日本巫女史/第一篇/第八章/第五節

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日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第八章 物質文化に於ける巫女の職務

第五節 収税者としての巫女

これも漢字通の後藤朝太郎氏から聴いた話であるが、税という字は「説文」によると、扁の禾は稲を意味し、作りの兌は冠を被った人の意味で、即ち神に仕えた巫覡が、民衆から稲を収めさせたのが税の字の起りであるとのことであった。併し斯うした原始的の社会事象は、人間が横目縦鼻である限りは、どこにでも共通的に発明され、且つ実行されていたことと思われるので、これを我国の古代に移して考えて見たのが、此の一節である。由来、これまでの学者は、余りに文化移動説に捉われていて、支那(その他の国)と我国と類似した思想や民俗があると、直ちに我国のそれは、支那の輸入(又は模倣)だと言ったものであるが、これには相当の欠陥が伴うている事を知らねばならぬ。私に言わせれば、勿論、支那から輸入されたものも尠くはないが、それと同時に支那で考えそうな事は、我国でも考えらるる事で、似ているから輸入だ、模倣だとばかりは云えぬのである。殊に自然科学の発明ならばいざ知らず、人文科学に関する事象などは、彼我類似なものがあるからとて、少しも不思議とするには足らぬのである。茲に言う巫女と収税の如き、又その一例として見るべきである。

我国で国民から徴税したのは「崇神紀」の『男の弓端ユハヅ調ミツギ、女の手末タナスヱの調』が、その最初であると伝えられているが、これは同朝において、国法的に定めたという意味であって、その実際においては、ずっと古くから行われていたものと考える。而して私が言おうとする巫女が収税者として働いたのは、国法的に治定されぬ以前の時代であることは勿論である。

我国では神へ供えるものをヌサと称しているが、現今ではヌサと言えば御幣の意味にのみ解釈されて〔一〕、その範囲も頗る狭義のものとなってしまったが、古代のヌサは決してかかるものではなく、神へ捧げた布帛その他を称した広義なものであった。而して古代のヌサは、後世のミテグラと同じものであって、「遷却崇神祭」の祝詞にある如く、

進る幣帛ミテグラは明妙、照妙、和妙、荒妙に備へ奉りて、見明むる物と鏡、翫ぶ物と玉、射放つ物と弓矢、打ち断る物と太刀、馳せ出づる物と馬、神酒はミカ高知り瓺の腹満て双べて、米にもカヒにも、山に住む物は毛の和物毛の荒物、大野原に生ふる物は甘菜辛菜、青海原に住む物は、鰭の広物鰭の狭物、奥つ海菜辺つ海菜に至るまで……

在らゆる物が、即ち安幣帛ヤスミテグラ足幣帛タリミテグラであったのである。そして茲に挙げた物資は言うまでもなく、当時の生活においては、欠くことの出来ぬ物ばかりであって、然も是等の物を神へ供えることは、即ち古く此の幣帛なるものが、神の生活の基調であったことが知られるのである。一個の勤労に対する一個の報酬ということは、人と人との間には行われ得べきも、神と人——即ち治者と被治者との間は、此の経済関係を以て律することが出来ぬので、神に捧げる幣帛は、その実質においては、租税と同じものであったと考うべきである。

巫女の収税は、神への「ゐやじり」の名で行われたのである。後世になると「ゐやじり」に礼代の漢字を当てて訓ませるようになったので、専ら神に対する御礼とか、報賽とかいう意味にのみ解釈されているが〔二〕、これは本末を顛倒したものであって、神の保護を受ける為に捧げる誠意の発露で、神の冥助を受けた御礼に供える報酬ではない。結果においては同じように見えるけれども、動機にあっては、決して同じものではない。これを手っ取り早く卑近の例を以て示せば、後世の国民は納税した為めに権利を与えられるので、権利を与えられた為めに納税するのでないのと同じである。

