「日本巫女史/総論/第三章」の版間の差分
(「其史料」は、あえて「其の史料」に直しています。) |
編集の要約なし |
||
35行目: | 35行目: | ||
室町期の三百年間は、歴史的には闇黒時代であり、民衆には煉獄時代であった。幕府の威信が地に墜ち、海内は挙げて戦乱の巷と化し、群雄は各地に割拠し、山海の賊盗が出没するというのであるから、民衆にとっては、此の上のない受難時代であり、且つ苦患時代でもあった。然るに、迷信は失望の時代に猖んになり、空想は失望の時に羽を広げるとあるように、此の時代に処した民衆は、驚くほど迷信的であり、空想的であった。我国の迷信は、全く此の室町期において集大成されたのである。換言すれば、室町期は、我国の迷信黄金時代とも云えるのである。従って、迷信を生命とした巫覡の徒が、跋扈し、跳梁したのも、当然の帰結であった。 | 室町期の三百年間は、歴史的には闇黒時代であり、民衆には煉獄時代であった。幕府の威信が地に墜ち、海内は挙げて戦乱の巷と化し、群雄は各地に割拠し、山海の賊盗が出没するというのであるから、民衆にとっては、此の上のない受難時代であり、且つ苦患時代でもあった。然るに、迷信は失望の時代に猖んになり、空想は失望の時に羽を広げるとあるように、此の時代に処した民衆は、驚くほど迷信的であり、空想的であった。我国の迷信は、全く此の室町期において集大成されたのである。換言すれば、室町期は、我国の迷信黄金時代とも云えるのである。従って、迷信を生命とした巫覡の徒が、跋扈し、跳梁したのも、当然の帰結であった。 | ||
巫覡の猖獗は甚だしきものがあったが、これ等の生活なり、巫術なりに関して、記録したものは、前期に比して、更に尠いことを、嘆ぜずにはいられぬのである。由来、室町期は、総ての歴史を通じて、殊に文献も記録も欠乏している時代である。馬蹄の響きに、吚唔の声は打ち消され、戦乱の為めに古き図書は失われ、その反対に新しき図書は出でず、文字を解する者は僅に特権階級であった僧侶に限られるという有様であった。然るに、此の文教を握っていた五山の僧徒が、漸く文学を振興したので、当時の有閑階級で、且つ有識階級であった公卿を刺激し、これら堂上の縉紳をして、国学の訓詁注釈に著手させるに至った。 | |||
就中、一条兼良は稀に見る篤学者で、源氏物語に就いては、花鳥余情、千鳥抄、源語秘訣、源氏物語年立、源氏和秘抄など、極めて多くの研究を残し、更に、日本紀纂疏、伊勢物語愚見抄、歌林良材集等の著述をなし、当代の和学は殆ど兼良一人——又は兼良一家において総合されたかの観がある。後世、村田春海が和学の復興発達は一条兼良に始まるとして、その業績を称えたのも、決して過褒ではないと考える。而して兼良によって投じられた一石は、国学の研究に大なる波紋を生じ、堂上家にあっては、飛鳥井雅親、三条西実隆等の好学者を出し、武家にあっては、今川了俊、東常縁、降っては細川幽斎の如き考覈者を出し、更に僧侶系の文学者としては、正徹、心敬、世阿弥、宗祇、松永貞徳等の研究者を見るに至った。 | 就中、一条兼良は稀に見る篤学者で、源氏物語に就いては、花鳥余情、千鳥抄、源語秘訣、源氏物語年立、源氏和秘抄など、極めて多くの研究を残し、更に、日本紀纂疏、伊勢物語愚見抄、歌林良材集等の著述をなし、当代の和学は殆ど兼良一人——又は兼良一家において総合されたかの観がある。後世、村田春海が和学の復興発達は一条兼良に始まるとして、その業績を称えたのも、決して過褒ではないと考える。而して兼良によって投じられた一石は、国学の研究に大なる波紋を生じ、堂上家にあっては、飛鳥井雅親、三条西実隆等の好学者を出し、武家にあっては、今川了俊、東常縁、降っては細川幽斎の如き考覈者を出し、更に僧侶系の文学者としては、正徹、心敬、世阿弥、宗祇、松永貞徳等の研究者を見るに至った。 | ||
41行目: | 41行目: | ||
こうした国学の復興的発達は、神道の方面にも、影響せずには置かなかった。そして、それを第一に受けたのは伊勢神道であった。伊勢神道とは、言うまでもなく、外宮神官の間に発生した特種の神道説であって、その思想は内外両宮を中心として発展して来たのであるが、就中外宮の祭神である豊受大神の位置を決定して、外宮の根柢を確立せんことを一つの目的としたものである。少くも、伊勢神道初期の経典であって、長く此の神道を支配した五部書(一天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記、二伊勢皇太神宮御鎮座伝記、三豊受皇太神宮御鎮座本紀、四造伊勢二所太神宮宝基本紀、五倭姫命世記)は、明かに、此の目的の下に、擬作されたものと見られるのである。 | こうした国学の復興的発達は、神道の方面にも、影響せずには置かなかった。そして、それを第一に受けたのは伊勢神道であった。伊勢神道とは、言うまでもなく、外宮神官の間に発生した特種の神道説であって、その思想は内外両宮を中心として発展して来たのであるが、就中外宮の祭神である豊受大神の位置を決定して、外宮の根柢を確立せんことを一つの目的としたものである。少くも、伊勢神道初期の経典であって、長く此の神道を支配した五部書(一天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記、二伊勢皇太神宮御鎮座伝記、三豊受皇太神宮御鎮座本紀、四造伊勢二所太神宮宝基本紀、五倭姫命世記)は、明かに、此の目的の下に、擬作されたものと見られるのである。 | ||
