「日本巫女史/第一篇/第五章/第二節」の版間の差分

提供:Docs
ナビゲーションに移動 検索に移動
編集の要約なし
(岩戸→磐戸)
 
(2人の利用者による、間の2版が非表示)
11行目: 11行目:
: 天宇受売命、天香山の天の蘿を手次に繫けて、天の真拆を鬘として、天香山の小竹葉を手草に結ひて、天の岩屋戶に空槽伏せて、踏轟かし、神懸して、胸乳を掻出で、裳緒を番登に忍垂れき、爾、高天の原<ruby><rb>動</rb><rp>(</rp><rt>ユス</rt><rp>)</rp></ruby>りて、八百万の神共に<ruby><rb>嗤</rb><rp>(</rp><rt>ワラ</rt><rp>)</rp></ruby>ひき、云々(有朋堂文庫本)。
: 天宇受売命、天香山の天の蘿を手次に繫けて、天の真拆を鬘として、天香山の小竹葉を手草に結ひて、天の岩屋戶に空槽伏せて、踏轟かし、神懸して、胸乳を掻出で、裳緒を番登に忍垂れき、爾、高天の原<ruby><rb>動</rb><rp>(</rp><rt>ユス</rt><rp>)</rp></ruby>りて、八百万の神共に<ruby><rb>嗤</rb><rp>(</rp><rt>ワラ</rt><rp>)</rp></ruby>ひき、云々(有朋堂文庫本)。


此の記事によると、神の懸り代となる者は、(一)蘿を襷にかけ、(二)真拆を鬘にし、(三)笹葉を手に持ち、(四)空槽の上に乗って、それを踏み轟かして、神憑り状態に入るのであるが、然も此の状態に入ると、(一)胸乳を掻き出し(二)裳緒を番登に押し垂れるなどの放神的動作に出ることさえあった。併し、此の時に、鈿女命に何れの神が懸り、何の託宣をしたかに就いては、記・紀ともに明記を欠いているので、何事も知ることが出来ぬのである。
此の記事によると、神の憑り代となる者は、(一)蘿を襷にかけ、(二)真拆を鬘にし、(三)笹葉を手に持ち、(四)空槽の上に乗って、それを踏み轟かして、神懸り状態に入るのであるが、然も此の状態に入ると、(一)胸乳を掻き出し(二)裳緒を番登に押し垂れるなどの放神的動作に出ることさえあった。併し、此の時に、鈿女命に何れの神が憑り、何の託宣をしたかに就いては、記・紀ともに明記を欠いているので、何事も知ることが出来ぬのである。


由来、巫女が神憑り状態に入る目的は、神の憑り代となって、託宣をすることに存していて、それ以外には殆んど此の作法を必要としていぬのである。それにも拘らず、此の鈿女命の場合に限って、それを欠いているのは如何なる次第であるか、これには又た相当の理由が存しているのである。
由来、巫女が神懸り状態に入る目的は、神の憑り代となって、託宣をすることに存していて、それ以外には殆んど此の作法を必要としていぬのである。それにも拘らず、此の鈿女命の場合に限って、それを欠いているのは如何なる次第であるか、これには又た相当の理由が存しているのである。


天照神の岩戸隠れに就いては、昔から学者の間に異説がある。本居翁の如く、神代巻の総てを一種の信仰と感激とを以て、その在るがままに解釈したものは、これを天照神が素尊の暴逆を怒って、磐戸に隠れたものとしているが、新井白石翁の如く、神代の記事は悉く歴史なりという立場にある者は、此の事件を天照神の神避りとなし、斎庭の儀式は葬祭であると断じている〔一〕。更に、高木敏雄氏のように、比較神話学から此の事を説き、素尊を暴風雨神となし、『暴風雨退散して、天日再び輝ける状を記すものなり』と論ずるあれば(二)、津田左右吉氏は、比較民俗学の観点から此の事象は蛮民俗の間に見る、日蝕の祭儀であると説く者もある〔三〕。
天照神の磐戸隠れに就いては、昔から学者の間に異説がある。本居翁の如く、神代巻の総てを一種の信仰と感激とを以て、その在るがままに解釈したものは、これを天照神が素尊の暴逆を怒って、磐戸に隠れたものとしているが、新井白石翁の如く、神代の記事は悉く歴史なりという立場にある者は、此の事件を天照神の神避りとなし、斎庭の儀式は葬祭であると断じている〔一〕。更に、高木敏雄氏のように、比較神話学から此の事を説き、素尊を暴風雨神となし、『暴風雨退散して、天日再び輝ける状を記すものなり』と論ずるあれば(二)、津田左右吉氏は、比較民俗学の観点から此の事象は蛮民俗の間に見る、日蝕の祭儀であると説く者もある〔三〕。


