日本巫女史
第二篇 習合呪法時代
第二章 修験道の発達と巫道との関係
第三節 修験道から学んだ巫女の偶像崇拝
オシラ神を遊せるオカミン (陸前国佐沼町にてネフスキー氏撮影)
巫女は自身が神その者であったので、従って自身が他人から崇拝を受くるとも、他に崇拝すべき偶像を有っていぬのが、その本義でもあり、且つ特色でもあったのである。勿論、祖先崇拝という原始神道に培われた古代の巫女が、祖先の墳墓を神格化し、その土塊を以て造った人形を持っていた事は、偶像崇拝と見られぬことも無いのであるが、これは単なる呪力の根元として所持していただけで、所謂、一般の偶像崇拝とは信仰を異にしているのである。換言すれば、血液で維れた氏神信仰を基調とした巫女が、此の種の人形を携えていたのは、これを持っていることが、氏神の末裔であることを証明し、併せて神性を承けていることを体認する方法にしか過ぎぬのであって、一般人の神体や、仏像や御影に対する偶像崇拝とは、その間に截然たる区別が在って存したのである。然るに中古の巫女になると、漸く偶像を崇拝するように変じて来た。奥州のイタコと称する巫女が、オシラ神を崇拝した(此の神の由来や分布に就いては後に述べる)のは、その最も代表的なもので、更に前にも載せた「後ろ仏」を所持する(これは察するに修験者の笈から思いついたものであろう)とか、笹ハタキと称する巫女が、笹の代わりに御幣を以て呪術を行いしこと、及び各地の巫女が、十三仏中の一仏を以て守り本尊として崇拝したのは、悉くその徴証として挙げることが出来るのである。
勿論、巫女の偶像崇拝の動機なり、過程なりを、単に修験道の影響のみと断ずることは妥当を欠き、これには仏教なり——更に仏教の影響で神道が偶像を造り崇拝し、一般の信仰が偶像崇拝に堕した大勢にあったことに注意しなければならぬが、巫女に直接に此の刺激を与えたものは、修験者であったと信じたい。各地に夥しきまで祀られている天白社(手箱、天獏、天函など書く)なるものの多くは、巫女が或は手にし、或は背にした箱を(此の事は後に巫女の土着の条に詳述する)祀ったものへ、道教の太白神を附会したものであって、巫女の箱が、修験の笈に教えられたことは疑う余地はない。修験にとっては、笈は神霊の宿るもので、片時もこれを放すことなく、これを措いては呪術を行うことの出来ぬまでに重要なものであった。高野聖と称する徒が、瓢を二つ割にしたような珍妙な笈(明治になると此の笈は新案特許となり他の者の製作を許さなかった)を背負い、此の中に護摩の灰を入れて、諸方を流れ歩き、到る所で小盗を働き、婦人にも関係するので、遂に草賊のことを「護摩の灰」と称し、更に『高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな』の俚諺を生むようになったが、此の笈なども修験のそれに学ぶ所があったものと考えられる。而して此の巫女の偶像崇拝は、次項に述べる両者の性的結合——修験の妻は概して巫女であったということを想い合わすとき、決して偶然でない事が知られるのである。