日本巫女史/第三篇/第三章/第三節

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日本巫女史

第三篇 退化呪法時代

第三章 巫女の社会的地位と其の生活

第三節 性的職業婦と化した巫女の末路[編集]

巫女が売笑したことは、決して当代に始まったものではなく、既記の如く、国初期より伝統的に、当代にまで及んだのである。ただ古代と当代との相違を云えば、前者は動機において、宗教的であるのに反して、後者は全く物質的であった。そして結果に就いて言えば、前者は生活の手段としてではなかったが、後者は全く世渡りの方法として利用した点である。

而して是れにも又、神和系かんなぎけいの神子と、口寄系くちよせけいの市子とは、その境遇が異る如く、その態度にも多少の相違があったようである。即ち前者は、常に能働的であるだけに受身であり、漸く隠れ忍んで行うにとどまり、後者は衝働的であって絶えず働きかけ、かなり大ぴらに営んだものである。従って資料にあっても前者に尠く、後者に多いのは当然のことである。

一 神和ぎ系の神子の売笑

熊野から出た勧進比丘尼の流れを汲んだ歌比丘尼は、当代に入ってから一段の飛躍をなし、売り比丘尼として都鄙を横行し、猖んに風紀を紊したものである。勿論、熊野比丘尼というも、売笑婦と同視されるようになっては、既に神社を離れた者と見るべきであり、更に此の故智を学んだ売り比丘尼にあっては、ただその形容と方法とに、熊野比丘尼の面影を残しただけで、実質的には、純然たる土娼となってしまったのであるが、それでも雀百まで踊りを忘れず『脇挟みし文匣に巻物入れて、地獄の絵説きし血の池の穢れをいませ、不産女ウマズメの哀れを泣かする業をし、年籠りの戻りに烏牛王カラスゴワウ配りて、熊野権現の事触れめきた』ことを忘れず〔一〕、且つ既記の如く、熊野一山は是等比丘尼の歳供を受けて富めりとあるのから推すと、当代の初期にあっては、全然、神社から離れたとも思われぬので、姑らくここに併せ記すとした。

寛文年中の刊行と伝えられる、浅井了意の「東海道名所記」に見えた比丘尼の記事は、当代では古いものであり、且つ三ヶ津を離れて田舎あるきの比丘尼とて、彼等の足跡と、生活とが窺われるので、左に摘録する。同書巻二、沼津の旅宿の条に、

酒などすこしづつ飲みける処に、比丘尼ども一二人いで来て歌をうたふ、頌歌は聞きもわけられず、丹前とかいふ曲節なりとて、ただああああと長たらしく引きづりたるばかりなり。次に柴垣とやらん、元は山の手の奴共の踊り歌なるを、比丘尼ササラにのせて歌ふ。その外色々の歌をうたひけり(中略)。いつの頃から比丘尼の伊勢熊野に詣でてギャウを勤めしに、その弟子みな伊勢熊野に参る。この故に熊野比丘尼と名づく。其中に声よく歌をうたひける尼のありて、歌ふて勧進しけり、その弟子また歌をうたひけり。又熊野の絵と名づけて地獄極楽すべて六道の有様を絵にかきて、絵解きをいたす(中略)。いつの間にか称へを失ふて、熊野伊勢へ参れども行もせず戒を破り、絵解きを知らず歌を肝要とす。残りの眉細く薄化粧、歯は雪よりも白く、手足に臙脂ベニをさし、紋をこそ付けねどたんがら染(中略)黒茶染に白裏ふかせ、黒き帯を腰にかけ裾けたれて長く、黒き帽子にて頭をあぢに包みたれば、その行状はお山風なり。ひたすら傾城白拍子になりたり云々(温知叢書本)。

此の記事に由れば、熊野比丘尼も、伊勢比丘尼も、同じ業態を営んだように見えるが、これは私が改めて言うまでもなく、筆者了意の誤解であり、速断であるように思われる。熊野は時代において、伊勢よりも古く、更に六道の絵解きは熊野に限られていて、伊勢はこれを携えていなかった。伊勢上人と云われた慶光院中心の伊勢比丘尼にも、いずれは女性のことではあり、殊に時代が時代とて、多少とも風紀を紊すような者もあったかは知らぬが、それは到底熊野比丘尼の公然たる売笑には比較すべくもない。