而して私は、是等の四説の中から、第二の新井白石の説を探る者であって、岩戸隠れは、一種の墓前祭(我国の祭祀の起原が、社前祭で無くして、墓前祭で在ったことは後節に述べる)であったと信ずるのである。然らば何故に墓前祭にかかる巫女の神憑りが必要であったかというに、これには又相当に重要なる理由が存していたのである。
而して私は、是等の四説の中から、第二の新井白石の説を採る者であって、磐戸隠れは、一種の墓前祭(我国の祭祀の起原が、社前祭で無くして、墓前祭で在ったことは後節に述べる)であったと信ずるのである。然らば何故に墓前祭にかかる巫女の神憑りが必要であったかというに、これには又相当に重要なる理由が存していたのである。


元来、我が古代では、人が死ぬと、その屍体を直ちに葬ることなく、八日八夜の間は、<ruby><rb>殯葬</rb><rp>(</rp><rt>モガリ</rt><rp>)</rp></ruby>(<ruby><rb>殯葬</rb><rp>(</rp><rt>モガリ</rt><rp>)</rp></ruby>の民俗学的意義は後章に述べる)と称して<ruby><rb>梓宮</rb><rp>(</rp><rt>アラキノミヤ</rt><rp>)</rp></ruby>に置く習俗があった〔四〕。而して此の殯葬の期間だけは、<ruby><rb>親族</rb><rp>(</rp><rt>ウカラ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>宗族</rb><rp>(</rp><rt>ヤカラ</rt><rp>)</rp></ruby>が集って、一方死霊を慰め和げるために、一方遺族の悲しみと憂いを払うために、盛んに歌舞宴遊するのを習わしとしたのである。「古事記」に、天若日子が横死せるを殯葬せし条に、
元来、我が古代では、人が死ぬと、その屍体を直ちに葬ることなく、八日八夜の間は、<ruby><rb>殯葬</rb><rp>(</rp><rt>モガリ</rt><rp>)</rp></ruby>(<ruby><rb>殯葬</rb><rp>(</rp><rt>モガリ</rt><rp>)</rp></ruby>の民俗学的意義は後章に述べる)と称して<ruby><rb>梓宮</rb><rp>(</rp><rt>アラキノミヤ</rt><rp>)</rp></ruby>に置く習俗があった〔四〕。而して此の殯葬の期間だけは、<ruby><rb>親族</rb><rp>(</rp><rt>ウカラ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>宗族</rb><rp>(</rp><rt>ヤカラ</rt><rp>)</rp></ruby>が集って、一方死霊を慰め和げるために、一方遺族の悲しみと憂いを払うために、盛んに歌舞宴遊するのを習わしとしたのである。「古事記」に、天若日子が横死せるを殯葬せし条に、
27行目: 27行目:
然も此の民俗は、琉球には近年まで残っていた。即ち、同国の津堅島では、二十四五年前までは、人が死ぬと、蓆で包んで、<ruby><rb>後世山</rb><rp>(</rp><rt>グシャウヤマ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。後世の語には骨を腐らすというほどの意がある)と称する藪の中に放ったが、その家族や親戚朋友たちは、屍体が腐爛して臭気が出るまでは、毎日のように後世山を訪れて、死人の顔を<ruby><rb>覘</rb><rp>(</rp><rt>ノゾ</rt><rp>)</rp></ruby>いて帰るのであった。死人がもし若い者である場合には、生前の遊び仲間の青年男女が、毎晩のように酒肴や楽器を携えてこれを訪ずれ、一人々々死人の顔を覘いた後で、思う存分に踊り狂って、その霊を慰めたものである〔五〕。
然も此の民俗は、琉球には近年まで残っていた。即ち、同国の津堅島では、二十四五年前までは、人が死ぬと、蓆で包んで、<ruby><rb>後世山</rb><rp>(</rp><rt>グシャウヤマ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。後世の語には骨を腐らすというほどの意がある)と称する藪の中に放ったが、その家族や親戚朋友たちは、屍体が腐爛して臭気が出るまでは、毎日のように後世山を訪れて、死人の顔を<ruby><rb>覘</rb><rp>(</rp><rt>ノゾ</rt><rp>)</rp></ruby>いて帰るのであった。死人がもし若い者である場合には、生前の遊び仲間の青年男女が、毎晩のように酒肴や楽器を携えてこれを訪ずれ、一人々々死人の顔を覘いた後で、思う存分に踊り狂って、その霊を慰めたものである〔五〕。


