「日本巫女史/第一篇/第七章/第三節」の版間の差分
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更に<ruby><rb>神降</rb><rp>(</rp><rt>カミオロ</rt><rp>)</rp></ruby>しする琴の頭尾に、千<ruby><rb>桧</rb><rp>(</rp><rt>ハタ</rt><rp>)</rp></ruby>高<ruby><rb>桧</rb><rp>(</rp><rt>ハタ</rt><rp>)</rp></ruby>を置いたと云う事に就いては、古くから学者の間に異説があって、今に定説を聞かぬのであるが、私の専攻している民俗神道学の方面から見ると、桧は即ち旛の意であって、細長い小旛を幾本か立てたのを、かく千桧高桧と形容したものと考えている。而して此の小旛を立てる目的は、琴の音につれて降りし神が歩んで来る道しるべに外ならぬものであって、賀茂の<ruby><rb>御阿礼</rb><rp>(</rp><rt>ミアレ</rt><rp>)</rp></ruby>の神事の折に、阿礼木に附ける<ruby><rb>阿礼旛</rb><rp>(</rp><rt>アレハタ</rt><rp>)</rp></ruby>と同じものであると信じている。更に民俗学的に言えば、蒙古のハタツクと称する、一本の箭の頭の所へ一面の鏡と、長さ二三尺ほどの色の布とを結びつけた〔一八〕その布と、同じ<ruby><rb>活</rb><rp>(</rp><rt>はた</rt><rp>)</rp></ruby>らきを持つものと考えている。更に一段と手近の例を示せば、三河国北設楽郡の山村に残っている花祭の踊りの庭に、ボテ(梵天の意か)から湯蓋(湯立釜を覆えるもの)まで、中空に曳き架ける縄と同じく〔一九〕、神の来る道のしるべと見るのが穏当であろうと考えるのである。 | 更に<ruby><rb>神降</rb><rp>(</rp><rt>カミオロ</rt><rp>)</rp></ruby>しする琴の頭尾に、千<ruby><rb>桧</rb><rp>(</rp><rt>ハタ</rt><rp>)</rp></ruby>高<ruby><rb>桧</rb><rp>(</rp><rt>ハタ</rt><rp>)</rp></ruby>を置いたと云う事に就いては、古くから学者の間に異説があって、今に定説を聞かぬのであるが、私の専攻している民俗神道学の方面から見ると、桧は即ち旛の意であって、細長い小旛を幾本か立てたのを、かく千桧高桧と形容したものと考えている。而して此の小旛を立てる目的は、琴の音につれて降りし神が歩んで来る道しるべに外ならぬものであって、賀茂の<ruby><rb>御阿礼</rb><rp>(</rp><rt>ミアレ</rt><rp>)</rp></ruby>の神事の折に、阿礼木に附ける<ruby><rb>阿礼旛</rb><rp>(</rp><rt>アレハタ</rt><rp>)</rp></ruby>と同じものであると信じている。更に民俗学的に言えば、蒙古のハタツクと称する、一本の箭の頭の所へ一面の鏡と、長さ二三尺ほどの色の布とを結びつけた〔一八〕その布と、同じ<ruby><rb>活</rb><rp>(</rp><rt>はた</rt><rp>)</rp></ruby>らきを持つものと考えている。更に一段と手近の例を示せば、三河国北設楽郡の山村に残っている花祭の踊りの庭に、ボテ(梵天の意か)から湯蓋(湯立釜を覆えるもの)まで、中空に曳き架ける縄と同じく〔一九〕、神の来る道のしるべと見るのが穏当であろうと考えるのである。 | ||
