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'''二 各地に存した七難の揃毛'''
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七難の<ruby><rb>揃毛</rb><rp>(</rp><rt>ソソゲ</rt><rp>)</rp></ruby>の文献に現われたのは、「扶桑略記」巻二十八が初見のようである。即ち治安三年七月十九日(此月十三日に万寿と改元)に、入道前大相国{○藤原/道長}が、紀州高野山の金剛峯寺へ参詣した帰路に、奈良七大官寺の一なりし元興寺に立寄り『開宝倉令覧、中有此和子陰毛{宛如蔓不/知其尺寸}云々』とあるのが、それである。勿論、これには七難の揃毛とは明記してないが、此の和子の陰毛が宛も蔓の如く、その尺寸の知れぬほど長いものであったということは、他の多くの類例から推して、明確に知り得られるのである。
七難の<ruby><rb>揃毛</rb><rp>(</rp><rt>ソソゲ</rt><rp>)</rp></ruby>の文献に現われたのは、「扶桑略記」巻二十八が初見のようである。即ち治安三年十月十九日(此月十三日に万寿と改元)に、入道前大相国{○藤原/道長}が、紀州高野山の金剛峯寺へ参詣した帰路に、奈良七大官寺の一なりし元興寺に立寄り『開宝倉令覧、中有此和子陰毛{宛如蔓不/知其尺寸}云々』とあるのが、それである。勿論、これには七難の揃毛とは明記してないが、此の和子の陰毛が宛も蔓の如く、その尺寸の知れぬほど長いものであったということは、他の多くの類例から推して、明確に知り得られるのである。


而して私は、茲にこれが類例を挙げるとするが、先ず東京市の近くから筆を起すと、北千住町の少し先きの、武蔵国北足立郡谷塚村大字新里に、毛長明神というがあった。昔は長い毛を箱に納めて神体としていたが、いつ頃の別当か、不浄の毛を神体とするは非礼だといって、出水の折に、毛長沼に流してしまった。此の毛長明神の鳥居と相対せる、南足立郡舎人村大字舎人には、玄根を祀った社があったが、今では取払われて無くなってしまった〔一六〕。下総国豊田郡石下村の東弘寺の什物に、七難の揃毛というがある。色は五彩(五色の陰毛とは注意すべきことで、後出の記事を参照されたい)長さ四丈有余、何者の毛か判然しない。伝に、往古七難と称する異婦があって、この者の陰毛だと云っている〔一七〕。これに就いては、「甲子夜話」巻三十に僧無住の「雑談集」を引用して、『俗に往昔の霊婦の陰毛なり』と載せている。今、私の手許に雑談集が無いので、参照することが出来ぬが、若し此の記事に誤りがないとすれば、僧無住は、梶原景時の末裔で、嘉禄年中の出生であるから、此の揃毛は鎌倉期にはあったものとして差支ないようである。
而して私は、茲にこれが類例を挙げるとするが、先ず東京市の近くから筆を起すと、北千住町の少し先きの、武蔵国北足立郡谷塚村大字新里に、毛長明神というがあった。昔は長い毛を箱に納めて神体としていたが、いつ頃の別当か、不浄の毛を神体とするは非礼だといって、出水の折に、毛長沼に流してしまった。此の毛長明神の鳥居と相対せる、南足立郡舎人村大字舎人には、玄根を祀った社があったが、今では取払われて無くなってしまった〔一六〕。下総国豊田郡石下村の東弘寺の什物に、七難の揃毛というがある。色は五彩(五色の陰毛とは注意すべきことで、後出の記事を参照されたい)長さ四丈有余、何者の毛か判然しない。伝に、往古七難と称する異婦があって、この者の陰毛だと云っている〔一七〕。これに就いては、「甲子夜話」巻三十に僧無住の「雑談集」を引用して、『俗に往昔の霊婦の陰毛なり』と載せている。今、私の手許に雑談集が無いので、参照することが出来ぬが、若し此の記事に誤りがないとすれば、僧無住は、梶原景時の末裔で、嘉禄年中の出生であるから、此の揃毛は鎌倉期にはあったものとして差支ないようである。

