「日本巫女史/第一篇/第三章/第三節」の版間の差分

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==第三節 言霊の神格化と巫女の位置==
==第三節 言霊の神格化と巫女の位置==


我国における一般的の呪術から言うと、<ruby><rb>太卜</rb><rp>(</rp><rt>フトマニ</rt><rp>)</rp></ruby>は最も古き方法であって、然も最も重きものである。文献の示すところによれば、諾冊二尊もこれを行い、天照神の磐戸隠れにもこれを行い、天児屋根命が神事の宗源を司るというのも詮ずるに此の事が重大なる務めであった。人の世となり、鹿卜が亀卜と変り、児屋根命が卜部氏となっても、太卜の呪術的重要さは、依然として少しも渝るところがなかった。従って歴聖も大事のある毎にこれを行い、民間でも稀にはこれを行うことすら有った〔一〕。然るにこれほど重要なる太卜の呪術に、巫女が深い関係を有してゐぬのは抑々如何なる理由であろうか。


我くににおける一般的の呪術から言うと、太卜(フトマニ)は最も古き方法であって、然も最も重きものである。文献の示すところによれば、諾冊二尊もこれを行い、天照神の磐戸隠れにもこれを行い、天児屋根命が神事の宗源を司るというのも詮ずるに此の事が重大なる務めであった。人の世となり、鹿卜が亀卜に変り、児屋根命が卜部氏となっても、太卜の呪術的重要さは、依然として少しも渝るところがなかった。従って歴聖も大事のある毎にこれを行い、民間でも稀にはこれを行う事すら有った〔一〕。然るにこれほど重要なる太卜の呪術に、巫女が深い関係は有してゐぬのは抑々如何なる理由であろうが。
: 一、太卜が文献に記されるようになった頃は、覡男の勢力に巫女が圧倒された為めであるか。
: 二、それとも、太卜というが如き最高の呪術には、当初から巫女は交渉を<ruby><rb>有</rb><rp>(</rp><rt>モ</rt><rp>)</rp></ruby>たぬのであろうか。


* 一、太卜が文献に記されるようになった頃は、覡男の勢力に巫女が圧倒された為であるか。
これに対する私の答えは、極めて簡単明瞭である。即ち巫女は初め太卜に関係し、然もこれが中心となっていたのであるが、世を代え時を経る内に、神道が固定し、呪術が洗練されて神事となり、覡男が巫女を排斥した結果として、遂にかかる文献を残したに過ぎぬと言うのである。而して私の此の答えは、太卜の主神である<ruby><rb>卜庭之神</rb><rp>(</rp><rt>ウラニハノカミ</rt><rp>)</rp></ruby>──即ち<ruby><rb>太詔戸命</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトノミコト</rt><rp>)</rp></ruby>と、これに仕えた巫女の亀津比女命との考覈を試みれば、それで明白になり且つ確実になるものと信じている。
* 二、それとも、太卜というが如き最高の呪術には、当初から巫女は交渉を有(も)たぬのであろうか。


これに対する私の答えは、極めて簡単明瞭である。即ち巫女は初め太卜に関係し、然もこれが中心となっていたのであるが、世を代え時を経る内に、神道が固定し、呪術が洗練されて神事となり、覡男が巫女を排斥した結果として、遂にかかる文献を残したに過ぎぬと言うのである。而して私の此の答えは、太卜の主神である卜庭之神(ウラニハノカミ)──即ち太詔戸命(フトノリトノミコト)と、これに仕した巫女の亀津比女命との考覈を試みれば、それで明白になり且つ確実になる物と信じている。
太卜を行うには、卜庭二神の太詔戸命と<ruby><rb>櫛真知命</rb><rp>(</rp><rt>クシマチノミコト</rt><rp>)</rp></ruby>とを祭ることが、儀礼となっていた〔二〕。太詔戸命に就いては「釈日本紀」巻五(述義一)の太卜の条に左の如く載せてある。


太卜を行うには、卜庭二神の太詔戸命と櫛真知命(クシマチノミコト)とを祭ることが、儀礼となっていた〔二〕。太詔戸命に就いては「釈日本紀」巻五(述義一)の太卜の条に左の如く載せてある。
: <ruby><rb>太占</rb><rp>(</rp><rt>フトマニ</rt><rp>)</rp></ruby>
 
: 私記曰。問○何是占哉○答。是卜之謂也。上古之時。未用亀甲。卜以鹿肩骨而用也。謂之フトマニ(中略)○亀兆伝曰。凡述亀誓。皇親神魯岐{○原/註略}神魯美命{○原/註略}荒振神者掃々平。石木草葉断其語。詔群神。吾皇御孫命者。豊葦原水穂国安平知食。天降事寄之時。誰神皇御孫尊朝之御食。夕之御食{○原/註略}長之御食。遠之御食之間{○原/註略}可仕奉。神問々賜之時。径天香山白真名鹿{一説云。白/真男鹿。}吾将仕奉。我之肩骨内抜々出。火成卜以問之。問給之時。已致火為。<ruby><rb>太詔戸</rb><rp>(</rp><rt>フトノリト</rt><rp>)</rp></ruby>命進啓。{又按。持神女住天香山也。亀津比/女命。今称天津詔戸太詔戸命也。}白真鹿者。可知上国之事。何知地下之事。吾者能知上国地下天神地祇。況復人情憤悒。但手足容貌不同群神。故皇御孫命放天石座別八重雲天降坐。立御前下来也云々(国史大系本)。
: 太占(フトマニ)
: 私記曰。問○何是占哉○答。是卜之謂也。上古之時。未用亀甲。卜以鹿肩骨而用也。謂之フトマニ(中略)。○亀兆伝曰。凡述亀誓。皇親神魯岐(○原註略)神魯美命(○原註略)荒振神者掃々平。石木草葉断其語。詔群神。吾皇御孫命者。豊葦原水穂国安平知食。天降事寄之時。誰神皇御孫尊朝之御食。夕之御食(○原註略)長之御食。遠之御食之間(○原註略)可仕奉。神問々賜之時。径天香山白真名鹿【一說云。白真男鹿。】吾将仕奉。我之肩骨内抜々出。火成卜以問之。問給之時。已致火為。太詔戸(フトノリト)命進啓く。【又按。持神女住天香山也。亀津比女命。今称天津詔戸太詔戸命也。】白真鹿者。可知上国之事。何知地下之事。吾能知上国地下天神地祇。況復人情憤悒。但手足容貌不同群神。故皇御孫命放天石座別八重雲天降坐。立御前下來也云々。(国史大系本)


此の記事を読んで、当然、導出される問題は、(一)太詔戸命とは如何なる神か、(二)太詔戸命と亀津比女との関係を如何に見るか、及び此の両神と太卜との交渉は如何なる物かと云う二点である。私はこれに就いて簡見を述べて見たいと思う。
此の記事を読んで、当然、導出される問題は、(一)太詔戸命とは如何なる神か、(二)太詔戸命と亀津比女との関係を如何に見るか、及び此の両神と太卜との交渉は如何なる物かと云う二点である。私はこれに就いて簡見を述べて見たいと思う。


'''一 太詔戸命は言霊の神格化'''
'''一 太詔戸命は言霊の神格化'''


