「日本巫女史/第二篇/第二章/第二節」の版間の差分

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謡曲「葵ノ上」を読むと、朝日の巫女が<ruby><rb>神降</rb><rp>(</rp><rt>カミオロ</rt><rp>)</rp></ruby>しの呪文として、『<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>りましは今ぞ寄り来る長浜の、芦毛の駒に手綱ゆりかけ』という短歌を唱えている。此の短歌は、<ruby><rb>何時</rb><rp>(</rp><rt>いつ</rt><rp>)</rp></ruby>の頃に、誰が作ったものか、皆目知れぬと同時に、その解釈に就いても、判然せぬものがある。即ち憑りましが芦毛の駒に乗って寄り来ることは合点されるが〔一〕、何故に長浜から来るのか、それが会得されぬ。併し、分らぬことは分らぬままに後考を俟つとして、更に私に分ることだけ言うと、巫女の用いた神降しの呪文も、時代によって、相当の変遷を経ていることは、当然の帰結であって、神は人の敬うにより徳を増し、人は神の恵みにより福を加うという、神と人とが相互扶助的に対立されるようになって来れば、此の神に仕える人である巫女も、時勢に推し遷ることが生活の第一義であったに相違ない。従って呪文なり、神占の方法なりも、時勢と共に繁より簡に、厳より寛に傾いて来たことも、又た当然の趣向と云わなければならぬ。
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それでは中古の巫女が、如何なる呪文を唱えて神降しをしたかと云うに、誠に慚愧に堪えぬ次第であるが、その代表的のものが寡見に入らぬのである。「年中行事秘抄」によると、鎮魂祭の折に用うる呪文的歌が八首載せてあり、此のうちの『たまはこ(魂匣)に、ゆうとりとして(木綿と鎮みて)、たまちとうせよ、みたまあかり(御魂上り)、たまかりまかり(魂上り罷り)、まししかみ(座し神)は、いまそき(今ぞ来)ませる』とあるのは〔二〕、神降しの意を含んでいるように拝せられるのであるが、これは畏くも歴聖の御上に限られた事であるから、それを巫女の輩が用いたなどとは夢にも想われぬことである。それかと言うて、後世の巫女が唱えた『千早振る此処も高天ヶ原なれば、集りたまへ四方の神々』とあるものは、如何にも近世の駄作であって、これが古くから行われたものとは思われぬ。併し、これは文献に見えぬこそ、寧ろ当然であって、探し出そうとするのが却って無理なのである。何となれば、呪文は巫女の秘密にすべきものであって、一子相伝とか、師承口伝とか、努めて他に漏れることを禁じていた筈であるから、そう軽々しく他人に語る訳もなく。従って記録にも残らなかったので、是を詮議しようとしたところが、先ず徒労に終るのが関の山と思わなければならぬ。そんな次第で、古いものは見当らぬが、室町期の作である「鴉鷺合戦物語」巻九に、左の如き神降しの呪文のあるのを発見したので載録する。因に言うが、此の物語は、鳥類を擬人化したものであるから、その事を承知せられたい。
それでは中古の巫女が、如何なる呪文を唱えて神降しをしたかと云うに、誠に慚愧に堪えぬ次第であるが、その代表的のものが寡見に入らぬのである。「年中行事秘抄」によると、鎮魂祭の折に用うる呪文的歌が八首載せてあり、此のうちの『たまはこ(魂匣)に、ゆうとりとして(木綿とり鎮て)、たまちとうせよ、みたまあかり(御魂上り)、たまかりまかり(魂上り罷り)、まししかみ(座し神)は、いまそき(今ぞ来)ませる』とあるのは〔二〕、神降しの意を含んでいるように拝せられるのであるが、これは畏くも歴聖の御上に限られた事であるから、それを巫女の輩が用いたなどとは夢にも想われぬことである。それかと言うて、後世の巫女が唱えた『千早振る此処も高天ヶ原なれば、集りたまへ四方の神々』とあるものは、如何にも近世の駄作であって、これが古くから行われたものとは思われぬ。併し、これは文献に見えぬこそ、寧ろ当然であって、探し出そうとするのが却って無理なのである。何となれば、呪文は巫女の秘密にすべきものであって、一子相伝とか、師承口伝とか、努めて他に漏れることを禁じていた筈であるから、そう軽々しく他人に語る訳もなく。従って記録にも残らなかったので、是を詮議しようとしたところが、先ず徒労に終るのが関の山と思わなければならぬ。そんな次第で、古いものは見当らぬが、室町期の作である「鴉鷺合戦物語」巻九に、左の如き神降しの呪文のあるのを発見したので載録する。因に言うが、此の物語は、鳥類を擬人化したものであるから、その事を承知せられたい。