2010年12月16日 (木) 11:41時点における版

日本巫女史

第二篇 習合呪法時代

第五章 呪術方面に現われた巫道の新義

第三節 性器利用の呪術と巫女の異相

男女の性器に呪力ありとした民間信仰は、古代から存したことは既記の如くであるが、更に巫女が娼婦化し、巫道が堕落するようになってから、此の信仰が、一段と助長したことは、明白に看取される。ここには、その代表的事実として、毛髪信仰に由来する巫女の七難の揃毛に就いて記述を試みんとする。

一 原始的な毛髪信仰

毛髪を生命の指標ライフ・インデックスとした信仰は、古くから我国にも存していた。「神代紀」に、素尊が種々の罪を犯して、高天ヶ原を逐われるときに、八束の鬚を断られたとあるのは、即ち此の信仰の在ったことを裏付けるものと見て差支ないようである。降って「孝徳紀」に『或為亡人断髪刺股而誅』を制禁したのも、又た髪に生命の宿ることを意識していた民俗に出発しているのである。現にアイヌ民族では、巫女ツスの呪力は鬢髪の間に深く蔵されていて、髪を剃れば巫術は行われぬものと信じている〔一〕。こうした信仰から導かれて、毛髪には或る種の呪力の存するものとして、崇拝された民俗は、今に様々なる形式で残っている。

例えば、田畑に立てる案山子カカシの語源には異説もあるが、これは毛髪を焼いた匂いを鳥獣が嫌う為に、これを木に吊し、竹に挟んで立てた即ちかがせ(嗅せ)の転訛と見るのが穏当である〔二〕。節分の夜に、虫の口を焼くとて、鰯の頭を毛髪で巻き、柊の枝に刺し、豆殻を焚きながら唄える種々なる呪文も〔三〕、咸な臭気を以て、農作に損害を与える動物を払うためで、それが毛髪を焼いたことに源流を発していることは明白である。既載した琉球の「をなり神」の信仰は、男子が旅行する際に、姉なり妹なり(姉妹なき者は従姉妹)の毛髪二三本を所持していれば、息災であるというているが、これに似た信仰は、内地にも広く古くから行われていたのである。

ここに二三の類例を挙げれば、妊婦の横生逆産を安産せしめるには、良人の陰毛十四本を焼研し、猪膏に和して、大豆大に丸めて呑ませると宜い〔四〕。人が若し、蛇に咬まれた時は、その人の口中に男子の陰毛二十本を含ませ、汁を嚥めば、毒の腹に入ることはない〔五〕。私の生れた南下野地方では、男子が性病にかかったときは、三人の女子の陰毛をもらい集め、これを黒焼にして服すと、奇功があると云うている。これなどは、広く尋ねて見たら、更に他地方にも行われていることと思う。それから、芝居の興行師や、茶屋女などが、来客が少くって困るときは、陰毛三本をぬき、一文膏へ貼り、人に知れぬよう他の繁昌する店頭へ貼って来ると、必ずその店の客を引くことが出来ると信じていた〔六〕。

而して以上は、専ら男女の陰毛に関したものであるが、これ以外の毛髪に就いても、又た深甚なる俗信が伴っていたのである。播州飾磨郡地方では、悪疫流行の際に、袂の底に毛髪を二三本入れて置くと、悪疫にかからぬと云っている〔七〕。山城国葛野郡小倉山の二尊院の門前に、タケ明神というがある。社伝によると、檀林皇后の落ち髪を祀ったものだと云うている〔八〕。記述した称徳女帝の御髪を盗んで、犬養姉女等が呪詛したとあるのも、髪に生命の宿ることを信じていたからである。京都市外の双ヶ岡の長泉寺には、吉田の兼好法師の木像があり、外に辞世の『契りをく花と双びの岡の辺に、あはれ幾代の春をへぬらむ』の歌を、兼行が剃髪の毛で文字を綴って作った掛幅がある〔九〕。同じ京都市外の栂梶の西明寺には、中将姫の髪の毛で、祢陀三尊の種子を作った掛幅がある〔一〇〕。これと似たものが、上野国邑楽郡六郷大字新宿の遍照寺にもある。これも中将姫の毛で、弥陀三尊の梵字を一字づつ織り出しているが、俗に頭髪の曼荼羅と称している〔一一〕。

