「日本巫女史/第一篇/第一章/第二節」の版間の差分

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==第二節 我国に於ける巫女の発生==
==第二節 我国に於ける巫女の発生==


我国の原始時代において、神々に対する信仰が先ず生まれ、呪術がこれより後れて生れたかという問題は、一般宗教学または社会学における、宗教先在説と呪術先行論との論議の如く、遂に決定されぬ難問であると同時に、私のような一知半解の者には、到底、企て及ばざるところである。併しながら、我国の古代における神の発生、及び発達の過程に就いて、私の考えたところ、及び知り得たところから言えば、縦しそれが、宗教的意識とか、神道的感情とか言えぬまでも、既述の如く、精霊を信じ、「いつ」を考えていたのであるから、是等の信仰が先ず存して、後に呪術が起ったと見られるのである。換言すれば、我国の古代人は、微弱ながらも、自分より以上の或る神力の在ることを信じ、此の神力を呪術によって利用することが出来るものと考えていたのである。而して此の呪術を行う者を巫女(その頃には別段に巫女と定まった名の無いことは言うまでもない)と云うたのである。
我国の原始時代において、神々に対する信仰が先ず生まれ、呪術がこれより後れて生れたかという問題は、一般宗教学または社会学における、宗教先在説と呪術先行論との論議の如く、遽に決定されぬ難問であると同時に、私のような一知半解の者には、到底、企て及ばざるところである。併しながら、我国の古代における神の発生、及び発達の過程に就いて、私の考えたところ、及び知り得たところから言えば、縦しそれが、宗教的意識とか、神道的感情とか言えぬまでも、既述の如く、精霊を信じ、「いつ」を考えていたのであるから、是等の信仰が先ず存して、後に呪術が起ったと見られるのである。換言すれば、我国の古代人は、微弱ながらも、自分より以上の或る神力の在ることを信じ、此の神力を呪術によって利用することが出来るものと考えていたのである。而して此の呪術を行う者を巫女(その頃には別段に巫女と定まった名の無いことは言うまでもない)と云うたのである。


我国の最初の巫女は「日本書紀」にある菊理媛神であると言われている。尤も此の神に就いては、本居・平田の両翁も深く説かず、橘守部翁の饒舌を以てしても、猶且つ態度を明かにせるものが無いのに、独り鈴木重胤翁は、此の神が黄泉に在る冊尊の言を諾尊に白したあることに重点を置き、これは巫女であると言うている〔九〕。
我国の最初の巫女は「日本書紀」にある菊理媛神であると言われている。尤も此の神に就いては、本居・平田の両翁も深く説かず、橘守部翁の饒舌を以てしても、猶且つ態度を明かにせるものが無いのに、独り鈴木重胤翁は、此の神が黄泉に在る冊尊の言を諾尊に白したあることに重点を置き、これは巫女であると言うている〔九〕。

2009年7月30日 (木) 06:00時点における最新版

日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第一章 原始神道に於ける巫女の位置

第二節 我国に於ける巫女の発生[編集]

我国の原始時代において、神々に対する信仰が先ず生まれ、呪術がこれより後れて生れたかという問題は、一般宗教学または社会学における、宗教先在説と呪術先行論との論議の如く、遽に決定されぬ難問であると同時に、私のような一知半解の者には、到底、企て及ばざるところである。併しながら、我国の古代における神の発生、及び発達の過程に就いて、私の考えたところ、及び知り得たところから言えば、縦しそれが、宗教的意識とか、神道的感情とか言えぬまでも、既述の如く、精霊を信じ、「いつ」を考えていたのであるから、是等の信仰が先ず存して、後に呪術が起ったと見られるのである。換言すれば、我国の古代人は、微弱ながらも、自分より以上の或る神力の在ることを信じ、此の神力を呪術によって利用することが出来るものと考えていたのである。而して此の呪術を行う者を巫女(その頃には別段に巫女と定まった名の無いことは言うまでもない)と云うたのである。

我国の最初の巫女は「日本書紀」にある菊理媛神であると言われている。尤も此の神に就いては、本居・平田の両翁も深く説かず、橘守部翁の饒舌を以てしても、猶且つ態度を明かにせるものが無いのに、独り鈴木重胤翁は、此の神が黄泉に在る冊尊の言を諾尊に白したあることに重点を置き、これは巫女であると言うている〔九〕。

我国古代の巫女(腰に鈴鏡を纏う)(上野国佐波郡赤堀村大字下触発掘の埴輪土偶)

此の考証は、我国の巫女史にとっては、かなり重大なる示唆を与えているのである。即ち第一は、巫女の初見の記事が、恰も後世の口寄の如く、死霊の意を通じていること、第二は、此の菊理媛神の鎮座せる加賀の白山シラヤマ神社を中心とせる巫女が、一流をなして永く世に存したことである(これに就いては後段に述べる機会がある)。第三は「白す」という言葉の意味であるが、今に各国の各地で祭のことを「申す」というのは此の名残りであって、然も此の言葉の底には、祭のある毎に託宣のあったことを思わせ、その託宣が泯びてしまってからは、神から人に白すことが、反対に人から——即ち祠官から神に申すように変ってしまったのである。而して此の立場から言えば、菊理媛神より前に、冊尊の言を諾尊に白した泉津道守(重胤翁の考証にては、道守は関守で、男性であろうと云うている)は、覡男であったと考えられぬでもないが、今はそこまで言う必要もないと思うので差控える。我国の巫女はその最初から、幽冥の境に在る霊魂の言を、顕世の人に伝える霊媒者ミディアムとして考えられていたようであるが、併しこれは巫女の行うた呪術の一面であって、これ以外にも巫女の仕事は夥しきまでに存していたことは言うまでもない。