由来、伊勢神道は、南北朝の交に度会家行が出でて、類聚神祇本源(序に元応二年とある)十五篇を著わして、これを大成した。同書の第十二は、神宣篇であって、その内容は、神々の託宣を以て満たされているのであるが、例の或種の目的の下に記されたものだけあって、徒らに、牽強附会にあらざれば、奇怪雑駁の文字を陳ねただけである。従って、我国の神道の本義に触れることは極めて尠く、その神宜篇においても、巫女の神道史上における地位の如きは、全く見ることが出来ぬのである。而して、家行には、此の外に「瑚璉集」「神道簡要」「神祇秘抄」等の著述があるが、咸な伊勢神道の衒学にあらざれば、彼れ特自の捏造哲学の愚劣なるものに過ぎぬ。されば、此の流れを汲める伊勢神道の人々は、室町期において二三の文献を残しているが、悉く大同小異のものであって、巫女等に就いては遂に何らの記すところもないのである。 | |||
伊勢神道と同じような影響を受けたのは、吉田神道(卜部神道とも、唯一神道とも、更に元本宗源神道ともいう)である。此の神道で、一派の組織をなしたのは、室町期の中葉から末葉にかけ、即ち吉田兼倶にあると伝えられている。元来、此の吉田家は、長く神祇官に勢力を有し、又古典研究の伝統を持つ家柄であって、既に兼倶以前においても多くの好学者が此の一家から現われている。「徒然草」の作者である兼好法師の如きも、此の家の血筋に繋がる者である。殊に、卜部懐賢の「釈日本紀」は、中世における日本書紀研究の上に、一つの時期を劃すべき文献であるとまで言われている。こうした家の学問は、兼倶を出すに及んで、漸次に古典研究の風を移して、時代に一派の神道説を唱えるように導かれて来た。そして伊勢神道の故智を学んで、遂に吉田神道を建設するに至ったのである。而して厳格なる考察によれば、吉田神道は、伊勢神道の影響を、思想の上においても、教義の点に就いても、かなり濃厚に受け容れているのである。換言すれば、吉田神道の完成は、伊勢神道の影響を離れては、考えることが出来ぬのである。そして、それは吉田家の出であって、外宮の神官——即ち伊勢神道の祖述者となった度会常昌と親交のあった僧慈遍(天台宗の学僧)が楔子となっていたことを発見するのである。 | 伊勢神道と同じような影響を受けたのは、吉田神道(卜部神道とも、唯一神道とも、更に元本宗源神道ともいう)である。此の神道で、一派の組織をなしたのは、室町期の中葉から末葉にかけ、即ち吉田兼倶にあると伝えられている。元来、此の吉田家は、長く神祇官に勢力を有し、又古典研究の伝統を持つ家柄であって、既に兼倶以前においても多くの好学者が此の一家から現われている。「徒然草」の作者である兼好法師の如きも、此の家の血筋に繋がる者である。殊に、卜部懐賢の「釈日本紀」は、中世における日本書紀研究の上に、一つの時期を劃すべき文献であるとまで言われている。こうした家の学問は、兼倶を出すに及んで、漸次に古典研究の風を移して、時代に一派の神道説を唱えるように導かれて来た。そして伊勢神道の故智を学んで、遂に吉田神道を建設するに至ったのである。而して厳格なる考察によれば、吉田神道は、伊勢神道の影響を、思想の上においても、教義の点に就いても、かなり濃厚に受け容れているのである。換言すれば、吉田神道の完成は、伊勢神道の影響を離れては、考えることが出来ぬのである。そして、それは吉田家の出であって、外宮の神官——即ち伊勢神道の祖述者となった度会常昌と親交のあった僧慈遍(天台宗の学僧)が楔子となっていたことを発見するのである。 | ||
僧慈遍の神道史学における位置は、彼の自伝によるも、『抑慈遍、聊神道に赴き、殊に霊験を憑み奉る起りは、去る元徳の年、夢の中に神勅を承るに依て、先神懐論三巻を選み、仏神の冥顯を理り、真佶の興廃を明らむ』に発し、後醍醐帝の上覧に備えるために、旧事本紀玄義(十巻)、大宗秘府(六巻)、神祇玄用図(三巻)、神皇略文図(一巻)、古語類要集(五十巻)を著し、別に『国母の詔を承けて』豊葦原神風和記(三巻)を作っている。此のうちで、私の見たものは、旧事本紀玄義(続々群書類従神祇部所収)と、豊葦原神風和記(同上)の二部だけであるが、併し是等の書籍によって知り得た慈遍の神道観は、全く伊勢神道そのままとも言うべきもので、殊に旧事本紀玄義のうちには、伊勢神道の経典である五部書を始め、神皇実録、神皇系図、天口事書等を盛んに引用して自説を立てている。試みに巫女に関係ある託宣を記した「尊神霊験事」と題せる条(豊葦原神風和記巻中所載)を見ても、五部書中の宝基本紀の一節を丸どりにして、これの終りに自説を添加したまでである。而して伊勢神道の教義が、僧慈遍の手によって、吉田神道に移されてから、約百三十年を経て、吉田神道を大成した兼倶の全盛時代が開けたのである。 | |||
