴一腰。{帛一丈/五尺}綿一屯。単袴一腰。{帛一/丈}<ruby><rb>帔</rb><rp>(</rp><rt>ヒ</rt><rp>)</rp></ruby>一條。{帛一/丈}褶一條。{緋帛一/丈五尺}紐一条。{錦一/丈}領巾・六尺。襪<sub>ノ</sub>料細布五尺。履一両(以上。巻二。四時祭下)。 以上の祭儀を一々詳述して、御巫及び巫等の職掌を細説し、而して是等の給分の事を説明すべきであるが、そう克明に渉らずとも、大体は会得されることと信じたので省略した。而して、伊勢の両皇太神宮における物忌の定員、及び給分等は、「延喜式」巻四によると、大略左の如きものである。 : '''太神宮三座''' : (前略)。物忌九人。{童男一人/童女八人}<ruby><rb>父</rb><rp>(</rp><rt>チチ</rt><rp>)</rp></ruby>九人云々。 : '''荒祭宮一座''' : 内人二人。物忌。父各一人。 : '''度会宮四座''' : (前略)。物忌六人。父六人云々。 : '''多賀宮一座''' : 内人二人。物忌。父各一人。 : '''九月神嘗祭''' : '''太神宮''' : 祢宜。大物忌二人<sub>ニ</sub>。各絹三疋。綿三屯(中略)。物忌。。絹一疋三丈。綿一屯云々。大物忌云々。日<sub>ノ</sub><ruby><rb>祈</rb><rp>(</rp><rt>ミ</rt><rp>)</rp></ruby><sub>ノ</sub>御巫云々。絹一疋。綿一屯云々。荒祭<sub>ノ</sub>宮(中略)。物忌一人<sub>ニ</sub>。絹一疋三丈。綿一屯云々。 : '''度会宮''' : (前略)。大物忌一人<sub>ニ</sub>。絹二疋。綿二屯云々。物忌。絹一疋三丈。綿一屯云々(中山曰。これは僅にその一節を挙げたもの、詳しくは本書に就いて見られたい)。 祭儀の行われる毎に、伊勢両宮の物忌は、臨時の給分を受けたことは、以上の一例を以て知る事が出来るが、更に一定の給分としては、同じ「延喜式」巻四に『物忌太神宮四人。度会宮三人。給年中食料、日<sub>ニ</sub>各米八合』とあり、猶お三節祭の直会には『物忌<sub>ニ</sub>汗袗一領』を給することとなっていた。これも宮中の御巫などと同じく、給分としては、誠に些少のものであるが、併し大物忌は、荒木田氏の女に限り、その他の物忌も、各々家筋が限られていたほどの名誉の職掌とて、物質上の問題などはどうでも宜いという境遇であったようである。而して後世に、此の物忌が御子良と改り、物忌<sub>ノ</sub>父が母良と改まるようになると、神領のうちからそれぞれ一定の給分を与えたものと見えて、「神鳳抄」に左の如き記事が散見している。 : 諸神田注進文(建久四年云々) : 安濃郡 : 重昌神田、宮守子良神田五段云々。 : 中万神田十一町之内二町五段之宮守子良神田。 : 一町七段百八十歩、大物忌子弘子良粮料。 : 二町五段在安東郡、大物忌父季貞神主、子良衣粮料。 : 一町五段在安西郡、同季貞神主子良衣粮料。 : 三町七段在安西郡、大物忌父光兼子良衣粮料。 : 一町四段在安西郡、大物忌父氏弘子良衣粮料。 : 伊勢国安西郡 : 母良神田{一丁三/反大}子良神田{四丁/余}(中略)。舘母神田。 「神鳳抄」は、源頼朝が鎌倉に覇府を開いた折に、伊勢神領の整理をした記録であるが、これに由ると、物忌、子良の給分は、相当に豊富であったように考えられる〔一〕。併し、これ以外の神楽料等の雑収入が、如何に是等の者に配分されたかは、遂に寡見の及ばぬ問題である。 