我国の租税が神への「ゐやじり」に起原せることを有力に示唆しているのは、荷前ノサキの制度である。伴信友翁は「比古婆衣」巻七において、

荷前とは、諸国の御調ミツギの絹布の類をはじめ、くさぐさの中の最物ハツモノを撰びて取分置て、其を先ず天照大御神宮に奉り給ひ、又相嘗に預り給ふ神たちの幣物にも奉り給ひ、また御世々々の山稜に奉り給ひ、さて其残りを天皇の受納領す御事になむありける。

と定義し、更に翁独特の、微に入り細を穿つ考証を試みている〔三〕。而してこれによれば、神に捧げし御調の残りを主権者が受領するとは、即ち古く納税は神に対して行われていたものが、その神の後を承けた天皇に継がれたものと解釈すべきである。

少しく後世(桓武朝延暦十一年書上)の記事ではあるが、「高橋氏文」に、景行帝が六獦命を膳夫に任じ、山野河海の雑物を兼摂フサネ取持ちて仕え奉れと勅し、

如是カク依賜事波、朕我独心耳非矣、是天坐神乃命叙(中略)、諸友諸人催率天、慎勤仕奉止仰賜云々。

とあるのは、よく此の間の事情を尽しているものと信ずるのである。かくて時代がすすみ、租調庸の法が確立し、収税の官吏が設けられるまでは、巫女が主として此の職務に服したことは、彼等が神に仕える当然の仕事であったと考えるのである。琉球の神歌オモロ「しよりゑとのふし」の一節に、

かまへつ租税積で、 みおやせ、 あけしの地名の、 おやのろ大祝女

とて、同地の巫女ノロが租税を取立てて歩いたことを語ったものがあるが〔四〕、これ等は内地の古俗をそのまま化石させて残したものである〔五〕。

〔註一〕
増補語林「倭訓栞」の附録「桑家漢語抄」(中山曰。此の書は和名抄に引ける揚氏漢語抄とは異るも、同抄の序に載せたる其余の漢語抄の一なるべしとの説がある)巻三に、「幣、沼佐、可書貫棒、有可神納、則都良奴幾佐々具流之義也」とあるように、幣の本質は、相当に容量において、多く、品質において種々なるものが在ったと見るべきであって、現今の幣束は幣の後身ではあるが、これを以て古代のそれを推すことは出来ぬのである。
〔註二〕
「ゐやじり」の語に、「文徳実録」天安元年二月乙酉改元の宣命に「礼代乃大幣帛乎令捧持」と見え、「三代実録」貞観三年五月十五日の祈雨の告文に「礼代乃大幣帛乎令捧持」とある。而して是等の記事には、やや「ゐやじり」が第二義的の御礼の意味に使用されている。
〔註三〕
荷前の起原に就いては、伴翁の記事細註に引ける「皇代略記」持統天皇段裡書に、荷前事初此代云々とあるが、これは伴翁も言われた如く、単にこれだけでは、徴証が不充分であるばかりでなく、「万葉集」巻二に、久米禅師の歌として「東人の荷前の箱の荷の緒にも、妹がこころに乗りにけるかも」とあり、然も此の禅師は、持統朝より古き天智朝の人であるから、その起原はずっと以前に在ったと見るべきである。
〔註四〕
前に引用したことのある伊波普猷氏の「おもろさうし選釈」に拠る。猶お同書によれば、「おもろ」の中には、此の外にも覡や、よた(下級の巫女)や、のろ(巫女)の連中が租税を取立てるのを謡ったものがあるとのことである。
〔註五〕
本庄栄次郎氏の「日本経済史」租税の起原の条に、「日本書紀」の一書にある天照神が、天児屋、太玉の両命に勅して「吾が高天原に御す斎庭の穂を以て亦吾が児に御せまつる」とあるのや、「神武記」の「贄持」を租税と見られているが、私には後者は兎に角として、前者は遽に左袒することが出来ぬので、わざと執らぬこととした。