私の父は大變な平田篤胤翁の崇拜家であつただけに、草深い片田舍の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であつた[三]。其の父が生前に書き殘して置いた物の中に、『六月晦大祓』の祝詞の一節に「天つ菅麻を、本刈斷ち末打切りて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ、斯く宣らば天つ神は。」云云とある『太祝詞』とは何の事か知るに由が無いと云ふ意味が記してあつた。私は深く此事を記憶してゐて、爾來、本居・平田兩翁の古典の研究を始め、伴信友・橘守部・鈴木重胤等の各先覺の著書を讀む折には、必ず特に『太詔詞』の一句に注意を拂つて來たのであるけれども、私の不敏の為か、今に此の一句の正體を突き留める事が出来ぬのである。それでは、代代の先覺者には、此事が充分に解釋されてゐたかと云ふに、どうも左樣では無くして、多分こんな事だらう位の推し當ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位の物に過ぎぬのである。斯く碩學宏聞の大家にあつても、正體を知る事の出来なかつた太詔詞の一句、田舍親爺の父等に知れべき筈の無いのは、寧ろ當然と云ふべきである。然らば、其の太詔詞とは如何なる物であるか、先づ二三の用例を舉げるとする。
私の父は大へんな平田篤胤翁の崇拝家であっただけに、草深い片田舎の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であった〔三〕。その父が生前に書き残して置いたものの中に「六月晦大祓」の祝詞の一節に『天つ<ruby><rb>菅麻</rb><rp>(</rp><rt>スガソ</rt><rp>)</rp></ruby>を、<ruby><rb>本刈断</rb><rp>(</rp><rt>モトカリタ</rt><rp>)</rp></ruby>ち<ruby><rb>末</rb><rp>(</rp><rt>スヱ</rt><rp>)</rp></ruby>打切りて、<ruby><rb>天津祝詞</rb><rp>(</rp><rt>アマツノリト</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>太祝詞事</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトコト</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>宣</rb><rp>(</rp><rt>ノ</rt><rp>)</rp></ruby>れ、斯く宣らば天つ神は』云々とある「太祝詞」とは何の事か知るに由がないと云う意味が記してあった。私は深く此の事を記憶していて、爾来、本居・平田両翁の古典の研究を始め、伴信友、橘守部、鈴木重胤等の各先覚の著書を読む折には、必ず特に「太詔詞」の一句に注意を払って来たのであるけれども、私の不敏のためか、今に此の一句の正体を突き留めることが出来ぬのである。それでは、代々の先覚者には、此の事が充分に解釈されていたかと云うに、どうも左様ではなくして、多分こんな事だろう位の推し当ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位のものにしか過ぎぬのである。かく碩学宏聞の大家にあっても、正体を知ることの出来なかった太詔詞の一句、田舎親爺の父などに知れるべき筈のないのは、寧ろ当然と云うべきである。然らば、その太詔詞とは如何なる物であるか、先ず二三の用例を挙げるとする。
 
 
太詔詞の初見は『日本書紀』神代卷の一書に、「使天兒屋命掌其解除之太諄詞(フトノリトゴト)而宜之。」の其れで、祝詞では前揭の大祓の外にも散見してゐるが、重なる物を舉ければ「鎮火祭」には二箇所有つて、前は「天下依し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん。」とあり、後は、「和稻、荒稻に至る迄に、橫山の如置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、稱辭竟へ奉らんと申す。」とある。「道饗祭」には、「神官、天津祝詞の太祝詞を、神主部・物忌等諸聞しめせと宣る。」とあり、此れも前に引用した『中臣壽詞』には「此御櫛を刺立て、夕日より朝日の照る迄、天津祝詞の太詔詞言(フトノリトゴト)を持て宣れ。」とあり、更に『萬葉集』卷十七には、「中臣の太祝詞言ひ祓ひ、贖ふ命も誰が為に汝。」と載せてある。
 而して是等の用例に現はれたる太詔詞に對する諸先覺の考證を檢討せんに、先づ賀茂真淵翁の說を略記すると、「或人﹝中略﹞、されば茲に天津祝詞とあるは、別に神代より傳はれる言あるならん、と云へるはひが事也。」とて[四]、大祓の外に別に太詔詞有る事を云はず、且つ太詔詞そのものに就いては、少しも觸れてゐぬのである。本居宣長翁は「太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の宣此詞を指せる也。」として[五]、賀茂說を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うてゐぬ。然るに、平田篤胤翁に至つては、例の翁の臆斷を以て、異說を試みてゐる。
 
茲に其の梗慨を記すと、
 
: 太祝詞を天津神・國津神の聞食せは、祓戶神等の受納給ひて罪穢を卻ひ失ひ給ふ。斯在ば其太祝詞は別に在けむを、式には載漏されたる事著明し、若し然らずとせば、太祝詞事を(乎)宣れ(禮)とは何を宣る事とかせむ。
 
と言われた迄は卓見であるが、更に一步を進めて、太祝詞の正體は、


: 太詔詞は、皇祖天神の大御口自に御傳へ坐るにて、祓戶神等に祈白す事なるを、神事の多在る中に、禊祓の神事許り重きは無ければ、天津祝詞の中に此太祝詞計り重きは無く、天上にて天兒屋命の宣給へる辭も、其なるべく所思ゆ。
太詔詞の初見は「日本書紀」神代巻の一書に『使天児屋命掌其解除之<ruby><rb>太諄辞</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴト</rt><rp>)</rp></ruby>而宣之。』のそれで、祝詞では前掲の大祓の外にも散見しているが、重なるものを挙げれば「鎮火祭」には二ヶ所あって、前は『天下<ruby><rb>依</rb><rp>(</rp><rt>ヨザ</rt><rp>)</rp></ruby>し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん』とあり、後は『和稲荒稲に至るまでに、横山のごと置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、<ruby><rb>称辞</rb><rp>(</rp><rt>タダヘコトヲ</rt><rp>)</rp></ruby>竟へ奉らんと申す』とある。「道饗祭」には『神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉ると申す』とあり、「豊受宮神嘗祭」には『天照し坐す皇大神の大前に申し<ruby><rb>進</rb><rp>(</rp><rt>タテマツ</rt><rp>)</rp></ruby>る、天津祝詞の太祝詞を、神主部物忌等<ruby><rb>諸</rb><rp>(</rp><rt>モロモロ</rt><rp>)</rp></ruby>聞しめせと宣る』とあり、これも前に引用した「中臣寿詞」には『この玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照るまで、天津祝詞の<ruby><rb>太詔詞言</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴト</rt><rp>)</rp></ruby>をもて宣れ』とあり、更に「万葉集」巻十七には『中臣の<ruby><rb>太祝詞言</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴトイ</rt><rp>)</rp></ruby>ひ祓ひ、<ruby><rb>贖</rb><rp>(</rp><rt>アダ</rt><rp>)</rp></ruby>ふ命も誰がために<ruby><rb>汝</rb><rp>(</rp><rt>ナレ</rt><rp>)</rp></ruby>』と載せてある。