第四は、烏賊津使主(中山曰。「新撰姓氏録」には雷大臣に作る。宗源神事の中臣系の人で卜部である)を<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>サニワ</rt><rp>)</rp></ruby>となされたことであるが、此の審神とは「政事要略」第二十八賀茂臨時祭の条に、神后紀を引き、その分注に『審神者、言審察神明託宣之語也』云々とあり〔二〇〕、更に「釈日本紀」巻十一述義の条に『兼方案之、審神者也、分明請知所案之神之人也』とある〔二一〕。此の両説で、審神の解釈は、要を尽しているのであるが、猶これを平易に言えば、審神とは神の憑り代となれる者に問いかけ、答えを得て、その託宣の精細と諒解とを図るものである。後世の修験道の間に行われた<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby> | 第四は、烏賊津使主(中山曰。「新撰姓氏録」には雷大臣に作る。宗源神事の中臣系の人で卜部である)を<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>サニワ</rt><rp>)</rp></ruby>となされたことであるが、此の審神とは「政事要略」第二十八賀茂臨時祭の条に、神后紀を引き、その分注に『審神者、言審察神明託宣之語也』云々とあり〔二〇〕、更に「釈日本紀」巻十一述義の条に『兼方案之、審神者也、分明請知所案之神之人也』とある〔二一〕。此の両説で、審神の解釈は、要を尽しているのであるが、猶これを平易に言えば、審神とは神の憑り代となれる者に問いかけ、答えを得て、その託宣の精細と諒解とを図るものである。後世の修験道の間に行われた<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り祈祷の場合には、神の憑り代となる者を中座(又は御幣持ち、ヨリキとも云う)と称し、審神の役に当る者を<ruby><rb>問口</rb><rp>(</rp><rt>トイクチ</rt><rp>)</rp></ruby>と称したものである。口寄の市子にも又た此の種の役割があって、信濃巫女では荷持と称する者が是れに当った。詳細は後章に記すので、茲では概要を述べるにとどめる。 | ||
第五の、七日七夜に<ruby><rb>逮</rb><rp>(</rp><rt>およ</rt><rp>)</rp></ruby>んで皇后が神を降すことに努めたとあるが、此の日時の間において、如何なる作法が行われたかは、記録が無いので、何事も言うことが出来ぬ。勿論、神を降す太祝詞もあったろうし、これに伴う神秘的の祭儀も伴うていたことと想うが、茲にはそれ以上に言うべき何等の手掛りさえ有していぬのである。ただ是れに就いて思い起こされるのは、古く我国で神を招ぎ降す場合に、如何なる呪文(Spell)と云おうか、禱文(Charm)と云おうか、兎に角にこれに類した祝詞のようなものが有ったか、無かったかと云う一事である。元より後世の記録ではあるが、「皇大神宮建久年中行事」に載せた左の記事は、少しでも此の事を考えさせる資料になると信ずるので、茲に要点だけを抄録する。 | 第五の、七日七夜に<ruby><rb>逮</rb><rp>(</rp><rt>およ</rt><rp>)</rp></ruby>んで皇后が神を降すことに努めたとあるが、此の日時の間において、如何なる作法が行われたかは、記録が無いので、何事も言うことが出来ぬ。勿論、神を降す太祝詞もあったろうし、これに伴う神秘的の祭儀も伴うていたことと想うが、茲にはそれ以上に言うべき何等の手掛りさえ有していぬのである。ただ是れに就いて思い起こされるのは、古く我国で神を招ぎ降す場合に、如何なる呪文(Spell)と云おうか、禱文(Charm)と云おうか、兎に角にこれに類した祝詞のようなものが有ったか、無かったかと云う一事である。元より後世の記録ではあるが、「皇大神宮建久年中行事」に載せた左の記事は、少しでも此の事を考えさせる資料になると信ずるので、茲に要点だけを抄録する。 |
2008年10月17日 (金) 12:30時点における版
