日本巫女史/第二篇/第五章/第二節
第二節 奥州に残存せるオシラ神の考察
陸中国を中心として、陸前と陸奥と羽後の各一部にかけ、イタコと称する巫女の持っているオシラ神なるものは、我が民俗学会における久しい宿題であって、今に定説を見るに至らぬほどの難問なのである。私の菲才にして寡聞なる、到底この難問を解決することは不可能であるが、ここに所信を記述して、江湖の叱正を仰ぐとする。
一 オシラ神に関する伝説
オシラ神を学会に提出したのは「遠野物語」であると信ずるが、その由来に就いては、概略左の如く記してある。
- 昔ある処に貧しき百姓あり、妻はなくして美しき娘あり、又一匹の馬を養う。娘此馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、遂に馬と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘に知らせず、馬を桑の木に吊下げて殺したり。其夜娘は馬の居らぬより、父に尋ねて此事を知り、驚き悲て桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父は之を悪みて斧を以て、後より馬の首を切り落せしに、忽ち娘は其首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作る。其像三つありき、本にて作りしは山口の大同にあり、之を姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎という人の家にあり(中略)。末にて作りし妹神の像は、今
付馬牛 村にありと云えり云々〔一〕。
此のオシラ神由来記とも云うべきものが、支那の「捜神記」の蚕神の伝説の影響を、多分に受け容れていることは言うまでもない〔二〕。而して此の記事に就いては、更に注意すべき三つの点がある。
第一は、此の神を、民家で祭っていたということである。併し、これは初めからの習慣では無くして、巫女の家の後か、又は巫女の手を離れた神を、篤志の者が祭ったと見るべきであろう。現に磐城国石城郡上遠野村附近では、オシラ神のことをシンメイ(神明)様と称え、在家では之を祭らず、修験行者(ワカと称する巫女)の徒が祈祷の折に持参し来って拝ませるとあるのでも〔三〕、その古い時代のことが想われるのである。
第二は、神体を桑の木で作るということであるが、これも古い時代にあっては、必ずしも此の木に限られたものではなくして、多くは竹で作っていたようである。菅江真澄翁の「月の出羽路」巻廿一に、羽後国仙北郡地方の事として、次の如く出してある。
- 谷を隔てて生立る桑ノ樹の枝を採り、東の
朶 を雄神、西方を雌神とし、八寸余りの束 の末に人の頭を作り、陰陽二柱の御神に準う。絹綿を以て包み秘め隠し、巫女それを左右の手に取りて、祭文祝詞を唱え祈り加持して祭る。
此の記事から推すと〔四〕、桑で作ることも、決して新しいものでは無いが、更に遠き昔においては、竹で間に合せたよううである。恐らく、オシラ神が「捜神記」などの影響で、蚕の神となってから、桑で作るようになったものと考えて差支ないようである。
第三は、馬の首を斬ったという事であるが、これは阿波国に残っている首斬り馬の伝説と同じもので、何か両者の間に共通したものがあるのではないかと思われるのである。而して姉崎正治氏は、曾て「中奥の民間信仰」と題せる記事中にて、オシラ神に関し下の如く述べたことがある。
- 盛岡付近にては、不動の変形を「オシラサン」と称して崇拝し、其神体は桑樹の四枝を出だせる枝四体にして、常に此四体を離せば罰を受くと信ぜり。此神は婦女小児の心願を成就せしむとて、彼等は布を以て之が頭を蔽うを以て、之が崇拝の方法となし、多くは小児の守護神として、時には小児等之を街上に引廻す事あり。此神霊は又時に桑梢の四岐せる所に宿れるを以て、此の如き桑樹は霊樹として切るべからず、之を切る者は明を失し、其他重病に罹ると。此神に附属せる古き神札を見れば、明かに阿遮羅尊の名を記し、其二童子の名を附記せり。故に「オシラサン」とは阿遮羅尊(Acala)即不動なるも、「オシラサン」として祀れる者は不動と同一なるを知らざるなり。何れにしても之を威力の神として、特に疾病に関係ある神として祭れるに至りては一なり云々〔五〕。
姉崎氏の記事は、明治三十年頃の古いもので、且つ盛岡地方に限られた採訪であるから、これに対して批評がましい事を言うのは差控えねばならぬのであるが、其中の一つだけを云えば、オシラ神と不動尊とが一体であるといわれたのは如何かと考えられるのである。前にも記した如く、東北の巫女は神と結婚する古俗を忠実に守っていて、愈々一人前の巫女となるとき、
二 オシラ神の神体と装束
此神に関する諸種の報告を参酌すると、オシラ神の神体は陰陽二体を原則とし、古いものほど竹で作り、
