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斯うして直接間接に支那から輸入した文化のうちで、巫女史に交渉あるものだけを抽出して記さんに、それは神道の骨髄にまで浸潤した道教(ここには陰陽道及び五行讖緯の説まで押しくるめた意である)の思想である。由来、古事記や日本紀を読んで、誰でも気のつく点は、これこそ古神道の信仰である、我が固有の思想であると言われているもののうちに、驚くべきほど沢山に、道教の信仰と思想とが含まれていることである。天地未剖の記事が、支那の開闢思想の輸入であるとか、渾沌如鶏子の文字が「三五暦記」そのままであるとかいう、そんな軽微な問題ではなくして、その殆んど多くが、道教の影響であることを想わせるものがある。諾冊二尊が、国土を生むとき御柱を左旋右回したとあるのは、道教の左尊右卑の信仰であり、諾尊が桃を投じて黄泉軍を退けたのも、又た道教の思想を受けているのである。更に白鳥庫吉氏の研究によれば、産土神を一に高木ノ神と云うたのは、道教の扶桑木の思想であり、諾尊が日ノ少宮に入られたとあるのも、又それであると発表されている〔二〕。
斯うして直接間接に支那から輸入した文化のうちで、巫女史に交渉あるものだけを抽出して記さんに、それは神道の骨髄にまで浸潤した道教(ここには陰陽道及び五行讖緯の説まで押しくるめた意である)の思想である。由来、古事記や日本紀を読んで、誰でも気のつく点は、これこそ古神道の信仰である、我が固有の思想であると言われているもののうちに、驚くべきほど沢山に、道教の信仰と思想とが含まれていることである。天地未剖の記事が、支那の開闢思想の輸入であるとか、渾沌如鶏子の文字が「三五暦記」そのままであるとかいう、そんな軽微な問題ではなくして、その殆んど多くが、道教の影響であることを想わせるものがある。諾冊二尊が、国土を生むとき御柱を左旋右回したとあるのは、道教の左尊右卑の信仰であり、諾尊が桃を投じて黄泉軍を退けたのも、又た道教の思想を受けているのである。更に白鳥庫吉氏の研究によれば、産土神を一に高木ノ神と云うたのは、道教の扶桑木の思想であり、諾尊が日ノ少宮に入られたとあるのも、又それであると発表されている〔二〕。


こう詮索し始めると、諾尊の左右の目から貴神が生れたのは、支那の盤古伝説を学んだもので、諾冊二尊が木火土金水の五神を生んだのも、又た道教の思想であると云えるのであって、此の観点から言うと、我国の原始神道は、シャーマン教よりは、寧ろ道教に共通したところが多いとも考えられるのである。喜多村信節翁は、日本紀を論じて、同書にかく道教の思想が濃厚に加味されているのは、これが編纂総裁であった舎人親王が、道教の信者であった為めであると述べているが〔三〕、これは喜多村翁としては不徹底なものの言い方であって、当時、我国の上下に瀰漫していた道教の思想は、即ち時代思潮の中心となっていたのであるから、舎人親王を措いて他の貴種を以てこれに代えても、此の範疇から脱することは不可能であったに相違ない。それは恰も明治期の文化が余りに欧米の模倣であるのを不可なりとするのと同じであって、当時としては斯うするより外に方法がなかったのである。殊に記・紀が編纂される折に、実際に筆を執って記録を書いたものは、概して如上帰化族の子孫と思われるので、思想も借辞も弥が上に支那化され、道教化されたものと見て大過ないと信ずるのである。
こう詮索し始めると、諾尊の左右の目から貴神が生れたのは、支那の盤古伝説を学んだもので、諾冊二尊が木火土金水の五神を生んだのも、又た道教の思想であると云えるのであって、此の観点から言うと、我国の原始神道は、シャーマン教よりは、寧ろ道教に共通したところが多いとも考えられるのである。喜多村信節翁は、日本紀を論じて、同書にかく道教の思想が濃厚に加味されているのは、これが編纂総裁であった舎人親王が、道教の信者であった為めであると述べているが〔三〕、これは喜多村翁としては不徹底なものの言い方であって、当時、我国の上下に瀰漫していた道教の思想は、即ち時代思潮の中心となっていたのであるから、舎人親王を措いて他の貴種を以てこれに代えても、此の範疇から脱することは不可能であったに相違ない。それは恰も明治期の文化が余りに欧米の模倣であるのを不可なりとするのと同じであって、当時としては斯うするより外に方法がなかったのである。殊に記・紀が編纂される折に、実際に筆を執って記録を書いたものは、概して如上帰化族の子孫と思われるので、思想も措辞も弥が上に支那化され、道教化されたものと見て大過ないと信ずるのである。


'''一、道教思想に養われた呪術'''
'''一、道教思想に養われた呪術'''

2009年3月4日 (水) 02:38時点における版

日本巫女史

第二篇 習合呪法時代

第一章 神道に習合せる道仏二教

第一節 巫女の呪術に現われたる道教の影響

元来、日本と韓国は同祖であり、同域であったと考えている〔一〕。従って、素尊が韓地に跡を垂れたとか、神武帝の皇兄稲氷尊が新羅に往かれたとか云う伝説のあるのも、決して不思議ではないのである。更に此の反対に、韓国の民族が我国に渡来帰化したのも、遠く神代からである。新羅の王子と称せる天ノ日矛が来朝したのは、「播磨風土記」によれば、大国主命の時代である。任那国から、蘇那曷叱知を遣して朝貢させたのは、崇神朝である。こうして彼我の交通は、先史時代から隆んに行われていたのであるが、茲に注意しなければならぬことは、日韓の交通によって我国は、支那において発達した文物制度を輸入した点である。換言すれば、我国は韓国を仲介者として、断えず支那の文化を吸収していたのである。秦ノ始皇帝の子孫と称する弓月王が渡来したのも、此の結果であって、古く我国へ漢学を舶載し、後に仏教を伝来したのも、共に韓国であったのは、その事を証示しているのである。