宮中及び伊勢の御巫、物忌等の給分に就いては、極めて概略の記述を試みたが、さて是れ以外の、賀茂、春日、八幡、熱田等の大社に附属していた巫女の給分はどうであったか、これは各神社の古記録を仔細に検討したら、容易に知り得らるることと思うが、今の私としては此の容易の問題を詮索する余裕を有たぬので、誠に申訳の無い次第ではあるが、触目した資料だけを掲載し、一臠を以て全鼎の味を推すこととする。而して[[日本巫女史/第二篇/第三章/第一節|既述]]した宇佐八幡宮の巫朝臣杜女に従四位下を授け、これに伴う封戸を賜ったことは元より例外であるが、普通の巫女の給分は大体において尠少であったようである。「延喜式」巻卅五大炊寮の条に『松尾社物忌一人。料米三斗六升、小月、三斗四升八合』とあるが、これは日割にすれば、一升二合にしか当らず、然も小ノ月には一日分を控除するとは、かなり手厳しい待遇と云わなければならぬ。更に「三代実録」には、巫女の給分に関する記事が二ヶ所ほど見えているが、第一は貞観十二年六月二十七日の条に『松尾神社物忌一人、充日{○一本/作月}粮、立為永例云々』とあるが、恐らく、前掲の給分が一時的であったのを、定制としたまでであろう。第二は、元慶三年閏十月十九日の条に『伊勢高宮物忌、准諸宮物忌、永充月粮、以神封物給之』とあるのも、他の物忌に准ずとあれば、同じく食米を給せられる程度であったと見て大過ないようである。 これでは如何に物質に縁遠き聖職にある巫女であっても、その日の生活にも追われがちではあるまいかと想像されるが、神々に仕え、信仰に活きる者には、又た相当の収入が在ったようである。これに就いて、[[日本巫女史/第一篇/第五章/第四節|既述]]の摂州広田、西宮の両社に仕えて、五十年の神職生活を送られた吉井良秀翁が、その著書「老の思い出」に載せられた『平安末期に御巫が置かれて有った事』と題せる一節は、よく広西両社の巫女の臨時収入の点を明かにし、且つ一般の巫女の生活にも触れているところが多いので、左にこれを転載することとした。 : この頃、<ruby><rb>巫女</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>など云うと、洵に卑いように思われるが、昔は決してそうで無い。宮中を始め、諸国の大社々々には、何方も置かれてあって、我広田西宮にも同様であった。今日では、里神楽と称して、各大小神社の私祭に雇われて来る者がある。之は各社でも、其の待遇が粗末で、一般からも軽視されている。伊勢神宮や、住吉、春日などは、その神楽所のみに、奉仕しているは別段で、是は品位を保たせてある。昔は何れにても、普通一般神社の如くで無く、品位を有ったものである。我が広田西宮でも、優に位置高く置かれてあった事は、書に見えてある。併し上下の階級はあったらしい。平家時代の厳島神社の如きは、幽雅美麗の御巫が置かれてあった事は〔二〕、高倉院厳島御代の途次、福原(中山曰。神戸市)の御所に御立寄の時、予て厳島から招き寄せてあった内侍八人(原注。内侍としてあるが全く御巫である)の舞楽を叡覧に入れ、終って御神楽を奏している。内大臣土御門通親公が、天人の降りたらんもかくやとぞ見ゆると、周囲の装飾もあったからであろうが、劇賞して日記に書いている。厳島御参拝の折にも、内侍ども老いたる若き、さまざま歩き連りて、神供まいらせ、とりつづきて、がくどもして、御戸ひらき参らせ云々とある如く、栄えたる神社には、いつも斯うした御巫があった。当神社(中山曰。西宮社)でも、古くは置かれてあったと見えて、近衛天皇の康治元年の事であるが、美福門院が新に寵を得られて、待賢門院の侍女で津守島子が、其夫なる散位源盛行が待賢門院の旨を受けて、広田神社の御巫朱雀と云うを召して、美福門院を呪詛せしめ、其事露顕して、検非違使を遣わし、盛行を捕え、銀筥を<u>西宮</u>神宮に得て、盛行を流に処した事がある。