毛髪フェチシズム
毛髪フェチシズム
変態性慾の一種に、女の髪の毛を切取って、喜ぶ者がある。他人の意志に反して切取るのだから一つの犯罪行爲であって、かような変態性慾者は常に裁判所の厄介になる。 女の髪は男の眼を惹き易い、「徒然草参考」に、「女に美人の徳、數多あれど、髮の麗しきが第一の徳なり。三十二相も頂上肉髻(はつ)相とて髪の見事なるを第一とす。」とあろが、このように髪の麗しきが、第一位に置かれるのは、生理学的に言えば、男に最も喜ばれるからである。近頃断髪が流行するけれど、断髪がいいか又は房々とした柔かい長い髮がいいかと尋ねたら……さて、モダーン・ボーィは何と答えるであうう。 毛髪を讃美する心はどの男にもあるけれど、特に毛髪の香を嗅いいだり、毛髪に触れて見たり、或は毛髪を無理に切取って一種の性的快感を覚えるのは、病的心理と言わねばならぬ。これを毛髪フェチジスムと言い、かような人間を毛髪フェチシストと呼んで居る。
髪の美しさのうち、最も重要な部分を占めて居るのば、その色の美しさである。如何に房々した髪でも、色が悪くては美しいとは謂われない。日本では漆黒の髪が喜はれ、西洋では真紅な金髪が喜ばれる。日本の小説の若い女主人公は常に真っ黒な髪をした女であって、西洋の小説の女主人公は多くは真紅の金髪である。 毛髪フェチシストに喜ばれるのも、西洋では真紅の金髪が一番多いらしい。無論その例外ば沢山あって、ヒルシュフェルドは、紅い髪に対して、特に激しい憎悪を抱く変態性慾者の事を書いて居る。然し、その男は遂に真紅な髪の女と結婚したそうである。そうしてその男はその理由として紅い髪の女を配偶者として暮して居たら、自分の紅い髪に対する憎悪心も減ずるかも知れぬと思ったからだといったそうである。
時には白髪が毛髪フェチシストの特に喜ぶ所となる。殊に若い女の白髪はかような変態性慾者に嬉しがられる。反対に又女で男の白髪を喜ぶ者が沢山ある。ヒルシュフェルドは、同衾の際、必ず良人に白髪の鬘を被らしめた女の例を記して居る。
女の髮を切取る変態性慾者は日本の記録にも少なくはない。田中香涯氏の著「愛と残酷」の中に「諸国里人談」「敗鼓録」「善庵随筆」等の、髪切り流行の記事が擧られてあるが、そのうちのある者は、恐らく毛髪フェチシストの仕事だったに違いない。
髪切り男について科学的の研究を行ったのはクラフト・エービングである。氏の名著「変態性慾」の中には沢山の例が記されてある。中に極端なのは、四十歳の錠前屋で、彼は實に六十五個の女の髪束を持って居た。彼は最初女の髪に触れたくてならず、ある時偶然若い女の髪に触れて、恍惚感に襲われた。それから彼は街へ出て女の髪を切取ったのであるが、常にその髮を弄って性的満足を得たのである。
かような変態性慾者の中には女そのものに少しも愛を感じないで、唯その髮だけに愛を感ずる者がある。ウルフェンの記載せる者がそれで、その男は、妹の髪の毛をも切った。そうして、常に髮の毛の夢ばかりを見た。
毛髪フェチシストの中には随分変な例があって、クラフト・エービングの記載した所によると鬚の生えた女にのみ執着を感じた男がある。彼は男のように髪の生えた女と結婚したが、その女に死に別れてから、長い間同じような女を探し求め、漸くにして一人見つけ出して、始めて落つく事が出来た。
海を渡る時、難船に逢うと、船人が髪を切って龍神に捧げる習慣がある。これは「擁書雑筆」に拠ると、西蕃に真似たものだというのであるが、これによって見ると龍神は、毛髪フェチシストであるかも知れない。讃岐の金毘羅大権現、常陸の安波大杉大明神などには頭髪を断って奉るものがあるという事であるが、何故にこれ等の御神体が毛髪を御好みになるかは元より分からない。
(小酒井不木『医談女談』)