勿論、「魏志」の倭人伝に従えば、卑弥呼女王国は韓国を経ずして直接支那と交通していたことを記し、更に輓近各地より発掘せられた剣鏡その他の遺物は、遠く日支交通の存したことを明白に証拠立てているのである。当時、我が国情は是等文化の先進国である秦韓両民族の投化を歓迎すべき理由のあったところへ、戦乱等のために母国に留まることを欲しなかった彼等秦韓両民族の事情と相俟って、神代以来殆んど年々歳々の如く、或は百二十七県の大団体を以て、或は五人七人の小規模を以て、海を済り浪を凌いで我国に移住した。弘仁年中に万多親王が勅命を奉じて、畿内だけに居住せる者の出自を調査した「新撰姓氏録」によると、総数一千一百八十二氏とあるが、此の中で蕃別と称する秦韓の帰化族は約三百五十氏の多きに達し、総数の三分ノ一強を占めている有様である。而して此の計数は、僅に五畿内だけのことであるから、更にこれを全国的に渉って計算したら、北は奥州より西は九州まで、その実数は蓋し驚くほどのものであったに相違ない。奈良朝頃の古文書を見ても、是等帰化族の夥しきまでに存していたことは、□れながら意外とする程である。

斯うして直接間接に支那から輸入した文化のうちで、巫女史に交渉あるものだけを抽出して記さんに、それは神道の骨髄にまで浸潤した道教(ここには陰陽道及び五行讖緯の説まで押しくるめた意である)の思想である。由来、古事記や日本紀を読んで、誰でも気のつく点は、これこそ古神道の信仰である、我が固有の思想であると言われているもののうちに、驚くべきほど沢山に、道教の信仰と思想とが含まれていることである。天地未剖の記事が、支那の開闢思想の輸入であるとか、渾沌如鶏子の文字が「三五暦記」そのままであるとかいう、そんな軽微な問題ではなくして、その殆んど多くが、道教の影響であることを想わせるものがある。諾冊二尊が、国土を生むとき御柱を左旋右回したとあるのは、道教の左尊右卑の信仰であり、諾尊が桃を投じて黄泉軍を退けたのも、又た道教の思想を受けているのである。更に白鳥庫吉氏の研究によれば、産土神を一に高木ノ神と云うたのは、道教の扶桑木の思想であり、諾尊が日ノ少宮に入られたとあるのも、又それであると発表されている〔二〕。

こう詮索し始めると、諾尊の左右の目から貴神が生れたのは、支那の盤古伝説を学んだもので、諾冊二尊が木火土金水の五神を生んだのも、又た道教の思想であると云えるのであって、此の観点から言うと、我国の原始神道は、シャーマン教よりは、寧ろ道教に共通したところが多いとも考えられるのである。喜多村信節翁は、日本紀を論じて、同書にかく道教の思想が濃厚に加味されているのは、これが編纂総裁であった舎人親王が、道教の信者であった為めであると述べているが〔三〕、これは喜多村翁としては不徹底なものの言い方であって、当時、我国の上下に瀰漫していた道教の思想は、即ち時代思潮の中心となっていたのであるから、舎人親王を措いて他の貴種を以てこれに代えても、此の範疇から脱することは不可能であったに相違ない。それは恰も明治期の文化が余りに欧米の模倣であるのを不可なりとするのと同じであって、当時としては斯うするより外に方法がなかったのである。殊に記・紀が編纂される折に、実際に筆を執って記録を書いたものは、概して如上帰化族の子孫と思われるので、思想も措辞も弥が上に支那化され、道教化されたものと見て大過ないと信ずるのである。

一、道教思想に養われた呪術

道教の呪術的思想が古代において如実に具現された例証は〔四〕、前にも引用したが、「仁徳記」の左の記事である。

太子{○宇遅能/和紀郎子}曰、我知不可奪兄王之志、豈久生之煩天下乎、乃自死焉。時大鷦鷯尊{○仁/徳帝}聞太子薨、以驚之従難波馳之、到菟道宮、爰太子薨之経三日、時大鷦鷯尊標擗叫哭、不知所如、乃解髪跨屍、以三呼(中略)。於是大鷦鷯尊素服、為之発哀、哭之甚慟云々(以上。国史大系本)。

此の記事に現われた(一)髪を解いて屍に跨り三たび呼んだことと、(二)素服して(三)哀みを発して哭くとあるのは、共に道教の思想であって、我国固有の呪術では無いのである。

即ち(一)に就いては、「日本書紀通証」に、「楚辞」の註を引用して、

古者人死、則使人以其服、升屋履危、北面而号、曰皐某復、遂以其衣三招之、乃下以履尸、此礼所謂復。

なりと記した如く、支那の古俗に拠りしに外ならぬのである。而して此の呪術は、大鷦鷯尊が博士王仁より漢籍を学んで知っていられたので、一時的に此の所作に出られたことと拝察するのであるが、それにしても道教の思想がここまで浸潤していたことの徴証とはなるのである。且つ此のタマヨバイの思想は、前に述べた鎮魂の呪術(振衣の所作)と交渉する所が深く、永く後世まで行われて来たのである。後一条帝の尚侍嬉子が薨去せる折のことを「野府記」万寿二年八月七日の条に、

昨夜風雨間、陰陽師恒盛、右衛尉雅孝、昇東対上(中山曰。屋の字を脱せるか){尚侍/住所}魂呼。

と載せ、「徒然草」にも堂上家に此の事の行われた例を挙げ、「越後風俗志」第八輯に、家に新死者あれば、修験を頼み亡魂招ナキタマヨバイをする。死人在生中に着た衣服を携え、東南の方から屋上に昇り、北に向い大音で三度呼び招ぎ、その衣服を巻いて願主の前へ投げ落し、西北の方から地上へ降る。死者が男のときは在世の名を、女なれば家を呼ぶ。魚沼郡には文化頃まで行われていた。而して今に民間において、死者または気絶者あるとき、屋上に昇り、或は井戸に向って、その者の名を呼ぶのは、此の遺風と見るべきである。