吉田神道の特色は、その教義よりは、寧ろ祭祀の儀礼に関する事相方面に存するのである。吉田神道の最高の経典として、伊勢神道の「類聚神祇本源」に比敵すべき「唯一神道名法要集」の著者は、今に何人であるか判然せぬけれども、私は恐らく兼倶が万寿元年吉田兼延に仮託して偽作したものだと考えている。而して更に兼倶の著として疑いなき「神道大意」(神道叢説所収本)に現われたる巫女関係の託神を解して『神に三種の位あり、一には元神、二には託神、三には鬼神なり』とあるのは、僧慈遍の「尊神霊験事」の条に『凡そ冥衆に於て大に三の道あり、一には法性神、謂る法身如来と同体、今の宗廟の内証是也(中略)。二には有覚の神、謂る諸の権現にて、仏菩薩の本を隠して万の神とあらはれ玉ふ是也。三には実迷神の神、謂る一切の邪神の習として、真の益なく愚なる物を悩し、偽れる託宣のみ多き類是也』云々とあるのを、換骨して記述したまでに過ぎぬのである。従って、巫覡に関する史学的の記載を是等の文献より発見することは極めて困難であるが、吉田家は永く神祇伯家の神長官として、後世に至るまで巫覡の徒を監督して、平田篤胤翁の所謂「鈴ふり神道」の総本家であったのである。 | 吉田神道の特色は、その教義よりは、寧ろ祭祀の儀礼に関する事相方面に存するのである。吉田神道の最高の経典として、伊勢神道の「類聚神祇本源」に比敵すべき「唯一神道名法要集」の著者は、今に何人であるか判然せぬけれども、私は恐らく兼倶が万寿元年吉田兼延に仮託して偽作したものだと考えている。而して更に兼倶の著として疑いなき「神道大意」(神道叢説所収本)に現われたる巫女関係の託神を解して『神に三種の位あり、一には元神、二には託神、三には鬼神なり』とあるのは、僧慈遍の「尊神霊験事」の条に『凡そ冥衆に於て大に三の道あり、一には法性神、謂る法身如来と同体、今の宗廟の内証是也(中略)。二には有覚の神、謂る諸の権現にて、仏菩薩の本を隠して万の神とあらはれ玉ふ是也。三には実迷神の神、謂る一切の邪神の習として、真の益なく愚なる物を悩し、偽れる託宣のみ多き類是也』云々とあるのを、換骨して記述したまでに過ぎぬのである。従って、巫覡に関する史学的の記載を是等の文献より発見することは極めて困難であるが、吉田家は永く神祇伯家の神長官として、後世に至るまで巫覡の徒を監督して、平田篤胤翁の所謂「鈴ふり神道」の総本家であったのである。 |
2009年8月17日 (月) 07:27時点における版
第三章 日本巫女史学の沿革と其の史料
記・紀の神代巻には、巫女の熟語は見当らぬ。それでは、我国の神代には巫女は無かったかというに、これは決してそうではない。巫女という熟語こそ見当らぬが、実質的に巫女であった神々、及びその神々が行うた呪術なるものは、立派に存在している。殊に記・紀に比較すると、記述した年代も降り、且つ官撰ではないけれども、「古語拾遺」に神代の事を記した条に「片巫、肱巫」の二種の巫女の名が挙げてあるところから推すと、巫女が神代から在ったことは明白である。然らば、これ等の巫女、又は巫女の呪術、及び巫女の生活等に関する研究は、記・紀または古語拾遺等の研究と共に、相当、先覚の間に尽されているべき筈であるのに、事実はこれに反して、一向に纏ったものが残されていぬのである。
勿論、巫女の語義とか、呪術の意味とか、又は巫女と呪術との関係とかいう、断片的の研究は相応に試みられているが、系統を立て、年代を追うて研究したものは、全く寡見に入らぬのである。果して然らば、巫女史学の考察が、何が故に斯く先覚の間に閑却されていたかというに、これには又相当の理由が在ったのである。而して、その第一の理由は、巫女によって祖述され、発達した、神道に対する解釈の変更と、第二は、神道の仏教化、及び儒教化の結果として、全く巫女を神道の圏外に放逐した為めである。第三の理由としては、出自の高かった巫女達が、信仰の推移と社会感情の消長とにつれて、段々と自身達が堕落して来たことと、これに伴うて巫女の呪術が、詐謀に悪用されるようになり、遂に代々の官憲から禁止された結果として、宮中または名神・大社に附属した僅少の公的巫女(私の所謂カンナギ系の神子)を除いた、他の多くの私的巫女(私の所謂クチヨセ系の市子)は、社会の落伍者として蔑視され、その職業は卑賤なるものとせられ、延いて一種の特種民として待遇されるようになってしまった。而して巫女の境遇が、かかる低級に置かるるようになってからは、代々の識者は、これが呪術なり、生活なりに就いて、記録することを却って恥辱とするが如き感情を養い、それが為めに、巫女の歴史は、全然黙殺さるる結果となってしまったのである。これが奈良朝の末葉から室町期の初葉までの概観である。
然るに、室町期の中葉から、五山文学の隆昌は、当時の有閑階級で且つ有識階級であった公卿を刺激し、これら堂上の縉紳をして国学の訓詁注釈に著手させるに至った。而して此の影響は、伊勢神道に伝って研究を促進させ、更に吉田神道などにも波及して、これ亦相当の成果を挙げさせ、全く閑却されていた巫女の問題にも、極めて微温的ではあるが触れるようになったのである。