とて[六]、遂に禊祓を太祝詞と斷定したのである。鈴木重胤は平田說に示唆されて一段と發展し、伯家に傳りし大祓式に三種ノ祝詞有るを論據として、遂に太詔詞は、
而して是等の用例に現われたる太詔詞に対する諸先覚の考証を検討せんに、先ず賀茂真淵翁の説を略記すると『或人(中略)、されば茲に天津祝詞とあるは、別に神代より伝われる言あるならん、と云へるはひがことなり』とて〔四〕大祓の外に別に太詔詞あることを云わず、且つ太詔詞そのものに就いては、少しも触れていぬのである。本居宣長翁は『太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の<ruby><rb>宣</rb><rp>(</rp><rt>ノル</rt><rp>)</rp></ruby>此詞を指せるなり』として〔五〕、賀茂説を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うていぬ。然るに、平田篤胤翁に至っては、例の翁一流の臆断を以て、異説を試みている。


吐普加身衣身多女(トホカミエミタメ)とて、此は占方に用ふる詞なるが、吐普(遠)は遠大(トホ)にて天地の底際(ソコヒ)の內を悉く取統て云也、加身(神)は神(カミ)にて天上地下に至る迄感通らせる神を申せり、依身(惠)は能看(エミ)、多女(賜)は可給(タメ)と云ふ事にて。﹝中略﹞簡古にして能く六合を網羅トリスベたる神呪にて、中中に人為の能く及ぶ所にあらざりけり。﹝中略﹞此三種ノ祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なる物也、そは大祓の大祝詞に用ゐららるに祓給へ(幣)清給へ(幣)の語を添て申すを以て曉(さと)る可き也云云。
茲にその梗概を記すと、


と主張してゐる[七]。鈴木翁が太詔詞を神呪と見た警眼には服するが、此れを吐普加身云云を以て充當しようと企てられたのは、恰も平田翁が此れを皇祖天神の口授とし、禊祓を擬せんとしたのと全く同じ事で、共に出典を缺いた臆說と見るべき外はないのである。
: 太祝詞を天津神国津神の聞食せは、祓戸神等の受納給ひて罪穢を却ひ失ひ給う。斯在ば其太祝詞は別に在けむを、式には載漏されたる事著明し、若し然らずとせば、太祝詞事<small>乎</small>宣<small>礼</small>とは何を宣る事とかせむ。


然らば太詔詞の正體はと云へば、此れは永久に判然せぬ物であると答へるのが尤も聰明な樣である。恐らく此の神呪は此れを主掌してゐる中臣家の口傳であつたに相違無い故、其れが忘られた以上は永久に知る事の出來ぬものである。然るに、茲に想起される事は、「類聚神祇本源」卷十五﹝此書に就いては第一篇第二章に略述した。﹞神道玄義篇の左の一節である。
と言われたまでは卓見であるが、更に一歩をすすめて、太祝詞の正体は、


: 問:開天磐戶之時、有呪文歟如何?答:呪文非一、秘訓唯多。﹝中略﹞又云而布瑠部由良由良止布瑠部文、此外呪文依為秘說、不及悉勒。謂天神壽詞天津宮事者、皆天上神呪也。
: 太詔詞は、皇祖天神の大御口自に御伝へ坐るにて、祓戸神等に祈白す事なるを、神事の多在る中に、禊祓の神事許り重きは無ければ、天津祝詞の中に此太祝詞計り重きは無く、天上にて天児屋命の宣給へる辞も、其なるべく所思ゆ。
: 問:何故以解除詞稱中臣祓哉?天神太祝詞者、祓之外可有別文歟如何?答:以解除詞稱中臣祓者、中臣氏行幸每度奉獻御麻之間有中臣祓之號云云。此外猶在秘說歟。凡謂濫觴,天兒屋命掌神事之宗源云云。奉天神壽詞、天村雲命者捧賢蒼懸木綿、抽精誠祈志地、就中天孫御降臨之時、天祖太神授秘呪於天兒屋命、天兒屋命貽神術於奉仕累葉。﹝中略﹞次座に(仁)面受秘訓、莫傳外人。由緣異他相承嚴明也。復次天祝太祝詞、是又有多說。此故聖德太子奉詔撰定伊弉諾尊小戶橘之檍原解除、天兒屋命解素戔鳴惡事神呪、皇孫尊降臨驛呪文、倭姬皇女下樋小河大祓、彼此明明也、共可以尋歟。﹝續續群書類從「神祇部」本。﹞


此記事に據れば、太詔詞は全く呪文であつて、然も其の呪文の幾種類かが悉く太詔詞の名に依つて傳へられてゐる事が知られるのである。勿論、私とても僧侶の手に依つて著作された此種の文獻を、決して無條件で受容れる者では無いが、兔に角に祝詞の本質が古く呪文であつた事、及び此書の作られた南北朝頃には、未だ太詔詞なる物 が存してゐた事等を知るには、極めて重要なる暗示を與へる物と考へたので、斯くは長長と引用した次第である。殊に注意し無ければ成らぬ事は、此記事に據れば、天兒屋命は純然たる公的呪術師であつて[八]、神事の宗源とは即ち呪術である事が明確に認識される點である。未だ太詔詞に就いては、記したい事が相當に殘つてゐるのであるが、其れでは餘りに本書の疇外に出るので省略し、更に太詔戶命の正體に就いて筆路を進めるとする。
とて〔六〕、遂に禊祓を太祝詞と断定したのである。鈴木重胤は平田説に示唆されて一段と発展し、伯家に伝りし大祓式に三種ノ祝詞あるを論拠として、遂に太詔詞は、


伴信友翁は「太詔戶命と申すは、兒屋命を稱へたる一名なるべし。﹝中略﹞名に負ふ中臣の祖神に坐し、果た卜事行ふにも、神に向ひて、其の占問ふ狀を祝詞する例なるに合わせて、卜庭に祭る時は、太詔戶命と稱へ申せるにぞあるべき。」と考證されたゐるが[九]、私に言はせると、是れは伴翁の千慮の一失であつて、太詔戶命とは即ち太詔詞の言靈を神格化した物と信じたいのである。畏友武田祐吉氏の研究に據れば、
: 吐普加身衣身多女とて、此は占方に用ふる詞なるが、吐普は<ruby><rb>遠大</rb><rp>(</rp><rt>トホ</rt><rp>)</rp></ruby>にて天地の<ruby><rb>底際</rb><rp>(</rp><rt>ソコヒ</rt><rp>)</rp></ruby>の内を悉く取統て云なり、加身は神にて天上地下に至るまで感通らせる神を申せり、依身は<ruby><rb>能看</rb><rp>(</rp><rt>エミ</rt><rp>)</rp></ruby>、多女は<ruby><rb>可給</rb><rp>(</rp><rt>タメ</rt><rp>)</rp></ruby>と云ふ事にて(中略)。簡古にして能く六合を<ruby><rb>網羅</rb><rp>(</rp><rt>トリスベ</rt><rp>)</rp></ruby>たる神呪にて、中中に人為の能く及ぶ所にあらざりけり(中略)。此三種ノ祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なるものなり、そは大祓の大祝詞に用ゐららるに祓給<small>幣</small>清給<small>幣</small>の語を添て申すを以て<ruby><rb>暁</rb><rp>(</rp><rt>サト</rt><rp>)</rp></ruby>る可きなり云々。


: 言靈信仰は、自づから言語を人格神として取扱ふに至るべき事を想像せしめる。其例として、辭代主神・一言主神の如き、言靈神では無いかと思はれる。辭代主の屢ば託宣するは史傳に見ゆる處であり。一言主も亦『鄉土研究』に據れば[十]、良く託宣した事が見えてゐる。善言も一言、惡(まが)言も一言と神德を傳へた其の神が、言靈の神であるべき事は想像せられ易い。
と主張している〔七〕。鈴木翁が太詔詞を神呪と見た警眼には服するが、これを吐普加身云々を以て充当しようと企てられたのは、恰も平田翁がこれを皇祖天神の口授とし、禊祓を擬せんとしたのと全く同じことで、共に出典を欠いた臆説と見るべき外はないのである。


