日本巫女史/第一篇/第四章/第三節
第三節 呪術に用いし排泄物
人体の性器を以て呪術を行いしことは、第五章に記述する考えであるが、茲には人体から排泄された物を呪術に用いしことに就いて叙説したいと思う。ただ、血液を排泄物として、他の唾液や糞尿と同じように取り扱うことは、少しく妥当を欠く嫌いがあるも、別にこれがために一節を設くるも仰々しいと考えたので、姑らくここに併せ記すこととしたのである。
一 血液
古代人が他の民俗と闘争して負傷し、又は狩猟に出て猛獣と格闘して負傷したときに、身内から滾々として流れ出ずる血を見ての驚き、及びその血の流れ出ずることが止ると共に生命の尽きることを知って、血は生命の根元なりと信ずるようになったのは、蓋し当然のことと言わなければならぬ。ヴントは、これを血液魂と名づけ、
かく、血の神秘と、呪力を信じた古代人が、その血を呪術的方面に利用せんと企てたことも、又た当然のことと言わなければならぬ。そして是れが最初の利用は血そのものを飲むと云うことであった。現に我国の侠客と称する者の間において、親分乾児の義を結ぶ盃をするとき、又は兄弟分の盃をするときに、血を酒に和して飲み合うのは〔一〕、これが名残をとどめたものであって、此の事は一面から見れば、親分の血を飲むことによって、親分の有する力を分け与えられたものとする精神的の誓いであって、更に他の一面から見れば、これが為めに親分の命令には絶対に服従する社会的の盟いであった。近年まで、山形県田川郡の各村々では、結婚式を挙げる折に、新郎は左の無名指から、新婦は右の無名指から、針を刺して血を出し、それを一つの盃に入れて飲み合うたというが〔二〕、これは血を飲むことが直ちにお互いの魂を飲み合うことを意味したものであることは言うまでもない。武士階級に行われた血判なるものも、又た此の思想に由来していることは勿論である。
人の血を飲むことが、他の動物の血に移されることは、極めて自然の経過と見るべきである。人の血が容易に得られなくなるようになれば、動物中の特に霊性あるものと信じた鹿や猪の血を以てこれに代えることは、少しも不思議のない遷り変りである。殊にそれが、民間の対症療法として、或る種の病気には或る種の動物の血が効くと云うようになれば、想いも寄らぬ動物の血が、呪術的に飲まれるのは、寧ろ有り得べきこととしなければならぬ。疾病と呪術の関係については、後章に巫女の職務を説く折に詳述したいと考えているので、茲には多く言うことを避けるとするが、血が呪術の材料として用いられたことは決して珍らしくはなかったのである。今に肺病には鼈の血が、肺炎には鯡鯉の血が利くとて好んで飲み、琉球では重病者に、生きた豚に竹の管を刺して熱い血を飲ませるなど、有り触れた事実として見聞するのである。此の事は医学的に言えば一種の輸血法として説明されるのであろうが、こういう点からも、呪術は科学の母であったことが想い合されるのである。
「播磨国風土記」讃容郡の条に、
- 所以云讃容者、大神姉妋二柱、各競占国之時、妹玉津日女命、捕臥生鹿、割其腹而種稲其血、仍一夜之間生苗、即令取殖(中略)。即
鹿枚山 号鹿庭山云々。
とあるのは、鹿の血に稲種を浸して播いたために、稲が一夜にして苗を生じたことを言うたのであって、即ち血液に呪力を信じたものなのである。由来、我国には北野神社の一夜松の伝説を始めとして〔三〕、各地に一夜にして生えた杉とか、松とか云うもの、又は一夜稲とか、一夜麦とか云う伝説が沢山に存しているが、これはその始めは「播磨風土記」に現れたように、神の意を占うべき
而して同書賀毛郡
- 丹津日子神、法太之川底欲越雲潤之方、云爾之時、在於彼村、大水神辞云吾以
宍血 佃故、不欲河水云々。
これは稲種を血に浸したのではなくて、宍血を以て田を作る——即ち宍血を肥料にしたというほどの意味に云われているけれど、それが呪術的の効能を期待されて用いられたことは想像に難くない。誰でも知っていることではあるが「古語拾遺」に御歳神が怒って田の稲苗を枯らしたとき、大地主神が、その怒りを
琉球には、現時でも血の俗信が深く、祖先の遺骨の実否を正すには、これを求むる子孫が指など傷けて血を出し、その骸骨に注ぎかけ、祖骨なれば血が骨に滲み込むと云うている。又た妊婦が流産して出血の甚だしいときは、応急手当として、局部より出た血を口中より注ぎ込めば良いとて行うている。更に豚の料理でも、目上の者に送るには、血いりちと称して、同じ豚の血を以て煮ると定っている。殊に同地では、豚の血を尊重し、漆器の朱塗りの材料に用い、糸満の漁夫は網に此の血を塗ると豊漁であるとて、血を買いに来ることすらあるそうだ〔四〕。また同地の石垣島では悪疫が流行するときは、村道の辻や家並の門に注連縄を張り、これへ牛の血へ浸した藁と、牛骨(方言にてフシマフサハサァーと云う)及び蒜の根を結びしものを縄の中央に懸け垂れて予防の呪符とするそうである〔五〕。