第三節 霊媒者としての巫女
我が古代人が、高天原に在す神々を地上に
- 三月壬申朔、皇后選吉日入斎宮、親為神主、則命武内宿禰令撫琴、喚中臣烏賊津使主、為
審神者 、因以千桧高桧置琴頭尾、而請曰、先日教天皇(中山曰。仲哀天皇)者誰神也、願欲知其名、逮于七日七夜、乃答曰、神風伊勢国之、百伝度逢県之、拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木厳之御魂天疎向津姫命焉。亦問之、除是神有神乎、答曰、幡荻穂出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也、問亦有耶、答曰、於天事代、於虚事代、玉籤入彦厳之事代主神有之也。問亦有耶、答曰、有無之不知焉。於是審神者曰、今不答而更後有言乎、則対曰、於日向国橘小門之水底所居而、水葉稚之出居神、名表筒男、中筒男、底筒男神之有也。問亦有耶、答曰、有無之不知焉。遂不言且神矣。時得神語、随教而祭云々。(国史大系本)
神功皇后の征韓の大事業は、我が国家の発展上に一時代を劃した偉勲であった。従って、これを遂行せらるるに就いては、当時の習礼となっていた神々の加護を仰ぐため、神意に聴くこととなっていたので、皇后の尊き御身でありながら、此の神事を行わせられたのである。それ故に、その儀式において荘重を極め、その精神において原始神道の古義を遵び、我が三千年の歴史を通じて、寔に一例しか見ることの出来ぬ聖範を貽されているのである。「日本書紀」によれば、皇后は、一年の間に三度までも神に
- 一、吉日を選んで斎宮に入られたこと
- 二、皇后親らが神主となられたこと
- 三、武内宿禰に琴を弾かせ、然もその琴の頭尾に千桧高桧を置かれたこと
- 四、
烏賊津使主 を審神 となし、問答体を以て託宣せられたこと - 五、七日七夜に逮んで祈念せられたこと
- 六、託宣は韻文的の律語を以てなされたこと
が知られるのである。私は此の記事こそ、古代の巫女の作法を考覈する上に全く唯一無二の重要なるものと信ずるので、これに関する先覚の研究を参酌し、私見を併せ加えて、やや詳細に記述したいと思うのである。
第一は、皇后が吉日を選んで斎宮に入られた事であるが、当時、我国には
第二に、皇后が専ら神主となられたことであるが、これには先ず神主という語義から考えて見る必要がある。我国で神主の語の所見は、「古事記」崇神朝に、
- 以意富多々泥古命為神主、而於御諸山拝祭意富美和之大神云々。
とあるのが、それである。而して此の語義に就いて、本居翁は『神主は神に奉仕る
- 思フに、神主と云う称は、もと此ノ段(中山曰。神功紀)の如く、神の命を請奉る時に、其神の託て命のりあるべき人を、初メより定め設くる其人を云ふ称にぞありけむ、かくてまた神に奉仕る人を云ふ称と為れるも、
神託 のために設くる人よりうつれるなるべし。
と説明している〔五〕。これに従うと、神主とは、神の託宣を人に
- 神主は、神に奉仕る
主人 たるを云ふ称なることは元よりなれど、此にかく皇后の親ら神主と為玉へるを以思ふに、なべて神に奉仕する称とはかはりて、いと重かるべし(中略)。大后に神の託 て坐ける事も、神主と為て神の依坐 と定まり賜へるが故なり。
と論じているが、少しく徹底せぬ嫌いがある〔六〕。更に鈴木重胤翁は
- 神主とは、神に仕奉る人の中の長者を云ふ、神代紀に斎主神斎之大人と有る意ばへを察むべし。
と簡単に説いているが、頗る物足らぬものがある〔七〕。而して是等の諸説にくらべると、荻生徂徠が、
- 神主といふは、昔はその神の子孫を神主としたるなり、喪主などの心なり。
と云ったのは〔八〕、兎に角に一見識を有していたものと思わざるを得ぬ。
併しながら、私をして露骨に、且つ放胆に言わせると、是等の先覚の諸説は、悉く字義に拉われて、我が古代の民俗を忘れたものにしか過ぎぬのである。換言すれば、神主なるものが、神祇官流の神道に固定した後の解釈であると同時に、文献の上からばかり立論して、神主の発生と発達の過程を疎却した謬見である。私の考えを極めて率直に言えば、神主は即ち