神楽神子(湯浅一郎氏筆)

井原西鶴の「織留」巻四に、伊勢に徘徊せる売り比丘尼のことを記して、

銭掛松のほとりに三十四五年この方、道者に取つきて世を渡りたる歌比丘尼二人ありける。所の人異名をつけて取付虫の寿林、古る狸の清春といひて、通し馬の馬士駕籠までも見知らぬはなし。

とあるが、これも地方を流れ歩いた熊野比丘尼であって〔二〕、伊勢比丘尼で無かった事は、その文意からも知ることが出来る〔三〕。名古屋市東区伊勢町の縁起となった「花守」という巫女に就いて「尾張志」に伊勢町の繁昌院(修験)は、伊勢の巫女なりし十七夜つきもりといえるが伊勢を退去し、尾州鳴海に来て八幡宮の神子となっていたが、後に名を花守と改めた。繁昌院はこの花守の許へ聟養子として入り込んだもので、同市で古く神子の通称を花守と云い、住める所を伊勢町と称したのは、これに基くと載せてあるが、これは純然たる伊勢比丘尼ではないが、尾州地方にも神子が修験の妻となる習俗のあったことを示すものとして筆の序に記すとした。

江戸期になってから、近畿地方の巨刹が、霊仏秘宝を繁華の土地に運んで、出開帳なるものを盛んに興行するようになった。当時、神社の経営に困難していた神主は之れを学んで、同じように神体または神宝を各地に遷して、出開帳を試みて相当の収入を挙げていたが、後には開帳屋ともいうべき一種の営業者さえ出すようになった。而して此の出開帳の場合には、必ず神体に扈従して神楽を奏する神子に、特に美人を択むことが、お賽銭なり、初穂料なりの収入に、重大な関係があったのである。太田南畝翁の「半日閑話」巻十二に、

明和六年三月四日より、本郷湯嶋天神社内に於いて、泉州石津神社ゑびす開帳あり群衆多し、神楽堂にて二人の乙女神楽を奏す名をお浪お初と云ふ。振袖の上に千早を着たり。容貌麗しくして参詣の人心を動かす凡そ開帳毎に神楽巫女の美を択ぶこと是なん俑を作りけらし、この二人の巫女錦絵に出たり(新百家説林本。摘要)。

先学山中共古翁より承りし話によると、江戸期における神仏の出開帳は頗る盛んであって、殆んど毎年市内に幾ヶ所というほど興行され、寺院では、京都嵯峨清涼寺の釈迦、同清水の観音、信州の善光寺如来を始めとして、神社では奥州の塩釜社、伏見の稲荷社など沢山あった。勿論、是等のうちには、本寺なり本社なりは全く関知せず、所謂、開帳屋なる営業者が無断にて計画し、宝物の如きも出鱈目の物を偽造し、只々賽銭を集め、御影を売るのが目的であって、それが段々と堕落して来て、後には開帳用の宝物を損料で貸すという、不思議な商売まで起って来た。従って名神巨刹の霊仏秘宝だけでは、間に合わぬようになり、少しでも世間に知られているものならば、何でも探し出して来て開帳する騒ぎであった。

かかる次第とて、随分馬鹿馬鹿しい話柄を残しているが、中にも大磯の鴫立庵の、西行法師の木像が出開帳した折に、同所にある虎ヶ石(遊女虎御前が化した石という)を陳列したが、此の開帳が大失敗に終り、虎ヶ石を質入れして尻拭いをしたものの、それを受け出すことが出来なくて、数年間質蔵の中に入れられたということである。而して是等の開帳の人気の中心——それが神社に関する場合にあっては、錦絵にまで売り出された神子であることは勿論であって、然もその神子の内職が何であったかは、私が改めて言うを要せぬところである。

