日本巫女史/第二篇/第二章/第四節
第四節 生活の機構が導いた両者の性的結合
弘安年中に僧無住の書いた「沙石集」は、鎌倉期の世相を考覈するには、有要なる史料で満たされている。その巻七「無嫉妬之心人ノ事」と題する記事の末節に、
- 或る山の中にて、
山伏 と巫女 と往きあひて物語しけるが、人もなき山中にて凡夫のならひなれば、愛欲の心起りて、此みこにおちぬ、此みこ山沢の水にて垢離かきて、鼓を鼕々とうち、珠数おしすりて「熊野白山三十八所、猶もかかる目にあはせ給へ」と祈りけり。山伏又垢離かきて、珠数おしすりて「魔界の所為にや、かかる悪縁にあひて不覚を仕りぬる。南無悪魔降伏不動明王、今はさてあれと制させ給へ」と云て、二人行き別れにけり。
と載せてある。而して此の記事は、少くとも、(一)両者が同じように信仰生活に処したこと、(二)且つ同じように漂泊生活を営んでいたこと、(三)然も同じように性行為に就いては、多少とも世間をかねる境遇に置かれていたことの三つの暗示を与えているのである。
巫女と修験の信仰生活が共通したことは既述したし、漂泊生活が類似したことは後既に説くゆえ、ここには性行為に就いて一言するも、巫女は原則として良人を有たず、浄き独身生活を送るべき約束があったのである。修験は教義の上からは、妻帯する事は禁じられてはいなかったが〔一〕、信仰に生き、霊界の事に従うものは、常人の為しかねる事を敢てする点に、威望が繋がるのであるから、如何に有髪の優婆塞でも、女性に関しては遠ざかるほどの態度を持することが必要であった。平田篤胤翁の「古今妖魅考」三巻は、翁一流の廃仏拆僧の考えを以て著わされただけに、極端にまで僧尼の非行乱倫を列挙してあるが、是等によるも、彼等信仰生活を営んだ者が、如何に性の問題に就いて苦しんだかが窺われるのである〔二〕。
然るに、社会の大勢は、これ等の巫覡の呪術を軽視するようになり、巫覡それ自身の信仰も、漸次堕落して来るようになれば、同気相求むると云うか、同病相憐むと云うか、兎に角に、此の両者が一つになって——夫婦として共同生活を営むようになるのは、先ず当然のこととして認めねばならぬ。而して此の傾向は、近古に至って益々増長を加えて来たのであるが、それ等の実例、及び共同生活の内容等に関しては、第三篇に詳しく述べる機会があるので、今は除筆する。
巫女と修験道との呪術的関係に就いては、猶お幾多の問題が残されている。「七十一番職人歌合」に、
- 〔註一〕
- 我国の修験者を、仏法の優婆塞に、更に巫女に同じ優婆夷の語を充て、説明する者があるが、これは大へんに相違していると思う。仏法上の用例に従えば、両者は五戒を受けて、近く三宝に仕えるだけの者で、即ち在家の篤信者にしか過ぎぬ。又た我国に於ける清僧が、性の問題に触れて修験者になった幾多の例もあるが、ここにはその研究が目的でないので省略した。
- 〔註二〕
- 私は曩に「泡子地蔵が語る堕胎史の一片」と題して、此の種の問題に就いて、多少の考察を試みたことがある。拙著「日本民俗志」に収めて置いた。御参照を乞う。