更に(二)の、素服に就いては、「葬送令」に『凡為天皇、為本服二等以上親喪、服錫紵』と記し、錫紵に就いては「令義解」に『錫紵者細布サヨミ、即用浅黒濃』と載せ、「箋注倭名類聚鈔」に『六典戸部職貢賦注、亦紵布麻布並戴』とあるのから推すと、麻の細布サヨミを喪服とすることは支那の思想で、然もそれが道教に由来していることが知られるのである。

而して(三)の、哀みを発して哭くとは、天稚日子の葬儀の際に「日本紀」に『以鷦鷯為哭者』と記し、「古事記」に『雉為哭女』とある故事に由るものと、因襲的には解釈されているが、更に一歩を進めて考うるときは、此の習俗も、又支那からの輸入と思われる点がある。「允恭紀」四十二年の条に、新羅人が帝の崩御を知り『是泊対馬大哭』とあるのはその手掛りで、今に支那にも朝鮮にも、此の習俗が存している点からも〔五〕、そう信じられるのである。

二、巫蠱の輸入と呪術の深刻化

かく神道や民俗にまで浸潤した道教の思想は、当然の帰結として、巫女の行うところの呪術に習合せられ、これが事象は明確に指摘し得るほどに現われて来た。「用明紀」二年夏四月の条に、

中臣勝海連、於家集衆、随助大連{○守/屋}、遂作太子彦人皇子像、与竹田皇子像マジナフ之、俄而知事難済、帰附彦人皇子水派宮。

とあるのは、その一例である〔六〕。勿論、我が固有の呪術にも人を詛うことのあったのは、既述の如くであるが、その方法は凶言を用いるか、又は物実モノザネである土を採るかの簡単なるものであって、人像ヒトガタを作って呪詛することは曾て存していなかったのである。それが此の時代に斯くの如き呪術の行われるようになったのは、全く道教の影響としか考えられぬのである。

由来、支那の道教の思想によって養われた巫蠱の呪術は、その国民性の反映と見らるる程に惨忍を極めたもので、然もその方法も、又多種多様で、且つ深刻なるものばかりであった。我が養老年中に編纂された「賊盗律」に、

有所僧悪、而造厭魅、及造符書呪詛、欲以殺人者、名以謀殺論、減二等。

とある正条の脚註の一節に

造厭魅、事多方、罕詳能悉、或託鬼神、或剋作人身、繋手縛足、如此厭勝事非一緒、魅者或仮託鬼神、或妄行左道之類、或呪或咀、欲以殺人者云々。

と載せてある呪法は〔七〕、その悉くが支那伝来のものであって、道教の思想によって発達したものとも言えるのである。而して斯かる呪術の行われたことは「続日本紀」神護景雲三年五月の条に、犬養姉女等が巫蠱の罪に座して配流された時の詔の一節に、

氷上塩焼児志計志麻呂天日嗣牟止、掛畏天皇{○称/徳帝}大御髪盗給波里弖、岐多奈岐佐保川髑髏、大宮持参来厭魅為流己止三度世利

とあるのからも察しられるのである〔八〕。

かくて此の傾向は、時代の降ると共に益々猛烈となり、呪術の弊害は海内に繁延したので、代々の官憲も極めて、或は巫覡の徒を流刑に処し、或は呪術を禁断するの法令を頻発する(此の二つは後に述べる)など、これが剿絶に努めたのであるが、事実はこれに反して愈々猖獗を来たし、殊に平安朝になると、過房による神経衰弱時代の世相と相俟って、全く底止するところを知らず、「袖中抄」巻八の宇治の橋姫の条に、

我をば思ひいてて、元の女を恋ふるにこそと妬く思ひて、男にとりかかりたり。

とある如く、婦人の呪詛伝説を生み、更に此の俗信は発展して謡曲「鉄輪」に記されたように、女性の身で、頭上に灯を点じ、胸に鏡を懸け、一本歯の足駄を穿いて、藁人形に呪いの釘を打つ「丑の時参り」なる者を見るようになった。阿波国三好郡山城谷村にては、大昔より、人を怨みこれを呪い殺さんとするときは、丑の時参りに扮粧して、竹柏ナギの樹の下に至り、祈りて竹柏を折る。枝の折れると共に怨みたる人は死するも、怨む人その半の禍を受けると言い伝えている。それ故に竹柏の木は人の近寄れぬよう設備したのが多いとのことである〔九〕。

こうして民俗学的の類例も相当に多いことと思うが、此の呪術は古く奈良朝にその端を発しているのである。而して一方においては修験道によって唱えられた天狗信仰と呪術が習合し、遂に「台記」久寿二年八月の条に『為咀朕{○近衛帝}打釘於愛宕護山天狗像目』とあるように進んで来た。然も是等の呪術は巫女の堕落と共に頻々として行われ、以て明治期に及んだのである。

三、巫女の呪具と道教の影響

巫女の持てる固有の呪具は、天鈿女命によって伝えられた手草と矛、息長多良志媛によって伝えられた水晶の珠より外は寡見に入らぬが、道教に導かれ巫蠱の術を移し入れてからは、巫女の呪具も遽に多種なるものとなった。就中その重なるものは、A梓弓を用いるようになったこと、B人骨を用いること、C識神を使うこと、D巫女が湯立を行うことなどである。

A、巫女の梓弓は外来の呪法

梓弓を用いる市子(風俗画報第一三号裏表紙所載)