と有るのは至言であつて[十一]、私は是等の辭代主・一言主に、更に太詔戶命を加へたいと思ふのである。伴翁は太詔戶命と共に卜庭の神である櫛真知命は波波加木の神格化であると迄論究されてゐながら[十二]、何故に太詔戶命の太祝詞の神格化に言及せられ無かつたのであるか、私には其れが合點されぬのである所謂、智者の一失とは此の事であらう。前に引いた『龜兆傳』の太詔戶命の細註にも「持神女、住天香山也,龜津比女命。今稱天津詔戶太詔戶命也。」となりと明記し、兒屋命と別神である事を立證してゐる[十三]。太詔戶命は言靈の神格化として考ふべきである。
然らば太詔詞の正体はと云えば、これは永久に判然せぬものであると答えるのが尤も聡明なようである。恐らく此の神呪はこれを主掌している中臣家の口伝であったに相違ないゆえ、それが忘られた以上は永久に知る事の出来ぬものである。然るに、茲に想い起されることは、「類聚神祇本源」巻十五(此の書に就いては[[日本巫女史/第一篇/第二章|第一篇第二章]]に略述した)神道玄義篇の左の一節である。


: 問開天磐戸之時、有呪文歟如何、答呪文非一、秘訓唯多(中略)。又云而布瑠部由良由良止布瑠部文、此外呪文依為秘説不及悉勒、謂天神寿詞天津宮事者、皆天上神呪也。
: 問何故以解除詞称中臣祓哉、天神太祝詞者、祓之外可有別文歟如何。答以解除詞称中臣祓者、中臣氏行幸毎度奉献御麻之間有中臣祓之号云々。此外猶在秘説歟、凡謂濫觴、天児屋命{○原/註略}掌神事之宗源云々。奉天神寿詞、天村雲命者{○原/註略}捧賢蒼懸木綿、抽精誠祈志地、就中天孫御降臨之時、天祖太神授秘呪於天児屋命、天児屋命貽神術於奉仕累葉(中略)。次座<small>仁</small>面受秘訓莫伝外人、由縁異他相承厳明也、復次天祝太祝詞、是又有多説、此故聖徳太子奉詔撰定伊弉諾尊小戸橘之檍原解除、天児屋命解素戔鳴悪事神呪、皇孫尊降臨霊驛呪文、倭姫皇女下樋小河大祓、彼此明々也、共可以尋歟(続々群書類従「神祇部」本)。


'''二 太詔戸命と龜津比女命との關係'''
[[画像:ainumiko01.gif|thumb|アイヌの巫女(ツスを行う扮裝)]]
此の記事に拠れば、太詔詞は全くの呪文であって、然もその呪文の幾種類かが悉く太詔詞の名によって伝えられている事が知られるのである。勿論、私とても僧侶の手によって著作された此の種の文献を、決して無条件で受容れる者ではないが、兎に角に祝詞の本質が古く呪文であったこと、及び此の書の作られた南北朝頃には、まだ太詔詞なるものが存していたことなどを知るには、極めて重要なる暗示を与えるものと考えたので、かくは長々と引用した次第なのである。殊に注意しなければならぬことは、此の記事によれば、天児屋命は純然たる公的呪術師であって〔八〕、神事の宗源とは即ち呪術であることが明確に認識される点である。まだ太詔詞に就いては、記したいことが相当に残っているのであるが、それでは余りに本書の疇外に出るので省略し、更に太詔戸命の正体に就いて筆路をすすめるとする。


龜津比女命なる神名は、獨り『龜兆傳』の細註に現れただけで、其他の神典古史には全く見えぬ神なる故、其の正體を突き止めるに誠に手掛りが尠ないのであるが、此の細註に神を持つ少女、天ノ香山に住む、龜津比女命、今は太詔戶命と稱するとある意味は、既に言靈の太詔詞が神格化されて太詔戶命と成り、此れに奉仕してゐた巫女を龜津比女命と稱したのが、更に附會混糅されて龜津比女命は即ち太詔戶命であると考へられる樣に成つた物と信ずるのである。而てし斯かる例證は原始神道の信仰に於いては屢屢逢著する處であつて、少しも不思議とするに足らぬのである。
伴信友翁は『太詔戸命と申すは、児屋命を称へたる一名なるべし(中略)。名に負ふ中臣の祖神に坐し、はた卜事行ふにも、神に向ひて、其の占問ふ状を祝詞する例なるにあはせて、卜庭に祭る時は、太詔戸命と称へ申せるにぞあるべき。』と考証されているが〔九〕、私に言わせると、是れは伴翁の千慮の一失であって、太詔戸命とは即ち太詔詞の言霊を神格したものと信じたいのである。畏友武田祐吉氏の研究によれば、


旁證として茲に一・二舉げんに、原始神道の立場から云へば、畏くも天照神に奉仕されて最高の女性であつて、消して日神その者では無かつたのである。其れが神道が固定し、古典が整理され、天照神の御神德が彌が上に向上されて來た結果は、天照神即日神と云ふ信仰と成つてしまつたのである。更に豐受神にした處が、『丹後國風土記』の逸文を徵證として稽へれば、豐受神は穀神に奉仕した女性であつて、此れも決して榖神その物では無かつたのである。其れが伊勢の度會に遷座し、天照神の御饌神として神德を張る樣に成つたので、遂に豐受神即穀神と迄到達したのである。而して茲に併せ記す事は、頗る比倫を失ふ嫌ひはあるが、古く宮中の酒殿に酒神として祭られた酒見郎子・酒見郎女の二神も、仁德朝の掌酒であつて、酒神その者では無かつたのが、後には酒神の如く信仰されたのは、天照神や豐受神と同じ理由──其間に大小と高下との差違は勿論あるが、兔に角にかうした信仰の推移は宗教心理的にも民族心理的にも、良く發見される事なのである。龜津比女と太詔戶命との關係も又其れであつて、始めは龜津比女は神を持て女として太詔戶命に仕へてゐたのが、後には太詔戶命その者と成つたのである。かう解釋してこそ兩者の關係が會得されるのである。
: 言霊信仰は、おのずから言語を人格神としてとり扱うに至るべきことを想像せしめる。その例として、辞代主神、一言主神の如き、言霊神ではないかと思われる。辞代主のしばしば託宣するは史伝に見ゆるところであり、一言主も亦『郷土研究』によれば〔一〇〕、よく託宣したことが見えている。善言も一言、まが言も一言と神徳を伝えたその神が、言霊の神であるべきことは想像せられ易い。