それから、甲州御嶽の蔵王権現の宝物中に、北条時頼剃髪の毛というがある。その毛は、綰ねて捲子の中に納め、その外に『最明寺殿御髪毛、愛宕山へ納め候を、当将軍様{○家/光?}御申下し、愚僧方へ参り候を、当山へ奉納候、寛永一六年正月吉日、納主不明』と記してあるそうだ〔一二〕。更に、雲州出雲郡神立村の立虫神社は、社家の伝に素尊の毛髪を納めたところだと云っている〔一三〕。そして薩摩国日置郡羽島村の髢大明神は、天智帝の妃大宮媛が、頴娃に下向のとき、同村を過ぎ髢を遺されたのを祀ったものと伝えられている〔一四〕。こうした毛髪信仰はまだ各地に存しているが、煩を避けて他は割愛した。昭和の現代でも、嬰児のうぶ毛を保存して置くのは、此の古い信仰の名残りであると言うことが出来るのである。

それでは、斯かる信仰は、何に由来しているかと云うに、その総てを尽すことは、アニミズム時代から説かねばならぬので、それは茲には省略するより外に致し方はないが、兎に角に、(一)毛髪が自然と伸長すること、(二)黒い毛が年齢により白くなること、(三)死体は腐ってしまっても、毛だけは永く残るという事などが、古代の人々をして毛髪にも一種の霊魂が宿るものと考えさせたに起因するのである。而して古代人は、異常は必ず神秘を伴うか〔一五〕、又は神秘の力を多分に有しているものと併せ信じていた。ここに頭髪なり、鬚髯なり——殊に陰毛なりが、異常に長いことを、一段と不思議とも考え、神秘力の多いものとも考えるようになった。巫女の七難の揃毛は、此の信仰から発生し、これに仏法の仁王信仰が加って完成されたものである。

二 各地に存した七難の揃毛

七難の揃毛ソソゲの文献に現われたのは、「扶桑略記」巻二十八が初見のようである。即ち治安三年十月十九日(此月十三日に万寿と改元)に、入道前大相国{○藤原/道長}が、紀州高野山の金剛峯寺へ参詣した帰路に、奈良七大官寺の一なりし元興寺に立寄り『開宝倉令覧、中有此和子陰毛{宛如蔓不/知其尺寸}云々』とあるのが、それである。勿論、これには七難の揃毛とは明記してないが、此の和子の陰毛が宛も蔓の如く、その尺寸の知れぬほど長いものであったということは、他の多くの類例から推して、明確に知り得られるのである。

而して私は、茲にこれが類例を挙げるとするが、先ず東京市の近くから筆を起すと、北千住町の少し先きの、武蔵国北足立郡谷塚村大字新里に、毛長明神というがあった。昔は長い毛を箱に納めて神体としていたが、いつ頃の別当か、不浄の毛を神体とするは非礼だといって、出水の折に、毛長沼に流してしまった。此の毛長明神の鳥居と相対せる、南足立郡舎人村大字舎人には、玄根を祀った社があったが、今では取払われて無くなってしまった〔一六〕。下総国豊田郡石下村の東弘寺の什物に、七難の揃毛というがある。色は五彩(五色の陰毛とは注意すべきことで、後出の記事を参照されたい)長さ四丈有余、何者の毛か判然しない。伝に、往古七難と称する異婦があって、この者の陰毛だと云っている〔一七〕。これに就いては、「甲子夜話」巻三十に僧無住の「雑談集」を引用して、『俗に往昔の霊婦の陰毛なり』と載せている。今、私の手許に雑談集が無いので、参照することが出来ぬが、若し此の記事に誤りがないとすれば、僧無住は、梶原景時の末裔で、嘉禄年中の出生であるから、此の揃毛は鎌倉期にはあったものとして差支ないようである。