巫女が、古くは梓弓を、今は竹弓を用い、その弦を叩きながら、神降ろしの呪文を唱えて、自己催眠(神かがりの状態)に入ることは、文献にも存し、実際にも見るところであって、然も巫女の別名をアヅサミコとも、又は単にアヅサとも言っているほどであるから、巫女と梓弓との関係は、切っても切れぬほどの親密さを有しているのである。併しながら、仔細に巫女が梓弓を用いしことを考究するとき、それは我が固有の呪具ではなくして(神道者の行う鳴弦式も又た道教の影響である)、支那からの輸入であることが知れるのである。従来の俗説によると、巫女が弓を用いる起原は、天ノ磐戸の斎庭において、鈿女命が弓六張を並べて、その弦を弾き、琴の代用としたのにあるとか、又は神功皇后が征韓に際し神を降ろすとき同じように弓を並べて弾いたのにあるとか言っているが〔一〇〕、是等は記・紀その他の信頼すべき記録には全く見えぬことで、所詮は何事にも古代の箔をつけて、無理勿体に俗人を嚇そうとする者のさかしらにしか過ぎぬのである。

勿論、我国にも梓弓の在った事は古代に属し、「応神記」に大山守命が宇治川で戦死された折に、宇遅稚郎子の詠める御歌に『梓弓真弓、伐射らむも、心は思へど』云々とあるのを始めとし〔一一〕、代々の記録にも見えているが、巫女が弓——殊に梓弓の弦を叩いて呪術を行ったと思われるものは発見されぬ。然るに「万葉集」を読むと、此の種の呪術の存したことを考えさせる証歌が、少からず散見している。左にこれが一二を抽出する。

梓弓アヅサユミ引者随意ヒカバマニマニ依目友ヨラメドモ後心乎ノチノココロラ知勝奴鴨シリガテヌカモ(巻二、訓み方は橘千蔭の万葉集略解に拠る)
梓弓アヅサユミ末者師不知スヱハシシラズ雖然シカレドモ真坂者君爾マサカハキミニ縁西物乎ヨリニシモノヲ(巻一二)
梓弓アヅサユミ引見縦見ヒキミユルベミ思見而オモヒミテ既心歯スデニココロハ因爾思物乎ヨリニシモノヲ(同上)
安豆佐由美アヅサユミ欲良能夜麻辺能ヨラノヤマベノ之牙可久爾シゲカクニ伊毛呂乎多氐天イモロヲタテテ左禰度波良布母サネドハラフモ(巻一四)
安部佐由美アヅサユミ須恵波余□禰牟スヱハヨリネム麻左可許曾マサカコソ比等目乎於保美ヒトメヲオホミ奈乎波思爾於家礼ナヲハシニオケレ(同上)

是等の短歌に現われた梓弓は、悉く「依る」という語を言わんがための序詞であることは明白であって、然も此の依るはる又は寄ると見るべきもので、即ち梓弓の弦に引かれて寄り来る意を寓しているのであるから、当時、霊魂を身に引きからせて、口を寄せし巫女が、好んで梓弓を用いた事が推知されるのである。「政事要略」巻七〇に、

古老云、太皇太后{○村上/皇后}於東五条殿{○原/註略}有御産事{○同/上}産難之間、占云、御産之下、有厭者歟、捜求之処、無有其物、見御板敷之下、白頭嫗取梓弓之折、齧立歯居、遂出件嫗、即時御産已了云々(史籍集覧本)。

とあるのは、巫女が梓弓を用いた徴証である。

而して巫女が弓を用いた例の支那に存することは、夙に山岡浚明翁も気付かれていて「類聚名物考」において、

巫女の梓弓を引き鳴らして、死人の口を寄すること唐土にも見え、其さまやや同じ。論衡王充論死篇、「世間死者、今生人ヨミシテ而用其言、及巫元絃下、死人魂因巫口談」云々。

と載せている〔一二〕。これで我国が支那のを移し入れた点は明瞭となったが、猶お残された問題は、何故に巫女は梓ノ弓を好んで用い、他の檀弓マユミなり、槻弓ツキユミなりを用いなかったかという一事である。此の問題は相当に複雑した内容を有しているのであるが、茲には出来るだけ簡単に記述する。

支那で、梓宮、梓人など、梓の字を用いたものは、概して葬礼の凶事に関係している。これは梓ノ木で棺を造ることに由来しているのである〔一三〕。然るに、我国で梓と呼んでいる木は、支那の梓とは全く別種なもので、棺にしたり、弓にしたりするような、大木では無いのである〔一四〕。それにも拘らず、支那の文物を輸入するに急であった我国では、支那における梓ノ木に関する信仰だけはそのまま受け容れてしまい、梓弓というも実際は竹を合せて造ったものを斯く称していたのである〔一五〕。然るに我国の古俗として、文通する折に文字を梓の葉に書いて造る習俗があったので〔一六〕、いつか書状のことを玉梓の約言——即ち「たまづさ」と云うようになり、此の思想が梓弓に附会して、文通から霊の交通へと導かれて来たのであると考える。

巫女が弓を用いた典拠に就いては、神道五部書の一なる「御鎮座本紀」に『天鈿女命(中略)。天香弓与、並叩絃{今世謂和/琴其縁也}云々』を徴証とする者もあるが、此の書が後世に作られた偽書であることは明確なので〔一七〕、元より典拠とするに足らぬのである。併しながら此の俗説も、かなり古い頃から行われていたものと見え、「源氏物語」箒木巻にも此の事を載せ、「古今六帖」には『六つの緒の寄りめことにそ香はにほふ、ひく少女子が袖やぶれつる』と挙げ、「康富記」には『大炊御門殿被仰云、和琴は天照大神岩戸を出給の時の神楽の器也、弓六張を並て弾之、仍之有六弦云々』と記し、更に鴨長明の「無名抄」巻上に『和琴の起りは、弓六張をひきならして、これを神楽に用ゐける』と云うに至って、此の俗説が大成され〔一八〕、かくて巫女の弓にまで利用されるようになったのである。猶お巫女用の弓の長短、拵え方、弓を用いる流儀と用いぬ者などに就いては、第三篇に述べる考えである。