第三の神を祭る折に琴を弾くことであるが、此の事は関係するところが頗る広く、且つ巫女の降神術にも交渉を有しているので、精しく述べて見たいと思う。元来、我が古代人は、琴の音と、鈴の響きとは、神の
原始神道における神々と、琴及び鈴(その他の笛、鼓などの楽器)との関係を説くのは、余りに埒外に出るので省略するが、かく初めは神の声として信じられていた琴や鈴は、後には使用の目的が変って来て、琴は神を
- 以一五日(中略)。以同日夜亥刻時、御巫内人乎、第二御門爾令侍弖、御琴給弖、請天照座大神乃神教弖、即所教雑罪事乎、候禰宜舘始、内人物忌四人、館別解除清畢云々。
とあるのは、その徴証である。それから、「万葉集」巻九に『神南備の
然るに、後世の巫女(私の所謂口寄系の市子)が降神の際に、大弓小弓をたたき、此の弓の起原は、古代天鈿女命が琴の代りに六張の弓を並べて弦を叩きしに由るなどと言うているのは、これは何事にも無理勿体をつけたがる陋劣なる心理から出たもので、我が古代の正しい記録には、かかる事は全く見えず、且つ神を降すに弓を用いることは、我が固有の呪術では無いと考えているので、此の事は巫女の徒が弓を用い始めた支那の呪術の輸入された習合時代に詳述することとする。
更に
第四は、烏賊津使主(中山曰。「新撰姓氏録」には雷大臣に作る。宗源神事の中臣系の人で卜部である)を
第五の、七日七夜に
- 六月一五日御占神事(中略)。御巫内人{衣/冠}自外幣段
鵄尾 御琴請(中略)。次以笏御琴掻三度、度毎有警蹕、次奉下神、其御歌。 -
阿波利矢 。遊波須度万宇佐奴 。阿佐久良爾 。天津神国津神 。於利万志万世 。 -
阿波利矢 。遊波須度万宇佐奴 。阿佐久良仁 。奈留伊賀津千毛 。於利万志万世 。 -
阿波利矢 。遊波須度万宇佐奴 。阿佐久良仁上津大江 。下津大江毛 。摩伊利太万江 。 - 于時大物忌父、正権神主、不浄不信疑以人別姓名、為某神主若有不浄事申(中略)。御琴掻内嘯、件嘯音鳴以清知、以不鳴不浄知也(中略)。其後又御巫内人三度御琴掻、警蹕之後奉上神、御歌如本、但所奉下神御名申、今度帰御申云々。(続群書類従本。但し御歌の訓み方は伴信友翁に従った)。
更に伴信友翁の「正卜考」の附記によると、次の如くである。
- この事を、内宮の神官に尋問たるに、この御占神事、今も
御占神態 とて、わづかにかたばかり行うに、琴板とて、凡長二尺五寸ばかり、幅一尺余、厚一寸余なる桧板を用う、其を笏にて敲く態を為と云えり、そは後に琴を板に代え、笏もて敲くこととせるなるべし云々。
私は茲に是等の御歌の内容を一々精査することは避けるが、その措辞の古雅なる点から推し、更に儀式の簡素なる点から見て、此の御歌の決して中古の作でないことだけは信じている。それかと言って、勿論、此の御歌を神后期まで引き上げようとする者ではないが、兎に角に斯うした神降しの御歌なり禱文なりが、神后の場合にも存したことと想ったので、その参考として長々と書きつけた次第である。猶お附記して置くが、我国における神降しの呪文とも見るべきもので、私の寡見に入ったものでは、是れが最初のものである。その点から言うも、此の御歌の学問的価値は、かなり高いものと云わざるを得ぬのである。
第六の託宣が韻文的の律語——即ち古き歌謡体を以てなされていることであるが、これも我国の文学の発生を知る上に注意すべき重点である。託宣と文学の交渉に就いては、別に詳記したいと考えているので、茲には後文と衝突するのを恐れて略述するが、始め神功皇后が審神の問いまえらせしに対して、
神風 の伊勢 の国、百伝 ふ度逢県 の、折鈴 の五十鈴 の宮に居る神、名は撞賢木 厳 の御魂 天疎 る向津姫命
と答えられ、再び問われて、
幡荻穂 に出し吾 や、尾田 の吾田節 の淡郡 に居る神
と答え、三度問われて、