かくて、世態が一転し、徳川氏が起って、天下の政柄を握り、江戸に覇府を開くに至り、泰平の滋雨は忽然として奎運の暢達を来たし、国学の復興と共に、神道の研究も隆んになり、記・紀及び祝詞・風土記・物語等に現われたる神和系の神子の考覈も行われ、此の機運は進んで、口寄系の市子の生活、及び呪術の秘密に興味を持ちし、所謂、好事家とも称すべき者が、断片的にも記録するようになり、而して明治期に入ったのである。私は、此の見地に立ちて我国の巫女史学の沿革を、(一)混沌期、(二)室町期、(三)江戸期、(四)明治期の四期に区別して、やや詳細に述べるとする。
一 混沌期に於ける巫女史学の概観
巫覡の熟語が、我が国史に初めて見えたのは、「推古紀」二年春二月の条であるが、此紀に記された巫覡は、私の所謂口寄系の市子又は男ミコと見るべきものであって、社会的にはかなり堕落もし、且つ軽視されていた者と信ずべき点がある。奈良朝に入っては、巫覡の活躍は相当に見るべきものがあるが、国史に現われたるところは、専らその呪術の悪用の方面のみで、これを律令格を以て禁断し、又は巫覡を遠流した記事が多きを占めている。吉備真備の「私教類聚」と称する遺誡のうち「莫用詐巫事」の一項の如きは、よく当代の巫弊を道破しているものがある。かく奈良朝において、巫覡を禁断したことは、
- 一、当時の社会感情が、巫覡の行うところの呪術に対して、非常なる恐怖を有していたこと。
- 二、当時、隋・唐の文化を旺んに輸入した結果として 支那本土の儒教が極力巫覡の徒を排斥せる風を学び、我国でも努めてこれが剿絶に尽したこと。
- 三、仏教の興隆は、当代早くも、神仏習合の端を発し、やがて将来された本地垂跡説の基をなし、我国の神々は漸く仏教化せんとする思想が上下に瀰漫していたので、仏教の教相の上から、儒教と同じく極力巫覡を排除したこと。
この三点を重なるものとし、更に巫覡の徒に於いては、
- 一、呪術の方法が、我国固有の神意を問うて民人に告ぐるだけの範囲を越え、支那より伝来した巫蠱厭魅の邪道を以て、民心の呪術を恐るる間隙に乗じて、猖んに社会を荼毒したこと。
- 二、当時の巫女には、品性の堕落せる者尠くなく、巫娼として売笑せるもの、又はそれ以上に売笑を職業とする者を出して、社会の軽侮を受けしこと。
- 三、男覡の間にも、無頼の者を出し、自ら社会を狭くしたこと。
こういう事などが、双方から歩み寄って、遂に斯くの如き結果を馴致したのである。
平安期に入ると、巫覡の社会的位置は益々低下して、大同二年九月の「太政官符」の一節にある如き『巫覡之徒、好託禍福、庶民之愚、仰信妖言、淫祠斯繁、厭呪亦多、積習成俗、虧損淳風』の実状を呈し、更に、我国最初の
二 室町期に於ける巫女史学の概観
室町期の三百年間は、歴史的には闇黒時代であり、民衆には煉獄時代であった。幕府の威信が地に墜ち、海内は挙げて戦乱の巷と化し、群雄は各地に割拠し、山海の賊盗が出没するというのであるから、民衆にとっては、此の上のない受難時代であり、且つ苦患時代でもあった。然るに、迷信は失望の時代に猖んになり、空想は失望の時に羽を広げるとあるように、此の時代に処した民衆は、驚くほど迷信的であり、空想的であった。我国の迷信は、全く此の室町期において集大成されたのである。換言すれば、室町期は、我国の迷信黄金時代とも云えるのである。従って、迷信を生命とした巫覡の徒が、跋扈し、跳梁したのも、当然の帰結であった。
巫覡の猖獗は甚だしきものがあったが、これ等の生活なり、巫術なりに関して、記録したものは、前期に比して、更に尠いことを、嘆ぜずにはいられぬのである。由来、室町期は、総ての歴史を通じて、殊に文献も記録も欠乏している時代である。馬蹄の響きに、吚唔の声は打ち消され、戦乱の為めに古き図書は失われ、その反対に新しき図書は出でず、文字を解する者は僅に特権階級であった僧侶に限られるという有様であった。然るに、此の文教を握っていた五山の僧徒が、漸く文学を振興したので、当時の有閑階級で、且つ有識階級であった公卿を刺激し、これら堂上の縉紳をして、国学の訓詁注釈に著手させるに至った。
就中、一条兼良は稀に見る篤学者で、源氏物語に就いては、花鳥余情、千鳥抄、源語秘訣、源氏物語年立、源氏和秘抄など、極めて多くの研究を残し、更に、日本紀纂疏、伊勢物語愚見抄、歌林良材集等の著述をなし、当代の和学は殆ど兼良一人——又は兼良一家において総合されたかの観がある。後世、村田春海が和学の復興発達は一条兼良に始まるとして、その業績を称えたのも、決して過褒ではないと考える。而して兼良によって投じられた一石は、国学の研究に大なる波紋を生じ、堂上家にあっては、飛鳥井雅親、三条西実隆等の好学者を出し、武家にあっては、今川了俊、東常縁、降っては細川幽斎の如き考覈者を出し、更に僧侶系の文学者としては、正徹、心敬、世阿弥、宗祇、松永貞徳等の研究者を見るに至った。
