「日本巫女史/第一篇/第七章/第五節」の版間の差分
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我国の文学は是等の類例が示しているように、先ず叙事詩によって始められていて、然もそれは言い合わしたように、悉く第一人称となっている。而して、此の事は、独り我が内地ばかりでなく、アイヌにおいても、琉球においても、又た同じ経路を歩んできたものである。アイヌに就いては、金田一京助氏はその著「アイヌの研究」詩歌の条において、概略左の如く論じている。 | 我国の文学は是等の類例が示しているように、先ず叙事詩によって始められていて、然もそれは言い合わしたように、悉く第一人称となっている。而して、此の事は、独り我が内地ばかりでなく、アイヌにおいても、琉球においても、又た同じ経路を歩んできたものである。アイヌに就いては、金田一京助氏はその著「アイヌの研究」詩歌の条において、概略左の如く論じている。 | ||
: | : 総じてアイヌは歌を嗜む民族である(中略)。裁判のことばが全部歌でのべられる。大酋長の会見も歌で辞令を交換する。神への祈祷にも、凶変の際の儀式にも、喜びの際の挨拶にも、皆曲調をもつことばづかいをする(中略)。さて最後に、アイヌ文学の特徴である此の第一人称説述の形式は、何を意味するもので、如何にして出来たと解釈すべきものであろうか(中略)。アイヌはユカラは寧ろ男子のもので、オイナは寧ろ女子のものである。そしてアイヌでは婦女子は神へ祈祷することは禁忌であるが、その代り神の<u>よりまし</u>となって其託宣をのべる役をもつのである(即ち巫は女子の専務)。アイヌのオイナが女子に依って伝えられ、そこでそれが第一人称の叙述に成っているということは、即ち神自ら女子に憑って述べた(巫は歌でのべる)ものを伝え伝えた形になっているものに相違ないのである云々〔二〕。 | ||
琉球のそれに就いては、伊波普猷氏は、その著「おもろさうし選釈」の前文において、大略左の如く論じ、歌謡の巫女によって発生したことを言外に寓されている。 | 琉球のそれに就いては、伊波普猷氏は、その著「おもろさうし選釈」の前文において、大略左の如く論じ、歌謡の巫女によって発生したことを言外に寓されている。 |
2008年10月17日 (金) 12:31時点における版
第五節 文学の母胎としての巫女
紀貫之は「古今和歌集」の序において、我国の文学の発生を説いて『やまと歌は人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける(中略)。この歌天地の開けはじまりける時より出来にけり。しかはあれども世に伝はる事は、久方の天にしては下照姫にはじまり、荒金の地にしては素戔嗚尊よりぞ起りける』と述べている。而して貫之が、更に一歩をすすめて、此の下照姫が巫女であって、我国の文学は巫女を母胎として発生したものであると論じてくれたならば、私は茲に此の題目に就いて何事も言わずに済んだのであるが、千年前の延喜に貫之が此の事に関心せずして、千年後の昭和に私が此の事を記述するのは、貫之と私との学問の相違ではなくして、全く時代の相違と言うべきである。
巫女が神託を宣べるに際し、これを歌謡体の律語を以てしたことは屡記した如くである。更に復言すれば、神を身に憑けるために、巫女が
- 国引ませる八束水臣津野命詔たまはく、八雲たつ出雲の国は、狭布の雅国なるかも、初国小さく作らせり。かれ作り縫はんと詔たまひて、栲衾新羅の三崎を、国の余りありやと見れば、国の余りと詔たまひて『
童女 の胸鉏 とらして、大魚 の支太つきわけて、幡すすき穂ふりわけて、三つよりの綱うちかけて、霜つづらくるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来 、国来』と引き来縫へる国は去豆 の打絶よりして、八穂米杵築の御崎なり云々(中山曰。読み易きよう仮名交りに書き改めた)。
これは有名なる国引きの一節であって、従来の研究によれば、此の国引きをした八束水臣命は、素尊の別名であると伝えられているのであるが、私には信じられぬし〔一〕、よし素尊であったとしても、童女の胸鉏とらして以下の文句は、どうも巫女が何かの場合に歌謡体で託宣した事のあるものを茲に転用したものと想われる節があるので、姑らくその一例として挙げるとした。次は一度前に梗概だけは引用したことがあるが「播磨国風土記」逸文に、
- 息長帯日女命{神功/皇后}新羅の国を平らげむと欲して下り坐す時に、衆神に禱りき。その時、国堅大神の子、爾保都比売命、国造石坂比売命に
着 かりて教 しけらく、『好く我が前を治め奉 らば、我に善き験を出し、比々良木 ノ八尋桙底不附国 、越売眉引国 、玉匣賀々益国 、苦尻有宝白衾新羅 ノ国 を、丹浪 もて、ことむけ賜はむ』と教え賜ひき云々(大岡山書店本の「古風土記逸文」に拠る)。
これは言うまでもなく、国誉めの詞の類いであって、我が古代の文献には、相当多く散見するところである。而して長句と短句とを巧みに交えて借辞を修めたところは、一種の歌謡としても立派なものと信ずるのである。更に第三例としては、「皇大神宮儀式帳」に、
