「日本巫女史/総論/第四章/第二節」の版間の差分

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'''三 巫女の呪言を留めたレコード'''
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明治期に人情噺の大家として聞えた故三遊亭圓右は、よく「とろゝん」と題せる落語を高座で演じたものである。此の噺のうちには、巫女の神降し文句が、巫女独特の<ruby><rb>調律</rb><rp>(</rp><rt>リズム</rt><rp>)</rp></ruby>で述べられるので、私のように巫女に興味を有していた者にとっては、相当に趣の深いものであった。然るに圓右が殁し、落語が衰えるようになってから、これを演ずる者も無くなってしまい、今では全く泯びてしまったものと思うと、少しく残り惜しいような気がする。
明治期に人情噺の大家として聞えた故三遊亭円右は、よく「とろゝん」と題せる落語を高座で演じたものである。此の噺のうちには、巫女の神降し文句が、巫女独特の<ruby><rb>調律</rb><rp>(</rp><rt>リズム</rt><rp>)</rp></ruby>で述べられるので、私のように巫女に興味を有していた者にとっては、相当に趣の深いものであった。然るに円右が殁し、落語が衰えるようになってから、これを演ずる者も無くなってしまい、今では全く泯びてしまったものと思うと、少しく残り惜しいような気がする。


信州に巫女の流行した時代の老人から聞くと、巫女が<ruby><rb>調律的</rb><rp>(</rp><rt>リズミカル</rt><rp>)</rp></ruby>に唱える呪言は、恰も今日の浪花節のように面白く、愉快に耳に響いたものであると言っている。殊に同地方の巫女は、概して年若の美人であって、旁ら売笑を兼ねていた位であるから、嬌音を滑かに朱唇より漏らすところ、かなり<ruby><rb>若人</rb><rp>(</rp><rt>わこうど</rt><rp>)</rp></ruby>の意馬を狂わせたものらしい。更に常陸の持方で聞いた話によると、巫女の呪言は明治初期の軍歌を聴くようで、誠に勇壮であったと云うている。巫女の呪言の文句も、調律も、その流儀により、元より一様ではないが、兎に角に斯うした声調も段々と聴くことの出来なくなったところへ、富士松加賀太夫が、富士松節(俗に新内節という)で東海道膝栗毛の「日坂宿巫女の神降しの段」の一節を蓄音器のレコードに吹き込んで残してくれたことは仕合せであった。加賀太夫の節調は、私の耳聞したものとは趣きを異にし、聴く人を夢の中に誘い込むような眠むたいものであるが、併しそれが故圓右のものとやや同じ調子であることを知る時、江戸を中心として行われた巫女の呪言の節調(勿論長い間に多少とも詰り<ruby><rb>歪</rb><rp>(</rp><rt>ゆが</rt><rp>)</rp></ruby>められてはいようが)であったことが察知されるのである。
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[[Category:中山太郎]]
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2008年9月4日 (木) 16:42時点における版

日本巫女史

総論

第四章 巫女史の材料と其採集方法

第二節 巫女の遺物的材料

巫女の遺物的材料も、猶お左の項に分けて記述することが出来る。

一 巫女の使用した遺物

巫女が使用した呪具には、その師承の流儀によって種々なる物があるも、就中、外法箱ゲホウバコ、弓、珠数等を挙げることが出来る。外法箱(壱岐の巫女が用いる此の種の物をユリと称しているが、これは我国の古き面影を残したものである)の大小とか、製作の精粗とかいうことは、その流儀により、階級によるもので、学問的には、元より価値の尠いものであるが、此の箱の中に納めた呪神に就いては、相当に考慮を要すべき幾多の問題が伴っている。弓は、巫女の一名が梓巫女アヅサミコと言われる程であるから、梓弓を最も古いものとし、桑ノ弓、南天ノ弓、竹ノ弓など六種あると伝えられている。一般には竹ノ弓が用いられていたが、その弓も、巫女の俚称に、大弓、小弓とある如く、二三尺ほどの物もあれば、六尺二分のもあり、更に壱岐の巫女は、八尺のを用いたとある。弦は婦人の髪の毛を麻へ撚り合せたものを用いたと云われ、撥は柳の木を一本用いるのと、竹の棒を二本用いるのとの別はあるが、学問的には深い意義がないので略述する。珠数には、東北地方のイタコが専用したイタラカの珠数と称したものと、江戸の田村八太夫とて、関八州及び甲信奥の一部の巫女の取締をしていた者の流儀に属する巫女の用いた切り珠数との二種ある。これは呪具としても、遺物としても、相当に価値あるもので、その詳細は後段に記述するが、是等の遺物が直ちに巫女史の材料であることは言うもでもない。

二 巫女に関する墓碑

琉球の祝女ノロが死ぬと、その葬儀にも、墓地にも、更に埋葬の方法にも、常人と異るものがあると、記録に見えているが、内地にあっては、斯かる区別はないようであるが、私の乏しき知識からいうと、巫女の墓碑は、その形式において、更にこれに彫刻してある戒名において、少しく常人と異るところが存している。これ等は材料としても量が少く、質も亦余りに価値あるものとは思わぬけれども、多少とも参考となるものがあるので敢て採用した。

三 巫女の呪言を留めたレコード

明治期に人情噺の大家として聞えた故三遊亭円右は、よく「とろゝん」と題せる落語を高座で演じたものである。此の噺のうちには、巫女の神降し文句が、巫女独特の調律リズムで述べられるので、私のように巫女に興味を有していた者にとっては、相当に趣の深いものであった。然るに円右が殁し、落語が衰えるようになってから、これを演ずる者も無くなってしまい、今では全く泯びてしまったものと思うと、少しく残り惜しいような気がする。

信州に巫女の流行した時代の老人から聞くと、巫女が調律的リズミカルに唱える呪言は、恰も今日の浪花節のように面白く、愉快に耳に響いたものであると言っている。殊に同地方の巫女は、概して年若の美人であって、旁ら売笑を兼ねていた位であるから、嬌音を滑かに朱唇より漏らすところ、かなり若人わこうどの意馬を狂わせたものらしい。更に常陸の持方で聞いた話によると、巫女の呪言は明治初期の軍歌を聴くようで、誠に勇壮であったと云うている。巫女の呪言の文句も、調律も、その流儀により、元より一様ではないが、兎に角に斯うした声調も段々と聴くことの出来なくなったところへ、富士松加賀太夫が、富士松節(俗に新内節という)で東海道膝栗毛の「日坂宿巫女の神降しの段」の一節を蓄音器のレコードに吹き込んで残してくれたことは仕合せであった。加賀太夫の節調は、私の耳聞したものとは趣きを異にし、聴く人を夢の中に誘い込むような眠むたいものであるが、併しそれが故円右のものとやや同じ調子であることを知る時、江戸を中心として行われた巫女の呪言の節調(勿論長い間に多少とも詰りゆがめられてはいようが)であったことが察知されるのである。