こうした国学の復興的発達は、神道の方面にも、影響せずには置かなかった。そして、それを第一に受けたのは伊勢神道であった。伊勢神道とは、言うまでもなく、外宮神官の間に発生した特種の神道説であって、その思想は内外両宮を中心として発展して来たのであるが、就中外宮の祭神である豊受大神の位置を決定して、外宮の根柢を確立せんことを一つの目的としたものである。少くも、伊勢神道初期の経典であって、長く此の神道を支配した五部書(一天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記、二伊勢皇太神宮御鎮座伝記、三豊受皇太神宮御鎮座本紀、四造伊勢二所太神宮宝基本紀、五倭姫命世記)は、明かに、此の目的の下に、擬作されたものと見られるのである。
由来、伊勢神道は、南北朝の交に度会家行が出でて、類聚神祇本源(序に元応二年とある)十五篇を著わして、これを大成した。同書の第十二は、神宣篇であって、その内容は、神々の託宣を以て満たされているのであるが、例の或種の目的の下に記されたものだけあって、徒らに、牽強附会にあらざれば、奇怪雑駁の文字を陳ねただけである。従って、我国の神道の本義に触れることは極めて尠く、その神宜篇においても、巫女の神道史上における地位の如きは、全く見ることが出来ぬのである。而して、家行には、此の外に「瑚璉集」「神道簡要」「神祇秘抄」等の著述があるが、咸な伊勢神道の衒学にあらざれば、彼れ特自の捏造哲学の愚劣なるものに過ぎぬ。されば、此の流れを汲める伊勢神道の人々は、室町期において二三の文献を残しているが、悉く大同小異のものであって、巫女等に就いては遂に何らの記すところもないのである。
伊勢神道と同じような影響を受けたのは、吉田神道(卜部神道とも、唯一神道とも、更に元本宗源神道ともいう)である。此の神道で、一派の組織をなしたのは、室町期の中葉から末葉にかけ、即ち吉田兼倶にあると伝えられている。元来、此の吉田家は、長く神祇官に勢力を有し、又古典研究の伝統を持つ家柄であって、既に兼倶以前においても多くの好学者が此の一家から現われている。「徒然草」の作者である兼好法師の如きも、此の家の血筋に繋がる者である。殊に、卜部懐賢の「釈日本紀」は、中世における日本書紀研究の上に、一つの時期を劃すべき文献であるとまで言われている。こうした家の学問は、兼倶を出すに及んで、漸次に古典研究の風を移して、時代に一派の神道説を唱えるように導かれて来た。そして伊勢神道の故智を学んで、遂に吉田神道を建設するに至ったのである。而して厳格なる考察によれば、吉田神道は、伊勢神道の影響を、思想の上においても、教義の点に就いても、かなり濃厚に受け容れているのである。換言すれば、吉田神道の完成は、伊勢神道の影響を離れては、考えることが出来ぬのである。そして、それは吉田家の出であって、外宮の神官——即ち伊勢神道の祖述者となった度会常昌と親交のあった僧慈遍(天台宗の学僧)が楔子となっていたことを発見するのである。
僧慈遍の神道史学における位置は、彼の自伝によるも、『抑慈遍、聊神道に赴き、殊に霊験を憑み奉る起りは、去る元徳の年、夢の中に神勅を承るに依て、先神懐論三巻を選み、仏神の冥顯を理り、真佶の興廃を明らむ』に発し、後醍醐帝の上覧に備えるために、旧事本紀玄義(十巻)、大宗秘府(六巻)、神祇玄用図(三巻)、神皇略文図(一巻)、古語類要集(五十巻)を著し、別に『国母の詔を承けて』豊葦原神風和記(三巻)を作っている。此のうちで、私の見たものは、旧事本紀玄義(続々群書類従神祇部所収)と、豊葦原神風和記(同上)の二部だけであるが、併し是等の書籍によって知り得た慈遍の神道観は、全く伊勢神道そのままとも言うべきもので、殊に旧事本紀玄義のうちには、伊勢神道の経典である五部書を始め、神皇実録、神皇系図、天口事書等を盛んに引用して自説を立てている。試みに巫女に関係ある託宣を記した「尊神霊験事」と題せる条(豊葦原神風和記巻中所載)を見ても、五部書中の宝基本紀の一節を丸どりにして、これの終りに自説を添加したまでである。而して伊勢神道の教義が、僧慈遍の手によって、吉田神道に移されてから、約百三十年を経て、吉田神道を大成した兼倶の全盛時代が開けたのである。
吉田神道の特色は、その教義よりは、寧ろ祭祀の儀礼に関する事相方面に存するのである。吉田神道の最高の経典として、伊勢神道の「類聚神祇本源」に比敵すべき「唯一神道名法要集」の著者は、今に何人であるか判然せぬけれども、私は恐らく兼倶が万寿元年吉田兼延に仮託して偽作したものだと考えている。而して更に兼倶の著として疑いなき「神道大意」(神道叢説所収本)に現われたる巫女関係の託神を解して『神に三種の位あり、一には元神、二には託神、三には鬼神なり』とあるのは、僧慈遍の「尊神霊験事」の条に『凡そ冥衆に於て大に三の道あり、一には法性神、謂る法身如来と同体、今の宗廟の内証是也(中略)。二には有覚の神、謂る諸の権現にて、仏菩薩の本を隠して万の神とあらはれ玉ふ是也。三には実迷神の神、謂る一切の邪神の習として、真の益なく愚なる物を悩し、偽れる託宣のみ多き類是也』云々とあるのを、換骨して記述したまでに過ぎぬのである。従って、巫覡に関する史学的の記載を是等の文献より発見することは極めて困難であるが、吉田家は永く神祇伯家の神長官として、後世に至るまで巫覡の徒を監督して、平田篤胤翁の所謂「鈴ふり神道」の総本家であったのである。