B、人骨を用いるは巫蠱の思想

巫女が動物の骨を用いたことは、我国固有の呪法として、鹿の肩骨を灼き、巫鳥の骨を焼いて神意を問うた既載の所作からも察せられるし、更に彼等はイラタカの数珠(この事の詳細は後の修験道と巫道の習合の条に述べる)と称して、羚羊の上顎骨、狐の頭蓋骨、熊の牙、鷹の爪などを紐に通して所持し、これが呪力の咒力の源泉であるという流派さえ生ずるようになったが、人骨を呪具とした事は、我が固有のものではなくして、支那の巫蠱に教えられたものと考えざるを得ぬのである。而して支那の巫蠱なるものが、以下に人道に反し惨忍を極めているかは、天野信景翁の「塩尻」巻五三に諸書を要約して載せてあるので、左に引用する。

異邦、巫蠱左道の邪術、古へより多し、巫蠱{我国に謂/ふ犬神}蛇蠱{とうび/ゃう}髑髏神、或は鳴童、預抜神{我国に謂ふ/ゲホウ頭}の類数ふるに遑なし。「続夷堅志」の少童を盗みかくし、日々に食を減じ法酢を灌き、其死を待て枯骨を収め、其魂魄をキクす。他の事を聞かんと欲する時は、耳辺に於て其事を報ずといへり。「癸未続識」にも又此事を筆し、蠱家人を惨酷せしさまをいへり。「輟耕ママ」にも蠱家童男女を捉へ、符命法水咒語を語らひ迷惑せしめ、活きながら鼻口唇舌尖耳朶眼を割央して、其活気を取り、腹胸を破り心肝を割て各小塊とし、曝乾搗羅サラシホシツキフルイて末とし、収裏して五色の綵帛を用ひ、生魂頭髪と同じく相結び、紙を以て人形様を作り、符水をして兎遣し、人家に往て怪を為し、広く他の財物を持し事を記せり。鳴呼是一箇の邪術財宝を貪り得るが為めに、かかる悪業をなし、其終りは国家の為めに極刑に真るる類間々聞え侍る。我国白狐犬神等の邪術も其意殆同じ、畏れ避て可也(帝国書院百巻本。但し句読点は私が加えた)。

斯うした呪術が支那から輸入され、更にこれに仏教の呪法が加味され、然もそれを巫女が行うようになって来ては社会を荼毒するところ実に甚大であって、官憲も弾圧に苦心せざるを得なかった筈である。「増鏡」に太政大臣藤原公相が頭が大きくして異っていたので、これを葬りしとき、外法ゲホウを行う者がその塚を発き、首を斫って持ち去ったとあるのは、即ち髑髏神を呪力の根元としたものであって、然も此の邪法は後世になるほど巫女の間に猖んに行われたのである。既載した称徳帝を咒詛し奉らんと、大御髪を穢き髑髏に入れて、宮中に持参したとあるのも、又これが派生的呪術と考えられるのである。

既載の「賊盗律」の脚註にある『或剋作人身』とは、如何なる呪術を指して言ったのか判然せぬが、これに就いて想い起されるのは、我国において人体を仮作する迷信の行われたことである。勿論、これが人身を剋作するものと同じだとは考えぬけれども、併しながら何となくその間に、一脈相通ずるものが在るように思われるので、要点だけを抄録する。而してこれに就いては、桜井秀氏が「郷土研究」第二巻第三号に載せたものが極めて要領を得ているので、それに拠るとした。

平安朝に於ける人体仮作の信仰は、頗る面白いものである。果してどの位にまで信ぜられていたか解らぬが、先ず二三の実例を挙げて見よう。西行法師の著と称す「撰集抄」の巻四に「高野の奥に住みて——人の骨を取集めて、人に作り為す様可信人のおろおろ語り侍りしかば造りて——侍れば人の姿には似侍りしかども、色も悪くすべて心も無く侍りき、声はあれども管絃の声の如し」とある。右の可信人とは徳大寺殿実定?である。——其方法と云うは「人も見ぬ所にて、死人の骨を取集めて——つづけ置きてひさうと云ふ薬を骨に塗り、いちごはこべの葉をもみ合せて後、藤の若葉の蔓にて骨をからげて、水にて度々洗ひ——髪の生ずべき所には、西海枝サイカシの葉とむくげの葉とを灰に焼きて附け侍りて、土の上に畳をしきて二七日おきて後に生きて、沈と香とを炷きて反魂の秘術を行ひ侍りき」とある。如何にも神秘の術らしいけれども、而も右の企ては失敗した。然るに伏見黄門師仲も人を作った経験があるので、西行に語って言うには、「四条大納言の流れを受けて人を作り侍りき、今の卿相にて侍れど、それと明しぬれば、作りたる物も作られたる物もママけうせければ、口より外には出さぬなり」云々。右の四条亜相というのは公任であろうか、ともあれ怖しい話である(中略)。それから師仲卿は、西行の失敗を評して、「香をば炷かぬなり——沈と乳とをたくべきにや、又——秘術を行ふ人、七日物を食ふまじき也」と言ったことがあり、終に土御門右府{○師房/ならむ}も此術を行ったと記し、「土御門の右大臣作り給へるに、夢に翁来て我身は一切の死人を領せる者に侍り、主にものたまひ合せで——骨など取りたまふかとて、恨める気色見えければ——我子孫造りて霊に取られなん、いとど由なしとて、やがて焼せ給ひにけり」云々ともある。此撰集抄は偽作とも言うが、此等の記事は頗る趣味がある。すべて妖術で作った人物は、或特定の条件を守らぬと、消滅するとの信仰は此外にも多い。紀長谷雄が鬼から与えられた美婦も解けてしまった{○長谷雄/草子絵巻}室町時代に出来た「厳島本地」には死人復活の術を記してある云々。

此の記事は、謂ゆる朝神の間に行われた人体仮作であって、道教の思想から考えついた有りのすさびのようにも見え、且つ巫蠱の術とは全く交渉が無いとも思われるが、兎に角に斯うした事が我国に行れたのは、人体剋作の影響としか信じられぬのである。