龜津比女が巫女であつた事は、改めて言ふ迄も無いが、唯問題として殘されてゐる事は、龜津比女の名が總てを語つてゐる樣に、此の巫女は鹿卜は龜卜に變つてから太詔戶命に仕へた者か、それとも鹿卜の太古から仕へた者かと云ふ點である。巫女が鹿卜に與つたと云ふ事は、他の文獻には見えてゐぬので、此れを考證するに困難を感ずる事ではあるが、姑らく『龜兆傳』の記す處に據れば、前揭の如く、「天香山白真名鹿:『吾將仕奉。我之肩骨內拔拔出,火成卜以問之。』」あるので、巫女は鹿卜時代から此れに交涉を有してゐた者と見て差支無い樣である。後世の記錄ではあるが、『續日本紀』寶龜三年十二月の壹岐國の卜部氏の事を記せる條に「壹岐郡人直玉主賣」と有るのは、女性の樣に思はれるので參考すべきである。
とあるのは至言であって〔一一〕、私は是等の辞代主、一言主に、更に太詔戸命を加えたいと思うのである。伴翁は太詔戸命と共に卜庭の神である櫛真知命は波々加ノ木の神格化であるとまで論究されていながら〔一二〕、何故に太詔戸命の太祝詞の神格化に言及せられなかったのであるか、私にはそれが合点されぬのである。所謂、智者の一失とは此の事であろう。前に引いた「亀兆伝」の太詔戸命の細註にも『持神女、住天香山也、亀津比女命、今称天津詔戸太詔戸命也。』となりと明記し、児屋命と別神である事を立証している〔一三〕。太詔戸命は言霊の神格化として考うべきである。


'''二 太詔戸命と亀津比女命との関係'''


; 〔註一〕 : 『萬葉集』卷十四に、「武藏野に、占部肩灼き、真實(マサデ)にも、告らぬ君が名、占に出にけり。﹝3374﹞」と有り。同卷に、「大楉(オフシモト)、此本山の、真終極(マシバ)にも、告らぬ妹が名、卜兆(カタ)に出でむかも。﹝3488﹞」と有り、同卷十五雲連宅滿の挽歌の一節にも、「壹岐海人の、名手ほつての卜筮(ウラベ)を、肩灼きて、行かむとするに。﹝3694﹞」云云とある。是等は太卜の民間に行はれた事を證明してゐる物である。
亀津比女命なる神名は、独り「亀兆伝」の細註に現れただけで、その他の神典古史には全く見えぬ神なるゆゑ、その正体を突きとめるに誠に手掛りが尠いのであるが、此の細註に神を持つ女、天ノ香山に住む、亀津比女命、今は太詔戸命と称するとある意味は、既に言霊の太詔詞が神格化されて太詔戸命となり、これに奉仕していた巫女を亀津比女命と称したのが、更に附会混糅されて亀津比女命は即ち太詔戸命であると考えられるようになったものと信ずるのである。而て斯かる例証は原始神道の信仰においては屡々逢着するところであって、少しも不思議とするに足らぬのである。
; 〔註二〕 : 『本朝月令』に引ける『弘仁神祇式』に、「卜御體・卜庭神祭二座。」云云と見え、『延喜』四時祭式にも「卜御體・卜庭神祭二座。御卜始終日祭之。」と載せてある。而して此の二神は太詔戶命と櫛真知命である事は、本居翁の『古事記傳』及び伴翁の『卜正考』等に考證されてゐる。 
; 〔註三〕 : 私の父は平田翁を崇拜の餘り、控へ屋敷へ平田翁・外二翁を併せ祭つた靈三柱神社と云ふ大きな社を建てて、朝夕奉仕した。從つて神典古史も可なり讀んでゐて、郡中の神職連等は父の弟子分と云ふ程であつた。私も此父の庭訓で八・九歲頃から祝詞を讀ませられた者である。拙著『日本民俗志』に收めた「男は御產の真似をする話」に載せた記事の一半は、私の體驗と父の庭訓振りを書いた物である。
; 〔註四〕 :「祝詞考」﹝賀茂真淵全集本﹞。
; 〔註五〕 :『大祓後釋』卷下﹝本居宣長全集本﹞。
; 〔註六〕 :『天津祝詞考』及び『古史傳』に據つた。但し行文は專ら鈴木重胤翁の『祝詞講義』に要約した物に從うたのである。
; 〔註七〕 :鈴木重胤の『延喜式祝詞講義』卷十。
; 〔註八〕 :天兒屋命が我國最高の公的呪術師である事を考へさせる記錄は決して尠く無いが、此の『類聚神祇本源』の記事は最も明確に其れを示してゐる。勿論、僧侶の述作ではあるが、古傳說として見る時は、其處に他の記錄の企て及ばざる物がある。唯本書は一般の日本呪術史では無し、更に日本巫覡史でも無いので、此處には深く其れ等に論及せぬ事とした。
; 〔註九〕 :「正卜考」﹝伴信友全集本﹞。
; 〔註一〇〕 :鄉土研究﹝第四卷第一號﹞にある柳田國男先生﹝誌上には川村杳樹の匿名と成つてゐる。﹞の『一言主考』を指したのである。
; 〔註一一〕 :武田祐吉氏著の『神と神を祭る者との文學』から抄錄した。猶ほ此の機會に於いて、私は此書を読んで種種有益なる高示に接した。謹んで武田氏に敬意を表す。
; 〔註一二〕 :『正卜考』の中に收めた『波波加考』に據る。
; 〔註一三〕 :伴翁は『龜兆傳』は後作であらうとの意を『正卜考』の中で述べてゐる。或は後作であるかも知れぬが、此處には其の詮索は姑らく預り、釋紀の作られた頃には此種の信仰が事實として考へられてゐたのであるとして眺めたのである。


旁証として茲に一二挙げんに、原始神道の立場から云えば、畏くも天照神は日神に奉仕された最高の女性であって、決して日神その者ではなかったのである。それが神道が固定し、古典が整理され、天照神の御神徳が弥が上に向上されて来た結果は、天照神即日神という信仰となってしまったのである。更に豊受神にしたところが、「丹後国風土記」の逸文を徴証として稽えれば、豊受神は穀神に奉仕した女性であって、これも決して穀神その物ではなかったのである。それが伊勢の度会に遷座し、天照神の御饌神として神徳を張るようになったので、遂に豊受神即穀神とまで到達したのである。而して茲に併せ記すことは、頗る比倫を失う嫌いはあるが、古く宮中の酒殿に酒神として祭られた酒見郎子、酒見郎女の二神も、仁徳朝の掌酒であって、酒神その者ではなかったのが、後には酒神の如く信仰されたのは、天照神や豊受神と同じ理由──その間に大小と高下との差違は勿論あるが、兎に角にこうした信仰の推移は宗教心理的にも民族心理的にも、よく発見されることなのである。亀津比女と太詔戸命との関係も又それであって、始めは亀津比女は神を持てる女として太詔戸命に仕えていたのが、後には太詔戸命その者となってしまったのである。こう解釈してこそ両者の関係が会得されるのである。


亀津比女が巫女であった事は、改めて言うまでもないが、ただ問題として残されていることは、亀津比女の名が総てを語っているように、此の巫女は鹿卜が亀卜に変ってから太詔戸命に仕えた者か、それとも鹿卜の太古から仕えたものかと云う点である。巫女が鹿卜に与ったと云うことは、他の文献には見えていぬので、これを考証するに困難を感ずることではあるが、姑らく「亀兆伝」の記すところによれば、前掲の如く『天香山白真名鹿、吾将仕奉。我之肩骨内抜々出、火成卜以問之』とあるので、巫女は鹿卜時代からこれに交渉を有していたものと見て差支ないようである。後世の記録ではあるが、「続日本紀」宝亀三年十二月の壱岐国の卜部氏のことを記せる条に『壱岐郡人直玉主売』とあるのは、女性のように思われるので参考とすべきである。