是は「百練抄」に書いてある(原注。「大日本史」にもある)当時朱雀と称した巫女が、西宮にあったと見える。之を想像して見ると、現今大小神社にある所の巫女の様でなく、神前に常侍して居たもので、位置も決して卑しい者では無かったのである。夫れから五十年許りの後、後鳥羽天皇の建久頃に、巫女寿王と云う人が、当社にある事を「諸社禁忌」と云う書物に書いてある。此寿王という巫女も、文意を見ると、社中の上位に置かれた人である。それから又三十年許り後の、後堀河天皇の貞応三年に、神祇伯王が当社に参拝せられて、巫女の四条女宅を宿所とした。是は代々の例であると、「神祇官年中行事」に見えるが、此時伯王の行列と云うものは盛んな事で、船七八艘して下向し、大勢の行列で西宮浜に着き、伯王は乗輿で、衣冠の力者十二人で舁いで、神祇官員若干も皆衣冠、諸大夫以下皆布衣とあって、大層な様子に書いてある。夫れが巫女の四条の宅を宿所としたのである。されば巫女の宅は宏荘な物であったであろう。仮令、随行者皆迄が、此家で宿泊したのではあるまいが、兎も角も長官伯王の宿所と定めてあるから、夫れ相応な設備を要する資格の家でなければならない。況や代々の常宿であるらしい。巫女といえど社中でも立派な位置に居たものと見える。夫れからまだ書いてある事に、『今夜女房の宿願を果す為に、又<ruby><rb>夷宮</rb><rp>(</rp><rt>ヱビスノミヤ</rt><rp>)</rp></ruby>に参る、前に御神楽を行ふ、夷三郎及御大教前に於て、種々の事等あって、衣一領を「北宮四条に給ひ」絹一疋を「南宮兵庫一戎台」直垂「史巫為延」已上巫女等に給り了ぬ。此他堪能の巫女に纏頭を給ふ。大口一領、守護袋、帖紙等の類である』としてある。其四条とは巫女の名で北宮は広田社であろう。南宮兵庫の兵庫は巫女の名で、南宮に専属の巫女であろう。一戎台は何とも解き難かけれど〔三〕、夷社、専属の巫女の名であろう。史巫為延は即ち覡で、男の巫であろう。其他堪能の巫女にも夫々今云う祝儀を呉れたのである。之を見ると、巫女等の人数も、随分多かった事と見える。巫女に物を与える事は、当節の慣例と見えて、「厳島御幸記」にも、一々綿を給った事が見えている。今から七百八十年以前(中山曰。昭和三年より起算して)、巫女が当社に仕えていた。その地位を察すると、現今各社に用いる巫女の如きで無く、一廉の地位を占めていたらしい。此件を見て往昔広田西宮の隆昌であった事が知られる。序に云うて置きたい事がある。明治維新当時まで、当社には男の巫子が二人あって、表門前に宿屋を兼業していた。元禄正徳頃には幣司、鳥飼、大石、五十田等の名が見えている。維新頃の所作を見ると、神楽と云う程で無く極簡素な業で、講中や氏子の乞いにより、神楽所にて鈴の行事を行うのである。社役人と同じく下級の社人となっていた。然れども苗字帯刀はしていた(中山曰。読み易きよう句読点を加えた所がある)。 当代の巫女の生活と収入とを説いて詳細を尽しているが、併し斯うした事象は、独り広田西宮の両社に限られたことではなく、他の名神大社に附属していた巫女の上にも在った事と想われる。勿論、神徳の高下や、神社の隆替によって、その悉くが軌を一にしていたとは言われぬが、大体において共通したものと考えて差支ないようである。従って巫女の収入は一定の給分よりは、臨時に参拝者より受くる纏頭が多きをなしていたのであろう。江戸期になると、巫女の神社における位置は極めて低下し、殆んど有るか無きかの待遇に甘んじなければならぬ迄に余儀なくされていたが、それでも神楽銭の分配だけは収得する権利を有していた。是等に就いては、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に述べるので、茲に保留して置くが、平安朝頃の巫女の臨時収入は蓋し尠くなかったであろう。