C、複雑せる識神の正体

識神(式神とも書く)に就いては、私の学問では余りに荷が勝ち過ぎているので、一知半解のことを言うよりは、寧ろこれに触れぬようにするのが聡明なことかも知れぬが、従来、此の問題に関しては、深く論じた学者のあることを耳にせぬので、茲に管見を記し、以て叱正を仰ぐとする。

「大鏡」を読むと、花山帝が脱屐の折に、陰陽道の泰斗安倍晴明が、識神によって、此の事を予知したと載せてある。而して此の識神なるものは、平安朝の文献以外には、余り記録にも現われぬので、従って代々の学者の注意も惹かず、全く閑却されている始末なのである。併しながら、安倍晴明が好んで使役したとあるからは、此の神が私の謂う道教から出ていることだけは知られるのであるが、さて其の正体はというと誠に捕捉することが困難なのである。山岡浚明翁は「類聚名物考」において、

式神、これは人の魂魄を術を以て使ふ事なり、陰陽家に伝へし術なり、中古の物に多く見えたり。西土の書にも此の術あり。髑髏神と云ふも是なり。俗に外法とも云へり。「清少納言記」しきの神もおのづから、いとかしこしとて云々。「語漢書六術長房伝」翁曰、幾得道云々。又為作一符曰、以此主地上鬼神云々。鞭笞百鬼、及駆使社公、今案に識神或は式神と書く借字なり、知識は人の情心のとどまる所なり、その魂神を駆使するを識神と云ふなり。「輟耕録」巻一三中書鬼案の条に、人の魂魄神を使ふるを云う所に、我亦会遣使鬼魂、我有収下的生魂売与儞云々とあり。鬼魂は是れ識神の事なり。

と記し、識神は髑髏神、又は外法と同じもので、陰陽家に伝えられたものだと考証している。而して是れだけ見ると、識神は道教にのみ属するもののように思われるが、更にこれを仏教方面から見ると、益々その正体が紛らしくなって来るのである。

往年、柳田国男先生の質問に対して、南方熊楠氏が解答された往復文書を浄書して「南方来書」と題し、今に柳田先生が秘蔵されているが、それを私が拝借して抜書したところによると、南方氏は識神に就いて、左の如く考えられている。

東晋三蔵法師仏陀跋陀羅訳、摩訶僧紙律三十一巻に、憍陳如比丘(釈迦の父の家来の子にて、釈迦の後を逐て出家せし五比丘の一也)歿して、四魔天来、欲観其識神不見、已変白鳥而去。文簡にして十分に分らぬが、四人の魔天来り、識神を見んとせしとき、已に白鳥に化して去ったあと故に見えなんだと云うこと(人の魂神鳥に化する信仰、印度外にもあり、日本武尊の御事なども似たり)と存候。只今ここに引ける所の識神は、人の魂と云うことと存候。晴明等の識神は其前後の支那の道家が、此仏家の識神より変じて、作り出せるものながら、死霊を使うと云うようなことで、余り仏家のここに云える所と変らぬことと存候。
識神の字、空華集(大日本仏教全書本)にもあり、タマシヒと振仮名せり(以上。明治四十五年四月十二日の条)。
識神と云う字、仏教で最も古く正しき出所は、増一阿含所会経と思う(黄蘖板一切経第八十六巻)芹奈三蔵曇摩難提訳十二巻三宝品第二十一にあり云々。此文は父母公会及び父母別居の状態、種々なるにより、子たるべき者の霊が来りて、或は胎に入り、或は胎に入り得ぬことを述べたるなり。識、外識、識神、神識と四様に訳しあれど、皆一と見ゆ。英語の Soul (タマシイ)と云うほどの事なり。故に無論晴明などの使いしと云うものと全く一致せず、タマシイを使うと云う意味から、陰陽家にも用い出せしことと覚ゆ云々(以上。明治四十五年五月廿三日の条)。

南方氏によれば、識神は仏説に出たものを、支那の道家が作り変えて我国に伝えたものであるという結論になり、且つ髑髏神とは少しく相違しているように考えられるのである。元々、私の学力では奈何ともすることの出来ぬ難問ゆえ、今は識神に関して先覚中にかかる考証があると云うことだけをお取次して置くより外に致し方がないが、その何れにしても、魂魄を神として、——即ち死霊を駆使したとある点が一致しているのであるから、晴明が使ったという識神も、此の意味に解し大過なきものと思う。而して此の識神が巫女に伝えられてから、口寄せと称する呪術が、一段の発展を来たしたのである。猶おそれに就いては後に述べたいと思うている。

D、巫女の間に行われた湯立

大昔の面影を伝えし神子

現在でも京阪の神社に参拝すると、巫女が社前に据えた大釜の湯を、両手に持った笹の葉を束ねたもので掬いあげ、それを自分の身体に振りかけながら神いさめするのを目撃する。これが即ち湯立の神事であって、参拝者は此の湯の飛沫を浴びると除災するとて、好んで釜の近くに押しかけているのを見ることがある。而して此の湯立の起原に就いては、これ又、余り深く研究されず、例の天鈿女の俳優の余風であるとか〔一九〕、更に奇抜なのは、武内宿禰の探湯クガタチの遺俗であるとか〔二〇〕、殆んど耳を捉えて鼻へ押し付けようとするが如き気楽な事ばかり言われているが、私の考えた所では、此の呪法も又た道教の影響であると信じている。

湯立の神事が古くから行われたことは「儀式貞観」巻一の園韓神祭儀の条に『御神子ミコ先廻庭火、供湯立舞、次神部八人共舞』とあるのから推しても知ることが出来る。ただ茲に注意しなければならぬ点は、此の湯立舞は「神楽歌」の弓立てと同じものと考えるので〔二一〕、或はその実際は貞観年中などよりは、更に古い時代から行われていたかも知れぬという事である。