; 〔註一〕 : 「万葉集」巻十四に「武蔵野に<ruby><rb>占</rb><rp>(</rp><rt>ウラ</rt><rp>)</rp></ruby>へ肩灼き<ruby><rb>真実</rb><rp>(</rp><rt>マサデ</rt><rp>)</rp></ruby>にも、告らぬ君が名<ruby><rb>卜</rb><rp>(</rp><rt>ウラ</rt><rp>)</rp></ruby>に出にけり。」とあり、同巻に「<ruby><rb>大楉</rb><rp>(</rp><rt>オフシモト</rt><rp>)</rp></ruby>この本山の<ruby><rb>真終極</rb><rp>(</rp><rt>マシバ</rt><rp>)</rp></ruby>にも、告らぬ妹が名<ruby><rb>卜兆</rb><rp>(</rp><rt>カタ</rt><rp>)</rp></ruby>に出でむかも」とあり、同巻十五雲連宅満の挽歌の一節にも「壱岐の海人の<ruby><rb>名手</rb><rp>(</rp><rt>ホツテ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>卜筮</rb><rp>(</rp><rt>ウラベ</rt><rp>)</rp></ruby>を、肩灼きて行かむとするに」云々とある。是等は太卜の民間に行われたことを証明しているものである。
; 〔註二〕 :  「本朝月令」に引ける弘仁神祇式に「卜御体、卜庭神祭二座」云々と見え、延喜四時祭式にも「卜御体卜庭神祭二座、御卜始終日祭之」と載せてある。而して此の二神は太詔戸命と櫛真知命であることは、本居翁の「古事記伝」及び伴翁の「卜正考」等に考証されている。
; 〔註三〕 :  私の父は平田翁を崇拝の余り、控え屋敷へ平田翁外二翁を併せ祭った霊三柱神社という大きな社を建てて、朝夕奉仕した。従って神典古史も可なり読んでいて、郡中の神職連などは父の弟子分ともいうほどであった。私も此の父の庭訓で八九歳ごろから祝詞を読ませられたものである。拙著「日本民俗志」に收めた「男がお産の真似をする話」に載せた記事の一半は、私の体験と父の庭訓振りを書いたものである。
; 〔註四〕 : 祝詞考(賀茂真淵全集本)。
; 〔註五〕 : 「大祓後釈」巻下(本居宣長全集本)。
; 〔註六〕 : 「天津祝詞考」及び「古史伝」に拠った。但し行文は専ら鈴木重胤翁の「祝詞講義」に要約したものに従うたのである。
; 〔註七〕 : 鈴木重胤の『延喜式祝詞講義』巻十。
; 〔註八〕 : 天児屋命が我国最高の公的呪術師である事を考えさせる記録は決して尠くないが、此の『類聚神祇本源』の記事は最も明確に其れを示している。勿論、僧侶の述作ではあるが、古伝説として見るときは、そこに他の記録の企て及ばざるものがある。ただ本書は一般の日本呪術史ではなし、更に日本巫覡史でもないので、ここには深くそれ等に論及せぬ事とした。
; 〔註九〕 : 正卜考(伴信友全集本)。
; 〔註一〇〕 : 郷土研究(第四巻第一号)にある柳田国男先生(誌上には川村杳樹の匿名となっている)の「一言主考」を指したのである。
; 〔註一一〕 : 武田祐吉氏著の「神と神を祭る者との文学」から抄録した。猶お此の機会において、私は此の書を読んで種々有益なる高示に接した。謹んで武田氏に敬意を表す。
; 〔註一二〕 : 「正卜考」のうちに収めた「波々加考」に拠る。
; 〔註一三〕 : 伴翁は「亀兆伝」は後作であろうとの意を「正卜考」の中で述べている。或は後作であるかも知れぬが、ここには其の詮索は姑らく預り、釈紀の作られた頃には此種の信仰が事実として考えられていたのであるとして眺めたのである。


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日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第三章 巫女の用いし呪文と呪言

第三節 言霊の神格化と巫女の位置[編集]

我国における一般的の呪術から言うと、太卜フトマニは最も古き方法であって、然も最も重きものである。文献の示すところによれば、諾冊二尊もこれを行い、天照神の磐戸隠れにもこれを行い、天児屋根命が神事の宗源を司るというのも詮ずるに此の事が重大なる務めであった。人の世となり、鹿卜が亀卜と変り、児屋根命が卜部氏となっても、太卜の呪術的重要さは、依然として少しも渝るところがなかった。従って歴聖も大事のある毎にこれを行い、民間でも稀にはこれを行うことすら有った〔一〕。然るにこれほど重要なる太卜の呪術に、巫女が深い関係を有してゐぬのは抑々如何なる理由であろうか。

一、太卜が文献に記されるようになった頃は、覡男の勢力に巫女が圧倒された為めであるか。
二、それとも、太卜というが如き最高の呪術には、当初から巫女は交渉をたぬのであろうか。

これに対する私の答えは、極めて簡単明瞭である。即ち巫女は初め太卜に関係し、然もこれが中心となっていたのであるが、世を代え時を経る内に、神道が固定し、呪術が洗練されて神事となり、覡男が巫女を排斥した結果として、遂にかかる文献を残したに過ぎぬと言うのである。而して私の此の答えは、太卜の主神である卜庭之神ウラニハノカミ──即ち太詔戸命フトノリトノミコトと、これに仕えた巫女の亀津比女命との考覈を試みれば、それで明白になり且つ確実になるものと信じている。

太卜を行うには、卜庭二神の太詔戸命と櫛真知命クシマチノミコトとを祭ることが、儀礼となっていた〔二〕。太詔戸命に就いては「釈日本紀」巻五(述義一)の太卜の条に左の如く載せてある。

太占フトマニ
私記曰。問○何是占哉○答。是卜之謂也。上古之時。未用亀甲。卜以鹿肩骨而用也。謂之フトマニ(中略)○亀兆伝曰。凡述亀誓。皇親神魯岐{○原/註略}神魯美命{○原/註略}荒振神者掃々平。石木草葉断其語。詔群神。吾皇御孫命者。豊葦原水穂国安平知食。天降事寄之時。誰神皇御孫尊朝之御食。夕之御食{○原/註略}長之御食。遠之御食之間{○原/註略}可仕奉。神問々賜之時。径天香山白真名鹿{一説云。白/真男鹿。}吾将仕奉。我之肩骨内抜々出。火成卜以問之。問給之時。已致火為。太詔戸フトノリト命進啓。{又按。持神女住天香山也。亀津比/女命。今称天津詔戸太詔戸命也。}白真鹿者。可知上国之事。何知地下之事。吾者能知上国地下天神地祇。況復人情憤悒。但手足容貌不同群神。故皇御孫命放天石座別八重雲天降坐。立御前下来也云々(国史大系本)。

此の記事を読んで、当然、導出される問題は、(一)太詔戸命とは如何なる神か、(二)太詔戸命と亀津比女との関係を如何に見るか、及び此の両神と太卜との交渉は如何なる物かと云う二点である。私はこれに就いて簡見を述べて見たいと思う。