此の民俗を知って、再び天ノ磐戸の記事を読み返して見ると、そこに共通の信仰の含まれていることが知られるのである。即ち鈿女命が神憑りしたのは、託宣する為めでなくして、専ら天照神の尊霊を慰め和らげるのに外ならぬのであった。現在では、国語の「あそぶ」に、漢字の「遊」が割り箝当せられた所から、遊びと云えば、遊楽とか、道楽とかにのみ解釈されているが、我国の「あそび」の古義は、祭祀を指したものであって、祭祀の外に遊びはなかったのである。度会延佳が「遊は神事なり」と断言したのは、最もよく我国の古俗を道破したものである。而して此の遊びに必要として、胸乳を掻出し、番登を露出して、「八百万の神共に<ruby><rb>咲</rb><rp>(</rp><rt>ワラ</rt><rp>)</rp></ruby>ひき」とある葬宴になるのである。勿論、これ等の局部が<ruby><rb>呪力</rb><rp>(</rp><rt>マジカル・パワー</rt><rp>)</rp></ruby>として死霊の祟りを防ぐことの出来るものと信じての動作であることは言うまでもない。更に「古語拾遺」に此の条を記した末に『あはれ、あな面白し、あな楽し、あなさやけ、おけ』と称えて、神々が手を伸して歌舞したとある。この「面白し」は、昔から如何にも古代にふさわしからぬ措辞として、代々の学者も疑っているのであるが、私に言わせると、琉球津堅島の民俗の如く、屍体の顔を覗き見ては、まだ変相せぬのを、斯く、面白し、あな楽しと言うたのではないかと考えている。天磐戸前における鈿女命の神憑りの目的は、殯祭葬祭の為の遊楽であった。従って茲に憑り神なく、託宣なきは、当然であったのである。猶おこれに就いては、次節の鎮魂の条を参照せられたい。
此の民俗を知って、再び天ノ磐戸の記事を読み返して見ると、そこに共通の信仰の含まれていることが知られるのである。即ち鈿女命が神懸りしたのは、託宣する為めでなくして、専ら天照神の尊霊を慰め和らげるのに外ならぬのであった。現在では、国語の「あそぶ」に、漢字の「遊」が箝当せられた所から、遊びと云えば、遊楽とか、道楽とかにのみ解釈されているが、我国の「あそび」の古義は、祭祀を指したものであって、祭祀の外に遊びはなかったのである。度会延佳が「遊は神事なり」と断言したのは、最もよく我国の古俗を道破したものである。而して此の遊びに必要として、胸乳を掻出し、番登を露出して、「八百万の神共に<ruby><rb>咲</rb><rp>(</rp><rt>ワラ</rt><rp>)</rp></ruby>ひき」とある葬宴になるのである。勿論、これ等の局部が<ruby><rb>呪力</rb><rp>(</rp><rt>マジカル・パワー</rt><rp>)</rp></ruby>として死霊の祟りを防ぐことの出来るものと信じての動作であることは言うまでもない。更に「古語拾遺」に此の条を記した末に『あはれ、あな面白し、あな楽し、あなさやけ、おけ』と称えて、神々が手を伸して歌舞したとある。この「面白し」は、昔から如何にも古代にふさわしからぬ措辞として、代々の学者も疑っているのであるが、私に言わせると、琉球津堅島の民俗の如く、屍体の顔を覗き見ては、まだ変相せぬのを、斯く、面白し、あな楽しと言うたのではないかと考えている。天磐戸前における鈿女命の神懸りの目的は、殯祭葬祭の為の遊楽であった。従って茲に憑り神なく、託宣なきは、当然であったのである。猶おこれに就いては、次節の鎮魂の条を参照せられたい。