それから、伊豆の箱根権現の什物中にも、悉難ヶ揃毛というものがあった。「尤草子」に長き物の品々にも、七なんがそそげとあるのを見ると、長い物であったことが想われる〔十八〕。上野国多野郡上野村大字新羽に神流川というがある。慶長頃に洪水があり、その時に、此の川の橋杭に怪しい長い毛が流れかかり、村民が大勢して拾いあげて見ると、長さ三十三尋余りあり、その色黒くして艶うつくしく、何の毛か分らぬので、村民も驚いたが、そのまま打ち棄てて置くことも出来ぬので、巫女を招んで占わせたところが、此の毛は同村野栗権現の流した陰毛だというので、直ちに同社へ送り返した。同社では毎年旧六月十五日の祭礼の節には、神輿の後へ此の陰毛を筥に入れて、恭しく捧げ持ち、今に陰毛の宝物とて名が高い〔一九〕。然るに、此の毛髪は現存していると見え、近刊の「多野郡誌」によると、新羽村の新羽神社の神宝にて、橘姫の毛髪長さ七尺五寸と記してある。

更に、同様の例を挙げれば、信州の戸隠神社にも、古く七難の揃毛というものがあったが、現今では山中院と称する宿坊の物となり、平維茂に退治された鬼女紅葉の毛と伝え、色は赤黒く縮れていて、長さ五六尺ばかり、丸く輪になって壺の中に納めてあるという事である〔二〇〕。それから、天野信景翁の記すところによると、尾張の熱田神宮にも、昔は此の種の長い毛があったと云うことである〔二一〕。そして、飛騨国大野郡宮村の水無瀬神社の神宝は六種あるが、その一に七難の頭髪というがある。社家の説に、昔この地に鬼神がいて、名を七難と称した。神威を以て誅伐されたが、その毛髪だと云っている〔二二〕。

尚、近江国の琵琶湖中にある竹生島の弁才天祠にも、七難の揃毛があった〔二三〕。同国石山の阿痛アライタ薬師堂には、龍女の髪の毛というのがある。琵琶湖に栖んでいた龍女が得脱して納めたものだと伝えているが、その髪は長くして、地に垂れるほどのものである〔二四〕。これには、戸隠のそれと同じく、別段に七難の揃毛とは明記してないが、併し鬼女といい、龍女というも、結局は揃毛の呪術が忘れられた後に附会した説明であるから、元は揃毛であったことは、他の類例からも知ることが出来るのである。大和国の官幣大社——巫覡に縁故の深い物部氏の氏神である石上神宮にも、また七難の揃毛というのが現存している。最近に発行された絵端書で見ると〔二五〕、今に婦人が用いる「ミノ」と称するかもじのようなもので、余り長いものだとは思われぬ感じがした。同国吉野のどろ川という所の奥のテンノ川の弁天堂に、七難のすす毛とて、長さ五丈ばかりのものがある。俗に白拍子静御前の髪の毛だとも云い、また縁起を聞くと、甚だ尾籠なものだと云う事である〔二六〕。備後国奴可郡入江村の熊野神社の末社に、跡厨殿というのがあるが、祭神は判然せぬ。神体は男女とも毛が長く、一に毛長神とも云っている〔二七〕。越前国大野郡平泉寺村から白山禅定の故地に往く道に、七難の岩屋というが残っている〔二八〕。此の二つは、やや明瞭を欠く所もあるが、毛長といい、七難とといっているので、姑らくここにかけて記すとした。