一 太詔戸命は言霊の神格化

私の父は大へんな平田篤胤翁の崇拝家であっただけに、草深い片田舎の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であった〔三〕。その父が生前に書き残して置いたものの中に「六月晦大祓」の祝詞の一節に『天つ菅麻スガソを、本刈断モトカリタスヱ打切りて、天津祝詞アマツノリト太祝詞事フトノリトコトれ、斯く宣らば天つ神は』云々とある「太祝詞」とは何の事か知るに由がないと云う意味が記してあった。私は深く此の事を記憶していて、爾来、本居・平田両翁の古典の研究を始め、伴信友、橘守部、鈴木重胤等の各先覚の著書を読む折には、必ず特に「太詔詞」の一句に注意を払って来たのであるけれども、私の不敏のためか、今に此の一句の正体を突き留めることが出来ぬのである。それでは、代々の先覚者には、此の事が充分に解釈されていたかと云うに、どうも左様ではなくして、多分こんな事だろう位の推し当ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位のものにしか過ぎぬのである。かく碩学宏聞の大家にあっても、正体を知ることの出来なかった太詔詞の一句、田舎親爺の父などに知れるべき筈のないのは、寧ろ当然と云うべきである。然らば、その太詔詞とは如何なる物であるか、先ず二三の用例を挙げるとする。

太詔詞の初見は「日本書紀」神代巻の一書に『使天児屋命掌其解除之太諄辞フトノリトゴト而宣之。』のそれで、祝詞では前掲の大祓の外にも散見しているが、重なるものを挙げれば「鎮火祭」には二ヶ所あって、前は『天下ヨザし奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん』とあり、後は『和稲荒稲に至るまでに、横山のごと置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、称辞タダヘコトヲ竟へ奉らんと申す』とある。「道饗祭」には『神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉ると申す』とあり、「豊受宮神嘗祭」には『天照し坐す皇大神の大前に申しタテマツる、天津祝詞の太祝詞を、神主部物忌等モロモロ聞しめせと宣る』とあり、これも前に引用した「中臣寿詞」には『この玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照るまで、天津祝詞の太詔詞言フトノリトゴトをもて宣れ』とあり、更に「万葉集」巻十七には『中臣の太祝詞言フトノリトゴトイひ祓ひ、アダふ命も誰がためにナレ』と載せてある。

而して是等の用例に現われたる太詔詞に対する諸先覚の考証を検討せんに、先ず賀茂真淵翁の説を略記すると『或人(中略)、されば茲に天津祝詞とあるは、別に神代より伝われる言あるならん、と云へるはひがことなり』とて〔四〕大祓の外に別に太詔詞あることを云わず、且つ太詔詞そのものに就いては、少しも触れていぬのである。本居宣長翁は『太祝詞事は、即ち大祓に、中臣のノル此詞を指せるなり』として〔五〕、賀茂説を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うていぬ。然るに、平田篤胤翁に至っては、例の翁一流の臆断を以て、異説を試みている。

茲にその梗概を記すと、

太祝詞を天津神国津神の聞食せは、祓戸神等の受納給ひて罪穢を却ひ失ひ給う。斯在ば其太祝詞は別に在けむを、式には載漏されたる事著明し、若し然らずとせば、太祝詞事とは何を宣る事とかせむ。

と言われたまでは卓見であるが、更に一歩をすすめて、太祝詞の正体は、

太詔詞は、皇祖天神の大御口自に御伝へ坐るにて、祓戸神等に祈白す事なるを、神事の多在る中に、禊祓の神事許り重きは無ければ、天津祝詞の中に此太祝詞計り重きは無く、天上にて天児屋命の宣給へる辞も、其なるべく所思ゆ。

とて〔六〕、遂に禊祓を太祝詞と断定したのである。鈴木重胤は平田説に示唆されて一段と発展し、伯家に伝りし大祓式に三種ノ祝詞あるを論拠として、遂に太詔詞は、

吐普加身衣身多女とて、此は占方に用ふる詞なるが、吐普は遠大トホにて天地の底際ソコヒの内を悉く取統て云なり、加身は神にて天上地下に至るまで感通らせる神を申せり、依身は能看エミ、多女は可給タメと云ふ事にて(中略)。簡古にして能く六合を網羅トリスベたる神呪にて、中中に人為の能く及ぶ所にあらざりけり(中略)。此三種ノ祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なるものなり、そは大祓の大祝詞に用ゐららるに祓給清給の語を添て申すを以てサトる可きなり云々。

と主張している〔七〕。鈴木翁が太詔詞を神呪と見た警眼には服するが、これを吐普加身云々を以て充当しようと企てられたのは、恰も平田翁がこれを皇祖天神の口授とし、禊祓を擬せんとしたのと全く同じことで、共に出典を欠いた臆説と見るべき外はないのである。

然らば太詔詞の正体はと云えば、これは永久に判然せぬものであると答えるのが尤も聡明なようである。恐らく此の神呪はこれを主掌している中臣家の口伝であったに相違ないゆえ、それが忘られた以上は永久に知る事の出来ぬものである。然るに、茲に想い起されることは、「類聚神祇本源」巻十五(此の書に就いては第一篇第二章に略述した)神道玄義篇の左の一節である。

問開天磐戸之時、有呪文歟如何、答呪文非一、秘訓唯多(中略)。又云而布瑠部由良由良止布瑠部文、此外呪文依為秘説不及悉勒、謂天神寿詞天津宮事者、皆天上神呪也。
問何故以解除詞称中臣祓哉、天神太祝詞者、祓之外可有別文歟如何。答以解除詞称中臣祓者、中臣氏行幸毎度奉献御麻之間有中臣祓之号云々。此外猶在秘説歟、凡謂濫觴、天児屋命{○原/註略}掌神事之宗源云々。奉天神寿詞、天村雲命者{○原/註略}捧賢蒼懸木綿、抽精誠祈志地、就中天孫御降臨之時、天祖太神授秘呪於天児屋命、天児屋命貽神術於奉仕累葉(中略)。次座面受秘訓莫伝外人、由縁異他相承厳明也、復次天祝太祝詞、是又有多説、此故聖徳太子奉詔撰定伊弉諾尊小戸橘之檍原解除、天児屋命解素戔鳴悪事神呪、皇孫尊降臨霊驛呪文、倭姫皇女下樋小河大祓、彼此明々也、共可以尋歟(続々群書類従「神祇部」本)。
アイヌの巫女(ツスを行う扮裝)

此の記事に拠れば、太詔詞は全くの呪文であって、然もその呪文の幾種類かが悉く太詔詞の名によって伝えられている事が知られるのである。勿論、私とても僧侶の手によって著作された此の種の文献を、決して無条件で受容れる者ではないが、兎に角に祝詞の本質が古く呪文であったこと、及び此の書の作られた南北朝頃には、まだ太詔詞なるものが存していたことなどを知るには、極めて重要なる暗示を与えるものと考えたので、かくは長々と引用した次第なのである。殊に注意しなければならぬことは、此の記事によれば、天児屋命は純然たる公的呪術師であって〔八〕、神事の宗源とは即ち呪術であることが明確に認識される点である。まだ太詔詞に就いては、記したいことが相当に残っているのであるが、それでは余りに本書の疇外に出るので省略し、更に太詔戸命の正体に就いて筆路をすすめるとする。