; 〔註一〕 : 「古史通」及び「古史或間」に、その意味のことが、明白に記されている。
; 〔註一〕 : 「古史通」及び「古史或問」に、その意味のことが、明白に記されている。
; 〔註二〕 : 「比較神話学」一三〇ページに、その事が力説してある。
; 〔註二〕 : 「比較神話学」一三〇ページに、その事が力説してある。
; 〔註三〕 : 「神代史の研究」及び「古事記日本書紀の新研究」に見えている。
; 〔註三〕 : 「神代史の研究」及び「古事記日本書紀の新研究」に見えている。

2008年11月17日 (月) 02:57時点における最新版

日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第五章 巫女の作法と呪術の種類

第二節 顕神明之憑談としての呪術[編集]

巫女の初見は菊理媛神であるが、此の神に就いては、日本書紀(古事記には載せてない)の記事が余りに簡単であるために、如何なる呪術を用いたものか全く知ることが出来ぬけれども、これに較べると天照神の天磐戸隠れの斎庭における天鈿女命の顕神明之憑談カミガカリなるものは、やや詳しく記載されているので、左に「古事記」から必要の部分だけを抄出し、これに私見に添えるとする。

天宇受売命、天香山の天の蘿を手次に繫けて、天の真拆を鬘として、天香山の小竹葉を手草に結ひて、天の岩屋戶に空槽伏せて、踏轟かし、神懸して、胸乳を掻出で、裳緒を番登に忍垂れき、爾、高天の原ユスりて、八百万の神共にワラひき、云々(有朋堂文庫本)。

此の記事によると、神の憑り代となる者は、(一)蘿を襷にかけ、(二)真拆を鬘にし、(三)笹葉を手に持ち、(四)空槽の上に乗って、それを踏み轟かして、神懸り状態に入るのであるが、然も此の状態に入ると、(一)胸乳を掻き出し(二)裳緒を番登に押し垂れるなどの放神的動作に出ることさえあった。併し、此の時に、鈿女命に何れの神が憑り、何の託宣をしたかに就いては、記・紀ともに明記を欠いているので、何事も知ることが出来ぬのである。

由来、巫女が神懸り状態に入る目的は、神の憑り代となって、託宣をすることに存していて、それ以外には殆んど此の作法を必要としていぬのである。それにも拘らず、此の鈿女命の場合に限って、それを欠いているのは如何なる次第であるか、これには又た相当の理由が存しているのである。

天照神の磐戸隠れに就いては、昔から学者の間に異説がある。本居翁の如く、神代巻の総てを一種の信仰と感激とを以て、その在るがままに解釈したものは、これを天照神が素尊の暴逆を怒って、磐戸に隠れたものとしているが、新井白石翁の如く、神代の記事は悉く歴史なりという立場にある者は、此の事件を天照神の神避りとなし、斎庭の儀式は葬祭であると断じている〔一〕。更に、高木敏雄氏のように、比較神話学から此の事を説き、素尊を暴風雨神となし、『暴風雨退散して、天日再び輝ける状を記すものなり』と論ずるあれば(二)、津田左右吉氏は、比較民俗学の観点から此の事象は蛮民俗の間に見る、日蝕の祭儀であると説く者もある〔三〕。

而して私は、是等の四説の中から、第二の新井白石の説を採る者であって、磐戸隠れは、一種の墓前祭(我国の祭祀の起原が、社前祭で無くして、墓前祭で在ったことは後節に述べる)であったと信ずるのである。然らば何故に墓前祭にかかる巫女の神憑りが必要であったかというに、これには又相当に重要なる理由が存していたのである。