室町期に非常の発達をした修験道も、巫覡に似た「
三 江戸期に於ける巫女史学の概観
下川辺長流、僧契沖によって提唱された国学の研究は、江戸期の昌平に促進されて、大きな力となって、上下に迎えられた。更にこれより曩き、林道春が、その師藤原惺窩の廃仏思想を承けて「本朝神社考」を著し、神儒合一の説を唱えたが、此の学風も、同じ流れに滙合され、一種の機運となって、社会に波及した。而して徳川氏が幕府を開いて六十年、元禄の交において、巫女史学に就いて、有益なる記述を残したのは、名古屋の天野信景である。彼はその著「塩尻」において、随筆的な断片ではあるが、学的価値に富んだものを多く伝えた。
然るに、神社神道を種とした荷田春満によって唱えられた国学の復興は、その門から賀茂真淵を出し、更に真淵に贄を執った本居宣長の出ずるに及んで、神社神道は一躍して国体神道となり、その学風を慕いし平田篤胤の現わるるや、一段とその神道振りを発揮するに至った。併しながら、本居翁の神道説は、先ず我国の神々を儒教から引離すことに重きを置いていた。更に平田翁にあっては、第一には、我国の神々を仏教から(本地垂跡説と山王神道、法華神道なども含めて)解放することであって、「古道大意」や「出定笑話」は、これが為に作られた。大には、我国の古神道を、吉田家の俗神道や、山崎闇斎の神儒同一主義の垂加流の神道から切り放すことで、「伊吹颪」や「俗神道大意」は、此の目的によって著わされたのである。
而して、此の運動は、明治維新によって、その功果を遺憾なく実現したのであるが、本居翁も、平田翁も、此の神神の解放に多忙であったのと、神社神道を国体神道に引き上げるに急であった為めに、原始神道が巫女教から発達したことなどは全く忘れてしまって、却ってその当時の巫覡の徒の卑俗なるを見て、古代の巫女まで攻撃して止まぬという態度で莅んでいた。かかる次第であるから、あれほど古神道の復興を高調した本居翁の「古事記伝」及びその他の著書からも、同じく平田翁の「古史伝」及びその他の著書からも、共に訓詁注釈以外には、巫女史学の材料を発見することが出来ぬのである。平田翁自身は、本居翁の学風を相続したものは自分だけであるように言うているが、平田翁は決して本居翁の継承者ではない。私の父は、極端な平田翁崇拝者であったが、それでも『全体、平田翁はほんとうの学者ではない。政治家の地金へ物識りの鍍金をしたやうな人物である』と評していた。
平田翁に比較すると、伴信友翁は、本居翁の継承者として、敬服すべき立派な学者であった。伴翁の考証は、煩わしき迄に、微に入り、細に渉っているが、何処までも、真理を探究して措かぬ態度には、学者として、欣慕すべき点が多い。従って、その著述の中には、巫女史学に関係したものが多く、殊に「正卜考」や「方術原論」や「鎮魂伝」などは、共に不朽の労作であると同時に、私の巫女史も、これに負うところが尠くないのである。
それから、平田翁の門人であって、同翁に比して一段と神道組織の巨腕を有していた鈴木重胤翁も、相当に巫女史学の資料を残している。その大著である「日本書紀伝」と「祝詞講義」とがそれである。猶お神道関係の文献では、白井宗因の「神社啓蒙」や、鈴鹿連胤の「神社覈録」や、小寺清之の「皇国神職考」などに散見しているが、併し別段に取り立てて言うべき程のものはなく、何れも断片的の記事に過ぎぬものである。
是等の文献に比して、やや体系をつけて、巫女史学的の考察をなしたものは、本居内遠の「賤者考」である。これは現代語で言えば、全く民俗学的に記述されていて、且つ各地の巫覡の生活や、社会的地位などが、かなり克明に書かれている。ただ欠点を言えば、その命題が示している如く、専ら巫覡の徒を社会の落伍者としてのみ取り扱い、彼等が斯かる境遇に堕落した過程に就いては、少しの考察も払われていない点である。併しながら、当代において賤民とまで卑しめられていた巫覡に対して、こうまで詳細なる記述を残してくれたことは、内遠翁が凡庸なる訓詁者流の学究でなかったことを、証拠立てるものとして意義がある。
江戸期に現れた千百も啻ならぬ随筆類には、巫覡に関する記事も決して尠くない。併し是等の多くは、筆者が好奇心を以て、興味半分に書き記しただけであるから、巫女史学の素材にはなるが、その沿革として記すべきほどの価値あるものを発見せぬ。但し、是等のうちにおいて、喜多村信節の「嬉遊笑覧」や、高田与清の「松屋筆記」や、松浦静山の「甲子夜話」などに載せたものは、史料としても、参考としても、共に有益なるものである。