伴信友翁は『太詔戸命と申すは、児屋命を称へたる一名なるべし(中略)。名に負ふ中臣の祖神に坐し、はた卜事行ふにも、神に向ひて、其の占問ふ状を祝詞する例なるにあはせて、卜庭に祭る時は、太詔戸命と称へ申せるにぞあるべき。』と考証されているが〔九〕、私に言わせると、是れは伴翁の千慮の一失であって、太詔戸命とは即ち太詔詞の言霊を神格したものと信じたいのである。畏友武田祐吉氏の研究によれば、

言霊信仰は、おのずから言語を人格神としてとり扱うに至るべきことを想像せしめる。その例として、辞代主神、一言主神の如き、言霊神ではないかと思われる。辞代主のしばしば託宣するは史伝に見ゆるところであり、一言主も亦『郷土研究』によれば〔一〇〕、よく託宣したことが見えている。善言も一言、まが言も一言と神徳を伝えたその神が、言霊の神であるべきことは想像せられ易い。

とあるのは至言であって〔一一〕、私は是等の辞代主、一言主に、更に太詔戸命を加えたいと思うのである。伴翁は太詔戸命と共に卜庭の神である櫛真知命は波々加ノ木の神格化であるとまで論究されていながら〔一二〕、何故に太詔戸命の太祝詞の神格化に言及せられなかったのであるか、私にはそれが合点されぬのである。所謂、智者の一失とは此の事であろう。前に引いた「亀兆伝」の太詔戸命の細註にも『持神女、住天香山也、亀津比女命、今称天津詔戸太詔戸命也。』となりと明記し、児屋命と別神である事を立証している〔一三〕。太詔戸命は言霊の神格化として考うべきである。

二 太詔戸命と亀津比女命との関係

亀津比女命なる神名は、独り「亀兆伝」の細註に現れただけで、その他の神典古史には全く見えぬ神なるゆゑ、その正体を突きとめるに誠に手掛りが尠いのであるが、此の細註に神を持つ女、天ノ香山に住む、亀津比女命、今は太詔戸命と称するとある意味は、既に言霊の太詔詞が神格化されて太詔戸命となり、これに奉仕していた巫女を亀津比女命と称したのが、更に附会混糅されて亀津比女命は即ち太詔戸命であると考えられるようになったものと信ずるのである。而て斯かる例証は原始神道の信仰においては屡々逢着するところであって、少しも不思議とするに足らぬのである。

旁証として茲に一二挙げんに、原始神道の立場から云えば、畏くも天照神は日神に奉仕された最高の女性であって、決して日神その者ではなかったのである。それが神道が固定し、古典が整理され、天照神の御神徳が弥が上に向上されて来た結果は、天照神即日神という信仰となってしまったのである。更に豊受神にしたところが、「丹後国風土記」の逸文を徴証として稽えれば、豊受神は穀神に奉仕した女性であって、これも決して穀神その物ではなかったのである。それが伊勢の度会に遷座し、天照神の御饌神として神徳を張るようになったので、遂に豊受神即穀神とまで到達したのである。而して茲に併せ記すことは、頗る比倫を失う嫌いはあるが、古く宮中の酒殿に酒神として祭られた酒見郎子、酒見郎女の二神も、仁徳朝の掌酒であって、酒神その者ではなかったのが、後には酒神の如く信仰されたのは、天照神や豊受神と同じ理由──その間に大小と高下との差違は勿論あるが、兎に角にこうした信仰の推移は宗教心理的にも民族心理的にも、よく発見されることなのである。亀津比女と太詔戸命との関係も又それであって、始めは亀津比女は神を持てる女として太詔戸命に仕えていたのが、後には太詔戸命その者となってしまったのである。こう解釈してこそ両者の関係が会得されるのである。

亀津比女が巫女であった事は、改めて言うまでもないが、ただ問題として残されていることは、亀津比女の名が総てを語っているように、此の巫女は鹿卜が亀卜に変ってから太詔戸命に仕えた者か、それとも鹿卜の太古から仕えたものかと云う点である。巫女が鹿卜に与ったと云うことは、他の文献には見えていぬので、これを考証するに困難を感ずることではあるが、姑らく「亀兆伝」の記すところによれば、前掲の如く『天香山白真名鹿、吾将仕奉。我之肩骨内抜々出、火成卜以問之』とあるので、巫女は鹿卜時代からこれに交渉を有していたものと見て差支ないようである。後世の記録ではあるが、「続日本紀」宝亀三年十二月の壱岐国の卜部氏のことを記せる条に『壱岐郡人直玉主売』とあるのは、女性のように思われるので参考とすべきである。

〔註一〕
「万葉集」巻十四に「武蔵野にウラへ肩灼き真実マサデにも、告らぬ君が名ウラに出にけり。」とあり、同巻に「大楉オフシモトこの本山の真終極マシバにも、告らぬ妹が名卜兆カタに出でむかも」とあり、同巻十五雲連宅満の挽歌の一節にも「壱岐の海人の名手ホツテ卜筮ウラベを、肩灼きて行かむとするに」云々とある。是等は太卜の民間に行われたことを証明しているものである。
〔註二〕
「本朝月令」に引ける弘仁神祇式に「卜御体、卜庭神祭二座」云々と見え、延喜四時祭式にも「卜御体卜庭神祭二座、御卜始終日祭之」と載せてある。而して此の二神は太詔戸命と櫛真知命であることは、本居翁の「古事記伝」及び伴翁の「卜正考」等に考証されている。
〔註三〕
私の父は平田翁を崇拝の余り、控え屋敷へ平田翁外二翁を併せ祭った霊三柱神社という大きな社を建てて、朝夕奉仕した。従って神典古史も可なり読んでいて、郡中の神職連などは父の弟子分ともいうほどであった。私も此の父の庭訓で八九歳ごろから祝詞を読ませられたものである。拙著「日本民俗志」に收めた「男がお産の真似をする話」に載せた記事の一半は、私の体験と父の庭訓振りを書いたものである。
〔註四〕
祝詞考(賀茂真淵全集本)。
〔註五〕
「大祓後釈」巻下(本居宣長全集本)。
〔註六〕
「天津祝詞考」及び「古史伝」に拠った。但し行文は専ら鈴木重胤翁の「祝詞講義」に要約したものに従うたのである。
〔註七〕
鈴木重胤の『延喜式祝詞講義』巻十。
〔註八〕
天児屋命が我国最高の公的呪術師である事を考えさせる記録は決して尠くないが、此の『類聚神祇本源』の記事は最も明確に其れを示している。勿論、僧侶の述作ではあるが、古伝説として見るときは、そこに他の記録の企て及ばざるものがある。ただ本書は一般の日本呪術史ではなし、更に日本巫覡史でもないので、ここには深くそれ等に論及せぬ事とした。
〔註九〕
正卜考(伴信友全集本)。
〔註一〇〕
郷土研究(第四巻第一号)にある柳田国男先生(誌上には川村杳樹の匿名となっている)の「一言主考」を指したのである。
〔註一一〕
武田祐吉氏著の「神と神を祭る者との文学」から抄録した。猶お此の機会において、私は此の書を読んで種々有益なる高示に接した。謹んで武田氏に敬意を表す。
〔註一二〕
「正卜考」のうちに収めた「波々加考」に拠る。
〔註一三〕
伴翁は「亀兆伝」は後作であろうとの意を「正卜考」の中で述べている。或は後作であるかも知れぬが、ここには其の詮索は姑らく預り、釈紀の作られた頃には此種の信仰が事実として考えられていたのであるとして眺めたのである。