以上は悉く血を魂の宿るものと考えた結果から生じた呪術である。而してこれに類似した俗信は、内地にあっても広く各地に行われていたのである。武蔵国北足立郡箕田村大字三ツ木の山王様へ参詣する者は、必ず紅がらを御神体の局部へ塗るのは、古くそれが血ノ灌頂の俗信から出ていることは言うまでもない〔六〕。土佐国室戸崎の捕鯨場に漁ノ神として蛭子像が祀られてある。漁師は海に出て初めて獲た魚を持ち帰り、その鮮血を此の像に塗ることに定めてあるが、同地の豊漁と不漁とは、此の像の乾湿によって知られると云うことである〔七〕。
斯うした民俗学的の徴証を列挙する段になると、兎に角に私が専攻しているだけに、読者がうんざりするほど夥しきまでに陳列することが出来るが、例証は必ずしも多きを以て尊しとせぬので他は割愛する。此の民俗から推すのも太だ早速ではあるけれども、稲荷神に限って鳥居を赤く塗ることなども、何か曰くがありそうに思われる。
最後に血の信仰に就いて閑却されぬ問題は、婦女の月水を利用する呪術である。「景行紀」に載せた、宮簀媛の襴に月立ちにけりとある一句は、専ら血の忌み、若しくは血の穢れと云う意味にのみ解釈されているが、かく月水に近づくべからず、触るるべからず、と
二 唾液
私は先年、客気に駆られて、紀伊国熊野神社の祭神である
- 伊弉諾尊追伊弉冊尊所在処(中略)。及所唾之時、化出神号曰速玉之男、次掃之時、化出神号曰泉津事解之男、凡二神矣云々。
と載せてある。而して斯くの如く唾液が神格化されるようになったのは、古く唾液には呪力が在るものと信じられた為である。諾尊が冊尊を追うて黄泉国に到り、
唾液の有した呪力に就いては、これを民俗学的に見るときは、古今を通じて、その例証の多きに苦しむほどであるが、それを一々載せることは差控えるとして〔九〕、更に、事解神に就いて私見を述べんに、これは大和葛城の一言主神が、
而して此の神話から派生した唾液の呪力は、古代人の固く信仰していたものと見えて一二の記録に残されている。「日本書紀」神代巻に、天孫彦火々出見尊が兄火酢芹命と山幸海幸を交換し、兄の鈎を失いて海神の宮に至り、海神が此の鈎を得て尊に授けるときに教えるに『兄の鈎を還さん時に、天孫則ち言ひますべし、汝が生子の八十
而して以上の記事は、一般の呪術に関するものであって、特に巫女に限られたものではないのであるが、今はさる選択をせずに記述したまでである。巫女が唾液を呪術に用いたことに就いては、後章において触れる考えである。
三 尿
「日本書紀」の一書に、諾尊が黄泉国より追われて帰る時『大樹に向ひて
併しながら、古代の徴証にあっては、私の寡聞なる是れ以外に知るところがないので、何とも言うことが出来ぬ。更に糞を呪術に用いたことは既述したので省き、此の外に鼻汁を青幣としたことが神代巻に見えているが、これも巫女史としては左程に重要な記事とも考えられぬので、同じく省略に従うこととした。
- 〔註一〕
- 私の故郷である下野国足利郡地方は、私の少年の頃は謂ゆる「長脇差」の本場であって、博徒の親分と称する者が沢山あった。現に、私の近所にも「親分」なる者が住んでいて、少年の頃によく、親分乾児の固めの盃をする儀式?を目撃したものであるが、親分の血(小指へ針を刺して取る)を冷酒に和し(後には塩を酒に和した)て飲むのであって、その式は立会人とか介添人とか云う連中が居並び、実に悲壮を極めたものであった。兄弟分の盃は、お互いに血を出し合って飲み合うのであるが、彼等の間には「血を飲み合った仲」と云うのは、血肉を分けた親子兄弟よりも義に強い所があった。
- 〔註二〕
- 「東京人類学雑誌」第一巻第十号
- 〔註三〕
- 「北野縁起」に載せてある。
- 〔註四〕
- 「土俗と伝説」第一巻第四号所載「沖縄書き留め」の条。
- 〔註五〕
- 石垣島観測所長岩崎卓爾氏の「ひるぎの一葉」に載せてある。
- 〔註六〕
- 此の山王様は、性的神としては有名なもので、諸種の雑誌や書籍に載せてある。今は斉藤昌三氏著の「性的神の三千年」に拠る。
- 〔註七〕
- 土佐高知市に居住の先輩寺石正路氏より私への書信に拠るが、此の事は同氏著の「土佐名勝巡遊録」か「土佐遺聞録」かに載せてあったと記憶する。
- 〔註八〕
- 大正五六年頃に、国学院大学に開催された、郷土会の席上で講演した。そして是れには、猶お我国で椿の木を霊木として信仰した由来——即ち椿(つばき)と、唾(つばき)との関係を説かなければならぬのであるが、今は煩を避けて省略する。
- 〔註九〕
- 岐路に立ったとき唾八卦を行うとか、蛇を指してそのままにして置くと指が腐るので唾を吐きかけるとか、睫毛を唾で濡らすと狐に騙されぬとか、斯うした俗信は、各地に亘って数えきれぬほど沢山ある。
- 〔註一〇〕
- 「古事記」雄略巻にある。
- 〔註一一〕
- 一言主神は当時における呪術師——即ち覡男であったのである。此の神に就いては「郷土研究」第四巻第一号に載せた柳田国男先生(誌上には川村杳樹の匿名)の「一言主考」を参照せられたい。神祇官流の学者などには、千両の物を一口に喰うても考い出せぬほどの卓見である。