さればにや、[[日本巫女史/第二篇/第三章/第三節|既述]]の如く、金持の巫女を後妻に迎えた大臣のあったことが「宇津保物語」に見え、更に「源平盛衰記」によれば、平清盛が厳島の内侍(巫女)を愛し、その間に儲けた女を宮中にすすめ、然も此の内侍は、後に土肥実平の妻となったことが載せてあり、所謂、氏なくして玉の輿の好運を贏ち得た者もあったに相違ない。時代は降るが、室町期に常陸国鹿島神宮の物忌(即ち巫女)が、田地一町歩を同地の根本寺に永代寄進した古文書(著者採訪)が同寺に保存されている。左にこれを転載する。 : 奉寄進田地之事 : 合壱町者{鹿嶋郡宮本郷之内/神野下青木町也} : 右彼田者依有志限永代寄附根本寺者也末代於此田不可有他之違乱妨如往古可被知行仍為後証寄附之状如件 : 応永十九年{壬/辰}十二月三日 : 鹿島太神宮 物忌 妙善 : 当寺長老水賛西堂 鹿島社の物忌は、他の巫女とは多少性質を異にし(此の事は[[日本巫女史/第一篇/第六章/第一節|既述]]した)ているし、殊に此の寄進者は物忌でありながら、仏教の篤信者と思われるので、此の一例を以て、他の総てを律することは、元より危険である。否々、危険ばかりでなく、是等は一般巫女の生活から見れば、全く稀有のことであって、その多くは薄給に苦しみ、世過ぎの途に窮していたのである。例えば「越知神社文書」に、 : 大谷寺(表袖書)「得石御子補任谷下禰宜子」 : 補任 八乙女神人事 : 橘氏女 : 右以彼人所補任神人八乙女等宜承知、敢以勿違失、依大衆僉議、所補任之状如件 : 延徳二年四月 日 公文在庁法印 : 院主伝燈大法師 とある。大衆の僉議の、補任のと、大袈裟であるから、巫女の収入もこれに伴うものかと思えば、事実は極めて貧弱のもので、漸く祭礼のある毎に『大飯二前』か、『大飯三前、小飯四前、酒二瓶子』かの分け前を受ける外には、『御神楽料米銭成在所』として『六斗応神寺、八斗在田村、八斗坪谷村、二斗厳蔵寺、壱貫文田中郷』等の給分を〔四〕、然も神楽に従事する楽人や、八乙女など、大勢で分配するのであるから、その収入は実に粥を啜る程の乏しきものであった。されば、信仰の衰えると共に、巫女の地位も下り、後には下級の神人の妻女が、片手業にこれに従事するようになってしまったのである。 記事が少しく前後するが、武家が勃興した鎌倉期にあっては、武家のために往々神領を奪取され、神社の経営にすら困難を来たすようになったので、さらぬだに軽視されていた巫女にあっては、猶お一段と給分を減少され、或は没却される破目に置かれるのであった。「吾妻鏡」巻三十三に、此の事を考えさせる左の如き記事が載せてある。 : 一、神宮御子職掌等、依為祠官、所充給之地、無指罪科、乍帯其職、不可点定事 : 一、同社司給地、無上仰之外、別当以私心、不可立替遠所狭少地事 : 一、依為社司、令拝領地輩之中、無子息之族、或譲後家女子、或付養君、権門致沙汰之間、新補宮人無給地之条、不便事也、自今以後、子息不相伝之者、付職可充行其地事 : 以前条々、社家存此旨、不可違失之状、依仰下知如件 : 延応二年二月二十五日 前武蔵守(泰時) 斯うして幕府の保護のあるうちは、まだ巫女の給分も多少の確実性を有していたが、これが武家の押領が猖んになり、此の反対に神威が行われぬようになれば、巫女の生活の如きは、有るか無きかの境地に落されたのも、又た止むを得ぬ世の帰趨であった。 更に神社を離れて村落に土着した口寄系の市子の収入であるが、之に就いては、皆目知ることが出来ぬのである。これこそ、全く私の寡聞の致すところではあるが、止むを得ない。江戸期になると、多少とも知るべき手掛りが残っているが、それ以前にあっては、その手掛りすら発見されぬ。