同じ江戸期に編纂された地誌類のうちにも、巫女史学関係の記事は決して尠くないが、これも多くは断片的なもので、纏ったものとしては見当らぬ。その中でも、徳川幕府で纂輯した「新編武蔵風土記稿」や、同じ「新編相模風土記稿」を始めとし、会津藩で編輯した「新編合図風土記」、広島藩の「芸藩通志」、紀州徳川家の「紀伊国続風土記」、尾州徳川家の「張州府志」等を主なるものとして、岡田溪志の「摂陽群談」、阿部正信の「駿国雑誌」、松平定能の「甲斐国志」、中山信名の「新編常陸国志」、寒川辰清の「近江輿地志略」、岡田啓の「新撰美濃志」、富田礼彦の「斐太後風土記」貝原益軒の「筑前続風土記」、島津藩編纂の薩隅日「三国名勝図会」等は、量と質においての相違はあるが、巫女史学の材料を多少とも載せている。更に同期に書かれた諸種の遊覧記の類にも見えているが、是等の書名は余りに煩雑になるので今は省略する。
それから茲に注意すべき巫女史学関係の記録がある。それは柳田国男先生によって発見された「諸国風俗問状答」と称するものである。由来、此の記録は、文政年間に、幕府の儒官であった屋代弘賢が、年中行事及び慶弔婚嫁等の民俗の一々に就き、詳細なる設問をなし、各地の藩主に向って答状を求めたものである。然るに、此の問状に接して答状を発した藩主の少かったものか、現在までに発見されたものは、柳田先生によって、秋田、三州吉田領、丹後中郡、越後長岡領の四答状で、別に柳田先生のお指図によって私が発見したものが大和高取藩、私が単独で偶然の事から発見した若狭、及び備後国浦川村の二答状で、合計七種だけ集め得たのであるが、その他にあっては、有無ともに明白になっていない。私はこれが捜索には多年の間注意して、帝国図書館に「輪池叢書」を検討し、新聞記事によって地方好学のお方の配慮を乞うやら、かなり手を尽しているのであるが、今に是れ以上発見されぬのは誠に遺憾の次第である。若し本書の読者中に此の記録に就き御承知のお方があったら、学問のため切に私まで御通知を願いたい。私は百里も遠しとせず推参して写し取り、そして学界へ発表したいと念じている。これが一面には我が民俗学の利益であり、又一面には先覚の学恩に対する礼儀であると考えている。而して此の問状答の学問的価値の高いことは、各地方の眼前に行われていた事実を、そのまま克明に正確に直写した点にあるので、素材ではあるが、史料としては、書物の孫引や、先輩の受け売りなどとは、比較することの出来ぬほどの尊さが存しているのである。
当代の稗史小説及び歌謡・川柳等にも、巫女関係の史料が多少は存している。稗史としては、山東京伝の「稲妻双紙」、滑稽小説では式亭三馬の「浮世床」、十返舎一九の「東海道膝栗毛」等で、歌謡では「松の葉」に収めてある「晴明祈りの詞」がそれである。浄瑠璃の院本にも一二見えているが、是は左迄に重要なものでないので今は省筆する。
最後に、当代の官憲で取調べた書類、又は巫覡の徒から官憲に書き上げた記録も、少しは残っている。殊に、内閣文庫に一本しか伝わっていぬ「祠曹雑識」には、注意すべき史料が載せてある。
四 明治期に於ける巫女史学の概観
ここに明治期とは、明治につづく大正、及び本書を執筆した現在の昭和四年の上半期までを含めた意味である。明治の維新と共に、奎運遽に長足の進歩をなし、諸般の学問が偉大なる発達を遂げたが、巫覡に関する研究は、余り学者の注意に上らなかった。而してこれの原因は、(一)巫覡の社会的地位が低劣であったので、伝統的に是等の事に筆を執るのを厭うたこと、(二)明治になってから、巫覡の職業を、治安に有害なるものとして厳禁剿絶したので、社会からも忘られ、学者の注意からも逸したこと、(三)巫覡の方でも、明治四年に特種部落が解放されて以来、平民と伍することが出来るようになったので、此の職業を棄てて、他の正業に就くと同時に、曾て自分たちが以前この賤業卑職を営んだことを逃避する態度を執り、努めてそれを隠そうとしたために、材料を得るに困難であったこと、(四)偶々、官憲の眼を忍んで此の業に在りし巫覡は、例の口伝や師承を言い立てて、秘密を守ったので、同じく材料を手に入るるに困難であったことなどを重なる原因とすべきである。
更に、学者側にあっては、(一)当時、此の種の研究を試むべき学風が起らなかったこと、(二)明治も二十年頃までは、欧米の学問を輸入し、咀嚼し、消化するに多忙であった、所謂、翻訳時代であったので、我国の社会制度や、民俗組織を研究する余裕を有していなかった。況して、原始神道とか、巫覡研究とかいう問題に没頭することは、事情が許さなかったのである。それが、明治十九年に、故坪井正五郎氏によって「人類学雑誌」が発行され、次で明治二十六年に土俗学会の集りが催されるようになり、漸次この学風が海内に行き渉る傾向を生じ、引き続いて「風俗志林」「風俗書報」などの雑誌も興り、世人も此の種の問題に注意を払うようになって来たのである。
然るに、明治四十四年九月、柳田国男先生は東京人類学雑誌(第廿巻第六号)に「イタカ及びサンカ」と題せる論文を発表された。これが我国における巫女史学の研究の権輿である。我が柳田先生は、東京帝国大学に於いて、夙に農政経済を専攻されたが、先生の篤学なる、我国の農政に関する多くの書籍及び記録等を読破された結果、更に農村の実際生活にも親しく触れる機会があったので、国法において厳しく制禁されいるにも拘らず、巫覡の潜勢力が根強く農村の間に喰い入っている事を、耳聞目睹せられた為めに、遂に此の論文を発表せらるるに至ったのであろうと思う。