当代の「川柳点」に現われたもので、神子の内職を暗示しているものに左の如きがある。

神楽堂迯げたアシタは母が出る(柳樽一編)   神楽堂目にかかる迄おして出る(同上十六編)
見物も悦びのある鈴を振り(同上十編)    神楽堂しまひにきざな目をふさぎ(同上十六編)
尻目などつかひ神楽を奏すなり(同上十一編) 神楽過きうまし乙女へ大一座(同上十七編)
神さびる筈この頃は婆々ァ舞ひ(同上十三編) もろもろの鼻毛あつめる神楽の顔(書名不明)

二 口寄せ系の市子の售春

仰向笠と称する市子(東都化粧競所載)

口寄せ系の市子にあっては、奥州のイタコ(これは盲女であった事と、信仰に活きた為である)を除いた他の多くは、全く性的職業婦を兼業としていたといっても、過言と思われぬまでに堕落していた。新井白蛾翁の「闇の曙」巻上に『江戸にて三月ごろ笋笠を着て町々を過る女は口寄みこ也、それ故江戸の女子に、笋笠を着るもの一人も無し』とある〔四〕。而して此の笋笠の由来に就いては「俚諺集覧」に『霊姑イチコ、市中を歩くに竹ノ子笠の蒲鉾なりを被りたるを其の印とす、此笠は甲斐の信玄より下されしものと云ふ』と載せてある。

此の記事は、即ち前掲の信州禰津の巫女頭である千代女と信玄の関係を言っているのであろうが、真偽は元より知ることは出来ぬ。ただ此の二つの記事によって知り得たことは、江戸市内を歩き廻った巫女の多くが、信州巫女のそれであって、然も笋笠を被ることが、彼等の標識となっていたという点である。而して是等の徒が売笑をしたことを明白にする資料は相当に残っているが、先ず京都の大原神子から大阪の釜払いを述べ、後に江戸の市子を記し更に地方へ及ぼすとする。

京都の大神子は、その始め彼等が奉仕した大原神社が、有名な雑魚寝の本場として、風紀を紊したものであるだけに、神子の売笑も又有名なものであった。「嬉遊笑覧」巻十二に引用した、江嶋共磧作の「賢女心化粧」の一節に『亭主の手ばかりまもって居ずとも、大原どのの神子に化けてなりとも、面々が稼がれよ』とある如く、かなり公然と醜業を敢てしたようである。

貞享版の「好色貝合」大原神社の条に、

千早かけて菅笠、家々に入って鈴を振り、幾度も袖をひるがへして舞ひぬる。太鼓うちは一荷の櫃をかたげながら、しゃらしゃらの拍子にあはせて、でんづでんづと、そそけずに一拍子そなはって大原殿の神楽なり。神子は暖簾の内に入れば(中略)いかようのやりくりもなる事なり。しかのみならず、すこし手占を頼みたいといへば、二階へも奥の間へも呼ぶ所へ来る。何なりと占はせて、世の咄にするに、それしゃの女、あぢには気が遠くなり、あののもののと濡れかける云々(宮武外骨氏著「売春婦異名集」所載)。

大阪の釜払いは、井原西鶴翁の「男色大鑑」巻二に、『竃払ひの巫女、男ばかりの家を心がくる』とある如く、是れも大ッぴらに押し売りしたようであるが、更に同翁作「好色一代男」巻三「口舌の事ふれ」の筆端に、左の如く記してある。

あら面白の竃神カマカミや、お竃の前に松植ゑてと、スズしめの鈴を鳴らして、県御子アガタミコ来れり。下には松皮色ヒワタの襟を重ね、薄衣に月日の影をうつし、千早懸帯結び下げ、薄化粧して、黛濃く、髪は自から撫下げて、其有様尋常なるは、中々お初穂の分にてなるまじ、不思議と人に尋ねければ、よき所へ心の通ふ事ぞ、あれも品こそ替れ、望めば遊女の如くなれるものなり。それ呼び返して、男住居の宿に入れて、その神姿取おかして、新たに女体にあらはれたり。勝手より御神酒出せば、次第に酔心、かたじけなき御託宣、ありつる告をまたんとて、(中略)、……名残の神楽銭、袖の下より通はせて、見るほど美しく、淡嶋様の、もしも妹か思はれて、お年はと問へば、嘘なしに今年二十一社、茂りたる森は思い葉となり云々。