三 陰毛の長い水主明神

巫女と七難の揃毛を記す以前に、猶お予備として、陰毛の長い神の在ったことを述べて置く必要がある。讃岐国大川郡誉水村の水主神社の祭神が、陰毛が長いために、親神から棄られた縁起は既載した。但し、親神が何が故に、陰毛の長いのを恥じたのか、理由が判然せぬが、恐らく磯良神が変面を恥じたという伝説と共に、異相であったことを心憂く思ったものと考えられる。而して讃岐の隣国なる、阿波三好郡加茂村字猪乃内谷の弥都波能売神社にも、神毛にまつわる信仰が伝えられている。此の神社は、僅かに一筋の長い毛であるが、常には麻桶に入れて、神殿の奥深く安置してある。神慮の穏かならざるときは、その毛が二岐に分れて大いに延び、桶を押し上げて外へ余るようになる。これに反して、神意のなごむときは、本の如くなると、里人は語っている〔二九〕。これには陰毛だとは明記してないが、同書の附載として『大和国布留社(記述の石上神宮のこと)にも大なる髪毛あり、ソソゲといふ由』とあるのから推すと、筆者がわざと此の点の明記を 避けたものと考えられる。

日向国児湯郡西米良村大字小川字中水流の米良神社は、祭神は磐長媛命と伝えられているが確証はない。此の社にも、昔は一筋の毛髪があって、これを極秘の神宝としていた。俚伝によると、祭神が世を憤りたまい、此の地の池に投身された折の神毛だというている。元禄十六年の洪水で、此の神毛は流失してしまったが、これの在った間は、神威殊に著しく、不浄は勿論のこと、外人殊に下日向の人を憎んで、一歩も境内に入れなかったと云う事である〔三〇〕。俚謡に『お竹さん、×××の毛が長い、唐土カラ(又は江戸)までとどく』とあるのは、いつの世に、誰が何の理由があって、言い出したものか知る由もないが、七難の揃毛を背景として考えるときは、常人にすぐれた長い陰毛を持っているということは、或る種の呪力有している人と見られていたのであろう〔三一〕。そして此の信仰は、巫女が性器を利用した呪術に発し、これに仁王信仰が附会して、巫女が好んで陰毛の長大を誇り、併せてこれに種々なる装飾を加えるまでに至ったのである。

四 仁王信仰と七難即滅の思想

現在では、仁王尊といえば、寺院の門番と思われるまでに冷遇されているが、古く奈良朝から平安朝へかけては、仁王信仰は上下の間に深く行われたものである。而して仁王尊の功徳に就いては、仁王経に載せてあるが、これに関して南方熊楠氏の言われるには、

七難のこと、仁王経にあり(中略)。是等七難を避くるために、五大力菩薩(五人の菩薩名は略す)の形像を立て、これに供養すべしとなり。朝家に行われし仁王会の事なり。然るに、それは一寸大仕事ゆえ、七難即滅のために一種の巫女が七難の舞をやらかせしにて、それより色々と変り、猥褻なる事にもなり、陰を出し(中山曰。所載の貴船社の巫女と和泉式部の件参照)通しては面白からぬゆえ、秘儀を神密にせんとて、殊更に長き陰毛を纏いしなるべし。凡て仏法に隠れたる所にある長毛を神霊とせるは「比丘尼伝」の外に「大唐西域記」巻十中天竺伊爛孥伐多国、室縷多頻没底抅胝(聞二百億)の伝にも見えたり(中略)。此人(釈迦の弟子)は、一足の裏に長き金色の毛あり、甚だ寄なりとて、国王が召して見たことがある。

とある〔三二〕。以上の説明によって、七難の揃毛の由来と、巫女が好んで陰毛の長きを利用した事情が、全く釈然したであろうと思う。

更に下総の東弘寺に伝った陰毛が、五彩であったという事であるが、これに就いても、南方熊楠氏は、

姚秦三龍仏陀耶舎共笠法念訳、四分律蔵二十九巻に、爾時薄伽婆(仏の事)在舎衛国給孤独園、時六群比丘尼、蓄婦女、装厳身具、手脚釧及猥所荘厳具(印度は裸で熱い所故に、衣服を飾りても久しく保たず、汗に汚れる故に、髪腕足の輪環又陰毛を染め、甚だしきは陰部に玉を嵌める等の飾りあり)諸居士皆見識嫌云々。