- そのかみ、宇治の大内人仕へ奉る宇治の土公等が遠つ祖大田の命を、いましが国の名は何ぞと問はし給ひき。これの川の名は、さこくしる伊須々の川と申す。これの川上に好き大宮処ありと申す。すなはち見そなはして好き大宮処定め給ひき。『朝日の来向ふ国、夕日の来向ふ国、浪の音の聞えぬ国、風の音の聞えぬ国、弓矢鞆の音の聞えぬ国と大御心鎮り坐す国』と、悦び給ひて大宮定め奉りき(中山曰。武田祐吉氏著の「神と神を祭る者との文学」所載の訳文に拠る)。
これも又、国誉めの詞であって、その典拠とも見るべきものは、「古事記」天孫降臨の条に、
- 此地は朝日の
直刺国 、夕日の日照国 なり、かれ、此地ぞ、いと吉き地、と詔り給ひて、底津石根に宮柱太しり、高天原に氷椽 高して坐しましき。
とあるのが、それである。而して此の外に、前に引用した「仲哀紀」と「神功紀」に載せた託宣の詞は、二つとも此の場合の徴証として数えることが出来るのである。
我国の文学は是等の類例が示しているように、先ず叙事詩によって始められていて、然もそれは言い合わしたように、悉く第一人称となっている。而して、此の事は、独り我が内地ばかりでなく、アイヌにおいても、琉球においても、又た同じ経路を歩んできたものである。アイヌに就いては、金田一京助氏はその著「アイヌの研究」詩歌の条において、概略左の如く論じている。
- 総じてアイヌは歌を嗜む民族である(中略)。裁判のことばが全部歌でのべられる。大酋長の会見も歌で辞令を交換する。神への祈祷にも、凶変の際の儀式にも、喜びの際の挨拶にも、皆曲調をもつことばづかいをする(中略)。さて最後に、アイヌ文学の特徴である此の第一人称説述の形式は、何を意味するもので、如何にして出来たと解釈すべきものであろうか(中略)。アイヌはユカラは寧ろ男子のもので、オイナは寧ろ女子のものである。そしてアイヌでは婦女子は神へ祈祷することは禁忌であるが、その代り神のよりましとなって其託宣をのべる役をもつのである(即ち巫は女子の専務)。アイヌのオイナが女子に依って伝えられ、そこでそれが第一人称の叙述に成っているということは、即ち神自ら女子に憑って述べた(巫は歌でのべる)ものを伝え伝えた形になっているものに相違ないのである云々〔二〕。
琉球のそれに就いては、伊波普猷氏は、その著「おもろさうし選釈」の前文において、大略左の如く論じ、歌謡の巫女によって発生したことを言外に寓されている。
- おもろさうしは(中略)、琉球の万葉集ともいうべきものである。けれどもこれは、形式の方面から見ていったもので、その内容の方面からいうと、オモロはむしろ、万葉・祝詞・古事記の三つに該当するもので、琉球の聖典ともいう可きものである。オモロは普通神歌と記し、又神唄とも書く(中略)。兎に角、祭政一致時代の産物であって、その大部分が神事に関するものであることや、島津氏の琉球入後オモロが頓に衰えて、神事若しくは神と称せられた彼等巫女、その他の神職の間にのみ用いられることからいうと、語原はともあれ、今は神歌と称えても差支ないのである。この神事に関するオモロを能く吟味して見ると、近代の
祭司詩人 は、今の神主が祝詞 を綴るように、古い鎔 にはめて之を作ったことがわかる(中略)。世にオモロを措いて、琉球固有の思想と、その言語とを、研究すべき資料はない云々〔三〕。
斯うして巫女の口から発せられた託宣が、歌謡の一源泉となり、時勢の変化と信仰の漸退とは、その末流を職業的詩人の手に移し、茲に文学として発達を遂げるに至ったのである。後世の巫女ではあるが、奥川のイタコが唱える神遊びの詞章や、壱岐のイチジョウが謡う百合若説教の文句などは、その過程を如実に示しているものである。猶お是等の巫女が、文学的歌謡の保存者であって、併せて民間伝承の運搬者であったことに就いては、第三篇以下の各章においても記述する考えである〔四〕。而してそれと是れとを参照するとき、我国の文学が巫女を母胎として発生したことの事実が、充分に会得されるのである。
- 〔註一〕
- 八束水臣津野命の名は、私の不詮索のためか、古事記・日本書紀には載せてないようであるが、此の神を素尊の別名というのは、典拠のない想像としか考えられない。既に水臣とある以上は臣僚であるから、これを素尊と見ることは不自然である。
- 〔註二〕
- 金田一京介氏の記述は長いもので、然も詳細に渉り卓見に富んだものであるのを、余りに要点のみ摘録したことは誠に相済ぬことと、お詫びを申上げる次第である。篤学の士は、特に原本に就いて、御覧くださるようお奨めする。
- 〔註三〕
- 伊波普猷氏の高見は、もっと適切に、巫女と歌謡との交渉を説いた記述が、その著述のうちにあることと信じているが、それが見当らなかったので、姑らくこれを摘記するとした。これも私の懶怠をお詫びしなければならぬのである。
- 〔註四〕
- 此の機会に、後世の巫女の唱える詞を載せて説明すると、私の記述がもっと明瞭になるのであるが、それは後章と重複することとなるので割愛したのである。