日本巫女史/総論/第六章
第六章 日本巫女史の時代区分法
日本巫女史を区分するには、(一)時代によってするのと、(二)職掌によってするのと、(三)地方によってするものとの三方法が存している。更に詳しく言えば、(一)は、従来の歴史の区分法により、国初、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治と、各時代分けにする方法である、(二)は、神和系の神子も、口寄系の市子も、元は同根より発生したものであるが、後には職分を異にして、前者は専ら神社に附属して神に仕え、後者は夙に町村に土着して霊媒を営むようになったので、これを標準として区分する方法である。(三)は、内地巫女史、琉球巫女史、アイヌ巫女史と地方によって区分する方法である。併しながら、是等三種の区分法は、巫女史としては、決して適当であるとは考えられぬので、私は全然是等に拠らぬ新しき区分法を採ることとした。即ち主として巫女の行うた呪術を基調として、(一)固有呪法時代、(二)習合呪法時代、(三)退化呪法時代の三期としたのである。
一、固有呪法時代
建国の当初より応神朝までを斯く称するのである。年表により年代的に云えば、神武帝の即位紀元より、応神帝の四十一年まで、前後九百七十年間を含んでいるのである。而して神武紀元以前の所謂「神代」なるものは、此の時代のうちにおいて併せ記すこととした。
これは誠に曖昧なる区分法であるが、学問的に見れば、神代とは云うものの、それが記録となったのは迥に時代の降った奈良朝のことであるから、多分の追記もあるし、尠少ならぬ修飾もあると信ずるので、神代を固有法時代において記述することは、決して不当とは思われぬからである。且つ後世より上代を見るのであるから、神代は固有法時代の最も純粋なるものとして考覈すべきものと信じたからである。
二、習合呪法時代
仁徳帝の即位紀元(紀元九七三年)から、正親町帝の天正元年(紀元二二三三年)まで、約一千百六十年間を指しているのである。これは応神朝に韓国から儒教が公然と我国に輸入され、これと前後して支那において発達せる陰陽道(五行説及び讖緯説をも含めて斯く云う)も舶載し、更に秦韓両民族の我国に投化する者も年を趁うて多くなり、是等の関係から我が巫女の呪術にも変動を来たし、固有呪法と陰陽道との習合は、案外早くから行われていた。然るに、欽明朝に仏教が公然と百済から輸入され、これが一般に普及されるようになると、今度は固有呪法は仏教の事相と習合することとなり、巫女の呪法は弥が上にも複雑を極めるようになった。而して此の複雑せる呪法は、平安朝頃の国情と相俟って、益々猖んに行われ、鎌倉期に多少の矯正を見たものの、室町期に入るや、遂に当時民間に勢力を有していた修験道と抱合して愈々迷信を鼓吹し、社会を荼毒すること実に眼を掩うばかりになった。
三、退化呪法時代
正親町帝の天正二年(紀元二二三四年)から昭和帝の昭和四年(紀元二五八九年)まで 前後三百五十五年間を含めたものである。天正二年を退化呪法の初期とした事は、別段に巫女史上重大な意義がある訳ではないのであるが、恰も織田信長が天下に号令せんとする勢力をなし、我が国情も之を境として一変して、やがて江戸期三百年の泰平を致さんとする前提となっていたので、姑らくこれに時期を劃したに過ぎぬのであって、寧ろ江戸期の初葉を以てする方が穏当であったかも知れぬ。併し関東の実際上の巫女頭とも云うべき望月千代女が、武田信玄より朱印状を得たのは、永禄年中の事であるから、江戸期まで引き下げられぬ事情もあるので、斯く区分したのである。而して更に一言附記すべき事は、我国の巫女は明治六年の教部省の禁止令によって一切勦絶され、此の種の業態の者は世に存せぬ事になっているので、それ以後の大正・昭和まで此の時代に含める事は、頗る失当の嫌いがあるように解されるが、巫女の実際は、此の禁止令から逭れて、名を宗派神道の教師と変えたまでで、今にその業態を営んでいる者がある。それ故に姑らく明治以降までかけた次第なのである。
以上の区分は、自分ながらも、余りに常識的であって、非学問的だと知らぬ訳ではないが、さればと言って、普通の日本歴史に依拠して、細かに時代分けとした所が、その時代に相当する史料において欠けるものがあるので、今は暫定的に此の区分に従うこととした。他日、更に豊富なる史料を加えることが出来て、本書も増補改訂する機会があったら、又その折に区分方法を改めるに躊躇するもので無いことを附記して総論を終るとする。