天 に事代 、虚 に事代、玉籤 の入彦 、厳 の事代主の神
と答え、四度問われて、
- 日向の国の橘の小門の
水底 にいて、水葉の稚 に出て居る神
云々と答えられているが、かく一句を発する毎に
私は本節を終るに際し、特に言明して置かねばならぬ事がある。それは外でもなく、私は決して神功皇后を以て、巫女なり霊媒者なりと申すものでは無く、ただ皇后が親ら行わせられた神事の形式、内容、及び結果が、偶々後世の巫女及び霊媒者の行うところと似通っていたに過ぎぬと云うことである。私の不文のため、意余って筆足らず、或は皇后を以て巫女または霊媒者と誤解させる点がありはせぬかと思うと畏きに堪えず、ここに此の事を附記して不文の罪を謝する次第である。
- 〔注一〕
- 御柱を匝ることが、古代の降神法であったと云う考察に就いては、拙著「土俗私考」に収めた「物の周りを匝る土俗」のうちに述べて置いた。参照を願えると幸甚である。
- 〔注二〕
- 古事記伝(本居宣長全集本)巻三十。
- 〔注三〕
- 日奉部及び日置部に就いては、民族(第二巻第五号)所載の柳田国男先生の「日置部考」及び中央史壇(第一三巻第一〇号)掲載の拙稿「日置部異考」を参照せられたい。
- 〔注四〕
- 飯田武郷翁の「日本書紀通釈」第三十四に引用した、岡吉胤著の「斎宮考」に拠る。
- 〔注五〕
- 古事記伝巻二十三、同書巻三十に見えている。猶お詳細は原本に就いて知られたい。
- 〔注六〕
- 前掲の「日本書紀通釈」巻三十四。
- 〔注七〕
- 「延喜式祝詞講義」巻一、新年祭の条に拠った。
- 〔注八〕
- 奈留別志(日本随筆大成本)。
- 〔注九〕
- 「諏訪大明神絵詞」巻上(信濃史料叢書本)
- 〔注一〇〕
- 「出雲懐橘談」の杵築の条(続々群書類従本の地理部所収)
- 〔注一一〕
- 「三嶋大祝家譜資料」及び同書に引用せる「三嶋大祝記録」並びに「予樟記」等に載せてある。
- 〔注一二〕
- 我国の神々と音楽との関係は、原始神道史における重要なる問題で、ここには略述する事さえ困難であるが、私見を摘要すれば、我国の神々は、その神々の系統に属する音楽を有していたようである。例えば、出雲系の神は琴鈴を、高天原系の神も琴鈴を、南方系の神は臼太鼓と称する臼を楽器としたのを、更に笛を鼓をと云ったように特殊のものが在った。「政事政略」第二十八賀茂臨時祭の条に「古老云、昔臨箕攪其背遊」とあるのは、賀茂社に限られた音楽であり、「郷土研究」一ノ四に載せた、磐城国石城郡草野村大字北神谷の白山神社の祭に、氏子の壮者が鍬と鋤とをたたいて踊るのも、此の社に限られた音楽である。而して是等の音楽は、その始めにあっては、神の声であった。それが追々と神が整理され、音楽が統一されるようになって、琴、鈴、鼓、笛が、神の声を代表するようになり、更にそれが変化して、是等の音楽を奏することは、神が出現するときの合図と云うように解釈されて来たのである。巫女が弓弦をたたき、又は鼓を打てば、神を呼び出し得るものと考えたのは、此の信仰に由来しているのである。猶お、巫女と、音楽や、楽器の関係に就いては、本文の後章に記すゆえ、参照せられたい。
- 〔注一三〕
- 「神道問答」巻下(大日本風教叢書本第八輯)
- 〔注一四〕
- 前掲の「奈留別志」。
- 〔注一五〕
- 「古事記」神代巻。
- 〔注一六〕
- 「東京人類学雑誌」柴田常恵氏の「山陰紀行」の記事中に、出雲大社の神依板のことが、挿図まで加えて詳記してある。
- 〔注一七〕
- 鳥居龍蔵氏が、先年蒙古の将来品を以て白木呉服店で展覧会を開かれたときに、ハタツクなるものを目撃した。後に同氏著の「人類学上より見たる我が上代の文化」の口絵にこれが原色版となって載せてあるのを見た。
- 〔注一八〕
- 国学院大学教授折口信夫氏の厚意で、此の花祭を同大学で催された際に親しく見聞し、併せて同氏からその説明も承った。
- 〔注一九〕
- 「史籍集覧」本。
- 〔注二〇〕
- 「国史大系」本。