: (上略)ここに雀小藤太が妻子のなげき申ばかりなし、せめてもの事に、正しき<ruby><rb>巫鵐</rb><rp>(</rp><rt>ミコシトド</rt><rp>)</rp></ruby>を請じて、小藤太を梓の弓にかく、かの<ruby><rb>巫</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>、梅染の小袖かいとり座敷になをる。弓をうち叩て、
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:: 天清浄地清浄、内外清浄、宅清浄、六根清浄と清浄し進候、上は梵天帝釈、四大天王、下は炎魔法王、太山府君、五道の冥官、司命司禄、海内海外、龍王龍象、別しては日本国中大小の神祇、殊には王城の鎮守鴨上下、河内国には飛鳥部大明神、雄黒大明神、和泉国には大島大明神、阿波国には白鳥大明神、東山道に鳥海大明神、火鷹大明神、東海道には香鳥大明神まで、梓の弓をもておどろかし申、それ我朝は神国なり、神明の垂跡はこれ仏陀の慈悲のあまり也、各納受をたれて、只今よりきたる所の亡者の冥路の語、まさしく聞せたまへ。
:: 天清浄地清浄、内外清浄、宅清浄、六根清浄と清浄し進候、上は梵天帝釈、四大天王、下は炎魔法王、太山府君、五道の冥官、司命司禄、海内海外、龍王龍象、別しては日本国中大小の神祇、殊には王城の鎮守鴨上下、河内国には飛鳥部大明神、雄黒大明神、和泉国には大島大明神、阿波国には白鳥大明神、東山道に鳥海大明神、火鷹大明神、東海道には香鳥大明神まで、梓の弓をもておどろかし申、それ我朝は神国なり、神明の垂跡はこれ仏陀の慈悲のあまり也、各納受をたれて、只今よりきたる所の亡者の冥路の語、まさしく聞せたまへ。
::: 客神は今そ寄来る長はまやあしげの駒に手綱ゆりかけ
::: 寄人は今そ寄来る長はまやあしげの駒に手綱ゆりかけ
: ありがたの只今の請用やな云々(以上。博文館発行「国文学全書」本に拠る)。
: ありがたの只今の請用やな云々(以上。博文館発行「国文学全書」本に拠る)。



2009年9月10日 (木) 05:06時点における最新版

日本巫女史

第二篇 習合呪法時代

第二章 修験道の発達と巫道との関係

第二節 神降の呪文に見えた両者の交渉[編集]

謡曲「葵ノ上」を読むと、朝日の巫女が神降カミオロしの呪文として、『りましは今ぞ寄り来る長浜の、芦毛の駒に手綱ゆりかけ』という短歌を唱えている。此の短歌は、何時いつの頃に、誰が作ったものか、皆目知れぬと同時に、その解釈に就いても、判然せぬものがある。即ち憑りましが芦毛の駒に乗って寄り来ることは合点されるが〔一〕、何故に長浜から来るのか、それが会得されぬ。併し、分らぬことは分らぬままに後考を俟つとして、更に私に分ることだけ言うと、巫女の用いた神降しの呪文も、時代によって、相当の変遷を経ていることは、当然の帰結であって、神は人の敬うにより徳を増し、人は神の恵みにより福を加うという、神と人とが相互扶助的に対立されるようになって来れば、此の神に仕える人である巫女も、時勢に推し遷ることが生活の第一義であったに相違ない。従って呪文なり、神占の方法なりも、時勢と共に繁より簡に、厳より寛に傾いて来たことも、又た当然の趣向と云わなければならぬ。

