日本巫女史/第一篇/第一章/第五節

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日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第一章 原始神道に於ける巫女の位置 

第五節 古代人の死後生活観と巫女の霊魂観

我が古代人は、霊の不滅を信じ、肉の敗滅を事実として信じていた。前に引用した記・紀の諾冊二尊の場合に徴するも、冊尊は火ノ神を生んだ為めに死を意味する神避りをなし、その尊骸は「蛆集ウジタカトトロぎ」たる敗滅の状態であったが、然もその霊魂は諾尊と問答し、又は諾尊を追い走るなど、生前と少しも変らぬ活動を示されている。而して此の思想は、神で無い人間の上にも当然及ぼされて、人は死すると肉体は滅するも霊魂は滅せぬと、全く神の如く考えられていた。それでは、此の霊魂なるものは、何時でも再び人間界に戻って来て、生前と同じように人格を有して活動することが出来るかと云うに、それは決して出来ぬものであると考えていた。何となれば、人は一度死ぬと、黄泉国へ往き、ここで黄泉国の者となるべき儀式の「黄泉戸喫ヨモツヘグイ」をするからでる〔二二〕。即ち一度この儀式を済したからは、不滅の霊魂も再び人格を備えることは出来ぬものと信じていたのである〔二三〕。換言すれば、肉体が滅びた以上は、再び人間になる事は出来ぬと信じていたのである。

我が古代人が、霊と肉とを二元的に考えた例証は、相当に多く残されている。天照神が皇孫を葦原ノ中津国に降臨せしめる折に、

この時に天照大神、御手に宝鏡を持ちたまひて、天忍穂尊に授けて祝きて曰く、吾が児、此の宝鏡を視まさんこと、まさに吾を視るがごとくすべし、トモに床を同じくし、殿を共にして、以て斎鏡となすべし。

と告げられたのは、即ち肉体を離れて霊魂の存在を認識した思想の現われと見るべきである。他の語を以て言えば、天照神の御魂は、常に此の斎鏡に宿っていて、宝祚の隆んなること、天壌と窮りなきよう守護するとの意味なのである。されば、記・紀その他の文献に徴するも、国家の大事に際しては、常に神託を請うて嚮うべきところを仰ぎ、天照神の御魂も亦屡々現われて、その採るべき方法を啓示されているのである。これ以外にも、霊肉の別と、霊魂の不滅を証する事実が多く存しているが、他は省略に従うとする。

かく霊魂の不滅を信じた古代人は、更に此霊魂の活用を四つに分けて、荒魂アラミタマ和魂ニギミタマ幸魂サチミタマ奇魂クシミタマとした。此の四魂の解釈に就いては、先覚の間に種々なる異説もあるが、私としては高田与清翁の説かれた、

荒魂、和魂は、武魂文魂といはんが如し、神霊の武く荒びたるを荒魂といひ、静に和ぎたるを和魂といふ(中略)。幸魂は幸福の霊をいひ、奇魂は奇妙の霊をいへるなり。

とある解釈の簡明なるを好む(但し同意はせぬ)ものである〔二四〕。併しながら、原始神道の立場から見ると、此の高田翁の解釈は、余りに字義に捉われて古き信仰を忘れたかの感がある。反言すれば、後世の知識を以て、古代の思想を忖度した嫌いがある。

而してこれに較べると、鈴木重胤翁の『荒魂は現魂にて、和魂は饒魂なり』と解釈されたのは、一段の進歩である。然りと雖も、此の鈴木翁の説も、次の如く

現魂は外に進み現出坐て、其神威を示し、又其強異を摧伏せたまはむとなるに、それに引替て、和魂は玉体に服て、御寿を守りたまはむと宣べるは、其玉体を離れず、鎮守御在むと云ふことにて、謂はゆる和魂の饒魂なる所以なり〔二五〕。