多田南嶺が

神前にて湯立すること、古書に所見あるや、予に於ては知らず、「古語拾遺」の手草とても、比例とはしがたし。武内宿禰の探湯も神事の湯立にはあらず。

とまで断じたのは卓見であるが、これに次いで、

梁塵愚案抄に載せ給ひぬる神楽に、弓立といふあれ共、弓にして湯にあらず。

と筆端をすべらせたのは智者の一失であって〔二二〕、弓立は湯立の仮字であることは、その歌謡からも合点されるのである。然らば湯立は道教の影響なりとする論拠は那辺にあるかと云うに、同じ多田南嶺はこれに就いて左の如く論じている。

神社方にある湯立といふ事、上代は笹の葉と蒼朮ヲケとをもつて、湯をあみる也、ヲケといふは、蒼朮の事也(中略)。唐土にては大切の山神など祭るとき、合湯を用ゆ。合湯とは湯と水となり、能かげんの湯は清浄也〔二三〕。

此の記事を読んで想い起すことは、「古語拾遺」天磐戸の条の『飫憩オケ{木名也、振其/葉之調也}』の解釈である。此のヲケが木名也と脚註に明記してある為めに、累世の碩学もかなりに苦しんでいて、本居翁は木の葉を振う音のヲケと鳴るべき由なければ、木名とするは非なりとて、宇気のことを、神楽にかく唱えしを誤れるなりと、殆んど急所を避けているし、伴信友翁は神楽に阿知女於介ヲケと唱うるより、ヲケはヲケにて、天鈿女の俳優を褒めて、神等の鈿女ヲケと云ったのであろうと、いつに似ず判ったような判らぬことを言い、又一説にはヲケは榊なりとの説もあるなど〔二四〕、全く見当さえ附かぬという有様なのである。然るに四時堂其諺(京都円山阿弥の住職)はこれを考証して、

神代に云ふ飫憩ヲケノ木とはおけら也、是不浄を除く草なり。又中華にも、今夕(除夜)蒼朮を焚焼して辟疫よし、所説多し。

とて、時珍その他の本草書を挙げて論じている〔二五〕。此の考証が学説としてどれ程の価値を有しているかは、多少の疑念が伴わぬでもないが、榊説よりは傾聴すべきものが在るように思われる。

私は太だ早速ではあるが、以上の両記事から推して、湯立なる呪術は道教から出たものだと信ずるのである。寛文頃の記録にあるとて、学友星野輝興氏の語るところによれば、宮中の内侍所に仕えたおさい(お斎の意で古い御巫ミカンコに相当する者)、うねめ(采女でお斎に次ぐカンコ)、とじ(刀自で同じく巫)、めうぶ(命婦で下級の巫)等は、決して湯に入ることなく、必ず水を以て浄めるのを恒とし、若し沐浴することがあっても、掛け湯に限っていて、浴槽に入ることは無い。これは浴槽に入ると、自分の垢で自分を穢すようになり、神に仕える清浄となり得ぬからだと云うことである。此の一事から見るも、我国の原始神道には、湯を用いて身体を浄める思想は無く、従って道教の輸入以前には湯立というが如き神事は存しなかったと考えるのが穏当である。

それにしても、此の湯立の神事が、平安朝以後において、神社及び巫女の間に、盛んに行われたのは事実である。源実朝の「金槐集」に『里巫サトミコがお湯立笹のそよそよに、なびきおきふしよしや世の中』とあり、「康富記」文安六年九月廿九日の条に『粟田口神明有湯立、参詣拝見』と載せ、「晴富宿禰記」文明一二年二月廿五日の条に『於左女牛若宮有湯立、自公方御沙汰之由風聞』と記し、此の他にも枚挙に遑ないほど諸書に散見している。

殊に民俗学的に見て、興味の多いのは、出雲国美保神社の一年神主に対する湯立の神事である。同社には正神主横山氏の外に、一年神主とて、氏子中より選定して、一カ年間勤める者とある。而して此の神主の選定は、三年前に行うのであるが、先ず九・十両月の間、同町三百余軒の民家のうち、男子十二三歳より老年まで、いづれも美保社の祭神より前後三度の夢の告げがある。その夢が、正神主と、一年神主となる者と同じ(白髪の老人来たりて告げる事あり、又は浄衣烏帽子着たる人の告げもある)であれば、それが一年神主となるのであるが、愈々そう決定すると、その家を煤払いし、塩水で洗い、仏壇は寺へ預け、前後三カ年仏事を営まず、更に十二月大晦日の夜から、海辺に出て汐垢離をとり、爾来数日美保社へ参詣して、神主の無事に勤まるよう祈願する。さて三年目の春三月十日は、同社の祭礼とて、その日前年の神主より神役を受取る。これ迄前二年より船着なれば、船中安全のためとて、諸国の回船より米初穂料の金銭を送る。それで三年間の生活費に充てる。此のうち妻に不浄があれば、住宅の裏に他屋タヤとて離れ家を建ててそれへ置き、清浄の時だけ一所に暮す。かくて祭礼の日になると、大なる湯立の釜に、水八分ほど入れ焚き立て、湯玉のたぎる時に、其の年の新神主を、浄衣白無垢風折烏帽子を着たるままで、その湯釜に入れて煮るのである。介抱は前神主数人で皆々その加減を見て、息絶えたりと思う時に、四五人にて釜より出し、神前の荒菰の上に寝かして置くと、暫らくして生き返るので、今度は神社の拝殿まで舁き出して、幣帛を持たせ皆の者は平伏する。その時、近国から参詣の老若男女大勢群集し、心得たる者は神託を書き留めんと、紙矢立を用意し、待ち構える。一年神主は幣帛を三々九度に振り、それが済むとその一年中の農作の善悪、病気の流行など、一々神の告げとて託宣する。事終るとそのまま臥すが、それを再び荒菰の上に寝かせて置くと、やがて元の如くなり、衣服を着かえて帰宅する。但し何時でも願主あって神託を願えば、右の通り湯立して、一年神主を釜へ入れ、祭礼の如くして託宣する。此の初穂料は文化三年頃には金七両二分であった〔二六〕。