我国には古く「をなり神」の信仰というがあった。此の信仰は、余りに原始的であったために、内地においては夙に痕跡を残さぬまでに泯びてしまったが、それでも克明に社名や地名を詮索すると、各地に於成神社または母成峠などが今に存しているし、更に「をなりど伝説」なるものが(これに就いては後段に詳述する参照を乞う)、これ亦各地に残っているので、古くその信仰が殆ど全国に渉って行われたことが知られるのである。而して此の「をなり神」なるものは、内地の古俗を化石させて、そのまま保存して来た琉球のそれを基準として考えると、同胞のうち、姉なり妹なり(姉妹のなき者は従姉妹)の女性は、兄なり弟なり、男性の守護神となるという信仰で、此の「をなり神」に姉妹の生身魂の義があると云われている。これに就き、同地出身の伊波普猷氏は、その著「琉球聖典おもろさうし選釈」において、左の如き考証を発表されている。

    すずなりがふなやれのふし
  あがおなり、みなみの
  まぶら、でて、おわちやむ、やれ、ゑけ
  おと、おなり、みかみの
  あや、はべる、なりよわちへ
  くせ、はべる、なりよわちへ
をなり神をうたったオモロ。これは「船ゑとのおもろさうし」の中のもので、表題の「すじなりがふなやれのふし」には、すずなり丸(船名)航行の歌というほどの意味がある。
(釈)一、あがは我が。二、おなりみかみは姉妹の生ける霊の義。五の巻(中山曰。おもろさうし)の六十七章尚真王をうたったオモロに、「をなりぎみたかべ(中山曰。たかべは拝むの意)」という句がある。をなり神を拝む風習は、今尚沖縄諸島全体に遺っている。琉球の上古では、女子の地位はそう低くはなかった(中略)。又氏神は、男神、女神の二柱になっているが、女神が男神の上に位している。そして女神に仕えるおみなり(中山曰。女神の意)おこで(中山曰。託女の意)でも、男子に仕えるおみけり(中山曰。女神の意)おこで(中山曰。同上)の上に位している。これらはいずれも母権時代の面影を留めているものではあるまいか。久高島の結婚式の時に合唱する「ゐけがみぐわさば、首里がなしみやだいり、ゐなごみぐわさば、君のみやだいり」(原註。男の子を生んだら、首里の王の御奉公をさせよう。女の子を生んだら、聞得大君(中山曰。内地の斎宮、斎院と同じ意味のもので、琉球王の王姉又は王姪が任ぜられ、古くはその位置は王の皇后より高かった)の御奉公をさせよう)という謡の通り、祭政一致時代には、男子は政治にたずさわり、女子は祭事にたずさわるようになっていたが、特に女子は、神によって神聖な力を附与されたものとして尊敬されていた。久高島では、十二年に一回イザイホーという女子の成年試験(中山曰。内地にも此の種の民俗が行われたが、それは後段に詳述する)が行われているが、これに及第した者は聞得大君に仕える資格があるとされている。男子が海外に出る場合には、をなり神(原註。姉妹のおすじ)が終始つきまとって、彼を守護するという信仰は、今なお沖縄諸島全体に遺っている。そして彼等がをなり神の頂の髪を乞うて、守り袋に入れて旅立つ風習は首里那覇辺にさえ、ついこの頃まで遺っていた。三、まぶらは守らん。四、でてはとて。五、おわちやむは来ませり。六、やれゑけは舟をやる時のかけ声。七、おとおなりは妹。八、あやはべるは綾蝶即ち美しい胡蝶。九、くせはべるはその対語。奇しき胡蝶の意(中略)。一〇、なりわちへは成り給いて。
我が同胞ハラカラなる女神メガミ、我を守らんとて、来ませり。(エンヤラヤー)。妹の生けるミタマ、美しき胡蝶になりて、奇しき胡蝶となりての意。「やれ、ゑけ」という船をる時のかけ声などがあるところから見ると、このオモロを航海中に唄ったことがわかる。沖縄では今日でも胡蝶はあの世の使者といわれているが、オモロ時代には生ける「をなり神」(原註。即ちアキつ神、姉妹)の象徴とされたことがわかる云々。

此のオモロを熟読し味読した後に、曾て内地に存した「をなり神」の信仰を思い合せ、而して更に、古代の原始神道と、社会制度との関係を考え、併せてこれを巫女史の観点から眺めるとき、実に左の如き事象を認識することが出来るのである。

第一、古代の女性は、その悉くが巫女的生活を営んで居り、且つ巫女となり得る資格を有していたこと。
第二、姉妹が直ちに兄弟の守護神となり得たことは、女子に多くの神性を認めたことであって、その神性の基調は、女子が巫女たる可能性に富んでいたことを証すること。
第三、更に姉妹が直ちに兄弟の守護神となり得たことは、当時の巫女が、家族的巫女(Family Witch)であって、まだ職業的巫女(Professional Witch)が発生しなかったこと。
第四、後世、我国で妻女を「山の神」と称し、宅内の祭祀に服したことは、遠く源流を「をなり神」の信仰に発し、家族的巫女の面影を残したものであること。
第五、女子に多くの神性を認めた結果として、我国の古代には神々に仕える者を女性に限った最大の理由であること。

猶お、此の外にも二三挙ぐべき事もあるが、茲には態と省略に従うが、さて、これ等の全体を尽すには、我が国古代の、社会制度と、原始神道との関係を説かぬと、独り合点に陥るのであるが、これに就いては、追々と記述したいと思っている。

〔註九〕
「日本書紀」巻十一参照。