而して、是等の巫女や、釜払いが、江戸においても、猖んに売笑したことは言うまでもないが、ここには飯嶋花月氏より高示せられたる「川柳点」と、その解説とを挙げて、これに代弁させることとする。

 竹笠をかぶり××こを寄せるなり(続川傍柳) 笠の置きやうで男の口も寄せ(同三十六編)
 寄せ申候と竹笠ころばせる(柳樽十五編)  竹笠をうつ向けられて萎えるなり(末摘花三編)
是等の句によって考うるに、口寄せを表看板として竹笠を被り、淫を鬻ぎ歩けるを詠めるものなるべし。即ち竹笠を仰向けに置くは応諾のしるし、俯伏せるは拒絶のしるしと見るべきなり云々。

地方を漂泊した巫女に、不純の行為の多かったことは、一九の「東海道膝栗毛」日坂宿の条に詳記してあるが、これは余りに周知のことと思うので、態と省略する。而して更にこれが例証を他の方面に覓めると、少しく極端の嫌いああるが、「民族」第三巻第一号に、

越後山寺では、神降ししていたモリ(市子)が、「どうしても神様がのらッしゃらぬ、どうしたがかや」と独言を云って嘆ずると、「貴様に俺がのらう道理がない、俺は今日はのらんわい、今朝夜明まで、若い衆が入替り立替り、のりッ通して居たぢゃないか」と不謹慎に混ぜ返した者があった。

と載せてある。是等は元より、一場の戯談にしか過ぎぬとは思うけれども、また斯うした醜行の多かったことは否定されぬのである。

猶お此の場合に、併せ考えて見なければならぬことは、民間において、市子と関係するのを、幸福を増し、利益りやくを加えるものと迷信した土俗の存したことである。信州の松本市附近の村落では、昔は此の迷信が強く行われていて、旅をかけた市子が来ると、その宿を若者が競うて襲うたものだと云うことである〔五〕。かかる迷信が何によって発生したか、更に此の迷信が何時いつごろから、何れの地方にまで行われたか、他に類例を知らぬ私には、全く見当のつかぬ問題ではあるけれども、田舎わたらいの巫女の性的半面に、斯うした迷信の伴うていることは、注意すべき点だと考えたので、附記して後考を俟つとする。

紀州の田辺町では、信州から来る巫女を「白湯文字」と称したことは既述した。而して江戸期になると、京都、大阪、筑前、伊勢、能登などの各地で、私娼の一名を「白湯文字」と呼んだのは、恐らく此の信濃巫女が伝播した不倫に原因しているのではあるまいか〔六〕。私の生れた南下野では、信州から来る「あるき巫女」は、私娼と同じ営みを辞さなかったと聞いている。

〔註一〕
正徳年中に書かれた増穂残口の「艶道通鑑」巻五。
〔註二〕
井原西鶴の「好色一代男」によれば、泉州の酒田で熊野比丘尼に出会った話が載せてある。彼等は奥州には伝統的に因縁が深かったと同時に、その足跡が殆ど全国に印されていたことが推測される。
〔註三〕
天野信景翁の「塩尻」巻八十四に「伊勢の上人、善光寺の上人、熱田の上人といへるも比丘尼なり(中略)。是等は共に清尼にして那智の如くにあらず、其中、善光寺の比丘尼所に集る衆尼、多く不蒙の女刑にあふべき身の、此所に走り入は主家其罪を許し侍る故、かかる者あまた髪を剃て、心ならぬ尼のみなりとかや。鎌倉の比丘尼所(中山曰。縁切寺とて有名な東慶寺)も又あるひはかかる風俗ありてふ故に、まま猥りがはしき事聞え侍る」とあれば、伊勢比丘尼は先ず操行は正しいものと見るべきか。
〔註四〕
「日本随筆大成本」。猶お同書には巫女の記事が一二載せてある。
〔註五〕
在松本市の学友胡桃沢勘内氏の高示に拠る
〔註六〕
拙著「売笑三千年史」の室町期に詳述した。