それでは中古の巫女が、如何なる呪文を唱えて神降しをしたかと云うに、誠に慚愧に堪えぬ次第であるが、その代表的のものが寡見に入らぬのである。「年中行事秘抄」によると、鎮魂祭の折に用うる呪文的歌が八首載せてあり、此のうちの『たまはこ(魂匣)に、ゆうとりとして(木綿とり鎮て)、たまちとうせよ、みたまあかり(御魂上り)、たまかりまかり(魂上り罷り)、まししかみ(座し神)は、いまそき(今ぞ来)ませる』とあるのは〔二〕、神降しの意を含んでいるように拝せられるのであるが、これは畏くも歴聖の御上に限られた事であるから、それを巫女の輩が用いたなどとは夢にも想われぬことである。それかと言うて、後世の巫女が唱えた『千早振る此処も高天ヶ原なれば、集りたまへ四方の神々』とあるものは、如何にも近世の駄作であって、これが古くから行われたものとは思われぬ。併し、これは文献に見えぬこそ、寧ろ当然であって、探し出そうとするのが却って無理なのである。何となれば、呪文は巫女の秘密にすべきものであって、一子相伝とか、師承口伝とか、努めて他に漏れることを禁じていた筈であるから、そう軽々しく他人に語る訳もなく。従って記録にも残らなかったので、是を詮議しようとしたところが、先ず徒労に終るのが関の山と思わなければならぬ。そんな次第で、古いものは見当らぬが、室町期の作である「鴉鷺合戦物語」巻九に、左の如き神降しの呪文のあるのを発見したので載録する。因に言うが、此の物語は、鳥類を擬人化したものであるから、その事を承知せられたい。

(上略)ここに雀小藤太が妻子のなげき申ばかりなし、せめてもの事に、正しき巫鵐ミコシトドを請じて、小藤太を梓の弓にかく、かのミコ、梅染の小袖かいとり座敷になをる。弓をうち叩て、
天清浄地清浄、内外清浄、宅清浄、六根清浄と清浄し進候、上は梵天帝釈、四大天王、下は炎魔法王、太山府君、五道の冥官、司命司禄、海内海外、龍王龍象、別しては日本国中大小の神祇、殊には王城の鎮守鴨上下、河内国には飛鳥部大明神、雄黒大明神、和泉国には大島大明神、阿波国には白鳥大明神、東山道に鳥海大明神、火鷹大明神、東海道には香鳥大明神まで、梓の弓をもておどろかし申、それ我朝は神国なり、神明の垂跡はこれ仏陀の慈悲のあまり也、各納受をたれて、只今よりきたる所の亡者の冥路の語、まさしく聞せたまへ。
寄人は今そ寄来る長はまやあしげの駒に手綱ゆりかけ
ありがたの只今の請用やな云々(以上。博文館発行「国文学全書」本に拠る)。

此の神降しの呪文は、鳥類の物語であるだけに、ぎ下した神々が、悉く鳥の字の付くものばかりで、殊に香取を香鳥にもじった所などは、如何にも後世の戯作にでもありそうな書き方ではあるが、併しながら、大体において、斯うした文句が、巫女の間に用いられていたことは、第三篇に挙げた他の類例から推しても、ほぼ察知することが出来るのである。

而して是を基準として説を試みるのは、太だ早速ではあるが、此の呪文に現われた思想と信仰とは、我が原始神道とは非常なる距離を有していて、全く修験道の唱えたものの丸写しとも言えるのである。六根清浄の祓は、両部神道者の手によって作られたものであるが、これを好んで用いた者は修験者である。梵天帝釈、閻魔法王は、仏家の説であるが、これを利用した者は修験者である。泰山府君は道教の大達物であるが、これを民間信仰に持ち込んだ者は同じく修験者である。かく神・仏の三者を雑然として織り込んだところは、修験道の何でも御座れを如実に現わしているのである。而して茲に注意しなければならぬことは、こうした修験道の思想や、信仰を、露骨に出している呪文を巫女が平気でこれを用いて憚らなかったという点である。此の問題は一面から見れば、修験道が民間信仰の中心となったことを意味しているが、更に他の一面から見れば、巫女(勿論、全部と言われぬことは、此の種の呪文を用いぬ者も存していたからである)は、修験者に信仰的に征服されたことを物語っているのである。然もその征服された事実は、更に二つに分れて呪的方面と、性的方面とに区別して見ることが出来るのである。

〔註一〕
呪歌を常識から解釈しようとするのは、始めから無理なことかも知れぬが、此の長浜は、地名か、人名か、故事か、それすら全く見当がつかぬ。敢て後考を俟つとする。
〔註二〕
此の鎮魂歌は、私の所蔵している「年中行事秘抄」に載っていぬので、伴信友翁の「鎮魂伝」から転載した。