併しながら、強いて想像すれば、その収入は決して多かったものとは考えられぬ。後世の事情を以て中世を推しても、流行ッ児とか上手とか言われる程の者であったら、生活するだけ位の収入もあったろうが、それ以外の者では、漸く糊口の料を得るのが関の山であったろう。旅を漂泊した巫女にあっても、内職の性的収入を別にしたら、その所得は必ず尠少であったに相違ない。 巫女は聖職に服する関係上、その風俗において常人と異るものがあったと思うが、之を証示する資料は余り多く残されていない。「続日本紀」巻三慶雲二年十二月の条に『令天下婦女、自非神部斎宮宮人及老嫗、皆髻髪云々』とあるのは、古代から巫女は、放ち髪(後世の下げ髪)であって、然も文武朝においても、猶お髪を結ばずとも差支ない事を許されていたのである。鉢巻と千早は、神に仕える女性が一般に用いた古制であるから、口寄せ市子も必ずやこれに倣ったことと思う。時代が迥かに降って室町期の末頃になると、関東辺の市子は、武田信玄が許せるという特殊の竹ノ子笠(此の事は[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に詳述する)を被り、信濃巫女は一名を白湯文字と呼ばれただけに、二布の白き湯具を纏うのを常としていたようであるが、これ以外にあっては、未だ耳福に接して居らぬのである。 ; 〔註一〕 : 古代から中世へかけての巫女は、恰も近古の琉球の祝女の如く、一定の口分田を有していたことと思うが、これを明確に証示する資料は見当らなかった。後世の「<ruby><rb>御子免</rb><rp>(</rp><rt>ミコメン</rt><rp>)</rp></ruby>」又は「神楽免」或は「獅子免」などと称する神田は、各地方の神社の附属地として存していたもので、即ち巫女の給分であったことを意味しているのである。併し、それも江戸期になると、多く民有地となってしまい、纔に耕地の字名として残るようになってしまった。 ; 〔註二〕 : 「山槐記」治承三年六月七日の条に「今暁前太政大臣(平清盛)令参安芸伊都岐嶋給(中略)於放被□経供養竝内侍(巫也)等禄物料也、卅石可有許督云々」と見えている。即ち巫女の臨時収入の一例である。 ; 〔註三〕 : 此の問題は、吉井翁の洽聞を以てしても、猶お解し難しとある如く、相当に難問ではあるけれども、茲に試みに私見を簡単に記せば、西宮神社のエビス神には、末社に一ノエビス、二ノエビス、三ノエビスと三社あり、後にこれを、一郎殿、二郎殿、三郎殿と呼び習わしたものと信じている。それ故に一戎台とは、即ち一ノエビス(一郎殿)に仕えた巫女で、台とは女性の通称を用いたものと思う。後世の巫女の「神おろし」の一節に「一郎殿より三郎殿、番もかわれば水もかわる」云々とあるのは、必ずしもエビス神を指したものとは言えぬかも知れぬ(此の事は猶お[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]の本文に述べる)が、之が一神、二神、三神の意であることは、明白である。エビス三郎とあるより推して、事代主命が三男であるなどという合理的説明の信用すべき限りでない事は、既に拙稿「エビス神異考」(郷土趣味連載)で発表したところである。吉井翁、果して私見を是認せらるるか否か、参考までに附記するとした。 ; 〔註四〕 : 「越知神社文書」の享禄二年五月の「越知山大谷寺所々御神領坊領目録事」その他に拠った。因に言うが、越知神社は、越前国丹生郡糸生村大字大谷寺に鎮座の郷社である。 [[Category:中山太郎]]
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