日本巫女史/第一篇/第七章/第四節
第四節 予言者としての巫女
巫女の最も重大なる職務は、予言者としてである。若し巫女の職務のうちから、此の部分を除き去るとすれば、その大半まで失われてしまうことになるのである。天候に、戦争に、狩猟に、更に疾病に、航海に、巫女の活動し、且つ神聖なるものとして崇拝された所以は、此の予言をする一事に係っていたものであって、これを完全に遂行するために、呪文を唱えたり、神憑りの状態に入ったりするのであった。太卜といい、託宣というも、所詮は此の予言の方法にしか過ぎぬのである。而して、巫女の予言には、狭広両義の双面を有していたと考えられる。即ち狭義としては、巫女自身に神が憑って予言する場合で、広義としては、他人の歌謡なり、行動なりを聴き知って、これを適当に判断することである。而して前者に関しては、既述した神功皇后の執り行われたことが、概略を尽していると信ずるので今は略し、茲には専ら後者に就いて記述したいと思う。
前にも引用したが「崇神紀」十年秋九月の条に、大彦命が四道将軍の一員として出発の途上、少女の歌を聴きてこれを
- 於是天皇姑、倭迹々日百襲姫命、聡明叡智、能識未然、乃知其歌恠、言于天皇、是武埴安彦将謀反之表者也。
とあるが、この未然を知るとは、即ち歌を判じて予言をしたのであって、此の場合における百襲姫の所業は、巫女そのままであったのである〔一〕。
更に同「崇神紀」六十年秋七月の条に、出雲大社の神宝に関して、出雲振根が誅されて、
- 故出雲臣等畏是事、不祭大神、而有間、時丹波氷上人、名氷香戸辺、啓于皇太子活目尊曰、己子有小児、而自然言之(中略)。是非似小児之言、若有託言乎、於是皇太子奏于天皇、則勅之使祭云々。
とあるのも、その母親である氷香戸辺が〔二〕、巫女としての素養——当代の女性は、殆んど悉く巫女的の生活を送っていたので、夙くも此の童謡を神託と判ずるだけの知識を有していたのであろう。斯う考えて来ると、例の速断から、古代の託言を意味した童謡(これ以外にも皇極紀や斎明紀にも見えている)の作者は、或は是等の巫女が予言者としての所為ではなかったかとも想像せられるのである。例えば「皇極紀」三年夏六月の条に、
- 是月、国内巫覡等、折取枝葉、懸掛木綿、伺大臣度橋之時、争陳神語入微之説、其巫甚多、不可具聴(中略)于時有謡歌三首云々。
と載せたのは、その徴証とも見ることが出来るようである。
猶お此の機会に記したいと思うことは、歌占に関してである。後世になると、歌占は白木の
- 〔註一〕
- 「崇神紀」に拠れば、百襲姫は大物主神の妻となられ、大和に箸墓の故事を残された有名なお方だけあって、その平生の生活も、全く高級の巫女として考うべき点が、多く存しているようである。従って、未然を察し、予言をなすことも、当然の所業であると拝察されるのである。
- 〔註二〕
- 戸辺の用例は、古代には数々見えているが、それは概して女性を意味しているもので、私は我が古代の母権制度の面影を伝えたものだと信じている。而して飯田武郷翁の「日本書紀通釈」には、此の氷香戸辺は男性だと論じているが、私には首肯されぬことである。
- 〔註三〕
- 葦占連は既記したので略すが、石占連のこと「新撰姓氏録」に見ゆるより推して、古くはこれを職掌とした者があったと考えられる。夢占に就いては、後章に言う機会もあろうが、平安朝には此の職掌の者が置かれてあった。