と言うに至っては、これとても字義に重きを置いて、古代人の思想を閑却したものとして、高田翁の説と五十歩百歩たることを免れぬのである。

而して、私はこれに対して、巫女史の観点から、極めて常識的に考えているのである。それは、荒魂の古意は現魂であって、即ち現に生きているものの魂であって、これに反して和魂とは、死したるものの魂を云ったものであると言うのである。現人神アラヒトカミのアラは、即ち現存の意であって、荒魂のアラは、これと同じものに違いない。ニギに就いては、誠に徴証が弱いのであるが、『古く延喜式に消炭を和炭ニギズミと称するより推して、和魂は死魂の意なるべし』とある説を採るものである〔二六〕。

全体、荒魂及び和魂の出典は、「古事記」では、神功皇后征韓の折に、新羅国に『墨江大神の荒御魂を、国守ります神に、神鎮りて還渡りましき』とあるのみで、和魂は見えず。「日本書紀」には、同じ神后紀に二ヶ所あるが、始めのは『神有誨曰、和魂服王身而守寿命、荒魂為先鋒而導師船』とあり、後のは『授荒魂為軍先鋒、請和魂為王船鎮』とあるのがそれである。

而して茲に荒魂をホキヲキ(古点に斯く訓むと云う橘守部翁に従う)と云い、和魂をネキと云うたことは関心すべき事で、現魂なればこそ祝招ホキヲキる必要もあり、死魂なるゆえにネキた次第と解すべきだと思う。それ故に古くは荒御魂は現人の魂、和魂は死人の魂(魂に此の二つの区別をしていたことは、巫女の職務中の鎮魂の節に述べる)と解していたのを、記・紀が文字に記録される際に、荒和の二字を当てたので、種々なる疑義が生じ、遂に高田翁の如く武魂文魂を以て解説を企てるまでにすすんだことと思う。国学者としては創見に富んでいる橘守部翁が『荒魂は此の時に顯れ給ひし、現人神なる故に先鋒となり給ふ』とあるのは〔二七〕、参考すべき説と考えている。而して次の幸魂と奇魂とに就いても私は別に考えるところがあるが、これは巫女史の立場からは左迄に重要な問題と思われぬので、姑らく高田翁の説に従うこととする。

さて、こうした霊魂に対する巫女の態度は、荒魂も和魂も、その霊魂が能動的に、人にカカって活く場合は、何等の予告もなく、場所と時間とに関係なく、突如として現れるものとし。これに反して、霊魂を衝動的に降き招して託宣を聴くことは出来るが、それには或る定まれる祭儀を行う事を必要とし、且つそのシロとなり得る資格を有している者は巫女に限られたものと信じていたのである。少しく後世の事例を以て古代を類推する嫌いはあるが、後代の巫女が専ら用いた生口——即ち生ける人の魂を遠隔の地において引き寄せて語るのは、此の荒魂の誨えから出たもので、死口——即ち死せる人の魂を幽界から引出して語るのは、此の和魂の法に由るものではなかろうか。更に後代の巫女が「神口カミクチ」と称して、人間のその年だけの運命を予言し、凶を吉に返し、禍を福に転じ、又は与えられた吉なり福なりを、保持し発展するように仕向けた一事は、此の幸魂と奇魂との信仰に負うところがあるのではないかと思われる。それでないと、我国において特種的に発達した巫女の呪術の起原が不明に帰するからである。

〔註二二〕
黄泉戸喫のことは、土俗として民間にも今に残っている。その最も顕著な一例は、結婚の夜に、新郎新婦が同じ茶碗に盛った飯を、二人して食うのがそれであろう。同じ鍋の物を食うということは、即ち、彼等が同族になったことを意味するのである。
〔註二三〕
我国には古く転生の思想は無かった。これを言うようになったのは仏教渡来後である。
〔註二四〕
「神祇称号考」巻二(大日本風教叢書本)。
〔註二五〕
「日本書紀伝」。
〔註二六〕
「参宮図絵」巻下附録。
〔註二七〕
「稜威之道別」(橘守部全集本)。