元来、我が古代では、人が死ぬと、その屍体を直ちに葬ることなく、八日八夜の間は、殯葬モガリ殯葬モガリの民俗学的意義は後章に述べる)と称して梓宮アラキノミヤに置く習俗があった〔四〕。而して此の殯葬の期間だけは、親族ウカラ宗族ヤカラが集って、一方死霊を慰め和げるために、一方遺族の悲しみと憂いを払うために、盛んに歌舞宴遊するのを習わしとしたのである。「古事記」に、天若日子が横死せるを殯葬せし条に、

天なる天若日子が父、天津国主命、及其の妻子ども聞きて、降り来て、哭悲みて、乃ち其処に喪屋を作りて(中略)、日八日夜八夜を遊びたりき。

とあるのが、一証である。而して茲に注意すべきことは、此の殯葬中は、屍体を全く活ける者同様に取扱い、そして生ける者に接するよう、その死顔を見ては、遊びを続けた点である。前に挙げた諾尊が冊尊を追うて黄泉国に往かれたとあるのは、民俗学的に言えば、冊尊を殯葬した霊柩を開いて窺い見られた事なのである。天照神が磐戸に隠れたとあるのは、考古学的に言えば、石棺に入られたことである。

然も此の民俗は、琉球には近年まで残っていた。即ち、同国の津堅島では、二十四五年前までは、人が死ぬと、蓆で包んで、後世山グシャウヤマ(中山曰。後世の語には骨を腐らすというほどの意がある)と称する藪の中に放ったが、その家族や親戚朋友たちは、屍体が腐爛して臭気が出るまでは、毎日のように後世山を訪れて、死人の顔をノゾいて帰るのであった。死人がもし若い者である場合には、生前の遊び仲間の青年男女が、毎晩のように酒肴や楽器を携えてこれを訪ずれ、一人々々死人の顔を覘いた後で、思う存分に踊り狂って、その霊を慰めたものである〔五〕。

此の民俗を知って、再び天ノ磐戸の記事を読み返して見ると、そこに共通の信仰の含まれていることが知られるのである。即ち鈿女命が神懸りしたのは、託宣する為めでなくして、専ら天照神の尊霊を慰め和らげるのに外ならぬのであった。現在では、国語の「あそぶ」に、漢字の「遊」が箝当せられた所から、遊びと云えば、遊楽とか、道楽とかにのみ解釈されているが、我国の「あそび」の古義は、祭祀を指したものであって、祭祀の外に遊びはなかったのである。度会延佳が「遊は神事なり」と断言したのは、最もよく我国の古俗を道破したものである。而して此の遊びに必要として、胸乳を掻出し、番登を露出して、「八百万の神共にワラひき」とある葬宴になるのである。勿論、これ等の局部が呪力マジカル・パワーとして死霊の祟りを防ぐことの出来るものと信じての動作であることは言うまでもない。更に「古語拾遺」に此の条を記した末に『あはれ、あな面白し、あな楽し、あなさやけ、おけ』と称えて、神々が手を伸して歌舞したとある。この「面白し」は、昔から如何にも古代にふさわしからぬ措辞として、代々の学者も疑っているのであるが、私に言わせると、琉球津堅島の民俗の如く、屍体の顔を覗き見ては、まだ変相せぬのを、斯く、面白し、あな楽しと言うたのではないかと考えている。天磐戸前における鈿女命の神懸りの目的は、殯祭葬祭の為の遊楽であった。従って茲に憑り神なく、託宣なきは、当然であったのである。猶おこれに就いては、次節の鎮魂の条を参照せられたい。

〔註一〕
「古史通」及び「古史或問」に、その意味のことが、明白に記されている。
〔註二〕
「比較神話学」一三〇ページに、その事が力説してある。
〔註三〕
「神代史の研究」及び「古事記日本書紀の新研究」に見えている。
〔註四〕
殯葬は身分の高下により、その期間に長短の差のあったことは言うまでもないが、長いのは五六年も要したものさえある。これは大規模なる墳墓を築造するためである。
〔註五〕
雑誌「民族」第二巻第五号の「南島古代の葬儀」参照。