而して更に柳田先生は、大正二年三月に雑誌「郷土研究」を発行され、第一巻第一号より「巫女考」と題せる研究を連載され、これは同巻第十二号にまで及んだ(同誌上には川村杳樹の匿名になっている)。此の「巫女考」は、柳田先生の多年の蘊蓄を傾倒されたものであって、巫女を中心として、或は原始神道の立場から、或は民俗学的の方面から、更に民間信仰の観点から、縦横にこれが考覈を試みられ、而して我が国民史、及び文化史上における、巫女の地位と、使命と、消長とを、明確に論断された。而して柳田先生は更にすすんで、巫女に深甚の関係を有していた「毛坊主」に就いて、同じ「郷土研究」の第二巻において、前後十一回の研究を連載され、猶お此の外に、同誌において巫覡関係の論文として幾多の有益なる研究を発表されているが、就中、一言主考(第四巻第一号)、和泉式部(同上四号)、老女化石譚(同上五六両号連載)、玉依姫考(同上一二号)等は、悉く前人未発の卓説であって、巫女研究のエポックメーキングとして、永久に我国の巫女史学の権威たるを失わぬのである。私の此の日本巫女史の如きも、専ら柳田先生の研究に刺激され啓発されたもので、平たく言えば、先生の研究が余りに高速であり、且つ論旨が余りに深長であるので、それを平易に祖述したに外ならぬのである。
柳田先生によって提唱された巫女の研究、及び巫女と同じ運命に置かれた特種階級の賤民の考覈は、深く学界の注意を惹起し、大正八年一月に喜田貞吉氏が「民族と歴史」(後に社会史研究と改題す)を発行して、更に此の種の研究を鼓吹し、殊に巫覡関係の論文にあっては「憑物研究号」(第八巻第一号)を始めとして、有益なる多くの研究や史料が掲載されている。而して此の種の研究は、大正八九年頃より昭和の現時に至るに及んで、益々その程度を深め、遂に一種の学風をなして天下を風靡し、好学の士を起たして、此の種の単行本や雑誌が到るところで刊行されるまでの機運を作るに至った。先ず単行本としては柳田先生の「石神問答」、郷土研究社の「炉辺叢書」及び「第二叢書」、温故書房の「閑話叢書」及び「共古随筆」、総葉社の「日本民俗志」、甲陽堂の「民俗叢書」等を重なるものとして、故山路愛山氏の「神道論」(愛山講演集第二篇所収)、鳥居龍蔵氏の「日本周囲民俗の原始宗教」及び「人類学上より観たる我が上代の文化」など、到底ここには書名だけでも記せぬほどの刊行を見るに至った。而して直接巫女史学には関係せざるも、又以てこれが参考とすべきものには、津田左右吉氏の「古事記及び日本書紀の新研究」及び「神代史の研究」折口信夫氏の「日本文学の発生」(日本文学講座所載、及び「古代研究」所収)、土居光知氏の「文学序説」、武田祐吉氏の「神と神を祭る者との文学」、土田杏村氏の「文学の発生」、加藤咄堂氏の「日本宗教風俗史」及び「民間信仰史」等其他がある。更に雑誌にあっては、柳田先生の監修せられた「民族」竝びに折口信夫氏が編輯された「土俗と伝説」を始めとし、京都で発行された「郷土趣味」及び浜松市で発行された「土のいろ」など、これも誌名を挙げるだけでも容易ならぬほど多く存している。猶お、参考論文としては、内藤虎次郎氏の「卑弥呼考」(芸文所載)羽田享氏の「北方民族に於ける巫女に就いて」(芸文所載)、狩野直喜氏の「支那上代の巫、巫咸に就いて」、同じく「説巫補遺」、「続説巫補遺」、及び「支那古代祭尸の風俗に就いて」(以上は哲学研究、芸文等に掲載されたものであるが、後に編輯されて「支那学文叢」に収められた)等が、その重なるものである。
更に巫女史学の素材ともいうべき資料を載せた各地の神社誌及び地誌類にあっては、古く江戸期に編纂されて、明治期に復刻されたもの、新に明治期において編纂されたもの、即ち各種の神社由緒記、国誌、府誌、県誌(又は史)、郡誌(同上)、町村誌(同上)及び名所記、案内記等に至っては、私が読んだだけでも、約七百種の多数に達している。勿論、是等の神社誌や地誌類の悉くに必ず巫女資料が載せてあるというのではないが、是等の書籍から、かなり多くの資料を抽出することが出来るのである。而して是等の書名は如何にするもここに列挙することが出来ぬので、本文に引用した際には、一々註を加えて出典を明白にするとした。
我国内地の巫女史学の研究にとって、重要なる参考史料となるべきものは、琉球のノロ及びユタと、アイヌのツスの考覈である。而して前者にあっては、伊波普猷氏の「古琉球」、「古琉球の政治」、「沖縄女性史」及び「民族」に掲載された三四の論文と、故佐喜真興英氏の「女人政治考」、外に折口信夫氏の「琉球の神道」(世界聖典全集本所収及び「古代研究」所収)及び「続琉球神道記」(炉辺叢書本「山原の土俗」所載)等があり、後者にあっては金田一京助氏の「アイヌの研究」及び「郷土研究」「東亞の光」「民族」等に掲載された多くの研究がある。猶お附言することは、我国の巫女史学と直接間接に交渉を有しているシベリヤ、満州、朝鮮などの巫女史学の沿革、及び新聞紙の掲載された此の種の史料は、一々ここに記述することを省略して、その機会のある毎に記述することとした。