此の湯立の神事は、修験者が好んで行った所謂「護法附ゴホウツキ」なるもの(此の事は後に述べる)の影響まで受け容れているが、それにしても神を信ずる心の深い者でなければ、奈何にするも行い得ぬ放れ業である。而して湯立の神事から派生したもので、更に一段と簡略化されたものが、京都西七条村で行われたコウである。これは此の村の氏神祭りの日に、神前の大釜に湯を立て、村の老女が世話役となり、幼き男女を抱いて釜の上に翳し、湯気にあててやるのであるが、斯うすると疱瘡が軽いと信じられている〔二七〕。巫女が湯を身にかけて神託をなすのも、更に備前の吉備津神社の釜鳴りの神判なども、咸な此の信仰に由来するもので、然もその根本は、実に道教の思想に負うているのである。

〔註一〕
斯かる事は、今更改めて言うまでもないほど、明確な問題であるが、曩に久米邦武氏は「日韓同域考」を発表し、近く吉田貞吉氏は「日韓同祖論」を発表されている。ただ誤解されたくないことは、日韓同祖とは、我国の根幹を為した民族と、韓民族とが同祖であるということであって、これ以外に南方民族やアイヌ民族等の加わっていることは勿論である。
〔註二〕
昭和三年十月に前後九回に亘り東洋文庫で開催された白鳥庫吉氏の「周囲民族の古伝説より見たる神代の巻」と題する講演で、扶桑木のこと及び日少宮のことを述べられた。
〔註三〕
「嬉遊笑覧」の附録中に見えている。
〔註四〕
「神武紀」の郊祀霊時の用語は、道教の思想に由来するものであるが、併しこれは、「日本紀」の執筆者が、漢様にかかる文字を用いたまでと見るべきである。
〔註五〕
泣き女は、支那にも、朝鮮にも古くから存し、前者は「中華全国風俗志」に、後者は「朝鮮風俗志」に、共に詳記してある。我国にも、琉球、讃岐、加賀、八丈島等には近年まであったが、支那からの輸入と考えている。
〔註六〕
「太子伝暦」には、此の時の厭勝のことが、少しく詳しく載せてあるが、今は省略した。
〔註七〕
「政事要略」巻七〇(史籍集覧本)「蠱毒厭魅及巫覡等事」の条。
〔註八〕
奈良朝及び平安朝には、よく巫蠱の疑獄が起って、貴神大官がこれに連座し、処罰されているが、これには政治的の意味も多分に含まれていて、これを利用し、悪用した政治家も、尠く無かったようである。従って、此の時代に行われた咒術の惨忍さに就いては、注意して見なければならぬ点がある。
〔註九〕
「山城谷村史」。私は先年「趣味の友」という雑誌に「呪いの釘」と題して、我国の呪詛伝説に関して、管見を発表したことがある。その切り抜きは大正一二年の震災で焼いてしまい、雑誌の号数は古いことなので失念してしまった。
〔註一〇〕
シャーマンは太鼓を叩くが、弓の弦はたたかぬ。朝鮮のムーダンも、又たそれである。然るに我国のミコは、弓の弦をたたいて、太鼓は楽人の手に渡してしまった。我国の巫道が、シャーマンと共通しているところがあるにせよ、ここに両者の区別のあることも知らねばならぬ。そして此の弓の故事を有難そうに説くのが、巫女等の常套手段であるが、元より信用の出来ぬことである。江戸期の関東の巫女の取締であった田村家では、神功皇后説を伝えているが、一噱に附すべき妄談であることは、機会があったら第三篇に述べたいと思っている。
〔註一一〕
古風土記を読んだ折に、大国主命が、梓弓を折って橋の代りとしたという記事があったように記憶しているので、そのカードを探したが見当たらぬので、そのままとした。
〔註一二〕
同書巻三三〇雑部五、卜筮の条。猶お「淵鑑類函」か「古今図書集成」でも見たら、もっと適切な支那の材料が見出されることと思わぬでもないが、茲には大体を尽せば足りると考えたので中止した。
〔註一三〕
これに就いては「礼記」「楚辞」等に載せてある。
〔註一四〕
雑誌「風俗志林」第二巻第三号に載せた白井光太郎氏の「梓材考」に詳記してある。
〔註一五〕
「松屋筆記」巻九六に見えている。
〔註一六〕
「増補語林倭訓栞」その条。
〔註一七〕
「神道五部書」の多くが偽書であることは、吉見幸和以降学界の定説である。従って信用出来ぬことは勿論である。
〔註一八〕
田辺尚雄氏の「日本音楽講話」によると、弓は琴の代用とはならぬとある。されば、弓が琴の始めだなどと云う説は荒唐無稽であって、糸の下に板(三味線なれば皮)が無ければ鳴るものでないと論じている。
〔註一九〕
「神道名目類聚抄」巻五。
〔註二〇〕
「増補語林倭訓栞」湯立の条。
〔註二一〕
橘守部の「神楽歌入文」にその事を言っているが、これは一度歌を読みさえすれば、誰でも気の附くことである。
〔註二二〕
「南嶺子」巻三(日本随筆大成本)。
〔註二三〕
「南嶺遺稿」巻三(日本随筆大成本)。因に著者は同じだが本は異っている。混雑せぬよう附記する。
〔註二四〕
久保季茲氏著の「古語拾遺講義」に拠る。
〔註二五〕
「滑稽雑談」巻廿二(国書刊行会本)。
〔註二六〕
黒川春村翁著の「神名帳考証土代附考」(伴信友全集第一冊所収)に拠る。
〔註二七〕
「諸国年中行事大成」巻二。因に「年中行事大全」と混同しやすいので注意を乞う。