との例を挙げ〔三三〕、我国のもこれを真似たものだろうと言われている。

以上の俗信を頭脳に置いて、古い七難の揃毛のことを再考すると、それは前にも述べた如く、仏説を土台とした巫女等が、猖んに長いほど呪力の加わるものとして利用した結果が、三丈五丈のものを残すようになったのである。巫女の堕落と、異相も、ここに至って極まれりと言うべきである。猶お本節を終るに際し、南方熊楠氏の示教に負うことの多きを記して、敬意を表する次第である。

〔註一〕
金田一京助氏の談。
〔註二〕
川口孫次郎氏が「飛騨史談」において、詳しい考証を発表されたことがある。私の記事は、これに拠ったものである。
〔註三〕
「水戸歳時記」によれば、同地方では「隣りの嫁さんの××の臭さよ、ふふん」と唱え、更に「吉居雑話」によれば、駿河の吉原町辺では「ながながも候、やッかがしも候、隣りの婆さん屁をたれた、やれ臭いそれ臭い」と云う由。共に臭気を以て、鳥獣を逐うた名残をとどめたもので、更に此の問題は、悪臭のする草木を呪符の代用した俗信にも触れているのである。
〔註四〕
「千金方」。
〔註五〕
時珍の「本草綱目」。そして以上の二書は、支那のものであるが、これ等の呪術が我国に行われていたので、敢て挙げるとした。
〔註六〕
「東京人類学雑誌」第二十九巻第十一号。
〔註七〕
「飾磨郡風俗調査」。
〔註八〕
「山州名跡志」巻九(史籍集覧本)。
〔註九〕
「甲子夜話」巻五十二(国書刊行会本)。
〔註一〇〕
同上。
〔註一一〕
「群馬県邑楽郡誌」。
〔註一二〕
「甲斐国志」巻六十四。
〔註一三〕
「出雲国式社考」巻下(神祇全集本)。
〔註一四〕
「三国名勝図絵」巻十。
〔註一五〕
俗に白ツ子という者や、低能者などを、異常者として、一種の崇敬した例さえある。
〔註一六〕
元禄年中に、古川常辰の書いた「四神地名録」に拠る。
〔註一七〕
「和漢三才図会」巻六。
〔註一八〕
加藤雀庵の「さえずり草」。
〔註一九〕
「閑窓瑣談」巻四(日本随筆大成本)。
〔註二〇〕
「日本伝説叢書」信濃巻。
〔註二一〕
「塩尻」巻二(帝国書院百巻本)。
〔註二二〕
「斐太後風土記」巻四(日本地誌大系本)。
〔註二三〕
「和漢三才図会」同条。
〔註二四〕
「近江輿地誌略」巻三十六(日本地誌大系本)。
〔註二五〕
東京の温故会と称する好事家の集りで秘密に出版したものに拠る。
〔註二六〕
「塵塚物語」巻四(史籍集覧本)。
〔註二七〕
「芸藩通志」巻四。
〔註二八〕
「大野郡誌」下編。
〔註二九〕
「日本伝説叢書」阿波巻。及び「阿州奇事雑話」に拠る。
〔註三〇〕
「郷土研究」第四巻第十二号。
〔註三一〕
福島県石城郡草野村大字北神谷の高木誠一氏の談に、同地方では「百舌鳥モンズモンモの毛、太夫(巫女)さんの×××毛三本つなげば江戸までとどく」と言うそうだ。
〔註三二〕
「南方来書」明治四十四年九月十三日の条。
〔註三三〕
同上。明治四十四年十月十日の条。