三 オシラの語原と其の分布
此の神を何故にオシラと言うかに就いては、相当学界に異説もあるが、ここにその大略を摘記すれば、第一説は、前掲の折口信夫氏の云われたように、元はオヒラと称して、ヒナ(雛)を意味していたのが、斯く転訛したのであると云うのである。第二説は、加賀の
私はオシラ神の語原に対する態度を明かにする以前に、更に此の神が我国の如何なる地方に分布しているかに就いて述べるとする。此の神が、東北一帯——殊に陸前、陸中、陸奥、羽後にかけて分布していることは、既に述べた如くであるが、此の反対に、他地方には、全く見ることの出来ぬ神のように解されていた。換言すれば、オシラ神は、東北地方の特殊神であって、此の以外には、存在せぬものである如く見られていたのである。
併し、私の寡聞を以てするも、此の解釈は全く誤りであって、かなり広く分布していたことが知られるのである。最近の報告によると、武蔵国西多摩郡の各村落にては、此の神(但し神体は異っていて、此の地方のは仏像である)を祭り、今にオシラ講というのが各村に在ることが証明された〔七〕。柳田国男先生の記事によって知った、越後長岡辺では昔は蚕の事を四郎神と云い、正月、二月、六月の午の日に、小豆飯を以てこれを祭ったのや〔八〕、上野国勢多郡宮田村などでも、正月十四日の夜をオシラマチと呼び、神酒と麺類とで蚕影山の神を祭ったとあるのも〔九〕、共にオシラ神の分布されたものと見ることが出来るようである。
更に「延喜式」の神名帳に載っている武蔵国播野郡の
以上は手許にあるカードから抽出したのに過ぎぬのであるが、克明に全国に渉って詮索したら、まだ幾つかのシラ神を発見することが出来ようと思う。而して此の貧弱なる類例から推すも、古く此の神が殆んど全国的に分布されていて、決して東北地方に限られた特殊神で無いことが釈然したと信ずるのである。従って此の立場から言えば、オシラ神の語源に、第一説のヒナ(雛)の転訛と見るのが、尤も妥当であると考えるのである。そして此の神を東北に持ち運んだのは、熊野比丘尼の徒であると思うのである。
四 オシラ神のアイヌ説
此の神はアイヌ民族の持っていたものであるという説も、かなり古くから伝えられている。例えば「蝦夷風俗彙纂」に引用した「松前記」の一節に『蝦夷にはオホシラ神といふ物あり、何の神という其由来を知る者なし、桑の木の尺余なるに、おぼろげに全体を彫る、男女の二神なり(中略)。其神、巫女に懸りて吉凶をいふ(中略)。中国にある所の犬神といふものにひとしきか』と載せ、更に明治になってから出版された「あいぬ風俗略志」にも、これと同じような記事が見えている。併しながら、是れは柳田国男先生が言われたように『信仰は普通に単なる二種族の接触のみに由って、一が他を感化し得るものとは想像し難く、殊に敗退者たる本土アイヌとして、其神を故地に留めて今日の盛況の原因をなしたということは、決して推断し易い事柄では無いと思う』とある如く〔一六〕、此の神をアイヌの遺物とすることは無理だと考える。殊にアイヌ民族の研究者として当代の権威である金田一京助氏にお尋ねしても、オシラ神を持っていた伝説も聴かず、又これを崇拝している痕跡も見えず、殊に「松前記」にかかる記事は載っていぬとて、近刊の「民俗学」第一号で発表されているから、これは内地の神と見るのが穏当である。
五 オシラ神は呪神で無い
斯う考えて来ると、オシラ神は、その始めは巫女が行う所の呪力を授ける神ではなくして、恰も
- 〔註一〕
- 「遠野物語」は、柳田国男先生が、遠野町に近き陸中国上閉伊郡土淵村大字山口生れの佐々木吉善(当時は繁と云った)の話を記されたもので、我国の民俗学上には意義の深い著述である。
- 〔註二〕
- 「捜神記」の記事は余りに有名で、誰でも知っていることゆえ、わざと省略した。
- 〔註三〕
- 「郷土研究」第三巻第二号。
- 〔註四〕
- 同上第一巻第五号
- 〔註五〕
- 姉崎氏の記事は「哲学雑誌」に載ったものだというが、今は八濱督郎氏編纂の「比較宗教迷信の日本」に拠った。
- 〔註六〕
- 神や仏を祭るときに、その像へ、白粉や、獣魚の鮮血や、更にベニガラ、泥などを塗る民俗は各地にある。殊に、面白いのになると、小豆飯の汁だの、饀などを、塗りつけるものさえある。
- 〔註七〕
- 八王子市出身の学友村上清文氏の談。因に、同地方のオシラサマの仏像は「民俗芸術」の人形芝居号に、写真版になって挿入してある。
- 〔註八〕
- 「郷土研究」第一号第五号所引の「北越月令」。
- 〔註九〕
- 同上所引の「宮田村沿革史」。
- 〔註一〇〕
- 「神名帳考証」に拠る。
- 〔註一一〕
- 「東作誌」。
- 〔註一二〕
- 「雲陽誌」巻下。
- 〔註一三〕
- 「有田郡誌」。
- 〔註一四〕
- 「芸備国郡志」。
- 〔註一五〕
- 「美馬郡郷土誌」。
- 〔註一六〕
- 「民俗芸術」第二巻第四号。